第五章 甲子園事件
その日理英が汗だくになって帰宅すると、理香はもう学校から帰って来ていた。既に私服に着替えていた理香は、クーラーの効いたリビングの床の上にうつ伏せに寝転んで、足を後ろに交差させ、お菓子を食べながら、週刊『少女コミック』を読んでいるところだった。理香は、上原きみこの『炎のロマンス』の大ファンなのである。7月に入って暑い日が続いているせいか、理香は上はTシャツ、下はホットパンツという恰好である。
「何食べてるの?」
理英が声をかける。
「チムチムのアップル・パイ。隣の佐々木さんがお客さん用にホールで買ったけど、余っちゃって、今日中には全部食べ切れそうにないからって、4分の1お裾分けしてくれたの。」
「私の分は?」
「無いよ!全部私が食べちゃった。」
それを聞いて理英が叫ぶ。
「お前の血の色は、何色だ~!?」
その問いに理香が事も無げに答える。
「緑!」
理香のその返事を聞くと、理英は自分の右足を、理香の交差した足の間に捻じ込んだ。
「ちょっと、おねえ、何するつもり?」
驚いた理香が叫ぶ。
「リバース・インディアン・デスロックよ!アントニオ猪木の得意技なんだって。」
理英はそう答えると同時に、足を差し込んだまま背中から床に倒れ込んだ。背中が床に着く直前に、両手で思いっきり床をパァンと叩く。
「ちょっと、おねえ、痛い!痛いって!」
「食べ物の恨みは恐ろしいわよ。更に、ここから、あんたの身体を足で持ち上げると・・・」
そう言うと理英は、理香の顎に手をやり、両足の膝を使って理香の身体を差し挙げた。
「いやあっ!おねえ、背骨が折れるって!」
理香が絶叫する。
「この技、ボー・アンド・アローって言うんだって。」
理香が理英の脚を平手で叩きながら喚く。
「ギブ、ギブ!こんな技、何処で覚えてきたの?」
「永渕君から教わったの。」
「おねえ、普段カレシとどんな会話してるのよ!」
騒ぎを聞きつけて、早苗がリビングにやって来た。
「ちょっと、理英、何やってるの?スカート履いたままで!」
「理香にお菓子を盗られたから、ちょっと腹癒せを。」
「女の子がなんですか!パンツ丸見えじゃないの。」
理英の夏の制服の吊りスカートが捲れ上がって、淡いサックス・ブルーのショーツが見えている。お尻の部分には、同色のフリルがふんだんにあしらわれていた。
「別に良いでしょ。どうせ今この家には女性しか居ないんだから。」
「何言ってんの!永渕君が見えてるのよ。」
「えっ?キャーッ!」
母親の後ろで、顔を真っ赤にしてあらぬ方向を向いている永渕の姿を認めると、理英は悲鳴を上げながら、理香の身体を抱えていた手を離して放り出した。
「いてて、・・・おねえ、今さら遅いよ。」
理香が足を擦りながら、呻くように呟いた。
理英は顔を真っ赤にして、制服の吊りスカートを押さえる様にしてしゃがみ込むと、永渕の方を涙を浮かべた目で一瞥して、小声で訊ねた。
「・・・・・・見た?」
永渕もそっぽを向いたまま、真っ赤な顔で答えた。
「ごめん・・・・・・」
「ああっ、私のお淑やかなイメージが崩れてしまった!」
理英が嘆息とともに、悲しそうに科白を吐き出す。すかさず理香が追い討ちをかける。
「元々そんなの無いから!」
そして、まだそっぽを向いている永渕に向かって、
「そうですよね、永渕さん!」
と同意を求めたうえで、
「如何でした、おねえのパンツは?」
と訊いてきた。不意を突かれた永渕はドギマギしながら、
「えっ!・・・結構なものを見せて戴きました。」
と、素っ頓狂な答えを返した。
それを聞いた理香は、
「それは、それは、そんなに喜んでいただけるとは。つまらない物ですが、もう少し如何?」
と言うと、理英の制服のスカートを捲り上げたため、形の良い長い脚が顕わになった。理英は、理香の手を振り払いながら、
「ちょーっ!あんた、何すんのよ?」
と叱りつけたが、理香は全く意に介さなかった。
「おねえは、胸じゃあセックス・アピールはできないから、これで勝負しなきゃ!」
と言うと、永渕に向き直って続けた。
「おねえ、最近、下着を買い換えてるんですよ。前は、白か、花柄とか、苺柄とか、さくらんぼ柄とかの『お子ちゃま』なプリント柄が多かったんですけど、最近、履き込み丈が浅い、パステルカラーでフリルが付いた物を履くようになったんですよ。」
理香はそこまで言うと、理英の方を振り返って、
「彼氏ができたからって、急に色気づきおって。このおっ!」
と、余計なことまで暴露した。
「あんた、何言ってんのよ?」
涙目の理英が抗議しても、理香は、
「いいじゃない。どうせ、永渕さんに見せるつもりで、パンツ買い換えてるんでしょう?」
と言うと、
「どうぞ、どうぞ、存分にご鑑賞ください。」
と、また理英のスカートを捲ろうとする。しかし、永渕が助け舟を出すつもりで、
「いえ、もう十分に堪能しましたから・・・」
と言うと、理香は思いっきり噴き出してしまい、やっと悪巫山戯が終わった。
「良かったね、おねえ!おねえの無い色気でも、堪能してくれたってよ。」
と理香が言ったが、理英は恥ずかしさのあまり、耳には入っていない様だった。代わりに、永渕が必死に理英を宥めていた。
「でも器用だね。話を聞いただけで、完璧に技をかけられるなんて。本当に頭も運動神経も良いんだね。ちょっと、羨ましい。」
そんな二人に理香が横から口を挟む。
「ちょっと!今、話題にすべきことは、妹に拷問技をかける姉の人間性についてじゃないんですか?私は姉に苛められてたんですけど!」
それを聞くと永渕はクスリと笑って、
「いや、姉妹仲が良いってことは、よく分かったよ。」
と返してきた。その返事に理香は、
「『痘痕も笑窪』とは言うけれど、駄目だ、こりゃあ!ほんとにベタ惚れじゃん。」
と、一人ごちたが、何か思い付いたらしく、意地の悪い笑みを浮かべて、永渕の方にお尻を向けると、両手で自分のスカートをペロンと捲った。白地に濃い黄色のボーダー柄で、お尻の部分には、卵から孵ったばかりのひよこがデフォルメされたイラストが描かれていた。
「どうです、私のパンツも可愛いでしょう?」
しかし返ってきたのは、案に相違して冷静な永渕の声だった。
「あのね、女の子は、人前で自分のスカートを捲ったりするもんじゃないよ。」
そう言うと永渕は、スカートを捲っている理香の手を掴んで下に押し戻した。それを見ていた理英はニヤリと笑うと、すかさず追い討ちをかける。
「ごめんねえ~、理香。私の彼氏はお子様のパンツには興味無いって!そういう真似は、私みたいにもうちょっと大人の色気が出てからにすることね。」
そう言いながら理英は、指先で理香の頭を突つく。今度は理香が顔を真っ赤にして呟いた。
「ぶ、侮辱っ・・・」
「なによっ!」
即座に理英も応戦する構えを見せた。
「だったら、今に見てなさい。おねえの彼氏、私が寝取ってやるんだから!」
「はい、はい。期待しないで待ってるわ。」
