2.お嬢さまはビター・オレンジ 1
《ネオ・アンゲルス・シティ中央庁、情報統括部、管理官執務室》
「では、サイバーテロ攻撃ではなかったと?」
『違うよ。ただの小物の悪あがき。……ちょっと珍しいもの手に入れたから、使ってみようかって所だったんじゃないかな』
シティの管理官を勤める霧島真人は、ふむ、と言った。
「断言できるのかい、和樹」
『できるよ。真人兄さん。ジェネシスの参謀君が、有能でね。随分とぼくの手間を、はぶいてくれた』
その場にいるのは、真人だけだ。機能的な室内。そうしてデスクの上にあるモニター画面には少年の顔が映っている。
ハイパーAI、『藍王』。
都市の制御を行うこのAIは、『霧島和樹』の人格を持ってもいる。
「聞いている。藤城 匠。学年をいくつかスキップして、十二歳で高校生になった人物だろう。今は十三か? 随分と優秀な人物らしいな。うちにスカウトできないかな?」
『駄目、じゃないかな。ジェネシスの、ヘッド。吸引力、あるやつでね。あれが頭のうちは、……誰も引き抜けないよ』
言葉が途中で時折途切れるのは、現在も都市の制御を行い、情報の管理・統括の仕事をしながらだからだ。
「それほど魅力のある男なのか?」
『どうかな。ぼくは、どうとも思わないけど。でも、柚香ちゃんは……』
「柚香さんが?」
真人は眉を上げた。
『気にしてるみたい』
「ほう。彼女がね……」
真人は何か考え込むような顔になった。
「ジェネシスのヘッドと言えば……市長の息子さんじゃなかったかな」
『そう』
ネオ・アンゲルス・シティ市長、南宗一。隆也の父親である。
「恵まれた環境にいながら、なんでまた不良グループなんかに入るのかね」
『ジェネシスは、不良とはちがうよ? 今回も学生に、麻薬、売った組織にケンカ売った、だけだし』
「素人が首を突っ込むとろくな事がない」
『でも。警察より、ガーディアンズより、早かった。被害にあった学生も。ジェネシスが保護してた。警察待ってたら。その子、死んでたよ?』
真人は眉をしかめた。
「それでもだ。そういう事は警察に任せて、学生は学生らしく勉強していれば良いんだ」
『じゃあ、処罰する? 今回の。ジェネシスの動き』
笑いを含んだ声で和樹が尋ねる。
『許可なく人の命を、助けて。悪辣なウィルスの流出を止めた罪で処罰するって。すごいね。街中の人が、素晴らしいって言うよ?』
真人の、眉間の皺が深くなった。
「おまえはどっちの味方なんだ、和樹。私か? 不良どもか?」
『どっちでもないよ』
モニター画面の少年は、ふふっと笑った。
『ぼくは『藍王』だもの。どっちにも味方しない。ネオ・アンゲルスとそこに住む人々に良いと思われる方を選ぶ。公平にね』
「薄情なやつめ」
『身内に自分の仕事を甘く見ろと言う管理官は、どうなの?』
「それでも、おまえは私の弟だぞ」
ふふ、とモニター画面に映る少年は笑った。
『ぼくは、弟?』
「当たり前だ」
『……ありがとう、真人兄さん。何かあったらまた連絡するよ』
「ああ」
『じゃあね』
少年の姿が、モニター画面から消える。
残された真人は、ふむ、とつぶやいた。
「柚香さんと、南市長の息子ね」
そのまま彼は、何か考え込んでいた。
《私立グレイス女学院》
ゆったりと、午後のお茶をしているクラスメートたち。その間で柚香は、目だたないよう身を縮めた。
「ですからね。今夜のパーティーでは……ねえ、柚香さま?」
たおやかに微笑みかけてくる同級生に、悪意はない。ないのだが。
「柚香さまはどのような衣装を作られたのかしら」
「みどりさま……いえ。私は」
口ごもる。冷や汗が流れた。周囲では華やかに、クラスメートが話し合っている。
