第八章 オレステスの逡巡
それは1学期の終業式間際の放課後のことだった。理英が隣の席の子と談笑しながら机の中身を通学鞄の中に移して、いざ席を立とうとした時のことである。前の席に座っていたサッカー部員の花咲健司が振り向くと、珍しく日に灼けた笑顔を向けて話し掛けてきたのである。
「おい、寛永寺。お前、進学はどうすんだ?」
これは直前にあった放課後の終礼で担任の伏見から、2学期開始直後の9月初旬にフクトという業者主催の県内一斉統一実力テストの実施を言い渡されたことを受けての発言である。同時にこの結果を基に、9月下旬に予定している父兄参観日に三者面談を行って、進路希望を訊くことを告げられたのである。教室中が「え~っ!」という声で充満したことが、生徒たちの偽らざる本心を表していた。それはまるで、もうちょっと子供でいさせてくれよ、と訴えているかの様であった。
「進学って?」
「再来年受験する高校のことだよ。さっきの終礼、聞いてただろっ!お前、このまま門司高校に進むのか?」
「う~ん、まだ考えてないなあ。」
わざとのんびりとした声で理英が答える。理英がこういう受け答えをする時は、大抵その話題に触れられたくない時なのである。
関東近郊の地方都市ならば、成績上位者は地元の国立大学へ進学し、学業がパッとしない者は東京の私立大学、しかもそれぞれの偏差値に応じた大学へ進むのだろうが、ここ北九州市ほど東京から離れた地方都市となると、少し事情は異なってくる。特に理英のように飛び抜けて学業が優秀な生徒ならば、高校進学の段階から、早慶の様な有名私大や、旧七帝大・旧三女高師・東京四単科大の様な難関国立大学への挑戦を見据えた上で、進路指導が行われるのが常である。
そして理英は中学入学の時点から学年主席であったため、折に触れて将来の進路を問われることが一般の生徒よりも多かったのも事実であり、理英はそのことに少しうんざりしていたのである。しかしそんな事情を知らない花咲は、重ねて訊いてきた。
「お前みたいに優秀な人間が進学するんなら、門司高校じゃ勿体無いぞ。思永館には行かないのか?」
「門司高校」とは、福岡県立門司高等学校のことである。地元の第2学区ではトップの進学校で、毎年1~2名が東大に進学している。学校は門司区丸山という門司港駅からほど近い山の上にあり、バスも近くを通ってはいないため、学校へ行くには最寄りのバス停で降りると、結構な時間をかけて長い坂道を徒歩で登らなければならない。それほど通学に不便な所にあるにも拘らず、何故か自転車通学は校則で禁止されている。北九州市では進学校としてナンバー3の地位にあるのだが、市内でもあまりパッとしない存在の高校なのである。そのため第2学区内の優秀な生徒、つまり門司区内の9つの中学校で成績がトップクラスの生徒は、隣の学区にある思永館高校に越境入学するのが恒例になってしまっている。花咲の質問はこういった現状を踏まえてのものなのである。
今、門司高校を「あまりパッとしない存在」と書いたが、この学校はただ一度だけ、全国から注目を浴びたことがある。1952年の第24回春の選抜高等学校野球大会の時のことである。この頃はまだ福岡県立門司東高等学校という名称であったが、宅和本司という剛腕投手を擁して出場を決めており、この大会の優勝候補の筆頭に挙げられていた。しかし学校上層部が余計な気を回して、春の選抜大会出場を控える野球部員の学年末試験を免除して進級させたうえ、この大会に向けて合宿までさせていた事実が、大会直前になって発覚してしまったのである。このことを高野連(公益財団法人日本高等学校野球連盟)が問題視したため、門司東高校は一度は正式に選ばれた代表校の座を返上せざるを得なくなってしまった。そしてこの学校は、後に改称して門司高校となってからも、春・夏を通じて現在まで一度も甲子園大会には出場していない。
なお、この時門司東高校の絶対的エースだった宅和本司は、高校卒業後の1954年に南海ホークスに入団する。彼の同期には野村克也、皆川睦男といった名選手が多数存在したが、プロ1年目から先発ローテーションに入って目覚ましい活躍をし、26勝9敗の成績で新人王を獲得したのである。2年目の1955年も24勝を挙げて、二年連続で最多勝のタイトルを獲得するが、鶴岡一人監督の「宅和、宅和、雨、宅和、雨、雨、宅和、雨、宅和・・・」と揶揄される程の酷使に耐えきれず肩を痛めてしまう。そして3年目の1956年、6勝目を挙げたのを最後に、一軍で勝ち星を挙げることができなくなって、ひっそりと現役を引退してしまった。まだプロとして通用する身体が出来上がらないうちに酷使したため、可惜才能のあるピッチャーを潰してしまった、という南海ホークスの黒歴史である。
これに対して「思永館」とは、福岡県立思永館高等学校のことで、隣の第3学区である小倉北区愛宕にある元小笠原藩(小倉藩)の藩校の流れを汲む学校であり、小笠原家の家紋である「三階菱」を校章にしている。この学校は、映画『無法松の一生』の原作『富島松五郎伝』にも登場するが、途中で一旦閉校されてしまい、1887年から1908年までの長い中絶期間があるため、正式な創立は1908年とされている。現在は「文武両道」を看板にしているが、これは後付けの理由によるところが大きい。
と言うのも、1947年・1948年の夏の甲子園大会でこの学校が二連覇したため、これを奇貨としてスポーツとしての「武」の側面も強調しているに過ぎず、どちらかと言うと優秀な進学校として知られている。なおこの時の偉業で思永館は、広島商業・中京商業(現:中京大附属中京高校)・海草中学(現:向陽高校)に続いて、現時点で夏の甲子園を連覇した最後の学校となっている。さらに全国中等学校優勝野球大会における最後の優勝校と、全国高等学校野球選手権大会の最初の優勝校という栄誉も獲得することになった。
また、この2連覇時に思永館のエースだった徳島和夫という生徒は、卒業後早稲田大学へ進学して野球を続けたため、早大とも太いパイプが出来ることになり、そしてこのパイプはこれ以降、年々着実に強固になっていった。早大から送り込まれた応援団員に「応援指導」を受けたことで、思永館の応援スタイルも早大とそっくりになったし、更に「コンバットマーチ」等の応援曲の楽譜まで譲り受けたのである。以後、思永館から早大へは毎年70~80人ほどの合格者を出し続けたが、別枠で各学部に2名程度の推薦枠を持つに至ったのである。尤も、この推薦枠は主に野球部や応援団に優先的に回されるため、一般の生徒が恩恵に浴することは殆んど無いそうである。
しかし、この太いパイプは1980年になってから、「早大入試問題漏洩事件」や「早大学籍原簿改竄事件」という形でその柵が発覚するのである。結局、早大側が講義についてこれるだけの学力が無い生徒を入学させてしまったため、卒業させるためのケアも必要になってしまったということである。これらの事件は理英たちの世代が高校2年生の時に発覚したため、在校生たちは各種報道媒体によるメディア・スクラムの餌食となるのだが、そんな未来が待ち受けているとは知る由も無かった。
なお、思永館の「文武両道」を尊ぶ価値観は、この学校特有のものという訳ではない。寧ろ進学校出身者であれば、社会でエリートと呼ばれる人物ほど、強く持っている価値観であると言っても過言ではない。実際に日本の著名な進学校には概ね、勉強と部活動の両方に全力投球するという「文武両道」を尊ぶ風潮があって、「学生の本分は勉強なのだから、勉強だけに勤しめば良いのだ」と考える進学校は皆無と言っても良いほどである。
しかもこれは、我が国固有のものですらない。「エリートは文武両道たるべき」とする価値観は、海外、殊に欧米に広く存在する。社会を担う人材は勉強だけできていれば良い訳ではなく、幅広い教養を身に付ける必要があり、スポーツや文化を嗜む心がなければならない、ということになっているからである。勉強以外のことまでできるような人間は能力が高い、ということを自覚した上で、その恵まれた才能を社会貢献に生かすべきだとする『ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)』の精神を、エリート教育の中で培っているのである。この考え方自体はある意味まともなものであり、称賛されても非難される謂われはない。その意味では、「文武両道」とは能力の高さを示していると言っても良いのである。
進学校としての思永館は、1960年代には東大入試で毎年の様に二桁の合格者を出し、全国合格者ランキングでも50位以内の常連校となっていた。しかし、1965年に20人の合格者を出して全国合格者ランキングで26位にまで昇っていったが、それ以降頭打ちの状態が続き、近年では合格者が一桁になる年もあって、その凋落ぶりが取り沙汰されていた。
しかし、思永館はこれまでの実績から、未だに県内でも「福岡御三家」の修猷館・福岡・筑紫丘と並び、「北九州の双璧」と称される東筑高校共々、「県立五摂家」と呼ばれる進学校の一つに数えられている。ただしこれは九州大学の合格者数だけを物差しにした呼び方であり、東大や京大等の他の旧七帝大の合格者数まで含めると、この5校の中でも修猷館と思永館は図抜けており、九州でも鹿児島の鶴丸高校、熊本の熊本高校と肩を並べる実績を挙げ、九州の公立高校のトップ集団を形成している。
先ほど名前を挙げたが、実は北九州市内にはもう一つ、極めて優秀とされる、東筑高校という進学校も存在する。福岡県立東筑高等学校は北九州市の中でも旧黒田藩(福岡藩)エリア(と言っても藩境に近いが)の八幡西区東筑にある県立高等学校で、理英たちが住んでいる門司区からは、思永館以上に遠い場所にある。ここは藩校だった訳では無いが、途中で長い断絶のある思永館より、その歴史は10年ほど古い。おとなしい生徒が多く統制のとれている思永館とは対照的に、東筑高校は自由でバンカラな校風で知られている。この学校の卒業生には、2年ほど前に文部大臣を務めた三原朝雄、出光興産2代目社長の出光計助、朝日新聞で『天声人語』を執筆していた入江徳郎、日本を代表する俳優である高倉健、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄ライオンズの仰木彬、人気漫画家の国友やすゆき等がいて、多士済々である。
東大だけが大学という訳ではないが、やはり東大が日本の最高学府の中でも最高峰であることは、誰も否定できない事実であろう。ならば、東大合格者数をその高校の学力レベルを測るバロメーターと見做して、東大に一人でも多くの合格者を出している高校がより良い高校である、という判断をする風潮にも一理あることになる。
例えば日本の上場企業の中には日本興業銀行の様に、人事面で「東大卒にあらずんば人に非ず」という運用をしている企業も多数存在していれば尚更であろう。無論そんな企業なら就職しなければ良いじゃないかという声もあるにはあるが、相手は日本の数ある金融機関の中でもリーディング・バンクと呼ばれる存在なのである。出世競争から零れ落ちたとしても、取引のある大企業に役員として出向することも可能なのである。例えば日産自動車などは金融機関からの支援が無ければやっていけないため、これまで興銀の銀行員が何人も社長として送り込まれてきていて、他の自動車メーカーからは「興銀自動車」と揶揄されているほどである。
そのため東大を出ていないことで行内での出世が見込めないとしても、そこに就職を希望する学生は巨万と居るのである。そういう現実の前では、こういった声が「負け犬の遠吠え」にしか聞こえないのも、また事実なのである。『財界の鞍馬天狗』と呼ばれた興銀の名頭取・中山素平は、実は東京商科大学本科(現:一橋大学)の卒業生である。おそらく彼がその「硝子の天井」を破って頭取の椅子に座るまでの苦労は、想像を絶するものがあったに違いないのである。
そして宮澤喜一のように、東京大学至上主義の政治家まで存在する。まあ宮澤の場合は、東京大学法学部至上主義と言った方が良いのかもしれない。宮澤は官僚に学歴を尋ねる時には、「学部はどこですか?」と訊いても、「大学はどこですか?」とは絶対に訊かない。これは東大卒が大前提だからである。しかも「法学部」と答えないと、彼の厚情は得られない。ここで他学部の名を出してしまうと、途端に冷たく遇われるからである。ましてや東大以外の名前を出すことなど、宮澤にとってあってはならないことなのである。そのくらい宮澤は、東京大学法学部を誇りにしているということになる。
尤もこれには、別の理由があると言う人も居る。宮澤はナンバースクールを卒業しておらず、そのことが彼のコンプレックスになっていて、余計に東京大学法学部に拘ってしまうのだ、というかなり説得力のある説明である。しかしそういう宮澤の屈折した心理を解明できても、それで宮澤の知遇を得られないのであれば、やはり官僚になるのなら東京大学法学部を出るに越したことはない、という結論になってしまうのである。
「だけど思永館は隣の第3学区でしょう?門司区に住んでいる私たちにとっては学区外だから、越境入学することになっちゃって、受験するのも難しいわよね。」
「『寄留』すりゃ良いじゃんっ!第3学区に住民票だけ移して、中学3年生の1年間は転校延期願いを出すんだよ。」
「それって、第3学区に親戚か知人が住んで居なくちゃいけないんでしょう?私の父は和歌山の出身だから、こっちには親戚が居ないのよ。母方もそういう意味ではあまり当てにならないわ。親戚以外でそういうことを頼める知己ということになると、多分もっと厳しいと思うわ。」
「でも、そういう悩みなら良いよな。俺なんて門司高校のボーダーライン上に居るから、今から頭が痛いよっ!」
花咲はそう言って苦笑すると、机の上に置いたスポーツバッグを持って席を立った。花咲ご自慢のマディソン・バッグである。黒地のナイロン製で、「Madison Square Garden」のロゴと翼を広げた金色の鷲のエンブレム・マークが入っている。これからサッカー部の練習があるのだろう、野球部の小椋純生、バスケットボール部の坂本明と一緒に戯れ合いながら、教室を出て行ってしまった。
十数分後、理英は永渕と肩を並べて帰宅の途に就いていた。まだ日暮れには早いため、夏の強い日差しを浴びて鮮やかを増したいつもの通学路の風景は、その強い陰影のコントラストによって、今の理英の目には却って精彩を失って陰鬱に見えていた。
「ピッピは、思永館に進学しようとは思ってないの?」
下校する通学路の途中で、一緒に歩いていた永渕が不意に尋ねてきた。永渕は放課後の花咲との会話に聞き耳を立てていたようだ。しかしその問いを聞くと、理英は静かに首を横に振った。
「だって思永館に進学すると、此処でできた友達とも離れ離れになっちゃうじゃない。」
理英が溜息交じりに答える。
「でも、自分の一生の問題だよ?そんなことで決めちゃって良いの?友人みんなが同じ高校に進学できるとは限らないじゃない?人生を逆算して、自分は将来こういう道に進みたいからここの高校に行きたい、っていう希望とかは無いの?」
「無いなあ。将来のことなんて、まだピンとこないのよね。私は何かやりたいこととか、なりたいものがある訳じゃあないもの。」
理英はそう言うと肩を竦めて見せた。
「偉そうなことを言うと思うかもしれないけれど、僕たちはまだ外の世界のことを知らなさ過ぎると思うよ。きっと僕たちはこれから大人になっていく過程で、自分たちが属している学校や校区というものが、いかに狭い世界であるかを知ることになるんだと思うよ。」
永渕の意外な科白に、理英は少し反発を感じながら黙って聞いていた。
「そして隣の席の子だから、同じクラスの子だから、という理由で仲良くなった友達とは、人生の節目を迎える度に、価値観や生活水準の違いから徐々に疎遠になっていくんだろうと思う。小中学校時代の友人っていうのは、たまたま同じ年・同じ土地で生まれただけで、偶然乗り合わせたバスの乗客同士みたいなものなんだと思うよ。だから人間同士の繋がりなんてものは、とってもか細くて脆いものなんじゃないのかな。」
そう語る永渕の余りにも老成したものの見方に、理英は少し驚かされた。
「そう言うブチ君は思永館に進学したいの?」
理英の質問を受けて、永渕が答える。
「本音を言えば、僕も思永館に進学したいと思っている訳じゃないよ。どちらかと言うと、灘高、愛光、ラ・サールの何処かへ行きたいんだけれど、春の模試の結果から判断すると、今の僕の学力じゃあ久留米附設がギリギリ入れるラインなんだよね。それに僕には年子の妹も居るから、親の懐具合を考えると、私立の高校に進学するのは厳しいと思う。もし家計に余裕があるんだったら、今頃親に入江塾(伸学社)に行かせてくれって、せがんでいるよ。」
