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第四章 ニーソスの髪

 土曜日の午後、早苗は、そろそろ理英と理香が学校から帰ってくる頃だと思いながら時計を見ていると、不意に玄関の方から理英の声が聞こえてきた。

「ハイヨー、シルバー!」

「ちょっと、ローン・レンジャーのつもり?」

 不満そうな永渕の声も聞こえる。

「そうよ!文句ある?」

 そう答えた理英が、永渕におんぶされたまま、家の中へ入って来た。今日は、理英が足首を怪我してから初めての登校日だった。

「あら!永渕君、ご苦労様。汗びっしょりじゃない!理英を学校からずっとおんぶして来てくれたの?どうも、ありがとう。でも、重かったでしょう?こっちに来て休んだら?」

 そう言うと早苗は、永渕をリビングへ招き入れ、ソファに座るように促した。

「ありがとうございます。」

 永渕はそう言って理英をリビングのソファに下ろすと、自分も倒れ込むようにソファに腰を下ろした。

「永渕君、ごめんなさいね。理英の我儘に付き合わせちゃって。でも、朝、登校する時は、肩を貸して貰ってただけだったでしょう?」

「実は、登校の途中で友達と会う度に冷やかされたり、もっとくっつけとばかりに僕の方に押されたりしたもんだから、帰りはおぶって欲しいって言われたんです。」

「そうだったの。じゃあ、お礼代わりに、うちで一緒にお昼御飯食べてかない?」

「えっ!悪いですよ。手間もお金も掛かるでしょうし、僕の家でも母がお昼を作って待っていますから。」

「あら、何か予定でもあるの?」

「いいえ、別に。ただ、いつもは『雲のじゅうたん』を見ながら家族一緒に昼御飯を食べるだけなんですけど・・・」

「だったら良いのよ。たいした物は作れないけれど、3人分作るも、4人分作るも、大して違いは無いわ。それに、お家の方には私から電話してあげるから食べていってよ。何より理英が一番喜ぶわ。」

「そうよ、遠慮しないで食べていってよ!」

「でも、本当に迷惑にならない?」

「いいって、いいって。なんなら私が口移しで食べさせてあげようか?」

 そう言うと理英は、テーブルの上に出ていた玉子焼きを一切れ、指で摘んで口に咥えると永渕の口許に近づけた。永渕は茹で蛸の様に顔を赤くするとそっぽを向いてから、

「いや、それは遠慮します。」

と言って断った。

「貴方たち、まさかいつも学校でこんなことやってるんじゃないでしょうね?」

 早苗の探るような声がキッチンから響いた。


 それから永渕は毎週土曜日の昼食を、寛永寺家で摂ることになってしまった。しかし、6月25日の金曜日、下校時に異変が起きた。

「そうだ、僕、明日は学校休むから一緒には帰れないよ。」

「なあに、どうしたの?明日何かあるの?」

 理英がそう尋ねると、永渕は理英の耳元に口を近づけて囁いた。

「明日、学校をサボるから。」

「えっ!」

 永渕の口から意外な科白が飛び出したため、理英は飛び上がるほど驚いた。永渕は、少なくとも「サボる」という科白とは最も縁遠い人物だと思っていたからだった。

「サボるって一体・・・」

「明日の昼に、どうしても見たい試合が日本武道館であるから、今夜板付空港から飛行機で東京の叔父の家に行って泊めて貰うんだ。」

「じゃあ、明日のお昼御飯は・・・」

 理英がそう言いかけると、永渕は右掌を立てて、

「御免!明日は一緒に食べられない。でも、最近少し君のお母さんに甘えていたと思うよ。うちの親からも注意されたんだ。良い機会だから、そろそろ止めにしない?」

 それを聞いた理英の表情が不意に曇った。そして、しばしの沈黙の後、

「・・・・・・分かった。」

と、絞り出すような声で返事をした。

「別に君のこと嫌いになった訳じゃないから、そんなにがっかりしないで。明後日の夜には、東京でお土産買って帰るからさ。」

 翌日、予告したとおり、永渕は学校を休んでしまった。教室で主の居ない机を見た理英は、自分の胸の中にもポッカリと穴が開いたように感じた。母へは前日のうちに、永渕が学校を休んで家には来ないことを伝えていたが、やはり早苗も張り合いが無くなったのか、昼食の食卓には前日の夕飯の残り物が並んでいた。


 その日の夕方、猛は珍しく夕方の6時頃に帰ってきた。いつもより早い時間である。いつも通り夕飯を摂ったが、食事が終わるや否や、猛は珍しくリビングへ移りテレビを点けた。

「ちょっと、パパ!何見てるのよ?7時半から『欽ちゃんのドンとやってみよう!』を見たいんだけど!」

 すかさず理香が注文をつけた。

「そんなこと言わずに見せてくれよ!一生に一度、有るか無いかの試合なんだから。」

 そう言いながら父の猛が合わせたチャンネルは、KBCの2チャンネルだった。19:30からキー局であるNETの特別番組「格闘技世界一決定戦 アントニオ猪木 対 ムハマド・アリ」の放送があるからである。今日の昼に行われた試合を、録画中継するのである。

