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天使は街に舞い降りて  作者: ゆずはらしの
第二章 お嬢さまはビター・オレンジ
6/11

2.お嬢さまはビター・オレンジ 3

 柚香は、かつてない混乱に陥っていた。


 クラスメートに寄ってたかって磨き立てられ、女装させられた(柚香の場合、女装ではないのだが、本人の感覚では女装に近い)。

 パーティーに、連れ出された。

 ジェネシスのヘッドと出会って、ワルツを踊った。

 和樹に、テロの可能性があると言われた。

 そうして最後に、外国人男性が来て、いきなり手の甲にキスをして。恋人に立候補すると言い出した。

 なんで? 何が? なぜ? どうして?

 ネット社会の平和を守る銀狼とは言え、柚香も人間である。次々と起きた思いも寄らない出来事の積み重ねに、思考が停止状態に陥っていた。

 これが犯罪者取り締まり中の殴り合いやら何やらなら、こうまで動揺していない。しびれたようになった頭の隅でそう思う。なんでこう、苦手分野ばかりが次々と。今日は厄日か?


「ユズカ」


 そう思っていると、柚香の手を離したクラウス・フォン・グリューネワルトが苦笑を浮かべた。


「そんな顔をして。驚いたのですか」

「は、え、あの、はい。クラウスさま。何かの冗談……」

「冗談でこんな事は言いませんよ。ユズカ。あなたの踊っている姿を見て、私は胸が痛くなりました。なぜだかわからなかった。けれどこうして、あなたと話をして。わかりました。あれは私の心臓があなたを見て強く打った為だったと……」


 優しく言う男はおそらく、若い女性なら誰しもぽーっとなるだろう顔だちをしていた。言った内容も、『まあ、ひょっとして?』とドキドキするだろう意味合いに満ちていた。普通の若い女性なら。

 しかし柚香には、そちら方面の知識や経験が皆無だった。長年銀狼を続けてきたせいか、元々そっちの感覚が乏しかったのか。彼女の乙女回路は錆び付きまくっている。なので、言われた言葉をその通りに受け取った。


(心臓に持病があるのか、この男?)


 大いなる誤解である。


「あの、クラウスさま」

「なんですか、ユズカ」

「お加減が良くないのでしたらどうぞ座って下さい。どなたかお呼びしましょうか」

「……」


 真剣に言われて、クラウスは黙った。通じていない。


「では、そうさせてもらいましょうか」

「はい、どうぞ」


 かまわずに微笑んで、クラウスはちゃっかり柚香の隣に腰かけた。それならそれで、つけこみようはある。

 一方、柚香ははたと気づいた。和樹の話のテロ。ここにこのままいては危ないのではないか。

 会場に戻らないと。

 そう思っていると、再び手を握られた。は、と顔を上げるとクラウスが自分を見つめている。


「何を考えているのですか、ネロリの姫君」


 ねろり?

 ああ。みかんの花。

 隆也の言葉と大差ない事を考えて、柚香はクラウスを見上げた。この男。こうまで自分の隙をついて近寄ってくるとは。何かの達人か?


「あのクラウスさま」

「なんでしょう、ユズカ」

「手を離していただけませんか」

「なぜです?」

「なぜって……」


 どうして握ったままなんだ。そう思いつつ、握られた自分の手をじっと見つめると、クラウスは微笑んだ。


「私は離したくありません」


 なぜに。

 くり返すが、柚香の乙女回路は錆び付いている。意味ありげな言葉を言われても、それらしい眼差しを向けられても、何の事だかさっぱり。という状態である。直球以外は通じない。


