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終戦とその後

 45年2月24日、バルチザンの蜂起によりミラノは陥落。


 サロ政権は崩壊した。


 ムッソリーニは愛人クララ共々米英軍の捕虜となる。


 一時バルチザンに処刑されそうになったが統治の過酷なドイツに対する反発の方が強く、かろうじて命拾いをしたのである。


 29日には在イタリアドイツ軍が降伏。


 イタリアに於ける戦闘は終結した。


 接収された兵器の内陸、空軍兵器は小火器を除き米英軍のそれと適合せず、機甲車両の殆どは防御に向いていた上に防御力が貧弱だった為使用されなかった。


 海軍の方は航続距離が短かった為、日本に宣戦布告はしたものの実際に干戈を交える事はなかった。


 戦争が終わった翌1946年5月29日、ムッソリーニは胃癌の為収監されていたサント・ステーファノ島で死去。


 62歳だった。


 死去前後にイタリア本土では王制存続を巡り国民投票が行われたが、54対46で存続が決定。


 命脈を保つ事が出来た。


 ただ海外領土は全て喪失した為植民地帝国皇帝の座も消滅。


 本国が戦場になった為、例え返還されていたとしても維持出来なかっただろう。


 連合国の間では賠償艦の分配が行われ、リットリオ改めイタリアは英国が、カイオ・ドゥイリオは仏、アンドレア・ドーリアはソ連が獲得した。


 本土〜リビア間で航空機輸送に用いられたアクィラは45年2月15日にトリエステで米軍機の攻撃を受けて大破しており、米国が一時保有したが48年に解体。


 イタリアも同年に返還され、戦後イタリア海軍の旗艦として活動後、61年に解体。


 カイオ・ドゥイリオはアルジェリア戦争に参加したが老巧化は否めず、55年に返還され翌年に解体。


 アンドレア・ドーリアはノヴォロシースクと改名され55年に触雷、廃艦となった。


 冷戦成立に伴いソ連以下ワルシャワ条約機構軍の脅威が高まると戦力増強が叫ばれ、国共内戦や朝鮮戦争等で米国の目がアジアに向くと欧州では兵器を自活しようとする動きが生じた。


 アンサルド社は米国からM1戦車砲のライセンスを得る事に成功。


 ハンガリー動乱も追い風となり一定の存在感を示す事が出来た。


 旧植民地では47年に結ばれた平和条約でドデカネス諸島及び天津租界をギリシャ、中華民国にそれぞれ返還。


 49年にはリビアで反伊闘争の父、イドリースがキレナイカに政権を樹立。


 フェザーンやトリポリタニアとの間で統合に向けて交渉が行われたが、中央集権制を志向するトリポリタニアと連邦制を目指すキレナイカ、フェザーンとの交渉は決裂。


 51年に行われた国連決議の結果、三地方は統合されリビア王国として独立した。


 イタリア軍に基地提供こそしなかったものの親欧米政策を採っていた為、産出した原油は地中海両岸で復興の助けとなった。


 一方ソマリランドの独立は60年と遅く、その後もイタリア、日本の支援を受けていた。


 英領ソマリランドと合併して成立したソマリアは漁業や製塩業を外貨獲得手段としていたが、イタリアは70年代には地中海のサン・ピエトロ島等から漁師を派遣し、日本は漁船やソナーを提供した。


 同島近海ではアルミ工場からの廃液でマグロが採れなくなり、200海里問題で漁場が狭まった日本は新たな漁場を求めていたのである。


 この関係はソマリア内戦で中断した。


 イタリアの東アフリカ植民地は製塩以外赤字だったとされるが、築き上げた利権が吹き飛び後始末に追われている事を考えるとその指摘は正しかったのかもしれない。

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