第六章 飛頭蛮事件
夏至が近いある日の午後、梅雨の合間の夕陽が校舎の窓から斜めに差し込む頃に、化学部の部室にもなっている理科実験室では、三つの人影が蠢いていた。一人は化学部の会計担当であり次期部長の声も掛かっている折尾篤志、残りの二つは化学部とは何の所縁も無い後藤辰也と平岡亮一だった。尤も後藤の方は中学1年生の時に折尾と同じクラスだったため、全く関係が無いとは言えないが、この場合は完全に部外者だった。
殿上中学校における部活動は、学校からの「部活動費」という名前の給付金と、各部活動に所属している生徒から徴収する「部費」によって、維持・運営がなされている。学校からの給付金は、毎年春に生徒会と各部活動の代表者との間で予算折衝の会議を開いて、部員数や過去1年間の各部の活動実績によって決められるが、その交付方法は一律ではない。大抵の場合は、部活動の顧問の教諭が職員室の金庫か、部活動名で設けられた郵便貯金口座に入れて管理されることになる。しかし、顧問の教諭が複数の部活動に跨って面倒を見ていると、金銭の出入りが混同してしまう可能性があるため、部単位で各部の部長か会計担当に管理を任せることも行われている。事実、過去に複数の部活動にわたって顧問をしていた教諭が、誤って違う部活動の資金を入り繰らせてしまい、活動費の支出報告の際に輻輳してしまうという出来事が発生したため、それ以降再発防止策として採られている苦肉の策であった。
化学部も御多分に洩れず、理科担当教員の一人である山崎が、天文部と掛け持ちで顧問を務めているため、化学部の部活動費は化学部の会計担当の折尾篤志が、天文部の部活動費は天文部の会計担当の吉田士郎が、それぞれ管理していた。折尾篤志も吉田士郎も学業優秀な生徒たちで、品行方正であることから教師たちの信頼も厚く、こういったことを安心して任せられると判断されていた。しかし、そのことに目を付けた輩が居た。
後藤辰也と平岡亮一は、この中学校に古くから存続してきた不良グループ『ヘル・キャット(Hell Cat)』のメンバーである。殿上中学校が校内暴力などで荒れていた一時期、構成員数が100名近くに及んだこともある不良グループである。しかし3年ほど前に、この中学校のOBである暴力団組員と組んで、この中学校のOGや在校生の女子生徒を脅して管理売春をやっていたことが発覚したことがある。当然この中学校にも福岡県警・捜査四課の手が入ったことで、多くのメンバーが少年院へ送られて壊滅状態となり、現在では30人足らずにまでその数を減らしていた。無論、現在ではそういった組織的な犯罪にまでは手を染めていないと思われているが、一般の生徒経由でいろいろな悪い噂が入ってくるため、学校側はまだ油断できない状態にあると判断しており、警戒を解いてはいない。
この『ヘル・キャット』という不良グループは、周辺の他の中学校の不良グループを制圧して糾合していた時期もあったが、最近では隣の学区の流星中学校の不良グループ『ペイル・ライダー(Pale Rider)』に押されていた。その原因は構成メンバーの減少とそれによる資金不足にあった。ここ門司区では、中学校の所在地が鹿児島本線の線路に沿って縦に長く分布しているために、中学生では移動手段として公共交通機関を使用せざるを得ず、組織的な活動のために資金を必要としていたのである。
そこでこの不良グループでは暴力団を真似て、各構成メンバーに上納金のノルマを課していたが、中学生では決まった収入がある訳でもなく、恐喝等の違法行為によって資金調達をしているのである。しかし同級生のお小遣いでは高が知れているし、この中学校に入学してくる生徒たちは、そういった学校の悪評にも拘らず、私立中学校へ進学するという逃げ道のない貧乏人の子弟が大半であった。そこで目を付けたのが、学校から支給される部活動費だったのである。これならば直ぐにまとまった金銭が手に入るからである。
「おい、いい加減に出せよ!」
平岡はそう言うと、折尾の胸倉を掴んで凄んで見せた。
「どうせ、お前の金じゃあないんだろう?」
その科白と共に、平岡の膝が折尾の鳩尾辺りに突き刺さった。思わず折尾が倒れ込むと、平岡はさらにその腹を爪先で蹴り上げた。
「これ以上痛い目に遭いたくなかったら、さっさと預かっている部活動費を出せよ!」
しかし、折尾は抗議するように叫ぶ。
「冗談じゃない!これは化学部の部員全員のお金だ。僕一人で勝手にどうこう出来るわけないだろう!」
するとそれまで平岡の背後に立って、黙って見ていた後藤が、猫撫で声で囁き掛ける。
「別にくれと言っている訳じゃあないんだ。ちょっとの間、俺たちに貸してくれれば良いんだ。」
「嘘吐け!端から返す気なんて無いくせに!」
折尾のその返事を聞くと、また平岡が折尾の腹を足蹴にする。腹を蹴り上げられた折尾は、苦鳴と共に胃液を吐きながら悶絶した。
「しょうがない。そいつの鞄を探れ。郵便局の通帳と印鑑を預かっている筈だ。」
後藤のその言葉に応じた平岡が、折尾の鞄を開けて調べて見ると、中から郵便局の貯金通帳と印鑑が出て来た。残高は3万円ほどに減っているが、それでも中学生にとっては大金である。後藤は通帳の残高が期待したほどでは無いのを確認すると、舌打ちを一つして、その通帳と印鑑を懐に入れた。
「こいつは預からせてもらうぜ。このことは誰にも喋るんじゃないぞ。喋ったらどうなるか分かってるよな。」
平岡はそう言って口止めをするのを忘れなかった。
「じゃあなっ!」
目的を果たした二人はそう言うと、苦悶する折尾を置いて理科実験室を後にした。大分傾いてきた夕陽が、校舎の中を血の様に赤く染め上げていた。
あの事件の翌日となる8月9日、寛永寺理英は学校行事である臨海学校へと向かう貸切バスの中の窓際の席に居た。生徒が座る座席は自由になっているので、皆思い思いに仲の良い友達と一緒に座っている。本来ならば理英の隣に座っているのは、交際相手の永渕陽一の筈だったが、今日は親友の妹背薫に座って貰っていた。
8月の強い日差しを浴びて車外は茹だる様な暑さなのだが、バスの中はクーラーが効いているので、実に心地良く感じられる。そのせいかバスの中は、生徒たちの話し声で結構騒がしい。尤も理英自身は、昨日の騒ぎとそれに続く警察署での深夜に及ぶ事情聴取のせいで、ぐったりとしていた。帰宅してからは、事情が事情だったので、両親からは一方的に叱られることはなかったが、たっぷりとお小言を貰ってしまった。それでも睡眠時間は十分過ぎるほどあったのだが、事件のせいで脳が興奮していたためか、全く寝付けなかったのである。朝から自分の身体が鉛の様に重く感じたのは、初めての経験だった。そのためバスに揺られ始めると、カーラジオから流れてくる山本コウタローとウィークエンドの『岬めぐり』を子守唄に、ついうとうととしてしまったのである。
バスの窓の外には、昨夜の夕立が嘘の様な雲一つない青空と、玄界灘の青い海が広がっていた。このバスの行く先は、「玄海少年自然の家」という福岡県が運営する玄海灘に面した公共の研修施設である。ここで殿上中学校の「臨海学校」の行事を行うのである。夏休みを利用して2泊3日で行われる校外学習の一環で、海を使っての水泳教室や、レクリエーションとしてオリエンテーリングやキャンプ・ファイヤーが予定されている。また、初日が長崎の原爆記念日に当たり、終戦の日も近いため平和教育も併せて行われる予定である。
