016 友達であるという事
授業をサボってトイレで泣いた後、麗は平静を装う準備をしてから教室に戻った。
「あ、王子~、遅かったね。どしたの?」
「ちょっと、お腹の調子が悪くてね」
「そーなんだ」
「大丈夫?」
「うん、もう大丈夫」
クラスメイトの言葉に、麗は平静を装った笑みで答える。
璃音は麗を一瞥するだけで特に何を言う訳でも無い。
麗は璃音の方を見るのが怖くて、そちらを見ないように意識する。
そのまま残りを過ごして、麗は部活に向かおうとした。
柊はまだ戻ってきていないので、それが気掛かりではあったのだけれど、璃音にあれ程強く言われた後に柊と顔を合わせる勇気は無かった。
部活もいまいち集中できなくて、家に帰っても上の空で。
義務感だけが働いて、柊に謝って荷物を取りに行くと言ってしまった。
送ってから直ぐに既読が付いて、後戻りできないという後悔だけが残った。
本音を言えば、柊とこんな形で離れたくは無い。まだ、柊に何も恩返しできていない。友達を作る約束だってした。それを、こんな形で放棄したくは無かった。
けれど、柊と璃音が付き合っていると聞いて、急に胸が痛くなって、どうしようもないくらいに悲しくなった。
離れたいと、思ってしまった。
見るのも辛い、考えるのも辛い、それから先を知るのも辛い。
こんな気持ちになるのは、生まれて初めてだった。
「……」
自然と、視線が四つのぬいぐるみに向かう。
白と黒の兎のぬいぐるみが一つずつ。柊がクレーンゲームで取ってくれたしろうーとくろうーのぬいぐるみ。
一度目は、自分の知らないところで。二度目は、自分の目の前で。
自分のために、取ってくれた。
物を貰ったのは初めてでは無い。クラスの人気者である自分は、よく誰かから物を貰う。そのどれも嬉しかったけれど、柊から貰った物は格別に嬉しかった。
皆、自分の喜ぶ顔が見たくてくれたのだろう。それは、嬉しい。けど、本当に欲しいと思った物をくれたのは、柊が初めてだった。
なんてことないように言って、一番麗が求めていた物をくれたのだ。
分かってる。柊は唯一の麗の理解者と言っても良い。だから、麗が何を欲しいか分かっていた当たり前なのだ。
でも、理解者が一人いるだけでこんなにも嬉しくなるものだとは思わなかった。
失望も、幻滅もされなかったのが嬉しかった。興味を持たれず、ありのままを受け入れてくれたのが嬉しかった。
それを、自分から手放してしまった。それも、二度もだ。
自然と涙が溢れる。
「ぁ……っ」
柊の叔母にからかわれた時は違うと答えた。そんな気は毛頭無かったから。無いと思っていたから。
麗はぬいぐるみを抱き寄せる。
「馬鹿だなぁ、私は……っ」
ちょろいと言われても仕方ないけれど、自分の気持ちに嘘は吐けない。
「大好きだったんだ、私……っ」
麗は生まれて初めて、自身の恋心を自覚した。
〇 〇 〇
翌日。恋心を自覚しても麗は何もアクションを起こす事は無い。
柊にはあまりにも不義理な事を言ってしまったし、璃音には釘を刺されている。人の彼氏に手を出すほど、麗は落ちぶれてはいない。
けれど、やっぱり心は痛いから、柊の方を見ないようにはした。
風太が柊に絡んでいるのは確認したけれど、その間に入ろうとは思わなかった。
お昼休みは柊は風太のグループの中に入っていたけれど、どうにもいつもの柊らしからぬ感じがした。けれど、声をかける事はしなかった。
気にしないようにしているのに、声をかけないようにしているのに、やはり柊の動向が気になってしまう。我ながら女々しいと思う。
まんじりとしない一日が終わり、部活に向かおうとする麗。
きっと、今日も部活に身が入らないだろう。
