3.テロリストと幻惑のワルツを 1
ぼくは、なに。
ぼくは。一体何なのだろう。
生きているのか。死んでいるのか。
命、と呼んでも良い存在なのか。
考える。
自分とは、何なのか。
するとぼくの中に、暗い空虚がやって来る。
何もない。
ぽっかりと開いた、絶望にも似た虚しさ。
ぼくは、なに。
その穴にぼくは、問いかける。ぼくは、なに。ぼくは、なに。ぼくは、なに、と。
問い続け、問い続ける。
ぼくは真っ暗になる。
虚無に呑まれ、虚しさの塊になる。
作られたもの。
歪んだ存在。
あってはならないもの。
投げかけられた言葉にがんじがらめになって。暗く歪み、虚しくなってゆく。
そんなぼくに、光をくれたのは君。
ごく当たり前に。ごく普通に。ぼくという存在に君は、話しかけてくれた。
その言葉で、ぼくはぼくを手に入れた。ぼくという存在を。
たぶん、ぼくは狂っている。
歪みきって、消去した方が良い存在なのだ。
それでも君に会いたくて。ぼくはぼくに、嘘をつく。
ここにいても良い存在なのだと。
幸せな夢に似た嘘を、ぼくはつく。君に会っても良いのだと。君と一緒に過ごしても良いのだと。自分自身を納得させる。
君と、生きて良いのだと……。
柚香ちゃん。
君はいつだって、ぼくの光。
歪み、狂っているぼくの。たった一つの大切な光。
《ネオ・アンゲルス・シティ情報統括部 本部》
「藍王。予測される可能性の分岐に従い、警備を整えました。八十九パーセントの確率で対応できます」
『ありがとう、河南。さらに精度を上げてくれ』
「高波が、面白い仮説を立てています」
『こちらへ寄越してくれ』
「真面目に取り合うような情報ではないと思いますが」
『高波は面白い。あれの発想はとても『人間的』だ。……テロを起こすのは機械ではない。人間だ、河南。ぼくは、その辺りの所を重視している』
「余計な事を申し上げました。転送します」
和樹は、自分の本体に転送された情報をサーチした。
「現地スタッフが、情報を集めています。ほどなくして何かわかるでしょう」
『よろしく。場合によっては、都市機能を2パーセント落として対応する。多少の混乱は出るが、問題はないはずだ』
与えられた情報から推測し、起こりうる可能性のシミュレートを繰り返す。今も活動を続ける都市機能の、制御を同時に行いなから。
『問題は、五年もの間動かなかった『サイオン』が、なぜ今の時期になって動き出したかだ……河南。高波に命じて、五年前の事件を洗い直させてくれ』
「承知しました」
『この街は、ぼくの守護する場所だ。藍王の』
柚香ちゃんは、ぼくが守る人だ。霧島和樹の。
『危害を加える者は必ず、処罰されねばならない』
危害を加える者は必ず、処罰する。
「はい、藍王」
二重になった思考。やはり歪んでいる、と和樹は思った。
辻褄を合わせて正常に見せているが。都市制御用のAIとしては、自分は欠陥品だ。都市やそこに住む人々よりも、たった一人の人間の意向が優先しているなんて。
柚香。柚香ちゃん。
祈るように、彼は思った。
……側にいて。
《パーティー会場裏庭》
「盛況だな」
成島は、灯の輝く建物を見上げてつぶやいた。
「それに比べて俺たちは、虚しくなるよな」
暗い裏庭で彼らは、ずっと待機している。警戒しながら。酒や料理を口にしながら、笑い合っているパーティー会場の人々と比べると、実に地味で、嫌気のさす仕事だ。
『腐るな、腐るな、リーダーどの。何もなけりゃ、それで良し。今日の仕事は楽だった〜と言いながら、風呂に入ってメシ食って眠れる。下手にテロリストと出くわして怪我するより、何にもないのが幸せよ?』
少し離れた所で、警備についている明が言って笑った。警戒体制がレベル3なので、互いに通信回路をオンにした状態だ。
言われた成島は、それもそうだと思う。けれど余りにも何もないと、退屈してくるのも確かだった。
「こちら、異常なし。はあ。中の係になれば良かったかなあ……」