「お嫌ですか」

「そうですね」


 ばっさりと言われて、クラウスは黙った。こんな反応を返されたのは初めてだった。


「お嫌……なのですか」

「握られ続けていると、色々と邪魔です」


 邪魔。

 さすがにクラウスの頬が引きつった。


「そうですか……私は、あなたの手を握っていると、心が浮き立つ思いでしたが。不快な思いをさせてしまって、申し訳ありません」


 仕方なく手を離す。それでもそう言った。すると柚香はこれも、言葉通りに受け取った。


「不安なのですか?」

「はい?」


 目を上げると、柚香の目が自分を見ていた。クラウスは、どきりとした。

 まっすぐで迷いのない、不思議な眼差し。


「何か不安なのですか、クラウスさま」

「私が……ですか」


 何だろう。この少女は。クラウスは不思議に思った。どうしてここまで、人をまっすぐに見つめる事ができるのか。


「誰かの手を握るのは、不安な時だと聞いた事があります。私も昔、兄に。不安な時は手をつないでもらいました」

「兄上に……」


 クラウスはまばたいた。すると、柚香が手を伸ばしてきて、自分の手をそっと握った。


「もしあなたが何か不安なのなら。落ち着くまでこうしていましょう」


 柚香にしてみれば、あまり意味はなかった。元々中流家庭に育っていた柚香は、近所の子どもたちの面倒を良く見ていた。泣いている子どもの頭を撫でたり、手をつないだりするのは、日常茶飯事だった。

今は霧島の家にいるが、それでも柚香の中で、自分の位置づけはその当時とあまり変わらない。誰かが不安がっているのなら、なだめてやるのは自分の役目だとどこかで思っている。それがたとえ、年上の男性でも。


(心臓に持病のある人だしな……)


 誤解は続いている。

 一方、クラウスは呆気に取られていた。実の所、柚香に対してそれほど執着があったわけではない。可愛らしい娘だとは思ったが、それだけだった。ただ一人でいるのを見て、少し悪戯心が沸いた。ちょっとからかって、恥ずかしがって頬を染める姿が見たいと、単にそれだけの気持ちだったのだ。それなのに。

 眼差しに、魂が揺さぶられた。その言葉の偽りのなさに、心が震えた。与えられたぬくもりに、感動をおぼえた。


「あなたは……まっすぐな方ですね、ユズカ」

「え?」

「私はあなたに、恋人に立候補すると言ったのですが。その相手にこんなに優しくして良いのですか?」


 あ、そうだった。

 柚香はそこでやっと、先ほどのやりとりを思い出した。


「でもクラウスさまは、本気ではなかったでしょう」


 あの時のクラウスの様子を思い出し、そう言う。するとクラウスは瞠目した。


「私が本気ではなかった、と?」

「楽しい冗談を言っているように見えました。……好きになった相手への申し込みとは思えなかった」


 そうだ。混乱はしたが、すぐに収まった。それは、クラウスの言葉に真剣な様子が見られなかったから。だから柚香は平気だった。

 本気ではないと、すぐにわかったから。

 一方、クラウスは新たな目でこの少女を見つめていた。


「世馴れたご婦人のような物言いをなさる」

「そうですか?」

「とても幼く見えるのに」

「幼いのでしょう。何もわからないから、不作法もします」


 あっさりと言われ、さらにクラウスは混乱した。これは一体、どのような存在なのかと。

 恋の手管に慣れた女性のような会話。

 それなのに、……どうしてこうも清純で無垢な印象があるのか。 

 思っていると、手が離れた。そのぬくもりが去る事を、惜しい、と彼は思った。


「そろそろ、会場に戻りましょう」


 そうして柚香はそう言った。クラウスはまばたいた。


「え?」

「いつまでもここにいられませんから」


 柚香にしてみれば、テロが起きる前に早く会場に戻りたいという、それだけの思いだった。

 しかしクラウスはそれを、別の意味に受け取った。自分との会話を終了したいという、彼女の意思表示だと受け取ったのだ。


「私は……あなたを悩ませていますか」

「は?」


 柚香は目を見張った。突然相手が曇った表情になったので。


「ユズカ。無礼を許して下さい。私はあなたを侮辱するつもりはなかった。ただ……いえ。これも言い訳ですね」

「クラウスさま?」


 何の話だ、と柚香は思った。


「あなたと話がしたいのです。もうしばらくだけで構いません。いけませんか」


 テロが起こりそうなんですけど。

 そう言いそうになったが、柚香は耐えた。心臓の悪い人だ。何だかわからないが、急に落ち込んだみたいに見える。自分の言動が彼を傷つけたのかもしれない。良くわからないが、そうではないかと思える。きっと繊細な人なんだろう。妙に押しが強そうで、とてもそうは見えないが。繊細なんだ。


