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第三章 教科書事件 -あなたはだぁれ?-

 月曜日の午後、時計の針は午後4時近くになっていた。コンコン。理英の部屋の扉をノックする音がした。僅かに開いたドアの隙間から顔を覗かせたのは、母親の早苗だった。

 理英は二日前の校内記録会のリレーで、追い抜きざま前を走るランナーと交錯して転倒し、足首を捻挫して動けなくなってしまったのだ。痛みや腫れは1週間程で引くという診断だったが、まだ痛くて足を地に着けられないため、学校を休んで寝ていたのである。尤も、自分が転倒したことでリレーの勝利をフイにしてしまったという自責の念から、クラスメイトに顔を合わせ辛くて休んでいる部分が大きく、実際足首以外は何とも無いので、少々暇を持て余していたところだった。それにしても記録会が土曜日開催で本当に良かった、としみじみ思っていたところだった。

「なあに、お母さん?」

 そう言いながら理英はベッドから、白いネグリジェ姿の身体を起こした。

「退屈そうね。」

「まあね。足首以外は何とも無いから。」

「クラスメイトの子が学校で配られたプリントを持ってお見舞いに来てるけど、この部屋に入ってもらっても良いかしら?」

「良いけど、誰?」

「永渕君よ。」

「えっ!ちょっと待って、ちょっと待って!私こんな格好なのに・・・」

 そう言うと理英は、慌てて掛け布団の上に置いていた、紺色のカーディガンを羽織った。

「別に良いでしょ。怪我して寝てるのは皆知ってるんだから。」

 早苗がそう言うと、その後ろから永渕が顔を見せた。

「こんにちは。怪我の具合はどう?」

 理英は、永渕の顔を見るとベッドの中に潜り込んで、顔だけ出して返事をした。

「だ、大丈夫!1週間くらいで学校にも行けるって。」

 すると永渕は、笑顔を浮かべて手にしていたケーキ箱を顔の位置まで持ち上げて尋ねた。

「そう、それは良かった。お見舞いに『チムチム』のアップル・パイを持って来たんだけど、食べる?」

 『チムチム』は黄金町にあるケーキ屋さんである。店舗の赤い内装と、チロル地方の民族衣装をあしらった店員さんの制服が可愛いと評判のお店だ。ここのアップル・パイは理英も大好物だ。

「食べる!」

 理英はベッドから跳ね起きると、勢いよく返事をした。

「じゃあ、お母さんは下でお茶を入れてくるから。」

 早苗は笑いながらそう言うと、永渕の背中を押すようにして理英の部屋へ押し込んで、自分は出て行ってしまった。

 理英の部屋は、壁紙や家具・調度類を含めて部屋全体が淡いピンク色でまとめられている、年頃の女の子らしい部屋だった。ベッドの枕元近くには、テディ・ベアやパンダ等の幾つもの可愛らしい縫いぐるみが置かれていた。本棚には、参考書の他に『赤毛のアン』シリーズ・『星の王子さま』・『若草物語』・『ライ麦畑でつかまえて』等の本や『キャンディ・キャンディ』・『ファラオの墓』・『11人いる!』・『はいからさんが通る』等のコミックスが並んでいる。

 永渕は理英の部屋へ入ると、呆気にとられたように部屋の中を見回した。部屋中の壁に所狭しと貼ってある、ジュリー・アンドリュースのポスターに圧倒されたのである。

「凄いね!ジュリー・アンドリュースが好きなの?」

「ええ、大ファンなの!」

 硬い表情のまま理英が答える。

「でも、ハリウッド女優さんは日本には滅多に来ないから、本物なんて見たことないんじゃない?」

「うん!でも、来年には福岡の九電記念体育館でコンサートをやる計画があるの。絶対本物を見たいから、何があっても見に行くわ!」

「『サウンド・オブ・ミュージック』に『メリー・ポピンズ』に『スター!』、こっちはヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』だよね。よく集めたね!」

「結構大変だったのよ。売ってないポスターもあって、上映した映画館に頼み込んで広告用のポスターを貰ったりしたの。」

「あれっ、でも『マイ・フェア・レディ』のポスターが・・・そっか、映画でイライザを演じたのは、オードリー・ヘップバーンだっけ。」

「そうよ。だから私、あの映画は嫌い!」

「それは、それは・・・、ところで『サウンド・オブ・ミュージック』のポスターに写っているこの子は、『宇宙家族ロビンソン』にペニー・ロビンソン役で出てた子役だよね?」

「よく覚えてるわね。ブリギッタ・トラップ役のアンジェラ・カートライトっていう女優さんよ。その様子だと、永渕君も映画が好きそうだけど、女優さんでは誰が好きなの?」

「ハリウッド女優でってこと?」

「それでも良いわよ。」

「だったら、君には申し訳ないけれど、僕はオードリー・ヘップバーンが好きだな。『ローマの休日』とか『麗しのサブリナ』とか『ティファニーで朝食を』とか『おしゃれ泥棒』とか『暗くなるまで待って』とか。」

「結構見てるのね。」

驚いたように理英が感想を述べた。

「おかげで『ティファニー』のことを、『ロイヤル』の様なモーニング・サービスのあるレストランだと思ってた。」

 それを聞くと理英は少し表情を綻ばせた。

「『ティファニー』って宝飾品のお店でしょう?」

「うん、銀製品、特にオープンハートのペンダントで有名だよね。この映画のタイトルのせいで勘違いしてたよ。」

「確かに紛らわしいわね。」

「でも最近、自分たちと同じ世代の女優さんが出てきたんで気になってる。」

「誰?テイタム・オニール?」

「違うよ。ジョディ・フォスターっていう人なんだけどね。僕達と同い年だよ。『タクシードライバー』って映画知らない?アメリカで結構話題になっていて、もうすぐ日本でも公開されるんだよ。今、『白い家の少女』っていう主演映画を、日本の映画配給会社が買い付けようとしてるんだけど。」

「聞いたこと無いわ。」

「そうだ!アメリカのシェリング・プラウっていう会社の日焼け止めで、『コパトーン』っていうブランドの商標を知ってる?」

「ああ、あのビキニを着た幼い女の子のボトムを、黒い子犬が引っ張ってるやつ?」

「そう、それ!そのモデルになった女優さんだよ。」

「ふ~ん、今度調べてみるね。」

 そう答えると、理英は黙り込んでしまった。上手く間が持たない永渕は、何か話題になるものは無いかと、ベッドの周囲を見渡した。ベッドの脇には、先ほどまで食べていたと思われる、ポポロンの黄色い袋やセミスィート味のメロディ・チョコ、オール・レーズン等があり、ゴミ箱の中には「ポテト坊や」が描かれたポテトチップスの赤いパッケージの袋が捨てられていた。永渕はお菓子の中の一つを手に取ると、

「へぇ~、ポッキーのパッケージ、横向きだったのが縦になったんだ。」

と水を向けたが、理英からは、

「昔は横向きだったっけ?」

という返事が返ってきただけだった。

 話題に窮した永渕は、ベッドの傍らに文庫本が開いたまま伏せてあるのを認めると、

「退屈してたみたいだね。何を読んでいたの?」

と尋ねた。

「ああ、これ?コレットの『青い麦』よ。」

 その返事で永渕が不意に鼻歌を歌いだした。それを聞くと理英は噴き出してしまった。

「違う、違う。それは伊藤咲子の『青い麦』でしょう?」

 理英が笑いながらそう言うと、永渕は曲を変えて歌い続けた。

「それは伊丹幸雄!」

 そう言って一頻り笑った後で、

「もう、茶化さないでよ!これ、真面目な恋愛小説なのよ!」

と抗議した。それを聞いて永渕は、

「ようやく笑ってくれたね。」

と微笑を浮かべて言った。


「だけど元気そうで何より。」

 永渕が向き直ってそう言うと、理英はカーディガンの前を合わせながら答えた。

「足首を固定してもらったから、動かさなければ痛みは殆ど感じないんだけど・・・」

「何、みんなの反応が気になる?」

「うん、せっかく良いところまでいってたのに、申し訳なくって。」

「もう誰も気にしてないと思うよ。それよりも、これ!」

 そう言うと永渕は鞄の中に手を突っ込んで、3冊のノートと紙の束を取り出した。ノートは今日授業があった科目である。紙の束は同じくノートのコピーだった。明日授業が無い科目はノートを貸してくれるが、授業がある科目はノートのコピーで我慢して欲しい、とのことだった。コピーはモノクロなので、赤鉛筆で書き込んだ部分が少し読み辛かったが、まあ我慢しようと思ったところで、永渕は信じられない科白を吐いた。

「じゃあ、今日の授業でやったところを教えてあげる。」

「ちょっと、待って!私、今から勉強するの?」

「そうだよ。僕の記憶が確かなうちに、今日授業であった内容を説明しようと思って来たんだ。」

「足の怪我を心配して来てくれたんじゃないの?」

「まあ、それもあるけど、怪我の状態は、一昨日一緒に病院に行ったから、もう知ってる。それに一昨日行った加藤外科は、息子さんが小学校の同級生だったから、僕が訊けば詳しく教えてくれるよ。」

「え~!、せっかく今週は勉強をサボれると思ってたのに!」

「何言ってんの!期末試験で、また僕に主席の座を奪われて、悔しい思いをしたいの?」

「う~っ!」

 理英は短く唸ると、恨めしそうな目で永渕を見詰め返した。


 一時間半後、理英の姿はリビングにあった。白い包帯を巻いた足首が痛々しい。

「永渕君の講義は、どうだったの?」

 早苗が笑いながら訊く。眉間に皺を寄せた理英が答える。

「分かりやすかった。永渕君、教えるの上手いんだから、学校の先生になれば良いのに。一コマ50分の授業を、15分位でエッセンスだけ教えてくれた分、こっちの方が手っ取り早くて好きだな。」

「あら、良かったじゃない!」

「んじゃ、私、明日から毎日永渕君から講義を受けるから、学校に行かなくても良いかな?」

「良い訳ないでしょ!出席日数が足りなくなったら、どんなに成績が良くても、原級留置になるんですからね!」

「ちぇ~!永渕君の顔を見た時は、アップル・パイを食べながら甘~い会話ができるかなぁ~、って思ったんだけどなぁ~。永渕君、本当に私のこと好きなのかなぁ~?明日からも毎日来てくれるって言ってたけど、これじゃあ先が思いやられるよなぁ~!」

「何言ってんの!好きだからこそ、心配してお見舞いにも来てくれたし、授業に遅れないようにノートも貸してくれて、今日授業でやったところまで教えてくれたんでしょう?」

「でも、私、永渕君ほど勉強好きじゃないだけどなぁ~。学校にも、友達とお喋りしに行ってるようなもんだしなぁ~。」

「貴女、本当に何しに学校へ行ってるのよ?」

 呆れたように早苗が尋ねる。

「みんな勘違いしてるんだよね~。いくら成績が良くても、勉強が好きとは限らないのに!私の彼氏になりたいんなら、その辺を分かって欲しいなぁ~。」

 溜息混じりに呟きながら、理英の白魚の指が、永渕から借りたノートをパラパラと捲った。

「でもこのノート、凄いのよね!板書したことだけじゃなく、先生がポロッと喋った豆知識の様なことまで書き留めてあって、どんな授業だったのかが、ノートを読んだだけで頭の中で復元できるの。」