この臨海学校には2年生の殆どの生徒が参加しており、皆浮き浮きとした気分になっていたが、理英だけは朝から浮かない表情をしていた。夏休みに入ってから遭遇した昨日の事件で、永渕の普段とは違う一面を見て戦慄したせいである。これまで特に気にもせず気軽に永渕に接していたが、永渕が自分の知らない怖い顔を持ち合わせていることを知ってしまったことで、話し掛けるだけでも変に緊張してしまう自分が居るのである。
昨日の事情聴取が夜遅くにまで及んだせいであろう、今朝このバスに乗り込む前の出来事を思い出しながら、理英はバスに揺られて微睡んでいた。
学校の校庭には西鉄の貸切バスが9台、並んで止められていた。理英たちは、「2年9組」という表示のあるバスの脇で、いつものメンバーとバスに乗り込むのを待機していた。
「ねぇ、これ見てよ!」
臨海学校に向かうバスに乗り込むため、2年生のほぼ全員が校庭に出てきてお喋りをしながら待っていると、前田瞳が坪田郁子に話し掛けてきた。一緒に居た寛永寺理英と妹背薫も一斉に振り向く。
「何々、どうしたの?」
郁子が尋ね返す。
「夏休みに入ってすぐ、家族で青海島に海水浴に行ったんだけど、着いてすぐに駐車場で写真を撮ったら、こんなのが撮れたんだ。」
瞳はそう言って、手にしていた写真を郁子に手渡して見せた。写真にはシルバーのセダンと、その側面に並ぶように立っている四人の人物が写っていた。そのうちの一人は前田瞳である。ただし、その写真は少し高い位置から撮られており、斜め上のアングルから自動車のルーフだけでなく、前後・両隣のスペースに停めてある自動車まで写っていた。
「これ、到着した早々に家族全員を写してもらったものなんだけど、自動車の助手席の所を見てよ。みんな降りて誰も居ない筈の自動車の助手席に、ほらっ!」
「嫌だっ!誰か座ってるみたい。」
郁子が瞳の科白に過敏に反応する。
「ホントだっ!何か白いものが写ってる!」
薫も震える声で応える。
「確かに、助手席に白い顔の様なものが見えるわね。」
理英も動揺を押し隠しつつ平静を装って応じる。すると、背後から間延びした声がするとともに、手が伸びてきた。
「なんだっ、コレ?」
声の主は永渕だった。永渕は問い掛けるのと同時に、その写真を摘まみ上げた。
「心霊写真よっ!」
郁子が答える。
「心霊写真~っ?」
その返事を聞いた永渕は、写真をチラリと一瞥してから、即座に疑わしそうな声を上げた。
「ちょっと違うんじゃない?」
「どういうこと?」
永渕の意外な反応に、瞳が気色ばんで尋ねる。
「僕にはそうは見えないって言ったんだよ。」
「じゃあ、この白い顔のようなものは何だって言うの?」
永渕が見落としたのかと思った瞳は、写真の助手席の部分を指で指し示して詰め寄る。
「斜め後ろの自動車のタイヤだよ。」
永渕はさも興醒めといった感じで、摘まみ上げていた写真を郁子に返した。
「タイヤ~ッ?」
今度は郁子と瞳が同時に素っ頓狂な声を上げる。
「これのどこがタイヤだっていうのよっ?」
瞳が反発した。それを聞いた永渕は、写真を指差しながら答えた。
「ほらっ!この白い顔の様に見えているのって、斜め後ろに停まっている自動車の前輪のホイールじゃないっ?」
「えっ?」
郁子が驚く。
「ピントを自動車の前の4人に合わせているからボケちゃっているけど、端に写っているこの自動車の後輪を見てごらん。ホイールが三角形に近い曲線で、それぞれに取り付けるためのホイールナットの部分が黒く見えてるでしょっ。」
「ホントだっ~!」
今度は薫と理英も一緒に声を上げた。
「逆三角形に並んだホイールナットの穴が顔に見えていたのね。」
薫が納得したような声を漏らした。
「そういうのを『シミュラクラ現象』もしくは『類像現象』って言うらしいよ。」
そう言って、永渕は事も無げに結論付けてしまった。瞳の持って来た写真が心霊写真でないことが判明して、4人は安堵することができた。しかし永渕はさらに続けて言った。
「大体、心霊写真なんて騒ぐ価値もないでしょ。この辺りに住んでいるんだったら、小さい頃から言われてきたんじゃない?壇ノ浦を背景にして写真を撮っちゃいけませんって。」
「だからこの辺りでは、滅多に海を背にした写真なんか撮らないわよう。」
永渕の発言に瞳が応える。この辺りは海が近く、関門海峡に面している地域なので、壇ノ浦までも見渡すことができる。そして壇之浦と言えば「源平合戦」である。1185年の壇ノ浦の戦いで、敗れた平家方では安徳天皇を始めとして、多くの公達や女官が海に身を投げて命を落としたという歴史がある。そのため、今でもこの辺りには、それにまつわる怪談話や禁忌が幾つか残っているのである。壇ノ浦を背景にして写真を撮ってはいけない、というのもその一つであり、もしそんなことをすると、撮った写真に奇妙なものが映り込むことが多い、と言われているのである。
「ねえピッピ、夏休みに永渕君と何かあったの?」
両目を閉じて座席に凭れていた理英の耳元で、薫が囁く様に訊いてきた。寝たふりをしていると思われたのだろう。いつの間にか車内に流れているカーラジオの曲は、かまやつひろしの『我が良き友よ』に変わっていた。
「えっ?」
理英が驚いたように目を開ける。薫は普段おっとりしているが、こういう時には鋭いのである。
「どうして・・・」
「分かるよ~!友達だもんっ!」
「うん、昨日ちょっとあってね・・・」
「でも、喧嘩した訳じゃあないよね?永渕君はいつも通りピッピに話しかけていたから。」
「うん。でも、ちょっと説明しづらいな。」
「そう、だったら話せるようになってからで良いから教えてよ。いつでも聞いてあげるから。」
薫はそう言うと、この件については、もうそれ以上何も訊いてこなかった。理英は自分たちより後方の席に座っている永渕を、横目でチラリと見た。永渕は昨日の事件が載っている朝刊を持って来ていて、紙面に視線を落としたままだった。理英は、永渕が自動車に酔い易いと聞いていたので、
「あんなことして、バスに酔わなきゃ良いけど。」
と思いながら、再び眠りに就こうとした。すると理英たちの後ろの席に座っていた、瞳と郁子が薫に話し掛ける声が聴こえてきた。郁子が薫に尋ねる。
「ねえ、知ってる?これから泊まる施設は、有名な心霊スポットなんだって!」
「本当っ?」
怖がりの薫が震える声で返事をする。
「去年泊まった部活の先輩が最終日に、自分たちが泊まっていた三階の部屋の中で記念写真を撮ったんだって。そして臨海学校から戻って写真を現像に出したら、背後の窓の外で部屋の中を窺うような女性の生首が宙に写ってたんだって。」
「やだっ!怖い!」
薫はもうこれ以上は聞きたくないとばかりに両手で耳を塞ぐと、泣き出しそうな声で叫ぶ。
「ねえ薫、ピッピを通して永渕君に謎解きを頼んで貰えないかなあ?永渕君って、そういうものを端から信じないようだから。」
瞳が冷静な声で薫に提案する。
「そうじゃないと、2日目のオリエンテーリングなんて暗い森の中へ入っていくんだから、怖くてとても参加できないよ。」
郁子も瞳に同調する。
「それに2日目の夜にはキャンプ・ファイヤーがあるじゃない。炎を中心にしてフォーク・ダンスを踊るんだから、幽霊に怯えながら踊っても楽しくないよ。」
「でも今は無理じゃないかなぁ。」
薫が即座に答える。
「何々、ひょっとして痴話喧嘩でもしてんの?」
興味津々といった様子で、郁子が尋ねる。
「そういう訳じゃないみたいだけれど、今は話しかけ辛いみたいだよ。だから、ねっ!」
「そっか~。」