「千歳さま。わたくしは、振り袖を着ますの。ピンクの地に花車をあしらって」
「まあ、素敵。さやかさまにはきっと、良くお似合いよ」
「麗子さまは、いかがなさるの?」
「わたくしは、お父さまに赤いドレスを作っていただいたの。それに大きめのアクセサリーをつけるつもり」
「どんなデザインなのかしら」
「すっきりとしたデザインですわ。フリルはわたくしには似合いませんもの」
「きっと大人びて素敵ですわ」
良家の子女が集う、グレイス女学院。名門のそこにいるのは、お嬢さまたちばかりだ。交わす挨拶はご機嫌よう。物腰はあくまで優雅。一般教養としての礼儀作法の他、お茶やお花の授業まである。
「さやかさまのお兄さま、今度大学を卒業なさるのでしょう」
「ええ、父の手伝いをする事になっていますの」
「優秀な方とお伺いしていますわ。パーティーではお会いできますでしょうか」
「あら、みどりさま。何か期待していらして?」
「ふふふ。わたくしではありませんわ。従姉が会いたがっていますの。ここだけの話ですけれど、縁談が持ち上がっておりますのよ」
「兄さまったら。わたくしには何もおっしゃらなかったわ」
「わたくしもついこの間、従姉から聞きましたの。まだ正式のものではないようですから……」
「まあ、それでは、さやかさまとみどりさま、ご親戚になられるかもしれませんの?」
「そのような話が出ているというだけですわ。みなさま、お気が早いですわよ」
ついて行けない。
トレイから小さなサンドウィッチを取って、柚香はぱくりと食べた。クッキーやサンドウィッチはおいしい。スコーンも。お茶も、最高級の茶葉を使っているのだろう。実においしい。
でも食べている気がしない。この会話とこの雰囲気。何だか胃が痛くなってくる。
振り袖もドレスもどうでも良い。そんなものを身につける暇があったら、鍛練がしたい。正拳突きや蹴りを練習したい。どうして自分をこんな学校に入れたりしたんだ、真人さん。似合わないにも程がある! この学校に入学して以来、何度となく思った言葉を柚香は、脳裏に浮かぶ後見人の顔に訴えた。
「柚香さまは、大人しいのね」
そんな声がして、少女が一人、こちらをのぞき込んでくる。いつも何かと声をかけてきてくれる、羽島みどり。ふんわりした印象の、可愛らしい少女だ。
「いつもお一人でいらして。ねえ。他の方とも少し、お話をした方がよろしくてよ?」
「い、いえ。私は」
話しかけてくる、その目には純粋な好意がある。こちらを心配しているのだ。
「柚香さまも、今夜のパーティーにはいらっしゃるの?」
今夜はネオ・アンゲルス・シティの式典の日だった、と柚香は思い出す。都市成立百周年記念、だったっけ?
「いえ。私は。そういう席は苦手で」
そう言うと、不思議そうな顔をされた。
「でも、柚香さまの後見人は、霧島真人さまでしょう? シティ管理官の。わたくし、てっきり、柚香さまもいらっしゃるものと」
「まあ、そうでしたの?」
これを聞いたクラスメートが、笑顔になって近づいてくる。花門院撫子。上品な才女という印象の少女だ。
「霧島管理官にはこの間、お会いしましたわ。父と行ったパーティーで。落ち着いた素敵な方ね。わたくし、ドキドキしてしまいましたの」
「そ、そうですか、撫子さま」
「確か、結婚なさったばかりですわよね。あの方がご家族なの?」
「あら、柚香さまは霧島のご一族でしたの? わたくし、存じませんでしたわ……」
不思議そうに言う別のクラスメートに、慌てる。
「いえ。私は霧島とは、何の関係もありません」
少女たちは顔を見合わせた。
「まあ。ではどうして」
