2.お嬢さまはビター・オレンジ 3
柚香は、かつてない混乱に陥っていた。
クラスメートに寄ってたかって磨き立てられ、女装させられた(柚香の場合、女装ではないのだが、本人の感覚では女装に近い)。
パーティーに、連れ出された。
ジェネシスのヘッドと出会って、ワルツを踊った。
和樹に、テロの可能性があると言われた。
そうして最後に、外国人男性が来て、いきなり手の甲にキスをして。恋人に立候補すると言い出した。
なんで? 何が? なぜ? どうして?
ネット社会の平和を守る銀狼とは言え、柚香も人間である。次々と起きた思いも寄らない出来事の積み重ねに、思考が停止状態に陥っていた。
これが犯罪者取り締まり中の殴り合いやら何やらなら、こうまで動揺していない。しびれたようになった頭の隅でそう思う。なんでこう、苦手分野ばかりが次々と。今日は厄日か?
「ユズカ」
そう思っていると、柚香の手を離したクラウス・フォン・グリューネワルトが苦笑を浮かべた。
「そんな顔をして。驚いたのですか」
「は、え、あの、はい。クラウスさま。何かの冗談……」
「冗談でこんな事は言いませんよ。ユズカ。あなたの踊っている姿を見て、私は胸が痛くなりました。なぜだかわからなかった。けれどこうして、あなたと話をして。わかりました。あれは私の心臓があなたを見て強く打った為だったと……」
優しく言う男はおそらく、若い女性なら誰しもぽーっとなるだろう顔だちをしていた。言った内容も、『まあ、ひょっとして?』とドキドキするだろう意味合いに満ちていた。普通の若い女性なら。
しかし柚香には、そちら方面の知識や経験が皆無だった。長年銀狼を続けてきたせいか、元々そっちの感覚が乏しかったのか。彼女の乙女回路は錆び付きまくっている。なので、言われた言葉をその通りに受け取った。
(心臓に持病があるのか、この男?)
大いなる誤解である。
「あの、クラウスさま」
「なんですか、ユズカ」
「お加減が良くないのでしたらどうぞ座って下さい。どなたかお呼びしましょうか」
「……」
真剣に言われて、クラウスは黙った。通じていない。
「では、そうさせてもらいましょうか」
「はい、どうぞ」
かまわずに微笑んで、クラウスはちゃっかり柚香の隣に腰かけた。それならそれで、つけこみようはある。
一方、柚香ははたと気づいた。和樹の話のテロ。ここにこのままいては危ないのではないか。
会場に戻らないと。
そう思っていると、再び手を握られた。は、と顔を上げるとクラウスが自分を見つめている。
「何を考えているのですか、ネロリの姫君」
ねろり?
ああ。みかんの花。
隆也の言葉と大差ない事を考えて、柚香はクラウスを見上げた。この男。こうまで自分の隙をついて近寄ってくるとは。何かの達人か?