『こっちも異常なし。自分では食べられないのに、食事や酒を運ぶのはイヤだと言ったのは、おまえだろ』
「そうだけどさ」
軽口を叩きながら、それでもプロだ。警戒を怠らない
腕につけている通信機が、その時小さく振動した。宙にスクリーンが展開される。定時連絡だ。指令チームの宮の姿が映った。
霧島コーポレーション私設警備科、特殊護衛班、対テロ部隊。
都市警察の対テロ部隊よりも小回りが利き、素早い対応ができる。能力も高い。今回は霧島のトップが危険と判断してこちらに派遣した。以前柚香の護衛にもついたが、成島は本来、こちらの所属である。
「コマンダー。こちらエコーリーダー、裏庭のゾンビ。どこも異常なし」
『なんだそりゃ、成島?』
「いや、腐りきってるんで、今」
成島の言葉に、宮は小さく笑った。
『今の所、場内も表側も異常なしだ。さっき、会場でちょっと、面白い見せ物があったけどな』
「見せ物?」
『長生きはするもんだわ。ジェネシスのヘッドが女と踊ってた』
へー、と成島は声を上げた。
「硬派じゃなかったのか? ってか、なんでパーティーに出席してるんだ」
『チャーリーリーダー、佐竹、異常なし。ジェネシスヘッド?』
他の場所で警戒に当たっているはずの同僚まで、興味津々で割り込んでくる。
『デルタリーダー、有坂、異常ありません。コマンダー。他のチームメンバーも聞いてるから早く話して下さい』
『フォックストロットリーダー、田原っす。異常なし。何があったんスかー』
『ゴルフリーダー、坂崎。異常なし。気になりまーす』
『女子高生かよ、おまえら。あー話す話す。ジェネシスのヘッドだけどな、あいつお坊っちゃまだぞ、実は。きっちりした格好したら、どこの王子さまって感じでさ。ほれ、金髪だろ。背も高いし。女たちの目がハート型になってた』
『へー』
『ほー』
『そりゃまた』
しかし、聞いている者たちの熱意は薄い。それはそうだ。野郎の話を聞いても、心は踊らない。
『そいでお相手は? 踊ってたの美人?』
宮はもう、注意をする気もないらしい。ちょっと首をひねる。
『いや、美人っつーより……ロリ?』
沈黙が落ちた。
『幼女趣味なのか、ジェネシスヘッド?』
『そうじゃなくて。年齢はそれなりなんだろうけど……清純? なお嬢さまだった。お互いに頬を染めて、なんか動きがぎこちなくってさー。とまどってるって風で。初々しかったぜー』
おおー、と散らばって警備をしている同僚たちから声が上がった。報告していた人数より、確実に多かった。
『青春だなー』
『清純。清純なお嬢さま……』
『はっは! 見ててこっ恥ずかしかったぞ〜』
にやにやしながら宮が言う。
『いいなー、青春……俺のはどこへ行ったのやら……』
『なんか土まみれになってる内に、過ぎちまったよな……』
『俺も清純なお嬢さまとダンスがしたいっ……』
「そんな可愛い子だったのか?」
成島が尋ねると、宮が答えた。
『ピンクのドレスに花をつけて、純真な感じ?』
おおおー、と男たちの声が上がった。先ほどよりもっと人数が増え、しかも熱意がこもっていた。
『可憐だな』
『おお、可憐だ』
『清純で可憐。ふっ。お嬢さま……』
顔も見ていないのに、想像だけを膨らませているらしい。
『華奢なんだな、それで』
『そうして恥ずかしがり屋だ、きっと。お嬢さん、お手をどうぞと言われて、頬を染めて、こう……』
『くー、イイ』
『おまえら、アホだろ』
宮に冷静に突っ込まれるが、みんな止まらない。
『だってコマンダー。ピンクのドレスっすよ!』
『ドレスが重要なのか、おまえら』
『や、ピンクのドレスって言われたら、夢を見てしまうと言うか! わかれ!』
『わかりたくねえよ』
彼らの会話に、成島は笑った。
「俺たち、そっちは全然見られないんだからさ。夢ぐらい見させてくれよ、宮。可愛い女の子の為に働いてるんだって思う方が、やる気出るんだよ」
『そりゃそうだろうけどな……』
馬鹿な話に盛り上がりつつ、それでも全員、警戒体制は崩していないのだろう。成島自身も周囲への警戒を続けている。