理英は感情のこもっていない返事を理香に返した。
「ごめんなさい。みっともないところを見せちゃって。」
理英が永渕に謝った。しかし永渕は、
「いやっ、どちらかと言うと得した気分だよ。」
と返してきたため、理英もつい、
「えっ?もう、ブチ君のエッチ!」
と反応してしまった。
「ブチ君も男の子なのね。」
と理英は嘆息すると、
「ところで、今日はどうしたの?」
と来訪の用件を尋ねた。
「いや、夏休みの『長崎原爆の日』から2泊3日で臨海学校があるでしょ?その時の自由時間にどういう活動をするか、クラス単位で決めるから、明日の放課後のホームルームで話し合って欲しいんだって。そのための資料を、伏見先生から預かって来たんだ。総務委員の君と小椋に渡してくれって。」
そう言うと永渕は、鞄の中から書類の束を取り出した。臨海学校を開催する『玄海少年自然の家』の案内と、臨海学校で行う行事を記したプログラムのゲラ刷りだった。写真で見ると『玄海少年自然の家』は、文字通り玄界灘に面した砂浜の近くにあって、建物の背後は崖になっていて、その上は鬱蒼とした松林になっていた。
「良い所ね。白砂青松って言葉がピッタリくるわ。」
と、理英が正直な感想を述べた。
「そういえば小椋君の家はブチ君の家から50メートルと離れてなかったわね。幼稚園から一緒なんだって?」
「うん。言ってみれば、『腐れ縁』ってやつかな。」
と言うと、永渕は肩を竦めてみせた。
「でも、伏見先生はブチ君のこと、ずいぶん信頼してるのね。」
「まあ、入学してからずっと伏見先生が担任だから、よく知ってるつもりなんだろうね。」
「それに、先生方の信頼を裏切るようなこともしなかったしね。」
思い出したようにそう言うと、理英はクスリと笑った。
「まあね。信頼って言うのは、得るのは難しいけれど、壊れるのは一瞬だからね。」
「加えて永渕君は授業態度も真面目よねぇ。」
「そりゃあ、先生方の仕事ぶりを見てるからね。」
「仕事振り?」
「うん、実は去年の秋口から毎日朝と夕方に、職員室の国語の鮎川先生の所に行ってるんだ。」
「何してるの?」
「実は今一つ、国語の読解力に自信が無いから、朝日新聞の『天声人語』と『社説』の要旨を50文字以内でまとめるトレーニングをしてるんだ。」
「へえ~っ、知らなかった!」
「でも、単にやりっぱなしじゃあ力がつくとは思えないから、毎朝、新聞の切抜きと要旨を書いたノートを鮎川先生に出して見て貰ってるんだ。そして夕方に添削してもらったノートを、受け取ってるんだよ。」
「いつも朝教室に居ないと思ってたら、そんなことしてたのね。」
「だけど殆どの先生は、朝僕が職員室に入った時にはもう学校に来ているし、僕が帰る時にも沢山の先生が残って仕事をしているよ。」
「そうなんだ。」
「みんな、明日以降の授業計画を立てたり、テストの採点をしたり、提出された宿題を見たりしているよ。よく日教組ができてから、教師は堕落して、単なる労働者になったって言われてるけど、そんなことは無いと思うよ。そんな先生方の姿を見たら、とても授業を徒や疎かにはできないよ。」
「先生方も意外と大変なのねえ。」
理英はそう言うと、溜息を一つ吐いた。
夏休みを1週間後に控えた或る日、体育の授業を控えた理英は、朝から高揚した気持ちを抑えきれないでいた。今月に入ってからは、体育は全て水泳の授業になっている。しかも雨天で中止になって他の教科と振り替えた分があるため、今日は一日のうち2時限が水泳なのである。泳ぎの得意な理英としては、気持ちが浮き立たずにはいられなかった。登校してきたばかりの永渕の姿を見つけると、永渕が席に着くや否や挨拶もそこそこに話しかけた。
「おっはよー!今朝も鮎川先生の所に行ってきたの?」
「ああ、おはよう。うん、そうだよ。例のノートを出してきた。」
「ねえ、私今日は制服の下に水着を着て来たの。ほらっ!」
そう言うと理英は、勢いよく制服のスカートをたくし上げて中身を永渕に向けて見せた。理英の予想もしない行動に、永渕は思わず顔を赤らめてそっぽを向いてしまった。永渕の周囲に居た数名の男子生徒も、思わず好奇の目を向けた。
「ちょっと、ピッピ!何してるの?」
見かねた坪田が窘める。
「大丈夫よ。下は水着を着てるから!」
確かにスカートの中身は、理英たちの学年の色であるエメラルド・グリーンの生地に白い縁取りのある、学校指定のパイピング水着だった。
「そういう問題じゃないでしょう。」
横から秦も坪田に加勢する。
「そうかな?」
「女の子が自分からスカート捲っちゃダメよ!」
すると、永渕が真っ赤になって理英から顔を背けたのを見て、三波笑子が良い玩具が居たとばかりに含み笑いをしながら近づいて来た。そしてまだそっぽを向いている永渕の前に立つと、
「あら、私も今日は下に水着を着て来たのよ。プールのある日は朝からテンション上がるよね。ほらっ!」
笑子もそう言ってスカートを捲って見せると、いきなり永渕が驚いて仰け反った。永渕の周囲に居た男子生徒数名も、一斉にどよめいた。思わず理英が叫ぶ。
「エミ、水着着てない!」
永渕の予想以上の反応に満足そうな笑みを浮かべていた笑子は、それを聞くと、
「えっ!?」
と怪訝そうな声を上げて、自分のスカートの中を覗き込んだ。そこには、正面の上部に赤いリボンの目印が付いたピンク色のショーツがあった。笑子は、
「キャーッ!」
と金切り声を上げると、真っ赤になって自分のスカートを抱え込むようにしゃがみ込んだ。理英は咄嗟に両掌で永渕の目隠しをしながら、
「今見たことは全て忘れなさいっ!」
と叫んだが、永渕からは、
「ダメ!もう手遅れだよ。あまりにも強烈過ぎて、網膜に焼き付いちゃった。」
という返事が返ってきた。それを聞くや否や、理英は永渕の机に乗って両膝立ちになると、スカートをたくし上げて、永渕の頭にスッポリと被せながら言い放った。
「じゃあ、記憶を上書きしてあげる!」
驚いた永渕が声を上げる。
「ちょっと、寛永寺さん。何するつもり?」
「私の水着姿で記憶の上書きして、エミの下着姿を忘れさせてあげるって言ってんの!」
そう言うと理英は、スカートの上から永渕の頭を抱きかかえて、顔を自分の水着のクロッチ部分に押し付けた。理英の突拍子も無い行動に教室中がざわめく。
「僕はカセット・テープじゃないよ!」
永渕がくぐもった声で抗議の叫びを上げる。その時、授業の開始を告げるチャイムの音と共に、今日の最初の授業である地理を担当している杜教諭が教室へ入って来た。杜は理英の格好を見咎めると、大きく目を見開いて叱りつけた。
「何やってるの、貴方たち!?」
「男女交際については節度を持って、校内の風紀を乱すことの無いよう、健全な交際に努めるように!」
水木教頭の声が職員室の外にまで響いていた。
「特に君たち二人は、学年でも屈指の優等生じゃないか。今さらこんなこと言われなくても分かるだろう?」
