並行世界の救世主
「じゃあ、イユ。足りないものを買いに行こうか」
「うん、分かったよ。メモはある?」
「少し待ってくれ」
ぼくがこの星に来て、丸五年。あの日はちょうどクリスマスで、今日もクリスマスだから、文字通り一日のずれもなく五年が経った。まだ五年なのか、という思いと、もう五年も経ったのか、という気持ちが交錯する。
この星に来た、という言い方もおかしいのかもしれない。ぼくはもともと地球にいたし、今ぼくがいるこの場所も地球に間違いはない。ならば、ぼくが今いるこの地球は何なのか。
「……しかし、驚いた。まさか並行世界なるものが、実在するとは」
五年前、ぼくが凛紗と初めて出会った時。彼女はそう言った。並行世界という概念自体を、ぼくの元宿主である弓依は知らなかった。ぼくが人間の文明を引き継ぐと決めて、それから読み始めた本の中に、そんな言葉があった。
「並行世界という言葉自体、フィクションでは使い古されたものだからな。作者の数だけ、解釈の仕方があると言っても過言ではない」
「じゃあ、正解は分からないんだ」
「そうだな。そもそも、正解があるかどうかさえ怪しい」
とりあえず、『この』地球にやってきたぼくは、凛紗の家に居候することになった。が、その凛紗も別の夫婦の家に居候していた。だからぼくが来てから数年経って、凛紗は新しく家を借りて、そこでぼくと二人で暮らすことになった。
「そもそも、並行世界が実在するということ自体、大きな発見だ。フィクションでは使い古されていても、ノンフィクションではあり得ないとされていたんだからな」
ぼくはこの五年で、凛紗からいろんな話を聞いてきた。ぼくの世界が宇宙人に侵略されてしまったように、凛紗がこれまで生きてきたこの世界も、同じような危機にさらされていたらしい。それも、ぼくがここにやってくる一年前。ぼくが向こうの世界の地球に降り立った時に、ちょうど凛紗はこの世界を変えるべく、踏ん張っていたのだ。そのおかげか、凛紗は当時中学生ながら、すでに政府の関係者だった。
あれから五年。ぼくの年齢を元宿主の弓依と同じとするなら、ぼくは凛紗よりも年上だったけれど、同じタイミングで大学に入った。正直ぼくが凛紗に勉強を教える必要はなかった。それどころか、ぼくが教えられる側だった。ぼくは大学で勉強がしてみたかった。向上心がないとか言われるかもしれないけど、ぼくは確かに生きている人間に囲まれているんだ、という証が欲しかったのだ。きっと学ぶものは、何でもよかった。
「並行世界が実在するのなら、話は別だ。イユ、お前の言う、人間のために行動を起こすということができるかもしれないぞ」
一方で凛紗は、何やら難しい理系の学問の専攻に進んだ。その原動力は、能動的に並行世界に干渉できるような技術を生み出したいという野望。それがとんでもないことだということくらいは、ぼくにも分かった。この世界にやってきた側のぼくでさえ、偶然たどり着いたというのに。
「私が考えるに、並行世界は無数に存在する。そもそもなぜ、並行世界が生まれるのかを考えればいい。それはきっと、どこかに基準となる世界があって、そこで選択された道とは違う方を選んだ世界が、並行世界になるんだ」
「基準となる世界……ね」
「そうだ。どんなささいなことでも、世界は分岐するだろう。例えば明日の朝、私がパンを食べるかご飯を食べるか。そんなことでも分岐しそうだ。もっともその場合、大した差は生まれないだろうが」
「そうだろうね。つまり、ぼくたち宇宙人が地球に降り立たなかった世界や、降り立っても地球を侵略しなかった世界も、もしかしたら存在するかもしれないというわけだ」
小さな分岐があれば、大きな分岐もある。そして、基準となる世界が本当にあるかどうかは分からない。あくまで凛紗の持論だ。だが、
「別にその”基準となる世界”を見つける必要はない。基準であってもそうでなくても、一つの世界であることに変わりはないからだ。そこに優劣は存在しない」
「なるほどね」
「永遠に平和の訪れる世界は、そうはないだろう。江戸時代は平和だったとよく言われるが、あれは長い目で見ればの話で、実際には数え切れないほどの百姓一揆や戦いが起きていた。それがあってなお平和と言えるかどうかは、微妙なところだ」
「歴史は大きな流れしか見ないからね。農民たち大多数の一般人の生活に言及することはあっても、それで平和かそうでないかを判断することはまれだ」
何とかして自分たちが生きるのとは違う世界を見つける。きっとそこも、別の危機に瀕しているだろう。その危機が深刻なものかそうでないかは、その世界を見てみないと分からない。だが、何も脅威のない世界である確率は非常に低い。凛紗もぼくも、一度は自分の世界の危機に直面した身として、そんな世界が壊滅してゆく様を見たくはない。助けに行きたい。そう思っていた。
「まあ仮に助けたとして、よくてお人よしだ。邪魔者扱いされてもおかしくはないだろう。違う世界からの存在をそう簡単に受け入れていては、時間の流れやら何やらが変わってしまう恐れもある」