そんな予感を覚えながら、麗は教室を後にしようとする。
「あ、王子!」
部活に行こうとした麗を、誰かが引き留める。
声の方を向けば、そこには見知らぬ女子生徒が立っていた。いや、見た事はある。それも、つい最近だ。
少し間を置いてから、彼女が誰だか思い出す。
「……えっと、確か、霜村さん、だっけ?」
「うん。良かった、憶えて貰えてて」
安堵したように表情を綻ばせる菜月。
ただ、その表情はまだ完全に明るいとは言い切れず、眉尻は困ったように下がっている。
「私に何か用かな?」
「あー、うん…………王子って、若麻績と仲良い?」
柊の名前が出て来て、一瞬ぴくりと身を震わせてしまう。
「どう、かな……」
「そっか……。初対面の時、若麻績を庇ってるようだったから、てっきり仲良いのかと思ってた」
「なんか、ごめんね?」
「ううん、大丈夫。……そっか、でも、じゃあ……」
困ったように言葉を漏らす菜月。
何か用事がある、なんて困り方ではない。何かを抱え込んでいるような、そんな困り方。
「何かあったの?」
「え、ああ……ううん、何でもないよ。ごめんね、呼び止めて」
曖昧な笑みを浮かべて、麗から離れようとする菜月。
立ち去ろうとする菜月を見て、何も考えずに、麗は自然な動作で菜月の手を取っていた。
多分、諦めきれないから勝手に手が伸びたのだろう。
「……なんか、あるよね?」
「……こっち来て」
一瞬迷うような表情を見せた菜月だけれど、そのまま麗の手を引いて人気のない所へと向かう。
暫く歩いて人気のない所へと辿り着くと、菜月は単刀直入に言葉を紡ぐ。
「若麻績の顔、見た?」
「見たけど……もしかして、化粧の事?」
「そう。化粧の下は、やっぱり見てないんだ……。……本人には言うなって言われてるけど、正直アタシじゃどうしていいか分からないんだ……」
泣きそうな顔になりながら菜月は麗を見る。
「この間、若麻績に呼び出されて、行ったら、若麻績顔中痣だらけで……」
「――っ! どうして? 誰かにいじめられてるの?」
「分かんないよ! 若麻績、教えてくれなかったし……! あ、でも……」
「でも?」
「あの日、若麻績デートしてたっぽい。王子と同じクラスの子で……」
『柊ちゃんが家に来たのもデートの後だし、その後二人だけで楽しんだから。勿論、ウチの家で』
二人だけで楽しんだ。その言葉の意味を、あの時はそう言う事をしたと思っていた。
言葉通りかもしれない。顔の痣は別件かもしれない。けど、もし麗の想像が正しいのであれば、楽しんだというのは別の事かもしれない。
「ありがとう」
「え、王子?!」
お礼を言って、麗は荷物を置いて走り出す。
予感なんて、予想なんて、想像なんて、間違えてくれてて良い。
柊と璃音が付き合っていて、それでお互いが仲良くしてくれているのであればそれでも良い。
潔く身を引くなんて出来そうにも無いけれど、璃音から柊を取ろうと躍起になるような事はしない。ただ、苦しくてもちょっとだけは柊とお喋りがしたいとは思ってしまう。
良い。柊が幸せなら、それで良い。
けど、今柊が困っていて、それを誰にも相談できないのであれば、せめて、せめて――
「待って」
――自分だけは、柊を助けたい。自分を助けてくれた、あの時の柊のように。
「若麻績を、どこに連れていくつもり?」
自分でも、驚く程低い声が出たと思う。
一連の行動を、麗はしっかりと見ていた。
柊の手を取って爪を立て、バランスを崩させてから壁に押し付ける。
怖がっている柊の手を引っ張り、どこかに連れて行こうとする。
見間違いかもしれない。早とちりかもしれない。でも、柊は確実に怖がるような表情をしていた。
璃音が立ち止まり、何の感情も感じられない目で麗を見てくる。