「あのクラウスさま」
「なんでしょう、ユズカ」
「手を離していただけませんか」
「なぜです?」
「なぜって……」
どうして握ったままなんだ。そう思いつつ、握られた自分の手をじっと見つめると、クラウスは微笑んだ。
「私は離したくありません」
なぜに。
くり返すが、柚香の乙女回路は錆び付いている。意味ありげな言葉を言われても、それらしい眼差しを向けられても、何の事だかさっぱり。という状態である。直球以外は通じない。
「お嫌ですか」
「そうですね」
ばっさりと言われて、クラウスは黙った。こんな反応を返されたのは初めてだった。
「お嫌……なのですか」
「握られ続けていると、色々と邪魔です」
邪魔。
さすがにクラウスの頬が引きつった。
「そうですか……私は、あなたの手を握っていると、心が浮き立つ思いでしたが。不快な思いをさせてしまって、申し訳ありません」
仕方なく手を離す。それでもそう言った。すると柚香はこれも、言葉通りに受け取った。
「不安なのですか?」
「はい?」
目を上げると、柚香の目が自分を見ていた。クラウスは、どきりとした。
まっすぐで迷いのない、不思議な眼差し。
「何か不安なのですか、クラウスさま」
「私が……ですか」
何だろう。この少女は。クラウスは不思議に思った。どうしてここまで、人をまっすぐに見つめる事ができるのか。
「誰かの手を握るのは、不安な時だと聞いた事があります。私も昔、兄に。不安な時は手をつないでもらいました」
「兄上に……」
クラウスはまばたいた。すると、柚香が手を伸ばしてきて、自分の手をそっと握った。
「もしあなたが何か不安なのなら。落ち着くまでこうしていましょう」
柚香にしてみれば、あまり意味はなかった。元々中流家庭に育っていた柚香は、近所の子どもたちの面倒を良く見ていた。泣いている子どもの頭を撫でたり、手をつないだりするのは、日常茶飯事だった。
今は霧島の家にいるが、それでも柚香の中で、自分の位置づけはその当時とあまり変わらない。誰かが不安がっているのなら、なだめてやるのは自分の役目だとどこかで思っている。それがたとえ、年上の男性でも。
(心臓に持病のある人だしな……)
誤解は続いている。
一方、クラウスは呆気に取られていた。実の所、柚香に対してそれほど執着があったわけではない。可愛らしい娘だとは思ったが、それだけだった。ただ一人でいるのを見て、少し悪戯心が沸いた。ちょっとからかって、恥ずかしがって頬を染める姿が見たいと、単にそれだけの気持ちだったのだ。それなのに。
眼差しに、魂が揺さぶられた。その言葉の偽りのなさに、心が震えた。与えられたぬくもりに、感動をおぼえた。
「あなたは……まっすぐな方ですね、ユズカ」
「え?」
「私はあなたに、恋人に立候補すると言ったのですが。その相手にこんなに優しくして良いのですか?」
あ、そうだった。
柚香はそこでやっと、先ほどのやりとりを思い出した。
「でもクラウスさまは、本気ではなかったでしょう」
あの時のクラウスの様子を思い出し、そう言う。するとクラウスは瞠目した。
「私が本気ではなかった、と?」
「楽しい冗談を言っているように見えました。……好きになった相手への申し込みとは思えなかった」
そうだ。混乱はしたが、すぐに収まった。それは、クラウスの言葉に真剣な様子が見られなかったから。だから柚香は平気だった。
本気ではないと、すぐにわかったから。
一方、クラウスは新たな目でこの少女を見つめていた。
「世馴れたご婦人のような物言いをなさる」
「そうですか?」
「とても幼く見えるのに」
「幼いのでしょう。何もわからないから、不作法もします」
あっさりと言われ、さらにクラウスは混乱した。これは一体、どのような存在なのかと。
恋の手管に慣れた女性のような会話。
それなのに、……どうしてこうも清純で無垢な印象があるのか。
思っていると、手が離れた。そのぬくもりが去る事を、惜しい、と彼は思った。
「そろそろ、会場に戻りましょう」
そうして柚香はそう言った。クラウスはまばたいた。
「え?」
「いつまでもここにいられませんから」
柚香にしてみれば、テロが起きる前に早く会場に戻りたいという、それだけの思いだった。
しかしクラウスはそれを、別の意味に受け取った。自分との会話を終了したいという、彼女の意思表示だと受け取ったのだ。