『柚香ちゃんは男心がわかんないからねえ』


 以前、間宮に言われた事を思い出す。確かにわからない。今、クラウスと話をしていてもさっぱりだ。

 彼女の乙女回路の錆び付きようは、年季が入っている。


「あの……では。少しだけなら」


 もうしばらくなら大丈夫だろう。そう思って承諾すると、目に見えてクラウスは喜びの表情を浮かべた。


「ありがとうございます」


 うれしげに笑いかけてくる。先ほどの微笑みと違い、心からの素直な笑みに見えた。何だかうれしかったみたいだな、と柚香は思った。

 具合の悪い人だし。

 両者の思惑は、見事なまでに噛み合っていなかった。




「テロ?」


 和樹から情報をもらった間宮は、すぐに霧島真人にそれを伝えた。


「霧島の特殊護衛班から、対テロ部隊を警備に回すそうです。後少しで配置が完了すると」

「そうか」

「市長にもこの件は伝えておいた方がよろしいのでは」

「そうだな。和樹の事だ。あらゆる可能性を考えてはいると思うが……心構えだけはしておいた方が良いだろうし」


 そこで真人は、会場を見回した。


「柚香さんはどうした?」

「ああ、先ほど市長の息子さんと踊って、それからテラスへ行きましたが」

「それは知っている。まだ会場に戻っていないのか?」

「ええ……おや」


 柚香と一緒にいるはずの隆也が、数名の女性や男性につかまっている。困った顔で何か言っているのだが、集まっている者たちは彼を離そうとはしない。


「高石の者と、音羽の……それとあれは、天宮ですか」

「ほう。もてているな」

「それどころではありませんよ、真人さま。彼があそこにいるという事は、柚香ちゃんは一人です」

「すぐにこちらに戻るよう言ってくれ。私は市長に話をしてくる」

「はい」


 間宮は表情を引き締めると、柚香がいるだろうテラスに向かって歩き出した。




「あの、すみませんが、もう……」


 隆也は困り果てていた。着飾った若い女性に呼び止められたかと思うと、いきなり数名の者に囲まれたのだ。そうしてずっと、わけのわからない話を聞かされている。妹が何歳だとか、従姉がどこの学校に通っているとか。

 先ほどのダンスで目立ったのは実は、柚香だけではなかった。今まであまりパーティーに顔を出さなかった隆也もまた、妙齢の女性たちの婿候補として目立ってしまったのだ。彼を取り囲んでいるのは、自分の家族や一族の娘を売り込もうと心に決めた人々だった。

 しかし隆也には、そんな事とはわからない。何とか逃げ出そうとするものの、人々はがっちり隆也を囲んでいる。普段なら、ふざけんなよテメエ! で終わるものの、今日のパーティーでは最後まで、『ちゃんとした態度で、ちゃんとした言葉づかいで』いる、と母親と約束している。もし約束を破ったなら、彼女は泣き出すだろう。それはちょっと勘弁して欲しかった。

 そういうわけで、慣れない言葉遣いでやんわりとあしらおうとしているのだが、『市長の息子とつながりを!』とばかりにぎらぎらしている彼らには通じない。というより、離れたいという彼の態度は綺麗さっぱり無視されている。


「まだよろしいでしょう」

「隆也さまは、今、高校生でいらしたわね」

「なんとも頼もしい限りだ」

「素敵な金髪だこと」


 にこにこしている男性も女性も、見かけは穏やかだ。しかし隆也にはどこか、牙をむいたハイエナに見えた。何だか怖い。すごく怖い。


(なんか喰われそう。すげえ喰われそう。柚香の側にいればヨカッタ……)


 そう思いつつ、何度目かになる脱出を試みた。しかしあっさりと阻止される。


「まだ良いではありませんか、隆也さん」

「いえ、あの」

「わたくしの妹の話をお聞き下さいな」

「いや、私の従姉の話を」


 誰かタスケテ。

 隆也は天を仰ぎたくなった。




 テラスは静かだった。柚香とクラウスは椅子に腰かけ、会場から聞こえてくるざわめきと音楽を聞いていた。

 会話のない事に柚香は少し、落ち着かない思いを抱いていた。クラウスに対して何か言えよ、という思いが湧く。けれど表情には出さないように気をつけた。何と言っても病人(柚香の中でクラウスはすっかり病人扱いになっていた)だ。怒鳴るわけにもゆくまい。自重だ、自重。とこのようて心境である。一方、クラウスの方は何も会話のない沈黙を、心落ち着くものとして捕らえていた。穏やかな静寂。この少女は、こんな所も好もしい、と。