そう言うと瞳と郁子はお喋りを止めてしまった。おかげでやっと理英は眠りに就くことができた。理英の耳に、車内に流れていたバンバンの『「いちご白書」をもう一度』が、徐々に遠くに聞こえ始めた。
バスは国道3号線を通って赤間駅を過ぎ、東郷駅の辺りまで来ると右折して北へ向かった。途中で宗像大社の脇を通過して、目的地である「玄海少年自然の家」へ辿り着いた。宗像大社というのは、福岡県の宗像市にある神社であり、日本各地に七千以上ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社である。また、神宝として古代祭祀の国宝を多数有していることから、「裏伊勢」とも称されている。この宗像大社は、天照大神の三柱の御子神である三女神を祀っていて、三女神の名前は 田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神という。田心姫神は沖ノ島の沖津宮に、湍津姫神は筑前大島の中津宮に、市杵島姫神は宗像市田島の辺津宮(総社)に祀られており、本来「宗像大社」というのはこの三社の総称であったが、最近では「辺津宮」のみを指す場合が多くなっている。ただし、付近の住民は辺津宮を指し田島様と呼んでいる。理英は父の運転する自動車に乗って、正月に何度も初詣に来ていたので、今ではもう余り興味を魅かれなくなっていた。
「着いたぞ~!」
誰からとも無く車内に叫び声が上がる。その声にまどろんでいた理英も目を覚ました。いい加減喋り疲れたといった感じのバスの中が、再び騒々しくなる。生徒たちは各々が自分の荷物を網棚から降ろして抱えると、勢い良くバスの外へ飛び出して行った。理英も生欠伸を噛み殺しながら網棚に乗せた荷物を降ろすと、皆の後を追う様にバスを降りて行った。
臨海学校が開催される「玄海少年自然の家」は、玄界灘沿いに建てられた研修施設である。北側は美しい砂浜になっており、施設の傍を釣川という川が南東から北西に向かって流れている。河口付近のこの辺りでは緩い弧を描く様にして、施設の西側と南側ををくるりと囲む様に流れている。ただし、川と施設の間は、川の流れに沿って細長い丘陵地になっていて両者を隔てているが、施設側から見ると高さはそれほど無いにもかかわらず、切り立った崖になっている。施設側ほどではないが、河川側も少しなだらかな斜面になっており、こちら側は長い年月をかけて川に浸食され続けているのが分かった。丘陵地の頂上付近は松林になっていて、海側の先端部にオリエンテーリングのポイントが設けられているのが見える。崖の海側にある先端近くの側面には、崖の上に出るための坂道が在るのが分かった。施設の東側は開けた平地であり、外部へ通じる道路と繋がっているため、こちら側には施設の利用者や職員のための駐車場や広場が設けられている。広場の中央には、既にキャンプ・ファイヤー用の薪が「井桁型」に組まれており、その上からブルー・シートが掛けられていた。
「玄海少年自然の家」という施設は、地上3階・地下1階の、屋内運動場を備えた、鉄筋鉄骨コンクリート造りの建物である。施設の入口は東の駐車場側にあるが、北東から南西に向かって斜めに作られている。玄関を入って東側には事務所・所長室・保健室と食堂「しおかぜ」があり、西側には200人以上を収容できる集会所や、水着等を洗濯できる男女別のランドリー・ルームと物干しが設置されている。玄関を入ってすぐの場所には広いロビーがあり、その中央に地下や上層階に行ける螺旋階段が付いている。ロビーの奥には80人ほどを収容できる研修室が3つ並んでおり、その横に卓球台を置いた遊戯室がある。そして、さらにその奥には大浴場がある。廊下を挟んで南側に男湯、北側に女湯があり、浴室の手前は脱衣所になっている。2階と3階は同じ造りになっており、南側に2段ベッドが10台ずつ据え付けられた宿泊室が10部屋並んでいる。廊下を挟んで北側には、布団部屋の他、引率者の宿泊用の和室が3つ並んでいる。さらにその横には団体事務室と談話室があり、奥には小規模な研修室が3つと洗面所とトイレがあり、大浴場の真上は2・3階ぶち抜きのプレイホールと呼ばれる屋内運動場になっている。今回の臨海学校では、2階を男子生徒が、3階を女子生徒が使用することになっている。地下は倉庫や機械室・放送室等の設備になっており、このエリアはこの施設の職員しか利用できないように普段は施錠されていた。
生徒たちは一旦バスが入っている駐車場脇の広場に集められ、各々の担任教師から注意事項を伝えられると、クラス毎に施設の中へ入っていった。それぞれ割り当てられた部屋に荷物を置くと、全員が1階の集会場に集められて、午前中いっぱい平和教育が行われた。31年前にボックスカーから長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾のファット・マンは、もともと小倉へ落とされる筈であったが、当日の小倉の上空は厚い雲で覆われていたため、急遽投下地点を長崎に変更されたのだということを教わった。
平和教育が終わると、今後のスケジュールを確認し、食堂で昼食を摂った後、午後からは部屋で水着に着替えて、施設の前に広がる砂浜に集まるように指示を受けた。これから臨海学校のメイン行事である、水泳教室が行われるのである。理英たちは、昼食として施設で用意したカレーライスを平らげると、早々にエメラルド・グリーンのスクール水着に着替えて、足の裏が焼け付く様な砂浜へと飛び出して行った。施設を出ていく時に事務室の脇を通ると、部屋の中から音楽が漏れていた。ジローズの『戦争を知らない子供たち』のようだった。
臨海学校の初日は、平和教育を午前中で終えると、午後からは水泳教室が行われた。殿上中学校は海沿いの学校であることから、金槌の生徒をなくすという目的をメインに、この臨海学校を主催している。そして初日の水泳教室が終わる頃には、陽が長くなったとは言っても、真夏の太陽は西に傾き始めていた。
理英たちは着替え終わると食堂に集められて、夕飯が振舞われた。今日の夕飯はハンバーグだった。夕飯が済むと、教師陣より順番に入浴するように指示を受けた。浴室は20~30人程が入ると一杯になるため、1組から順番にクラス毎に30分ずつ入浴時間が決められているのである。翌日は順番が逆になり、9組から入浴することになっている。ただし男子生徒が女湯を覗いたりしない様に、総務委員と風紀委員は引率の教師とチームを組んで、建物とその周辺をパトロールすることになっていて、彼らだけは一番最後にまとめて入ることになっている。
理英は入浴時間が始まると同時に、瀬戸秀美という若い女性教師に引率されて、風紀委員の竹田麗子と一緒に建物の中を見回り始めた。施設から抜け出した者が居ないかどうかを確認して報告するためである。男子の総務委員と風紀委員は男性教師と一緒に、懐中電灯を手に建物の周囲を見回ることになっている。
瀬戸秀美は、国立音大卒の音楽担当の教員で、小柄ではあるがちょっときつい感じのする美人である。理英と同じくメタルフレームの眼鏡をかけており、長い髪をポニーテールにしている。生徒に対しては、男女を問わず厳しく指導しており、そのせいか生徒たちからは少し煙たがられている。理英たちのクラスの音楽を担当しているのは、本阿弥淑子という東京芸大卒の年配の女性教師なのだが、水泳教室の際の水難救命要員としては高齢であることから、今回は参加してはいなかった。本阿弥はベテラン教員ということから、仕事に余裕があるせいか、始終笑顔を絶やさず親しみ易かった。それだけに理英は、瀬戸は対照的な先生だと感じていた。