水木は溜息を吐きかねないほどの呆れた声で、さらに追い討ちをかける。
その日の昼休み、理英・笑子・永渕の3人は昼食が終わるのもそこそこに、杜教諭から報告を受けた教頭の水木に職員室に呼び出されたのである。そしてきつく叱られた後、職員室の前の廊下で昼休みが終わるまで、3人仲良く並んで正座させられたのであった。
正座した永渕が正面を向いたまま呆れたように言う。
「しっかし、君がこんなにやきもち妬きだとは思わなかったよ。」
その言葉を聞くと、振り向いた理英はムッとした表情で頬を膨らませた。
「なによう、悪かったわね。」
「悪いとは思ってないよ。やきもちを妬くってことは、それだけ真剣に僕のことを好いてくれてるってことだからね。むしろ感謝してる。だけど、それを行動に移す時には、一旦立ち止まってよく考えてから、実行に移して欲しいなあと思ってるだけだよ。」
「分かりましたあ。今度から気をつけますう。」
理英はむくれながら答えた。
「本当にそう思ってる?言っとくけど今回は、僕は完全に被害者だからね。」
「酷いっ!女の子に全ての罪を背負わせるなんて!そんな不実な人だと思わなかったわ!」
「ねえ、ちょっと二人とも、こんな所で痴話喧嘩するのは止めてくれない。一緒に正座させられてるこっちまで恥ずかしいんですけど。」
笑子が二人の会話に割って入る。
「よく言うよ、元凶のくせに。」
永渕が反論する。
「だって、二人の破廉恥行為の巻き添えになったのは、私じゃない。」
笑子も言い返す。
「ちょっと、元はと言えば、君が僕をからかおうとしたところから全ては始まってるんだけど。」
「そうよ!エミが調子に乗って永渕君をからかうためにスカートを捲って見せたのが発端じゃない。」
理英も永渕に加勢する。
「もう言わないで!思い出すだけで顔から火が出そうなんだから。私だって、水着を着て来ようと思って昨夜用意しておいたのを、寝坊して着替えるのを忘れただけなのよ!それに私がやったのは、最初にピッピがやったことと同じじゃない。」
「でもエミが自爆しなければ、私だってあんなことしなかったわよ。」
「例えそうでも、普通の女の子は、あんな痴女みたいな真似はしません。」
「痴女ってどういうこと?」
理英が色を作して問い詰める。
「二人とも自分たちが周囲からどういう目で見られているのか、周りの声を聞いてみてよ!」
実際、職員室の前の廊下を通り過ぎる生徒たちは、3人の姿を見て口々に噂していた。
「おい、あそこで正座させられてるの、永渕と寛永寺だろう?うちの学校のツートップじゃないか。珍しいこともあるもんだな。」
「二人とも、超の付く優等生の筈でしょう?一体、何をやらかしたの?」
「何でも朝の始業前に教室で如何わしいことをしていたらしいよ。」
「本当?とてもそんな風には見えないんだけど・・・」
「人は見かけによらないって言うから。」
「って言うか、見ている限りそんなことするほど仲良さそうには見えないんだけど。」
「何言ってんの。あの二人付き合ってるんだって!」
「よく人間関係で1+1はイコール2じゃなくって、3にも、5にも、10にもなるって言うけど、優等生+優等生はマイナスになるのか!」
「天才と秀才がカップルになったら、二人ともバカになるってこと?」
「ハハハ・・・、じゃあバカップルだ!」
そんな声が二人の耳に入ってきて、二人とも顔を赤くして俯いてしまった。
そして7月21日のことだった。終業式の直後、三波笑子が話し掛けてきた。
「ねえ、ピッピ。今日から夏休みに入ったことだし、明日、小倉に映画を見に行かない?」
「何か面白い映画、やってたっけ?」
「うーん、テレビで角川書店が『犬神家の一族』のCMを流してるけど、公開はまだ先だしなあ。『ミッドウェイ』とか『グリズリー』はもう公開されてるけど・・・」
「戦争ものやパニック映画はやだなぁ。」
「んじゃ、『ベンジー』にでもする?」
「それでも良いけど、現地に行ってから決めようよ。でも、珍しいね。エミがこういうことに誘ってくるなんて。」
「別に映画を見るのが目的じゃないも~ん。その後、東映会館の中の水着パラダイスで、夏休みのために新しい水着を買おうと思って!」
「水着?」
「そう、あそこなら新作の水着がたくさんあるじゃない!中学では、学校指定のスクール水着買わされたから、学校の外では違う水着を着たいじゃん。もう中学生になったんだから、ワンピースよりセパレートの水着が欲しいなって思って!」
理英たちの中学校では、体操服と同じく、水泳の授業で着る水着も学校指定の物だった。色も体操服と同じで、3年生が臙脂色、1年生がライトブルー、そして理英たち2年生は緑色だった。鮮やかなエメラルド・グリーンのワンピースだったが、これを着て泳いでいる姿はどことなく蛙を連想させるため、女子生徒の評判はあまり良くなかったのだ。
「私はいいけど、明日は永渕君と何処か行きたいねって話してたんだよね。七夕の時は喧嘩してて、一緒に過ごせなかったから、夏休みは二人で目一杯遊ぼうねって言ってたのよ。」
「違う、違う!永渕君も誘ってさあ。私も溝口君を誘うから!二人きりで小倉でデートなんて親が許してくれないから、グループ交際ってことで親の了解を取り付けたいのよ。」
「ああ、そういうこと。私たちはダシに使われるのね。」
理英が呆れた様に答えた。
「僻まないでよ!学年で1番・2番の優等生カップルなんだから、一緒に行動するって言えば、親の安心感も増すってもんじゃない?」
「おかげで私たち『バカップル』って呼ばれてるんですけど・・・まあ、良いわ。男女交際の先輩として、本来どうあるべきか、教えて貰うことにするから。」
「それに、水着のことなんだけどさあ、もし試着しても迷ったら、男の子に選んでもらおうよ。こんなこと、彼氏持ちの娘じゃないと、声かけられないし。」
「えーっ!何それっ!男の子の前で、水着に着替えて見せるの?私、ちょっと恥ずかしいんだけど・・・」
「この間あんなことしでかしといて、今更なに言ってんの?それにもし在ったら、水着の柄もお揃いにしてさあ・・・」
「水着のペアルックってこと?」
「そっ!、一度ペアルックってやってみたかったんだけど、水着なら同じプールにでも行かない限り、他の誰かにバレることもないから。」
小悪魔っぽい表情を作ると、笑子は魅力的な提案をした。
「それに、永渕君は女の子にあまり免疫が無いみたいだから、ピッピのビキニ姿を見せたら、きっとメロメロになるわよ!」
夕飯の後、理英が自分の部屋で明日着ていく服を選んでいると、部屋のドアをノックする音がして理香が顔を覗かせた。
「おねえ、何してんの?下着姿で仁王立ちして、床に並べた服を睨んでるけど。」
「明日、永渕君・溝口君・エミの3人と一緒に小倉へ出かけるんで、着て行く服をどうしようか悩んでんの。」
「おねえ、明日、小倉でダブル・デートするの?」
「そっ!明日の午前中から小倉の東映会館に映画を見に行くんだ。」