「『西の御三家』じゃないっ!」
それを聞いた理英が声を上げる。
「そういう所を狙ってるってことは、ブチ君も東大を狙ってるってこと?将来は何になりたいの?」
『西の御三家』とは、永渕が口にした灘高、愛光、ラ・サールの三つの私立高校のことである。このうち「灘高」こと「灘高等学校」とは、兵庫県神戸市東灘区魚崎北町にある、中高一貫教育の私立男子高等学校のことである。この学校は1927年(昭和2年)に灘地方で酒造業を営む、嘉納治郎右衛門(菊正宗)、嘉納治兵衛(白鶴)、山邑太左衛門(櫻正宗)の三氏によって創立された旧制灘中学校を母体としている。
設立にあたっては白鶴嘉納家の縁戚で、講道館柔道の創始者であり、東京高等師範学校(東京教育大学を経て現:筑波大学)やその附属校(現:筑波大附属中・高)などの校長職を四半世紀に亘って務めた嘉納治五郎が顧問として参画していた。このため、嘉納治五郎が柔道の精神として唱えた「精力善用」・「自他共栄」が校是となっているだけでなく、週に一時間は体育とは別に柔道の授業がある。
嘉納治五郎からの要請で初代校長に就任したのは、東京高等師範学校の数物化学科を卒業後、各地で教職を歴任していた眞田範衞である。眞田は灘校の「教育の方針」を定めると、自ら校歌・生徒歌も作詞するほど仕事熱心な教育者であった。なおこの学校が設置認可を受けたのは1927年(昭和2年)10月24日で、この日を創立記念日としているが、開校はその翌年になってからである。開校当時は神戸一中(現:神戸高校)や神戸二中(現:兵庫高校)、神戸三中(現:長田高校)等に入学できなかった生徒が入って来たが、当初から官公立中学を抜かすことを目標に学力向上に力を入れ、学力別クラス編成を実施していた。
第二次世界大戦後の学制改革を経て進学実績が上昇すると、1960年代後半から70年代に至り、それまで東大合格者数で全国トップの座に君臨してきた都立日比谷高校が学校群制度の導入で凋落するのと入れ替わるように、私立校として初めて単独で東大合格者数首位の座に立った。この学校の卒業生には、作家の「狐狸庵先生」こと遠藤周作や 江崎グリコ副社長の江崎勝久がいて、結構ユニークな人材を輩出している。
「愛光」こと愛光高等学校とは、愛媛県松山市衣山にある私立中高一貫校のことで、戦後の1953年に創立した新興の進学校である。スペインで発足したカトリックのドミニコ会により、「愛 (Amor) と光 (Lumen) の使徒」たる「世界的教養人」を育成を目指して、まず1953年(昭和28年)に愛光中学校が、3年後の1956年(昭和31年)に愛光高等学校が設立されている。開校以来、男子のみ(現在は共学)の中高一貫教育を行い、全国から生徒を受け入れられる寮を設置し、トップレベルの学力の育成、大学進学指導の重視といった明確なコンセプトで運営・広報を行い、全国へ「国内留学」を呼びかけていて、関西などからも多くの生徒が受験・入学している。なお、先に述べたように、この学校はまだ歴史が浅いため、誰でも名前を知っているような著名人の卒業生はまだ出ていない。
「ラ・サール」こと「鹿児島ラ・サール高等学校」は、鹿児島県鹿児島市小松原にある、中高一貫教育の私立の男子高等学校である。本来「ラ・サール高等学校」というのが正式な名称であるが、兄弟校として北海道函館市に「函館ラ・サール高等学校」があり、区別する必要性から「鹿児島ラ・サール」と表記されることが多いらしい。現在、鹿児島県内で唯一の私立男子校であり、中学から繰り上がりの160名に加えて高校から80名ほどが入学する。
この学校はフランシスコ・ザビエルの来日400周年に当たる1949年(昭和24年)頃、カトリックの鹿児島知牧区に男子校を設立したいという要請を受け、世界で1,300校余りの学校を経営するラ・サール修道会(正式名称:キリスト教学校修士会<Frère des Écoles Chrétiennes>、本部:ローマ)がこれに応じる形で1950年(昭和25年)にラ・サール高等学校として開校した。なお、ラ・サール中学校は6年後の1956年(昭和31年)に設立されている。
男子校であることと日本の教育理念を取り込んだ教育方針は、地元からの強固な支持を集めた。また早くから学生寮を設置し、地元にも専門の下宿ができたことから、日本全国から生徒を受け入れている。
初代校長であるマルセル・プティ(Marcel Petite)は、”Best among the best”を掲げて、社会に役立つ人格形成と能力の最大限の発揮を目指した。質実剛健かつ自由を重んじる学風であるとともに、大量の問題をこなす授業、頻繁に行われるテスト、長時間の家庭学習といった学習指導を展開し、生徒の自主的な学習を促した。その結果、設立後の早い時期から入試難易度や進学実績などが、全国トップレベルの進学校となった。ここはまだ歴史が浅いにもかかわらず、卒業生には、現在「詰め込み教育」からの脱却を唱えている若手文部官僚の寺脇研や、タレントのピーター(池畑慎之介)が居る。
理英が口にした「西の御三家」は全て福岡県外にあるのだが、実は福岡県からの進学者が非常に多いのである。特にエネルギー革命で廃れてしまった筑豊地方と北九州市は、その最大の供給源になってしまっている。そのため福岡県の高等学校関係者は忸怩たる思いを抱いており、この優秀な生徒の県外への流出をどう食い止めるかが、福岡県内の各教育委員会が抱える最大の課題になっている。これは、北九州工業地帯の凋落、つまり日本の四大工業地帯の座から滑り落ちようとしている現状が、暗い影を落としていた。ずっと此処にいても将来の展望が開けないことを明敏に悟った生徒たちが、人生の活路を求めて福岡県を脱出しているという現象なのである。
これに対して、永渕がギリギリ当落線上に居るという久留米大学附設高等学校とは、福岡県久留米市野中町にある、中高一貫教育を提供する私立高等学校で、男子校である。1950年(昭和25年)、久留米大学の商学部構内に、旧制中学教育の良い面を継承し、戦後復興と平和に貢献できる人材の育成を目指して創立されている。「附設」という呼称は、設立の際に大学の下位に属する「附属」ではなく、大学の学部と同列に位置付けるという方針によるものである。実際に久留米大学への内部推薦制度などはなく、内部進学者は「心太」と呼ばれて馬鹿にされるため、そのまま進学する生徒の数も少ない。ここのOBには、毎日新聞社の名物記者である鳥越俊太郎や、フォークグループ『かぐや姫』の山田パンダがいる。
「僕は検察庁に入って、検事になりたいんだ。官庁にはみんな学閥があるからね。」
「ってことは、大学はやっぱり東大かぁ~っ。官界では銀杏会が権勢を振るってるもんね。」
やっぱりといった表情で理英が声を上げる。
「違う、違う!確かに『銀杏会』は強大な派閥だけど、全ての官庁を牛耳ってるって訳じゃあないよ。検察庁と法務省は『造船疑獄』以来、京大閥の金城湯池になってるんだ。他にも厚生省なんかは同じ東大閥でも『鉄門会』が支配しているしね。」
永渕は大袈裟に掌を振って、苦笑しながら意外な科白を口にする。
「そうなの?私、日本のお役所って全部、銀杏会で固められてるんだとばかり思ってた。」
「東大法学部というか東京大学・文科Ⅰ類って、1学年400人位しかいないんだ。だから全ての官庁や一流企業を銀杏会で固めようとしても、とても人数的に足りないんだよ。」
と言って、永渕は笑った。すると、すかさず理英が尋ねる。
「ところで、『造船疑獄』って何?」
それを聞いた永渕が驚く。理英なら当然、耳にしたことくらいはあると思っていたからだ。
「えっ?そこから?ピッピは佐藤栄作っていう首相が居たの覚えてる?」
「失礼ねぇ~、それくらい知ってるわよ。ノーベル平和賞を貰った人でしょう?それに確か、今の門司港駅がまだ門司駅だった頃、駆け出しとして改札口で切符切りをしていたって話を聞いてるわ。」
「よく知ってるね。それはまだ門司鉄道管理局が絶大な力を持っていて、あそこの局長は九州各県の県知事よりも偉いって言われていた時代の話だけどね。『造船疑獄』っていうのは、その佐藤栄作が自由党の幹事長をやっていた1954年に起きた贈収賄事件なんだ。」
「まだ私たちが生まれる前の話よね。」
「そうだよ。第二次世界大戦後の日本における『計画造船』で、利子軽減のための『外航船建造利子補給法』制定をめぐって、海運・造船業界から自由党の政治家たちへ賄賂が贈られるっていう事件があったんだ。」
「その『計画造船』って何なの?」
重ねて理英が訊く。
「『計画造船』っていうのは、大型船舶の建造を政府の計画と援助によって行う日本固有の制度なんだ。敗戦の痛手から早く立ち直るために、海運業の基盤を強化し、造船業を回復させる目的で、1947年から始まったんだ。毎年政府が船舶建造計画を立案し、これに基づいて建造を希望する船主(海運業者)に財政融資を行なってるんだ。この財政融資は元々復興金融公庫が行なっていたんだけど、今は日本開発銀行がこれを引き継いでやってるね。日本の船舶の約8割は計画造船によって作られてるから、第二次世界大戦後の日本の造船業界や海運業界の経営基盤を支えてる制度なんだ。」
「へ~っ、そうなんだ。」
「この事件では東京地検の河井信太郎っていう捜査主任検事が、国会議員4人を逮捕した後、さらに当時の与党だった自由党の幹事長・佐藤栄作をその黒幕と見て、収賄容疑で身柄を拘束して取り調べようとしたんだ。そこで当時の法務大臣だった犬養健が吉田茂の意を受けて、逮捕状を請求した段階で、検察庁法第14条を使って指揮権を発動して、逮捕する寸前で止めさせちゃったんだ。その結果東京地検はそれ以上突っ込んで調べることができなくなって、結局事件の真相は有耶無耶になっちゃったんだよ。」
「でも、その事件が京大閥の検察庁支配とどう結びつくのよ?」
理英が不思議そうな顔をする。
「それまでの法務省・検察庁っていうのは、東大閥と中大閥が二大勢力で、主導権を巡って内部抗争を繰り返していたんだ。さっき名前を挙げた河井信太郎って人は、中大閥の大物だね。」
「確かに司法試験の合格者数は、東大と中大がずば抜けて多いもんね。」
「ところが、検察庁が政治に膝を屈したのを国民全員が目にしたことで、世論の厳しい批判を受けることになっちゃって、少なからぬ司法関係者がその職を去ったんだ。その時、両派閥の主導的な立場に居た人物も全部居なくなっちゃったんで、その間隙を突いて京大閥が勢力を伸ばしたのさ。」
「へ~っ、そんなことがあったんだ。」
「それに法務省では、国家公務員採用上級試験に合格した職員よりも、司法試験に合格して検察庁や裁判所から出向して来ている人間の方が幅を利かせてるんだ。だから、あそこでは東大卒なんて肩書は余り意味が無いし、そういう事情をみんな知っているから、今では東大を卒業した人は誰も行きたがらないらしいよ。」
「ふ~ん、なるほどね~っ。」
やっと理英も納得する。
「まあ、法務省や検察庁には利権なんかの旨味が殆んど無いから、上手くいったんだろうけどね。僕が検察庁に入るんだったら、その中で出世するには学閥的に京大の方が有利なんだけど、まだそこまでは決めてないや。」
「どうして?」
「だって僕は検察庁に入ったら、出世をするよりも、調べ直してみたい事件があるんだ。」
「でも、それってある程度偉くならないと、勝手に捜査できないんじゃないの?検察庁に入って直ぐに捜査の指揮を執らせてもらえるの?」
「そうかな?検察官っていうのは『独任制の官庁』だよ。」
「『独任制の官庁』ってどういう意味よ?」
「つまり、検察官はそれぞれが検察権を行使することができるってことだよ。検察庁っていうのは、検察官たちの事務を統括する官庁に過ぎないってことさ。」
「じゃあ、検察官はそれぞれが勝手に動いてるって訳なの?」
「いや、確かに検察官には、刑事裁判における訴追官として、各審級を通して意思統一が必要だから、形式上それぞれの検察官は検事総長を頂点とした指揮命令系統に服するんだけどさ。これを『検察官同一体の原則』って呼ぶらしいよ。」
「それじゃあ、上司に捜査を止めろって言われたら、やっぱり捜査できなくなるんじゃないの?」
「いや、仮に上司の決裁を受けないで捜査を開始したり、上司から不起訴処分にするよう指示された事件を起訴したりしても、その捜査や起訴が違法とされたり、無効になることはないんだよ。」
永渕はそう言うと、理英に向かって片目を瞑って見せた。
「さて、長々と脱線しちゃったけど、本題に入ろうか?まだ明治や付属や日新館が参加していなかったとはいえ春の業者テストの結果では、君は北九州市でも五本の指に入るほどの才女なんだ。安直にそのまま門司高校に進学しても良いの?当然それは、僕とは離れ離れになることを意味するんだけど・・・」
永渕の科白に出てきた「明治」というのは、「明治学園」という安川敬一郎と松本健次郎によって創立された私立の小・中・高校のことで、ここでは明治学園中学校のことである。戸畑区仙水町にあるカトリック系キリスト教の学校で、高校は女子高しかないが、中学校までは「男女併学」を採用している。「男女共学」ではなく「男女併学」と言うのは、学園内では男子生徒と女子生徒が厳格に区分けされていて、「男女交際禁止」が校則になっているからであり、これを破った者には退学処分が待っている。尤も、陰でこっそり付き合っているカップルもいるらしいのだが・・・
この学校の始まりは明治専門学校(現・九州工業大学)が、教職員の子弟のために1910年(明治43年)に設立した附属小学校であり、その頃の名残でこの学園の敷地は九工大・戸畑キャンパスに隣接している。明専が官立に移管された際に独立して、それ以降は明専創立者の安川家が中心となって運営に当たっていた。しかし戦後の経営難の際に、コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会に譲渡され、以後カトリックの学校として初等・中等教育一貫校として今日まで続いている。
この時の経営危機の影響が残っているのか学費は驚くほど高く、世帯年収が800万円を超えていないと、とても学校側の寄付金等の要請には応えられず、そうなってしまうと子供が学内で不利な扱いを受けるという噂が流れている。ここの卒業生には、「外務省機密漏洩事件」で西山太吉記者の上司であった毎日新聞の三宅久之や、NHKのアナウンサーである宮本隆治がいる。
なお、ここの高校は女子高しかないことは先に述べたが、そのためここの中学を卒業した男子生徒のうち、優秀な者は「西の御三家」や久留米附設へ進学することになっており、ここから東筑や思永館へ進む者は「出涸らし」と陰口を叩かれているようだ。また、この学校は敷地が狭くてプールが無いため、小学校からずっと居ると鉄槌になってしまい、高校以後は水泳の授業で苦労するとのことである。
「付属」というのは、小倉北区下富野にある国立の福岡教育大学教育学部附属小倉中学校のことである。福岡教育大学の附属校として、教育研究や教育実習の場になっている。同じ系列校に福岡教育大学教育学部附属福岡中学校や福岡教育大学教育学部附属久留米中学校がある。長年、福岡県内の教育界をリードする存在だったのだが、ある不祥事が原因でその地位から転落してしまっただけでなく、県内の受験地図さえも塗り変えてしまったのである。
福岡教育大学の三つの付属中学は国立の学校であるため学費が安く、長い間貧乏な家庭の優秀な生徒たちの受け皿になっていたのたが、1968年にここの福岡小学校で、入試における不正採点に絡む贈収賄事件が発覚し、校長・教頭と複数名の教職員が収賄罪で逮捕されるという不祥事が発生したのである。この事件を契機に福岡教育大学の全ての付属校で、入試ではペーパーテストが廃止されて、志願者による籤引き抽選のみになってしまったため、入学してくる生徒のレベルが著しく低下してしまったのである。受け入れた側の教職員たちも、これまで発生したことが無かった、喫煙・飲酒・万引き・校内暴力といった一般の中学校と同じ様な問題の処理に奔走することになって、すっかり疲弊してしまっているという噂である。