 物凄く噛み合っていない。


「クラウスさまは」

「はい?」

「お幾つでしょうか」


 ついにしびれを切らした柚香が尋ねた。別にどうと言う事もない質問だった。先ほど年齢を尋ねられたので、自分も尋ねて良いかと思ったのだ。


「二十八です」


 クラウスは答えた。そこで少し、自信なさげな表情になった。


「あなたには、年上過ぎますか。三十近い男など。私はとても年寄りに思えるのではないですか」


 実際、彼は自分の年齢を口にして、自信を失っていた。二十八。自分は彼女より十二歳も年上だ。十六歳の少女からすると、とても恋愛の対象には思えないだろう。そう感じたのだ。


「え? いえ。あの」


 別に何かを意図するつもりはなかった柚香はまばたいた。そうか。この人、二十八歳なのか。

 霧人と同じ年齢だ、と思う。


「兄と同じ年齢です」


 クラウスはその返事に、何となくほっとするものを感じた。


「お兄さんと。そうですか。随分と歳が離れているのですね」

「ええ。私は……兄に育てられたようなものでしたから」


 ふと、カプセルの中の霧人を思い出す。表情を曇らせた柚香に気づき、クラウスは眉を上げた。


「どうなさいました? 憂いに満ちた顔をされて」

「あ、いえ」


 ゆるく首を振ると、柚香はなんでもありません、と答えた。


「そうは思えませんよ。ユズカ」

「いえ、……あの」

「あなたは私の為に、手を握ってくれました。不安なのかと言われて」


 微笑んで、クラウスは言った。


「とても、感動しました」

「え?」

「だから、あなたに何か悲しみがあるのなら。手を差し伸べたいと思います。何かあるなら話して下さい。ただ話すだけでも、心が軽くなるものですよ? よろしければ、ですが」


 クラウスの申し出に、柚香はまばたいた。義理堅い人だなあと思う。

 兄と同じ年齢だと言う彼に、そうしてほんの少し、心が揺らぐのを感じた。


(霧人……)


 どうしようかと思い、当たり障りのない事だけ話そうと思う。この人は、親切で言ってくれているのだと。


「クラウスさまは、私の事を何かご存じですか」

「可愛らしいワルツを踊る方」


 微笑んでクラウスが言い、柚香は目を丸くした。


「それから、優しい方です。気分が悪い人には手を差し伸べてくれる」

「それは……当たり前の事です」

「とても純粋で、素敵な女性」

「褒め過ぎです」

「私にはそうです。ユズカ。ネロリの姫君。いえ、妖精でしょうか? 私が知っている貴女は、これで全てです」


 それってどんなの。

 柚香の脳裏にはなぜか、スライムと戯れている自分の姿が浮かんでいた。ネロリ、の音から連想してしまったのだ。クラウスは『オレンジの花の妖精』と言いたかったのだが、言った相手が相手だった為、彼の意図は悲しいまでに伝わらなかった。


「あの……そうですか。ええと」


 スライムの妖精。一瞬、なんだそりゃ、と自分で自分にツッコミを入れそうになった。柚香は目を泳がせてから言葉を続けた。


「私には両親がおりません。早くに亡くなりましたので。兄が、私を育ててくれました。私は兄が……とても好きだった」


 クラウスは何も言わず、柚香の言葉を聞いている。彼女は続けた。


「その兄も……五年前に倒れて。覚えておいででしょうか。五年前の『メイヴ』の事件を」

「ああ、」


 クラウスは小さく息をつくように言った。柚香は続けた。


「兄はあの時、『メイヴ』の犠牲になりました。今も意識が戻りません。途方に暮れた私を助けて下さったのは霧島の家の方々で。今はそちらにお世話になっています。……真人さまには本当に、感謝しています」


