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新素材と間に合わなかった兵器

 12月に入りドイツがモスクワから撤退を始め、翌日太平洋戦争が勃発。


 マレー沖海戦でプリンス・オブ・ウェールズとレパルスが沈み世界に衝撃を与え、イタリアでは日本海軍による東洋艦隊撃滅に期待が高まった。


 ムッソリーニは真珠湾攻撃に刺激され、ジブラルタル再攻撃は可能か海軍参謀長のアルトゥーロ・リッカルディに尋ねた程である。


 空母は未だなかったが、問いかけの背景には特殊潜航艇による攻撃報道があった。


 イタリアは前大戦や春のギリシャ戦線でも工作員による艦船攻撃を行い成果を挙げていた為、ジブラルタル再攻撃案が浮上したのである。


 リッカルディは軍事的には可能と答え検討作業に入った。


 年が改まった1月18日に技術協定も更新され、日本の超超ジュラルミンが各国の注目を浴びた。


 1年前にBf109が日本に提供され、6月に各種試験を行った際超ジュラルミン止まりだった事に驚いた日本が公開したのである。


 改修中だったSM.82にも反映される事が内定。


 高コスト故に変更点は主桁だけだったが、さほど遅延せず4月に初飛行。


 SM.91と名づけられたそれは、SM82の原型のSM75を金属化し、SM82の部品を一部流用したと言う方が正しい。


 SM.82の幅が狭い事は75と共通だったが胴体を延長し、中翼二層構造とした為重量、構造面から大きな貨物を載せられなかったのだ。


 その為エンジン整備に手間取る事を承知の上で地上と胴体の距離が近い高翼とし、原型機より胴体幅を90㌢拡大、丁型尾翼として後部にカーゴランプを設け、人以外にも車両輸送を可能とした。


 拡張により空挺兵なら28人から45人を輸送出来、貨物搭載量は7.2tから9.3tに増えた。


 ただ機内高は1.8mのままだった為、戦力外となったL3戦車を2両か軽野砲の牽引車両や歩兵の盾として使うのがせいぜいだった。


 遠隔地への輸送は兎も角、強行着陸して飛行場を制圧する空挺部隊の盾兼足として使うには42年では登場が遅かったが、かつて駐在武官としてイタリアに赴任しスペイン内戦やクレタ島攻略に参加したリヒトホーフェン大将は


「原型機すら無い5年前は無理でも黄色作戦かクレタ島攻略作戦の時にこれがあれば良かった。 高さがあれば尚良かった」


 と評した。


 Ⅰ号戦車や一部の装甲車を空輸出来たのである。


 金属機製造のノウハウは有れど木製機のそれはなかったユンカース社はJu322が前年に失敗していた為、共同開発していればと兵器局を呪ったという。


 同時期に試作機が飛んだMe323(ギガント)と比較すると、搭載載量は20tに対し9.3t、航続距離は800㎞に対し3000㎞、速度は270㎞/hに対し347㎞/hと搭載量と価格を除けば勝っていた。


 この頃日本海軍がインド洋に進出し、マダガスカル島の戦いも英軍がアジアへ振り向けられ膠着状態に陥りつつあった為、工作員錬成と生産、P.108によるマダガスカル空輸や爆撃に励んだ。



クレタ島の戦いとムッソリーニの指示で史実では木金混合のSM.90が金属化され、その主桁改修版が91となり以降の機種番号は史実より一つずれました。

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