「貴女と違って、授業中に友達とのお喋りに没頭したりしないからじゃない?貴女は、先生が黒板に板書したこと以外は、ノートにとらないもんね。永渕君を見習って、もう少し授業態度を改めたら?貴女、授業中もずっとお喋りしてるじゃない。お母さん、父兄参観の度に恥ずかしい思いしてるのよ。」

「アーッ、もう、五月蝿ーい!分かってるよぉ。」

 そう言うと理英は、頬をぶすっと膨らませた。

「ところで永渕君は、本当に明日も来るの?それなら何かおやつでも用意しとこうか?」

「私が登校できるようになるまでは、毎日来るつもりみたい。明日のおやつは、お見舞いにエクレアをリクエストしといたから要らないよ。でも、勉強を教えに来るだけなら、有り難迷惑なんだよね~。あ~、今から憂鬱!」

「あんたって子は!」


 翌日も3時半過ぎに永渕が訪ねてきた。前もって来訪を告げられていたので、理英は予め着替えてリビングで待っていると、遠くからダニエル・ブーンの『ビューティフル・サンデー』の鼻歌が近づいてきた。最後の方で微妙に音程をハズしていたので永渕だろうと思っていたら、果たして玄関の呼び鈴が鳴った。やはり永渕だったようだ。早苗は玄関に出ると、永渕に何やら話し掛けていた。理英は、永渕がなかなかこっちへ来ないことを不審に思いながら待っていると、やっとリビングに入って来た。永渕はお土産のエクレアを渡すのもそこそこに理英に話し掛けた。

「さて今日は体育と音楽を除けば、英語・数学・歴史・理科第1分野なんだけど、用意は良い?」

 エクレアの入った菓子箱を受け取った理英は、中身をガサガサと取り出しながら、

「はーい。」

と、気の無い返事をすると、エクレアを一口頬張った。集中していないのか、あちこちを彷徨っていた理英の視線が、ソファの上に置いた永渕の肩掛け鞄に留まった。

「ねえ、今日はいつもより鞄が膨らんでない?」

「ああ、社会科で歴史の授業がある日は、これを持って行ってるんだ。」

 永渕はそう言うと、鞄の中から赤い本と薄紫色の本を取り出した。

「何、これ?」

「それは山川出版社の出してる日本史と世界史の教科書だよ。本当は高校生用の教科書なんだけど、従兄に勧められて参考書の代わりにしてるんだ。東大の入試なんかでも、この教科書の中の文章が穴埋め問題として丸々出題されたことがあるんだって。」

「ふ~ん。私、歴史は苦手なんだ~。人の名前や年号をちまちま覚えるのって性に合わなくって。」

 そう言いながら理英は、世界史の薄紫色の本を手にとって、何気なくパラパラと捲った。

「日本の歴史は集英社の学習まんが『日本の歴史』を読んでおくと便利だよ。歴史上の重要な事件の流れを頭の中に入れておけば、後はその事件の前か後かで判断すればいいから、楽になると思うよ。」

 しかし理英からは、

「ふ~ん。」

と、気の抜けた返事が返って来ただけだった。

「へ~!世界史の方は、人物や建物の写真じゃなく、その出来事を扱った外国の記念切手の写真を載せてるのね。これはバルボアの太平洋領有宣言の記念切手か!私、小学校の低学年の頃まで切手を結構たくさん集めてたわ。」

「それは僕も同じだよ。」

 理英は次に日本史の赤い本を同じ様に捲り始めたが、あるページまで繰ると、

「うん?」

と言うなり手を止めてしまった。

「どうしたの?」

「いや、このページ・・・」

と言いながら室町時代のページを開いて、そこに載っている騎馬武者の写真を指し示した。

「ねえ、この写真の肖像画、私たちは足利尊氏の姿だって習ったわよね?」

「うん、小学校でもそうだったと思うけど。」

「でも、これ見てよ!『伝・足利尊氏像』ってなってるわよ!」

「ああ、そういうことか。」

「これって、足利尊氏の肖像画だって言い伝えられているっていう意味よね?」

「そうだね。みんながそう言っているって意味だね。つまり有体に言えば、確たる証拠は無いってことだね。」

「いつからこうなったのかな?」

と、理英が尋ねる。

「2~3年前に、藤本正行さんって歴史学者が、甲冑武具の研究から問題提起してそうなったみたいだよ。でも同じ様な意見は戦前からあったみたいだけど・・・」

「えっ!そうなの?」

 知らなかったという表情をして、理英が驚いた。

「僕の記憶が確かなら、学問的には1920年に黒板勝美っていう東京帝国大学の教授が論文を発表したことで、『足利尊氏像』と呼ばれ始めたんだけど、1937年には谷信一さんていう東京帝国大学史料編纂所に勤めていた美術史家の方が、『出陣影の研究』っていう論文を出して疑問を呈してるね。」

「随分前から疑問視されていたのね。」

「けれど、東京帝大教授の学説だから、そんなに大きな反対勢力にはならなかったみたいだね。1968年に早稲田大学教授の荻野三七彦教授が『守屋家本伝足利尊氏像の研究』っていう論文で否定してから勢いづいたみたいだよ。」

「歴史の史料って、そんないい加減なものなの?」

 理英が呆れた様に言う。

「いい加減って訳じゃないんだろうけど、なにぶん昔のことだからね、所謂科学的見地から見たら疑問のある物も多いんだろうね。」

「じゃあ、私たちがこういったことを学んでも、ひょっとしたら将来本当のことが分かって無駄になっちゃうのかなあ?」

「まあ、断代史の伝統のある中国は例外だけど、その時代を生きていた人達は、後世になってこういう形で当時のことを学ぶなんて、思いもしなかったろうしね。ましてや、そのための史料をキチンと残してやろうなんて、考えもしなかったと思うよ。」

「そう言われれば、そうだけど・・・・・・ところで『断代史』ってなに?」

と、理英が基本的な質問をした。永渕が答える。

「ああ、それは史書に関する思想の事だよ。中国では昔から、一つの王朝の歴史は次の王朝が編纂すべきである、という史実についての思想があるんだ。だからある王朝に関する史書は、次の王朝が、前の王朝の残した記録から編纂することになってるんだ。その理由は、自らのことを記すと誤魔化しが生じると考えているからなんだよ。」

「へえ、中国ってそういう点ではフェアなのね。」

「いや、そうとも言えないよ。史書を編纂した次の王朝にとって不利なことは、その限りではないんだ。」

「じゃあ、前の王朝を倒したことに関しては、言い逃れが出来るってことなの?」

「まあ、そうなっちゃうね。」

「それに、もし前の王朝が自分たちにとって不利なことを、わざと記録してなかったら、史書に記載できないんじゃない?」

と、理英が当然の質問をする。

「それについては、こんな逸話が残っているよ。『春秋左氏伝』によると、中国の春秋時代に存在した斉という国に、崔杼という政治家が居たんだけど、次期国王として擁立した荘公という王様に自分の妻を寝取られてしまったんだ。逆上した崔杼は、紀元前548年に報復として荘公を殺してしまうんだ。すると斉の太史、つまり歴史記録官はそれを正直に『崔杼弑其君(崔杼、其の君を弑す。)』と竹簡に記すんだ。それを知った崔杼はこの太史を殺してしまうんだけど、その太史の弟が跡を継いで、また同じことを竹簡に記して殺されるんだ。すると、さらに次の弟が跡を継いでまた同じことを竹簡に記すんだ。そこで崔杼はとうとう諦めて、これを許すんだよ。大史兄弟が殺されたことを聞いた別の史官は、同じく『崔杼弑其君』と書いた竹簡を持って駆けつけるんだけど、事実が記録されたと聞いて途中で帰っちゃうというオマケも付いてるんだよ。」

「凄い話ね!」

「この故事は、中国人が歴史を記すことへの執念を表す例としてよく語られるんだ。」

「つまり前の王朝に関しては、記録されないことは無いって訳ね。」

「そういうこと。翻って我が国では、例えば、清少納言や紫式部なんて昔の女性の名前は、本名が分からないって知ってる?」

「えっ、そうなの?私、今の呼び名が本名なんだと思ってた!」

「違う、違う。」

 永渕は手を横に振って、苦笑しながら答えた。

「清少納言の本名は、清原の○○という名前だと思われるんだけど、全く伝わってないんだ。当時の女性の扱いは低かったし、言霊信仰もあったから、女性の名前は記録されてこなかったんだ。因みに、曽祖父は清原深養父、父親は清原元輔、兄は清原致信っていうんだ。『諾子』だったという説もあるけどね。」

「へ~っ!」

「紫式部も、父親は藤原為時、兄が藤原惟規、娘が藤原賢子っていうんだ。」

「ちょっと待って!何で紫式部は娘の名前が分かってるのよ?」

 理英は早速永渕の説明の矛盾を突いてきた。

「紫式部の娘は親仁親王の乳母をやっていて、この皇子が後に後冷泉天皇になったから、名前が記録されて残っているんだ。もし天皇の乳母になってなかったら、単に大弐三位って呼ばれただけだったろうね。」

