バルバロッサ作戦とムッソリーニの困惑
カイロ近郊で死闘が行われていた頃、東欧ではドイツを中心とする枢軸軍が1ヶ月遅れでバルバロッサ作戦を発動、ソ連領内に侵攻を開始した。
チャーチルは
「我々最大の秘密兵器はヒトラーそのものである」
と発言、ソ連との連携を模索し始めた。
ムッソリーニは驚いたが前途に不安を感じずにいられなかった。
国力も軍備も質量共に上の大英帝国を降さない内にスペインでトラウマを刻み込んだ東の巨人に友邦が殴りかかったのである。
だがドイツの手助けがなければアフリカ北東部とバルカン半島を勢力圏に置けなかったのは事実。
ジブラルタルの英艦隊やケニア、インド、豪州からやって来る敵の増援は厄介だがほぼ目的を達成しヴィットリオ・ヴェネトが復帰、マッキ202の生産配備も開始されたばかりで守勢に入ろうとした時に難しい判断を迫られる事になる。
ムッソリーニが一報に不安を覚えたのは戦線拡大に加え、クレタ島やイラク戦線で搭乗員を航空機共々200人以上失った事が原因だった。
バルボ登場以前に比べれば余力はあったが損害は損害。
アフリカ以上に遠すぎたイラクは仕方ないにしてもクレタ島でSM.82を90機以上喪失した衝撃も大きかった。
ドイツ側もギリギリで、イタリアから機体を搭乗員毎借りなければ教官を前線に投入する予定だったのである。
ヒトラーとの電話会談を終えたムッソリーニはドイツからの搭乗員学生受け入れ拡大とSM.82の改修を指示。
離着陸距離の短さは作戦にうってつけだったが搭載量の割に機体が狭く、搭載可能な装備に制限があり攻め手や支援能力に欠け敵の反撃で破壊される事が判明したのである。
翌日届いたカイロ陥落の報告でムッソリーニは何とか小康状態を保つ事が出来た。
だが7月に東部戦線から届いたある報告書を受け取った彼の顔は再び曇る事になる。
報告書には『“敵の新型戦車群、T-34、KV1、KV2について”』と記されていた。