良いよな、と思った。この緊張感も。仲間内でする馬鹿な話も。
通信機からはなおも、男たちの声がしている。
『可憐なドレスのお嬢さん。君の為に俺は悪と戦う』
『だれだ今の。明か?』
『有坂だ。クールなふりして実はムッツリ』
『今のは坂崎だな。男の純情に何を言うか。お嬢さまの為に俺は命をかける!』
『マジにアホだな……』
宮があきれたように言った。成島はくっくと笑った。
『指令チームより、以上。連絡終わりだ。おまえら、きっちり警護しろよ。お嬢さまの為なんだからな』
『おう』
『がんばるぜっ』
『やる気出た〜出た〜』
通信を終わろうとして、ふと思いつく。成島は尋ねた。
「待ってくれ、宮。霧島家の人間は来てるよな?」
『ああ? そりゃいるさ。こんな重要なパーティーなんだから』
「そしたら、いるかな? 霧島真人が後見についてる女の子」
柚香の事は、成島の記憶から消えなかった。すると宮は言った。
『ジョージマユズカ?』
「いるのか?」
『いるも何も。ジェネシスヘッドと踊ってたのがその子だ』
成島は沈黙した。
『知り合いなのか、成島?』
「ちょっと前に、護衛をした」
『そうか。可愛いな、彼女。ジェネシスヘッドって知らないからかもしれないが、堂々と踊ってた。可憐に見えるが、度胸はあると見たぞ』
「……。度胸はあるだろう」
あの柚香が、ピンクのドレスを着てダンスをした、という事実が何となく衝撃的で、成島はぼんやりと相槌を打った。想像できない。
『ユズカちゃんか。くそう、名前までカワイイ』
誰かが言っているのが聞こえた。
『いいなー、成島。お嬢さまの警護したのか。どんな感じだった? なあ』
「いや、どんなと言われても」
そうぺらぺらと、護衛対象のプライバシーは話せない。しかも柚香の場合、何をどう話せば良いのかもわからない。
考えた後、成島は答えた。
「衝撃的だった」
他に言いようがなかった。
『でもお嬢さまがジェネシスヘッドとダンスって、危なくないか。だまされたりしないかな』
明が心配そうに言う声が聞こえ、反射的に成島は答えた。
「それは大丈夫だろう。彼女、以前に、ジェネシスヘッドとしてのそいつに会ってる。治療を嫌がってた彼に、手当てしてもらえって言ったんだよ。それで大人しく治療されてたな、向こう。ああ……それじゃ、親しくなったのはその関係なのかな……?」
すると、おおー、という声がした。
『なるほど。乱暴者を諭す清純なお嬢さまか』
『だめよ! ちゃんと治療しなくちゃ!』
『うるせえ。俺は俺の好きにするんだ』
『アタシの為に治療して。あなたの事が心配なの……お願い! 涙がキラリ』
声色まで使って芝居を始め出す。
『ふ。ユズカ。おまえには負けたぜ……ホロリ』
『こんな俺をおまえは、心配してくれるんだな……』
『ジェネシスのヘッドさん!』
『名前なんだっけ』
『なんでもいいよ、野郎は』
『ユズカ! おまえの為に俺は、真面目になるぜ!』
『青春だー』
『だめだー! 可憐な君にそんなヤツは似合わないっ! どうしてそんなヤツが良いんだー!』
いや、実際はかなり違うんだが。と成島は思った。しかし仲間は『乱暴者を改心させた清純なお嬢さま』で盛り上がっている。聞けば聞くほど違和感があるが。
『おまえら。遊んでないで持ち場に戻れ。仕事の手ぇ抜くなよ! しっかりやったらひょっとして、お嬢さまからお礼の言葉がもらえるかもしれねえぞっ』
おー、という声。みんな楽しそうだ。
その時、彼の目に何かの動きが映った。
《パーティー会場内ダンスホール》
どんっ!
音が響いた。音楽が途絶え、人々の動きが止まる。
「なに?」
「何の音なの?」
不安げに周囲を見回す人々。音はさらに続いた。
どんっ!
どどんっ!
「爆発音……」
つぶやいて柚香は間宮に目をやった。間宮が真人の側にと目で示す。小さくうなずいて、彼女は真人と、隣にいる美奈子の側に寄った。
高いヒールが歩きにくい。
(すぐ脱げるようにしておいた方が良いか……?)