「そうなんだ~。」

「尤も、宮中の記録を丹念に調べてみると、どうも『藤原香子』という女官が紫式部の正体らしいんだけどね。」

「そこまで分かってるの?」

「でも消去法だからね。決定的な証拠が無いんだ。同じ理由で、小野小町も『小野吉子』っていう女官が該当するらしいんだけど、確定には至っていないね。」

「そんなもんか~。」

 興を殺がれたという顔をした理英を横目に、永渕は胸ポケットを弄って財布を取り出した。財布の中から紙幣を一枚取り出すと、広げて理英に見せながら、こう言った。

「ねえ、この人物知ってる?」

 永渕が広げて見せた紙幣は、五千円札だった。

「失礼ね~。それくらい知ってるわよ。聖徳太子でしょう?何々、私にお小遣いくれるの?」

 理英はそう言うと、掌を開いて永渕に突き出した。

「そんな訳無いでしょ!」

 永渕は、そう言って理英の掌を平手で軽くピシャンと叩くと、

「でも、そうじゃないらしいんだ。この肖像は、法隆寺に在ったこの三人を描いた絵から持ってきてるんだよ。」

 永渕はそう言うと、自分の鞄の中から図録を取り出して理英に見せた。

「この図の右前方が小野妹子、左後方が山背大兄王、中央が聖徳太子って言われているんだけれど、ちょっと怪しいんだよね。」

と言って、話題を元に戻した。

「どこが怪しいの?」

「例えば、右前方は小野妹子じゃなくて殖栗王じゃないかとも言われているし、実はこの絵がいつから法隆寺に在るのかさえ、分かってないんだ。」

「ふ~ん。」

「最近は、聖徳太子っていうのは、日本書紀が作った虚像で、歴史上実在した厩戸皇子うまやどのおうじとは、イコールではないらしいって言われているしね。」

「そうなの?じゃあ、教科書の表記も変わっちゃうのかしら?でも、厩戸皇子って漢字で書くのも難しいんだよね。」

「君くらい頭が良ければ、余裕で覚えられるんじゃない?」

「こうだっけ?」

 理英は自分のノートにサラサラと文字を書きつけると、永渕に見せた。

「それじゃあ厠戸皇子かわやどのおうじだよ!真面目にやってる?」

「じゃあ、こうかな?」

 もう一度、理英は自分のノートに何か文字を書きつけると、再び永渕に示した。それを見た永渕は真っ赤になって言い放った。

「なんでやねんっ!廓戸皇子くるわどのおうじって、おちょくっとんか~い?」

「吉本新喜劇の岡八郎じゃあるまいし、急に関西弁にならないでよ!」

「僕だから良い様なもんだけど、誘ってるのかと思われるよ。」

 それを聞くと理英はころころと笑って、

「私だって、からかう相手くらい選んでるわよ。」

と答えた。奥のキッチンでも早苗が噴き出すのが、二人の視界の端に写った。

「それに永渕君には『大望』があるから、変なことはできないのよね。」

と言葉を続けると、永渕は顔を赤くしたまま俯いてしまった。

「ごめん、ごめん。お昼に何気なくテレビを見ていたら、『廓育ち』っていう古い映画が流れてたんで、今この悪戯を思いついたの。」

 それを聞いて永渕は、一つ大きな溜息を吐くと、

「ああ、三田佳子のやつね。酷い映画だね。」

と、吐き捨てるように言った。

「どこが?」

と理英が尋ねる。

「確か、主人公の少女は、小学校6年生で『色の道』を教え込まれるんだよね。あの時代にも刑法176条や177条はあった筈だから、強制猥褻罪や強姦罪が成立する筈だよ。」

 それを聞いて理英は、ぷっと吹き出してしまった。

「フィクションなのに真面目だなあ~。」

 しかし永渕は、それを無視するように、

「じゃあ、話を戻すよ。」

と言って、再び図録を示すと、

「これをよく見て。聖徳太子の持っている笏なんだけど、これはまだ当時の日本では使われていないんだ。それだけじゃないよ。この冠や衣服も8世紀以降の物らしいんだ。」

「じゃあ、この絵に描かれている人物が聖徳太子の訳ないじゃない!」

「例えばこの絵の主が藤原不比等とか長屋王だって言うのなら、まだ分かるんだけどね。国語の短歌の時間に、会津八一って人が出てきたの覚えてる?」

「ああ、あの八月一日生まれの人?」

「そう!これは朝日新聞に出てたんだけど、昔、会津八一が早稲田大学の講義で、学生達にこれとよく似た肖像画を中国から持ち込んで見せたことがあるらしいんだ。こういう肖像画は、古代中国では沢山描かれていたらしいよ。」

「本当に?だったらどうしてこの絵が今でも『聖徳太子像』として罷り通っているの?」

「実は、13世紀の半ば頃に、顕真っていう法隆寺の僧侶が、聖徳太子に関する秘事や口伝を『聖徳太子伝私記』という書物に記したんだけど、この中で聖徳太子像を『唐本御影』としていて、唐人が描いたという由来が書かれているんだ。」

「そもそも聖徳太子の生きていた時代に描かれたのならば、唐じゃなくて隋の筈でしょう?」

「いや、隋は581年から618年まで、唐は618年から907年までだから、聖徳太子の存命中ということならば辛うじてセーフだよ。」

「でも、その顕真って人は、聖徳太子と同じ時代を生きていた訳じゃないのに、何を根拠にそう書いているの?」

「それは分からないね。でもその前に、12世紀半ば頃だけど、大江親通という人が、『七大寺巡礼私記』という書物の中で、『太子の俗形御影一鋪、件の御影は唐人の筆跡なり。不可思議なり。よくよく拝見すべし。』って疑問を呈示しているんだ。」

「もうその頃から疑われていた訳?」

と、理英が尋ねる。

「うん、この肖像画にはそういった経緯があったのに、明治の初め頃に法隆寺から皇室に献納されて『御物』になってしまったんだ。」

「『御物』ってなに?」

「『御物』っていうのは、天皇が所有し、宮内庁が管理する品物で、慣例として、文化財保護法等の適用対象外になるから、国宝や重要文化財の指定は受けないんだ。」

「それって、ひょっとして古墳なんかと同じような扱いを受けてるってこと?」

「まあ、そういうことだね。」

「じゃあ学術的な調査なんて、望むべくも無いじゃない!」

「そうだね。キチンと調べればこの絵の主が誰だか分かって、意外な発見に結びつくかもしれないのにね。だから、この絵については、もうこのくらいにしとこう。でも君の言った『伝・足利尊氏像』については、こういったことを踏まえて考えてみようよ。この『伝・足利尊氏像』は絹布に描かれていて、今は京都国立博物館にあるんだ。」

「ふ~ん。京都国立博物館ってことは、御物じゃあないのね。」

「うん、これは重要文化財になってる。これが足利尊氏像だったとしても、北朝を作ったって点を除けば、天皇家とはあまり関係も無いしね。大体、江戸時代くらいまでは、誰が持っていたのかも分かってないし、誰を描いたのかを示す『賛』や『銘文』なんかも無いんだ。」

「それなのに、どうして足利尊氏を描いたものだってことになってるの?」

「それは、江戸時代後期に松平定信が編んだ『集古十種』に、初めて足利尊氏像として記録されたからなんだよ。全体図はこんな感じだよ。」

 そう言うと永渕は、図録を繰って別のページを開いた。そのページを理英が覗き込む。

「ねえ、この絵の上に書かれているサインみたいな文字はなあに?」

「それは『花押』だよ。」

「『花押』?」

 理英のその言葉を引き取って、永渕が説明する。

「『花押』っていうのはね、署名の代わりに使われる記号で、署名を図案化した物だよ。今でも、国務大臣になった政治家が閣議の際に使ってるよ。ここに書かれているのは、第2代室町将軍・足利義詮の花押だって。」

「お父さんの頭の上にサインしたってこと?」

「うん、でもそれは親に対する不孝な行いらしくて、子が父の頭上に花押を書くことはあり得ないって言う人も多いね。だから、この絵は足利尊氏を描いたものじゃない、って否定する根拠の一つになってるんだ。」

「そうなんだ。」

「まあそれ以外にも、否定する根拠はあと三つ位あるんだけどね。」

 その言葉を聞いて、興味津々といった様子で理英が尋ねた。

「何々、どんなものなの?」

「まず第一に、室町時代の文献に記された尊氏の姿や、安国寺や等持院なんかの木像と全然違うこと。」

「等持院の木像って、幕末に尊皇攘夷派の浪士によって、義詮・義満の木像と一緒に三条河原で晒し首になったやつ?」

 即座に理英が疑問を差し挟む。

「よく知ってるね!」

「物心付いた時からお父さんに付き合わされて、ずっとNHKの大河ドラマを見てたもの。以前見た『勝海舟』でやってたんだ。本当は裏番組の『飛び出せ!青春』や『われら青春!』なんかを見たかったのに・・・」

「うちと一緒だ!妹も森田健作のファンだったから、『おれは男だ!』を見られなくていつも愚痴ってたよ。」

「そうなの?お互い災難ね。おかげで今の日曜の夜の楽しみは、『事件記者コルチャック』ぐらいなの。」

「その様子だと、『ミステリー・ゾーン』や『インベーダー』や『怪奇大作戦』も好きなクチだよね?」

「それに『恐怖劇場アンバランス』や『ザ・ガードマン』の怪談シリーズも好きだったわ。」

「女の子って、怖い、怖いって怯えながらも、怖い話が好きな子が多いよね。」

「そうそう、両手で顔を覆ってしまうのに、指の間からしっかり見ちゃうのよね。」

と、理英が相槌を打つ。

「さて、話を戻すよ。第二の理由は、尊氏は好んで栗毛の馬ばかりに乗ったらしいのに、この絵の馬は黒毛であること。第三は、尊氏の様な武将が、総髪・抜刀して、箙に折れた矢を入れている姿で描かれるとは考えにくいこと。通常、こういう絵は出陣する時の姿を書くものなんだけど、これは敗走する時の姿だそうだ。武家の棟梁たる征夷大将軍が、そんな姿を描かせるとは考えられないそうだよ。」

「でも、義詮の花押があるってことは、義詮本人かそれに近い人を描いたってことになるんじゃない?」

「多分、そうだろうね。恐らく室町幕府の有力な武将なんだろう。そうなってくると、家格も高いと思われる吉良・渋川・石橋の足利御三家か、今川・大崎・最上や桃井、上野、大館といった足利一門、三管領・四職の細川・斯波・畠山・赤松・京極・一色・山名、後は上杉・土岐・大内・六角なんてところの武将が候補に上がってくるよね。でも僕は、この絵の中にもっと気になる部分が・・・」

 永渕がそこまで喋ったところで、理英が声を上げた。

「そういえば、この絵の人物の刀の鍔の所と鐙を支えてる馬具の所に付いているのって、家紋じゃない?」

「良い所に目をつけたね。僕もそう思う。この丸の中に菱形みたいなものがある紋様は『花輪違紋』って言うんだ。因みに、刀剣の方は『目貫』、馬具の方は『鞖』って呼ぶけどね。」

「足利家の家紋って何だっけ?」

「『丸に二つ引両紋』だね。『足利二つ引』とも言うけど。ちなみに新田家は『大中黒』もしくは『一つ引両紋』・『新田一つ引』と言うんだ。『太平記』には、新田軍に敗れた足利軍の兵士が、降伏した後に自分の笠符の『二つ引両紋』の間の白いところを黒く塗り潰して、『一つ引両紋』に直して京に連行されて行ったという話が伝わっているんだけど。」

「でも、そんな文様は何処にも描かれていないから、義詮本人とは違うわよね。さっき挙げた一族の中で、この家紋を使っているところは無いの?この家紋から、何処の家の人か分からないかなあ?」

「さっき挙げた一族のうち、細川・斯波・畠山・一色・吉良・渋川・石橋・今川・大崎・最上・桃井・上野は足利氏と同族だから、同じ『丸に二つ引両紋』を使ってるよ。」

「そうなんだ!」

「因みに、赤松氏は『二つ引両紋に左三つ巴』、京極氏と六角氏は佐々木氏だから『目結紋』、正確には京極氏が『平四つ目結』で六角氏が『隅立て四つ目』、山名氏は『五七桐七葉根笹』、上杉氏は『上杉笹』と呼ばれる『笹紋』、土岐氏は『土岐桔梗』と呼ばれる『桔梗紋』、大内氏は『大内菱』と呼ばれる『菱紋』を使ってるね。」