「私は……あなたを悩ませていますか」
「は?」
柚香は目を見張った。突然相手が曇った表情になったので。
「ユズカ。無礼を許して下さい。私はあなたを侮辱するつもりはなかった。ただ……いえ。これも言い訳ですね」
「クラウスさま?」
何の話だ、と柚香は思った。
「あなたと話がしたいのです。もうしばらくだけで構いません。いけませんか」
テロが起こりそうなんですけど。
そう言いそうになったが、柚香は耐えた。心臓の悪い人だ。何だかわからないが、急に落ち込んだみたいに見える。自分の言動が彼を傷つけたのかもしれない。良くわからないが、そうではないかと思える。きっと繊細な人なんだろう。妙に押しが強そうで、とてもそうは見えないが。繊細なんだ。
『柚香ちゃんは男心がわかんないからねえ』
以前、間宮に言われた事を思い出す。確かにわからない。今、クラウスと話をしていてもさっぱりだ。
彼女の乙女回路の錆び付きようは、年季が入っている。
「あの……では。少しだけなら」
もうしばらくなら大丈夫だろう。そう思って承諾すると、目に見えてクラウスは喜びの表情を浮かべた。
「ありがとうございます」
うれしげに笑いかけてくる。先ほどの微笑みと違い、心からの素直な笑みに見えた。何だかうれしかったみたいだな、と柚香は思った。
具合の悪い人だし。
両者の思惑は、見事なまでに噛み合っていなかった。
「テロ?」
和樹から情報をもらった間宮は、すぐに霧島真人にそれを伝えた。
「霧島の特殊護衛班から、対テロ部隊を警備に回すそうです。後少しで配置が完了すると」
「そうか」
「市長にもこの件は伝えておいた方がよろしいのでは」
「そうだな。和樹の事だ。あらゆる可能性を考えてはいると思うが……心構えだけはしておいた方が良いだろうし」
そこで真人は、会場を見回した。
「柚香さんはどうした?」
「ああ、先ほど市長の息子さんと踊って、それからテラスへ行きましたが」
「それは知っている。まだ会場に戻っていないのか?」
「ええ……おや」
柚香と一緒にいるはずの隆也が、数名の女性や男性につかまっている。困った顔で何か言っているのだが、集まっている者たちは彼を離そうとはしない。
「高石の者と、音羽の……それとあれは、天宮ですか」
「ほう。もてているな」
「それどころではありませんよ、真人さま。彼があそこにいるという事は、柚香ちゃんは一人です」
「すぐにこちらに戻るよう言ってくれ。私は市長に話をしてくる」
「はい」
間宮は表情を引き締めると、柚香がいるだろうテラスに向かって歩き出した。
「あの、すみませんが、もう……」
隆也は困り果てていた。着飾った若い女性に呼び止められたかと思うと、いきなり数名の者に囲まれたのだ。そうしてずっと、わけのわからない話を聞かされている。妹が何歳だとか、従姉がどこの学校に通っているとか。
先ほどのダンスで目立ったのは実は、柚香だけではなかった。今まであまりパーティーに顔を出さなかった隆也もまた、妙齢の女性たちの婿候補として目立ってしまったのだ。彼を取り囲んでいるのは、自分の家族や一族の娘を売り込もうと心に決めた人々だった。
しかし隆也には、そんな事とはわからない。何とか逃げ出そうとするものの、人々はがっちり隆也を囲んでいる。普段なら、ふざけんなよテメエ! で終わるものの、今日のパーティーでは最後まで、『ちゃんとした態度で、ちゃんとした言葉づかいで』いる、と母親と約束している。もし約束を破ったなら、彼女は泣き出すだろう。それはちょっと勘弁して欲しかった。
そういうわけで、慣れない言葉遣いでやんわりとあしらおうとしているのだが、『市長の息子とつながりを!』とばかりにぎらぎらしている彼らには通じない。というより、離れたいという彼の態度は綺麗さっぱり無視されている。
「まだよろしいでしょう」
「隆也さまは、今、高校生でいらしたわね」
「なんとも頼もしい限りだ」
「素敵な金髪だこと」
にこにこしている男性も女性も、見かけは穏やかだ。しかし隆也にはどこか、牙をむいたハイエナに見えた。何だか怖い。すごく怖い。
(なんか喰われそう。すげえ喰われそう。柚香の側にいればヨカッタ……)
そう思いつつ、何度目かになる脱出を試みた。しかしあっさりと阻止される。
「まだ良いではありませんか、隆也さん」
「いえ、あの」
「わたくしの妹の話をお聞き下さいな」
「いや、私の従姉の話を」