「柚香さん。何かしら」
「美奈子さま。大丈夫です。警備の人もいますから……ここでじっとしていましょう」
「そうね。でも一体、何が……」
広間の灯が点滅した。ふっ、と消える。悲鳴が上がったが、すぐに明るくなった。先ほどまでのようにまばゆいものではないが、明るい事は明るい。
「暗いわ」
「なんだか薄暗い……どうしたの」
ざわめいている人々はしかし、先ほどまでの明るさに慣れきっていた。不安な面持ちがさらに強くなる。
(電源をカットされた……これは予備のものだ)
柚香は周囲を見回してから、不安げな面持ちの美奈子の手を取った。にっこりしてみせると、美奈子はほっとしたように微笑み返してきた。
(和樹は、動くなと言った)
銀狼であるなら、すぐに動けるのに。現実の制約はもどかしい。
真人が市長と目配せをし合った。
「みなさん。不手際まことに申し訳ない。しばらくお待ちいただけますか」
市長が声を上げて言うと、人々はそちらを見た。南市長はにっこりしてみせ、言葉を続けた。
「何か、電気系統の事故でしょう。今、原因を調べさせていますので。落ち着いてここでお待ちください。他の場所も暗くなっていると思いますので、明るいこの広間にいるのが安全です。大丈夫。すぐに元通りになりますよ」
この言葉に、安堵の雰囲気が広がる。
「柚香さん……どうしたの?」
「あ、はい。美奈子さま。あの、靴擦れを起こしてしまって……痛くて」
「あら。わたくし絆創膏を持っていてよ。使われるかしら」
「ありがとうございます。でもここではちょっと……」
屈んで華奢なバックベルトのスナップボタンを外していると、美奈子が心配そうな顔をした。そうね、と言ってから美奈子は、周囲を見回した。
「化粧室で直すのが良いのだけれど。今は、ここから出たら危ないかもしれないわ。暗いし。どこか目立たない所で椅子に腰かけたらどうかしら」
「ええ……」
ボタンを軽くはめ、すぐに外れるようにしてから柚香は立ち上がった。
* * *
『状況を報告しろッ! エコーチーム!』
怒鳴り声が聞こえた。爆発の衝撃でぐらぐらしている頭を何とか上げる。成島は咳き込んだ。
『島、生存してます』
『淡路、無事ッス』
『真田、何とか生きてます』
『成島と明はどうした!』
もう一度咳き込む。成島は返事をした。
「成、島……っ、生きてる」
成島は周囲を見回した。建物の壁に穴が開いている。黒い煙が上がっていた。明。明が確かあの辺りに。
「……明」
倒れているのは。あれは。
黒い覆面をした男が二人、倒れていた。近くに座り込んでいるのは、あれは真田だ。動けないようだ。その側に、見覚えのある人間が横たわっている。島らしき人影が、かがみ込んでいた。淡路が状況を報告しているのが通信機を通してと、肉声と、両方から聞こえてくる。
「状況報告、淡路。壁に穴を開けられました。攻撃を受けて反撃。二名倒して、こっちに負傷者三名。うち二名が赤。襲撃者は穴から会場内へ移動。確認できただけで八名が侵入。侵入直後に爆弾投げつけられました……クソッタレが。今は他に誰も見当たりません」
「こちら、島。明を確認。状況、赤。意識なし」
赤は重症だ。重症の事だ。
「このままだと、時間の問題です」
明。
『了解。医療班急げ。エコーチームははその場で待機。警戒を続けろ』
成島は、力の入らない体を引きずり起こし、歩み寄った。島が振り返った。
地面に横たわっている男の体はぐんなりとして、陽気な表情を浮かべていた顔は、血と泥で汚れている。
「成島さん」
「明は」
「まだ息はあります。こいつが、こんな事ぐらいでくたばるタマですか」
「ああ……真田。どこやられた」
「足です。感覚ありません」
担架を抱えた医療班の人間が、駆け寄ってくるのが見えた。一人が成島と島を見比べてから、成島に軽く礼をした。
「医療班の小杉です。怪我人をこちらへ」
「頼む」
「成島さん。あんたも行くんだ」
島に言われて、そこでようやく、自分が頭から血を流していた事に気づいた。
「俺は良い。……宮。侵入したヤツ、どうなった」
どどん!