この受験制度の変更によって、付属中学を志望する成績上位者は行き場を失ってしまったが、その受け入れ先として名乗りを上げた学校が久留米大学附設中学校である。附設高校は1950年に既に開校していたが、この不祥事の翌年である1969年に中学校も開設したのである。昨年の春、つまり1975年にこの中学入学組一期生が大学受験を迎えると、東大合格者数は一気に三十人を超えて、鹿児島ラ・サールに次ぐ九州第二位の地位を固めてしまったのである。このため、付属中学の進学実績は著しく下落してしまい、父兄の間ではその衰退ぶりが問題視されているのである。
「日新館」というのは、日新館中学校という小倉北区片野新町にある私立中学校のことである。1974年に権堂義幸氏によって創立され、現在は学校法人美萩野学園によって運営されている。2年前にできたばかりの新しい私立中学校であるため、まだ高校への進学実績などは出ていないが、創立時の大々的な生徒募集活動によって、結構優秀な生徒が集まっているとの評判である。成績の良い生徒は特待生として遇され、学費の減免等の優遇措置があるため、北九州市内においては本来なら付属へ進学する筈だった生徒たちの受け皿になっているようなのである。
「それは嫌だなぁ。」
眉根に皺を寄せて理英が呟く。
「それじゃあ、次善の策として、僕と二人で思永館へ進学することも、少しは考えてみてくれない?二人手をつないで思永館に通学するのも、悪くないと思うんだけどなぁ。」
「あらっ、随分と魅力的な条件ね。本当は二つ返事で『行く』って言いたいんだけれど、思永館へ進むんだったら、まず受験資格を得るために、住民票をどうするのかを考えなくちゃいけないでしょう?親になんて言えば良いのか・・・」
すると、それを聞いた永渕が口を開いた。
「だったら、ピッピ、うちの肇伯父さんに会ってみない?」
「ブチ君の伯父さんって、何やってる人なの?」
「今、北九州市役所で働いてるよ。建設局に居るんだ。寄留したいのに第3学区に親戚が居ないっていうんだったら、それも含めて相談をしようよ。きっと力を貸してくれるから!」
「分かった、考えとくわっ!」
そう言うと理英は、それきり黙り込んでしまったので、暫く二人とも無言のままで通学路を歩くことになった。永渕にとって、思い詰めた表情で口数の少なくなった理英の姿は珍しかったので、つい、
「ねえ、どうせなら伯父に会う前に、夏休みを利用して思永館を見学しに行かない?どういう学校か知っておくのも悪くないと思うんだけど・・・」
永渕のその提案を受けて、理英は、
「そうね。何も分からないまま志望校を決めちゃうのも不安だしね。いつ行く?」
「夏休みに入ったら直ぐに、って言いたいけれど、思永館では夏休みに入っても、毎日お盆の頃まで補習をやってるらしいからね。お盆の間の都合はどうっ?」
「お盆はお墓参りとか色々あるから・・・」
「だったら、補習が無いと思われるお盆の直後にしようよ。夏休みにはいろいろ予定を入れてあるけど、終業式が終わったら、さっさと宿題を終わらせて、時間を空けておこうよ。」
ここ北九州市は、地理的に特殊な状況下にある。理英や永渕の住んでいるこの町は、東西に貫く旧国道3号線とその上を走る路面電車で繋がっている。そしてこの西鉄の路面電車の軌道がある旧国道三号線を境に、海側と山側で住民の階層が違うのである。海側は、旧制の高等小学校か新制の中学校までしか行けなかった者が多く住み、山側には旧制の中学か新制の高校以上に進んだ者が多く住んでいるのである。つまり、その人の学歴で住むエリアが峻別されているのである。
当然、就いている職業も違ってくる。海側は永渕の父親のようなブルーカラーが多く、山側は理英の父親のようなホワイトカラーが多いということになる。海側が古くからの住宅地、山側が新興住宅地という区分もできるが、1953年(昭和28年)に起きた大水害とそれに伴う山津波によって、水に浸かった地域と助かった地域に分けることもできる。無論、海側が水に浸かった地域、山側が水に浸からなかった地域である。
理英の父親は新制高校から大学へ進んでいたが、永渕の父親は途中でその父親(永渕の祖父)が急死したため、旧制中学を中退していた。つまり最終学歴は高等小学校卒にしかならないのである。永渕の言に拠ると、彼の父は祖父の急逝で進学を諦めなければならなかったことの無念さを、現在は永渕たち兄妹の教育に注ぎ込み、こと勉強に関してはいろいろと厳しいのだそうである。理英はそんな噂話を同級生達からも聞かされていた。
やがて夏休みも半分以上が過ぎて、鳴いている蝉の声も蜩や法師蝉に変わった頃、約束の日がやって来た。前日の夜半から急に雨が降り始め、早朝には篠突く雨で視界に映る街並みも煙っていたが、太陽が高くなり始めると徐々に雨脚が衰えて霧雨になり、昼近くになってやっと上がった。雨上がりの街角は、差し込み始めた陽の光を浴びて輝いて見えた。海の色を写したような澄んだ青空が広がり、まだ少し蒸しているが、海から吹いてくる蒼い風がそれを払い除ける様に過ぎって行く。この様子では、今日も暑くなりそうだ。
今日は二人とも殿上中学の制服を着て来ている。理英は白いシャツに紺の吊りスカート、永渕は白い開襟シャツに黒いズボンと、いつもの登校時の服装そのままであった。夏休み中に他校を訪問するのだから、私服でも良いんじゃないかとも思ったのだが、永渕が仕入れてきた情報では、他校の生徒であっても制服を着て訪問しなければ、門番のような体育教師が、不審者と見做して竹刀を振り上げて門前払いにするということだったので、追い払われないように用心して来たのである。せっかくデート気分で小倉に出かけられると思った理英だったが、そういう事情があって今回はお粧しするのは諦めざるを得なかったのである。
午前中の遅い時間帯に「内裏東口」の電停で落ち合った二人は、魚町で途中下車して鳥町食道街にある「だるま堂」という店で少し早いランチを摂った。鳥町食道街は、国鉄小倉駅と西鉄の魚町電停の中間に位置しており、安い飲食店が軒を連ねている、戦後の闇市の雰囲気を色濃く残したエリアである。この辺りは日が暮れ始めると、酔客に混じって工藤組という暴力団の構成員が、仕込み杖を持って闊歩しているらしい。通り一本向こうには、近代的なビルが立ち並ぶ平和通りがあるだけに、そのコントラストは一層強く感じられる。
この食堂街や魚町銀天街の古くからある商店の中には、壁などに弾痕が刻まれた店舗が幾つも残っているが、これは太平洋戦争の傷跡ではない。戦後になってから起きた「小倉黒人米兵集団脱走事件」の名残である。「小倉黒人米兵集団脱走事件」とは、1950年7月11日の小倉祇園祭の二日目の夜、勇壮な祇園太鼓の旋律と祭礼特有の華やぐ雰囲気に誘われたのか、アメリカ軍の駐屯する小倉市(現:北九州市)の城野キャンプから、約250名(記録によって違いがあり、238~249名)の武装した在日米軍のアフリカ系アメリカ人(黒人)兵が集団で脱走し、繁華街や周辺民家に侵入して、数日に亘って破壊・略奪・殺人・傷害・強姦・恐喝等の犯罪行為を繰り返した騒擾事件である。
脱走兵らはカービン銃やライフル銃を携行し、手榴弾まで持ち出していたため、少数のアメリカ軍憲兵と小倉市警察だけでは対処できず、最終的にアメリカ陸軍二個中隊が鎮圧のために出動する事態となった。鎮圧部隊と脱走兵との銃撃戦が続いた挙句、市街戦の末に15日になってようやく鎮圧された。彼らは脱走前日の10日に岐阜から城野キャンプ第25師団第24連隊に移送されていて、近日中に朝鮮戦争の最前線に投入される予定であったという。
事件当時はアメリカ軍を中心とした国連軍が連戦連敗している劣勢の時期であったため、危険な戦場に送られる恐怖心と自暴自棄が脱走に繋がったものだが、結局生き残った逮捕者は朝鮮半島の激戦地に白人兵の「弾除け」として送られ、殆んどが戦死したということである。尤も、後に九州のテレビ局がこの部隊の生存者数名を探し当てて、ドキュメンタリー番組を制作しようとしたことがあったが、取材意図を察知した当事者たちから取材スタッフが袋叩きに遭ったうえ、撮影機材を壊されたため、それ以上は取材が進められなくなるという一幕もあった。
このような大事件であったが、当時の日本は連合国軍の占領下にあって、GHQによって報道管制が敷かれていたことから、殆んど報道されることはなかった。作家の松本清張氏が後に自叙伝に書いているが、1954年(昭和29年)に上京した際、この事件について東京に住む人間に尋ねて回ったところ、誰も知らなかったことに大変驚いている。これは東京の人間が九州の出来事について無関心であった訳ではなく、それくらいGHQの情報統制が徹底していたということなのであろう。
しかしそんな状況下でも報道に踏み切った気骨のあるマス・メディアもあるにはあった。それは「朝日新聞」と「しんぶん赤旗(掲載当時は『アカハタ』であったが、1か月間の発行停止処分中だったため、地域ごとに臨時の「〇〇民報」という日刊紙の形で発行していた。)」であり、しかも報道後に朝日新聞社は責任者が3度もMP司令部に呼びつけられて恫喝されたという話である。
日本共産党にいたっては、1948年から米国本土で始まったジョセフ・マッカーシー共和党上院議員によるマッカーシズム(McCarthyism)、所謂「赤狩り」の影響もあって、その対応は一層厳しいものになった。アメリカ本土では、既に赤狩りによって、ドルトン・トランボ(Dalton Trumbo)を始めとするハリウッド・テン(The Hollywood Ten)のメンバーや、プロレスラーのジョージ・ゴーディエンコ(George Gordienko)等が被害に遭っていた。日本でもこの年から、GHQが「逆コース」をとって「レッド・パージ (red purge)」を開始していたため、関係者が軍事裁判にかけられて実刑判決を受けたうえ、「アカハタ」は無期限発行停止処分という一段と重い処分へと改められている。
この事件で警察に届けられた被害は一晩で78件にも上ったが、到底犯人の逮捕や処罰・被害の補償を望めない状況であったため、被害者やその周囲がひた隠しにして表沙汰にならなかった事件も多数存在し、被害の実態は今もって分かっていない。殊に強姦事件は外聞を憚って泣き寝入りする者が多く、事件後に多くの黒人ハーフが生まれたというが、事件を隠蔽するためにそれらの子供たちの殆んどは、連合国軍の仲介で中南米へ養子に出されて消えていった、と噂されている。
「だるま堂」は、北九州市を代表するB級グルメ「焼うどん」発祥の店である。「焼うどん」とは、肉や野菜と一緒にうどんを炒め、ソースや醤油で味付けするなどした料理で、現在では市内の多くの飲食店で提供されている。終戦直後にこの店が、食糧難で入手困難だった焼きそば用の麺の代わりに、乾麺のうどんをゆでて使ったことがルーツとされている。理英たちが店の中に入ると、ラジオか有線放送でも流しっ放しにしているらしくて、場違いとも思える立木久美子の『思い出のカルチェ・ラタン』が流れていた。永渕の情報に拠ると、この歌手は余り売れなかったらしいが、麻丘めぐみの実姉なのだそうだ。
店舗自体は古く、年代を感じさせるものだったが、壁には各ビールメーカーの新商品のポスターに交じって、アグネス・ラムというアメリカのモデルが、真っ赤なビキニ姿で写っているクラリオンのポスターが貼ってあった。最近話題になっているモデルで、今年の6月にトロント大学留学のために引退を発表をしたアグネス・チャンと入れ替わるように、よく街中でその姿を目にするようになっていた。ポスターでは同性の理英も憧れるようなプロポーションを披露していたが、永渕は全く興味が湧かないらしく、他のポスターと一緒にチラリと一瞥しただけだった。ひょっとしたら永渕が興味津々といった目でまじまじと見詰めるのではないか、と理英は危惧していたのだが、どうやら杞憂に終わったようだ。理英は、永渕が本当に貧乳教の信者なのかもしれないと判断して、ホッと安堵の胸を撫で下ろした。
ソースの焦げる香ばしい匂いに食欲をそそられた二人は、麺の上に半熟の目玉焼きを落とした「天窓」を注文して食べた。この食堂街には他に、カレーやサモサが美味しいインド料理店の「デリー」や「肉じゃがスパゲッティ」で有名な「灰殻亭」もあったのだが、中学生のお財布でも余裕で賄える金額設定だったので、ここを選んだのである。二人は食事を終えると、再び魚町の電停から路面電車に乗って、日明へと向かった。
思永館高校は、小倉北区にある愛宕山の中腹に校舎を構えていて、「日明」の電停のすぐ近くにある。二人の住居からの最寄の電停は「内裏」か「内裏東口」だから、ここから西鉄の戸畑行きの路面電車に乗ってしまえば、1時間近く掛かってしまうが乗り換え無しで着いてしまう。途中の「大門」という電停の近くで、路面電車の軌道は二股に分かれるが、そのまま山の方へ登って行けば、次の「日明」の電停のすぐ近くに思永館高校の正門と、そこへ続くなだらかな坂が見えてくる。因みに日明の電停の近くには有名な精神病院もあって、そこの患者には思永館で落ちこぼれて心を病んでしまった生徒が多く入院しているという都市伝説がある。
日明の電停が近づくと、電車の窓から思永館の校舎が見えてきたので、二人は迷うことなく正門まで辿り着くことができた。お盆の直後とあって、正門周辺どころか校舎の方にまで人影が見えなかった。思永館の正門を潜ると正面に蘇鉄の木が植えられており、その背後に校舎が建っているが、すぐ手前の右手には、木造平屋建ての同窓会館や同じく木造の武道館が並んでおり、その一角に鉄筋コンクリート造りの講堂も建っていて、ホールの方からは様々な楽器の音色が聞こえていた。おそらく吹奏楽部が音出しをしているのであろう。
「へえ~、ここは体育館とは別にホールがあるんだ。立派だねえ!『文化果つる街』って陰口を叩かれている都市の学校としては、上出来じゃない?」
永渕がそう言うと、理英も即座に反応した。
「楽器ができるのって、良いわよねえ~っ。特にバイオリンとかフルートは憧れちゃうわ。」
「音色から判断すると、管楽器ばかりで弦楽器の音は聞こえないから、吹奏学部があるんだろうね。でも、君がそういうものに興味があるとは思わなかったな。」
「だって、バイオリンやフルートができる女の子って、清楚で繊細で優雅で上品で可憐なイメージがあって、何となく良いところのお嬢様って感じに見えるじゃない?」
理英のその返事を聞いた永渕は、噴き出してしまった。
「それはまさにイメージだけ、だけどね。」
「ねぇ、ちょっと中を覗いてみない?」
理英はそう言ってホールの方へ歩み寄ると、左手でチョイチョイと永渕を手招きした。
ホールは正門を潜ると校舎の右手側に、校舎に対して垂直の向きに建っていたが、その入口は奥の左端、つまり校舎側の側面のみになっており、入口のドアは風を入れるために開いていた。ホールの入口から続く通路の奥、つまりホールの右端には吹奏楽部の名札が掛かった扉があって、そこが吹奏楽部の部室か楽器庫らしかった。通路の右手側はガラス扉が並んでおり、このホールを使う時は短時間で生徒を収容できるように、全て開き放たれるようになっていたが、今は夏休み中ということで全て閉じられて施錠されていた。左手側にはホールへの入口と思しき、防音機能を備えた重厚な扉が二つ並んでいた。
そのうちの手前の扉をそっと開けてみると、中から金管楽器の音が飛び出してきた。中を覗くと向こう中央にステージがあって、客席はそこに向かって擂り鉢状に配置されていた。ゆうに2000人は入れそうな規模のホールだ。この扉は一階席と二階席の間を分ける通路に繋がっていたのである。ステージ上にはトランペット・トロンボーン・ホルンといった金管楽器奏者が十数名、パイプ椅子を並べて音出しをしていた。よく耳を澄ませばホールの裏手からは、ユーフォニアムやチューバといった低音楽器の音も聞こえてくる。
「貴方達、何してるの?」
ホールの中を覗いていた二人の背後からそう声を掛けてきたのは、手を後ろ手に組んだ小柄な制服姿の少女だった。身長は140cm前後だろうか。クラスメイトで一番小さい摂津美恵子と同じ位の背丈である。ショートカットにした黒髪の下には陽に焼けた顔があり、勝気そうな吊り目気味の大きな瞳が印象的だ。制服は上が白い開襟シャツで、下は明るい灰色で襞の広いプリーツスカートを履いている。呼び掛けられた理英は、不用意に笑顔で挨拶をした。
「こんにちは。私、殿上中学校の寛永寺理英といいます。こっちはクラスメイトの永渕陽一君。今日は受験する学校の下見に来てるんだけど、貴女もそうなの?」
完全なタメ口で話す理英の脇腹を、永渕が肘で突つついた。
「えっ?」
という顔で理英が顔を向けると、永渕は無言で少女の足元を指差していた。理英の視線が永渕の指先を辿っていくと、そこには白い上履きがあった。