誰かタスケテ。
隆也は天を仰ぎたくなった。
テラスは静かだった。柚香とクラウスは椅子に腰かけ、会場から聞こえてくるざわめきと音楽を聞いていた。
会話のない事に柚香は少し、落ち着かない思いを抱いていた。クラウスに対して何か言えよ、という思いが湧く。けれど表情には出さないように気をつけた。何と言っても病人(柚香の中でクラウスはすっかり病人扱いになっていた)だ。怒鳴るわけにもゆくまい。自重だ、自重。とこのようて心境である。一方、クラウスの方は何も会話のない沈黙を、心落ち着くものとして捕らえていた。穏やかな静寂。この少女は、こんな所も好もしい、と。
物凄く噛み合っていない。
「クラウスさまは」
「はい?」
「お幾つでしょうか」
ついにしびれを切らした柚香が尋ねた。別にどうと言う事もない質問だった。先ほど年齢を尋ねられたので、自分も尋ねて良いかと思ったのだ。
「二十八です」
クラウスは答えた。そこで少し、自信なさげな表情になった。
「あなたには、年上過ぎますか。三十近い男など。私はとても年寄りに思えるのではないですか」
実際、彼は自分の年齢を口にして、自信を失っていた。二十八。自分は彼女より十二歳も年上だ。十六歳の少女からすると、とても恋愛の対象には思えないだろう。そう感じたのだ。
「え? いえ。あの」
別に何かを意図するつもりはなかった柚香はまばたいた。そうか。この人、二十八歳なのか。
霧人と同じ年齢だ、と思う。
「兄と同じ年齢です」
クラウスはその返事に、何となくほっとするものを感じた。
「お兄さんと。そうですか。随分と歳が離れているのですね」
「ええ。私は……兄に育てられたようなものでしたから」
ふと、カプセルの中の霧人を思い出す。表情を曇らせた柚香に気づき、クラウスは眉を上げた。
「どうなさいました? 憂いに満ちた顔をされて」
「あ、いえ」
ゆるく首を振ると、柚香はなんでもありません、と答えた。
「そうは思えませんよ。ユズカ」
「いえ、……あの」
「あなたは私の為に、手を握ってくれました。不安なのかと言われて」
微笑んで、クラウスは言った。
「とても、感動しました」
「え?」
「だから、あなたに何か悲しみがあるのなら。手を差し伸べたいと思います。何かあるなら話して下さい。ただ話すだけでも、心が軽くなるものですよ? よろしければ、ですが」
クラウスの申し出に、柚香はまばたいた。義理堅い人だなあと思う。
兄と同じ年齢だと言う彼に、そうしてほんの少し、心が揺らぐのを感じた。
(霧人……)
どうしようかと思い、当たり障りのない事だけ話そうと思う。この人は、親切で言ってくれているのだと。
「クラウスさまは、私の事を何かご存じですか」
「可愛らしいワルツを踊る方」
微笑んでクラウスが言い、柚香は目を丸くした。
「それから、優しい方です。気分が悪い人には手を差し伸べてくれる」
「それは……当たり前の事です」
「とても純粋で、素敵な女性」
「褒め過ぎです」
「私にはそうです。ユズカ。ネロリの姫君。いえ、妖精でしょうか? 私が知っている貴女は、これで全てです」
それってどんなの。
柚香の脳裏にはなぜか、スライムと戯れている自分の姿が浮かんでいた。ネロリ、の音から連想してしまったのだ。クラウスは『オレンジの花の妖精』と言いたかったのだが、言った相手が相手だった為、彼の意図は悲しいまでに伝わらなかった。
「あの……そうですか。ええと」
スライムの妖精。一瞬、なんだそりゃ、と自分で自分にツッコミを入れそうになった。柚香は目を泳がせてから言葉を続けた。
「私には両親がおりません。早くに亡くなりましたので。兄が、私を育ててくれました。私は兄が……とても好きだった」
クラウスは何も言わず、柚香の言葉を聞いている。彼女は続けた。
「その兄も……五年前に倒れて。覚えておいででしょうか。五年前の『メイヴ』の事件を」
「ああ、」
クラウスは小さく息をつくように言った。柚香は続けた。
「兄はあの時、『メイヴ』の犠牲になりました。今も意識が戻りません。途方に暮れた私を助けて下さったのは霧島の家の方々で。今はそちらにお世話になっています。……真人さまには本当に、感謝しています」
妹が欲しかった、の一言でパーティーに連れて来ようと画策するが。それは別にして、確かに柚香は彼に感謝している。
「ただ、時折、」