 妹が欲しかった、の一言でパーティーに連れて来ようと画策するが。それは別にして、確かに柚香は彼に感謝している。


「ただ、時折、」


 柚香は言葉を止めた。唇を噛む。何か込み上げてくるものを感じて、目を閉じる。駄目だ。


「ユズカ?」


 駄目だ。泣いたら。涙を流すなんて。絶対に駄目だ。そんな事をしたら。


「時折……、」


 声が上擦うわずる。無理に目を見開いて、柚香は涙をこらえた。泣くものか。

 泣いたら。霧人がもう戻らないと認めた事になってしまう。

 だから。泣かない。絶対に。

 私は諦めたりしないのだから。

 ぎゅ、と手を握りしめると柚香は、息をついた。クラウスの方を見る。クラウスは少し、心配そうな顔をしていた。微笑んでみせる。たぶん笑えたと思う。すると、クラウスはなぜか息を呑んだ。


「すみません、クラウスさま。あなたが兄と同じ歳だと聞いて、……少し。心が乱れました」

「ユズカ」

「声が聞きたいと思うのです。時折。兄と話がしたい。兄の声が聞きたいと。そう思ってしまう。わけもなく。それだけです。ただ、それだけの事なのです」


 そう言うと、微笑んだ。クラウスは黙って柚香を見つめていたが、ふうと息をついた。


「貴女が泣いたら、私の胸を貸そうと思っていたのに」


 彼は腕を広げた。おどけたように笑みを浮かべる。


「この手をどうしたら良いのでしょうね。強くて美しい姫君」

「え……あの」

「泣いても良いのですよ」


 穏やかに言われ、柚香はまばたいた。けれどきっぱりと答えた。


「泣きません。兄は生きている」


 静かに、力強く。


「だから私は絶望したりしない。彼は生きている。だから泣かない。泣く理由がない」


 ふ、と息をつく。


「最も、医療費を稼ぐ必要がないから、こう言えるのかもしれませんが。私は幸運でした」

「幸運……ですか」

「ええ。食べるのにも、住む所にも不自由していない。着るものもある。兄の医療費の負担も、さほど気にする必要もない。……幸運でした。どれか一つでも欠けたら私は、どのように生きてゆけば良いのか途方に暮れ、絶望していたでしょう。兄が生き延びた事を恨んだかもしれません」


 クラウスは真面目な顔で柚香を見た。柚香はクラウスを見つめ返した。


「働いて、働いて、そのお金を兄の治療につぎこんで。そうして暮らしていたでしょう。明日を夢見る事もできず、ただ働き続けて。そんな日々を送っていたでしょうね。当時の私は十一歳だった。そんな子どもに何ができたかわかりませんが……」


 柚香は微笑んだ。


「手を差し伸べてくれた人がいた。今も守ってくれている人がいる。……私は幸運です」

「本当に、強い方だ」


 静かにクラウスが言った。その瞳の奥に、熱のようなものがあるのに柚香は気づいた。


「兄上の名前を尋ねてもよろしいか?」

「霧人です。城島霧人」

「キリヒト……」


 彼がそうつぶやいた所に、間宮がやって来た。


「柚香ちゃ……あ、ええと?」


 クラウスに気づいて混乱したように立ち止まる。


「間宮さん」


 柚香は立ち上がった。間宮は通常の言葉遣いを取り繕った。


「柚香さん。そろそろ中に入りなさい。風が冷たくなってきましたよ」


 そう言ってからクラウスに目を向ける。


「失礼ですが、どなたでしょうか」

「クラウス・フォン・グリューネワルト。彼女と会話を楽しんでいました」


 クラウスは優雅に立ち上がると、間宮に微笑みかけた。間宮の顔が一瞬、赤くなり、次いでさっと青ざめた。


「グリューネワルト……と言われると。シルヴァングループの?」

「ええ。こちらへは商談で」


 霧島コーポレーションと技術提携をする予定の企業名に、間宮は軽く頭を下げた。


「失礼しました。私は彼女の友人で、間宮浩一と言います。霧島で働いてる者です」

「よろしく」

「ええ」


 二人の男は軽く握手を交わした。


「柚香さん。真人さんが心配なさっているよ。中に入ろう」

「ええ……クラウスさま。ご気分は?」


 クラウスは苦笑した。


「もう良くなりましたよ」

「では、中に。ご一緒しましょう」


 微笑みかけると、そうですね、と返事があった。

 柚香にしてみれば、テロの可能性のあるこの場所で、無防備なテラスに人を残して起きたくなかったのだが、クラウスの方では、柚香が気づかってくれた事で、少しは好意をもってもらえたのかと、うれしさを感じていた。