「だったら、この淡いサックスブルーのワンピースにしたら?見た感じ涼しそうだし、ワンピースは男の子にウケが良いよ?」
「やっぱりそう思う?笑子も白いワンピースを着てくるって言ってたからなあ・・・」
「楽しそうだね。でも映画だったら、小倉まで行かなくても、門司駅前の若草映劇でも見られるんじゃない?」
「バッカねぇ~!あそこは、今はもう『にっかつロマンポルノ』しかやってないわよ。それに、映画のついでに新しい水着を買おうと思ってるの。」
「へえ~、どんなの買うの?」
「笑子と話したんだけど、思い切ってビキニにしようかなって。」
「ビ・キ・ニ~?バスト70cmしか無いのに?」
「失礼ね、72cmになりました!」
「へー、成長したんだ。ひょっとして永渕さんに胸揉んで大きくしてもらったの?」
「私の彼氏は真面目だから、そんなエッチなことしませんよ~だ。」
「まあ、そりゃそうか。でも、大きくなったって言っても、まだ72cmでしょう?そんな小さいビキニ、あるのかなあ~?」
「あるもん!ほら、この手塚理美が着てるビキニ、ミドルティーン向けらしくて、胸が小さくても見映えするのよ。表紙の白地に赤い花柄のも良いけど、中に載ってる黄色地に緑でジャングルを模った模様が気に入ってるの。」
「何これ?学研の『中2コース』?おねえ、購読してたっけ?」
「永渕君から借りたの。」
「で、ユニチカのマスコット・ガールに対抗意識燃やしてるんだ?手塚理美って、1歳上だっけ?」
「そうよ。でも、永渕君は私の方がずっと魅力的だって言ってくれたわよ。」
「ごちそうさま!成る程、ビキニで悩殺してから毒牙にかける魂胆なんだね。」
「魂胆ってなによ~?」
「あ、もう毒牙にかけてるんだっけ?」
「失礼ね、向こうが勝手にかかっただけじゃない。」
「毒牙にかけたっていう認識はあるんだ?まあ、永渕さんなら、喜んでおねえの毒牙に飛び込んで来るんだろうけど・・・」
「お待たせ~っ!」
そう言って理英が集合場所の門司駅にやって来たのは、約束の時間の5分前だった。駅の前を通っている国道3号線の広い道を、風を切って横断歩道を駆け抜けて行くと、もう永渕と溝口は改札の前で待っていた。理英が駆け寄る姿を認めると、永渕は眩しそうな表情で見詰めていた。事実、蝉時雨の中をサックス・ブルーのワンピース姿で、長い髪を風になびかせて走る理英の姿は、一陣の涼風を思わせた。
「二人とも早かったのね。」
そう理英が声を掛けると、
「いや、今来たところだよ。」
と永渕が返した。
「嘘吐け!こいつ、君とデートできるのが楽しみで、30分も前から待ってたんだぜ。」
すかさず溝口が冷やかす。
「ちょっ、そんなこと今ここでバラさなくてもいいだろっ!」
慌てた永渕が抗議の声を上げた。それを横目で見ながら、
「エミはまだなの?」
と理英が笑いながら尋ねる。
「あいつは待ち合わせをしても、定刻前に来たことはないんだ。そのうち来ると思うから、もう15分ばかり待ってくれないか。」
と溝口が応じた。
「『ベンジー』、意外と面白かったね!」
映画館から出てくるなり、理英が笑子に話しかけた。
「でも少しお腹減っちゃったね。まだ11時だけど、何か食べてかない?」
笑子が提案する。
「えー!でも、この後水着買うのに、お小遣い無くなっちゃうよ!」
理英がそれに応じる。
「大丈夫!今日はお互い、もう一つずつ、財布があるじゃない。」
そう言うと笑子は溝口の方を向いて、甘えた声で話し掛けた。
「ねえ、溝口君、私お腹空いちゃった。銀天街の『ロイヤル』で何か食べようよ。」
小倉の魚町銀天街の中ほどにあるレストラン『ロイヤル』の2階で、笑子は自分の名前通りに満面の笑みを浮かべていた。注文したスイーツが運ばれて来たからだ。注文したのは、笑子がストロベリー・パフェ、理英がフルーツ・パフェ、永渕がチョコレート・パフェ、溝口がプリン・アラモードということになっていたが、無論「一口味見させて」と言って全部を味わう魂胆なのは、見え見えであった。
「こういうことだったのね!」
理英が笑子に囁く。
「そっ!これぞ男女交際の醍醐味!」
「狡いわねえ!越後屋、お主もワルじゃのう。」
「やだ~!何言ってんの~。」
そう言うと笑子は、理英の背中をバンバンと叩いてケラケラと笑った。その時、永渕のチョコレート・パフェに、飾りでポッキーが2本刺さっているのに理英が気付いた。理英はそれを指差すと、
「ねえ、あれやりたい。」
とせがんだ。永渕は一瞬驚いた表情を浮かべたが、観念したようにポッキーをグラスから抜くと、持ち手の方を口に咥えて理英の方を向いた。理英も阿吽の呼吸でポッキーの先端を咥えると、目で合図を送って両端からガジガジと齧り始めた。二人の口が3cm位にまで近寄ると、途中で永渕の方が耐え切れなくなって、歯を立てて口許に力を入れた。ポッキーは中央より少し理英寄りの所でポキンと折れてしまった。
その間、笑子と溝口は呆気に取られて、二人の様子に見入ってしまった。そして周辺の席に居た客からも注目を浴びていることに気付くと、笑子が慌てて注意した。
「ちょっと、ちょっと、お二人さん!浮かれるのは良いんですけど、もうちょっと人目を憚って欲しいんですが・・・周りの視線が痛いんですけど!」
溝口はもっと辛辣な科白を口にした。
「しっかし、校内の主席と次席の秀才がカップルになると、単なる馬鹿にしか見えんぞ!1+1が2にならないというのはよく聞くけど、マイナスになるとは・・・」
「何よ!羨ましいんなら、二人もやってみたら?」
そう言うと理英は、永渕のチョコレート・パフェに残ったもう一本のポッキーを差し出した。
「バーカ!ちっげーよ!本当にもうこのバカップルは・・・」
と溝口が呆れた。
「他人の振りしましょっ!」
と笑子が応じた。しかし、
「無駄だと思うよ。さっきから同じテーブルに座ってるんだから。」
と永渕が冷静に返すと、溝口と笑子は項垂れてしまった。それを横目に見ながら、
「ところで、この後どうするの?」
と理英が台本通りに尋ねた。笑子が答える。
「ねえ、東映会館に行ってみない?買いたい物があるんだ!」
「買いたい物って、何?」
不思議そうな顔で溝口が訊いた。
「へっ、へっ、へっ。それはヒ・ミ・ツ!一緒に見て貰いたい物があるから、何も言わずに付いて来て、意見を聞かせてよ。忌憚の無い意見ってやつを・・・」
笑子はそう言うと悪戯っぽく笑いながら、スプーンを持った手を伸ばして、溝口のプリンを掬い取った。
翌日、四人は門司駅に程近い内裏プールにやって来ていた。ここは、永渕を除く3人の通っていた藤ヶ丘小学校からも近いため、3人にとっては馴染みの場所であった。永渕と溝口は先に着替えを終わって、プールサイドで女の子たちが出てくるのを待っていた。プールサイドに立っているスピーカーからは、平山みきの『真夏の出来事』が流れていた。二人は所在無さげにベンチに座って流れてくる曲を聞いていると、10分ほど遅れて理英と笑子が更衣室から出てきた。理英はいつもと違って眼鏡を外し、髪を下ろしていたので、別人の様な雰囲気をまとって、少し大人っぽく感じられた。永渕の視線は一瞬、理英のビキニのトップスの膨らみで止まったが、直ぐに顔を背けてしまった。