「……王子、言ったよね? 迷惑だから金輪際関わらないでって」
「私、その言葉に頷いてないよね? それに、若麻績に関わるのは私の自由でしょ?」
「ふっ、一度逃げた負け犬が強気で吠えないでよ。柊ちゃん、こんな男女放っておいて、お家に行こう?」
マウントを取るように、お家という言葉を強調するように言う。
しかし、麗は退かない。柊の手をしっかりと握る。
「その前に、若麻績と話をさせて。それでなきゃ行かせられない」
「柊ちゃんは王子と話す事なんて何も無いよ。行こう、柊ちゃん」
強引に連れて行こうとする璃音。ゆっくりお話しをする事は出来そうにないと判断した麗は、柊の手を取りながら無理矢理話を進める。
「ダメ、行かせない。若麻績、顔の怪我大丈夫? メイクで隠すほど酷い怪我なの?」
「――っ! なんで知って……」
「霜村さんから聞いた」
「あいつ……!」
「そんな事より、怪我はどうしたの? 誰にやられたの?」
「ねぇ、そんな事王子にはどうでもいいでしょ? ほら、柊ちゃん行くよ。ねぇ、王子離してよ」
「何度も言ってるけどダメ。若麻績の怪我の理由を聞くまで、私は離さないから」
「必要無いよ。ウチが聞いておくから。ていうか、いつまで人の彼氏の手を触ってるの? 離してよ」
「そっちこそ離しなよ。若麻績の手に爪立てないで」
「そっちが離せば済む事でしょ? 良いから離してよ男女。ていうか、柊ちゃんの事王子には何にも関係無いよね? そうやってウチらの間に割って入ろうとするの凄いキモイ。人気者だからって何しても許されるの? そういう思考マジでうざい。馬鹿みたいにキャーキャー騒いで尻尾振ってる女子共にご自慢のきらきら笑顔振りまいてどうせ将来何の役にも立たない剣道でもしててよ」
辛辣に、強気に、璃音は相手を傷つける言葉を紡ぐ。
それでも、麗は激昂したりもしなければ同じように言い返したりもしない。
見ているのは柊だけ。麗はずっと、柊の目だけを見ている。
明らかに苛立った様子の璃音は柊の身体ごと自身に引き寄せようと、柊を抱きしめる。
「ほら、行くよ柊ちゃん。そんな女擬きの手なんて離して。それとも、柊ちゃんはやっぱり男女の方が良いの? あんな恰好するくらいだもんね?」
「――っ」
耳元で璃音が囁く。
「男子と居る時もいつもより声が高かった気がするし、ウチと話す時より饒舌だったもんね? あー、じゃあ、柊ちゃんはそっちで居た方が生きやすいかな? じゃあ、皆にも知ってもらった方がいいよね? どんな顔するかな、倶次君達。気持ち悪がるかな? それとも興奮するかな? ねぇ、どう思う柊ちゃん?」
悪魔が囁く。柊を陥れるためだけの悪魔。
「あ、男女との逢瀬も一緒に教えてあげようか。皆びっくりするだろうなぁ、二人がそんな関係だって知ったら。でも、きっと応援してくれると思うよ。人気者とその相手だもんね。大丈夫、知られても問題無い。柊ちゃんは目立つの苦手だけどきっと大丈――」
璃音の言葉が途中で途切れる。
同時に乾いた音が聞こえてくる。
驚いた璃音の手が緩み、柊は前に引っ張られる。
柊は優しく麗に抱き留められる。
「私の事どう言ったって良いよ。でも、若麻績を馬鹿にするのだけは許さない。若麻績は――」
一瞬、麗は柊を見る。
勘違いされても良い。周りにどう思われようと構わない。きっと、柊は変わる事を恐れてる。高校生活に求めているのは不変であり、刺激ではないのだろう。
でも、大丈夫。周りが変わっても、自分だけは変わらない自信がある。いや、出来た。今、その覚悟を作った。
「――柊は、私の大事な友達だから」
もう、もっともらしい言い訳を作って逃げない。
それが、友達であるという事だから。