 母の早苗が苦言を呈す。

「ちょっと、お父さん!またそんなもの見て。もっとマシな番組を見てくださいよ。子供たちに示しが付かないじゃない!」

「いいじゃないか。昼からの生放送は仕事で見られなかったんだから。」

と言いながら、ブラウン管を食い入るように見詰めていた。

 その時、テレビカメラがリングの周囲の観客席を、舐めるように写していった。それを見ていた猛が、突然声を上げた。

「おい、理英!ちょっと来てごらん。」

「なあに、お父さん?『欽ドン』見せてくれないんなら、お風呂に入ろうと思ってたのに。」

 不満そうな理英の声が返ってきた。

「いいから、こっち来てごらん。いいか、赤コーナーの右側のリングサイド席が写ったら、よく見てごらん。」

「なに、なに?」

「ほら!前から4~5番目の席の右端の方。ここに写っている男の子、この間うちに来た永渕って子じゃないか?」

「どれ、どれ?あっ!ホントだ!よく似てる。そう言えば、この試合は何処でやってるの?」

「いや、これは今やってるんじゃなくて、昼に日本武道館であった試合の録画なんだ。」

「日本武道館!じゃあ、間違いないわ。永渕君よ!昨日言ってたもん!」

「やっぱり永渕君も男の子なのねえ。こんなものを見に、わざわざ東京まで行くなんて。」

 いつの間にかリビングに来てテレビを見ていた早苗が、溜息を吐きながら言った。

 やがてアントニオ猪木がカール・ゴッチ、坂口征二、山本小鉄、星野勘太郎らを引き連れて、青コーナーに入場してきた。ブラウン管に写る永渕は、猪木が入場してくると、他の観客と一緒になって、拳を突き上げて「イ・ノ・キ」コールを送っていた。

 理香が慰めるような顔でポンっと理英の肩を叩くと同時に、

「なんだ、おねえの彼氏、おねえとの逢瀬よりも猪木の試合の方が大事だったんだ。」

と、声を掛けてきた。

「なによ、その言い方!棘があるわね。」

「おねえ、猪木に彼氏盗られちゃったね!」

 理香が余計なことを言う。

「あんた、何言ってんの?」

「だって、そうじゃない。おねえより、猪木を選んだんだよ。」

「別に永渕君は男色家って訳じゃないわよ。」

 しかしそう反論した理英の胸の中に、何か割り切れないもやもやしたものが残った。

 試合開始のゴングが鳴ると同時に、猪木が赤コーナーに立つアリに向かってスライディング・キックを見舞っていったが、沸き立つ観客席の様子とは裏腹に、気持ちの沈んだ理英の瞳にはもうテレビの画面は写っていなかった。


 翌6月27日の日曜日、理英は一日中、鬱々として過ごすことになった。夜になって家族で、NHKの大河ドラマ『風と雲と虹と』の第26話「海賊大将軍」を見ている時だった。緒形拳演じる伊予掾・藤原純友が海賊の一味であることが露見するんだな、と思いながら山本直純の雄渾なオープニング・テーマ曲を聴いていると、それに被さるように遠くから『木綿のハンカチーフ』の鼻歌が近づいてきた。

 永渕の声だったが、いつもならばその声を聞けばそわそわとする筈なのに、今日はその歌声が不快なノイズにしか聞こえなかった。昨日理香から言われたことが、まだ胸の中に重く蟠っていたのである。

 永渕が玄関の呼び鈴を押す音が聞こえると、理英は早苗を追い抜いて、真っ先にドアの外に飛び出して行ったが、いつもの様に浮き立つ気持ちにはならなかった。

「こんばんは。夜分恐れ入ります。」

 理英と早苗の顔を見ると、永渕は笑顔でそう型通りに挨拶をした。そして右手に提げていた紙袋を理英に差し出しながらこう言った。

「ただいま。ついさっき、板付空港に着いたんだけど、帰宅途中で寄っちゃった。これ、東京のお土産だよ。」

「ありがとう。」

 お礼を言う理英の声には、いつになく元気が無かった。

「大きな箱は、渋谷の『ブール・ミッシュ』のシブーストだから、家族みんなで食べて。小さい箱は君へのプレゼントだよ。気に入ってくれると良いんだけど。」

「中身はなあに?」

「髪留め、というか、アクセサリー付きのヘアゴムだよ。今日、羽田空港に行く前に、銀座の三越で買って来たんだ。」

 しかし、お土産を受け取った理英は、どこか拗ねたような仕草を見せた。

「どうしたの?気に入らないの?」

「そういう訳じゃないけど・・・」

 そう言うと理英は、それまで伏せていた目を上げてこう聞いてきた。

「昨日は、日本武道館で猪木対アリの試合を見てきたのよね。」

「うん、そうだよ。あれっ、でもそこまで喋ってたっけ?」

「昨日のテレビ中継に写り込んでた。」

「そっか、前の方の席だったからね。今、毎日新聞からTBSに出向している叔父がチケットを手に入れたんだけど、自分は仕事で行けないからって、入手したチケットを譲ってくれたんだ。こんな試合は2度と無いだろうからって。だから従兄弟たちと見に行ってきたんだ。」