柚香は言葉を止めた。唇を噛む。何か込み上げてくるものを感じて、目を閉じる。駄目だ。
「ユズカ?」
駄目だ。泣いたら。涙を流すなんて。絶対に駄目だ。そんな事をしたら。
「時折……、」
声が上擦る。無理に目を見開いて、柚香は涙をこらえた。泣くものか。
泣いたら。霧人がもう戻らないと認めた事になってしまう。
だから。泣かない。絶対に。
私は諦めたりしないのだから。
ぎゅ、と手を握りしめると柚香は、息をついた。クラウスの方を見る。クラウスは少し、心配そうな顔をしていた。微笑んでみせる。たぶん笑えたと思う。すると、クラウスはなぜか息を呑んだ。
「すみません、クラウスさま。あなたが兄と同じ歳だと聞いて、……少し。心が乱れました」
「ユズカ」
「声が聞きたいと思うのです。時折。兄と話がしたい。兄の声が聞きたいと。そう思ってしまう。わけもなく。それだけです。ただ、それだけの事なのです」
そう言うと、微笑んだ。クラウスは黙って柚香を見つめていたが、ふうと息をついた。
「貴女が泣いたら、私の胸を貸そうと思っていたのに」
彼は腕を広げた。おどけたように笑みを浮かべる。
「この手をどうしたら良いのでしょうね。強くて美しい姫君」
「え……あの」
「泣いても良いのですよ」
穏やかに言われ、柚香はまばたいた。けれどきっぱりと答えた。
「泣きません。兄は生きている」
静かに、力強く。
「だから私は絶望したりしない。彼は生きている。だから泣かない。泣く理由がない」
ふ、と息をつく。
「最も、医療費を稼ぐ必要がないから、こう言えるのかもしれませんが。私は幸運でした」
「幸運……ですか」
「ええ。食べるのにも、住む所にも不自由していない。着るものもある。兄の医療費の負担も、さほど気にする必要もない。……幸運でした。どれか一つでも欠けたら私は、どのように生きてゆけば良いのか途方に暮れ、絶望していたでしょう。兄が生き延びた事を恨んだかもしれません」
クラウスは真面目な顔で柚香を見た。柚香はクラウスを見つめ返した。
「働いて、働いて、そのお金を兄の治療につぎこんで。そうして暮らしていたでしょう。明日を夢見る事もできず、ただ働き続けて。そんな日々を送っていたでしょうね。当時の私は十一歳だった。そんな子どもに何ができたかわかりませんが……」
柚香は微笑んだ。
「手を差し伸べてくれた人がいた。今も守ってくれている人がいる。……私は幸運です」
「本当に、強い方だ」
静かにクラウスが言った。その瞳の奥に、熱のようなものがあるのに柚香は気づいた。
「兄上の名前を尋ねてもよろしいか?」
「霧人です。城島霧人」
「キリヒト……」
彼がそうつぶやいた所に、間宮がやって来た。
「柚香ちゃ……あ、ええと?」
クラウスに気づいて混乱したように立ち止まる。
「間宮さん」
柚香は立ち上がった。間宮は通常の言葉遣いを取り繕った。
「柚香さん。そろそろ中に入りなさい。風が冷たくなってきましたよ」
そう言ってからクラウスに目を向ける。
「失礼ですが、どなたでしょうか」
「クラウス・フォン・グリューネワルト。彼女と会話を楽しんでいました」
クラウスは優雅に立ち上がると、間宮に微笑みかけた。間宮の顔が一瞬、赤くなり、次いでさっと青ざめた。
「グリューネワルト……と言われると。シルヴァングループの?」
「ええ。こちらへは商談で」
霧島コーポレーションと技術提携をする予定の企業名に、間宮は軽く頭を下げた。
「失礼しました。私は彼女の友人で、間宮浩一と言います。霧島で働いてる者です」
「よろしく」
「ええ」
二人の男は軽く握手を交わした。
「柚香さん。真人さんが心配なさっているよ。中に入ろう」
「ええ……クラウスさま。ご気分は?」
クラウスは苦笑した。
「もう良くなりましたよ」
「では、中に。ご一緒しましょう」
微笑みかけると、そうですね、と返事があった。
柚香にしてみれば、テロの可能性のあるこの場所で、無防備なテラスに人を残して起きたくなかったのだが、クラウスの方では、柚香が気づかってくれた事で、少しは好意をもってもらえたのかと、うれしさを感じていた。
一方、間宮は慌てていた。
(ええー? グリューネワルトって、そうよね? シルヴァングループの総帥一族よね? その名前を名乗っているって事は、トップか、トップに近いとこにいる人よね? それがどうして柚香ちゃんと仲良しになってるのっ?)