「どう、似合う?」
笑子は先日買った新しいビキニを着て溝口の前まで来ると、ランウェイに立ったファッションモデルのように1回クルンと回って見せた。鮮やかなサックス・ブルーのビキニで、笑子の小麦色の肌に良く似合っていた。無論、溝口も同じ色の水着を穿いている。しかし、毎日の炎天下での陸上部の練習に加えて、今月に入ってから既に散々水泳の授業を受けた後なので、笑子の身体にはレーシングウェアやワンピースのスクール水着の日焼けの跡が付いていて、ビキニ姿はジャイアント・パンダを連想させた。
「うん、良いんじゃない?」
溝口が吹き出しそうになるのを堪えて答える。
「何よ!もっと他に言うことはないの?」
笑子がそう言って突っかかると、溝口は不用意にも、
「パンダみたいで可愛いよ。」
と答えてしまった。それを聞いた笑子は、溝口の頭にヘッドロックをかけると、そのままプールに向かって走り出した。小麦色の肌が跳躍する。そしてブルドッキング・ヘッドロックの体勢で、勢いよく溝口諸共プールに飛び込んだ。ドボンという大きな水音と共に、溝口の悲鳴が響いた。その様子を見ていた永渕が、
「お~!ボブ・エリスのようだ。」
と感想を口にしたが、それを聞いた理英には、ボブ・エリスが誰なのか分からなかった。
理英の方は小倉で買ったピンク地に白いストライプ柄のビキニを着ていた。永渕は同じメーカーのマリン・ブルー地に白いストライプ柄のパンツを穿いていて、理英とは色違いのお揃いになっていた。
「永渕君、どうかな?」
理英は恥ずかしいのか、ビキニのトップスの部分を、腕組みをする様に両手で隠しながら恐る恐る尋ねる。永渕は初々しい理英の様子を目にして、頬を赤らめた。
「可愛いよ。とっても似合ってる。」
その言葉を聞くと、理英は内心嬉しかったが、永渕が顔を赤らめてそっぽを向いたままだったので、両手で永渕の顔を挟んで自分の方を向かせた。
「ねえ、ちゃんとこっちを見て言ってよ!」
「なんか照れるよ。君が凄く可愛いから・・・」
永渕が搾り出すように本音を漏らすと、理英は満面の笑みで正面から永渕の右腕に抱きついてきた。
「ねえ、ちょっと!胸が当たってる、当たってる!」
理英の水着の胸が永渕の二の腕に当たっていたのだが、理英は意に介さずといった風に、
「あら、嬉しくないの?」
と訊いてきた。
「いや、嬉しいんだけどさ・・・」
永渕が照れたように言うと、
「ありがとっ!ねえ、私たちも一緒に泳ごう!」
と言うなり、永渕の腕に絡みついたままプールサイドまで引き摺って行き、水面に向かって飛び込んだ。雪白の肌が躍動する。永渕も一緒になって後ろ向きのまま、ネックブリーカー・ドロップの様な体勢で、頭から真っ逆さまに水面に落ちて行った。今度は永渕の悲鳴と共に、大きな音を立ててプールに水飛沫が上がった。「良い子の皆さんは決して真似しないで下さい」という注意書きの典型とも言えるワンシーンだった。
理英と永渕は小一時間ほど泳いでプールから上がると、たこ焼きやソフトクリーム・焼きとうもろこし等の売店が並んでいるスペースのベンチに腰掛けた。スピーカーからは、青い三角定規の『夏に来た娘』が流れていた。少し後から溝口と笑子もやって来て合流した。溝口が笑子に尋ねる。
「ねえ、何か食べる?」
「私、ソフトクリームが食べたい。ストロベリー味のやつ!」
笑子が元気良くそう答える。
「寛永寺さんも何か食べる?」
永渕も尋ねる。まだ人前では「ピッピ」と呼ぶのは気恥ずかしいようだ。
「私もソフトクリームが良いな。私はチョコレート味!」
理英が元気よく答える。
「分かった、買ってくるよ。」
そう言うと永渕と溝口は連れ立って、ソフトクリームを売っている売店の方へ向かった。二人がソフトクリームを両手に持って戻ってくると、理英と笑子は自分の分を受け取るや否や、それぞれコーヒー味の永渕とバニラ味の溝口に一口舐めさせてくれとせがみ、半分ほど舐め終わったところで自分の分を舐め始めた。しかし、自分の分を暫く放っておいたうえ、お喋りしながら舐めていたので、二人のソフトクリームは溶け崩れ始めていた。
「何だか男女交際というよりも、単にたかられているだけの様な気がする。ねえ、恋人と金蔓の違いって何なの?」
永渕がポロリと本音を漏らした。しかし、溝口もその科白を咎めるどころか、同意を示した。
「全く!しかし、お前も災難だったな。夏休み前にそんな頭にされて。」
そう言うと溝口は永渕の頭を平手で撫で上げた。
「それより今日くらいは図書館で調べものがしたかったんだけど・・・」
「何だよ。夏休みの宿題か?」
「違う、違う。一昨日、叔父の会社で同僚だった人の控訴審判決があったんだけど、逆転敗訴になっちゃったんだ。東京地裁での一審は無罪だったのに!だから裁判所の判断がどう変わったのか知りたいんだ。」
「何の事件だ?」
「『西山事件』、所謂『外務省秘密漏洩事件』のことさ。」
「ああ、あの『西日本のバナナ王』の息子の事件か!そうか、お前の叔父さんは毎日新聞の記者だったな。」
「あの事件の真相は、『週刊新潮』の報道とはかけ離れてるような気がするから、注目してたんだよ。」
「まあ、仕方がないよ。『彼女』ができるってことは、時間とお金が無くなるってことなんだから。潔く諦めな!」
そういう男の子たちの不満はどこ吹く風とばかりに、理英と笑子はお喋りに興じていた。何が可笑しいのか、笑い合いながら肘で突つき合っていたが、笑子が理英の肩を突いた時、理英のソフトクリームが溶け崩れてしまった。チョコレート色のアイスの塊りが理英の手元から肩甲骨の辺りに落ちて、溶けたアイスの滴が更に理英の胸元をつたって徐々に流れ落ち始めた。アイスの冷たさで理英が短く、
「キャッ!」
と叫び声を上げると、笑子が、
「やだ、水着に付いたら染みになっちゃうよ。」
と言うと男の子たちの方を振り向き、
「ねえ、どっちかタオルかティッシュ持ってない?」
と訊いてきた。しかし笑子がその科白を言い終わる前に、永渕は理英の傍に行くと、
「あ~あ、勿体無い。」
とだけ言って、理英の胸元に口を付けると、肩甲骨の辺りまで舌を這わせてアイスを舐め取ってしまった。永渕の意外な行動に思わず理英も、
「ひゃんっ!」
と嬌声を上げてしまい、その様子を見た溝口と笑子はその場で固まってしまった。
「今の見た?」
笑子が溝口に尋ねる。
「見た!今ペッティングしたよね?」
「愛撫よ、愛撫!」
「人前でやるとは思わなかった!聞きしに勝るバカップルぶり。」
「ピッピも舌を這わされてよがったよね?」
「よがったんじゃないわよ!」