「ふ~ん、私と過ごす時間より大事だったんだ。」

 そう言うと理英は、上目遣いで永渕を睨んだ。意外な言葉が返ってきて、永渕は思わずたじろいでしまった。

「えっ!そんな、君と比べられるものじゃ無いじゃない。」

「でも私と一緒にお昼を食べるのよりも、猪木の試合を見るのを選んだんじゃない!」

 理英はそう言うと、上目遣いで永渕を睨んだ。

「そんなこと言わないでよ。」

「いいわよ、もう!」

 そう言うと、理英は踵を返して家の中に入ってしまった。その場には永渕と、理英と一緒に出てきて二人の遣り取りを見ていた早苗が残された。

「永渕君、ごんめんなさい。せっかくお土産を持って来てくれたのに。あの子、一旦臍を曲げると変に意固地になるから、今夜はこれで。ねっ!」

 そう言って早苗も、理英の後を追う様に家の中に入ってしまった。永渕はその後姿を見ながら肩を竦ると、大きな溜息を吐いた。


 理英が家の中に入ると、直ぐに理香が駆け寄ってきた。

「おねえ、お菓子貰ったんでしょ?食べよ、食べよ!」

「あんた、立ち聞きしてたの?さもしいわねえ。」

「いいじゃない、別に。」

と言うと理香は、理英の持っていた紙袋をひったくった。

「しっかし、おねえも酷い女だね。せっかくお土産持って来てくれたのに、あんな酷い仕打ちをするなんて。」

「なによ、元はと言えばあんたが余計なこと言うからでしょ!」

 理英はそう言うと、理香がひったくった紙袋に手を突っ込んで中から小さい箱を取り出すや否や、ゴミ箱に向かって投げ込んだ。ボスっという音を聞いて、お菓子の箱を覗いていた理香は振り返ると、

「おねえ、せっかく買って来てくれたお土産捨てちゃうの?勿体無いよ。」

と声をかけた。

「駄目よ、理英。永渕君が理英のこと気遣って買って来てくれたんじゃない?」

 早苗も理英の行動を窘めた。

「だったら、理香、あんたにあげるわ。」

「ホントにいいの?後悔するかもよ。」

 そう言いながら理香は、ゴミ箱の中から箱を拾い上げて、中身を検めた。中には、永渕の言った通り、犬・猫の動物やさくらんぼ・苺・スライスレモンの果物、桜や向日葵の花等のアクセサリーのついたヘアゴムが7組入っていた。それを見ると理英の心に漣が立った。

「わーっ、可愛い!おねえ、ホントに貰っていいの?」

「やっぱ、ダメッ!明日、永渕君に返してくる。」

 理英はそう言うと、理香からヘアゴムの入った箱を奪い返した。


 翌朝、永渕が一緒に登校しようと理英を訪ねて来たが、理英は既に自宅を出た後だった。しかも、いざ学校に着いてみると、永渕はなかなか理英を捕まえられなかった。ナチュラルに避けられているのが、女心に疎い永渕にも分かったので、無理に捕まえるのは止めることにした。尤もそのせいで、理英も貰ったお土産を突っ返すタイミングを失ってしまい、無為に2日が過ぎてしまった。


「秦さん、確か宝塚のファンだったよね?これ欲しい?」

 翌々日の昼休み、永渕は同じ保険委員の秦弓恵に、そう声をかけた。手には学研が発行している月刊『中2コース』という学習誌を持っていた。永渕が見せているのは巻頭に付いているピンナップで、『ベルサイユのばらⅢ』を主演している宝塚歌劇団・星組の二人の女優のバストアップが印刷されていた。マリー・アントワネット役の四季乃花恵とフェルゼン役の峰さを理である。

「わっ、欲しい!」

 秦が即座に食いついた。

「しっかし、宝塚が好きだねえ。まあ、これくらいならお安い御用だけどね。」

「なによう、良いじゃない!これは人の好みの問題なんだから。」

「でも、それ、女優さんだよ。まだジャニーズのアイドルを追っかけてる方が理解できるよ。」

 永渕はそう言うと苦笑しながら、カッターナイフでピンナップを切り取り始めた。

「まあ、赤字続きだった宝塚歌劇団を、ずっと護ってきてくれたんだから、小林一三に感謝するんだね。」

 そう言いながら切り取ったピンナップを秦に手渡した。すると、

「あれ、『中2コース』の表紙、手塚理美じゃない?」

 そう言って声を掛けてきたのは、同級生の梅田秀樹だった。

「うん、そうだよ。『中2コース』は今年1年間、手塚理美を表紙にするみたいだよ。」

「いや、今週号の週刊『プレイボーイ』にも、手塚理美が出てたからね。ちょっと気になって。」

 梅田はそう言うと、自分の鞄の中から、週刊『プレイボーイ』を取り出し、カラー・グラビアのページを開いて指し示した。そのグラビア・ページには水着姿のアイドル達が10人ほど、一人1ページずつ載っていた。桜田淳子・山口百恵・浅野ゆう子・木之内みどり・岡田奈々・片平なぎさと続いていって、最後に手塚理美の水着姿があった。