竹田麗子は、風紀委員を務めるだけあって真面目な性格であり、中村聖子と同じグループに属している。成績は良い方だが、ちょっとクールな雰囲気をまとっており、少々取っ付き難い感じがする女子生徒である。言動にもシニカルなところがあるが、それだけに分析力は正確であり、物事の本質を捉えた科白を吐くことが多い。尤も口の悪い男子生徒からは、鼻が鉤鼻気味なことを揶揄されて「魔女」と綽名されているが、本人はそんなことは歯牙にもかけていない様子である。
体操服姿の理英たちが、入浴の順番ではないクラスの部屋を、1組から順番に一部屋ずつ見て回り、点呼を掛けていった。後で引率してきた教師に報告をするために、参加者名簿と在室者の照合をして回るのである。しかし、どの部屋も男子生徒の人数が合わない。勝手に部屋を抜け出した生徒がいるせいである。
やがて9組まで来ると、理英は扉の前で一度深呼吸をした。永渕と顔を合わせるのに心構えが必要だったからである。瀬戸はコンコン、とノックをすると直ぐにドアを開けて部屋の中に踏み込んだ。部屋の中を覗いて見ると、永渕以外には誰も居なかった。永渕は二段ベッドの上段に腹這いに寝そべって、鉛筆を手に雑誌の様な物を読んでいた。瀬戸が尋ねる。
「他の人達は何処へ行ったの?」
「みんな外出中です。」
永渕が素っ気無く答える。
「外出って、こんな時間に何処へ行くっていうの?」
「野暮ですよ、先生。こんな時に男の子が執る行動は一つしかないでしょう?」
「ノゾキってことねっ!」
潔癖症の強い瀬戸は語気を強めると吐き出すように言った。
「永渕君は、みんなが何処に行ったのか知らない?」
風紀委員の竹田が尋ねる。
「多分、あそこじゃないかな?」
永渕はそう言うと、開いている窓の外から見える施設の裏庭を指差した。その窓の外には夜空の女王然とした白銀の月が、あと数日で満ち足りようとしているその顔を、東の空に覗かせていた。先ほどから吹き始めた陸風が、庭の青草の匂いを室内に運んで来る。永渕の指先には庭の草叢が在って、そこで人影が蠢いているのが見えた。それを見た瀬戸は、
「あんな所に~っ!」
と言うなり部屋を飛び出して行った。理英と竹田も瀬戸の後を追おうとしたが、竹田はふと何かを思い出した様に部屋の出口で立ち止まると、一旦踵を返して永渕の方に向き直って尋ねた。
「ところで永渕君は、何故みんなと一緒に覗きに行かないの?同学年の女の子の裸に興味が無いって訳じゃあ無いんでしょう?」
声を掛けられた永渕は、雑誌から顔を上げると、面倒臭そうに答えた。
「愚問だね!」
「愚問?」
「そうだよ。僕が一番裸を拝みたいと思っている女の子は、今はまだ服を着て、施設の見回りをしているんだ。だのに居ないことを承知の上で、女湯を覗くと思う?」
その答えを聞くと、竹田は苦笑しながら、
「それは、それは。確かに訊いた私が馬鹿だったわ。」
とだけ言うと、理英の方をチラリと見て冷やかすように薄く笑った。理英はその返事を聞くと恥ずかしさで顔が真っ赤になったが、それを無視するように竹田に向かって、
「早く追っ駆けないと、瀬戸先生を見失っちゃうよ。」
とだけ言うと、そそくさと部屋を出て行ってしまった。
こうして夕刻から理英たちは教師陣と一緒になって、出刃亀たちとの攻防戦を繰り広げていた。しかし8時近くになって異変が起きた。突然、施設の裏側にある崖の方から、男子生徒の悲鳴が上がったのである。
「ギャアーッ!」
という悲鳴と共に、崖の方で騒々しい物音がしたかと思うと、突然バタバタという足音をたてて青い顔をした5~6名の男子生徒が、施設の中に飛び込んで来たのである。中には途中で転んだのか、膝を擦り剥いたり、服が泥だらけになっている者も居る。皆それぞれのクラスで問題児として認識されている男子生徒たちだった。施設の入り口付近に居た教師たちが驚いて駆け寄ると、何があったのかを問い質した。男子生徒たちは肩でゼエゼエと息を衝きながら、今しがた起きた出来事の一部始終を話し始めた。
理英たちが教師陣と一緒に、女湯の覗き防止のため、施設の敷地内を見回りをしていることで、彼らは裏庭からではなく、崖の上にある松の茂みに隠れて女湯を覗いていたそうである。ところが30分ほど経つと、背後で薄気味の悪い笑い声が聞こえてきたということであった。驚いてみんなで周囲を見回してみると、海とは反対側の松林の中から、空中を生首が真っ直ぐに飛んで、こっちにやって来るのが目に入り、怖くなって逃げ出して来たということであった。
当初その話を聞いた教師たちは、何かを見間違えたんだろうと笑って、取り合おうともしなかった。しかし、その周囲に何事かと集まってきた野次馬たちの中に居た理英は、気になって尋ねた。
「松林の中を生首が飛んでいたの?」
「そうだよっ!地上から2メートル位の所を、凶悪そうな顔をした生首が五つ、こうフワフワと揺れながらこっちに飛んで来たんだ。」
男子生徒の一人が、おっかなびっくりで話す。
「何だか『怪奇大作戦』の『散歩する首』みたいね。」
それを聞いた理英がポツリと呟く。すると背後から、
「でもあれは、糸で釣った人形の首やブラックマジックだったんでしょ?」
と永渕が話し掛けてきた。玄関での騒ぎを聞きつけて、やって来たようだ。理英はその声に反応して、つい後ろを振り返ってしまったことを後悔した。どんな顔をして接すれば良いのか分からなかったため、今日一日なるべく接触を避けていたのに、最後の最後でドジを踏んでしまったのだ。だが、話し掛けられて若干気後れはしたものの、何とか平静を装って訊き返した。
「違うって言うの?」
「そう思うよ。だってあいつらはあの崖の茂みに居たんだよ。そして崖の上の通路は弓なりになっているけれど、生首の飛んで来たルートは真っ直ぐ一直線だったんでしょ?ということは、今の話からすると地面の上ばかり飛んでいた訳じゃあないってことじゃない?だったら、あのトリックは使えないよ。」
「じゃあ、本当に宙を飛ぶ生首が出るって言うこと?」
「まだそうとは断言できないよ。結論を急がないで。」
永渕は穏やかな口調で窘める。
「でも科学的に説明できないんだったら、此処には『ろくろ首』みたいな化け物が居るってことにしかならないじゃない。」
「今回は生首だけしか見えなかったんだろう?だったら『ろくろ首』も除外すべきだね。」
それを聞くと理英は、余裕を持って反論した。
「あら、小泉八雲の『怪談』の中の『ろくろ首』に出てくる妖怪は、首が抜けて飛び回るわよ。」
「ああ、あれは『抜け首』って言うんだよ。言われてみれば、確かにあれも『ろくろ首』の亜種だったね。」
「戦国時代のお話で、元は都人で今は深山で樵をしている一族、と見せかけて旅人を食い殺していた、という設定だったわ。回龍という元豪傑のお坊さんに退治されたのよ。」
「でも今の話では、今回の生首は中国の『飛頭蛮』に近いような気がするな。」
永渕がそこまで喋った時、突然逃げて来た男子生徒の一人が声を上げた。
「大変だっ!後藤と平岡が居ない!」
今度は周囲に居たみんなが、
「えっ!」
と驚く。
「間違い無いのか?」
引率教師の代表である学年主任の山崎が尋ねる。
「間違いないっ!俺たちは8人で覗きに行ったんだ。」
その返答を聞いて、教師たちは顔を見合わせた。逃げ帰って来た生徒たちの話を信じた訳ではなかったが、やはり日が暮れてから生首が飛んで来たという松林に、無造作に入っていくのは躊躇われたのである。しかし、