理英が真っ赤になって抗議の声を上げた。笑子と溝口は一頻り二人をからかうと、まプールの方へ向かって逃げていった。
「そう言えば、もう夏休みに入っている筈なのに、お客さんが少ないわね。」
理英が呟く。プールサイドのスピーカーからは、平田隆夫とセルスターズの『ハチのムサシは死んだのさ』が流れていた。
「女性客は普通だと思うけど、男性客が圧倒的に少ないような気がするね。」
「ここは近くに流星中学と鎮西学園と報国学院があるから、お客さんはその3校の生徒が多い筈だけど・・・」
「報国の生徒たちは今日は小倉球場の方へ行ってるんじゃないかな?」
「ああ、そっか!珍しく報国はまだ甲子園の予選を勝ち進んでるもんね。今ベスト16だっけ?」
「そうだね。昨日から県大会が始まって、28日には代表が決まるらしいから、最大そこまではこんな状態が続くんだろうね。まあ、報国は悪餓鬼が多いから、居ない方が清々するんだけどね。」
報国学院はこの地区にある私立の高校で、右翼的な教育を行うことで有名な高校だった。しかし実態は、現在までこの地区だけでなく、北九州市において落ちこぼれてしまった生徒たちの受け皿になっていた。要するに「底辺校」なのだ。そのため、所謂「不良」と呼ばれる生徒が多く、いろいろと問題を起こすために、この学校周辺の住民からは嫌われていた。今流行っている劇画『愛と誠』に絡めて、「リアル花園実業」と陰口を叩く者も多い。特に商店街はこの学校の生徒による万引きの被害が甚大で、この学校の名前を聞くと、商店主たちは露骨に嫌な顔をするほどだ。無論、真面目な生徒も少しは居るので、単なるイメージの問題なのだが、永渕の家も店舗を経営していることから、どうしても商店街寄りの考え方になるようだ。
「今年はどこが甲子園に行くのかしら?」
「ベスト16に残っている高校の中では、実績では思永館が夏の甲子園で2連覇していて断トツだけど、公立校でもう四半世紀以上前のことだしなぁ。今勢いがあるのは柳川商業か九州工業だから、どっちかじゃない?」
思永館高校は、小倉にある県立高校で、旧小笠原藩の藩校の流れを汲む高校である。エリアトップと言うよりも、福岡県内屈指の進学校で、修猷館・福岡・筑紫丘・東筑と並んで「県立五摂家」と呼ばれているが、ここ最近は修猷館と思永館の進学実績が突出してきたため、この2校を「福岡の双璧」と呼ぶようになっていた。だが2校を比較した場合、修猷館には進学で初志貫徹を貫く者が多いせいか、浪人してしまう生徒も多く、「大言壮語の修猷館、ガリ勉の思永館」と揶揄する声も上がっている。尤も、「進学校としての」という但し書きを外せば、学校としての知名度は思永館の方が勝っている。1947年と1948年の夏の甲子園大会で、野球部が2連覇したという輝かしい実績が物を言っているからである。しかしここ10年位は、進学校として力を入れているせいか、野球部の方は甲子園から遠ざかっているのが現状である。
「じゃあ、報国が勝ち進んでるうちに、ここを使い倒そうよ。」
理英が提案する。
「鬼の居ぬ間にってこと?」
「そういうこと。明日もまた来ようよ!」
「え~っ!僕は冷房の効いた部屋でテレビを見てたいんだけど・・・」
「モントリオール・オリンピックのナディア・コマネチを見たいの?」
「体操は21日の種目別で終わっちゃったよ。それより、ロッキード事件の捜査の進展の方が気になるんだよ。叔父達の取材活動の様子から何となくきな臭いものを感じるし、ひょっとしたら政治家の逮捕があるかもって思ってるんだ。田中角栄まで逮捕されたら見ものなんだけど。」
「なによ!私の水着姿、拝みたくないの?」
理英はそう言うと、わざとむくれて見せた。案の定、永渕はおろおろしながら反応した。
「そんなことで、はぶてないでよ。」
永渕の予感は当たった。吉永祐介検事を捜査主任検事とする東京地検特捜部は、7月27日に田中角栄元総理を異例のスピードで逮捕してしまったのである。しかし、高校野球に関しては永渕の予想は見事に外れてしまった。なんと28日の決勝戦では報国が、同じく決勝まで勝ち上がってきた柳川商業を破り、夏の甲子園行きを決めてしまったのである。そのため、普段は報国の生徒たちを毛嫌いしていたはずの商店街も掌を返して、ここぞとばかりにお祭りムードを煽っていた。門司駅周辺には何時に無く浮かれた雰囲気が漂っており、そんな矢先に事件が起こった。
8月8日の午後、4人はいつもと同じ様に内裏プールに来ていた。夏休みが始まってから、ほぼ1日おきにここに来ている計算になる。その日もクマゼミとアブラゼミの合唱の中で3時間近く泳いだ後、一行は午後4時近くになって、プールサイドのスピーカーから石川セリの『八月の濡れた砂』が流れる中で帰宅の途についた。立秋が過ぎたとはいえ、まだ陽は高く夕焼けになるまで時間があったが、夕方特有のもの悲しい空気が商店街を流れていた。西の方から入道雲が流れて来るのが見えた。開店準備を始めた焼き鳥屋からは、鶏肉の焼ける美味しそうな匂いが漂ってくる。
「なんだか小腹が空いたわね。」
理英が呟く。
「何か食べてく?」
溝口が尋ねる。
「それなら、駅前に『モスバーガー』っていうバーガー・ショップができたから、行ってみない?」
情報通の笑子が提案する。『モスバーガー』は、門司に初めてできたバーガー・ショップであるが、それぞれの自宅から遠いこともあって、まだ4人のうち誰も食べたことがなかった。
「何処にあるの?」
そういうことに疎い永渕が尋ねる。
「私が知ってるから、案内するわ。」
笑子はそう言うと、先頭に立って歩き始めた。
4人が不老通りを横切ろうとした時、理英の耳に微かな若い女性の叫び声が飛び込んで来た。笑子と溝口は何ら反応を示さなかったが、永渕の耳には届いていたようだ。二人で周囲をきょろきょろと見回してみる。遠くのマンションの屋上から、若い女性の顔が覗いた。永渕と視線が合うと、
「行ってみよう!」
と理英に言ってきた。
「えっ!なに?なに?」
事情が分からない笑子が尋ねる。理英が耳打ちする。
「今、女性の悲鳴が聞こえたのよ。」
そう言い終わらないうちに、永渕と理英が駆け出す。笑子と溝口も異変を察知して追い駆け始めた。
永渕は、途中にあったシャッターの閉まった商店で、ガレージの脇に置いていたフック棒を拝借していた。目星を付けたマンションに4人が着くと、屋上から続く非常階段を白い半袖のセーラー服姿の少女が駆け降りて来たのに出くわした。服は肌蹴て破れており、腕と脛と頬には擦り傷ができて血が滲んでいる。しかし理英たちの目に最初に飛び込んできたのは、内腿を伝って流れ落ちる鮮血だった。何があったのかは一目瞭然だった。少女は、理英たちの姿を見ると、泣き出しそうな顔で駆け寄って来た。理英たちより2~3歳年上の女子高生のようだった。直ぐに少女の後ろから、慌しい二人分の靴音が追っかけて来た。一人はにきび面で強いパーマをかけた髪に細いレンズの眼鏡を掛けていて上半身は裸である。もう一人は少し背が高く、リーゼント頭で髪の毛で大きな庇を作っていて、釦は留めていないものの一応制服と思われる開襟シャツを羽織っている。シャツの胸の部分についている校章の刺繍からすると報国学院の生徒のようだが、年齢的に高校生には見えなかった。永渕が一歩前に出て、女子高生を背後に隠すように、二人の前に立ち塞がった。