「あっ!ひょっとして思永館の生徒さん?ごめんなさい。私たちの先輩に当たる方ですよね?」
「そうだよ。『霜降り』の制服を見れば分かるだろう?」
永渕が声を潜めて理英の耳元で囁く。
「ここの制服のことまでは知らないわよ。」
理英も小声で反駁する。
「思永館の『霜降り』の制服は有名だよ。」
思永館の制服は特殊である。冬服は一般の公立高校と同じく、男子は黒の詰襟の学生服で下に白いカッターシャツを着る。女子は濃紺のダブルのスーツでスカートは膝下10cm、ネクタイやリボンの類は無く、下に白いブラウスを着ることになっている。これに男子には間服が入る。「霜降り」と呼ばれる小倉織の生地のグレーの詰襟の学生服を着るのである。夏服ではこの上着を脱ぎ、上は白い開襟シャツ姿になる。女子もこれに合わせて、白い開襟シャツに「霜降り」のスカート姿になるのである。これに加えて制鞄があり、女子は他の高校と変わらない革製の手提げ鞄であるが、男子は旧制中学時代と同じ白い帆布製肩掛け鞄になる。
「先輩とは知らずタメ口をきいてしまって、すみません。私たちと同じ下見に来た中学生かと勘違いしちゃって・・・」
理英は永渕との応酬を中断してそう詫びると、その少女は眉をピクリと動かして、少し険しい表情になった。つい新しい友達ができるとばかりに気安く声を掛けてしまったことに、理英は臍を噬んだ。
「私、中学生に見えたってこと?」
先程までの和やかな声のトーンと違って、霜が降りた様な冷ややかな口調に変わっていた。
「ええ。ちっちゃかったから、つい・・・」
その理英の物言いが癇に障ったのか、そこまで言ったところで、その少女は柳眉を逆立てると声を荒らげて言い放った。
「ちっちゃいって言うなっ!」
理英はどうやら知らないうちに地雷を踏み貫いてしまったようだ。背が低いことは、この少女の劣等感になっていたのだ。うっかり逆鱗に触れてしまった理英は、急にオロオロし始めた。永渕が理英のこんな姿を目にするのは、初めてのことである。珍しいものを見たといった表情で、永渕が理英に視線を送っていると、
「私は高田敦子、16歳!歴とした思永館高校の1年生よっ!」
と、その少女が大音声で名乗りを上げた。それを聞くと、今度は永渕の方がギョッとした表情になった。
「高田敦子って、あの菊陵中学の高田さん?」
永渕がそう問うと、高田敦子と名乗った少女は怪訝そうな表情になった。
「あら、貴方とは何処かで会ったことがあるのかしら?」
理英も声を潜めて尋ねる。
「ブチ君の知ってる人なの?」
そう問われた永渕は、直ぐにいつもの表情に戻って答えた。
「いや、名前を知っているだけですけど。超有名人ですから・・・」
その返答を聞いた高田が重ねて問う。
「私ってそんなに有名なの?」
「そりゃ、そうですよ!今年の春、学附の外部入試に合格した、全国にたった4人しか居ない才媛ですから。」
「学附」こと東京学芸大学附属高等学校は、東京教育大学附属高等学校、東京教育大学附属駒場高等学校と共に「国立御三家」と呼ばれ、それぞれが毎年東大に100人前後の合格者を出している、超有名進学校のことである。東京学芸大学付属高等学校は、東京の世田谷区下馬にある国立の東京学芸大学の附属学校である。戦後の1954年(昭和29年)に東京学芸大学教育学部附属高等学校として開校しており、通称を「学附」と言う。学年の約2/3は東京学芸大学付属附属中学校の3校(世田谷、竹早、小金井)から附属中学校枠で入学できるが、この入試は一般の中学生が受ける外部入試と同じ日に全く同じ試験問題で行われる。7年程前に世田谷で米穀店を営む永渕の又従兄がここに合格したため、親族の間で噂になったという話を聞かされたことがある。
東京都では1967年から学校群制度が導入され、1970年の大学受験の頃からその影響が出始めていた。「学校群制度」とは、学区毎に幾つかの学校で数個の学校群を設定し、その群の中ではどの高校も生徒の学力が均等になるように、合格者を振り分ける選抜方法のことである。ただし、都立高校の全日制普通科のみが対象であったため、この学校群制度の実施によって国立・私立の高校の地位が相対的に上がることになった。
この制度は、学校群内各校の学力格差を無くして均質化を果たしたことで一定の成果を挙げたとも言われているが、新たに学区内の学校群間における入試難易度の格差を発生させていた。また、原則として本人の希望に関わりなく合格者を学校群内各校に振り分ける仕組みであるため、受験生の選択の自由は大きく制約されてしまい、実施当初から受験生には不評な悪制だったのである。
これは東京都が無理矢理受験生等の不満を抑え込み、マスコミも阿諛追従してその功の部分だけをことさら喧伝したことで、外からはそういった負の部分が見え難くなっていた。そのため良いことだらけに見えたこの制度は東京都を皮切りに、その後全国へと広がっていく様相を見せており、最近は猖獗を極めていると言っても良い。事実、後を追うように千葉県・愛知県・岐阜県・三重県の4県も学校群制度を採用し始めていて、更に福井県もこれに追随する姿勢を見せているのである。
このため、高校受験生の間では都立高校を避けてそのまま国立大学付属校いわゆる「国立御三家」に進学するというケースが増えたのである。特に千代区立麹町中・一橋中の成績優秀者は、日比谷高校→東大というゴールデンルートが出来ていただけに、動揺は大きかった。しかし学校群制度導入以降、このルートにおける日比谷高校は、「国立御三家」に取って代わられてしまった。学校群制度導入によって、都立高校の衰退が始まったのである。
その影響は生徒たちだけに留まらなかった。実は日比谷や戸山等の都立高校で東大合格者が多かった学校は、生徒だけではなく教員も優秀だったのである。これらの学校の教員たちは、こういう進学校における長年の経験と技術の蓄積から、独自に受験指導法を確立していて、生徒を効率よく東大に送り込む術に長けていたのである。東京都はこの教師陣を他校に移して、学校間に生じた格差の解消を狙ったのであるが、彼らは転勤の辞令に従順に従う者ばかりではなかった。進学実績を上げていて、塾や予備校から引く手数多だった教師たちは、櫛の歯が欠けるように都立高から去ってしまった。こうして都立高校の地盤沈下が進んでいったのである。
しかし、東京都は委細構わず学校群制度導入に合わせて、都立高校教職員の人事異動を大量に行い始めた。このため、3桁の東大合格者を輩出していた日比谷・西・戸山・新宿・小石川・両国といった名門都立高の没落が始まり、特に毎年200人近い東大合格者を出していた日比谷高校は、最近では西の御三家や東京の私立御三家・国立御三家に全く歯が立たなくなってしまっていた。
学校間格差の解消を目的として始まったこの制度は、名門都立高の学力レベルが大幅に下がることによって格差がなくなり、その所期の目的を達したとも言える。だが、首都としての影響力の大きさを考慮しなかったため、その一方で全国の受験地図を大きく塗り替えてしまったと言っても良い暴挙でもあった。名都知事と言われた東龍太郎、最大の失政である。そして後任の都知事、美濃部亮吉もこの政策を疑うことなく踏襲したため、教育界にとって取り返しのつかない事態に至ってしまったが、表立って批判をする者は意外にも少なかった。これは学校群制度導入に当たって、学校間格差が解消できることを理由に、マスコミや有名文化人による援護射撃があったことが大きく作用している。後にノーベル文学賞を獲得する作家の大江健三郎氏もそういう支持者の一人であったため、実は永渕が毛嫌いしていることを、理英は知っている。
と言うのも、永渕には学校群制度について一家言あったからである。理英はそれを耳にしたことがある。永渕に言わせると、こうである。自分たちのような貧乏人の子弟がその境遇から抜け出すためには、学問かスポーツで身を立てるしかない。そして学問の方を選んだ場合、最も手っ取り早い方法は、やはり東大に入って立身出世をすることではないか、と。つまり永渕の様な貧乏人の子弟にとって学校群制度は、これまではお金をかけなくても東大へ進学する道が開けていたのに、それを閉ざしてしまう制度だということになるのである。そしてこれからは、お金のかかる私立高校へ入らないと、東大へ進学する道を切り拓くのが困難になったのではないか、ということを時々口にしていたのである。
端的に言えば、東京都が日本の首都であることを忘れ、他の地方自治体に与える影響の大きさを無視して、自分たちのことだけしか考えなかった挙句、こういう事態に至ってしまったことに、永渕は貧乏人を代表して怒髪天を衝いていたのである。しかしそれでも永渕は最近まで、都知事の職を継いだ革新系の美濃部亮吉知事に、一縷の望みを抱いていたようなのである。美濃部が蛮勇を振るって学校群制度を覆せば、まだ都立高が挽回できる余地があったようなのだが、彼が無分別に前任者の施策をそのまま踏襲してしまったことでその芽を摘んでしまい、永渕は期待を裏切られて甚く失望していたのである。
「国立御三家」にはあと二つ、「附属」と「教駒」がある。その一つである東京教育大学付属高等学校は、1888年(明治21年)に官立の高等師範学校の尋常中学科として昌平黌跡に設立された、80年以上の歴史を有する国立の高等学校である。今の住所で言うと、東京の文京区大塚に存在する。1950年からは男女共学となり、現在は中学校、高校ともに外部からの入学を受け入れているが、完全な中高一貫ではなく、中学から高校へは一般入試とは異なる「内部連絡入試」を経て、男女それぞれ上位80%くらいしか進学できない。そのため、附属小学校からの内部進学者は、中学では学年の3分の2くらいまで、高校では3分の1くらいしか残れないことになる。また東京教育大学の附属校であるが、同大学への特別な内部進学枠は存在しない。
附属中学校には制服があり、男子は海軍兵学校型の学生服、女子はセーラー服である。高校もかつては中学と同じ制服であったが、1970年(昭和45年)2月に生徒自治会および教員委員会の決定によって服装規定が廃止されてなくなり、現在は私服になっている。 高校のモットーは「自主、自律、自由」であり、通称は単に「附属」と呼ぶ。全国レベルで「附属」と呼ばれているのは、この学校だけである。
そして最後の「国立御三家」の一角である東京教育大学付属駒場高等学校は、1947年(昭和22年)に、旧制東京農業教育専門学校の附属新制中学校として設立された国立の学校である。その後、1952年に改称して東京教育大学附属駒場高等学校となったため、通称は「教駒」と言う。国立の中学校・高等学校では、日本でも唯一の男子校である。ここも東京教育大学の附属校であるが、同じく大学への特別な内部進学枠は有していない。「駒場の自由」「六年間の自由空間」といった言葉ができるほどの自由な校風で知られ、制服の無い学校となっている。この学校のすぐ傍には、永渕の従兄たちが通ったという駒場東邦高等学校などがある。
教駒は大学受験においては、主に東京大学への高い合格率を誇る学校として知られている。戦後の1947年に新設されて以降、徐々に進学実績を伸ばし始め、都立高等学校への学校群制度が導入された1970年頃を機に、卒業生の半分程度が東京大学に進学するようになっている。毎年発表されるマス・コミの受験ランキングにおいては、灘高校や開成高校等と互角以上の戦いを繰り広げており、東大進学率ではトップに位置づけられている。
このうち、附属には事実上の学区が存在する。附属は、保護者と同居していることを条件にしており、そこから1時間以内で通学できる者にしか受験資格を与えていないのである。このことは入学時に住民票で確認されるが、この通学時間の制限には、新幹線による通学すら認めてはいないのである。かように附属は、通学時間1時間以内というルールを厳しく守らせているのである。
これに対して教駒と学附には、居住地域による制限は存在しない。つまり両校は、北海道から九州まで遠隔地出身者を受け入れているのである。教駒については、首都圏の1都3県を通学区域と定めて、ここに居住する者だけに受験資格を制限しようという動きがあるにはあるが、まだ実施されてはいない。しかしそれでもなお、教駒には理英にとっては高い壁があった。教駒は男子校のため、女の子では受験することすら叶わず、理英はこの学校の名前を聞く度に、男の子のことを羨ましく思うのである。
そして教駒と学附は国立校であるため、かかる学費は私立の高校よりも、格段に安く済むというメリットがある。そのため腕に覚えのある秀才たちが、日本中から大挙して出願して来るのである。当然、入試のハードルは恐ろしく高くなっている。
特に学附は男女共学であるにも拘らず、今年の女子生徒の合格者が4人しかいなかったことからも、そのレベルの高さが窺え、ここの入試は謂わば3年後の東大入試の前哨戦と化している、と言っても過言では無い。そういう事情があって女の子ながら一般入試で合格できる子は、例年一桁しか出ていないのが実情である。そんな女の子が北九州市にある公立中学から出たという情報が、永渕たちの様な上昇志向の強い中学生の耳に入らない訳が無い。普段はあまり女の子のことに興味を示さない永渕であるが、こういう女の子のことならば寧ろ興味を抱かない方が不思議なのである。永渕が有名人と言ったのは、そういった理由があるのである。
「でも、噂の高田さんがこんなに可愛い人だとは思わなかったな・・・」
永渕が付け加えるように、思わず本音を漏らす。しかしそれを聞いた高田は、片足を斜め後ろの内側に引き、わざとらしく指先でスカートの両端を摘むと軽く持ち上げて、
「ありがとう!」
と、頭を下げてお礼を言った。カーテシー(curtsy)である。それを見て、理英は内心思った。
「何よ!ブチ君の『可愛い』っていうのは、私の『ちっちゃい』と同じ意味じゃない!物は言い様よね。」
思わず理英は高田を睨み付けてしまったが、高田の方はふふんっと笑って受け流しただけで、今度は突っかかってこなかった。どうやら向こうは連れの永渕を気に入ったようである。こうして日本で5本の指に入る才媛と、市内で5本の指に入る才女の衝突は寸前で回避されたが、理英の気持ちは一向に収まらない。この一連のやり取りで、モヤモヤしたものを抱えてしまったのだ。身近な男が別の女にデレデレしているのを見るとむかっ腹が立つものであるが、そこまでいかなくても、今の永渕の様に尊敬と憧憬の眼差しで見詰めているのが同世代の女の子であれば、それはやはり同じことなのである。
「高田さん、できればこの娘の無礼を、許してやってもらえませんか?」
永渕が高田に頭を下げる。
「いいわよ。でもカノジョの教育はちゃんとするようにね!」
高田も鷹揚な返事をする。しかしそれを聞いた二人は、微妙な表情を浮かべた。その表情の変化を目敏く捉えた高田は、二人の関係を見透かすように、首を傾げながらこう問い掛けた。
「あらっ!最初に見た時は、二人はカップルだと思ったんだけど、違うの?」
高田の突然の不意打ちに、二人は顔を見合わせたが、
「天敵ですっ!」
「目の上のたん瘤ですよっ!」
と、同時に言い放った。それを聞いた高田は、アハハハッと笑った。
高田が永渕の方を向いて厳かに言う。
「今日は学校の下見に来たって言ったわよね。一つだけ忠告してあげる。ここは皆が思っているほど良い学校じゃないわよ。生徒たちは確かに全員、入学した時点で九大に入れる位の学力水準にあるわ。でも、教える方が駄目よ!生徒たちの素養の上に胡坐を掻いているんだから。どう教えたらいいのかが分からない教師が多過ぎるのよ。だからここで過ごす3年間で、皆どんどん脱落していっちゃうわ。私は東京での一人暮らしを懸念する両親を説き伏せられず、『学付』に行きたいって我を通せなかったことを、今では後悔しているわ。」
「えっ!そうなんですか?」
永渕が驚いた表情を見せる。
「それに学校側は時代遅れで理不尽な校則や伝統を盾にして生徒を締め付けるから、人間の器が小さくなるわよ。よく、『大言壮語の修猷館、ガリ勉の思永館』って言われるけれど、修猷館は国士をたくさん世に出しているのに、うちは木っ端役人しか作れないのよ。」
「修猷館」とは、福岡市早良区西新にある福岡県立修猷館高等学校という公立高等学校のことである。1784年に竹田定良が開いた福岡藩藩校・修猷館(東学問稽古所)に起源を持つ、日本屈指の伝統校であり、「六光星」を校章にしている。自由闊達な校風で知られ、校則も生徒手帳も風紀検査も存在しない。自由を尊重する気風に溢れ、学校の殆どのことが生徒の自治に委ねられているのである。そのため、自分で自分を管理するすることが求められ、自立心旺盛な生徒が多いことで知られている。