「私の……兄が。真人さまと知り合いで。その関係で、こちらの学校に入学する際、後見人について下さったのです。その、保護者として。それだけですから」
「お兄さま?」
「あら、でも……」
困った顔で答えた柚香に、みどりたちが不思議そうな顔になった。
「ご両親やお兄さまは、どうして保護者では……」
そう言いかけたみどりを、麗子が素早くさえぎる。
「みどりさま」
「麗子さま? だって」
「それぞれに事情がおありでしょう。ご家庭の事を追求なさるのは、はしたなくてよ」
厳しく言われ、はっとした顔になる。
「……ごめんなさい」
このグレイス女学院には、名門の子女が集う。教養を身につけ、申し分のない花嫁となる為に。中には正式な婚姻によらない、妾腹の娘たちもいる。
それ故に、家庭の事を追求する事は、はしたないとされている。
「あ、……いえ。あの。別に隠す事ではありませんから」
しゅん、とした顔になったみどりに、小犬を蹴飛ばしたような罪悪感を抱いて、柚香は慌てて言った。
「私の両親は早くに亡くなって。兄が私を育ててくれました。その兄と真人さまは友人で。兄が事故で倒れた時に、真人さまは兄に、私の面倒を見ると約束して下さったのです。それで、その、真人さまはこの学院を選んで下さって」
「まあ」
「ごめんなさい、そんな事情が」
クラスメートが、すまなそうな顔をする。
「いいえ。吹聴することでもありませんし。ですから私、パーティーになんて、とても」
そう言って、柚香は眼鏡をかけなおした。片手で地味な三つ編みに触れる。目立たない為のアイテム。このお嬢さまの集団の中で、心の平安を得るための道具である。
私は目立たない。私はその辺の石。お願いだから放っておいて。
心優しいお嬢さまがたに、そう訴える為の。
しかし……なぜか、それがうまくいった試しがない。今もそうだ。
「柚香さま……なんて奥ゆかしい」
「でもいけませんわ。自信をお持ちなさいな」
「そうですわ。あなたはわたくしたちの、クラスメートでもありますのよ。堂々と胸をお張り下さいませ」
「そうして、素敵な出会いを!」
「そうですわ! 素敵な殿方との出会いがきっとありますわ!」
クラスメートたちはなぜか、口々に言い始めた。
「柚香さま、御顔立ちが良いのですもの。ちゃんとなさったら、綺麗になられますわ!」
「そうですわ。姿勢もよろしいですし。凛としていると言うのかしら。ダンスの授業の時、わたくし柚香さまに目が釘付けでしたのよ?」
「ええ、生き生きとなさって。素敵でした」
「髪形を変えられたらよろしくてよ」
「その眼鏡、コンタクトになさいませんの?」
ひー。
「いいい、いえ。私は今の姿がっ。これでっ」
「いけませんわ、柚香さま!」
「美しく装うのも、女性の勤めですわよ!」
迫ってくるお嬢さまの集団は、何よりも恐ろしい。悪意を持たない分、どうあしらえば良いのかわからない。うっかり触ったらどこか壊しそうだ。
「皆さま、柚香さまに磨きをかけて差し上げましょう! 柚香さまには良い出会いをなさらないと!」
「そうですわね!」
「わたくし、化粧を担当いたします」
「ではわたくしは髪形を」
「どなたか、美容術の先生を呼んでいらして」
「衣装はどういたしましょう」
「うちのお抱えのものがおりますわ。すぐ呼び出しましょう」
犯罪者の集団と殴りあっている方が、まだ気が楽だ。
助けを求めて周囲を見回すが、全員が目をキラキラさせている。人形遊びか。人形遊びですか。そこまで自分をいじりたいんですかっ。
そこでクラスの女王さま的存在、綾瀬麗子に目が止まる。
「観念なさるのね、柚香さま。わたくしたちずっと、狙っていましたのよ?」
にっこりして言われた。確信犯か!