「あっ、これ『中2コース』と同じ水着だ!『中2コース』は2色カラーだったけど、やっぱり、フルカラーだと水着の柄もハッキリ分かるし、見映えが違うわ。綺麗だね。」

 そう感想を述べる永渕の背後から、理英がゆっくりと忍び寄って来た。その様は、餌を求めて海の中を遊弋する鮫を思わせた。

「ねえ、永渕君はこの中なら誰が一番タイプなの?」

 永渕は横目で理英の姿を認めると、

「え~?、それは難しいな。僕にとっては君が一番タイプなんだけど・・・」

 永渕がそう答えると、

「も~っ!真面目に答えてよ!」

と、理英が畳み掛ける。

「う~ん、そうだなあ、それじゃあ手塚理美に一票入れようか。」

 その瞬間、あれだけ女子生徒の姦しい声が充満していた昼休みの教室が、夕立の直前の蝉の鳴き声の様に、一斉に黙りこんでしまった。教室中を重たい沈黙が支配した。教室に居た女子生徒のほぼ全員が、二人の会話に聞き耳を立てていたのだ。突然空気が変わったその異様さに、永渕も気がついて顔を上げると、不意に理英が手を伸ばして、『中2コース』と『プレイボーイ』をひったくった。

「これは没収します。」

 能面の様に、顔に表情を浮かべないまま、普段より1オクターブ低い声で理英が言い放った。

「ちょっと待ってよ!何の権限があって、そんなこと言うの?大体そっちの雑誌は梅田君の物だろう?」

「学校にこんな雑誌を持ってくるのは、校則違反です!」

「ねえ、怒ってるの?何を怒ってるのさ?」

「私が怒ってる理由が分からないの?」

「分かる訳ないじゃない!ちゃんと話してよ!」

「ふーん。分かんないんだ?」

 それだけ言うと理英は雑誌を抱えたまま、さっさと教室の外に出て行ってしまった。途方に暮れた永渕が辺りを見回すと、秦が、

「やっちゃったわね。」

という顔でこちらを見ていた。理英が教室を出て行くと同時に、三波笑子が近寄って来てこう言った。

「バッカね~!あれは罠よ!飽くまでも、僕にとっては君が一番、で押し通さなきゃダメじゃない!」

「ええ、そんな!」

 そう言うと、永渕は絶句してしまった。

「他の女の子を褒めたりしたら、じゃあその娘と付きあえば、ってなっちゃうわよ!」

「いや、いや、いや、いや、それは理屈がおかしいよ。だいたい、手塚理美はタレントじゃないか!それとも寛永寺さんは手塚理美上等ってこと?」

 傍で二人の遣り取りを見ていたサッカー部の花咲が異議を唱える。

「ちょっと待って。今のは寛永寺さんの方から、自分が一番っていう回答を拒絶してまで訊いてきたよね?」

 茫然自失の永渕の代わりに尋ねたのは、雑誌を没収された梅田だった。

「だから、それが巧妙な罠なのよ!」

 それを聞くと、周囲に居た男子生徒たちが、

「酷い!」

「自分から誘導したくせに!」

「そんな理不尽な!」

と、口々に文句を言い始めた。

「そういうものなのよ!」

 笑子がまとめて却下する。

「女の子ってメンドクサ~い!」

悲鳴を上げたのは、同級生で梅田の従兄弟に当たる、偉丈夫の稲葉竜也だった。理英と永渕の遣り取りを見ていた男子生徒は、全員呆気に取られた様子だった。

「覚えておくと良いわ。女の子って面倒臭い生き物なのよっ!」

 笑子が最後にそう総括した。


 一方、教室を出て行った理英は、校庭の端にあるゴミの焼却炉に向かっていた。その後を理英と特に仲の良い妹背薫・前田瞳・坪田郁子の三人が追い駆けてきた。

「ピッピ、ピッピ!待ってよ!」

 理英が焼却炉の投入口に向かって2冊の雑誌を投げ入れようと振りかぶったのを見て、前田瞳がその左手にしがみついた。

「ダメだよ、ピッピ!落ち着いて。」

「それは他人の物だよ。永渕君の物ならともかく、梅田君の物までそんなことしたら、男子生徒全員を敵に回すよ。」

 坪田郁子も理英を宥める。健康そうなピンク色の唇をへの字に曲げたまま、理英が呟く。

「だって・・・・・・」

「それに永渕君は、別にピッピと手塚理美を両天秤にかけて選んだ訳じゃないでしょう?」

 坪田郁子が説く。

「そうだよ!永渕君は『手塚理美に一票』って言ってたじゃない。雑誌に載っているアイドルの中でって意味だよ。」

 前田も同意する。2人が口々に理英を宥める。

「早まっちゃダメだよ、ピッピ!らしくないよ。」

 それまで前田と坪田の後方に居て状況を眺めていた妹背が、不思議そうに訊いてきた。3人の中では一番おとなしく、おっとりした子だ。

「ピッピ、やきもち妬いてるの?なんでやきもち妬いてるの?永渕君はピッピのこと好きだって言ってたけど、ピッピはまだ態度を決めてなかったんじゃないの?返事もしてないんでしょう?永渕君がやきもち妬くのなら分かるけど。」