しかもクラウスの態度はどう見ても、柚香に気がある。
(柚香ちゃんは相変わらずだから全然気づいてないみたいだけど)
エスコートしましょう、と腕を差し出すクラウスに、とまどいながら手をかけている。ぱっと顔を明るくした彼ににこり、と微笑みかけているが、どう見ても柚香の笑みは礼儀上のものだ。
(会話を楽しんだって……どんな会話だったの〜!?)
もし柚香を口説こうとしたなら、相当に頓珍漢な会話になっていたはずだ。それが楽しかったのなら、それはそれで良いのだが。
うーん、とうなりつつ間宮は、二人の後について広間に戻った。
広間に戻った三人は、好奇の視線を浴びた。正確には、柚香とクラウスが。
「あら……まあ」
「まあ。孝子さまが今度は……」
柚香に好意的な婦人や女性たちが、わくわくした風に目を輝かせる。
「あの方、どなた?」
「謎めいた男性とのロマンスね」
「それってあれでしょう? 『神秘の湖の誘惑』……」
「ああ、そうですわ。謎の男性に導かれる、泉美さまの物語ね!」
今度は別のホロ・ノベルズの話になっている。
「あの物語では、謎めいたギリアムさまが、泉美さまを神秘の王国に連れ去るのよ」
「そう、荒々しく! どきどきして読んだものでしたわ」
「でも、先ほどのクリストファーさまも、捨てがたくありません?」
「だとすると……三角関係!」
「まあ、『悲しみの薔薇』ね!」
「そのものですわね。では、柚香さまは薔子さま」
「クリストファーさまとギリアムさまに求められる薔子さま……ああ、なんて素敵」
そんな話になっているとは、柚香は全く気づいていない。
そこには柚香のクラスメートたちもいた。
「まあ、柚香さまったら。金髪の殿方にダンスに誘われたと思ったら」
「みどりさま。わたくしたちの努力の甲斐がありましたわね」
「そうですわね、麗子さま。あの方、きっと学院の伝説になりましてよ」
「ええ、今夜の事は長く伝えなくては! 二人の殿方に思われた柚香さま! どなたか物語を書いたりなさいません?」
「よろしくてよ、麗子さま。わたくし、書かせていただきますわ」
「まあ、ステキ。お願いしますわ、撫子さま!」
おっとりと盛り上がっていた。平和である。
そして隆也は。
「あ、あの、父の、父の所に行きますのでっ」
取り囲む人々から、まだ逃げ出せないでいた。
少し歩いた所で、クラウスを呼びに来た女性がいた。美しい女性だった。クラウスは柚香に詫びてから、その女性の方に向かった。
「またお会いできる事を望んでいます。ユズカ」
微笑みと共にそう言って。
柚香は間宮と共に、霧人の所へ行った。側に美奈子がいて、うれしげに目を輝かせている。
「柚香さんったら。なんて、なんてステキなの! 二人の殿方に想われるなんてっ!」
はあ?