但し、大学受験に際して浪人する生徒が多いため、かつての補習科を前身とする予備校「修猷学館」が学校の裏手に存在している。ここは教員や模試も高校と共通であることから、「修猷館は四年制高校」と揶揄されているが、それでもここ10年ほどは、毎年の東大合格者数は思永館の倍ほども出している。
そしてこれまでの卒業生には、国家を支えるような著名人が輩出しているのも事実である。理英が知っているだけでも、金子堅太郎・廣田弘毅・團琢磨・安部磯雄・明石元二郎・中野正剛・緒方竹虎・田中耕太郎・笠信太郎・安川敬一郎・楢崎弥之助・八奈見乗児・山﨑拓と、枚挙に暇が無い。
「うちの生徒にはただでさえ負け犬根性が染みついているっていうのに・・・」
「負け犬根性?」
永渕が鸚鵡返しに訊き返す。
「そうよっ!うちに入ってくる生徒の大半は、灘高や愛光やラ・サールに行けなかった奴らだからね。そういったところに合格した連中は、みんな入学辞退してそっちに行っちゃうのよ。」
「そんなもんなんですかねぇ?」
「もし疑うんなら、登校している生徒を捕まえて片っ端から訊いて御覧なさい。志望校はどこですかって。九大の医学部って答える生徒は居ても、東大の理Ⅲです、とか慶大の医学部です、って答える生徒は皆無だから。木の梢を狙うより、太陽を狙った方が矢は高く飛ぶっていうのにね。」
「う~ん。」
高田の発言を聞いた永渕は、一声そう唸ると考え込んでしまった。理英には今の高田の発言が、永渕に見た目以上の衝撃を与えたことが分かった。しかしそんなことにはお構いなしに、高田は告発を続ける。
「しかも教師連中は頻繁に体罰を振るうから、生徒はみんなビクビクしているわ。」
「体罰ですか?」
理英も驚く。
「そうよ。私たちの入学式では、君が代斉唱の時に自分の思想・信条から席を立たなかった新入生の子が居たの。そうしたら体育教師の一人が、その生徒の髪を鷲掴みにすると引っ張り上げて椅子から立たせたうえ、『陛下に対して不敬だ』って言って平手打ちを食らわせたわよ。」
「そんな、酷い!それじゃあ街宣車に乗ってる右翼と同じじゃないですか?日教組(日本教職員組合)の先生方は何をしてるんですか?普段から人権だの平和だの口煩いのに。」
理英が尋ねる。
「うちでは日教組に入ってる教師は少数派よ。3割も居やしない。過半数は全教連だわ。」
「まあ、日教組もあまり褒められたもんじゃないけど、それにしても・・・」
やっと永渕も会話に復帰する。高田は更に続ける。
「生活指導をやってる熊田先生なんか、『分別のつかない子供は獣と同じだから、躾ける時には最初に一発ガツンと食らわさないとダメなんだ』って公言してるくらいだもの。」
「でも、思永館の生徒なら一度口で言えば分かる生徒が殆どじゃないんですか?」
そう反論した永渕も、自らが高校3年生になってから、その高田の科白の意味を身を以って知ることになるが、それはまた別の話である。
「そんな理屈通用すると思ってるの?言っとくけど、我が校では服装や私生活に対する教師たちの干渉は厳しいわよ。一旦目を付けられると、どうにもならないわね。何か事件が起きると事ある毎に疑われるのよ。」
「でも、そうなるってことは他にも何か根拠が有るんじゃあ・・・」
「そんなもの無いわよっ!疑われる方が悪い、普段の行いの報いだ、潔白なら証拠を見せろ、証拠が無いのならお前がやったんだろう、っていう思考の持ち主ばかりだから、中世ヨーロッパの異端審問官に近いわね。」
「さすがにそれは・・・」
「実際にそういう目に遭った生徒に聞いてみたら、『うちの学校でこんなことをしでかしそうな奴はお前しかいない、素直に言え』の一点張りだったそうよ。」
それを聞いた永渕は、嘆息しながらこう漏らした。
「まるで神奈川県警の紅林麻雄警部ですね。」
「要するに教師たちは猛々しい狼の群れより、飼い馴らされた羊の群れの方が御し易いから、ラクしたいだけよ!」
高田の舌鋒はますます激しくなる。
「でもそんなことは、この国の将来にとってマイナスでしかないわっ。理不尽な校則に順応することを覚えて卒業した生徒は、声を上げることを知らない大人になっちゃって、この国が停滞する元凶になるわよ。」
「それは考え過ぎなんじゃないですか?」
永渕が反論しようとする。
「そうかしら?例えば選挙で若年層の投票率が低いのは、政治への関心が薄れたからじゃなくて、学校教育に起因してると思うわ。他の国と比べてみて、日本でデモや抗議集会が見られないのは、『どうせ何やっても無駄だろう』って考えちゃうからだわ。私は若者が政治に関心を失くしている責任の大半は、学校教育にあると思ってるの。世の中を変えることが可能なんだと学んでないから、自分で動こうとしないのは当然の帰結なのよ。それじゃあ行動を起こす前から駄目だと決め付ける無気力な大人になっちゃうわ。」
「でも、その考え方には『臥薪嘗胆』という発想が抜けているように思うんですが。」
「夫差や勾践かっ!だけど、そんなに執念深い人って、この国にどれだけ居るのかしらね?目的を遂げる前に飼い馴らされちゃう人の方が多いんじゃないの?」
そこまで言われるとさすがの永渕も黙り込んでしまった。
高田は理英の整った横顔をチラリと一瞥すると、
「まあ、女子生徒は数が少ないから、チヤホヤして貰えるけどね。」
と言って皮肉っぽく笑った。その時、後ろ手に組んだ高田の背中から、銀色に輝く金属製の筒が覗いた。永渕は目聡くそれを認めると、
「高田さんも吹奏楽部なんですか?後ろ手に持っているのはフルートでしょう?」
と、声を掛けた。
「そうよ、よく気がついたわね!中学生の頃から吹奏楽部でフルートを吹いているの。」
そう言うと高田は、フルートを背後から出してクルリと回すと、リッププレートに唇を寄せながらアンブシュア(embouchure)を作って歌口に息を吹き込み、『ドリーゴのセレナーデ(Serenade by Riccardo Eugenio Drigo)』の導入部を吹いてみせた。この曲は理英もNHKの『名曲アルバム』で、東京藝術大学教授の海野義雄がストラディバリウス(Stradivarius)で演奏しているのを聞いたことがある。
「フルート奏者って優雅で上品なお嬢様ってイメージを持ってる子がいるんですけど、実際にやってみてどうですか?」
食い気味に永渕が尋ねる。それを聞いた高田は苦笑する。
「お嬢様のイメージとはほど遠いわよ。ハッキリ言って慣れるまでは、延々酸欠と闘いながら演奏することになるから辛いわよ。楽譜を読む時にはフルートに五線譜は必要なのかって思うし、腹筋を鍛えるからお腹に田の字ができるわよ。」
高田はそう言うなり、制服の開襟シャツを手繰し上げた。下着はブラジャーしか付けていないのか(理英はブラジャーすら付けているかどうか怪しいと思ったが)、裸のお腹が剥き出しになった。その高田の腹直筋はボディビルダーの様に、見事に6つに割れていた。
「うわっ、凄いっ!」
驚いた永渕は、そう言って絶句した。
「今年は思永館の野球部は甲子園に出なかったのに、夏休み中も練習するんですか?」
無邪気に理英が尋ねる。
「別に吹奏楽部は、野球部の応援のためだけにあるんじゃないわよ。先月の下旬にあった『全日本吹奏楽コンクール』の西部大会地区予選で勝ち上がったから、今月の最後の土日(28日・29日)に熊本市民会館で行われる西部大会本選に出場するために練習しているのよ。」
そう言えば今日はもう、8月16日である。全日本吹奏楽コンクールの西部大会(九州大会)まで、もう何日も無い。
「さっきから皆が練習している曲は何ていう曲ですか?クラシックのようですけど、聞き覚えが無いんです。」
永渕の問い掛けで気付いて理英が耳を澄ませると、金管楽器、特にトランペットとトロンボーンの合奏する音が聞こえる。恐らくパート練習をしているのであろう、女性の金切り声を模した様な耳障りなフレーズを、何度も繰り返し演奏している。
「そりゃそうよ。この曲はクラシックじゃないもの。コンクールで自由曲として吹く吹奏楽のオリジナル曲で、リーランド・フォースブラッド(Leland Forsblad)っていう作曲家の『エレクトラ(Elektra)』って曲よ。今年発表されたばかりだから、まだ知ってる人は少ないと思うわ。」
「『エレクトラ』って、ミケーネの王女でトロイ戦争の総大将アガメムノン(Agamemnon)の娘のことですか?凱旋した父親を殺害した母親のクリュタイムネストラ(Clytemnestra)と間男のアイギストス(Aegisthus)を相手に、母親の殺害を躊躇う弟のオレステス(Orestes)の尻を叩いて一緒に仇討ちをした?」
「ギリシア神話に詳しいのねっ!みんなも曲のタイトルは知っていても、そこまでの知識は無いわ。」
「そういうもんですかね?今、耳にしているフレーズは、父親を目の前で殺されたエレクトラの慟哭を表現しているんじゃないんですか?僕は楽器を演奏する上で、そういったことを理解していないと、上手く表現できないもんだと思っていました。」
「そんなもんよ。吹奏楽には『アルメニアン・ダンス(Armenian Dances)』って曲があるけど、誰もアルメニアが何処にあるかなんて気にしちゃいないわ。『韃靼人の踊り(Polovetsian Dances)』って曲が好きでも、誰も韃靼人ってどういう人たちなのか知らないわよ。」
「アルメニアは今のソビエト連邦を構成しているグルジアの南に在るコーカサス地方の一部でしょう?韃靼人はタタール人のことで、ロイ・ジェームス(Roy James)さんやユセフ・トルコ(Yusuf Turkey)さんのような人たちのことでしょうに。」
「へえ、よく知っているわね。」
今度は高田が驚く番だった。
「とことん突き詰めないと気が済まない性質なの?」
高田が尋ねる。
「いえ、父がそういうことに五月蠅いんですよ。自分に学が無いのが分かっているから、何を訊いても『自分で調べろ』としか言わないんです。そして調べ終わったら結果を報告させて、お茶を濁していないかチェックするんですよ。」
「良いお父さんじゃない!?」
「冗談じゃないですよっ!僕が小学生の頃、藤子不二雄先生の『まんが道』を読んでいたら、同人雑誌『マンガ少年』を制作するエピソードに、彼らの友人が書いた『チベット・スパイ戦』って小説が出てきたので、チベットって何処にある国か父に訊いたことがあるんですよ。その時も父は同じことしか言わなかったんで、仕方なく地図を出して調べたんですが、全く載ってなかったんでそう父に告げたんです。そしたら何て言ったと思います?」
「調べ方が悪いって言われたの?」
と、高田が答える。
「違いますよっ!『どうせ子供の読む漫画だと思って、適当な国名をでっち上げたんじゃないのか?そんな国は存在しないんだろうっ!』って言うんですよ。あの頃は新聞社も出版社も、中共の目を気にして、チベットを地図上に表示してなかったんですよ。でも父はリアルタイムで『チベット動乱』なんて出来事を、新聞やテレビを通して見ていた筈なのにっ!自分たちのプロパガンダが成功したことに、毛沢東が小躍りして喜びそうな科白じゃないですか?」
それを聞いた高田はプッと噴き出すとお腹を押さえて笑い転げた。
「父は無知なクセに権威主義だから、タチが悪いんです。」
永渕が一気に斬り捨てる。
「ふ~ん。」
高田が永渕の科白にそう相槌を打った時、三人の背後から声を掛けてきた者がいた。
「お~い、ちび助!14時から合奏練習だってよ。」
アルト・サックスを手に、眼鏡をかけた男子生徒が、声を掛けてきたのである。しかし声を掛けられた方は、
「カメっ!ちび助って呼ぶなっ!」
と、怒声を返した。そして理英たちの方を振り向くと、
「あいつ、亀井って言うんだけど、同級生の中であいつとチューバの三島の二人は、まともに私の名前を呼ばないの。ホント失礼しちゃう!」
と言って、苦笑して見せた。
しかし合奏が始まる14時までは、まだ30分以上あったため、高田は自分の左腕にはめている腕時計をチラリと確認してから、
「良かったら、校内を案内してあげようか?」
と言って、二人をホールの横にある同総会館へ誘った。
「さっきの話ですけれど・・・」
同窓会館の方へ歩き乍ら、さっきから思案顔をしていた永渕が高田に尋ねた。
「さっきの話って?」
高田が尋ね返す。
「同級生の中で二人だけ、高田さんのことをまともに呼ばない人がいるって話ですよ。」
「何っ?それがどうかしたの?」
「ひょっとして、高田さんは思永館でも学年主席なんじゃないんですか?」
「一応入学以来、首席の座は守っているわ。」
そう答えた高田は、無い胸を反らした。
「じゃあ逆に、さっきの二人もこの学校でも成績が良いんじゃないですか?」
「そうよ。どうして分かったの?カメは文系で常時10番台に居るし、三島は文系で5番以内から落ちたことは無い筈よ。」
「いや、そうだったらその理由も分かるかなって思って・・・」
「えっ!そんなことに理由があったの?ひょっとして私への嫉妬からってこと?」
「違いますよ。多分二人とも、高田さんに好意を持ってるんじゃないかなって。」
「ええっ!?」
それを聞いた高田が、頬を染めて驚いた。
「できれば高田さんとは相思相愛のカップルになりたいのに、肩を並べられる存在になれないもどかしさから、そういう態度をとってるんじゃないかって思うんです。」
「でも、カメはともかく、三島君は甘いマスクで背も高いからモテモテで、女の子なんて選り取り見取りって感じよ?選りに選って私みたいなチンチクリンを好きになると思う?」
「どれだけ沢山の女の子にモテても、本当に自分が好きな女の子に好意を持ってもらえなかったら、そんなの意味無いですよ。それにさっきの亀井さんも、こっちに近付いて来る前から、高田さんのことをずっと目で追っていましたよ。」
永渕が高田の言葉をあっさりと否定する。理英はその話を横で聞いていたが、ハハーンという顔つきになって、
「さっすが、ブチ君。経験者は語る、って訳ね。同類のことは手に取るように分かるのね。」
と混ぜっ返すと、永渕がジロリと横目で睨んだ。
同総会館は古い木造建築の平屋建てで、玄関を入ると正面に受付があり、二手に分かれていた。玄関で靴を脱いでスリッパに履き替えると、高田は無人の受付を回って左手の方へ誘導した。左側の部屋にはこの学校の歴史ともいえる教科書や制服が、時系列に沿って展示されていた。同時に昭和天皇の行幸時の写真や、この学校の校庭に立つ乃木希典の乗馬姿の写真も飾られていた。現在思永館には正門の他に、校庭と直接繋がっている脇門があるが、これを「西門」と呼ばず「乃木門」と呼ぶのはこれが起源であるという説明書きもあった。しかし高田が説明を始めたのは、この学校の沿革が書かれている別の掲示物だった
「これ見てよ!この学校の名前は、(旧制)思永館中学 → 思永館高校 → 愛宕高校 → 思永館高校って変遷しているでしょう?何故だか分かる?」
空かさず永渕が答える。
「それって、GHQの占領政策と関係があるんですか?」
「ピンポーン!よく分かったわね。」
そう言って高田が手短に経緯を述べた。
「戦後、GHQによる学制改革で1947年に学校教育法が公布され、旧制中学は新制高校としてスタートすることになったんだけど、その時古めかしい日本の伝統を壊すために、藩校の歴史を持つ学校の名前も変えようとしたのね。そのため思永館高校って名前にも注文を付けてきて、一時は愛宕高校って名前になったのよ。だから1949年の夏の甲子園では、この名前で戦っているわ。ほら、夏の甲子園3連覇目前の準々決勝で倉敷工業に敗れた時の名前が、新聞の見出しに載ってるわ。」
高田はそう言って、一緒に貼られている古い新聞記事の表題を指さした。
「今の校名に戻ったのは、サンフランシスコ講和条約で日本が独立を回復して、GHQが居なくなった後のことよ。要は『長い物には巻かれろ』ってことね。ご機嫌を取る必要のある相手が居なくなってからじゃないと、何もできなかったってことなの。この学校の人間は、昔から強い者の顔色を窺うことが伝統になっているのよ。修猷館はGHQの圧力を撥ねつけて校名を守ったっていうのにね。まったくこの学校に男は居ないのか、男はっ!普段は男ってだけで威張っているくせに、肝心な時には役に立たないんだからっ!男を見せろっ!」
それを聞いて理英は、なるほどこれが高田のこの学校に対する不満の原因なのか、と納得できた。
「それからこの校歌の歌詞を見てよ。」
「歌詞がどうかしたんですか?」
永渕が尋ねる。