「よしっ!探しに行こう。」
と真っ先に声を上げたのは、意外にも永渕だった。永渕はそう言い終わるや否や理英の手を取ると、懐中電灯を持った生徒に声を掛けて借り受け、施設の外に飛び出して行った。月は、時折千切れ雲に隠れながら、東の空を昇り続けていた。満月に近い月光だけが、街灯の無い崖への道筋を照らしていた。
「おーい!後藤~っ!平岡~っ!」
そう名前を叫びながら、永渕は理英の手を引いて、ずんずんと崖の先端部にあたる海側の方へ行き、崖の上に続く坂道を登り始めた。ここら辺りは景観の問題もあって、街灯一つ立ってはいない。永渕は懐中電灯で周りを照らしながら歩いているが、たたでさえ舗装されていない土の道で歩き辛いのに、昨夜の夕立のせいで道は泥濘んでいて足許は覚束ないし、懐中電灯1個だけでは光量不足で心許無い。それにさっきの話を聞いた直後だけに、いつ生首が飛んで来るかと考えただけで、背筋に冷たいものが走る。理英は、
「永渕君は怖くないのかしら?」
と思いながら、手を引っ張られるままに黙ってその後を付いて行った。
「女湯が覗けるポイントは、この辺くらいしかない筈だけど・・・」
そう言って永渕が足を止めると、眼下に宿泊施設が広がっているのが見えた。女湯の湯気で曇ったガラス窓が割りと間近に見える。しかし永渕は、そんなものにはまるで頓着せずに、地面に付いた足跡を丹念に捜していた。そして、自分たちがやって来た方角を指し示すと、
「こっちに向かって逃げてるから、生首は向こうから飛んで来たんだろうな。」
とだけ言うと、懐中電灯で地面を照らしながら、地面に付いた足跡を追い始めた。足跡の大部分は緩い弧を描いた道に沿って、理英たちが今しがた登って来た坂道の方へ向かっていたが、そのうちの二人分だけは崖を降りる道筋を徐々に逸れて、そのまま真っ直ぐ崖の反対側方面へと向かっていた。反対側も切り立ったというほどではないが、やはり崖になっていて、月明かりで崖の下には投棄された家電製品の山が見えた。二人の足跡は施設とは反対側の少し緩やかな崖の斜面の縁にまで達していたが、そこから先は足跡が横にぶれる様に付いていて、崖の土はまだ湿気を含んだ真新しい土が露出していた。おそらく其処を足で踏んだ時に、崖の一部が崩れて一緒に落ちたのだろうと思われた。永渕が懐中電灯で崖下を照らして覗き込む。すると下から呻き声が聞こえてきた。永渕が声のする方へ懐中電灯の明かりを向ける。二人で暫く目を凝らしていたが、そのうちに闇の中で蠢く人影を見つけた。永渕が声を掛ける。
「おーい!後藤と平岡か?」
すると闇の中から少し怯えた様な返事が返ってきた。
「そうだ。助けてくれっ!生首に襲われたんだ!」
その返事を聞くと永渕は、
「分かった、今応援を呼んでくるから、ちょっと待ってろ!」
とだけ言って、理英を連れて今来た道を施設の方へ戻り始めた。しかし施設に戻る途中で、二人の捜索に向かう教師陣と遭遇したため、永渕はこれまでの経緯と二人の居る場所を説明してから、理英を連れて施設へと戻って行った。
「一緒に現場に戻らないの?」
「別にっ!もう見るべきものは見たし、ね。」
「なあんだっ!あの二人が心配で探しに来たんじゃなかったんだ。」
「そんな訳無いだろっ。あいつらに体育倉庫に閉じ込められたこと、忘れちゃったの?心配してやる義理なんて無いでしょう。それに僕は『探しに行こう』とは言ったけれど、『助けに行こう』とは一言も言ってないよ。」
「そう言われれば、そうだけど・・・」
理英がそう言って言葉を濁すと、二人は暫く押し黙ってしまった。
「ところで、今日はやけによそよそしいんだけれど、昨日の僕はそんなに怖かった?」
「えっ!」
自分の心の中で蟠っているものをズバリと言い当てられて、理英は狼狽えた。
「そ、そういう訳じゃあ・・・」
「別に隠さなくても良いよ。昨日はさすがに僕もやり過ぎたと思ってたから。」
「ごめんなさい。」
「君が謝ることじゃないよ。謝るのなら、むしろこっちだ。怖い思いをさせてごめんっ!」
「でも、なんであんなに激昂したの?私には血の匂いに狂ったとしか見えなかったわ。」
「理由は三つ。一つ目は、自分たちの勝手な欲望のために、弱い者を踏み躙ったこと。二つ目は、自分たちが不利な状態になった時のあの態度。そして三つ目は、君への暴言だね。」
「私をメガネザル呼ばわりしたこと?」
「そう!自分の彼女を侮辱されて、怒らない彼氏は居ないだろう?」
理英は永渕からその返事を聞くと、プッと噴き出してしまった。
「そんなことで、あんなに怒ったの?」
「そんなことって何だよ?僕には大きなことだよ。」
永渕は少しむくれながら応えた。理英はその横顔を見ると、またクスクスと笑い始めた。
「ところで、話を戻すけれど、あの二人を心配したんじゃないとしたら、どうして崖に近づいたの?」
「どっちかと言うと、生首の正体に繋がる物が無いか、探しに行ったんだけど。」
「それで、収穫はあったの?」
「残念ながら、ゼロだね。でも考えるヒントはあったよ。」
「考えるヒント?」
「そう!まず第一に、崖の上の道は川の流れに沿う様に弧を描いていた。第二に、この辺りは昼間とは正反対に、陸風が吹いていた。第三に、施設の方角ならばともかく、それ以外の方角は付近に光源が無いために暗くて、ちょっと離れると君の顔の判別もできないくらいだった。それから最後に、これは現場に行くまでもなかったことなんだけど、生首に襲われたのは全員『ヘル・キャット』のメンバーだったんだよ。」
「ヘル・キャット」というのは、殿上中学校で昔から続いている不良グループのことである。3年ほど前に警察が介入せざるを得ない事件が起こって、その際に壊滅に近い状態になったが、現在は代替わりを果たして、2年生の杉本恒彦という生徒を中心に30名ほどの不良少年が集まっている。もっともこの不良グループも一枚岩という訳ではなく、喧嘩に明け暮れる硬派グループと、女子生徒にちょっかいを出して回る軟派グループに分かれていた。今回生首に遭遇した8人は、全員がその不良グループの軟派なメンバーであった。
「それが生首と、どう関係してくるの?」
「そいつはまだ分からない。それはこれから調べてみるよ。」
「そっか。」
理英は短くそう答えると、今度は永渕の方から尋ねてきた。
「どうしてあいつらはこの真っ暗闇の中で、飛んで来たのが生首だと判別できたんだろうね?」
「確かに変ね!ひょっとして、生首自体が光ってたってこと?」
「光らないまでも、少ない光を反射していた可能性はあるよね。」
永渕は、そう意味深に答えた。
「でも、此処でこんなこと議論していても始まらないから、明日のオリエンテーリングの時間、僕と一緒に回ってみない?」
「えっ!?」
「ひょっとしたら、生首の正体が分かるかもしれないよ。」
翌日は、午前中から二人一組になって、施設の南東側に広がる丘を使って、オリエンテーリング大会が行われた。「オリエンテーリング」とは、特別に作られた地図とコンパスを用いて大自然の中を駆け巡り、山野に設置されたチェックポイント(コントロール・フラッグ)をスタートから指定された順番で通過し、可能な限り短時間で走破する野外スポーツの一種である。19世紀中頃に、スウェーデン軍の訓練の一環として始められたと言われている。地図読みや宝探し、ナビゲーション技術とアウトドアレクリエーションを繋ぎあわせた面白さを備えており、近年人気が出てきたスポーツである。