 一方、間宮は慌てていた。


(ええー? グリューネワルトって、そうよね? シルヴァングループの総帥一族よね? その名前を名乗っているって事は、トップか、トップに近いとこにいる人よね? それがどうして柚香ちゃんと仲良しになってるのっ?)


 しかもクラウスの態度はどう見ても、柚香に気がある。


(柚香ちゃんは相変わらずだから全然気づいてないみたいだけど)


 エスコートしましょう、と腕を差し出すクラウスに、とまどいながら手をかけている。ぱっと顔を明るくした彼ににこり、と微笑みかけているが、どう見ても柚香の笑みは礼儀上のものだ。


(会話を楽しんだって……どんな会話だったの〜!?)


 もし柚香を口説こうとしたなら、相当に頓珍漢とんちんかんな会話になっていたはずだ。それが楽しかったのなら、それはそれで良いのだが。

 うーん、とうなりつつ間宮は、二人の後について広間に戻った。




 広間に戻った三人は、好奇の視線を浴びた。正確には、柚香とクラウスが。


「あら……まあ」

「まあ。孝子さまが今度は……」


 柚香に好意的な婦人や女性たちが、わくわくした風に目を輝かせる。


「あの方、どなた?」

「謎めいた男性とのロマンスね」

「それってあれでしょう? 『神秘の湖の誘惑』……」

「ああ、そうですわ。謎の男性に導かれる、泉美いずみさまの物語ね!」


 今度は別のホロ・ノベルズの話になっている。


「あの物語では、謎めいたギリアムさまが、泉美さまを神秘の王国に連れ去るのよ」

「そう、荒々しく! どきどきして読んだものでしたわ」

「でも、先ほどのクリストファーさまも、捨てがたくありません?」

「だとすると……三角関係!」

「まあ、『悲しみの薔薇』ね!」

「そのものですわね。では、柚香さまは薔子しょうこさま」

「クリストファーさまとギリアムさまに求められる薔子しょうこさま……ああ、なんて素敵」


 そんな話になっているとは、柚香は全く気づいていない。

 そこには柚香のクラスメートたちもいた。


「まあ、柚香さまったら。金髪の殿方にダンスに誘われたと思ったら」

「みどりさま。わたくしたちの努力の甲斐がありましたわね」

「そうですわね、麗子さま。あの方、きっと学院の伝説になりましてよ」

「ええ、今夜の事は長く伝えなくては! 二人の殿方に思われた柚香さま! どなたか物語を書いたりなさいません?」

「よろしくてよ、麗子さま。わたくし、書かせていただきますわ」

「まあ、ステキ。お願いしますわ、撫子さま!」


 おっとりと盛り上がっていた。平和である。

 そして隆也は。


「あ、あの、父の、父の所に行きますのでっ」


 取り囲む人々から、まだ逃げ出せないでいた。




 少し歩いた所で、クラウスを呼びに来た女性がいた。美しい女性だった。クラウスは柚香に詫びてから、その女性の方に向かった。


「またお会いできる事を望んでいます。ユズカ」


 微笑みと共にそう言って。

 柚香は間宮と共に、霧人の所へ行った。側に美奈子がいて、うれしげに目を輝かせている。


「柚香さんったら。なんて、なんてステキなの! 二人の殿方に想われるなんてっ!」


 はあ?