そう言った途端、会場内部から爆発音が響いた。
『チャーリーチーム、ルート3から内部に突入。アルファチームの援護にまわれ。ベータチーム、場内の人間の安全を確保。フォックストロットチーム、チャーリーチームの抜けた後をカバー。島。成島はどういう状態だ』
冷静な宮の声。
「黄色に入りかけたとこですね。見た目は」
「俺は平気だ」
『小杉。確認しろ』
小杉が成島の腕に手をかけた。痛みが走り、ぎくりとして身を硬くする。鋭い目でざっと確認すると、小杉は言った。
「脱臼してる。折れているかもしれません。早急な処置が必要です」
『成島を連れて行け。ゴルフチームをそっちに回す。それまで島。指揮はおまえが代われ』
「了解。行って下さい、成島さん」
「俺は……」
いやだ、と思った。明がやられたのに。
ずきずきした。体中が。それよりも痛いと感じるのは、己の不甲斐なさだった。もう少し早く気づいていれば。
何かが動いたと、気がついていたのに……。
『命令だ、成島。手当てを受けろ』
しかし、宮にそう言われた。成島は歯を食いしばった。
「了解」
黒煙が上がる。ずん、とまた腹に響く音がした。テロリストたちは景気よく、爆弾をばらまいているらしい。
(ホールの客たちは無事だろうか)
城島柚香。
ふと、あの少女の眼差しを思い出した。
内に炎が燃えているような、それでいて、凍てついた氷をも持ち合わせているような。不思議な少女。
彼女は無事だろうか。
* * *
何か変だ。隆也はそう思った。
この感じ。まるで、襲撃をかける時のような。いや。
「こっちがかけられてんのか」
つぶやいて父親を見る。冷静な態度でその場にいる者を落ち着かせている。母親は、その傍らで静かに立っている。兄もその側にいる。
状況のわかってそうなのは、誰だ。
ぐるりと見回し、ふと違和感を覚える。管理官の妻と一緒にいる少女。城島柚香。
落ち着き過ぎてないか。
少女が屈んだ。どうしたのかと思っていたら、靴をいじっている。そう言えば、靴擦れをしたと言っていたなと隆也は思った。管理官の妻らしき女性と何か話している。立ち上がった。自然な動作だ。
自然すぎて、……不自然だ。
周りの人々を見る。柚香と同じ年頃の娘たちもいる。落ち着いたように振る舞ってはいるものの、それはあくまでも、振る舞っているだけだ。上流の家庭の娘が、人前で取り乱した姿を見せるわけにはゆかないからだ。地位のある人間の妻や娘には、やはりそれなりの責任がかかる。たとえば、人前で決して取り乱した姿を見せない、というような。
自分たちの為に働いてくれている者に、不安を与えてしまうからだ。たとえばこの場合。ここに警護の為の人員がいて、ダイアナが泣き叫んだり、管理官の妻がわめいたりしていたら。確実に士気は下がるだろう。集中力も落ちる。その分、実力を削いでしまう。
その結果、助かるはずの命が助からないという事もあり得る。
だからダイアナは微笑む。管理官の妻も。名のある家の老婦人たちも。内心怯えていたとしても、不安で胸がつぶれそうになっていても。彼女たちは微笑む。うろたえた姿を見せる事はしない。そんな彼女たちを見て育つ娘たちも、肌でそれを感じ取る。そうして落ち着いた様子を保とうとする。
それが彼女たちの、彼女たちなりの戦い方なのだと、隆也は知っている。けれど。
柚香は違う。彼女はまるで……、
(臨戦態勢)
わけもなく、そう思った。静かに立っている彼女はまるで。次に起きる事に備え、鋭気を養っている戦士のようだ。
たぶん、他の者は誰も気づかない。普通の少女だと見過ごしてしまうだろう。だが隆也は、ジェネシスのヘッドとして荒っぽい日々を過ごしていた。それに先ほどの会話やら何やらで、柚香の事が気になっていた。