しかし、昨夜の生首騒動は既に学年中に知れ渡っており、参加した生徒たちもおっかなびっくりで競技に参加するという有様だった。このオリエンテーリング大会では原則、出席番号順に二人一組のチームを作っていくのだが、永渕は理英と一緒にコンビを組む筈だった城戸雅子に声を掛けて、半ば強引にパートナーを交代して貰ったのである。
施設の職員から地図と方位磁石を渡されてから、永渕は暫く地図をじっと見詰めていたかと思うと、自分たちのスタート時間を告げられるのと同時に、理英の手を引っ張って走り出して行った。スタート時間は、1分ごとに2チームが同時にスタートする形式で行われた。理英は、自分は足が速い方だと密かに自信を持っていたが、鈍足と噂されていた永渕の足は意外に速く、遅れない様にするのがやっとだった。永渕は地図を読み込むのも早いらしく、殆ど迷いなく通過ポイントのある地点まで一直線に辿り着いていた。通過ポイントのコントロール・フラッグが分かり難い場所にあって、先発したチームが一生懸命探している様な場所であっても、永渕は瞬時に発見して、次々にポイントを攻略して行った。
こうして二人は、かなり速いペースでコースを回っていたが、丘陵地に登っていった所で立ち止まってしまった。ちょうど昨日、生首に襲われた地点よりも山側に当たる場所だった。昨夜、理英たちが登って来た場所は海側であるため、反対側ということになる。
「ピッピ、これ見て!」
永渕がそうやって指差したのは、通過ポイントである白とオレンジのコントロール・フラッグ上に付けられていた、ストローと針金でできた見慣れない器具だった。
「今までのコントロール・フラッグには、こんな物付いて無かったわよね?」
息を衝きながら理英が尋ねる。
「これは小さいけれども、簡易風向計だよ。」
永渕が答えた。
「風向計?何でこのコントロール・フラッグにだけ、こんな物が付いているのかしら?」
午前中のオリエンテーリング大会は恙無く終わり、永渕と理英のチームは学年全体で2位という好成績を収めることができた。やがて午後の水泳教室とその後の夕食も済むと、今夜は日が暮れた8時からキャンプ・ファイヤーがあるため、前日よりも1時間早く入浴時間となった。昨夜と同じく、理英は教師たちと一緒に巡回を始めたが、昨日あんな騒動があったせいか、今夜は部屋を抜け出している者は余り居なかった。理英は、昨日に比べたら格段に楽だわ、と思って回っていたが、最後に回った9組の部屋を出る際に、永渕が近寄って来て耳元で囁いた。
「今日、7時になったら、施設の勝手口の方に来てくれない?」
「まさか、本当に幽霊退治をやるつもりなの?怖くないの?」
訝しげな表情で理英が訊いた。
「そのまさかだよ。今日、オリエンテーリングをやってる時に、面白い物を見つけたんだ。」
永渕はそう言うと、体操服のポケットから取り出した物を見せた。
「何これ?ひょとして風船?」
「オリエンテーリングの通過ポイントを崖下の周囲で探していた時、波打ち際近くで見つけたんだ。一度膨らませたのが、空気が抜けて萎れている様な感じだね。こっちへ来て見てごらん。」
そう言うと永渕は、理英の背後に立って照明を遮断した。
「あっ!この風船、所々光ってる。」
「多分、蛍光塗料が塗られているんだろう。でも塗られているのは一部だけなんだけど、全体で見ると塗られていると言うよりは、上から塗ったものがはみ出したような感じだね。多分この上に何かを被せて、その被せた物に蛍光塗料を塗ったんだろうね。」
「なるほど~!見えてきたわよ。」
「どう?まだ生首の幽霊が怖い?」
「ううん、やるわっ!幽霊退治に参加する!」
理英は勢い良くそう言うと、7時に施設の裏手にある勝手口に行くことを約束した。
やがて施設の1階にある大時計の針が7時を示す頃、理英たちはそれまで教師たちが居る和室で報告を上げていたが、今日も一緒に回っていた竹田に一旦席を外す旨を耳打ちした。
「何処へ行くの?」
「ちょっと、ね。」
「ちょっとじゃ分かんないわよ!」
生真面目な竹田が、小さいながらも強い口調で理英に詰め寄る。理英は内心面倒臭いことになったな、と思ったが、仕方なく少しだけ事情を話した。
「生首の幽霊の正体が分かったの?」
「分かったって所まではいってないわよ。でも、今夜も出るんだったら正体を暴けるかもってだけよ。」
「分かった、じゃあ私も行く。」
竹田が意外なことを言い出した。
「本気なの?」
「本気よっ!永渕君がどういう結論に辿り着いたのか、私も知りたいわ。」
理英は内心やれやれと思ったが、ここで押し問答をやってても始まらないので、竹田も連れて行くことにした。無論、永渕には事後承諾ということになる。
施設の1階の裏手に回って勝手口を出ると、既に永渕が来ていた。手には懐中電灯と、木刀代わりに長くて真っ直ぐな杖を手にしていた。ただし、その先端には釘のような物が1本打ち付けてあって、釘の先が杖を貫いて飛び出していた。永渕は理英たちの姿を認めると、咎めるように声を掛けてきた。
「何してるの、ピッピ?竹田さんを巻き込むつもり?」
「しょうがないじゃない。ついて来るって言うんだもん。」
永渕は溜息交じりに科白を吐き出した。
「じゃあ竹田さん、言っとくけど、今夜は僕の推理が外れている可能性もあるからね。そうなった場合には、生命の保証はできないかも知れないよ。」
永渕がそう言って脅すと、竹田も一瞬怯んだが、
「承知の上よっ!」
と、自分を鼓舞するように力強く返事を返した。それを聞くと永渕も諦めたらしく、
「分かった。それじゃあ遅れないようについて来て。」
と返事をして、3人で施設を抜け出した。
誰にも気づかれずに施設を抜け出した3人は、人目につかないように迂回しながら、崖の方へ向かった。懐中電灯を使うと施設の中に居る人間から見つかるため、崖を登る坂道では足をとられながらも無灯火で登って行った。やがて崖の上まで来ると、昨夜やって来た地点まで移動した。さすがにあんなことがあった翌日だから、もう女湯を覗きに抜け出している生徒は居ないだろうと思っていたが、そこには4人ほど先客が居た。
「おい、何してるっ?」
永渕がいつもより低い声で叱り付ける様に尋ねる。その声を聞いた人影が、跳ね上がる様に驚いて、一斉にこちらを見る。
「なんだ、永渕か。脅かすなよ。」
黒い人影の一つが安堵の声を上げる。サッカー部員の畑中義明たちだった。畑中は永渕とは小学校時代からの友人である。よく見れば、クラスメイトの花咲も混じっていた。
「昨日の今日で、よく此処で覗きができるな。」
永渕は感心したように言う。
「生首の幽霊が怖くて、女湯が覗けますかってんだ。」
その声に呼応して竹田がピシャリと言う。
「後で先生方にちゃんと報告しとくわ。」
「ちっ!竹田も居たのか。」
「居ちゃ悪い?」
「ふんっ!」
そういう不毛な会話を交していると、サァーっと一陣の風が山から海の方へ向かって流れて行った。日が暮れたとはいえ、まだ昼間の暑気が残っているだけに、心地良く感じられる風だった。その時風上の方で、くぐもった人の笑い声のようなものが聞こえてきた。含み笑いをするような、嫌らしい笑い方だった。
「誰だっ!?」
理英たちは全員で辺りの暗闇を見回す。すると丘陵地の上の山地へと続く方角に青白く光るものがフラフラと動いているのが見えた。
「なんだぁ?蛍か?」