「私は目だちたくないんですっ!」
「まあ、綺麗な肌」
「爪はどういたしましょう」
「桜色でよろしいのじゃ?」
「うふふ。楽しい」
クラスメートは連携を取り、柚香を着飾らせる相談を始めた。
「いやだから! 私は!」
「綾瀬さま。連絡がつきましたわ」
「うふふ。皆さま。柚香さまのデビューですもの。プレゼントと言うことでよろしい?」
「そうですわね。お小遣いを出し合えば、一式そろいますわ!」
「あらいけない。最初はまず、肌のお手入れをしなくては」
問答無用で引きずり回され、恐ろしい目に合わされた。
「城島さん。どうしてこうも肌の手入れがなっていないんです」
教師までやってきた。
「ぎゃー!」
「眼鏡は没収します!」
「ひー!」
「ああ、許しがたい! この手抜き! 毛先がこんなに荒れて。むだ毛の処理も不完全。授業で何を聞いていたんですか、貴女は!」
「いえだって、私はパーティーとか出ませんしっ」
「言い訳は無用っ! これは最低限の女性としての嗜みですっ!」
「うぎゃあ〜っ!」
「さて、それじゃパックしますよ」
「せせせ、先生っ! どうして先生までそんなに燃えてるんですか〜っ!」
一時間後。
クラスメートと教師は、自分たちの成果に手を取り合い、涙を浮かべていた。
「先生……っ、わたくしたちやりましたわ」
「見事です、みなさん!」
「柚香さま! お綺麗ですわ!」
「……」
うつろな眼差しで柚香は座っていた。顔がべたべたする。あちこちがひりひりしたり、すーすーする。足が痛い。香水らしきものを振りかけられて、鼻がバカになっている。なにがどうなっているんだか、もうワカラナイ。
「あ、ありがとう、ございます、みなさま……」
それでもかろうじて残っていた気力を振り絞り、礼を述べた。自分が不作法をすれば、霧島の家に迷惑がかかるのだ。
ちょっと涙目になってしまったが。
「柚香さま! その姿でぜひ、パーティーにいらして!」
「きっと柚香さまに目を止める殿方がおられてよ!」
「ロマンスの香りがするわ……」
「素敵。柚香さまもきっとマリカのように、孝則さまと出会えるわ!」
「きゃー、『宿命の嵐』!」
お願いヤメテ。
お嬢さまの間では最近、『宿命の嵐』というホロ・ノベルズが流行している。家族を失った哀れな娘マリカと、名門の貴公子孝則のロマンスだ。どうもそれと混同しているらしい。柚香もクラスメートから回ってきたそれを読んだ。感想は、マリカはいつでもジメジメ、うじうじしているし、孝則は優柔不断で、貴様らしゃっきりせんかー! と怒鳴りたくなるというものだった。
「そして柚香さまはハッピーエンドに! 皆さま、これは学院の伝説になりますわ!」
「素敵!」
「夢のよう」
「がんばって下さいませ、柚香さま!」
「城島さん!」
なぜ、教師まで一緒になって、拳を振り上げているのだろう。
「ホント、可愛くできた。真人さまに頼まれた甲斐がありました」
麗子がにっこりして言った。なに?
「真人さまがね。柚香さまを着飾らせて欲しいって、わたくしに。今夜のパーティーにはぜひつれて行きたいからって。柚香さまはいつも遠慮してしまわれるから、どうしてもって」
「……」
霧島真人……衣食住タカッている自覚はあるから大人しくしてたけど。
殴って良いか。殴って良いな。男だし大丈夫だよな。そうだよな!?
一瞬、目つきを鋭くした柚香に麗子は、あら、とつぶやいた。
「初々しさより、個性的な感じに仕上げた方が良かったかしら?」
「麗子さま……」
「とにかく、その衣装と小物一式は、わたくしたちクラスメートからのプレゼント。そのままでいらしてね。来なかったりしたら承知しませんわよ」
怖い。なんか怖い。行かないなんて言ったら、イジメ抜かれそうだ。
麗子の有無を言わせない笑顔に思わず、柚香はこくこくうなずいていた。
《ネオ・アンゲロス・シティ百周年記念パーティー会場》
「ウザイ」
むっつりとした顔で、隆也はタイを引っ張った。金髪は綺麗になでつけられ、ぴしりとしたスーツを着込んでいる。そうしていると様になっているのだが、仏頂面が全てを台無しにしていた。
「隆也ちゃん。今日は大事な日なんだから。大人しくしていてね」