「よく知ってるわね。ところでさっきの佐々木氏っていうのは、宇治川の先陣争いをした佐々木高綱の子孫?それから石橋氏っていうのはひょっとして・・・」

「そう、ブリヂストンタイヤの創業家のご先祖様だよ。佐々木氏もほぼ君の推測通りだよ。こっちは正確に言えば、高綱のお兄さんの定綱の子孫なんだけどね。」

「やっぱり!」

 理英が嬉しそうな声を上げた。

「室町幕府の武将の中で、『花輪違紋』を使っていた有力な一族は、高氏・塩冶氏・萱生氏の3つくらいかな。塩冶氏は出雲の守護、萱生氏は大和の豪族だね。」

「高氏に塩冶氏?なんだか『仮名手本忠臣蔵』みたいね。」

「『仮名手本忠臣蔵』を知ってるの?」

「父が好きだから、自然と私の耳にも入るのよ。」

「いや、まさにその通りだよ。足利氏に近いとすれば、高師直・師泰兄弟や塩冶高貞くらいだからね。大和の萱生氏は、足利家との関係は薄いから、あまり聞かないね。」

「高氏・塩冶氏と足利将軍家、特に義詮との関係は、史実としてはどうなってるの?教えてよ。私の知っている『仮名手本忠臣蔵』はフィクションの筈だから、少し離れて考えたいんだけど。」

と、理英が冷静な意見を述べる。

「よく分かってるじゃない。まあ僕も南北朝について書かれた本を3~4冊と、小学校5年生の時に学校の図書室で、少年・少女向けに現代語訳された『太平記』を読んだくらいだけどね。今は父が買った吉川英治さんの『私本太平記』を読み始めてるんだけれど、まだ途中なんだ。」

「それでもマシよ。でも『太平記』って、南朝側に立って書かれてるんでしょ?」

「そう言われているけど、僕が読んだ感じではちょっと違うかな。」

「どう違うの?それも聞かせてよ。」

「分かった。それなら鎌倉幕府の滅亡辺りから説明するよ。その後で『太平記』についても説明するよ。」

 そう言うと永渕は、鞄の中から1冊のノートを取り出して開いた。永渕が尋ねる。

「鎌倉幕府がどうして滅んだのかは知ってる?」

「そりゃあ、知ってるわよ。福岡に住んでるんだもん。確か、元寇が引き金になったのよね?」

 そう言うと理英は、馬鹿にしないでよとばかりに無い胸を反らした。

「そうだね。1274年の文永の役と1281年の弘安の役、つまり2度に亘る元寇がきっかけで鎌倉幕府の衰退が始まるんだ。」

「元寇は対外戦争ではあっても防衛戦で、新たに領土を獲得した訳じゃなかったから、戦った御家人達に充分な恩賞が出せなかったのよね。」

「そうだね。後三年の役の後、私闘と判断されて朝廷から恩賞を貰えなかったうえに戦費の支払いまで拒絶された八幡太郎義家が、身銭を切って配下の武将達に恩賞を与えたことで源氏の名声を高めたっていう先例があったのに、そういうこともしなかったから、御家人たちの幕府に対する不満が高まったんだね。」

「でも、それだけが原因だったの?」

「もう一つ、鎌倉時代に行われていた、財産の諸子分割相続制度による窮乏があったって言われているんだ。」

「相続制度?」

 理英は初耳だと言わんばかりに、戸惑いの表情を浮かべた。

「そう。当時の鎌倉武士は分割相続制を採っていて、財産の中核部分は諸子のうちで最も能力があると見做された男子、つまり惣領に譲られていたけど、残りの所領は惣領以外の庶子・女子に分割して譲られていて、彼らはその所領で独立した生活を営んでいたんだ。」

「へえ、女性もちゃんと相続できたんだ。江戸時代よりも良い制度ね!」

 理英は感心したように言う。

「でも、この方法だと、代を重ねる毎に所領が細分化していって、御家人はどんどん貧乏になっていったんだよ。」

「そっか、だから徳政令を出したのね!」

「それに西国の御家人には、文永の役の直前の1271年から始まった『異国警護番役』っていう国境警備の仕事が加わったために、大番役は免除されたんだけど、経済的にも窮乏したんだよ。」

「確かに、侍っていうのは武装農民だから、軍人と同じことばかりしていたら生産には全く寄与しないもんね。所領からどれだけの収穫があるかが生命線なのに。」

と理英も同意する。

「しかも異国警護番役っていうのは、3度目の元寇も考えられたから、鎌倉幕府が滅びるまで続いたらしいんだけど、末期には非御家人にも課されたらしいんだ。」

「えっ!そもそも『御恩』がないのに?」

「うん。鎌倉幕府の御家人は、所領を認めて貰って『安堵』してもらうからこそ幕府に対する『御恩』が発生する訳で、その安堵された所領から得られた収入で御家人としての義務を果たすのが『奉公』なんだよね。これが大原則!。」

 確認するように永渕が説明する。

「でも、非御家人にはそもそも安堵して貰う所領が無い訳でしょう?どうして奉公しなければいけないの?奉公するとしても、その戦費をどうやって調達しろっていうの?」

 疑問が理英の口を吐いて出た。

「そう!そして大番役の免除の他に、そういった負担をどう軽減するかをめぐって、幕府の内部で対立が発生して『霜月騒動』が起きるんだ。」

「『霜月騒動』って?」

「1285年、つまり弘安の役の4年後に起こった鎌倉幕府の政変のことだよ。八代目の執権だった北条時宗が亡くなったのをきっかけに、有力な御家人だった安達泰盛と、内管領だった平頼綱が対立して、平頼綱の先制攻撃を受けた安達泰盛の一族が滅ぼされた事件だよ。その結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅して、得宗専制政治が確立するんだ。」

「ちょっと、待って!『得宗』って何よ?それに『内管領』っていうのも。」

 理英が慌てて永渕の説明を遮った。

「ああ、ごめんごめん。『得宗』っていうのは、鎌倉幕府の執権だった北条家の嫡流の家系のことだよ。『内管領』っていうのはその北条家の執事で得宗家に仕える武士の筆頭なんだ。『得宗の家政を司る長』という意味らしいね。」

「じゃあ、関東管領みたいな公的な役職じゃないのね?」

「『関東管領』のことは知ってるの?」

と、永渕が尋ねる。

「NHKで坂本九のナレーションが入る『新八犬伝』っていう人形劇を放送してたじゃない。あれに『関東管領扇谷定正』っていう敵役が出てきたわ。」

「へえ、あれ見てたんだ。」

 感心したように永渕が言った。

「面白かったわよ!でも、安達泰盛と平頼綱の対立って、単なる権力争いじゃないの?」

「そんな単純なものじゃないんだ。安達泰盛たちは、幕府は日本全体の政治責任を負うべきだという立場だったんだ。これに対して、平頼綱たちは、そもそも幕府というものは御家人を守り、彼らの利益を代弁する組織なんだから、御家人の利益だけを追求していれば良く、日本全体のことまでは責任を持てないっていう立場なんだ。」

「そっか、その延長線上にあるのが永仁の徳政令なのね?」

「そういうこと。」

「でも、御家人には他にも有力な人が沢山居た筈でしょう?『平家物語』には土肥実平とか梶原景時とかの名前が挙がっていたじゃない。」

「ひょっとして、1年生の時に国語の古典の授業で習った『敦盛の最期』のことを言ってるの?」

 永渕が逆に尋ねる。

「そう、確か『うしろをきッと見ければ、土肥・梶原五十騎ばかりでつゞいたり。』っていう文章が出てきたわ。」

「残念ながら、土肥氏は1213年に起こった『和田合戦』っていう反乱で和田義盛に味方して没落していたし、梶原氏はもっと前の1200年の『梶原景時の変』に際して滅亡しているよ。」

「本当?私、知らなかった。平家に勝った鎌倉方の武将は、みんな幸せな余生を送ったもんだとばかり思ってた。」

「いや、残念なことに北条氏以外は殆ど、鎌倉幕府成立後に没落しているね。だから安達氏は御家人たちの最期の頼みの綱だったんだ。『一将功成りて万骨枯る』ってやつさ。」

 永渕が溜息混じりに言う。

「それじゃあ、御家人たちの心が離れていっても仕方が無いわね。」

「でも、勝った筈の平頼綱も、1287年頃から恐怖政治を行うようになって、第9代執権の北条貞時を不安にさせるんだ。そして頼綱とは不仲だった嫡男の平宗綱の讒言を受けたことで、貞時は1293年の鎌倉大地震の混乱に乗じて襲撃を命じて、頼綱を始めとする一族93名を殺害するんだよ。これを『平頼綱の乱』もしくは『平禅門の乱』と呼ぶんだ。」

と、永渕はノートをチラチラと見ながら話を進める。

「因果応報って訳か。」

「そのおかげでこの後、失脚していた金沢氏や安達氏が幕府中枢に復帰し始めるんだ。」

「じゃあ、少しは期待が持てるようになったのかしら?」

と、理英が尋ねる。

「どうかな?そしてそれに天皇家の皇位継承問題が絡んでくるんだ。」

「皇位継承問題?」

 話が飛んだので、理英が不思議そうな顔をした。

「君は皇統図を見たことは無い?」

 永渕が尋ねる。

「確か歴史の資料集に載ってたのは覚えているけど、ちゃんと見たことは無いわ。」

「えっと、これだよ!」

 永渕は鞄の中をまさぐると、歴史の資料集を取り出して見せた。

「ここの後嵯峨天皇の所から見てごらん。不自然な皇位継承が続いているだろ?」

「本当だわ。本来なら自分の子供へと受け継がれるのに、ここからは兄弟で皇位を継承してる。ひょっとして、お兄さんの天皇が若死にした・・・・・・訳じゃなさそうね?」

「違う、違う!それなら、すんなり息子が即位する筈だよ。」

「ってことは・・・」

 理英も思い当たったらしい。

「そう、後嵯峨天皇は弟の亀山天皇の方に天皇の位を譲りたかったんだ。」

「でも、一体どうして?」

「それは今となっては分からないね。後嵯峨天皇は後深草天皇へ1246年に譲位した後、1258年には後に亀山天皇となる弟を皇太子にさせて、1259年には後深草天皇から亀山天皇へ譲位させるんだ。そして後深草天皇に皇子が生まれていたにも拘らず、1268年には亀山天皇の嫡男を皇太子にするんだ。そして、1272年に後嵯峨上皇は亡くなるんだけども、遺言書にも皇統をどう伝えるのかは明確に記してなかったんだ。」

「それは揉めるわよねぇ。」

「遺言書には、次代の『治天』の指名は、鎌倉幕府の意向に従うように、とだけ記されていたそうだよ。」

「『治天』って、何なの?」

 再び理英が尋ねる。

「ああ、『治天』っていうのは、正式には『治天の君』と言って、天皇家の家督者として政務の実権を握った上皇や天皇のことだよ。平安時代の後期に白河上皇が院政を始めたことで使われるようになった言葉だね。ほら、あの頃から複数の上皇が居るのが当たり前になっただろう?そのため、誰が実権者なのかを示す言葉が必要になったんだよ。」