唖然とした顔になった柚香にかまわず、美奈子は言った。
「謎めいた霧の王国のギリアムさまに、誠実な心の持ち主のクリストファーさま。あなたがどちらを選ぶのか、みなさま、楽しみにしていますのよ? ねえ、柚香さんはどうでしたの? ギリアムさまとクリストファーさま、どちらに心魅かれました?」
そのギリアムとかクリストファーって一体、だれ。
柚香がそう思ったとしても、無理はなかった。
* * *
クラウスは、会場の隅に行くと、上品な装いの美女と笑顔で会話を交わした。彼女はクラウスのパートナー。パーティーに出席する為に連れてきた女性である。
「あんな幼い方の相手をされるなんて。どういう心境の変化ですの?」
女性の洗練された美しさを目で堪能しながら、クラウスは微笑んだ。
「幼くはありますが、……見事な方でした」
「見事?」
「鮮やかな……そう、鮮やかな方です。芯が強く、それでいて心優しい。どう表現すれば良いのでしょうね。何と言っても彼女を表現しきれない。見事。ただその一言に尽きます。あんな方がこの世にいるなんて……」
女性は真面目な顔になった。
「そんな顔をしたクラウスさまを見たのは初めてですわ」
「そうですか?」
「いつもどこか、皮肉なお顔をしていらしたのに。今のクラウスさまはまるで……」
「なんです?」
とまどったような顔をしてから、彼女は続けた。
「初めての恋を知った、少年のようです」
クラウスは微笑んだ。
「そうですか。……そうかもしれません。彼女と語らっていると私は、何も知らず、無垢でいた時代の私に戻れる……」
一瞬、目を閉じる。しかし次にまぶたを上げた時、そこには一筋縄では行かない、傲慢でしたたかな男の顔があった。
「マレーネ。それで?」
「全て準備は整いました」
「では、始めよう」
二人は微笑みあった。クラウスは続けた。
「あと、頼みがあります」
「何でしょう」
「あの方。城島柚香と言う、彼女の事を調べて下さい」
マレーネと呼ばれた女性は、呆れた顔になった。
「クラウスさま。こんな時にそのような。もう少し真剣になって下さいませんか」
「別に、ふざけている訳ではありませんよ」
ふふ、と笑ってクラウスは答えた。
「彼女の兄は、五年前に『メイヴ』にやられて、今も昏睡状態らしい。名前はキリヒト。城島霧人」
マレーネの表情が硬くなった。
「キリヒト……」
「どこかで聞いた名前ですよね」
「わかりました。すぐに手配して調べます。クラウスさまは」
「私はこの会場にいますよ」
マレーネはうなずいた。
「では」
「ええ」
立ち去る女性を見送ってから、クラウスは柚香に目をやった。後見人である霧島真人とその妻、美奈子にはさまれている。
ふんわりとしたピンクのドレス。散りばめられた金粉とパール。頭に飾ったピンクの花。
清楚な装いの彼女は、こうして見ると幼く見える。
けれど。
「本当に、鮮やかな女性だ」
微笑んでクラウスは小さく言った。シャンパンのグラスを手に取り、軽く掲げて柚香に敬意を示す。
「貴女を、手に入れたくなりました」
輝きが、泡に反射してきらめいた。
食用のオレンジはスイート・オレンジと総称されます。ビター・オレンジは苦みの強いオレンジ(ダイダイや、ベルガモットなど)の総称で、そのままでは食用に向かず、果皮を加工して風味づけに使用したり、果皮、枝や葉、花から精油を採るのに栽培されています。
果皮から採られる精油はベルガモット、紅茶のアールグレイにつけられる香りです。枝や葉から採られるのがプチグレン。柑橘系の香りではありますが、少し青っぽい。
花から採られる精油をネロリと呼ぶ由来は、17世紀イタリア、ブラッチャーノ公妃マリー・アンヌ・ド・ラ・トレモワイユの古事から。ネロラ地方の城に住んでいたので、ネロラの公妃と呼ばれていた彼女は、真面目だが領地の運営は今一つの夫を支えるため、ビター・オレンジの花の香りを皮の手袋にしみこませ、これを社交界で流行させ、地元の産業を発展させた。ネロラ公妃の香り、という事で、ビター・オレンジの花の香りは以来、ネロリと呼ばれるようになった。……大体こんな所だったと思う。
オレンジの香りは子どもの頃の思い出などをイメージしやすく、どこか子どもっぽい印象がありますが、ネロリの香りは、大人の女性の落ち着きや色香もまとっています。