「時間の流れ……」
「並行世界が必ずしも、同じ時間軸で動いているとは限らない。私たちの世界と、イユの世界がたまたま一緒だっただけだろう。行った先は私たちにとっての未来かもしれないし、過去かもしれない。どちらにせよ、外部の人間が干渉したばかりに狂うことがあれば、それはまずい」
だからリスクの割にリターンの少ない、避けるべき話だ、と凛紗は言う。しかしそれでも、凛紗は並行世界に行くための技術開発に、政府のお金を割くように指示した。そして凛紗自身も、大学で学んだことを生かして、その開発に携わろうとしている。まだ大学に入ったばかりで、その準備段階ではあるが。
「どうしてリスクが高いと分かっているのに、やろうとするのさ」
「世の中にはリスクが高いと分かっていても、やらなければならないことがある。そうだろ?」
「……確かにそれは、事実だけど」
「それに何も、こちらから干渉するだけではない。ちょうど異国との交流のように、並行世界どうしでのやり取りが行われるようになるだろう。時空がねじ曲がらない程度の交流であれば、それは様々な面でプラスに働く。そうは思わないか?」
凛紗はあくまで前向きだった。ぼくは地球に干渉したばかりに、元の世界の地球から人間を滅ぼしてしまった。それは干渉のし過ぎで、もっと違う干渉の方法があったということは、凛紗に言われなくとも分かる。それでも、ぼくは怖かった。ぼくがそうして他の並行世界に行って何かすれば、同じことが起きてしまうんじゃないか。ぼくはまた、世界を滅ぼすきっかけになってしまうんじゃないか。そう思わざるを得なかった。
「そんなことはないぞ。お前が元の世界で地球に降り立った時と、今。お前の考え方は、全く変わっていないのか?」
凛紗は後ろ向きなぼくに、そう尋ねる。それは問い詰めるようなものでは決してなかった。子どもがなぜなぜ、と親にしつこく聞いて回るように。単純な好奇心で、凛紗はぼくに聞いていた。
「……そんなはずはないよ。ぼくは、人間を守りたい。それは、あの時考えもしなかったことだ」
「それなら、何も問題はない。イユがいい奴だということは、この五年でよく分かっているつもりだ。人間を守りたい、そんな単純なようで難しい信念を五年も変わらず持ち続けられている時点で、お前はもう、昔とは違う。その力を、人間を救うことに使える」
「……」
「それに、私がいる。お前が間違った道を歩みそうなのであれば、今度はそれを止めることができる」
うらやましい。ぼくもそうやって、前向きに物事を捉えられるようになりたい。だけど、仮になれるとしても、それはだいぶ先の話だろう。今のぼくはきっと、凛紗に力を借りるのが一番早い。
「凛紗。君の原動力は、どこから来るんだい。いくつもの困難がすでに見えているというのに、それでも並行世界の研究をしようと思える、原動力は」
「原動力、な。……一つは、単純に私の興味だ」
「興味」
「そうだ。私の考えついた説が本当に正しいのか。このまま技術革新を狙って研究を進めた先にある、並行世界の能動的な観測という、夢のような話を現実にできるのか。それをこの目で確かめたい。そんな興味だ」
「もう一つは?」
一つは、と始めたからには、もう一つは少なくとも存在するだろう。ぼくはそんなことを考えて、そう聞く。すると凛紗はよく聞いてくれた、とばかりに、にやりと笑ってみせた。
「もう一つは、ぼんやりとしているが……あえて言うならば、イユの笑顔を見たい。そんなところか」
「ぼくの、笑顔を?」
「私のイユに対する第一印象は、苦悩の末にズタボロになった心を抱えた、苦労人だ。深く話を聞かなくても、私の想像など遠く及ばないような苦しみを経てきたことは分かる」
「……そうなんだ」
ぼくとしては、そんなつもりはなかった。ここはぼくがいたのとは、全く別の世界。前の世界のことを心に留めるにしても、引きずりすぎるわけにはいかないと思っていた。が、それでも顔に出ていたとは。
「だからこそ、もうこの世界でイユを苦しませるわけにはいかない。これ以上苦悩する必要はない。これまで考え抜いて出した結論で、他の世界の人間を救うんだ。もう少し言い方があるんじゃないかと思ったが――救世主、になるんだ」
「救世主……」
「救世主の真似事でもいい。大層なものだと構える必要もない。私たちのできる範囲で、誰かの役に立つ。特にイユにとっては、そんな貢献の仕方もいいんじゃないか?」
いつだって、凛紗は前向きだ。ぼくの持っていないもの、今は持っていなくてもいつかは持ちたいと思っているものを、凛紗は全て持っている。そんな凛紗の力を借りて、ぼくは一歩ずつ、前に進むのだ。
「さあ、今日はクリスマスだ。楽しくいこう。ちょうど、イユも大学に行けることになったしな」
「それはもうだいぶ前の話だよ。何で今」
「何でもいいんだ。とにかく今日は、お祝いだ」
凛紗はメモに書いていない、買わなくていいものまでぽんぽん買い物かごに放り込んでいく。そんな凛紗の後ろ姿は、いつにも増して楽しそうだった。