「その『治天の君』には、上皇なら誰でもなれたの?」

「いや、資格があったらしい。まず、天皇位を経験してること。次に現在の天皇の直系尊属であること。だからお兄さんでは駄目なんだ。崇徳天皇は、鳥羽上皇の陰謀で養子にしていた弟の体仁親王、後の近衛天皇を譲位の宣命で『皇太弟』にされたため、治天の君にはなれなかったんだよ。だから『保元の乱』が起きたんだ。」

「へえ、そういう事情があったのね。」

 感心したように理英が言った。

「そしてこの時の裁定は、鎌倉幕府に持ち込まれるんだ。」

「鎌倉幕府はどういう風に決着をつけたの?」

「幕府としても困ったらしく、後嵯峨天皇の正妻で二人の母親だった大宮院という女性に照会してから、亀山天皇を治天の君に指名したんだ。」

「お母さんとしてはつらいところね。」

「そうだね。そして1274年に、亀山天皇は自分の嫡男である後宇多天皇に譲位をするんだけど、腹の虫が納まらないのが後深草上皇の方で、上皇としての待遇を辞退して出家しようとしたんだ。そのため、幕府は次の皇位継承に介入して、後深草上皇の息子の熙仁親王を後宇多天皇の皇太子に立てるんだ。これが後の伏見天皇で、後深草上皇も晴れて次の治天の君になれることになったんだ。これは『増鏡』によると、執権の北条時宗がひどく後深草上皇に同情した結果らしいよ。」

「北条時宗って元寇のせいで武張ったイメージがあるけど、こうしてみると優しいところがあるのね。」

「そうだね。そしてこの幕府の介入で、後深草と亀山の両系統が等しく皇位を子孫に伝えることができるようになり、かつ、自らは『治天の君』になる資格を持つことが確定したんだ。」

「ふ~ん。結構複雑な人間ドラマがあったのね。」

「因みにこれ以降、後深草天皇の血統を『持明院統』、亀山天皇の血統を『大覚寺統」と呼ぶんだけど、持明院は後深草の息子の伏見天皇が相続によって手に入れて御所にした建物、大覚寺は亀山の息子である後宇多天皇が出家後に住んだ寺院に由来するんだ。」

「つまり天皇家は完全に二つに割れちゃったってこと?」

「そういうことだね。そしてこの時、持明院統は長講堂領という荘園群を、大覚寺統は八条院領という荘園群を相続して、以後それぞれの財政基盤になるんだ。」

「ということは、どちらもちゃんと存続していけるだけの経済力も持っちゃったんだ。」

「ここで絡んでくるのが、さっきの『霜月騒動』なんだよ。」

「どういうこと?」

「亀山上皇は安達泰盛と親しかったため、平頼綱が掌握した幕府から猜疑の眼を向けられて、大覚寺統は動揺することになるんだ。」

「そっか、それは大変だわ!」

「そして1287年には、とうとう幕府から治天の君と天皇の交代を求められて、次に持明院統の伏見天皇が即位するんだ。そのうえ1289年には後深草上皇の皇子である久明親王が第8代征夷大将軍として鎌倉へ下向するんだ。」

「つまり後深草上皇が朝廷と幕府の両方を抑えちゃったのね。」

「そういうこと!だけど大覚寺統もこのままじゃ終わらないよ。伏見天皇は1298年に皇太子だった胤仁親王に譲位して後伏見天皇として即位させるんだけど、その次の皇太子の座を巡って大覚寺統が巻き返して、後宇多上皇の皇子である邦治親王が皇太子の座に着くんだ。この人が後に即位して後二条天皇になるんだよ。」

「なんだか、さすがにごちゃごちゃしてきたわね。」

と、理英が悩ましそうに眉を顰めて呟いた。

「おやっ?西施のつもりかい?」

 永渕がからかう。しかしそれを聞くと理英は、

「精子?永渕君のエッチ!」

と、勘違いして言い放った。慌てた永渕は、

「違う、違う!中国四大美人の西施のことだよ!『顰に倣う』って故事、知らないの?」

と抗弁した。それを聞くと理英は、

「ああ、なんだ、そっちのことか!咄嗟には頭に浮かばなかったわ。」

と頬を染めながら笑って答えた。誤解を解いて安堵した永渕は話を続ける。

「そして1301年に後二条天皇が即位した時に、執権の北条貞時は、持明院統と大覚寺統から交互に天皇を即位させることを、鎌倉幕府の公式方針として表明して、富仁親王を皇太子に指名するんだ。これが後の花園天皇だね。この原則を『両統迭立』と呼ぶんだよ。」

「ということは、どちらも待っていれば、いずれは皇位を継ぐことができるようになったってことよね。でも、それならどちらもその時期を早めようと、足の引っ張り合いをするんじゃない?」

「なかなか鋭いね。この後、どちらも鎌倉へ、今上天皇を早く退位させるように請う使者を出すようになるんだ。それだけじゃなく、いろんな噂を流して幕府が時の朝廷を警戒するように仕向けるんだ。」

「やっぱり、そうなっちゃうのね。」

 溜息混じりに理英が呟く。

「ところが、1308年に後二条天皇が急死して、富仁親王が即位して花園天皇になるんだけど、後宇多天皇はその皇太子に嫡孫の邦良親王ではなくて、第二皇子の尊治親王を選んだんだ。」

「えっ!一体どうして?」

「邦良親王が幼少で病弱だったからだと言われているけど、ひょっとしたら弟の恒明親王を推す勢力を牽制するためだったのかも、って言う人も居るね。」

「なんだか代が移る度に、どんどんこんがらがっていくわね。」

「まあ、こうして伏見→後伏見→後二条→花園と皇位は継承されていったんだけど、こういう事態に悩んだ幕府は、1317年になってとうとう、次回の皇位継承については、両統の協議で決めて使者の派遣は止めるように申し渡すんだよ。」

「鎌倉幕府も、さすがに鬱陶しくなったのね。」

「まあ、そういうことだね。この時の一連の出来事を『文保の和談』と呼ぶんだ。」

「でも、なんだか波乱の予感・・・」

と、理英が呟いた。

「そしてこの時の協議の場で、大覚寺統の後宇多上皇は皇太子の尊治親王に譲位することと、次の皇太子には邦良親王を就けることを求めたんだ。これに対して伏見上皇は花園天皇の退位は受け入れるんだけど、皇太子の件に関しては突っぱねて、後伏見天皇の皇子である量仁親王を皇太子に立てることを求めて、一旦は決裂するんだ。」

「そりゃ、そうよね。」

「しかし、同じ1317年に伏見上皇が亡くなると、大覚寺統が優勢になっちゃって、結局は後宇多上皇の要求が通って、次の皇太子に量仁親王を立てることを交換条件に邦良親王が皇太子になったんだよ。」

「大覚寺統の主張が通っちゃったのね。」

「そして、いよいよ1318年には尊治親王が即位して後醍醐天皇になるんだけれど、実は後宇多上皇は邦良親王を自分の正当な後継者と考えていて、後醍醐天皇のことは『一代主』、つまり一代限りの中繫ぎとしか考えていなかったんだ。」

 それを聞いて理英が驚く。

「えっ!そうなの?」

「実は持明院統における花園天皇も同じ様に中継ぎの立場だったんだけれど、この人は非常に温厚な性格で自分の置かれた立場を従順に受け入れたんだ。」

「う~ん、本当はそういう人にこそ『治天の君』になって欲しいのにね・・・」

「ところが後醍醐天皇は自らの立場に納得できず、強い不満を抱いて激しく反発するんだ。逆に持明院統を潰したうえで、同じ大覚寺統でも自分の子孫だけで皇位を独占しようと画策するんだ。」

「もう私利私欲の塊みたいな人じゃない!」

「だから1324年に後宇多上皇が亡くなると、後醍醐天皇と邦良親王の関係はたちまち険悪になってしまうんだ。」

「ここまでの流れからすると、当然そうなるわよね~。」

「1324年に後宇多上皇が崩御すると、後醍醐天皇は早速行動に出るんだ。つまり鎌倉幕府を倒そうと計画するんだ。」

「えっ!どうしてそうなるの?」

「さっきも言ったように、後宇多上皇は、後醍醐天皇を邦良親王が成長するまでの中継ぎと考えていて、後醍醐の系統が皇位を継ぐことを許さなかったんだ。そして、後宇多上皇から譲られた所領も邦良親王に渡すことになっていたんだよ。」

「でも、それだけだと直接には倒幕には結びつかないと思うけど・・・」

「そりゃあ、この措置は持明院統との了解事項にもなっていたし、鎌倉幕府もこれを認めていたんだ。後醍醐天皇は花園上皇とは違って『一代主』の立場を甘受することも、自らが理想とする政策を実現することも出来なかったんだ。だから、現状を突破する唯一の方法という側面もあるけど、それだけでなく皇位を自分の血統で独占するために、武力による既存の秩序を破壊する方法を選んだんだ。」

「なるほど!『一代主』の約束を反故にするのに、持明院統や鎌倉幕府の存在が目障りになっちゃったのね。でも、我儘だなあ!」

「そういうこと。そこで後醍醐天皇は、側近の日野資朝や日野俊基と共に倒幕計画を立てて、武力を持っている土岐頼員や多治見国長を自分の陣営に引っ張り込むんだ。」

「日野資朝って、あの吉田兼好の『徒然草』に出てくる、老いさらばえた尨犬を引っ張ってくる人?」

「そうだよ。よく覚えてるね!」

 そう言うと永渕は、驚いた表情を浮かべた。

「一応授業でやったもの。でも、結構変わった人よね。」

「そう?僕は先入観に惑わされないところや剛毅なところが気に入ってるけど・・・それに京極為兼の姿を見て呟く思いには、男として理解できる部分もあるけどね。せっかく生まれてきたのに、『沈香も焚かず屁もひらず』じゃあ寂しいよねぇ。」

「私から見たら、そんなことを言う永渕君も十分変わってると思うわ!それから後醍醐天皇たちはどうなったの?」

「決行の直前になって、土岐頼員が寝物語で妻に口を滑らせちゃって露見するんだ。」

「土岐頼員の妻って?」

「彼の妻は六波羅探題・評定衆の奉行を務めていた斉藤利之の娘だったから、それを聞いた妻が父親に知らせたんだよ。」

「そういうことか~。それで、それで?」

「決行の四日前に多治見国長と土岐頼員の一族の土岐頼兼は討ち取られるんだけど、後醍醐天皇は命令通りに動いた部下たちを見捨てて、あれは部下たちが勝手にやったことだと申し開きをするんだ。」

「保身に走ったのね。最低!」

「そこで幕府は黒幕が誰なのか判っていたにもかかわらず、事を荒立てることを避けて、日野資朝を佐渡へ島流しにすることだけに留めたんだ。これを『正中の変』って呼ぶんだ。」