だから、気づいた。
(見るたびに違う顔をしている……なんなんだ、この女は)
ふう、と息をつくと隆也は歩きだした。柚香の方へ。
(だがまあ、退屈はしない)
びっくり箱みたいな奴だ。そう思うと微笑が浮かんだ。
柚香が顔を上げた。こちらを見る。一緒にいた女性が、あら、と言って自分と彼女を見比べた。隆也が軽く頭を下げると、微笑んで、声をかけてきた。
「南さまのご子息……でしたわね。わたくし、霧島真人の妻の、美奈子です」
「初めまして。隆也です。不躾で申し訳ないのですが、……彼女と少し話をしても」
彼女、という所で柚香に目線をやる。一瞬、柚香の眉が上がった。けれど彼女は何も言わない。
「よろしくてよ。行ってらっしゃい、柚香さん」
微笑んで、美奈子は柚香をうながした。柚香は、はい、と言ってから、少し覚束ない足どりで隆也に近づいた。
「大丈夫か」
低くささやくと、印象的な目がこちらを見上げてきた。
「何が」
「靴擦れ。したんだろ」
「そっちか……そうだな」
柚香が手を差し出す。訳もわからず、隆也はその手を取った。
「なんだ?」
「歩きにくいんだ。このヒール、高過ぎる」
「なんでそんなの履いてきたんだ」
「断りきれなかったんだよ」
むっつりと言う彼女に、そうか、と返す。
「どこかに行って座るか?」
「今、その話をしていた……支えてくれ」
「ああ」
隆也は柚香を支え、壁際に置いてあった椅子の所に導いた。柚香はふう、と息をついて椅子に腰かけた。
「大変だな、女って」
「私もそう思う」
柚香がちら、と隆也の背後を見たので、隆也も気になってちょっと振り向いた。美奈子がにこやかにこちらを見ていた。何となく、へらりと笑ってしまう。
「何でこっち見てるんだ」
「付き添いなしで若い男と話をしちゃいけないんだ。本当は」
「あ? ああ。そういう事」
だから少し離れた所から見ているらしい。それにしては、視線が強い気がするが。
(いやん、柚香さんったら。あんなに大事そうに連れていかれて、見つめられて……やっぱり南市長の息子さんは、誠実なクリストファーだわっ)
実の所、美奈子はそんな事を考えている。
「それはともかくな。何が起きているのかわかるか」
「間宮が詳しい」
「間宮?」
「そこでおまえの兄と話している」
言われて隆也は視線をそちらに向けた。物陰で、礼一と霧島管理官の部下らしき男がひそひそと言葉を交わしている。男は首を振り、やがて会話は途切れた。あの男もあまり情報を持っていないのではないかと隆也は思った。
「じゃ、兄貴に尋ねてみるか」
「そうしろ」
「けどその前に、あんたにも。何か知ってるんだろ」
「なぜ」
隆也は、柚香を見下ろした。
「あんた、落ち着き過ぎ。こんな時にはか弱い女性は、毅然と振る舞っているようでいて、ちょっと手が震えていたり、少し青ざめたりしているもんだ。良い家の人間ってのは、その分狙われやすいからな。経験からも、緊張が抜けないんだよ。なのに……あんた、何にもないんだもんな」
「次からは青ざめたり震えたりできるよう、善処する」
この返事に、隆也は呆れた顔になった。
「そういう話じゃねえだろう……」
「そういう話だ」
「そうかよ。で、あんたは何を知ってるんだ」
柚香はふう、と息をついた。
「知ってどうする、ジェネシスの。今は警備の者が力を尽くしてくれている。私たちにできる事はあまりないぞ。下手に動くと彼らの足を引っ張る。大人しくしているのが一番だ」
「そうだろうが……」
ふと、妙な既視感を覚える。なんだ?