「それは・・・・・・」

 妹背の素直な疑問に、理英は言葉を詰まらせた。

「ピッピも永渕くんのこと、好きになっちゃったんだね。いつから?キスされたとき?体育倉庫に閉じ込められたとき?それとも、足を怪我したとき?」

「分かんない。何でこんなもやもやした気持ちになるのか・・・」

「ねえ、永渕君と何があったのか、私たちに話してみてよ。今週に入ってから様子が変だよ!碌に口も利いてないでしょう?」

 前田はそう言うと理英の手をとって、焼却炉の近くにある花壇の縁に連れて行って座り込んだ。理英は当初躊躇っていたが、やがて何があったかのをポツリポツリと喋り始めた。


「い~な~!私もそんな彼氏欲しい!」

 坪田が声を上げる。

「へえ~!意外!あの永渕君がそんなことするなんて!」

 妹背も同調する。

「何よ!永渕君、優しいじゃん。心配してソンした!」

 前田も呆れたような声を出す。

 自分に全面的に同情してくれると思っていた友人たちの反応に、理英は少し戸惑った。

「ねえ、なんでそれで怒るの?」

 妹背が尋ねる。

「そうよ、もっと酷いことされたのかと思った。」

 坪田が同意する。

「ドロドロの愛憎劇とか・・・」

 前田も同意見の様だ。

「もう、他人事だと思って!」

 理英がつんと口を尖らせる。

「ねえ、その髪留め、今持ってるの?見せてよ。」

 妹背が理英に頼んだ。

「うん。機を見て突っ返してやろうと思って、ずっとポケットに入れっ放しにしてた。」

 そう言うと理英は、夏服のジャンパースカートのポケットから、髪留めの入った箱を取り出した。蓋を開けて中身を見た3人は、口々に声をあげた。

「キレイ・・・」

 妹背がうっとりとした口調で言う。

「カワイ~!」

 前田も羨ましそうに感想を述べる。

「永渕君にしては、センスいいじゃん。」

 坪田は冷静な評価を下す。

「どうしてこれで怒るかな~?」

 前田が疑問を口にした。

「だって、私との昼食をすっぽかしたことをこんな物でチャラにして貰おうなんて、腹立つじゃない?」

「そうじゃないと思うよ。確かに永渕君は自分の趣味を優先したのかもしれないけど、そんな時でも自分のことだけに没頭しないで、ピッピのことを想ってたってことにならない?」

 坪田が自分の考えを述べる。

「そうだよ。それにピッピ知ってる?男の子が女の子へのプレゼントを買うのって、結構勇気が要るんだよ!」

 前田が教える。

「そうなの?」

「私の3歳上の兄貴なんて、彼女へのプレゼントを買いにお店へ入るだけで冷や汗が止まらなかったらしいし、商品をラッピングしてもらう間も店員さんや周囲のお客さんの目が気になって生きた心地がしなかったって言ってたよ。」

「ピッピのためにそこまで勇気を出してくれたんだから、無碍に突っ返すのはどうかと思うなあ。」

 坪田が疑問を呈す。しかし、理英はまだ納得できない。

「でも、私のことを好きって言っておいて、猪木の試合を見る方を選んだのよ。」

「いいじゃない、そのくらい。」

 前田が事も無げに言う。

「えっ!」

「別に他の女の子にうつつを抜かした訳じゃないんでしょう?そのくらい大目に見てあげたら?」

「よく言うじゃない。『男の恋は人生の一部だが、女の恋は人生の全てだ。』って!」

 坪田も前田の意見を補う発言をした。

「それ、バイロンの科白だっけ?」

 理英が問う。

「よく覚えてないけど、それが嫌なら、興味が無くても今度から『私も一緒に連れてって!』って言えばいいじゃない?」

「でも、ここのところ毎週土曜日は私の家でお昼御飯食べてたのに、それも断ってきたのよ!」

 理英が不満を口にする。まだ怒りの炎は鎮火していないようだ。しかし坪田が意外なことを口にする。

「そこは永渕君の親御さんの体面も考えてあげようよ。きっと親御さんからきつく釘を刺されたんだよ。相手の家に甘えてばっかりでだらしないって。」

「私も別に他意は無いと思うよ。嫌なら今度はピッピの方から永渕君ちへ押しかけてみたら?」

 前田もその見方に同意する。

「わかった。みんなの言うとおりにしてみる。」

 それを聞いて3人は安堵した。しかし、理英は更に言葉を継いだ。

「でも、何で私ばっかりこんな思いをしなくちゃいけないの?」

 今のままでは、自分の胸のもやもやは晴れそうにない、という思いが口を吐いて出た。

「やっぱり一度どこかで、徹底的にお互いの気持ちをぶつけ合うしかない様な気がする。」

「分かった。でも、取り敢えずその雑誌は返してあげよう?他の人まで巻き込むのは良くないよ。それから、どうするかを二人で話をしたら?ピッピと永渕君なら、きっと自分たちらしい解決法が見つけられるよ。」

 妹背の言葉を聞くと理英は、目尻に溜まった涙を拭って顔を上げると、眦を決して、

「よし、一遍ぼてくりこかしてやる!」

と叫んだ。それを聞いた3人は顔を見合わせると、声を上げて笑った。


「これ、返す!」

 昼休みが終わりに近づいた頃、理英は教室の戻ると、永渕に向かって取り上げた2冊の雑誌を左手に持って突き返した。この態度の変化は、永渕も意外に思ったらしく、少し驚いた表情を浮かべた。

「その代わり、条件があるわ。」

「条件って何?」

「私と勝負しなさい!」

「勝負?」

「試験の度に親御さんと髪の毛を賭けてるのよね。その条件を変更して。次の期末試験で、私が勝ったら貴方が丸坊主になる。逆に貴方が勝ったら、私が怒りを解いたうえでワカメちゃんみたいなおかっぱ頭になって非礼を詫びるわ。カベチェラ・コントラ・カベチェラよ!それでどう?」