母、ダイアナが言う。美しい金髪を結い上げた彼女は、大きな息子が二人もいるとは思えないほど若々しい。
「なんだ、隆也。また文句を言っているのか」
兄、礼一が近づいてきた。すっきりとした細面は、女性にもてる。市長である父親を手伝って、今は秘書をしている。
「もう少し愛想を良くしてみろ。おまえを見ているご令嬢も多いんだぞ」
「あんなヒラヒラしたわけわからん連中、近づくのもイヤだ」
ジェネシスの仲間と路地裏を歩き回ったり、ネットでうろついている方が、どれだけ気が楽か。
「何でもないって言っているのに、長いこと病院に入れられたし」
「だって、隆也ちゃん。ママは心配だったのよ。何だか怖いウィルスだって言うし」
ダイアナがうるんだ目になった。礼一がそれをなだめる。
「お母さん。隆也は無事だったんだから。ね?」
「そうね。ママ、知らせを聞いた時には本当に、心臓がどうにかなるかとおもったわ」
「だからって、毎日病室に来ることねえだろ……」
隆也はぼやいた。永遠のお嬢さまという感じのこの母親は、愛情深い。それはありがたいのだが、他の病人もいる病室に、
『隆也ちゃん! 私の坊や! ママが来たわよ、もう大丈夫よ!』
と叫びながら入って来たのには、辟易した。
それからも退院するまで毎日、見舞いに来る。寂しくない? とか子守歌を歌いましょうか? とか、にこにこしながら言い出す。断ると、隆也ちゃんはママがキライなの? と言って涙ぐむので、断るに断れない。おかげで隆也は入院している間中、羞恥プレイか! という思いを味合わった。早く退院させてくれと医師に泣きついて、やっとの思いで退院したのだ。
ちなみにその場にいた高橋たちは、事情を察して自分たちから秘密厳守を申し出てくれた。ありがたかった。この母親の言動が仲間に漏れたら、二度とジェネシスに顔を出せない。恥ずかしすぎて。
母親はそんな息子の思いも知らないで、のんきに長男と話している。
「ねえ、礼一。そろそろ良いお嬢さんを見つけたら?」
「今は仕事が忙しくて、考える暇もありませんよ、お母さん。入ったばかりの若輩者ですからね」
「そう? でも婚約だけでも」
「相手は自分で見つけたいんです。ぼくにもそういう思いがあっても良いでしょう?」
実にうまくかわす。俺だったらお袋を泣かせるばかりだな、と思いつつ、隆也はぼんやりと会場を見回した。
シティのお偉方や、その家族が一堂に会している。きらめく光がシャンパンのグラスに反射する。笑い声と意味のない会話。おや久しぶり。最近はどうです? あらあら可愛らしいお嬢さまだこと。立派になったものだね。お父さんも安心だ。そちらはどうです。今度留学が決まりまして。いやいやうちはなかなか。優秀な成績だと聞いているよ。まあ、なんて愛らしい。うらやましいことですな。同じような会話。同じ言葉の繰り返し。
息が詰まる。生きている感じがしない。
ふと、視線が一人の少女に止まった。花びらを重ねたような、初々しいピンクのドレス。金粉とパールを散らして、華やかさと清楚さを出している。高いヒールに慣れないのか、歩き方がぎこちない。耳には真珠、黒い髪にドレスと共布の花をさして、居心地悪そうな顔をしている。
どこかで見た。
「あら? 隆也ちゃん。どなたを見ているの?」
ダイアナが気づいて、視線の先をたどる。首をかしげた。
「あまり見かけない方ね。どなたかしら」
「横にいるのは、霧島管理官の所の人ですね」
礼一もそちらを見、ちょっと考える顔になった。
「管理官は確か、……若い娘さんの後見人をしていませんでしたか」
「ああ、そうよ。そうだったわ。ご両親をなくされた可哀相な方。頼みにしていたお兄さまも、倒れてしまわれたんですって」
隆也は母親を見た。母親は続けた。
「名前までは思い出せないけれど。お兄さまが真人さまのご友人で、見捨てておけなかったらしくて。後見人になられたのよ。そうよ、そうだったわ」
聞いた覚えのある話。
「……ユズカ?」
「ええ、そんな名前だったわ……あら。隆也ちゃん、知り合いなの?」
「そうじゃねえけど」
隆也は少女をもう一度見た。病院で会った時とは印象がまるで違う。