しかしその青白い発光体は、徐々に大きくなっていった。こちらに向かって近づいて来ているようである。最初は小さな一点だった青白い光は、近づいてくるにつれてその数を増していった。全部で5つになったその発光体は、先ほどから吹きはじめた陸風に髪の毛を煽られながら飛行を続け、その姿を徐々に鮮明にしていった。
「おい、ありゃあ人間の首だ!」
畑中が発行体を指差して叫ぶ。確かに人の生首のように見えた。全部で5体。最初の一つ目は、凶悪な人相をした首だった。二つ目は、顔に無数の傷跡がある首だった。三つ目は、火傷で醜く崩れている顔をした首だった。四つ目は、腐敗により頭蓋骨が一部露出している首だった。五つ目は、血に塗れた口を大きく開けて、今にも食いついてきそうな首だった。理英たちに無理やり付いて来た竹田も、「ヒッ!」と笛を吹く様な音をたてて、両手で口を押さえて立ち竦んだ。先に来ていた出刃亀四人は、悲鳴を上げて施設の方へ駆け出して行った。竹田もその有様を横目に見ると、後を追う様に一緒になって逃げ出してしまった。
尤も、ある程度永渕の推理を聞いていた筈の理英も、思わず身体が硬直してしまい咄嗟には動けなくなってしまっていた。しかし永渕は他の5人が闇の中に消えたのを見届けると、理英を庇う様にして、飛んで来る生首たちの正面に立ち塞がった。生首が10mほどにまで近寄ってくると、永渕は不意に左手を上げて、先頭の生首に向かって何かを投げつけた。次の瞬間、パァンッという破裂音と共に、先頭の生首が萎んで地面に落ちて行った。それと同時に、永渕は生首に向かって突進すると、手に持っていた杖で手が届く順に、生首たちを叩いて回った。叩かれた生首たちは、それぞれパァンっという破裂音を残して、次々に地上へ落ちてしまった。生首が五つ全て叩き落されると、安堵感からかやっと理英の足も動くようになり、永渕の許へ駆けつけることができた。
永渕は最初に割れた生首が落ちた辺りで、暗い地面をごそごそと弄ると、金属製の細長い物体を拾い上げて言った。
「あった、あった!」
「何それ?」
「これは小柄だよ。」
「小柄?」
「小柄っていうのはね、打刀などの鞘の内側の溝に装着する、付属の小刀のことだよ。中学に上がった時、肥後守の代わりに使えって伯父から貰ったんだ。うちの本家に何振りか日本刀が伝わっているんだけれど、それにこの笄とセットになって付いていた物らしいんだ。」
永渕はそう言うと、手にしていた杖の先端を見せた。杖の先端に刺さっていた物は釘などではなく、金属製の簪の様な物で、「笄」といって髪を掻き揚げて髷を形作るための結髪用具とのことだった。永渕は右手で笄を杖の先から抜くと、理英の背後に回ってポニーテールにしている髪を左手で時計回りに捩じり、右手に持った笄を3cmほど離れた位置に突き刺してから毛先を左側に引っ張ると、笄を時計回りに傾けてから引き起こした。そして笄の先を頭をなぞる様に動かすと、地肌に添わせて押し込んだ。先ほどから風に揺れていた理英の長い髪が、綺麗に結い上げられていた。永渕に好きに髪の毛を弄らせていた理英が、再び尋ねる。
「永渕君の先祖は武士だったの?」
「秋月藩っていう黒田家の貧乏支藩のね。」
「だったら、付属品でも名のある刀鍛冶に鍛えられた物なんじゃないの?」
「実は、ウチには虎徹の業物って言われていた刀が代々伝わっていたんだけれど、1958年に九州で虎徹展が開催された時に、九州中から三千本の虎徹って言われてる刀が集められたんだ。でも、虎徹って人は、年配になってから刀を打ち始めたから、作刀数は少ないんだ。だからその時も三千本全部を鑑定したそうだけれど、本物はたったの3本しかなかったんだって。ウチの伯父も意気揚々と出品したんだけれど、やっぱり偽物だったそうだよ。何でも源清磨って刀鍛冶の無銘の刀に、虎徹の名を入れた物だったんだって。言い伝え通りに本物の虎徹だったら、その当時でも三千万円位はしたそうなんだけど、五百万円位だって鑑定されちゃって、ガックリしてたよ。これはその刀に付いてた物なんだ。」
「そんなに値段が違うもんなの?」
「虎徹は新刀、清磨は新々刀だから、虎徹の方が古くて歴史的価値があるんだ。それに希少性もあるしね。」
そう言うと永渕は、日本刀談義を打ち切って本題に戻した。
「しかし、生首の正体は予想通りだったから、ちょっと拍子抜けしちゃったね。」
「ふ~ん、やっぱり生首の正体は風船だったのね?」
「うん、中身はね。このラバーマスクの中に風船を入れて、ヘリウムガスで膨らませたんだよ。」
「でも、それだったら、風船は真っ直ぐ空に向かって上って行くだけなんじゃないの?」
「だから、このラバーマスクを被せて、その重さで微妙に釣り合いを取ってたんだよ。直ぐには空に上っていかないようにね。実によく計算されてるよ。」
「このラバーマスク、髪の毛まで生えてる。さっきブチくんが言った様に、ラバーマスクには蛍光塗料が塗られているわ。だから暗闇の中でも生首だってことが分かったのね。」
「あとは陸風が吹くのを待って、風上の茂みの中で解き放したんだろうけど、首元の部分にプラスチックの板を螺旋状に切り取って作ったスクリューのような物が付いているね。これに風を受けて回転させることで推進力を得ていたのか。こっちの羽根の様な物は舵になっているのかな?凄い工夫だ!」
「この生首は誰かの悪戯ってこと?」
重ねて理英が尋ねる。その理英の問いに対して永渕は、
「悪戯と言うよりも、仕返しだろうね。そうだろう、折尾?」
と言って闇の奥に向かって問い掛けた。すると闇の中で人の影が動く気配がした。その影はこちらに向かって近づいてくると、人間の姿を現した。同学年で化学部の次期部長候補の折尾篤志だった。理英を脅かす程ではないが、成績の優秀な生徒だったため、その顔は見知っていた。
「折尾君がこの事件の犯人だったの?」
「そうだよ。」
折尾は理英の問い掛けにぶっきらぼうに答えると、永渕の方へ向き直った。
「どうして、俺だと分かった?」
「同学年に400人から生徒が居るとはいえ、こんな化学の知識がある奴なんて、お前位しか思い浮かばなかった。理由を聞かせてくれよ。」
永渕にそう言われて、折尾は俯いたまま重い口を開き始めた。
「なるほどねえ。そういう事情だったのか。」
「文化系部活の予算を狙って、不良グループが恐喝してるっていう噂は、私たちの耳にも入っていたけど・・・」
永渕と理英は静かに嘆息した。
「それで、どうするんだ?」
折尾が尋ねる。
「何を?」
永渕が答える。
「この事件の後始末をだよ!」
折尾が語気を強める。
「べっつに~。どうもしやしないよ。僕たちは警察じゃないんだし、犯罪が行われるのを見た訳でもないし・・・」
永渕のその科白を聞いて、理英は飛び上がるほど驚いた。
「ブチくん、何を言ってるの?」
「だって、そうじゃない?僕がこんなことをしたのは、ただ単に自分の好奇心を満足させるためなんだから。」
「だからって、このままで良いの?少なくとも、先生方には報告しなきゃ!怪我人が出てるのよ。」
「怪我人たって、周章狼狽して自分で足を踏み外しただけだろう?僕はこのまま墓の中まで持って行くつもりなんだけど、もしそうしたいんなら君がやりなよ。」
「そんな・・・」
「納得できないって顔だね?でも、僕は今回は『青い紅玉』や『アベ農園』のホームズと同じ態度をとらせてもらうよ。」
そう言うと永渕は両手を広げて天を仰ぎ、丘の降り口の方へ向かって歩き始めた。しかし、2~3歩歩き始めると、急に思い出したように振り向いて折尾にこう言った。
「お前がどう落とし前をつける気なのかは、僕は知らない。でも嘘を吐くのならば、完璧に最後まで吐き通せ。取り敢えず、今はこっち方面から施設に戻るんじゃないぞ。」