「これもGHQに忖度して改変したのよ。例えば1番の『愛国の意気』は元々『殉国の意気』だったし、2番の『文化の道』も『文武の道』だったのよ。何かにつけて『伝統』を盾にするくせに、『大人の事情』でコロコロ変わる伝統に、何の意味があるっていうのよ。呆れちゃうわっ!」
「本当だ。制定時の歌詞と違ってる!」
「それにこっちの『渉猟歌』も問題だわ。これは創立50周年を記念して作られたんだけど、どんなメロディーだか知ってる?」
「いいえ、全然。」
永渕がそう返事をすると、高田はア・カペラ(a cappella)で歌い出した。永渕はそれを聞くや否や、
「あっ、『都の春』じゃないですか!?替え歌ってことですか?」
と叫んだ。理英はその曲を知らなかったが、二人の会話の流れからすると、パクったのだろうか。永渕の問い掛けを受けて、高田が静かに首を横に振った。事態を把握できずにいる理英に向かって、高田が説明をする。
「要するに、『サウンド・オブ・サイレンス(The Sound of Silence)』と『夜明けのスキャット』のような関係なのよ。」
『サウンド・オブ・サイレンス』は、言わずと知れたサイモン&ガーファンクルの楽曲であり、1965年に発表されているが、世界的には映画『卒業』の挿入歌として知られている。これに対して『夜明けのスキャット』は、いずみたくが作曲して1969年に発売された由紀さおりの楽曲であるが、そのメロディーラインが『サウンド・オブ・サイレンス』と余りにもそっくりなため、日本テレビ系列の番組『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』の中で、大橋巨泉に「これは明らかな盗作である」と批判され、大きな反響を呼んだことがある。この逸話は理英も知っていたため、なるほどと得心が行った。
「高田さんはその事実を、学校側に伝えたんですか?」
理英が尋ねる。
「入学早々真っ先に、教頭の早矢仕先生に訴えたわよ。そうしたら何て言ったと思う?『黙っとけ!』って言っただけよ。後は何もしないの。バレなきゃ良いって思ってるのよね。とてもじゃないけど、教育者が執るべき態度じゃないわ。」
そう語る高田の口調からは、皮肉と無力感が感じられた。
同窓会館の中を一通り見て回ると、今度は一旦外に出て校舎の方へと案内された。校舎本体は正門から真っ直ぐに伸びた道の先にあり、鉄筋コンクリートでできた4階建てのほぼ正方形の建物だった。敷地の中央に中庭があり、それをぐるりと囲むように校舎が建っていたが、正門から見て左手側の建物部分が少し出っ張っていた。この張り出し部分が昇降口になっていて、生徒たちの下駄箱と駐輪場があり、登校してきた生徒はここで上履きに履き替えてから教室に向かうことになっている。地方によっては「脱靴場」と呼ばれる場所である。この出っ張り部分の背後には、木造の弓道場が建っていて、弓道部が部室兼練習場にしていた。理英たちは正面入口で再びスリッパに履き替えたが、夏休み中のためか校内には誰も居ないようで、窓の外から蝉時雨の音だけが聞こえていた。
校舎の正面玄関を入って直ぐの所に校長室と事務室があり、職員室はその向こう側にあった。入学願書はこの事務室で毎年二月頃に配布されるので、ここに取りに来るようにと教えてもらった。校長室の脇の壁面にはショーウィンドウの様な大きなガラスケースがあり、その中には二本の夏の甲子園の真紅の優勝旗と、同じく2本の春の選抜甲子園の紫紺の準優勝旗が無造作に展示されていた。本物は翌年の大会の開会式で高野連に返還しているため、その際に代わりとして授与されたレプリカではあるが、この学校の輝かしい歴史の一コマである。
他にも水泳部やサッカー部やバスケットボール部が獲得してきた優勝カップや盾も飾られていたが、野球部のものほど目立つ展示にはなっていなかった。その後も校舎内を一通り案内して貰ったが、夏休み中で生徒も居ないため、どの教室もガランとしていた。しかし、永渕と理英が驚いたのは、かなりの部活が独立した部室を校舎内に持っていることであった。
再び、正面玄関から校舎の外に出てホールや同窓会館のある方角に向かうと、
「今、向こう側に鉄筋コンクリート造りの3階建ての建物を作ってるんだけど、あれが新しい同窓会館になる予定なの。そうしたらさっきの展示物も全部あっちに移すことになるわ。」
「じゃあ、こっちの同窓会館は取り壊されるんですか?」
「そんな勿体無いことはしないわ。ここには代わりに8つの部活が移って来て、部室として使用する予定になってるの。でも、全部問題の多い部活ばかりよ。ESS、インターアクト、応援団、ラグビー部なんかね。今はそういった部室の八つのうち六つが、校舎内の同じエリアに固まっているけれど、学校側は問題のある部活を一まとめにしてここに押し込んで、厄介払いする腹積もりよ。今、彼らの部室が固まってる区画を何て呼んでいるか知ってる?」
「想像もつきませんけど、『少年サファリ・パーク』ですかね?」
それを聞いた高田はクスリと笑って答えた。
「ブーッ!残念、不正解。でも良い答えだわ。正解は『怪獣無法地帯』よ!」
二人はその後、高田から招かれる形で、14時から始まった合奏練習の様子を、ホールの客席から見学させてもらうことになった。容貌が大村益次郎に似た松本健夫という音楽教師が指揮者をしていて、厳しく指導をしている様子を一時間ほど見学した。この松本という教師は東京藝術大学を卒業していて、バイオリニストの海野義雄とは同級生なのだそうだ。一時間も経つとさすがに皆の集中力が切れたようなので休憩に入ったが、そこで二人は高田に挨拶をして思永館を後にした。
思永館の下見が終わった後、二人は小倉のメインストリートの魚町銀天街から一本外れたところにある、小倉駅に通じるサンロード商店街の喫茶店に居た。雑居ビルの2階にテナントとして入っている「レオドール」という渋いコーヒー専門の喫茶店である。ここの他にも小倉駅のすぐ前に同じ系列の店舗があるが、こちらの方が来店客も品が良く、静かで落ち着いた雰囲気なのだそうだ。理英たちが乗っていた路面電車が「魚町」の電停に近付くと、突然永渕にお茶を飲んでいこうと言われて、途中下車したのである。
「魚町」の電停で路面電車を降り、魚町銀天街を旦過橋の方に向かって歩き出すと、直ぐに左折してサンロード商店街の方へ入ってしまった。宗文堂書店の角でさらに右折して、サンロード商店街の中を真っ直ぐに進む。サンロード商店街は魚町銀天街とは道筋が一本しか離れていないのだが、雰囲気はガラリと変わって静かな通りだった。魚町銀天街では人波のざわめきで、BGMとして流れていたシルヴィ・ヴァルタン(Sylvie Vartan)の「あなたのとりこ(Irrésistiblement)」は殆んど聞き取れなかったが、この商店街ではスピーカーから岡田奈々の『青春の坂道』が流れているのがハッキリと聞き取れた。
永渕は理英の手首を掴むと、その通りを真っ直ぐ南へずんずんと歩き出した。もうすぐ商店街が途切れると思った先にその店はあった。制服姿で喫茶店に入るのは補導されるんじゃないかと躊躇われたが、永渕は意に介さない様子でスッと入ってしまった。しかも席を案内したマスターの態度からして、顔馴染みであることを窺わせた。
店内には他に3人ほどお客さんが居たが、皆一人客だったので話し声はせず、店内の物音は、コーヒーを入れるサイフォンの音とBGMとして小さな音量で流されている映画音楽だけである。今も店内には映画『第三の男(The Third Man)』の「ハリー・ライムのテーマ(Harry Lime Theme)」が流れていて、アントン・カラス(Anton Karas)の奏でる軽快なチターの音色だけが響いている。
この店はコーヒーのメニューが充実しており、永渕も両親と小倉に買い物に出る時には、父親によく連れてきてもらうのだそうである。因みに永渕は父親ともどもカフェイン中毒であり、朝コーヒーを飲み忘れて登校して来ると、終日眠そうな顔をしているのを見かける。もともと低血圧で午前中は苦手なのだそうだが、コーヒーを一杯抜いたくらいで朝から疲れた顔をしていると理英も心配になってしまう。
二人とも入店して席に着いてからずっと、ボックス席で向かい合って座ったまま、一言も口をきいていなかった。と言っても、別に喧嘩をした訳ではない。永渕が思永館を出てからずっと思い悩んでいる様子だったので、理英の方で気を利かせたつもりだったのだ。尤も、理英には永渕の思い悩んでいることが、手に取るように分かっていた。理英に思永館への進学を薦めた手前、その悪しき実態の一端を垣間見たことで、前言を撤回すべきかどうか悩んでいるのである。
永渕はシングル・タスク型の人間である。「シングル・タスク」とはその名の通り、一つの物事だけを集中して行うことである。そのため、何か一つのことを真剣に考えていると、それが終わるまでそのことから意識が抜けなくなってしまうのである。例えれば、頭の中に引き出しが一つしかないタイプの人間ということになろうか。だから同時に二つ以上の物事を進めるということができず、複数の物事を同時並行でやろうとすると、注意力が散漫になって、虻蜂取らずになるのである。今永渕が何かを思い悩んでいるのならば、一応の結論が出るまでは、そっとしておいてやるのが最良の方策なのである。
このシングル・タスクと反対にあるのを「マルチ・タスク」といい、複数の作業を同時に、若しくは短期間に並行して切り替えながら行うことである。しかし、マルチ・タスクを行っている人間は多いものの、無理なく器用にこなせている人間はそんなに多くない。大半の人間は、無理をしてマルチ・タスクをこなしているのが現状である。だから無理をしてマルチ・タスクをこなすと、それで作り上げた結果が支障を来したり、見た目は同じでもそのクオリティが落ちてしまう場合が多いのも、また冷厳な事実なのである。
理英は永渕と違って、マルチ・タスク型の人間である。つまり複数の物事を同時に要領良く進めることができるのだ。だから音楽やラジオ番組を聞きながら勉強しても、全く問題無くこなしてしまうのである。そのため、理英はよく他人から「器用だね」と言われることがある。しかし言う方は褒めているつもりでも、理英はちっとも嬉しくないのである。寧ろシングル・タスク型の人間に魅かれると言っても良い。シングル・タスク型の人間は、恋愛においては一途な人が多く、浮気をしないと言われているからである。もし心が離れてしまったということになれば、それは直ぐに分かるし、他の人に愛情が移ってしまえば、それはもう浮気ではなく本気ということなのである。理英がそんなことを考えているうちに、BGMは映画『会議は踊る(Der Kongreß tanzt)』の「唯一度だけ(Das gibt’s nur einmal)」になっていた。
やがて長い沈黙に耐えかねて、理英の方から口を開いた。
「珍しいわね。ブチ君がマンデリン以外のコーヒーを飲むなんて。」
永渕はいつも好んでマンデリンを飲むのであるが、今日は永渕の前のテーブルにはカプチーノが置かれていた。
「まあね。実は以前読んだ妹の『別冊マーガレット』に、和田慎二の『オレンジは血の匂い -欧州殺人旅行-』が載ってたんだけど、主人公の神恭一郎がカプチーノを立て続けに3杯飲んでいるシーンが気になって、どんなものか一度試してみたかったんだ。」
「へぇ~っ、そうなんだ。」
しかし、そう返事をする理英の口調は何処かぎこちなかった。
「君こそ珍しいね。夏になってから、コーヒーフロート以外のものを飲むのを見るのは、初めてだよ。ここの店のメニューには、コーヒーフロートもあった筈だけど・・・」
理英の前には、ウィンナ・コーヒーが置かれていた。理英はコーヒーが好きという訳でもないので、永渕のコーヒーに付き合う時は、トッピングされるバニラ・アイス目当てでコーヒーフロートを注文しているだけなのである。
「最近、ウィンナ・コーヒーの名を聞くようになったから、どういうものかコーヒー好きの郁子に訊いてみたのよ。そうしたら、ウィンナ・ソーセージが入ってるんじゃないの、って言ってたから、本当に入っているのか確認してみたかったの。」
当然そんな物は入ってはいなかったが、それを聞いた永渕はフッと薄く笑った。
「それは担がれたね。ウィンナ・コーヒーっていうのは、オーストリアのウィーンが発祥とされるコーヒーの飲み方の一つで、ウィンナって『ウィーン風の』という意味なんだよ。日本ではコーヒーの上にホイップクリームを浮かべたものを、一般的に『ウィンナ・コーヒー』と呼んでいるみたいだけど、ウィーンでは『アインシュペナー(Einspänner)』って言うらしいよ。」
しかし永渕のその科白を最後に、再び沈黙が二人を覆った。店内には流しているBGMの音しかしなくなった。そのBGMとして、映画『戦場にかける橋(The Bridge on The River Kwai)』のテーマ曲「クワイ川マーチ(River Kwai March)」の口笛が流れてきた。
この曲は1914年にケネス・ジョゼフ・アルフォード(Kenneth Joseph Alford)が作曲した『ボギー大佐(Colonel Bogey March)』という行進曲を、マルコム・ヘンリー・アーノルド(Malcolm Henry Arnold)がこの映画のテーマ曲用に編曲し直したものである。そのメロディーを耳にした理英は、小学生の頃にクラスメイトの男の子たちが「サル・ゴリラ・チンパンジー・・・」と替え歌にしていたのを思い出し、さらにそこから余計な連想をしてしまい噴き出しそうになった。永渕から豆知識として教えて貰った、『ヒトラーの金玉』という替え歌のせいである。Hな思い出し笑いをしていることを知られたくないのと、真面目に思い悩んでいる永渕に対して悪いと思ったので、俯いて必死に笑いを堪えたつもりだったが、笑いを噛み殺してもクックッと肩が震えてしまった。
『ヒトラーの金玉』とは、第二次世界大戦中のイギリス軍兵士の間で広まった、『ボギー大佐』のメロディーに下品な歌詞を付けた替え歌である。無論1957年の映画『戦場にかける橋』中の有名な『ボギー大佐』のカットでは、この歌詞の音声は削除されてしまっている。倫理的に見て、余りにも下品であると判断されたためである。しかし、連合軍の捕虜たちが歌っているのが『ヒトラーの金玉』であることは、映画を見たイギリス人なら歌詞が付いて無くても、口の動きで察することができるようになっているらしい。
この映画の原作者であるフランス人のピエール・ブール(Pierre Boulle)は、仏印(フランス領インドシナ)で日本軍の捕虜になった時の体験を基にこの映画の原作を書いているが、有色人種の捕虜となったことがよほど屈辱だったのか、日本軍兵士による捕虜への虐待を殊更執拗に描いたり、今も現役である泰緬鉄道のクワイ川鉄橋を爆破して憂さ晴らしをしている。
しかもそれだけでは飽き足らなかったのか、この後にも日本人を始めとする黄色人種をチンパンジーに、黒人をゴリラに擬えた『猿の惑星(Planet of The Apes)』を発表し、これもハリウッドで映画化されている。尤もブールの憎悪の対象だった筈の日本人は、その秘められた悪意に気づかないまま、暢気に映画館で手を叩いて喜んでいる、と永渕は嘆いていたが・・・
長い沈黙の間、永渕は時折思い出したようにカプチーノを啜っていたが、理英の方はアップル・パイを一口齧っただけで、殆ど手を付けていない。今度は永渕の方が少し気まずく感じたらしく、当たり障りの無いことを訊いてきた。
「どうしたの?ここのアップル・パイはお気に召さなかった?」
「うん、どうしても『チムチム』のアップル・パイと比べちゃうから。ここのアップル・パイも美味しいけれど、あのパイ生地のサクサク感には、敵わないなぁって思って・・・」
『チムチム』は理英の自宅近くにある洋菓子店で、開店以来お気に入りの店である。理英の大好物は、ここの焼き立てでサクサクのパイ生地がウリの、ホールで売っているアップルパイなのである。理英もそれだけ口にすると、再び黙り込んだ。
BGMは映画『禁じられた遊び(Jeux interdits)』の「愛のロマンス(Romance Anónimo)」に変わっていた。ナルシソ・イエペス(Narciso Yepes)の弾くギターの哀愁を帯びた透明な音色が、ボックス席に座っている二人を包み込む。この曲は理英たちの音楽の教科書にも載っていて、映画ともども理英の好きな曲の一つである。