「はあ?本気で言ってるの?」

「本気よ!受けて立つの?それとも逃げるの?」

 永渕は深い溜息を吐いた。

「意味分かんないよ。公平な勝負とも思えないけど、それで君の気が済むのなら受けて立つよ。」

「季布に二言無しと言ってたけど、永渕君にも二言は無いわね?」

「無いよ!」

 その返事を聞くと、理英は満足そうな笑みを口許に浮かべた。


 それから約1週間、理英は一心不乱に机に向かった。授業中のお喋りも止めた。睡眠時間も削った。そのせいで、肌が少し荒れてしまい、綺麗だった髪の毛もまとまりが悪くなった気がした。こんなに一生懸命勉強するのは、多分生まれて初めてのことだった。だから期末試験の最後の科目の終了を告げるチャイムの音を聞いた時、どっと疲れが押し寄せて来て、グッタリとなった。しかし、何時に無く心地良い疲労感だった。

 そして翌週、全ての科目の答案用紙が返却された数日後、成績上位者の一覧表が廊下の掲示板に貼り出された。理英は珍しく真っ先に見に行って、自分の名前が一番上にあるのを確認すると、次に永渕の名を探した。永渕の名は上から3番目にあった。目で永渕の姿を探そうとしたが、その必要は無かった。理英の背後で永渕の声がしたのである。

「あちゃぁ~、やられちゃったね!」

 この結果の意味を知っている筈なのに、観念したと言うにはあまりにも間延びした声であった。何となく勘に触ったので、理英は振り向くと、即座に言った。

「例の賭け、覚えてる?」

「うん、ちゃんと覚えてるよ。今日うちに帰ったら、髪を刈ってくるよ。」

「ううん。今日、永渕君の家に行って、私が刈るわ。」

「へっ?うちに来るの?」

「そう言ってるじゃない!」

「そりゃ構わないけど、だったら家に連絡入れとくよ。」

 そう言うと永渕は、掲示板から離れて、赤電話が設置している場所へ向かった。そのとき初めて気が付いたのだが、周囲の生徒がみんなこちらの様子を窺っていた。二人の賭けが学年中の興味の的になっていたことに、理英は今さらながら気がついて赤面してしまった。


 永渕の自宅は海岸に近い国道199号線沿線にある、古い理髪店だった。「内裏東口」という路面電車の電停から、石原町通り踏切を渡って真っ直ぐ歩くと、大日本製糖の工場の向かい側にその店は在った。「内裏」という地名は、平安時代末期に屋島を追われた平家が、この辺に「柳の御所」を建てて安徳天皇を住まわせたことに由来する。海が近いせいか潮騒の音と共に、時折かもめの鳴き声が聞こえてくる。

 永渕の話によると、西南戦争直後に、お尋ね者になってしまった曽祖父の代わりに、曾祖母が生活の糧を得るために、此処に住み着いて始めた髪結い床が発祥とのことだった。以来三代に亘って理髪店として続いたが、永渕は4代目を継ぐ気はサラサラ無さそうだった。

 永渕の家は古い木造建築で、永渕の言によると、日露戦争の前年に建てられたものだそうである。ただし店舗の部分は明治時代の石造りであり、貼られているタイルも古いが珍しいものだった。

「こんにちは。お邪魔します。初めまして。」

 理英がそう言って入って行ったのは、永渕の自宅の一部になっている理髪店の方だった。理髪店特有の整髪料の匂いが、理英の鼻腔をくすぐった。幸い、来店客の姿は無かった。

「あら、いらっしゃい!初めまして。陽一の母です。息子がいつもお世話になっています。」

 店の奥から出て来たのは、理英の母より少し年上の人の良さそうな中年の女性だった。しかし、永渕とはあまり似ていない、エラが張って雀斑の目立つ顔立ちだった。

「話は伺っています。陽一が貴女との賭けに負けたんですって?」

 にこやかな顔でそう言うと、

「ちゃんと頭を丸めるか確かめに来たのね?」

と訊いてきた。理英はちょっとバツが悪くなって、

「ええ。」

と曖昧に答えた。よく考えてみれば、自分の息子が無理やり丸坊主にされるのに、親として心穏やかな筈が無いではないか、ということに思い至って気後れがしたのである。

「じゃあ、そこに座って見ていて。」

 永渕の母親はそれだけ言うと、理英に来店客の待合用のソファに座るように勧めて、永渕にバーバーチェアに座るように命じた。すると永渕は、

「いや、そこは不味いと思うよ。彼女は自分の手で刈りたいようだから。素人がそこで髪を切っているのを見られたら、保健所から何か言って来るんじゃないの?」

 すると永渕の母親は、三分刈り用のバリカンの刃を付ける手を止めて理英を見詰めた。

「そう、良いわよ。バリカンの使い方は教えるから、その代わりサッサとやって頂戴ね。他の人に見られないように。」

 そう言うと理英に向かってウインクをして、三分刈り用の刃の付いたバリカンを渡した。一通りバリカンの使い方を説明すると、理英の手をとって永渕の頭にあてた。そのままバリカンの電源を入れると、理英の手を持ったまま、永渕の頭の上を滑らせた。永渕の髪の毛が束になって落ちていく。その光景を見た時、さすがに罪悪感が芽生えて理英の胸をチクリと刺したが、永渕の母親は委細構わず次々とバリカンをあてていく。ものの5分としないうちに、永渕は青々とした坊主頭になってしまった。