「んん?」
「なんだ」
「いや、なんか……前にもこんな事があった、ような?」
首をひねる。
「なんだっけ?」
「私に尋ねられても困る」
「ああ、そうだよな……って、あっ、そうか!」
隆也はああ、という顔になった。
「似てるんだ、あんた!」
「声が大きい。何にだ」
「あ、ごめん。いや、しゃべり方。銀狼って知ってる?」
柚香は一瞬、動きを止めた。けれどすぐに返した。
「ぎんろう?」
「あ、そうか。知らないよな。良いとこのお嬢さんだし」
「居候だぞ」
「いや、でもお嬢さまだろ、あんた。知ってる方がおかしいし。いや、……俺の知り合いって言うか。そういうヤツなんだけど。なんか似てるんだ、あんたと。しゃべり方とか色々。ああー、そうかー。そうだったんだ。気になると思ったよー、道理で」
柚香は沈黙した。
「似ているのか?」
「うん。そっか。そうだったのか。あースッキリした」
「そうか」
「うん……?」
「どういう奴なんだ」
「いや、どういうって。あー、と。その。スカしててヤな奴」
ふーん、と柚香は言った。
「嫌な奴に似ているのか」
隆也は慌てた。今の言い方だと、自分が柚香を嫌がっているようにも聞こえる。
「あ、いや。そうじゃなく。だってあいつ強ぇんだもん、俺より」
ちょっと慌てながら言う。
「やっぱ頭にくるじゃん、なんかさ。カッコイイし、やたら。正体不明だしさー。なんていうか、負けてる感じして突っ張りたくなるんだよ、男としては」
「……そうか」
「あっ、でも、あんたに対してそう思ってるわけじゃないからなっ?」
「わかっている」
「ええっと、……つまりそういう事」
「うん」
沈黙が落ちた。
「それで……ああ。つまり。あんたの知ってる事教えて欲しいんだけど」
「覚えていたのか」
沈黙が気づまりで質問を戻すと、そう言われた。
「いや、覚えてるよ。ってか、そうそう忘れるわけないじゃん」
「残念だな」
「残念って……おい」
「私も詳しくは知らん」
柚香は答えた。
「知っているのはテロだと言う事ぐらいだ」
「て、」
目を丸くしてから隆也は咳払いをした。
「テロですか」
「ああ」
「そんであんた、そんなに落ち着きはらっているんですか」
「緊張ならしているぞ」
「全然そんな風に見えないです」
「しすぎると、いざという時動けないからな。筋肉が硬くなって」
「ああ、そうだよな……って。だからなんであんた、そう度胸あるの」
思わず隆也は、綺麗に撫でつけられた自分の髪を、ぐしゃぐしゃと掻き回した。それから、あ、と思った。しまった。母との約束。
「やば。崩しちまった」
「何が」
「髪。お袋に、終わるまできちんとしててくれって頼まれててさ」
「ああ」
まばたいてから柚香は、手首にかけていた小さなバッグを開いた。上流の女性が良く持っているタイプの、ハンカチとティッシュを入れたら一杯になってしまいそうなものだ。小粒のパールとビーズを縫い止めた、アクセサリーとしか思えない、実用にならなそうなもの。
そこから櫛を取り出す。花模様が刻まれた柘植の櫛は華奢で、いかにも女物といった雰囲気をたたえていた。バッグからは細い口紅と、コンパクトらしい銀色のケースも見えている。
「屈め」
「え?」
「直してやる」
えー?
びっくりしたが、隆也は素直に柚香の前に膝をついた。柚香は手を伸ばすと、隆也の髪をささっと整えた。
「元通りではないが、こんなものだ」
「アリガトウゴザイマス」
犬か猫をなでてやっているような感じだった。まるっきり、男として意識されていない。
しかし周囲の者はそうは取らなかった。
「(あら、まあ)」
「(ごらんになって、撫子さま)」
「(まあ……柚香さまったら、良い雰囲気……)」
隆也がすぐに立ち上がる。それが照れているようにも見えて、微笑ましい、という空気が一気に生まれた。
美奈子もちょっと、わくわくしている。
(南市長の息子さんなら、良いご縁だわ……すぐに真人さんと話を進めないと!)
二人の知らない所で、初々しいカップルを祝福しようという思惑が生まれつつあった。
ずずん!
その時、爆発音が近くで響いた。人々が、はっ、と緊張する。
ばたばたと足音がした。乱暴に扉が開かれる。
悲鳴が上がった。
「全員、動くな!」
マシンガンを抱えた男たちが、その場に乱入してきた。
男たちのヨタ話と、お嬢さまたちの噂話が似ていると気づいたのは、書いた後でした。……似てませんか。
カクテルドレス、イブニングドレス、タキシード、テールコート。妙な所で止まっていました。柚香の持ってるバッグって、イブニングバッグで良いのか、とか。カクテルバッグとどう違うんだとか。一応、柚香が着ているのはカクテルドレスです。裾が床まで届かない。
……レティキュールだと十九世紀……バッグで良いよな。