あの時は。思わず臨戦体勢になりそうな気がした。それほど強い眼差しをしていたのに。
今は借りてきた猫のようだ。
「別人か? ……うーん。女は化粧でバケるしな」
ぶつぶつ言っていると、母親が微笑ましいという顔をした。
「ご挨拶してきたら?」
「え? いや。だから知り合いじゃねえって。一度会っただけ、……だと思う」
「一度出会って、それで忘れられない相手なの?」
「はあ? なんだよそれ。すれ違っただけだって」
「まあ。すれ違っただけで、それでも忘れられないのね」
母親の頭では、妙な展開にされているようだ。
「素敵。静香と修一郎のよう。いいえ、この展開はマリカと孝則……!」
なにソレ。
思わず胡乱な眼差しで見つめてしまう。すると礼一が、ホロ・ノベルズ、と小さくささやいた。
「ああ。あの、花がどーたら愛がこーたら言うわけわからん……あ、いや。あのさ。病院で会ったんだよ。たぶんそうだと思うんだけど」
「病院?」
「俺がウィルスにやられた時だよ。兄貴が入院してるんだろ、あいつ。それですれ違ったの。単にそれだけ」
言い切ると、ダイアナはふうん、とつぶやいた。
「孝子とクリストファーね……」
「は? タカコ?」
誰ソレ。
「病院での出会いから始まる、素敵なお話。クリストファーは孝子の姉の為に、全てを投げ打って治療法を探すの」
夢見る瞳でダイアナは言った。
「いやあいつ、タカコなんて名前じゃないし……お袋?」
「でも悲恋なの。二人は結ばれないのよ。お互いの身分が違うと引き裂かれて。最後、死の床でようやく、お互いの名を呼び合って天国に召されるのよ……」
感極まったように、涙を目に浮かべる。
「基本的にわたくし、ハッピーエンドが好みなのだけれど。『愛は永遠の翼に乗って』は百年先にまで残る名作だと思うわ!」
えーと。
隆也は礼一と、疲れた目線を交わしあった。誰か、母親をこっちの世界に引き戻してくれ。
「柚香ちゃん、もう少しにっこりしてみてよ。せっかく可愛いんだから」
間宮がささやいた。スーツをぴしりと着こなす彼は、こうしていると女装が趣味とは思えない。女装と言うか、ハイパーネット上の事だが。今も女性たちからちらちらと、熱い眼差しを注がれている。
「間宮さん。もう帰りたいんですけど」
「駄目よ。アタシが管理官に怒られちゃうわ。もう少し我慢して」
「さらし者になってる気分です……」
足が痛い。慣れないヒールは拷問のようだ。化粧もべたべたして、つい手で顔を拭いたくなる。その衝動をどうにかこらえ、会場にいるのだが、さっきから好奇の視線を浴びている。
おかしいのか。おかしいんだな。この格好、笑いを取るほどおかしいんだなっ?
ヤケになりつつそう思う。実際は初々しいドレス姿が愛らしくて視線を集めているのだが、柚香はそうは思わない。
「足が痛い」
「え、そうなの? どこかで休む?」
訴えると間宮は慌てて、周囲を見回した。
「向こうに椅子があるわ。歩ける?」
柚香はうなずいた。休めるのならもう、どこでも良い。
会場の蔭にあった休憩用の椅子には、何人かが座っていた。いずれもそれなりの年齢の人々だ。
間宮は彼らに会釈をしてから、柚香にも無言でそうするよう促した。学院で礼儀作法はそれなりに学んでいたので、柚香は周囲の人々に小さく会釈をしてから椅子に腰かけた。
「飲み物を取ってくるから」
きり、とした青年の顔をして間宮が言う。柚香がうなずくと、彼は去って行った。
ふ、と息をつく。すると、横にいた婦人がゆったりと声をかけてきた。銀色になった髪を薄紫に染めている。おそらくは、それなりの年齢なのだろう。しかし、グレイス女学院の教師が口を酸っぱくして言っているような、美しく老いる、という事を体現したかのような女性だった。穏やかな人格がにじみ出ている。上品で知的な美しさがある女性だ。
「どちらのお嬢さんかしら」
「え、あ、あの。私。お嬢さん、じゃなくて……」
一瞬うろたえたが、柚香は正直に答えた。
「城島柚香と言います。霧島真人さまに、後見についていただいています」
「ああ。貴女が噂の」
婦人はにっこりした。噂?
「孝子とクリストファーの人ね?」
……はい?