「ちょっと、このままにするつもりじゃないよね?」

 永渕が抗議の声を上げる。永渕の頭をよく見ると、理英が刈ったせいか虎刈りになっていた。

「心配しないでも、仕上げは私がするから。」

 永渕の母はそう言うと、永渕に前を向くように促して理英に尋ねた。

「どう、気が済んだ?」

 そこには、全ての事情を飲み込んでくれて、息子の頭を丸めた相手に向けられたとは思えない優しい目が在った。

「はい、ありがとうございました。」

とだけ、理英は答えた。その時、胸の中にわだかまっていたものが、すっかり消えていることに気がついた。


 その日の夜、猛が自宅に帰ってくると、リビングで理英と理香が言い争っていた。

「おねえ、信じられない!怪我してる間、ずっとお見舞いに来てくれた彼氏を、本当に丸坊主にするなんて!向こうの親切を仇で返したようなもんじゃない。」

「良いじゃない。お互いに納得の上の勝負だったんだから。」

「しかも、わざわざ自分から相手の自宅へ乗り込んで行って、丸坊主にしてくるなんて!きっと向こうの親から、キッツい嫁になると思われたわよ。」

「そんなこと無いわよ。向こうの親御さんも私の気持ちを分かってくれたわよ。」

「おい、何を言い争っているんだ?」

 「嫁」という言葉に敏感に反応した猛が、二人の会話に割って入る。

「あっ!パパ聞いて!おねえったら酷いんだよ。」

 そう言って理香は、猛に事情を説明した。しかし、それを聞いた猛は、

「そうかっ!理英、よくやった!」

と、手放しで褒めたのである。

「パパ、何言ってんの?」

 意外な反応に理香が抗議する。

「本当ですよ、いい加減にしてください。父兄会で恥ずかしい思いをするのは、いつも私なんですからね!」

 キッチンから出てきた早苗も理香に同調する。

「お前たちこそ、何言ってんだ?理英が一番になったんだぞ。褒めてやらんでどうする?」

 猛が反駁する。

「問題はそこじゃないでしょう?」

 理香が更に言い募る。しかし猛は全く意に介しない。

「いや~っ、痛快じゃないか!理英、何か欲しい物はないか?ご褒美にお父さんが何でも買ってやるぞ。」

 猛はご機嫌な様子でそう言ったが、理英は素っ気無く、

「今は特に何も無いなあ。」

とだけ答えた。すると猛は、

「それなら、お小遣をやろう。欲しい物ができてから買えば良い。」

と言って懐から財布を取り出すと、一万円札を抜き取って理英に手渡した。その時、初めて理英が何か黒い物体が入ったビニール袋を手にしていることに気がついた。

「おい、理英、それは何だ?」

 猛が怪訝そうな顔で尋ねる。

「これ?今日バリカンで刈った永渕君の髪の毛を貰ってきたの。」

「何だって!汚いなあ。捨ててしまいなさい、そんなもの!」

「嫌よ!せっかくの戦利品なのに。」

と理英が拒絶した。すると理香が、

「おねえったら、帰って来てからずっとこうして愛おしそうに持ってるの!」

「失礼ね。私はただこうすると、永渕君の匂いがして、一緒に居る気分になれるから貰ってきただけよ。」

「そんなに大事な人なら、あんなことしなきゃ良いのに。全く・・・」

 そう言って呆れる理香を尻目に、理英は永渕の髪の毛の入ったビニール袋の口を顔に当てると、くんかくんかと匂いを嗅いだ。それを見て理香が言い放った。

「おねえ、歪んでるよ。それじゃあ変質者と一緒だよ。シンナー遊びの方がまだマシだよ!」

 二人の遣り取りを見ていた猛は頭を抱えてしまった。

「それに勝ち方も褒められたもんじゃないわよねえ。」

と早苗が言った。

「どういう意味だ?」

「これ、永渕君のを理英が借りてきたんですけど・・・」

そう言って早苗は、白地に青い罫線が引かれたB5版のカードを猛に渡した。試験の成績カードだった。

「何々、英語96点、数学100点、国語94点、理科100点、社会98点、美術96点、音楽88点、技術家庭科94点、体育58点で403人中3番か。凄いな。体育以外はフルマークに近いじゃないか。」

「それで、こっちが理英のです。」

 早苗はそう言って、理英の成績カードを渡した。

「えっと、英語98点、数学100点、国語92点、理科100点、社会96点、美術94点、音楽90点、技術家庭科92点、体育94点か。なんだこりゃ!殆どの科目で向こうが上回っているじゃないか。と言うよりも、体育の点差で逃げ切ったようなもんか。」

「例の安永先生が、ペーパーテストの半分は平常点を加算する、っていう採点法を採っているから。」

「何だ、あの永渕っていうのは授業中の態度が悪いのか?」

「理英とは違いますよ。ほら、1年生の終業式の後、体育の先生を代えてくれって言って、60人近い男子生徒が職員室に押し掛けて吊るし上げる騒ぎがあったでしょう?あの時から永渕君も目をつけられているんですって。」

「あの永渕っていうのは、何でそんなことしたんだ?」

「安永先生は、元は陸上競技の五輪強化指定選手だったから、陸上競技中心の年間授業計画を立てて進めたらしいんだけど、そのことに対してかなりの男子生徒が反発したようなんですよ。」