「結局、失敗しちゃったのね。」

 理英が嘆息する。

「でも後醍醐の運は尽きていなかったらしく、この直後の1326年には皇太子だった邦良親王が亡くなっちゃうんだ。」

「じゃあ、後醍醐天皇の念願通りに我が子を皇太子にできたってこと?」

「いや、そういう訳じゃ無いよ。さっきも言ったけれど、後宇多上皇と後伏見上皇の間の約束があったから、量仁・恒明・邦省・尊良の四人の親王で皇太子の座を争った挙句、鎌倉幕府の裁定で量仁親王が皇太子になったんだよ。」

「まだ三人もライバルが残って居たのね。我が子を皇太子にできなかった後醍醐天皇は、さぞ不満だったでしょうね。」

「でも『正中の変』の直後だったから、幕府の裁定を受け入れざるを得なかったんだ。」

「政治状況が許さなかったのね。でもよく辛抱したわね!」

「しかし、その辛抱も長くは続かないよ。後醍醐天皇は再び1331年に武力倒幕計画を立てるんだ。」

「懲りないのね!」

と、理英が声を上げた。

「実は両統迭立における天皇の在位は、概ね十年という暗黙の了解が存在してたんだ。後醍醐天皇が即位したのは1318年だから、もう時間的な猶予が無かったんだよ。」

「今度は上手くいったの?」

「いいや、これもまた仲間の密告で露見するんだ。この時は後醍醐天皇側が、寺社に対して積極的に働きかけたうえ、延暦寺には護良親王を天台座主として送り込んで掌握したんだ。だけど1331年に、側近の吉田定房が六波羅探題に密告して露見するんだ。」

「またなの?」

 理英は呆れた様な声を上げた。

「さすがに二回目は鎌倉幕府も放っておけなくて、追討使を派遣するんだ。二条為明・文観・忠円ら関係者が捕縛されて、苛烈な拷問の末自白するんだけど、後醍醐天皇は司直の手が及ぶ前に、側近の公卿数名と三種の神器を持ったまま京都を脱出して、笠置山に立て籠もるんだ。」

「鎌倉幕府もとうとう本気になったってことね。」

 そう言うと理英は左手を顎にそえた。

「その際全国各地に檄を飛ばすんだけど、これに呼応した非御家人のうち、河内国で挙兵して赤坂城に立て籠もったのが楠木正成なんだ。この一連の事件を『元弘の変』と呼ぶんだよ。」

「挙兵したのは、楠木正成だけじゃないんでしょう?」

「他にも、三河国の御家人だった足助重範や備後国の桜山四郎なんかも呼応してるね。」

「楠木正成以外は聞いたことも無い人たちだわ。思ったよりも、陣容が薄いわね。それで後醍醐天皇に逃げられた追討使たちはどうしたの?」

「後醍醐天皇が京都を脱出すると、鎌倉幕府は京都を制圧して本人不在のまま後醍醐天皇を廃位するとともに、量仁親王を光厳天皇として即位させて、後伏見上皇の院政を再開させるんだ。けれど、後醍醐天皇も邦良親王も居なくなって大覚寺統は壊滅状態になったのに、持明院統側は皇位を独占せずに両統迭立の原則に従って、邦良親王の第一皇子である康仁親王を皇太子に据えるんだよ。」

 理英はハァーっと深い溜息を吐くと、ポツリと言った。

「何だかここまで見てきた限りでは、持明院統の態度の方が立派ね!」

「京都を脱出して笠置山に立て籠もった後醍醐天皇たちは、六波羅探題の軍勢と小競り合いを続けていたんだけど、幕府軍が風雨に乗じて笠置寺に火を放ったことで大混乱に陥いるんだ。後醍醐天皇一行は何とか脱出するんだけれど、途中で捕われて、本人は謀反人として隠岐の島に流されたし、日野資朝と日野俊基は処刑されてしまうんだ。」

「でも、それで一巻の終わりって訳じゃあないんでしょう?」

「そうだね。幕府軍は笠置山攻略後、河内国へ向かって赤坂城を攻めて、1週間位で落城させるんだけど、楠木正成と護良親王は捕まらずに逃亡して潜伏しちゃうんだ。そして1332年の6月に伊勢国で竹原八郎入道が護良親王の令旨を受けて挙兵したのを皮切りに、11月には護良親王自身が吉野で討幕の兵を挙げ、12月には楠木正成が赤坂城を奪回した上で金剛山に千早城を築くんだよ。」

「皮切りってことは、今度は他にも挙兵した武将が居るの?」

「そうだね。護良親王の令旨に呼応した勢力が、各地で蜂起したみたいだね。播磨国の赤松則村・伊予国の土居通増と得能通綱・陸奥国の結城宗広・出雲国の塩冶高貞・肥後国の菊池武時・紀伊国の粉河寺の僧兵たち、と結構多いよ。」

「でも確か、護良親王と楠木正成は幕府軍に攻められて落城するんじゃない?」

「うん、そうだけど、その間に後醍醐天皇は隠岐の島を脱出して、伯耆国の名和長年の拠点である船上山に迎えられるんだ。ここを隠岐国の守護だった佐々木清高が攻めるんだけど、返り討ちにされてしまうんだ。」

「じゃ、ひょっとして・・・」

「そう、そこで幕府軍は名越高家と足利高氏を増援として送るんだけど、名越軍は赤松軍に惨敗し、足利軍は丹波国篠村へ向かうと反旗を翻すんだよ。」

「それからどうなったの?」

「それまで数で優っていた幕府軍だったんだけど、足利軍の寝返りで兵力差が無くなって、討幕軍の方が優勢になっていくんだ。」

「でもこの時の幕府軍って、六波羅探題の兵だけじゃないの?」

「そうだよ。六波羅探題の北条仲時と北条時益は、持明院統の皇族を連れて鎌倉へ下ろうと、京都を脱出するんだけど、落ち武者狩りの野伏たちに襲われて時益が討ち死に、仲時も蓮華寺で自刃するんだ。これで六波羅探題は一巻の終わり、って訳さ。」

「じゃあ幕府の本軍って訳じゃあないのか。でも、これで畿内は後醍醐天皇の支配下に置かれちゃった訳ね。」

「そうだよ。そして六波羅探題が陥落したのと同じ日、関東でも上野国で新田義貞が挙兵するんだ。尤もこの段階では、兵力は150騎程度だったけどね。」

「そんなに少なかったの?」

 再び理英が驚く。

「うん、だから道中で越後国・信濃国・甲斐国の諸将の軍勢と合流していって、兵力を増強するんだ。足利高氏の子の千寿王(足利義詮)もこの頃に合流しているね。そして兵力を増した新田軍は、『小手指原の戦い』・『久米川の戦い』・『分倍河原の戦い』の三つで幕府軍を破って、怒涛の勢いで鎌倉に迫るんだ。」

「でも鎌倉は幕府の本拠地だから、軍勢は沢山居たんじゃないの?それに鎌倉って、守り易く攻め難い土地だって聞いてるわ。」

「確かに鎌倉は三方を山に囲まれ、残る一方は海に面しているからね。そこで義貞は、守りの兵を置いていない海側から攻めたんだ。具体的に言うと、干潮の時に浜伝いに海を渡って鎌倉へ侵入したんだ。」

「幾ら人数が多くても、背後から攻められたらひとたまりも無いわね。」

「そうだね。実際に北条軍は総崩れになって、総大将の北条高時は菩提寺の東勝寺で、一族や家臣と共に自刃したんだ。これによって鎌倉幕府は滅びたんだ。」

「でも、それで大団円って訳にはいかなかったんでしょう?」

「そうなんだよ。六波羅探題陥落で大混乱になった京都市中は、足利高氏が治安の回復に努めていたから、京都に戻った後醍醐天皇は、持明院統の公卿を一掃して、光厳天皇の即位も無かったことにして、直ぐに親政を開始したんだ。これを『建武の新政』と呼ぶんだけど、公家一統の政治と綸旨万能主義を採ったため、日本中が大混乱に陥るんだ。」

「ところで、『建武の新政』が短期間で失敗したのは、旧態依然とした摂関時代の政治を復活させようとしたことが原因って言われているけど、本当なの?」

 理英が確認のために話題を転じた

「う~ん、それもちょっと違うかな・・・それは後醍醐天皇の治世下の世相を評した『二条川原の落書』の影響もあって、そう言われているんだけど・・・」

「『二条川原の落書』って、あの『此比都ニハヤル物、夜討強盗偽綸旨、召人早馬虚騒動・・・』っていうあれよね?」

「でも、あれは後醍醐天皇の新政権に不満を持つ人間による時勢批判だから、そのまま受け取るのは危険なんだよ。少なくともこの落書の作者は、建武政権の恩恵を受けない貴族か官人と思われるから、少し割り引いて考えた方が良いと思うんだ。」

「じゃあ、どう違うの?」

「後醍醐天皇が『新政』のお手本にしたのは、中国の、しかも宋の時代の中央集権国家なんだよね。そしてそのために後醍醐天皇が採ったのは、家格の序列や官位の相当規定を否定するという形の政策なんだよ。既存の身分制度や世俗的な序列を一旦破壊して、天皇が全ての民の上に等しく君臨するという『一君万民』型の統治を目指してたんだ。大半の公家にしてみたら、出自・家柄・門閥に根差した身分制度や既得権益の全否定になったから、堪ったもんじゃなかったんだろうね。」

「じゃあ単純に、旧態依然とした摂関時代の政治を復活させようとした訳じゃあないのね。」

「因みに、北畠顕家っていう南朝の有力な武将は、『石津の戦い』で戦死する七日前に、後醍醐天皇に宛てて諫奏状を書いてるんだ。これは憂国の心情を吐露した名文とされているんだけれど、これに『建武の新政』が失敗した理由が、建武政権への批判という形で述べられているんだよ。」

「どんな内容なの?」

「記されている批判は全部で七つあるんだ。掻い摘んで言うと、


 1.奥州鎮守府と同じような機関を、西国にも設置すること。

 2.租税を免除し、倹約に専念すること。

 3.官職をみだりに与えないこと。

 4.賞罰は公平に行うこと。

 5.行幸や宴会を慎むこと。

 6.法令を遵守すること。

 7.無能な側近を排除すること。


の七つだよ。また、これ以外にも、朝令暮改が甚だしい為に民心が安定しない、とも言ってるね。」

「何となく全部納得してしまいそうな気がするけれど、そういう訳じゃないのよね?」

「後醍醐天皇は良いこともしてるんだよ。官職や位階については、実力を重視し家格の伝統を軽視した人事を行っているんだ。でもそれが、お父さんの影響を受けた北畠顕家には気に入らなかったんだろうね。」

「どういうこと?お父さんの北畠親房は南朝の重臣で、権勢を振るっていたんじゃないの?」

「違うよ。北畠親房はむしろ、後醍醐天皇の下では冷遇されていたんだよ。」

「えっ?!」

 三度理英が驚く。

「『太平記』で北畠親房が、『万機悉く北畠入道源大納言の計らひとして、・・・』って言われる様な権力を発揮したのは、後村上天皇の時代になってから、つまり後醍醐天皇の死後のことなんだよ。」