尤も永渕の方は、この映画で主演したポーレット役のブリジット・フォセー(Brigitte Fossey)という女優が嫌いな様だ。と言うのも昨年(1975年)彼女が出演する『バルスーズ(Les Valseuses)』というフランス映画が日本でも公開されたからである。フランス語で「バルスーズ」という単語は、標準語では「ワルツを踊る女たち」という意味になるが、俗語では「睾丸」を意味するとなれば、内容は推して知るべしということになる。ポーレットのイメージをぶち壊された永渕が嫌うのも、宜なるかなである。
「ピッピ、どう思う?」
長い沈黙の後、永渕がカプチーノを啜り乍ら、やっと本題に入ってきた。
「どう思うって、思永館のこと?」
理英も確認のために問い返して、冷めかけたウインナ・コーヒーを啜った。載っていたホイップクリームは、コーヒーの中に殆ど溶け出してしまっていた。甘ったるい香りが、理英の鼻孔をくすぐる。
「そう。進学先としてどうなのかなぁって。僕から君へ進学を薦めた手前、今更なんだけど、さすがに不安になってきちゃった。」
永渕にしては珍しく弱気な科白である。
「高田さんの評価、結構厳しかったもんね。でも一人だけの意見で決めるのも、どうかと思うわよ。」
「そりゃ、分かってるけど・・・・・・それでも上を目指す者にとっては、やっぱりあの発言はショックだよ!」
「具体的にはどうショックなの?」
「僕が進学する先の先生に求めているのは、日比谷高校とまではいかなくても、岡崎高校や鶴丸高校の先生方が持っているような、第一線の現場で得られた情報の蓄積や教え方の技術なんだ。どうすれば良いか悩んでいる生徒に、適切な指導ができる能力なんだよ。ここは九州の片隅だけど、ちゃんと東京や大阪の受験生たちと伍していけるだけの学力を培いたいんだ。できれば、先生の言うことを素直に聞いていれば、ちゃんと希望する大学へ進学できるような、勉学だけに集中出来る環境が欲しかったんだけど・・・」
「確かに高田さんの話では、あそこの教師陣には余り期待できそうになかったもんね。」
「それに同級生もだよ。野心に燃えた優秀な同級生たちと、3年間切磋琢磨することを期待していたからね。競馬で言う『併せ馬』のような役回りをして欲しかったんだ。それが負け犬の集団とはなぁ。」
理英はそれを聞いて、プッと噴き出して笑った。
「ブチ君らしい発想ね。」
「そりゃそうだよ。僕が進学先の同級生に求めている役割は、『好敵手』であり『戦友』だよ。」
気が付くと店内を流れているBGMはフランキー・レイン(Frankie Laine)が歌う映画『OK牧場の決斗(Gunfight at the O.K. Corral)』の主題歌に変わっていた。理英は、小さい頃にテレビで見ていた西部劇『ローハイド(Rawhide)』のテーマ曲を歌っていたのと同じ人だな、と思いながら耳を傾けていた。
「それなら今と変わらないんじゃない?今は『強敵』と書いて『カノジョ』って読ませてるんだからっ!私が側に居れば良いでしょう?二人とも思永館に行ったなら、向こう3年間は私がドク・ホリデイになってあげるわよ。」
糸がピンと張った様な会話になるのが辛かったのか、理英は態とおどける様にして答えた。
「お気遣い感謝します。」
永渕が傍から見ると滑稽なほど格式張ったお礼を口にして頭を下げると、ピンと張った糸の様な会話が辛くなったのか、二人ともその科白を最後に、また暫く口を噤んでしまった。
二人が暫しの間沈黙を続けているうちに、映画『小さな恋のメロディ(Melody)』でビージーズ(Bee Gees)が歌ったテーマ曲『メロディ・フェア(Melody Fair)』が店内のBGMとして流れ始めた。
「あっ!『メロディ・フェア』だわ。私、この曲好きっ!」
理英はそう言うと、この曲の歌詞をBGMと一緒に口遊み始めた。
「♪ Who is the girl with the crying face looking at millions of signs?・・・」
「確かにこの曲の歌詞は、僕たちにも分かり易い平易な英文で書かれているよね。」
「それもあるけど、私は映画を見ちゃったから、この曲はより一層印象深いのよ。」
とは言っても、理英はチケットを買ってちゃんと映画館で見たわけではない。日本教育テレビ(NET、現テレビ朝日)でやっている淀川長治さんの『日曜洋画劇場』で、今年のゴールデンウィーク(1976年5月2日)に流れたのを見ただけである。この番組は、基本的には映画の全編放送はしておらず、放送時間に合わせて端々をカットしているのであるが、それでも理英の心に強烈な印象を残したのである。
「映画って、マーク・レスター(Mark Lester)とトレイシー・ハイド(Tracy Hyde)の?」
「そうよ。私、初恋をあんなに美しく切なく描いた作品を他に知らないわっ!それにマーク・レスターは、森永製菓の『ハイ・クラウン』チョコのCMにも出てたから、よく知ってるもの。」
「ってことは、君はあの映画を純粋に『恋愛映画』として観たってことだよね?」
「あらっ、それ以外の見方があるの?」
不思議そうな顔つきで理英が尋ねる。しかし永渕はその問い掛けには答えず、逆に問い返す。
「あの映画で、ダニエルやメロディの年齢って、何歳だったか覚えてる?」
「確か11歳だったと思うけど。私たちで言えば、小学校5年生に当たるのよね?」
「うん、正解!でもイギリスでは11歳っていうのは、人生を左右する年齢なんだよ。」
それを聞いた理英は、
「え~っ!?」
と、永渕の大袈裟な科白に声を出して笑ったが、その声にはどこか疑わしそうな響きがあった。永渕はそれを見越したうえで、
「ピッピは、イギリスの教育制度がどんなものか知ってる?」
と、更に一歩踏み込んで来る。しかし何の知識も無い理英は、
「ううん。」
と言って、左右に頭を振った。一緒に理英のツインテールが優雅に揺れる。
「イギリスの中等教育制度は、原則3部構成になってるんだ。」
「3部構成?」
理英が思わず小首を傾げる。永渕は、こういう理英の仕草は本当に可愛いと思う。しかし、そんな感情は噯おくびにも出さず、思わず蕩けそうになる表情を引き締めてから永渕は答える。
「『三分岐型教育制度』と言っても良いね。そしてイギリスの全ての児童は、11歳になると『イレブン・プラス(eleven plus examination)』という試験を受けるんだよ。」
「『イレブン・プラス』って、どんな試験なの?」
「『イレブン・プラス』っていうのは、IQ(知能指数)と学力(算数と国語、この場合は英語ということになる)の試験のことで、その点数次第で将来どこの学校に行くのか振り分けられちゃうんだ。」
「それで、11歳で将来が決まっちゃうってことなの?振り分けられる先にはどんな学校があるの?」
「そうだよ。『イレブン・プラス』で上位25%に入った子は、大学受験が可能な『グラマー・スクール(grammar school)』へ進学することになるんだよ。この『グラマー・スクール』では、アカデミックなカリキュラムが組まれていて、それを学ぶことができるんだ。謂わば『進学組』ってわけさ。」
「へぇ~っ!」
知らなかったという表情で理英が声を上げる。
「それから全体の5%位なんだけど、科学・技術・工学系へ進みたい子供たちは、『テクニカル・スクール(technical school)』へ振り分けられるんだ。」
「それも結構狭き門なのね。」
理英が合いの手を入れる。
「そして残りの70%、つまり殆どの子供たちは、実務的な勉強をする『セカンダリー・モダン・スクール(secondary modern school)』へ進むことになるんだ。ここに振り分けられると、もう大学進学の望みは無くなっちゃうんだよ。つまり『就職組』ってことさ。」
「でも私たちだと、中学校に入ってから急に学力が伸びる子も居るじゃない?そういう子は・・・」
「もう駄目なんだよ。11歳で一旦この流れに乗ってしまったら、もう変更はできないんだ。だから11歳で人生が大方決まってしまうんだよ。」
「そんなっ!」
理英が絶句する。
「ところが、面白い統計結果が1960年代になって明らかになったんだよ。中産階級の児童は半数が『グラマー・スクール』に進学しているのに対して、労働者階級の児童は10%位しか進学できてなかったんだ。」
「つまり、イギリスでは階級社会が既に固定化されてるってこと?」
「事実上そうなりつつあるのかな?でも、そうとばかりも言えない面も出てきてるけど・・・」
永渕はそこで一旦言葉を切ると、唐突に訊いてきた。
「ピッピは『青白き秀才』って言葉は知ってるよね?」
永渕の科白に被さる様に、ヴィクター・ヤング・オーケストラの奏でる、映画『八十日間世界一周(Around the World in eighty Days)』のテーマ曲「アラウンド・ザ・ワールド(Around the World)」が流れてきた。尤も理英たちにとっては、日曜の午前11時から放送している30分番組『兼高かおるの世界の旅』のオープニング曲、と言った方が分かり易いだろう。しかし、BGMの『メロディ・フェア』は終わっても、永渕の話は終わらない。
「知ってるわよ。確かブチ君みたいな人を表す言葉じゃなかったっけ?」
この質問には一瞬面喰らったが、口の端に笑みを浮かべ、揶揄う様な口調で理英が答える。しかし永渕はそれを柳に風といった風情で受け流して応えた。
「欧州っていう場所は競争社会で、社会の上流を占める貴族っていうのは、その結果淘汰されて勝ち残った人々のことだから、勉強もスポーツもできる文武両道のエリートであることが普通なんだよ。ところがその欧州では、第2次世界大戦が終わってから、そういったエリート集団の中にしばしば『青白き秀才』が出てくるようになったんだ。つまり従来の階級社会が揺らぎ始めていることを、端的に表した言葉なんだ。そして、その逆もまた然り。スポーツができても勉強はからっきし駄目っていう貴族も出てきたんだ。こっちは言ってみれば『強い体、弱い頭』ってところかな。その辺の事情はイギリスも他の欧州諸国と同じらしいんだ。」
「じゃあ、そういう変化が起きているのに、それを無視するような制度を存続させておくのは、将来的にマズいんじゃない?」
理英がつい思ったことを口にする。
「そうだね。だから野党である労働党を中心に、生育環境が労働者階級の子供たちの足を引っ張っているとしたら、こういった制度そのものが不公平なんじゃないか、っていう声を上げ始めたんだ。」
「普通、そうなるわよね。そうならなきゃ、社会がおかしいもの。」
「そこで1964年に労働党が政権を獲ると、翌年から『コンプリヘンシブ・スクール(comprehensive school)』が順次設立されるようになったんだ。」
「コンプリヘンシブ・スクール?」
理英はそう言いながら、左顎の下に人差し指を立てて添えた。
「『コンプリヘンシブ・スクール』っていうのは総合制学校のことで、ダニエルやメロディが通っているのもこれなんだ。そしてダニエルは中産階級で、親はチェロの様な高価な楽器を子供に買い与えることができるだけの財力を持っているってことなんだろう。でもメロディやオーンショウの親は、労働者階級だったろうっ?映画の中でダニエルとメロディが合奏するシーンがあったけど、高価なチェロと安いリコーダーを使うことで、二人の経済環境の格差を端的に暗示してるんだよ。」
「あの映画にはそんな背景があったのね。経済的な格差のある子供が同じ学校に通うっていうのも、良し悪しなのかもね。」
店内でBGMとして流れているニーノ・ロータ(Nino Rota)の『ロミオとジュリエット』の「愛のテーマ(Love Theme from Romeo and Juliet)」の哀しい旋律が、そう感想を述べる理英の耳朶を打つ。
「そしてこの運動が最盛期を迎えているのは、ちょうど今なんだ。だからこの映画が作られた頃は、まだこの改革の助走段階の筈なんだよ。」
「そっか、所属する階級の違う者同士の格差恋愛っていう側面もあったのね。」
理英が永渕の科白に相槌を打つ。
「でも、イギリス社会の最大の不公平は、『三分岐型教育制度』や『コンプリヘンシブ・スクール運動』の一方で、貴族階級の子弟たちが進む『パブリック・スクール(public school)』というエリート養成機関に全く手を付けなかったことだよ。」
「『パブリック・スクール』って、あの『イートン校』とか『ラグビー校」とかいうやつ?『パブリック・スクール』って公立学校のことじゃないの?それがどうしてエリート養成機関になるの?」」
「違う、違う!『パブリック・スクール』っていうのは、中高一貫教育を行う特権的な私立学校のことだよ。」
「パブリックなのに私立なんだ?」
意外そうな顔で理英が言う。
「そうだよ。公立学校のことは『ステート・スクール(state school)』って言うんだよ。」
「じゃあ『パブリック・スクール』って、ドイツの『ギムナジウム(Gymnasium)』のようなものなのね?」
「僕にはピッピがギムナジウムのことを正確に知っているとは思えないから、その問いに簡単に首を縦には振れないんだけど。」
「あらっ、どうして?」
「だって君のギムナジウムに関する知識は、萩尾望都先生や竹宮恵子先生の作品に負うところが大きいんじゃないの?」
「それが悪いって言うのっ?」
理英が剝れる。
「言っとくけど、ギムナジウムは美少年の集まる後宮の様な場所じゃなくて、悪ガキの巣窟なんだからね。」
「ちょっと、ささやかな夢を壊さないでよっ!」
そう言うと理英は頬を膨らませて永渕を睨み付けたが、永渕はその可愛い反応を視野の端に捉えながら説明を続けた。
「『パブリック・スクール』の母体は中世に設立された慈善学校で、19世紀になって授業料さえ支払えば、全国どこからでも入学の門戸が公に開かれている学校ってことになっちゃったんだよ。」
「そういう意味なのか~っ!ところで、その授業料って、安いの?」
騙されたっという表情を浮かべたまま、理英が尋ねる。
「そんな訳ないだろう。今『授業料さえ払えば』って言ったけど、この『パブリック・スクール』は、伝統のある寄宿制の学校で、学費は年間数百万円にもなるんだよ。」
「それじゃあ、明治学園みたいなもんじゃない!」
理英が呆れて声を上げる。
「だから中国の科挙と一緒で、門戸が開かれてるって言っても、実際には相当なお金持ちの子しか進学できないし、実際にここで教育を受けられるのは、イギリス人全体の5%位しかいないんだよ。このたった5%の子供たちが、イギリスで最も権威のあるオックスフォードやケンブリッジの学生の過半数を占めているんだ。」
「不公平にもほどがあるわっ!と言うか、それを知ったら『コンプリヘンシブ・スクール運動』って、小手先の誤魔化しにしか見えないわよ。」
理英が憤慨する。
「だから、あの映画のラスト・シーンには、制作者側のそういった教育制度に対する抗議の意味が込められているんだよ。」
「ラスト・シーンって、確かダニエルとメロディが駆け落ちして、二人でトロッコを漕いでいくシーンで終わっていたわよね?」
「そう。あれは脚本を書いたアラン・パーカー(Sir Alan William Parker)が、『社会や学校から既に決められたレールの上を、ただ歩いて行くだけの人生しか送れないのならば、せめて共に歩んで行く伴侶くらいはもう自分たちで選ばせてくれよ』っていう魂の叫びが込められているんだって。」
それを聞いた理英はフーッと深い溜息を吐くと、
「あの映画には、結構深い意味が込められていたのねぇ。ひょっとしたら私たちは、生まれた時からそうだったから気が付いていないのかもしれないけれど、結構恵まれた教育環境を用意して貰っていたのかも・・・」
と呟いた。いつしか店内に流れている音楽は、次の曲である映画『エデンの東(East of Eden)』のテーマ曲になっていた。レナード・ローゼンマン(Leonard Rosenman)自身の奏でる音色が、耳に心地良い。彼はドラマ『トワイライト・ゾーン(The Twilight Zone)』や映画『ミクロの決死圏(Fantastic Voyage)』のテーマ曲も手懸けた音楽家である。
少し間を置いてから永渕が話し掛ける。
「でもこの二人、ダニエルとメロディの置かれてる状況って、何となく僕たちに似てると思わない?」
永渕が意外な言葉を口にする。理英は両肘をテーブルの上に立てると、その両掌に顎を載せて答える。
「あらっ、そうかしら?似てるって言えば、私がメロディの様に可愛いってことくらいじゃないっ?」