「ええっ!じゃあこの点数は・・・」

 理香は察知したようだ。

「理英の話では、ペーパーテストで48点、平常点というか実技で10点ってことらしいんですよ。」

「なんだ!じゃあ実質おねえの負けじゃん!」

「何言ってんのよ!教師と良好な関係を築くのも成績のうちなのよ。良い点数をつけて欲しかったら、安永先生に土下座して詫びを入れて、靴でも舐めておけば良かったのよ!」

「おねえ、容赦ないなあ。そんなことじゃあ、いつか捨てられるよ。」

 理香が呆れたように呟いた。


 翌朝、意外なことに、丸坊主にされた永渕が、一緒に登校するために理英の自宅に姿を現した。青々とした坊主頭を見た早苗と理香は、どう声をかけたら良いか分からずに、強張った表情を顔に貼り付かせたまま、作り笑いで出迎えざるを得なかった。しかし肝心の理英は、嬉々として永渕の頭を撫で回しながら、家を出て行ってしまったのである。

 そして教室に入ったところで、もう一騒動あった。先に登校していた生徒たちが、理英と一緒に教室に入って来た永渕の頭を見た途端、大騒ぎになったのである。殆どの生徒たちが、そこまでやるとは、といった表情を顔に浮かべていた。そして、そんな目に遭いながらも、理英と手を繫いで登校してきたのか、という目で永渕を見ていた。しかし、永渕は全く意に介ず、といった風情でいつも通りに振る舞っていたし、理英は理英で永渕の坊主頭を叩いたり、気持ち良さそうに撫で回していたので、周囲はあっけにとられてしまったのである。

 しかしこの日を境に一つだけ変わったことがあった。以前とは違って理英の方から、やけにボディ・コンタクトをとるようになったのである。理英が背後から永渕の頭の上に自分の顎を乗せて話し掛けたり、膝枕を口実に寝かせた永渕の頭を、撫で回す光景が日常茶飯事になっていった。永渕が尋ねる。

「ねえ、一つだけ訊いても良い?」

「なあに?」

「もしかして僕の頭を刈ったのは、僕が君を置いて一人で上京したことに対して怒ってたんじゃなくて、君のフェティシズムを満足させるためだったの?」

「う~ん、そうかもしれない。」

「そこは言下に否定しようよ!」

「あの時はそんなつもりは無かったんだけど、でもこの坊主頭を見てると、胸がキュンとなるんだもん。このクリクリした頭が好きなのかも・・・」

 そう言うと理英は、膝枕をした永渕の頭を愛おしそうに撫で回していたが、会話が途切れたところで理英が話題を変えた。

「ねえ、ずっと保留していた返事、今しても良い?」

「えっ、この体勢で?ちゃんと向き合おうよ。」

「私はこのままで良いわよ!ちゃんと顔を見たら、恥ずかしくて言えないかもしれないし・・・」

「じゃあ、ひょっとして・・・」

「私も永渕君のことがよく分かったし、好きになっちゃったみたい。だから、これからもよろしく!」

「いや、こちらこそ・・・」

 それを聞くと理英は尋ねた。

「ねえ、これで私たちは晴れて彼氏・彼女になったのよね?」

「うん、そういうことになるけど。」

「それなら、お互いに相手の呼び方を変えない?寛永寺さん・永渕君じゃあ、他人行儀だと思うのよね?」

「だったら、何て呼ぶ?名前で、理英・陽一って呼ぶ?」

「それはちょっとまだ照れ臭いな。何か別の呼び名を付けてよ。」

「う~ん、そうだなあ・・・・・・そうだ!オームっていうのはどう?」

「鸚鵡?」

「違う、違う!ゲオルク・オームの『オームの法則』のΩ(オーム)だよ。R(抵抗)×Ⅰ(電流)=E(電圧)の公式は、そのままRIEリエって読めるじゃない。」

「本当だ!今まで気が付かなかった。でも、なんか紛らわしいな。」

「それじゃ、仕方ないから、君の友達と同じ様に『ピッピ』って呼んで良い?」

「じゃあ私も、貴方の友達が呼ぶように『ブチ』くんって呼ぶことにするわ。よろしくね、ブチくん!」

 第一章の後書きで、この本文を読めば、序章のキャロリン・キーン氏への献辞の意味が分かる旨を記しましたが、分からなかった方が居られたようなので少し言及しておきます。私がキャロリン・キーン氏の著作物に触れたのは、1979年からNHK総合の「海外少年ドラマシリーズ」で放映されていた「ハーディ・ボーイズ&ナンシー・ドルー 」というドラマがきっかけです。この時、少女探偵ナンシー・ドルーを演じていたのが、映画『ポセイドン・アドベンチャー』やドラマ『ダイナスティ』にも出演された、パメラ・スー・マーティンという女優さんです。少し額が秀でた賢そうな女性です。文章を読んで分かったのは、40代半ば以上の男性だけだったようです。第三章を読んでジョセフィン・テイ氏への献辞の理由が分からなかった方は、彼女の作品である『時の娘(The Daughter of Time)』をご覧になってください。


【参考文献】


 『NHK大河ドラマ大全 50作品徹底ガイド完全保存版』 NHK出版:編 2011・01・31 NHK出版

 『山本直純と小澤征爾』 柴田 克彦:著  2017・09・13 朝日新聞出版

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