「そうなの?」

「北畠親房の言う『公家一統の世』というのは、『公家の御政にかへるべき世』のことだって『神皇正統記』にも書いてあるんだけど、これは言葉は同じでも後醍醐天皇の目指したものとは大きくかけ離れているね。特に『北畠家』は公家の中でも貴顕と呼ばれる『清華家』の出身だからね。」

「『清華家』って?」

「公家の家格の一つで、最上位の摂家に次ぎ、大臣家の上の序列に位置するんだ。大臣・大将を兼ねて太政大臣になることのできる家柄で、ここまでは娘を皇后にすることができたんだ。」

「ははあ、段々分かってきたわよ。じゃあ、『官職をみだりに与えないこと』って言ったのも・・・」

「そう、『任官登用」は飽くまでも『先祖経歴』の先例に従うべきだってことなんだよ。だから顕家は、成り上がり者や武士たちが先祖の卑しい経歴を顧みずに要職に就くのは上下の秩序を乱す僭上もとだって言ってるし、戦功があってもその家柄でない者には、官位や官職ではなく俸禄や田畑を与えるべきだって言ってるんだよ。」

「それもお父さんの影響なの?」

「だと思うよ。だからお父さんの北畠親房は5年間、関東の武士達を南朝方にしようと頑張るんだけれど、それが失敗した原因は、東国武士達の再三にわたる官位の要求に対して、任官叙位の先例や故実を引き合いに出して、全く要求に応じなかったことだと言われてるんだ。」

「つまり二条河原の落書も諫奏状も、任官叙位の先例を墨守して、権門としての既得権益を守ろうとする人間の言葉だってことね。」

「そういうこと!飲み込みが早いね。」

「だけど鼻持ちなら無いエリート意識ね!」

「なかなか手厳しいね。」

「恩賞にも依估贔屓があったって聞いたけど・・・」

と、理英が尋ねる。

「うん。公卿には手厚い恩賞が与えられたのに、武士たちには満足のいく恩賞が与えられなかったんだ。特に赤松則村は元々持っていた佐用荘を与えられただけで、播磨国の守護も着任すると早々に罷免されたんだ。」

「でも足利高氏だけは違ったのよね?」

「足利高氏は、論功行賞で武蔵・相模・伊豆の三国の守護になるんだ。更に後醍醐天皇の諱『尊治』から偏諱を賜って、『尊氏』と改名するんだ。そして鎌倉将軍府には成良親王が派遣され、弟の足利直義が補佐役に就くんだ。」

「それじゃあ、関東は足利家の支配下に入ったも同然じゃないの?ところで、『偏諱』って何なの?」

「本来、上位者が下位者に対して諱のうち一字を与えることだけど、中世以降は主君から家臣に対して、特別な恩恵として自分の諱の一文字を授与したんだ。大抵は名前の下の字を貰って、自分の名前の上に付けるんだけどね。」

「だから同じ時代に似たような名前の人が固まるのね。覚え難いったらありゃしない。」

と、理英は愚痴を零した。

「でも後醍醐天皇は足利尊氏を背後から牽制するために、奥州将軍府も設置して義良親王と北畠顕家を派遣したんだ。だから、その歪みは足利尊氏と護良親王の反目という形で露呈することになるんだよ。」

「確か尊氏が、阿野廉子に讒言するのよね?」

「そう!1334年に足利尊氏は、後醍醐天皇の側室の阿野廉子に、護良親王が皇位を奪おうとしていると讒言するんだ。阿野廉子は我が子の義良親王に皇位を継がせたかったから、渡りに船だったんだ。そして護良親王は結城親光と名和長年に捕らえられて鎌倉へ護送され、足利直義に身柄を引き渡されるんだ。」

「そしてその直後に殺されるんじゃない?」

「正確にはちょっと違うよ。1335年になって信濃国で諏訪頼重が、北条高時の遺児である北条時行を擁して反乱の兵を挙げたんだけれど、これがあっという間に大軍勢になって鎌倉を目指すんだ。足利直義を中心とした鎌倉軍は女影原の戦いで大敗を喫して三河国まで撤退することを決めるんだけど、その際敵に奪われては厄介だと言わんばかりに、独断で家臣の淵辺義博に幽閉先の東光寺で護良親王を殺害させるんだ。」

 それを聞いた理英が、思わず眉を顰める。

「惨いわね。護良親王はさぞ足利尊氏を恨んだことでしょうね。」

「でも『梅松論』の記述に拠れば、鎌倉へ送られてからの護良親王は、足利尊氏よりも後醍醐天皇の方を深く恨んでいたらしいよ。」

「実の親子なのに、深い溝ができてしまっていたのね。」

と、理英は溜息を吐いた。

「その後、北条時行軍は鎌倉を制圧すると、相模国と駿河国でも直義軍を敗走させるんだ。直義は三河国まで逃れると、京都に援軍を要請するんだよ。尊氏はすぐに軍勢を集めて出立の手筈を整えるとともに、後醍醐天皇に征夷大将軍と惣追捕使の職を求めるんだけど、後醍醐天皇はこれを拒否するんだ。」

「どうして?後醍醐天皇の周りで、そういう軍事的なことができるのは、護良親王しか居なかった訳でしょう?だったら、代わりに楠木正成か新田義貞に討伐を命じるとか・・・」

「でも二人の動かせる兵力じゃあ、高が知れてるよ。」

「じゃあ、どうなったの?」

「尊氏は後醍醐天皇の許しを得ないまま、三河国へ出発するんだ。後醍醐天皇は驚いて、後付けで『征東将軍』の官職を与えるんだ。」

「『征夷大将軍』じゃなかったの?」

「『征夷大将軍』という官職には、もう特別な意味が宿っていたからね。だけど時行軍も援軍の到来を見越して、3万の軍勢を上京させるんだ。そして両軍は遠江国で激突し、足利軍が勝って鎌倉を奪還するんだよ。この一連の出来事を『中先代の乱』と呼ぶんだ。」

「でも、これでめでたし、めでたしって訳じゃないわよね?」

「うん。戦が終わると後醍醐天皇は尊氏に帰京を促すんだけど、弟の直義がそれを止めるんだ。生命が危ないって。」

「どういうこと?」

「このとき尊氏たちは戦功のあった諸将に恩賞を与えるんだけど、これが綸旨万能主義を否定するものだったんだ。だから後醍醐天皇は怒っていたし、尊氏に帰京の意思無しと見ると、新田義貞に軍勢を与えて尊氏・直義兄弟の討伐を命じるんだ。」

「当然尊氏は受けて立った訳でしょう?」

「いや、尊氏には朝廷に刃を向ける気なんてさらさら無くて、逆に叛意が無いことを示すために出家しようとするんだ。」

「ええっ?!」

「そこで仕方なく直義が軍を率いて、三河国・遠江国・駿河国と次々と戦場を変えて戦うんだけど、全部負けちゃうんだ。」

「一大事じゃない!」

 理英が声を上げる。

「さすがに尊氏も放って置けなくなって、足柄峠まで出陣して義貞軍と激突し、逆に3連勝して義貞を撤退させるんだ。この時、新田軍にいた大友貞載と塩冶高貞が裏切ったのが、義貞の敗因と言われているんだよ。」

「なるほど!」

「敗れた新田義貞は尾張国で軍を立て直そうとするんだけど、讃岐国・備後国・備前国・丹波国・安芸国でも尊氏に呼応する者が現れて、京都に呼び戻されてしまうんだ。でも後醍醐天皇たちは京都を捨てて比叡山へ逃げ込んじゃったから、尊氏はすんなり京都に入っちゃうんだけど、直ぐに新田義貞・楠木正成・北畠顕家に挟み撃ちにされて敗走し、九州へ落ちるんだ。」

「慌しいわねえ。」

「でもこの時、赤松則村の進言で、光厳上皇による新田義貞追討の院宣を入手したんだ。これで朝敵という汚名を回避するとともに、大義名分を手に入れるんだ。」

「それで九州に上陸した尊氏はどうなったの?」

「少弐家や島津家・大友家の支援を受けた尊氏は、『多々良浜の戦い』で菊池武敏・阿蘇惟直の連合軍に勝利すると、九州を掌握して、再び京都に向けて攻め上るんだ。」

「その間、後醍醐天皇たちは何をしてたの?」

「新田義貞に尊氏追討を命じて九州に向けて出陣させたんだけど、赤松則村の立て籠もる白旗城で足止めを食うんだよ。『太平記』では、新田義貞が匂当内侍との別れを惜しんで出陣が遅れたってことになってるけど、それは飽くまでもフィクションだからね。匂当内侍が実在の人物であることすら怪しいらしいよ。」

「じゃあ、そんな人は存在しなかったの?」

 理英が残念そうに尋ねる。

「少なくとも実在を証明できる史料は残ってないみたいだね。」

「夢が無いわねぇ。」

「そのため、尊氏は海路で、直義は陸路で京都へ進軍するんだけど、無人の野を行く勢いだったから、義貞は兵庫まで退くんだ。義貞からの報せを受けた後醍醐天皇は、楠木正成からの献策を却下して、援軍として兵庫行きを命じるんだけど、正成はこの時の『湊川の戦い』で敗れて、弟の正季と刺し違えて自害しちゃうんだ。このときに正季が


 『七生までも、ただ同じ人界同所に託生して、つひに朝敵をわが手に懸けて亡ぼさばやとこそ存じ候へ』


という有名な科白を吐くんだよ。」

「だから楠木一族は忠臣って言われてるのね。」

「幕末にはこれに『国に報いる』の意が加わって、『七生報国』という言葉が生まれるんだ。正成たちの敗報を聞いた後醍醐天皇は三種の神器を持って一旦比叡山へ逃げるんだけど、尊氏の和睦案を受け入れて京都に戻り、持明院統の光明天皇へ譲位するんだ。けれども、新田義貞は恒良親王と尊良親王を連れて越前へ落ち延びたうえ、後に後醍醐天皇も京都を脱出して、吉野に入って『南朝』を開くんだ。これが南北朝の始まりだね。」

「なんだか往生際が悪~い!」

「光明天皇を擁立した足利尊氏は征夷大将軍にはなってなかったんだけど、1336年に建武式目を制定したことをもって室町幕府の成立と見做されているんだ。そしてこの頃から、政治は足利直義が、軍事は高師直が取り仕切るようになったんだ。足利直義は、適切な人事と公明正大な賞罰を追求するとともに、秩序を重んじて狼藉や賄賂を禁じたんだよ。」

「良い話ね!でもそれじゃあ、皇族や公卿は良くても、悪党なんかは反発したんじゃない?」

「そうだね。特に佐々木道誉を始めとする婆娑羅大名たちは不満だったようだよ。でもこの時はまだ南朝方も勢いがあったから、幕府内の不和は表面化しないんだ。恒良親王と尊良親王を奉じて越前へ落ち延びた新田義貞は、1336年に金ヶ崎城に入るんだけど、翌年の留守中に高師泰に攻められて落城し、尊良親王は自害、恒良親王は捕縛という破目に陥るんだ。」