「くりすとふぁー?」
「あら、いいえ。こちらの話」
ほほほ、と笑って彼女は言った。
「わたくしは、綾瀬洋子。孫がグレイス女学院に通っているの。貴女、ご存じないかしら」
「綾瀬……麗子さまでしょうか」
「そうよ。麗子の祖母。貴女の事は麗子から良く聞いているわ。真面目で、しっかりした人だって」
柚香はまばたいた。軽く頭を下げる。
「私の方こそ、麗子さまにはお世話になって……あの。今日着ているこの衣装も、麗子さまの見立てなんです。こういう事、良くわからなくて……」
「まあ。いけませんよ。こんなに可愛らしいお嬢さんなのに。もっとお洒落を楽しまなくちゃ」
婦人は微笑んだ。
お洒落を楽しむ方向には、自分の興味が向いていないんです。そう思ったが、柚香は自重した。
「きびきびとした動きをなさるのね。何か運動をなさっているの?」
「は、え、いえ、えと。だ、ダンスが好きで」
慌てたように言うと、洋子はそう、と言った。
「では、この後は楽しみね。ダンスの時間がくるわ」
はう?
「い、いえ、でも。あ、足が痛くなったので、今日はちょっと」
このままここにいたい。ひっそり隠れていたい。人目のある所には出たくない。そう思いつつ言うと、洋子の隣にいた上品な女性が声をかけてきた。
「靴擦れかしら。良かったら、薬を持っていますよ。手当てをしていらしたら」
「い、いえ、あの。私、すぐにお暇しますし」
「まあ、いけないわ。若い娘さんなのですもの。今夜は楽しくお過ごしなさいな。大丈夫。先ほども、若い殿方が貴女に見とれていましたよ。素敵な夜になるわ」
いやだから! 目だちたくないんですっ!
泣きそうになりつつそう思っていると、あら、と洋子がつぶやいた。彼女の視線の先をたどると、そこに金髪の青年が立っていた。
うげ。
思わず、そんな声を漏らしそうになった。
「あー……」
女性たちの視線を浴びた青年は、居心地悪そうな顔をしたが、普段の荒っぽさとはまるで違う仕種で優雅に礼を取った。
「南家の次男、隆也です。よろしけれはお名前を伺いたいのですが」
やればできるじゃないか、この男。意外と板についている上品ぶりっこな仕種に、柚香はそう思った。
「城島、柚香です」
「ユズカ、さん。よろしければ、一曲お相手願えませんか」
なに?
目を剥きかけた柚香だったが、周囲の婦人たちは、隆也の申し出を好意的に受け取ったらしい。
「まあ。すばらしいわ。行ってらっしゃいな、柚香さん」
「市長をなさっている、南さまのご子息よ。信頼できるわ」
口々にそう言って、柚香を励ます。怖じ気づいている娘を励ます、母親や祖母の役割のつもりらしい。
「大丈夫よ。貴女、可愛いんですもの。堂々としていらして」
「そうよ。きっと注目の的になりますわ」
それが困るんですってば!
「あのでも、私、連れがおりまして!」
どうにかして断ろうとしていると、タイミング良く間宮が戻ってきた。
「あれ? ……どなたですか」
手にオレンジジュースのグラスを持って、隆也と柚香を見比べる。
「私は彼女の連れですが。彼女に何か?」
物柔らかに言う間宮に、隆也が礼儀正しく言った。
「南隆也です。今、彼女にダンスの申し込みをした所です」
「間宮浩一です。そうですか」
にこやかに言うと、助けてくれと目で合図を送っている柚香に向かい、間宮は言った。
「良かったじゃないか。踊っておいで」
薄情者〜〜〜〜!
間宮を内心罵倒しつつ、柚香は仕方なく立ち上がった。ここで断れば、さすがに失礼だ。霧島の家に迷惑がかかる。
でも後で殴る。
そう決意をして間宮を見ると、彼がわずかに引きつった。
「良かった!」
「行ってらっしゃい!」
婦人たちは、目をキラキラさせてはしゃいでいる。
「隆也さん? 柚香さんは慣れておられないの。そのおつもりでエスコートしてあげてね?」
足が痛いと言っていた柚香の事を思い出したのか、綾瀬洋子がそっと言ってくれた。隆也はにこやかな好青年の顔をして、はい、とうなずいた。
そうして彼は柚香の手を取り、フロアへと導いた。背後で婦人たちがおっとりと、『ああ! 生『孝子とクリストファー』が見られるなんて……!』と言っているのが、柚香の耳に入ってきた。
……だから誰なんだ、クリストファーって。