理英はそう言うと、永渕に向かってにっこりと微笑んだ。永渕は思わず同意しそうになる衝動を抑えて、
「背負ってるねっ!」
という科白を口にすると、理英のおでこを人差し指で軽く突ついてから、言葉を続けた。
「この映画の舞台となった第2次世界大戦後のイギリスは、国家として下降と衰退の一途を辿っていたから、この映画が作られた1970年頃には、そういう時代の空気や社会の閉塞感も、もう子供たちの環境に微妙な影響を与えていた筈だしね。」
「それは分かるけど、それで?」
「これは僕たちの住んでいる町の現状と非常によく似ていると思わない?」
「そうかなあ?確かに『イギリス病』の話は聞くけど、それが・・・」
理英の話が終わらないうちに、永渕が言う。
「じゃあ、一流大学を卒業した学生たちの受け皿になる様な大企業が、県内にどれだけあると思ってるのさ?」
「えっと、新日本製鐵でしょ、ブリヂストンタイヤ、九州電力、西部ガス、西日本鉄道、東洋陶器、井筒屋、岩田屋、ロイヤル、ベスト電器、カメラのドイ、麻生セメント、安川電機、・・・」
理英は記憶の糸を手繰り寄せながら、頭に浮かんだ企業名を次々と挙げていく。
「その中に全国区の企業は幾つあると思う?」
「うっ・・・・・・!」
理英は永渕の追撃に、一瞬で言葉に詰まってしまった。
「しかも麻生・貝島・安川の『筑豊御三家』に至っては、貝島は今月で全て閉山するらしいし、麻生と安川もエネルギー革命で業態転換を余儀なくされちゃったよね。この中でまだ将来性がありそうなのは、産業用ロボットの開発をやってる安川電機くらいかな?」
永渕は溜息交じりに続ける。
「からくり儀右衛門(田中久重)が1873年に東京に移って田中製造所(現:東芝)を作ったのを筆頭に、日産自動車はとうの昔(1935年)に九州を脱出しちゃったし、出光興産も1943年にそういう方向へ舵を切ったしね。ミツミ電機は東京で創業しちゃったし・・・」
「ミツミ電機?」
聞き慣れない企業名が出てきたので、理英が訊き返す。
「ミツミ電機を知らないの?」
さも知っていて当然という永渕の口振りに反発するように、
「知らないわよ。」
と、ぶっきらぼうに答えた。
「女の子ならこの会社の名前は、全員知ってるもんだと思ってた。」
「どうしてよ?」
鼻白む理英のその科白を受けて、永渕が思いも寄らない問い掛けをしてきた。
「月に一度の『女の子の日』のことを、君たちは何て呼んでるの?」
永渕の問いに理英は頬を赤らめながら憤然と答える。
「ブチ君も意外とエッチなのねっ!『ブルー・デー(blue day)』よっ!」
「そうじゃなくて、もう一つの呼び名があるでしょ。」
それを聞いた理英は腕組みをして少し考え込む仕草を見せたが、直ぐに永渕に問い返した。
「・・・・・・『アンネの日』ってこと?」
「そうっ!なんでそう呼んでるのさ?」
「それは、アンネ・フランク(Annelies Marie Frank)に由来してるんじゃないの?」
「じゃあ、どうしてアンネ・フランクに結びついてるの?」
「えっ・・・・・・?そっか、アンネ社っていう会社があるからだわっ!」
「そうだね。ミツミ電機は、そのアンネ社と関わりが深いんだよ。」
「そうなの?」
理英が軽い驚きを込めて問う。流れてきた映画『ライムライト(Limelight)』の「テリーのテーマ(Terry’s Theme)」が理英の耳元をかすめる。この曲は「エターナリー(Eternally)」の別称でも知られている、チャールズ・チャップリン(Sir Charles Spencer Chaplin)自作の名曲である。
「ミツミ電機っていう会社は1954年に、九州工業大学を卒業した森部一氏が東京の大田区にある雪ヶ谷って所で創業したんだよ。真空管用ソケットや『ポリバリコン(小型可変蓄電器)』なんかで大成功を収めて、1959年には長者番付で第29位にランキングされてたよ。」
「『ポリバリコン』って何?」
「『バリコン』ていうのは『バリアブルコンデンサー』の略称で、コンデンサの容量を変えられるコンデンサーのことなんだ。真空管の時代には金属で製造されたものが主流だったんだけど、トランジスタ(半導体)の時代になると、小型化するために絶縁物にポリエチレンやポリスチロールで出来たフィルムを入れたものが主流になったんだ。こういう部品のことを『ポリバリコン』と言って、ラジオやテレビなんかの選局に使うんだよ。」
「へぇ~っ、知らなかった!」
「その頃、坂井泰子さんという一人の若い主婦が、女性が安心して月経を迎えられるようにしたいとの一念から、会社を立ち上げるために、資金力に余裕のある大企業から協力を取り付けようとして、一社一社訪問していたんだ。」
「それで、それで?」
「そうやって出資者を募ったんだけど、それに応じてくれたのは、かつて電機製品の発明品を仲介するために訪れたことがあった、ミツミ電機の森部一氏ただ一人だけだったんだ。」
「ふ~ん、ビジネスの世界ってシビアなのね。」
理英は短くそう言うと、少し考え込んだ。
「資金面の支援を依頼した企業全てから門前払いを食らった坂井さんに、ミツミ電機社長の森部一氏だけは、『あなた方が社会に奉仕できる、貢献できるという観点からこの事業を始めるのなら応援しましょう』と言って、資本金となる一億円を用立てるのに加えて、ミツミ電機の敏腕宣伝マンだった渡紀彦氏を派遣してくれたんだ。そういう経緯があって、1961年の11月に世界で初めて、現在のような使い捨て生理用ナプキンが発売されたんだ。」
「そうだったの。良い話じゃないっ!」
科白と共に理英が安堵の吐息を漏らす。
「この会社が後のアンネ社なんだけれど、ここが発売した『アンネナプキン』は、瞬く間に日本中の女性たちの支持を獲得したんだ。でも僕は、この会社の存在意義はそこじゃない、と思ってる。」
「じゃあ何なの?」
理英が尋ねる。
「僕は、アンネ社がアンネナプキンを発売しなくても、遅かれ早かれ他のメーカーから使い捨てナプキンが発売されていたと思うんだ。所謂『時間の問題』だったってやつさ。彼女たちの功績は、それまでは単に憂鬱なものとして日陰に追いやられていた『月経』のイメージを、広告やTVCMを使って変えたことだと思うんだ。これは坂井泰子さん・森部一さん・渡紀彦さんの三人が揃っていたから、ここまでのイメージ革命ができたんだと思うよ。」
「でも、そんな画期的なことをやってのけた会社なのに、今じゃあまり名前を聞かないわね。」
「そりゃ、しょうがないよ。アンネ社の寿命は短かったんだから。」
「えっ!」
理英が驚きながらも、恐々と尋ねる。何時の間にか店内に流れているBGMは、ニーノ・ロータの『太陽がいっぱい(Plein Soleil)』に変わっていた。甘いマスクの二枚目俳優アラン・ドロン(Alain Delon)が主人公のトム・リプリーを演じる、パトリシア・ハイスミス(Patricia Highsmith)原作のサスペンス映画のテーマ曲である。
「・・・潰れちゃったの?」
「肝心要の出資者のミツミ電機が傾いちゃったんだよ。」
「どういうこと?」
「実はミツミ電機は対米輸出の不振とカラーテレビ不買運動の影響を受けて、1971年の3月期の決算で7億円にものぼる赤字を出しちゃったんだ。そこで森部社長はミツミ電機の経営危機を乗り切るために、当時16社あった子会社のうち、本業とは直接関係のないアンネ社を含む4社を手放しちゃったんだ。ミツミ電機はアンネ社の株式を、過半数以上の65%を所有していたんだけど、それを本州製紙(現:日本製紙)、ライオン歯磨(現:ライオン)、東レの3社にそれぞれ2:2:1の割合で売却したんだよ。」
「それじゃあ、・・・」
「本州製紙と東レは、従来からアンネ社に原料を提供していて、ライオン歯磨は商品の流通ルートが重なってたから、共同経営参画って形になったんだけど、この資本提携解消の影響によって、坂井さんは社長から代表権のない会長に棚上げされちゃったんだ。現在アンネ社は、ライオン歯磨への吸収合併が取り沙汰されているらしいよ。」
「私も最近、アンネ社の製品を使ってなかったんだ・・・」
決まりが悪そうに理英がポツリと言った。
「せっかく社会的に有意義な企業が生まれたのに、残念だわ。もっとアンネ社の製品を使ってあげれば良かった。私、地元から出たミツミ電機のことすら知らなかったし・・・」
「それは君のせいじゃないって!・・・・・・もう脱線するのも、このくらいにしておこうか?」
罪悪感にかられている理英の表情を見て、永渕は強引に話題を変えた。
「さて、そういったことを踏まえて、じゃあ僕たちはどういう道へ進んだら良いのかな?」
永渕がそう言って腕組みをした時、店内を流れる音楽が『風と共に去りぬ(Gone with the wind)』の主題歌「タラのテーマ(Tara’s theme)」に変わった。その刹那、理英の脳裡に、この映画でヴィヴィアン・リー(Vivien Leigh)が演じる主人公ケイティ・スカーレット・オハラの「明日には明日の風が吹く(Tommorow is another day)」という最後の科白が浮かんできて、心の中でそれを反芻していた。
「ねえ、ブチ君もそういう企業を立ち上げたら良いんじゃない?優秀な九州出身の人間を受け入れられるような企業を。」
「君は僕の志望を知っていてそういうことを言うの?それに簡単に言ってくれるけど、それがどれだけ難しいことなのか、知らないでしょう?会社を立ち上げるのって、お金がかかるんだよ。ましてや優秀な人材を受け入れるとなると、株式を東京証券取引所に上場でもしない限り、地縁・血縁の有る人でもそう簡単には来てくれないよ。」
「あら、良いじゃない?人生何が起きるか分からないんだから、そういうことも含めてこの世の中は面白いんじゃないの?ハードルが高いほど、やり甲斐があると思うわよ。」
「君は楽観的だねぇ!」
「あら、そうかしら?ブチ君が考え過ぎてるだけなのかもよ?」
そう言うと理英はにっこりと笑った。
「だけど進学する高校については、本当にどうしようかな?今日はある程度の結論が出ると踏んでいたんだけど、僕は却って迷いが生じてきちゃったよ。」
永渕が心底迷っている様な声を上げる。
「もう思永館に進学する気は無くなっちゃったの?」
永渕は、普段は茫洋としていて感情を表に出さないため、何を考えているのか分かりにくいのが常であるが、今の科白には素直に彼の感情が乗っていたので、理英の方が驚いてしまった。
「僕が思永館に進学するメリットは、結局あと3年間君と一緒に居られるってことだけしかないみたいだしね。」
それを聞いた理英は嬉しくなったが、綻びそうになる顔を引き締めて、
「あら、ありがと。光栄だわ。」
と、表情一つ変えずに素っ気無い返事をした。
「まあ、僕も一度親と相談してから、もうちょっと考えてみるよ。」
永渕はそう言うと、テーブルの上にあった伝票を持って立ち上がった。ここの代金は、永渕が奢ってくれるようだ。理英も永渕に続いて席を立つ。二人が店舗の入り口のドアを開けると、サンロード商店街の中には森山良子の『さよならの夏』が流れていた。今年の4月~6月の毎週木曜日に日本テレビ系列で放送された同名のドラマの主題歌である。
「珍しい。森山良子の歌が流れてる。」
「『新三人娘』や『花の高3トリオ』が台頭してきてからは、テレビで見ることも少なくなったよね。」
「僕は森山良子だったら、この曲よりも『歌ってよ夕陽の歌を』の方が好きだなあ。」
二人はそんな会話を交わしながら家路についた。二人が出て行った後の店内には、空になった二つのコーヒーカップだけが残り、店内には映画『荒野の決闘』の主題歌だった『いとしのクレメンタイン(Oh My Darling Clementine)』の旋律が流れていた。
【参考文献】
『黒地の絵 傑作短編集(二)』 松本 清張:著 1965年10月19日 新潮社
『半生の記』 松本 清張:著 1970年6月25日 新潮社
『素直な戦士たち』 城山 三郎:著 1982年3月1日 新潮社
『新・二都物語 - データで読む福岡と北九州』 朝日新聞西部本社:編 1982年10月1日 葦書房
『法廷生態学』 和久 峻三:著 1986年2月10日 中央公論社
『まんが道』 第1巻「第7節 肉筆回覧誌」 藤子不二雄Ⓐ:著 1996年6月18日 中央公論新社
『「黒い霧」は晴れたか - 松本清張の歴史眼』 藤井 忠俊:著 2006年2月20日 窓社
『東大合格高校盛衰史』 小林 哲夫:著 2009年9月17日 光文社
『初恋ソムリエ』 初野 晴:著 2011年7月23日 角川書店
『吹奏楽部あるある』 吹奏楽部あるある研究会・代表オザワ部長 2012年5月1日 白夜書房
『吹奏楽部あるある 3』 吹奏楽部あるある勉強会・代表タカハシ部長 2014年4月3日 白夜書房
『生理用品の社会史』 田中 ひかる:著 2019年2月23日 角川書店
『巨悪は眠らせない』 伊藤 栄樹:著 2020年7月30日 朝日新聞出版
『地形と歴史から探る福岡』 石村 智:著 2020年10月6日 エムディエヌコーポレーション
『学校弁護士 -スクールロイヤーが見た教育現場-』 神内 聡:著 2020年10月10日 角川書店
【引用】
『メロディ・フェア(Melody Fair)』(1971年)
作詞:バリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブ(Barry Gibb,Robin Gibb,Maurice Gibb)
作曲:バリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブ(Barry Gibb,Robin Gibb,Maurice Gibb)
唄 :ビージーズ(Bee Gees)
【脚注】
旧七帝大・・・東京大学(東京帝国大学)・京都大学(京都帝国大学)・東北大学(東北帝国大学)・九州大学(九州帝国大学)・北海道大学(北海道帝国大学)・大阪大学(大阪帝国大学)・名古屋大学(名古屋帝国大学)
旧三女高師・・・お茶の水女子大学(東京女子高等師範学校)・奈良女子大学(奈良女子高等師範学校)・広島大学(広島女子高等師範学校)
東京四単科大・・・現在の四大学連合、東京を拠点とする単科の国立大学である東京医科歯科大学・東京外国語大学・東京工業大学・一橋大学
ナンバースクール・・・1948年(昭和23年)まで日本に存在した高等教育機関のひとつである旧制高等学校の中でも、数字を冠した学校群のことであり、第一高等学校から第八高等学校まであった。
このエピソードは恋愛パートですが、二人の日常風景と当時の北九州市内の様子、そしてそろそろ将来のことを考え始めなければならない二人の、優秀過ぎるが故の悩みも描いています。中学・高校生を扱った、「青春もの」・「学園もの」と呼ばれるジャンルでは、小説に限らず映画・漫画・ドラマ等で、所謂「落ちこぼれ」と呼ばれる生徒たちに焦点を当てた物が数多く見られます。しかし同じ様に平均から大きくはみ出してしまった優等生については、取り上げている作品が非常に少ないと感じていたので、ならばとばかりに書いてみました。実際に最近の作品でも真正面から扱っているものは、『週刊ヤングジャンプ』に連載中の『かぐや様は告らせたい ~天才たちの恋愛頭脳戦~』ぐらいのものでしょうか?
またこのパートは、後々書く予定の『体育祭事件』・『演奏会事件』・『野球部事件』・『贈収賄事件』・『通り魔事件』の舞台設定とその登場人物の紹介を兼ねています。誰がどういう風に関わってくるのかは、これからのお楽しみということで・・・
それから、作中では幾つかの実在する有名進学校を紹介していますが、作品の内容から全て1976年4月時点での情報ですので、一言お断りしておきます。特に愛光高校の卒業生の方々、うちの卒業生にもこんな著名人がいると仰りたいでしょうが、時代背景や一般的な知名度を考慮すると、1976年当時の地方在住の中学生が知ることのできるのはこのくらいが限界だと思って、ああいう記述にしました。尤も当時の自分が持っていた知識がベースになっているのは事実ですが・・・
なお藤子不二雄Ⓐ先生の『まんが道』に関する著者名表記ですが、1976年の段階では、まだお二人は別名義にはしていなかった(コンビ解消は1987年)ので、当時の表記で記述しています。
最後に、ここに出てくる思永館高校というのは私の頭の中にのみ存在する架空の高校で、実在する他の高校とは全く関わりが無いことをハッキリと述べておきますので、よく似ている高校があるからと言って、変に詮索しないでくださいね(笑)。