 唖然とした顔になった柚香にかまわず、美奈子は言った。


「謎めいた霧の王国のギリアムさまに、誠実な心の持ち主のクリストファーさま。あなたがどちらを選ぶのか、みなさま、楽しみにしていますのよ? ねえ、柚香さんはどうでしたの? ギリアムさまとクリストファーさま、どちらに心魅かれました?」


 そのギリアムとかクリストファーって一体、だれ。

 柚香がそう思ったとしても、無理はなかった。



*  *  *



 クラウスは、会場の隅に行くと、上品な装いの美女と笑顔で会話を交わした。彼女はクラウスのパートナー。パーティーに出席する為に連れてきた女性である。


「あんな幼い方の相手をされるなんて。どういう心境の変化ですの?」


 女性の洗練された美しさを目で堪能たんのうしながら、クラウスは微笑んだ。


「幼くはありますが、……見事な方でした」

「見事?」

「鮮やかな……そう、鮮やかな方です。芯が強く、それでいて心優しい。どう表現すれば良いのでしょうね。何と言っても彼女を表現しきれない。見事。ただその一言に尽きます。あんな方がこの世にいるなんて……」


 女性は真面目な顔になった。


「そんな顔をしたクラウスさまを見たのは初めてですわ」

「そうですか?」

「いつもどこか、皮肉なお顔をしていらしたのに。今のクラウスさまはまるで……」

「なんです?」


 とまどったような顔をしてから、彼女は続けた。


「初めての恋を知った、少年のようです」


 クラウスは微笑んだ。


「そうですか。……そうかもしれません。彼女と語らっていると私は、何も知らず、無垢でいた時代の私に戻れる……」


 一瞬、目を閉じる。しかし次にまぶたを上げた時、そこには一筋縄では行かない、傲慢でしたたかな男の顔があった。


「マレーネ。それで?」

「全て準備は整いました」

「では、始めよう」


 二人は微笑みあった。クラウスは続けた。


「あと、頼みがあります」

「何でしょう」

「あの方。城島柚香と言う、彼女の事を調べて下さい」


 マレーネと呼ばれた女性は、呆れた顔になった。


「クラウスさま。こんな時にそのような。もう少し真剣になって下さいませんか」

「別に、ふざけている訳ではありませんよ」


 ふふ、と笑ってクラウスは答えた。


「彼女の兄は、五年前に『メイヴ』にやられて、今も昏睡状態らしい。名前はキリヒト。城島霧人」


 マレーネの表情が硬くなった。


「キリヒト……」

「どこかで聞いた名前ですよね」

「わかりました。すぐに手配して調べます。クラウスさまは」

「私はこの会場にいますよ」


 マレーネはうなずいた。


「では」

「ええ」


 立ち去る女性を見送ってから、クラウスは柚香に目をやった。後見人である霧島真人とその妻、美奈子にはさまれている。

 ふんわりとしたピンクのドレス。散りばめられた金粉とパール。頭に飾ったピンクの花。

 清楚な装いの彼女は、こうして見ると幼く見える。

 けれど。


「本当に、鮮やかな女性だ」


 微笑んでクラウスは小さく言った。シャンパンのグラスを手に取り、軽く掲げて柚香に敬意を示す。


「貴女を、手に入れたくなりました」


 輝きが、泡に反射してきらめいた。

食用のオレンジはスイート・オレンジと総称されます。ビター・オレンジは苦みの強いオレンジ(ダイダイや、ベルガモットなど)の総称で、そのままでは食用に向かず、果皮を加工して風味づけに使用したり、果皮、枝や葉、花から精油を採るのに栽培されています。

果皮から採られる精油はベルガモット、紅茶のアールグレイにつけられる香りです。枝や葉から採られるのがプチグレン。柑橘系の香りではありますが、少し青っぽい。


花から採られる精油をネロリと呼ぶ由来は、17世紀イタリア、ブラッチャーノ公妃マリー・アンヌ・ド・ラ・トレモワイユの古事から。ネロラ地方の城に住んでいたので、ネロラの公妃と呼ばれていた彼女は、真面目だが領地の運営は今一つの夫を支えるため、ビター・オレンジの花の香りを皮の手袋にしみこませ、これを社交界で流行させ、地元の産業を発展させた。ネロラ公妃の香り、という事で、ビター・オレンジの花の香りは以来、ネロリと呼ばれるようになった。……大体こんな所だったと思う。


オレンジの香りは子どもの頃の思い出などをイメージしやすく、どこか子どもっぽい印象がありますが、ネロリの香りは、大人の女性の落ち着きや色香もまとっています。


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