二人は理英たち4人の姿を認めると一瞬怯んだが、中学生だと分かると急に威圧するような口調で話し掛けてきた。
「おい、お前ら、そいつをこっちに渡して、さっさと失せろ!そして今見たことは誰にも喋るんじゃないぞ!」
「言うことを聞かないと、どうなるか分かってるんだろうな?」
「ほう、どうなるんだ?」
永渕は意に介さぬとばかりに、静かに答えた。しかし、その声が激しい怒りを抑えつけて震えているのが、傍で聞いている理英にも分かった。
「これから、一生後悔するような目に遭わせてやるよ。それに、そっちの女二人には、これから俺たちの相手をしてもらおうか。」
そう言うと二人は、理英と笑子に好色な目を向けてきた。しかし二人の、
「俺は、そっちのショート・カットの娘に相手をしてもらおうかな。」
「え~、俺もメガネ猿よりそっちの方がいいよ!」
という卑猥な科白を聞くと、急に永渕の雰囲気が変わった。理英は後ろで見ていて、永渕が一瞬で殺気を纏ったことが分かった。急に体感温度が下がったように感じられたのである。永渕は笑子の方を振り向くと、いつもとは違うドスの効いた声を響かせた。
「三波、さっき通った道の角に赤電話が在ったろ。一っ走り行って、110番して来い!」
それを聞くと笑子は、返事もせずに弾かれた様に元来た道を駆け出し始めた。二人とも後を追おうとしたが、それを遮る様に永渕が、フック棒を直立精眼に構えて立ちはだかった。
「警察が来るまで、時間稼ぎをするつもりか?」
リーゼント頭が吠える。
「安心しな。警察が来る前に片をつけてやる。」
永渕は飽くまで静かに返した。しかし微動だにしないその構えから、相当にできることは想像がついたようだ。直ぐには飛び掛って来なかった。
「そういえば聞いたことがある。うちの剣道部員以外に、滅法剣術が強い奴が居るって噂を。鹿島神傳直心影流の大石派の使い手だって話だったけど・・・」
溝口がポツリと呟いた。
「直心影流って、あの男谷精一郎や島田虎之助の?」
「そうだよ。でも永渕のことだとは気づかなかったな。」
にきび面のパーマ頭が、不意にズボンのポケットに手を突っ込んで、折り畳みナイフを取り出した。しかし刃を出す前に、永渕のフック棒がパーマ頭の右手の甲を思い切り叩いた。一瞬の出来事だった。悲鳴とともにナイフが手から滑り落ちる。永渕は相手の右手を叩きざま一歩踏み込むと、地面に落ちたナイフを踵で後ろへ蹴飛ばした。ナイフは溝口の足元まで飛んで来た。
「ナイフを押さえろ!」
永渕の声が飛ぶ。溝口は慌ててナイフを拾い上げた。右手を押さえたパーマ頭が、後退って睨みつける。
「溝口、俺がこいつをドロップ・キックで転がすから、警察が来るまで何も考えずに殴り続けろ!」
永渕はそう言うと、パーマ頭に向かって駆け出した。
「へん、プロレスの技なんか通じないんだよ!」
パーマ頭はそう言うと、上半身をガードする様に身構えて、迎撃の態勢をとった。しかし永渕は殆ど飛び上がらずに低くジャンプすると、前に踏み出したパーマ頭の左膝に両脚を揃えて蹴りを見舞った。左膝が関節の稼動域とは反対側に折れ曲がる。パーマ頭は凄い声で悲鳴を上げると、左膝を押さえて蹲ったまま横に倒れた。しかし永渕はもうパーマ頭には一顧だにせず、直ぐに立ち上がるとリーゼント頭の方に対峙していた。リーゼント頭も同じくナイフを持って身構えていた。永渕は視線を外さずに、短く指示を飛ばす。
「溝口!」
それを聞いて溝口は、パーマ頭の上に飛び乗って馬乗りになると顔をボコボコと殴り始めたが、相手が殆ど抵抗できないのを知ると、無抵抗の人間を殴ることへの罪悪感からか、数発殴ったところで戦意が急速に衰えて、そこに隙が生じてしまった。パーマ頭はそれを見逃さず、上に乗っている溝口に金的打ちを食わせた。溝口が、
「うっ!」
と呻いてバランスを崩すと、その身体を押し除けて、びっこを引きながら理英たちの方に近づいて来た。どうやら理英を人質にするつもりらしい。理英も思わず一歩後退った。だが理英に向かって右手を伸ばした瞬間、理英は相手の右手首を両手で掴んで、一直線に伸びた状態で手首を極めながら、腋に抱えて引き付けると後ろへ捻った。相手は振り解こうともがいたが、理英は自分の脇を支点にして、右腕を取りながら相手の肩に体重を掛けて倒れこんだ。「一教」からの「脇固め」の完成である。柔道でいう腕挫ぎ腋固めのことである。講道館柔道では禁じ手、つまり反則技になっている。理英が倒れこんだ瞬間、ボグンッという嫌な音が響いた。パーマ頭の右腕の骨が砕けた瞬間だった。驚いた理英は直ぐに手を放したが、パーマ頭は物凄い音量で悲鳴を上げ続けた。
その間に永渕とリーゼント頭は切り結んでいた。カンカンと金属同士がぶつかり合う甲高い音がする。リーゼント頭の繰り出すナイフを、永渕は器用にフック棒で受け流していたが、リーゼント頭は埒が明かないと見るや、上背と腕力で勝っていることを利用して力勝負に出てきた。鍔迫り合いに持っていったのである。頭上からのナイフの斬撃をフック棒で受け止めた永渕は、そのまま力押しでこられたため、押し込まれそうになった。リーゼント頭が余裕のある口調で言う。
「へっ!所詮は中学生、力勝負じゃあ大人に勝ち目は無えよ!」
「大人?ふふっ、てことはお前落第坊主か?頭悪いな!」
永渕はわざと嘲るように応じる。
「落第じゃねえよ!ネンショーに行ってたんだよ!」
怒気のこもった返事が返ってくる。
「へっ!同じ様なもんじゃねえか!言っとくけどな、こっちはあんたと違って立派な頭があるんだ。この程度の不利なら、頭を使えば簡単に引っ繰り返せるんだよ。」
永渕は相手を苛立たせる様にゆっくりと答える。
「ほう、ならお前の言う頭を使ってこのピンチを脱してみな。やれるもんならやってみろってんだ!」
そのセリフに呼応するかのように、永渕は体を捩って態勢を動かしながら、シャッター棒でナイフを巻き込むような素振りを見せたため、リーゼント頭はそうはさせじと永渕の動きに対応した。
「へっ、こっちにもなあ頭はついてるんだよっ!」
「へえ?頭はあっても、頭蓋骨の中身は脳味噌じゃなくて、筋肉じゃねえのか?」
「ぬかせっ、この野郎っ!」
「あっ、間違えた。頭蓋骨の中にも、たっぷりザーメンが詰まってたんだっけな。だから、こんな卑劣な真似できるんだろ!」
永渕は押し込まれそうになって劣勢なのに、意に介せずといった風情で軽口を叩く。理英は永渕がこんなに下品で乱暴な口を利くとは想像もしていなかった。普段教室で見る無口で茫洋とした永渕からは想像もできない姿だった。