その科白を聞いた折尾は、闇の中でただその場に立ち尽くしていたが、永渕はしっしっと手で追い払う動作をしてまた歩き始めた。理英は納得できない表情のまま、しぶしぶ永渕の後を付いて歩き出した。二人が丘陵地の降り口の辺りまで来ると、崖の下の方に明かりが集まって来るのが見えた。おそらく逃げ帰った竹田たちが、教師たちに急を告げたので捜しに来たのだろう。だが永渕は理英の手を取ると木陰に身を隠し、捜しに来た教師たちをやり過ごしてから再び丘陵地を下り始めた。
施設に戻った二人は、キャンプ・ファイヤーに参加するために集まり始めた生徒たちの群れに潜り込んだ。上手くいったつもりだったが、理英は先に戻っていた竹田に見つかると直ぐに質問攻めにあった。永渕は理英に真相を口外することを禁じた訳では無かったが、何となく真相を口にするのを憚られたため、竹田たちの後を追って逃げたことにして、後は言葉を濁して有耶無耶にしてしまった。むろん竹田が納得していないことは、その反応から明らかだったが、永渕が口を噤むことを選択した以上、理英も従わざるを得なかった。恐らく今日の出来事も、この施設にまつわる怪談話として後々まで語り継がれていくのだろう。
永渕はキャンプ・ファイヤーに参加するのは気が進まないようだったから、暫くすると勝手に抜け出してしまうのだろうと理英は思っていたので、フォーク・ダンスが始まると「壁の花」になるのを覚悟していたが、1曲目の『ジェンカ』が流れ始めると、永渕の方から近寄って来て、手を差し出した。『ジェンカ』は坂本九が出ていた日立の電子レンジ「ククレット」のCMソングとして使われていたので、永渕も踊り方を知っていたらしい。しかし、流れている曲目が『コロブチカ』や『マイム・マイム』に変わっても、永渕は理英の手を離さなかった。
「ねえ、私今日はまだお風呂に入ってないんだけど、汗臭くない?」
「汗臭い?そんなことないと思うけど。どっちかと言えば、君の身体からは、甘い良い香りがするから、僕は大好きなんだけどな。」
その返事を聞くと理英は、気恥ずかしさから顔を赤くして俯いてしまった。
「ねえ、もし普段から体臭を気にしてるんだったら、オーデコロンでも1本プレゼントしようか?君の体臭に近くて不自然じゃない香りの物を。」
いつもと違う積極的な永渕の態度に、理英はドギマギしながら、夢の様なひと時を過ごすことになった。
翌朝、帰り支度をした理英は、来た時とは違って、帰りのバスの座席は永渕の横に座ることにした。キャンプ・ファイヤーが終わった後、瞳や郁子が種明かしをしたのである。二人は幽霊退治から戻って来た永渕の姿を見つけると、こう焚き付けたそうである。フォーク・ダンスが始まったら、理英を逃がしちゃだめだ、女の子はロマンティックなムードに弱いから、他の男子生徒にパートナーの座を盗られたら、そのまま心変わりするかもしれない、と。
「そんな訳無いでしょ~。」
事情を聞いた理英が呆れたといった声で反論する。しかし二人は、
「だって永渕君なら、そうでも言わないと、勝手に抜け出しちゃうかもしれないでしょ~。」
「そうそう。『オクラホマと言えば?』って聞いたら、『オクラホマ・ミキサー』じゃなくて、『オクラホマ・スタンピード』って答えるような無粋な奴だもん。」
「そんな、ビル・ワットじゃあるまいし・・・散々な言われようね。」
理英はそう言うと仏頂面を作った。
しかしバスの中では、永渕は何も話し掛けてこなかったので、おずおずと理英の方から話し掛けることになった。この三日間で遊び疲れたのか、殆どの生徒たちは大人しくしていたので、車内は静謐を保っていた。カーラジオからは、ダ・カーポの『結婚するって本当ですか』が流れていた。
「ねえ、昨夜の出来事、本当に何も釈明しなくて良いの?少なくとも竹田さんは、明らかに私たちに猜疑の目を向けているわよ。」
「まあ、でも僕は、折尾の奴が何か言わない限りは、口を拭っておくつもりなんだけどな。」
「それで済ませられるの?」
「それは分からないけど、もし君にとってそうすることが難しいようならば、僕に訊くように言えば良いよ。」
「それじゃあ、一つ貸しね。」
「分かった!じゃあ、近いうちに君の望む形で返すことにするよ。何かリクエストはある?」
「明日からブチ君の家に押しかけて行って良いかしら?一緒に夏休みの宿題をしたいんだけれど・・・」
「えっ!この間も言ったけれど、僕はもう終わっちゃったよ。」
「だから、よ!」
そう言うと、理英は悪戯っぽく片目を瞑って見せた。それを見た永渕は、
「しょうがないな。」
とだけ言って了承した。
「まあ、でもこれで臨海学校が始まる前に瞳たちが口にしていた怪談は、全て解決できたわね。お蔭でキャンプ・ファイヤーも中止にならなくて良かったわ。みんな楽しみにしてたもの。」
「怪談って?」
永渕が怪訝そうにそう訊いてきたので、郁子が行きのバスの中で語っていた女性の生首の心霊写真の話を、簡単に説明してやった。すると永渕は少し眠たそうな口調で、
「でもそのお話の生首は、去年の2年生のことなんでしょ?だったら臨海学校の参加者も全く違うんだから、今回の事件とは全く別物なんじゃない?」
と、とんでもないことを言い出した。永渕のその科白を聴いて、理英は背筋がゾクリとした。
「確かにそうだ。」
そう思うと理英は居ても立っても居られない心地になったが、永渕は既にスースーと安らかな寝息を立て始めていた。車内を流れるカーラジオの曲は、チェリッシュの『ひまわりの小径』に変わっていた。その幸せそうな寝顔を眺めながら、理英は溜息を吐いた。
【執筆時参考文献】
『小泉八雲集』 小泉 八雲:著/上田 和夫:訳 1975・03・18 新潮社
『おれは清磨』 山本 兼一:著 2015・04・09 祥伝社
『週刊 日本刀 No.3』 2019・07・02 デアゴスティーニ・ジャパン
『週刊 日本刀 No.5』 2019・07・16 デアゴスティーニ・ジャパン
【脚注】
虎徹(長曽祢興里虎徹入道) 新刀の名工
1605年(慶長10年)~1678年(延宝6年) 享年73歳 出生地:
越前国
50歳頃に江戸へ出て、甲冑師から刀工へ転身したため、作刀数が少ない
が、切れ味が抜群のため人気がある。実戦向きの業物であるため、反りが浅
く見た目が良くないが、杢目肌の詰まった固い地金の強さでは、他の追随を
許さないと評された。波刃紋は互の目乱れを追及して、数珠刃に新境地を開
拓した。
清麿(源清麿) 本名:山浦内蔵助環 新々刀の名工
1813年(文化10年)~1854年(嘉永7年) 享年42歳 出生地:
信州滋野村赤岩
1835年(天保6年)の23歳の時に江戸へ出て、昌平黌の塾頭である窪
田清音の援助を受けて刀工として独立。1842年(天保13年)頃、長州・
萩に移る。1844年(弘化元年)に江戸に戻り、四谷で作刀に励むも、18
54年(嘉永7年)42歳で自刃して果てる。反りが浅く、身幅があり、切っ
先が伸びる特徴がある。刃紋は沸の乱れや互の目乱れを焼く。
このエピソードは、私が中学生時代に経験したことを基に組み立てています。また、このエピソードには、円谷プロの『怪奇大作戦』や田中芳樹さんの『創竜伝』や藤田和日郎さんの『うしおととら』が少なからず影響を与えていることを認めます。できれば『出藍の誉れ』といきたかったのですが、筆力が足らず『劣化コピー』の謗りを受けるかもしれません。