北アフリカの冬
エジプト侵攻部隊司令官ベルティはリビア総督のグラツィアーニに命じられ、ラストゥッチ工兵司令官と共同で攻勢停止後2ヶ月以上陣地構築を行っていた。
海上戦力が劣勢な為、艦砲射撃対策として6月に行われたジェノヴァ砲撃とリットリオ・ヴェネトの砲撃資料を参考に地下陣地を掘っていたのである。
現場打ち出来る程水が無い事から、ラストゥッチは英軍を参考にローテーションを組みながら兵力の半数を動員してプレキャストコンクリート製造工場から前線までの道路をアスファルトで舗装する事にした。
水と型枠用木材不足かつ高温の為リビアのコンクリート工場は殆どが生コンではなくプレキャストで、工兵には馴染み深い物であった。
豊富な石油から得られるアスファルトと整地時に発生する砕石で本土に劣らない道路網を徐々に伸ばし、第11騎兵隊の後釜として送り込まれた英砂漠挺身隊もリビア領内の詳細な地図がなく現地のリビア人も彼等に非協力的だったお陰で振動や妨害も少なく、輸送時のプレコン破損率が低下。
武力の鞭と本国のイタリア人と同じ待遇という飴、淡水化施設や各種インフラ整備を筆頭に石油から得られる利益を地元に還元していた為嘗てリビア独立戦争に参加していたベドウィン以外は離反しなかった。
リビア人が英軍に冷淡な理由は他にも有るが後述する。
地下陣地は昼間の酷暑から逃れられると工事に関わった現地将兵から好評だったが如何せん時間が足りなかった。
アレキサンドリアへの補給に地中海の強行突破を図ろうとしたジブラルタルのH部隊を撃破せんと出動したイタリア艦隊が激突。
英海軍は出撃を予期していなかった為航空機はエジプトに直接飛ばざるを得なかったが悪天候の為壊滅。
航空機の輸送は失敗したが海戦は引き分けに終わった。
上記海戦や航空偵察等から反攻が近いと察したグラツィアーニは将兵の休暇を取り消し。
中東方面の爆撃部隊へ通常爆弾以外にビラを準備するよう伝え、ベルティ司令官は自軍の倍以上の機械化率を誇る英軍との戦闘に備えた。
12月9日早朝、英軍のモニター艦テラー、インセクト級レディ・バード、エイフィズからの艦砲射撃の元3万の軍がマチルダⅡを先頭に7万人が守るシディ・バラーニに攻撃を仕掛けた。
エジプトの西方砂漠軍司令官に任じられた英のオコーナー少将は支援部隊込みで6万人を動員する予定だったが後方のパレスチナでストライキが発生し、その対応で5万6千人に減少。
彼は前年8月まで3年間続き、アラブ人男性の10人に1人が死亡か亡命という形でパレスチナから消える程激しかったアラブ大反乱を鎮圧していた為アラブ人から憎まれていたのである。
グラツィアーニもフェザーンの屠殺者と呼ばれたがイタリアは英国と違い三枚舌外交をせず、上に述べたように待遇に差は無く、聖地もなかったのでパレスチナ程宗教対立もなかった。
ストライキはグラツィアーニのビラやファールーク1世、ナギーブ少佐の情報に依る物なのは言うまでもない。
英軍攻撃時、占領地にレーダーはなく地下陣地も未完成で、陸軍の用いる25ポンド砲なら兎も角艦砲射撃に耐えられる区画は少なかったが75〜90㍉自走砲が残存した壕からダグイン戦法で出没し、砲撃を浴びたマチルダⅡは次々に炎上。
後方の飛行場から飛来したBr.20爆撃機がモニター艦を着底させていた。
北アフリカの空には英本土と違って爆撃機キラーのハリケーンの姿は無く、高度によってはグラディエーターやフルマーを引き離す事も出来た上に物量で凌駕し、地上では東端の陣地が包囲されたが侵攻時より兵が減った為備蓄に若干の余裕が有り、シフトを改善してから士気も侵攻前よりやや回復していた。
敵の司令官は総督より扱いが酷いと知ったリビア兵の戦意は高く、上司のイタリア士官が驚く程の働きを見せ撃退に成功、シディ・バラーニの戦いは英軍の敗北に終わった。
オコーナー少将が捕虜になった理由がほんの少し理解出来た気がする。