「言ったなあっ!その科白、後悔させてやるからなっ!!覚悟しとけよっ!」
怒髪天を突いた様子でリーゼント頭が怒鳴る。その返事を待っていたかのように永渕は身体を少し反らすと、反動をつけてリーゼント頭の鼻っ柱に頭突きを見舞った。
「グワッ!」
と短い悲鳴を上げてリーゼント頭が仰け反る。鼻から夥しい血が流れ始めた。鼻骨を折ったようだ。リーゼント頭が鼻を押さえて身体を折った。その隙に永渕はフック棒をリーゼント頭の右肩に打ち下ろした。鎖骨が砕ける音が響いた。右肩を押さえながらリーゼント頭がその場で蹲る。しかし永渕は容赦なく、跪いたリーゼント頭の顔を蹴り上げた。これまで抑えていた闘争本能が一気に噴き出したようだった。
「た、助けてくれ!」
蹴られた勢いで地面に転がったリーゼント頭が、堪らず悲鳴を上げる。しかし永渕はそれを冷たく見下ろすと、
「ほう、この女性がそう言っても、お前たちは止めなかったんじゃないのか?だったら俺の返事も分かってんだろ!」
と言って更に顔を踏みつけた。靴の爪先が口にめり込み、歯がバラバラと飛び散った。
「虫のいいこと言ってんじゃねえぞ、コラ!」
永渕が怒鳴り返す。いつもの永渕の姿からは想像できない、狂気を孕んだ雰囲気を醸し出していた。これまで知性と良識で押し込められていた凶暴な本能の箍が外れたようだった。理英の目には、永渕が血に狂っている様に感じられた。
「ちょっ、永渕君もうやめて!」
思わず理英が永渕の腰に飛び付いた。その勢いで永渕の身体がリーゼント頭から離れる。その隙にリーゼント頭が這って逃げ出そうとしたが、その時マンションの敷地に笑子が数人の男性を連れて戻って来た。笑子は
「あの二人です!」
と言って指差そうとしたが、思わぬ修羅場になっていることに気付いて立ち竦んでしまった。その様子を見た永渕は笑子に向かって、
「もう終わったよ。それより溝口が股間をやられて苦しんでいるから、介抱してやってくれ。」
と言うと、まだ腰にへばり付いている理英の頭を、手でポンポンと軽く叩いた。遠くでパトカーのサイレンが近付いて来るのを聞きながら理英が顔を上げると、永渕はいつもの優しい目に戻って、理英を見詰めていた。
その後、警察の事情聴取を受けた4人は、深夜になって迎えに来た家族と殿上中学の水木教頭に身柄を引き渡された。その時になって4人は、被害者の少女は病院で手当てを受けて、警察の事情聴取は後日となったことを知った。今回の件については、本来ならば犯人逮捕に協力したお手柄として褒められるべきことであるはずなのだが、永渕が二人の身柄を確保するまでにやったことが、行き過ぎではないかと問題視されてしまったのである。特に問題視されたのは、永渕が地面に転がったリーゼント頭の顔を踏みつけた行為に対するものだった。
これは、前年に最高裁で一つの判例が出ていたことに起因する。この判例では、明確に現行犯逮捕に伴う実力行使の基準が示されていたのである。「現行犯逮捕をしようとする場合において、現行犯人から抵抗を受けたときは、逮捕をしようとする者は、警察官であると私人であるとを問わず、その際の状況からみて社会通念上逮捕のために必要かつ相当であると認められる限度内の実力を行使することが許され、たとえその実力の行使が刑罰法令に触れることがあるとしても、刑法三五条により罰せられない。」というのがそれである。
果たして永渕の取った行為が、社会通念上逮捕のために必要かつ相当であると認められる限度内の実力を行使したことに当たるのか、警察内部で疑問が呈されたのである。現場を殆ど見ていない笑子は強く正当防衛を主張していたが、溝口の正当性の主張にはあまり力強さを感じられなかった。確かに、理英が見ていてもやり過ぎだと思ったし、だからこそ止めに入ったのである。この判例の基準に収まるのかは微妙に思われた。
ところが意外なことに、警察庁の上層部に永渕の親族の知人が居たらしく、福岡県警の本部長に働き掛けてくれたようで、何とか説諭だけで済ませてくれたようだ。しかもマスコミには被害者だけではなく、理英たちの名前も、未成年ということで伏せて報道するように要請してくれたのである。警察の行き届いた配慮に、「永渕の親族の知人」という人の権力の大きさを感じざるを得なかった。
しかし、門司の町の方は大変な騒ぎになっていた。明日は夏の甲子園大会の開会式なので、応援のバスツアー等いろいろとイベントの準備をしていたようなのだが、この一件が高野連(日本高等学校野球連盟)本部に伝わってしまい、佐伯達夫会長の逆鱗に触れたことで、報国学院は高野連から甲子園大会の出場辞退を強く迫られ、受け入れざるを得なくなったのである。
そのことを理英たちが知ったのは、翌日の朝刊であった。夕刊には、甲子園の開会式に出られなかった報国学院の野球部員たちが、大阪の宿舎で泣き崩れる姿が写真入りで報じられていた。それと同時に、昨日捕まえた二人は高校時代に逮捕歴があり、少年院から出てきたばかりだったことが分かった。二人とも既に成人していたため、顔写真と名前が新聞紙上に載っていた。親がせめて高校卒業の学歴だけでも付けさせようと報国学院に復学させたのだが、結局更正できなかったらしい。せっかくの親心が徒になったようだ。
犯人の一人が逃げようとした際に、金的打ちを食らった溝口は程なく回復したが、この事件以降永渕に対する態度が少し変わったように感じた。どうやらキレたら怖いということが記憶に刷り込まれてしまったようで、永渕と接する際に、どことなくビクビクしているような印象が拭えなくなったのである。
尤もそれは理英も似たようなものであった。永渕の暴れっぷりを見たことで、これまで永渕の頭を刈ったり、その頭を叩いたり、撫で回したりしてきた自分が、空恐ろしくなったのである。永渕が笑い掛けてきても、肉食獣が舌なめずりをしているような気がして、何となく怖さを感じ始めている自分に驚いていた。明日から永渕にどう接すれば良いのか分からなくなってきたため、毎日学校で顔を合わせる必要のない夏休みの出来事であったことを、理英は神様に感謝したくなった。
理英は帰宅すると、両親から正義感と行動力を褒められはしたが、同時に被害者を助けるために危険な行動を執ったことを咎められ、きつく叱られてしまった。恐らく、永渕も溝口も笑子も同じような状況であったろう。この事件の余韻からか、4人はその夜なかなか寝付けなかった。その結果、4人は少し寝不足の状態で、翌日から始まった臨海学校へ参加する羽目になったのである。
この物語は完全なフィクションであり、実在の人物・団体、実際にあった出来事などとは、一切関係がありません。
この文章の中で引用している判例は、しおかぜ事件、つまり昭和50年4月3日最高裁判所第一小法廷判決(刑集 第29巻4号132頁)のものです。