「じゃあ、もう南朝はジリ貧なんじゃない!」

「でも義貞は、1338年までには勢力を回復させて金ヶ崎城を奪回するんだよ。そこで越前国守護の斯波高経は義貞軍の離間を図って平泉寺の僧兵を籠絡して義貞を牽制し、閏7月に『灯明寺の戦い』で義貞は討たれてしまうんだ。」

「『離間』ってなに?」

「『離間』っていうのは『離間計』のことで、中国の戦術の一つさ。敵方の仲を裂くことで、戦局を打開する戦術のことなんだよ。心理戦の一種で、相手となる敵方の関係を内部から崩して漁夫の利を得るものなんだ。有名なのは、呉越争覇戦で越の范蠡が呉の大宰の伯嚭を使って呉王夫差に讒言させて、伍子胥を自害に追い込んだ例と、斉の田単が間者を使って燕の恵王に讒言し、即墨を攻めていた楽毅を亡命に追い込んだ例があるね。」

「田単って、あの『火牛の計』の将軍?」

「『火牛の計』なんて、よく知ってるね。」

「それも昔『新八犬伝』でやってたのよ。役行者が犬山道雪に、城攻めで『火牛の計』を使うように、田単と木曽義仲の名前を出してヒントを与えるシーンがあったの。」

「なるほど、木曽義仲も『治承・寿永の乱』の際に『倶利伽羅峠の戦い』で『火牛の計』を使ってるからね。」

「でも、そろそろ南朝も万策尽きたって感じになってきたわね。」

「うん。南朝の武力のもう一つの要が陸奥国へ赴いた北畠顕家なんだけど、1336年の暮れに後醍醐天皇から上洛要請が届くんだ。けれど東北の情勢も厳しくて、翌年の8月になってようやく、結城宗広・伊達行朝・南部師行等の武将と共に上洛の途に着くんだ。12月に小山城を落とすと、利根川と安保原で幕府軍を蹴散らして鎌倉を制圧するんだ。そして1338年に鎌倉を出発して美濃国の青野原で土岐頼遠・今川範国・吉良満義らと戦って勝つんだけれど、その後真っ直ぐ近江国には向かわずに、父の北畠親房の居る伊勢国に入って、幕府軍に陣営を立て直す時間的な余裕を与えてしまうんだ。」

「痛恨の判断ミスね。どうしてそんなことをしたのかしら?」

 理英が不思議そうに訊いてきた。

「それは、『青野原の戦い』は実態としては負けていたか、勝っていたとしても作戦の継続が難しいほど兵力の損耗が酷かったのかもしれないね。北畠顕家の戦略目標は『京都奪還』だったんだけど、それを放棄せざるを得なかった以上、戦略的には『敗戦』で間違いないと思うよ。」

「それじゃあ、顕家を責められないわね。」

「そして尊氏の派遣した桃井直常に『般若坂の戦い』で敗れると、河内国へ逃げ込むんだ。顕家は態勢を立て直して摂津国で細川顕氏軍を破り、和泉国へ入って楠木一族と合流しようとするんだけど、幕府側は高師直を出陣させて細川顕氏と合流させ、山城国で戦って顕家軍を破るんだ。長期遠征の疲労に加えて、畿内に入ってからの連敗で顕家軍の士気が下がったうえに、日和見していた勢力が雪崩を打って幕府側に付いちゃうんだ。その後、『阿倍野の戦い』でも幕府軍が勝つと、とうとう5月には『石津の戦い』で顕家は討ち取られてしまうんだよ。」

「これで南朝はもう風前の灯火ね?」

「そんな感じだね。これで南朝は急速に勢力が衰えて、劣勢を跳ね返せなくなるんだ。そしてとうとう1338年の8月には、尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命されるんだ。」

「そのときまで征夷大将軍にはなってなかったの?」

「そうだよ。そして逆に吉野の後醍醐天皇は、1339年の夏に病に倒れるんだ。南朝勢力が衰えていくのと軌を一にするように、後醍醐天皇の病状も悪化して、8月15日に義良親王を皇太子に指名すると、翌日には崩御して、後村上天皇が即位するんだ。」

「幕府側としては、大喜びだったでしょうね。」

「そうでもないよ。足利尊氏は謀反を起こしたつもりは無いから、後醍醐天皇を悼んで等持院で法会を催したうえに、天竜寺船によって資金を用立てて、京都に天竜寺を創建して後醍醐天皇を弔ったんだよ。」

「こうして聞いてみると、足利尊氏って悪い人には思えないわ。」

と、理英は自分の感想を述べた。

「僕もそう思うよ。この後も足利尊氏は偏諱を賜った諱を、そのまま使い続けるんだ。」

「本当は後醍醐天皇に深い敬愛の念を抱いていたのね。」

「そしてこの段階で南朝側の勢力範囲は、北畠親房の居る関東もほぼ幕府軍に制圧されてしまい、懐良親王が奮戦していた九州くらいになってしまうんだ。1347年には、それまで雌伏していた楠木正行・正時兄弟が河内国で挙兵して、藤井寺で細川顕氏軍を、住吉で山名時氏軍を破るんだけれども、幕府は高師直・師泰を派遣して、1348年の正月には『四条畷の戦い』で正行・正時兄弟も討ち取られるんだよ。」

「もう南朝を守る武将が居なくなったんじゃない?」

「そうだよ。だから四条畷で正行・正時兄弟を討ち取った高師直・師泰兄弟は、返す刀で南朝の本丸だった吉野へ兵を向けるんだ。その直前に後村上天皇ら南朝一行は大和国の賀名生という所にまで御所を移すんだ。師直・師泰兄弟は、もぬけの殻になった吉野の行宮に放火して、殿舎仏閣が悉く灰燼に帰するんだ。」

「もう敗色濃厚って感じだけど、南北朝はまだしばらく続くのよね?どうして?」

「ここで役者がもう一人登場するんだよ。尊氏の一夜妻が生んだ妾腹の子で、足利直冬という武将が居たんだ。この直冬っていう人は長く尊氏の実子とは認めてもらえなかったうえ、尊氏は直冬に冷淡な対応をとったため、見かねた直義が直冬を養子に迎えてたんだ。」


 永渕はそこでいったん言葉を切ると、先ほど鞄の中から取り出した日本史の資料集のページを捲って理英に示した。永渕があるページを開くと、そこには足利氏の系図と高氏の系図が載っていた。足利氏は、義康から貞氏までは略されていて一本の線で繋がっていたが、貞氏まで来ると尊氏と直義に分かれ、尊氏の下には直冬・義詮・基氏の3名の名が記されていた。また直義の下には養子という注意書きをつけて直冬の名があり、さらに如意丸(如意王)という名が横に記されていた。幼名らしいので、夭折したのだろうと理英は判断した。

 さらに次のページには高氏の系図があり、天武天皇から惟重までは足利氏と同じように略されていて一本の線で繋がっていたが、重氏の下は師氏と頼基の2本の系統に分かれていて、後者には「南氏」と注意書きがついていた。師氏の下はさらに4つに分かれていて、師行の下には師秋と師冬に分かれ、師重の下は師直・師泰・重茂・師久に分かれ、師春の系統は師兼で止まり、師信の系統は師幸、師秀で止まっていた。

 高師直の下には、師夏と師詮の名があり、さらに養子と注意書きがついて師冬の名が並んでいた。師泰の下には久俊・師世・久武・師武・師次の名とともに師秀の名が養子の注意書きとともに並んでいた。しかし理英が一番面食らったのは、足利氏の系図には全て生没年が記されていたのに、高氏の系図には生年が入っていなかったのである。高重茂に至っては、生没年不詳となっていた。理英はつい、これでは誰が何歳まで生きたのか分からないなあ、と思ってしまった。


「その直冬が1348年に、まだ南朝勢力の強い紀伊国の反乱討伐の院宣を受けて、甚大な被害を出しながらも大激戦の末に南朝勢力を一掃することに成功するんだ。これを受けて1349年には、中国地方の8か国を管轄する中国管領に任命されて備後国の鞆へ向かうんだけれど、その間に幕府の内紛が勃発するんだよ。正確には、政治を担当していた足利直義派と、軍事を担当していた高師直派の間に軋轢が生まれて、修復ができない状態になるんだ。」

「南朝の勢力が弱体化したことで、相対的に幕府の勢力が安定したんでしょうけど、それで統制が緩んじゃったのね。」

「その通りだよ。そして、その1349年の閏6月に、足利直義が上杉重能・畠山直宗・禅僧の妙吉と共に尊氏に対して、高師直の悪行を糾弾と、朝廷への出仕停止と執事職の罷免を要求して、これを受け入れさせるんだ。これに対して高師直は、河内の軍勢を率いて上洛してきた師泰と合流して、直義一派を威嚇したため、直義らが尊氏の屋敷つまり御所へ逃げ込むんだ。師直軍が尊氏の屋敷を包囲すると、直義派の石塔頼房・上杉重能・畠山直宗らが軍勢を率いて救援に駆け付けたんだけれど、師直軍の方には仁木頼章・佐々木道誉・細川清氏・土岐頼康が加わっていて、兵数で圧倒していたので、師直は全く意に介さずに包囲を続けて兵糧攻めにしてしまうんだ。この時師直は、足利直義から足利義詮への政権の移譲・上杉重能と畠山直宗の配流・師直の執事職への返り咲きを認めさせて包囲を解くんだ。この事件を『御所巻』と呼ぶんだよ。」

「でも師直が相手だと、そう簡単に赦してくれたのかしら?」

「赦す訳が無いよね。上杉重能と畠山直宗は配流先に着くと直ぐに殺されてるよ。」

 それを聞くと理英は、得心が行ったという声で、

「やっぱりね!」

と、声を上げた。そしてそれに続けて、

「ところで師直たちは、尊氏にも叛旗を翻したことにならないの?」

と疑問を呈した。

「鋭いね!でもそれについては洞院公賢という公卿が『尊氏と師直かねて内通あるか』と言っているから、八百長だった可能性が高いんだよ。」

「そういうことか~!」

「更に直冬まで備後国で師直派の武将に襲撃され、四国を経由して九州の肥後国まで逃げ込む破目に陥るんだよ。だけど直冬はその血筋と誠実な人柄で、九州の武将たちを掌握するんだ。そこで幕府は1350年に光厳上皇から直冬追討の院宣を受けて、高師泰を総大将とする討伐軍を編成して派遣するんだけれど、九州に入ることができずに年内で撤退するんだ。直冬が筑前・豊前・対馬の守護の少弐家と豊後国の守護の大友家を帰服させると、幕府側も危機感を募らせて10月の終わりには尊氏と師直が京都から出陣するんだ。すると養親の直義もじっとして居られなくなって、京都を出奔して大和国で兵を募るんだよ。これに伊勢国・志摩国の守護の石塔頼房や讃岐国の守護の細川顕氏、紀伊国と河内国の守護の畠山国清が加わって勢力を拡大していったことで、尊氏も師直も無視できなくなるんだよ。とうとう光厳上皇から直義討伐の院宣を受けるんだけれど、すると直義は南朝に帰順するんだ。」

「えっ?それじゃあ『死に体』だった南朝は息を吹き返しちゃうんじゃない?」

「そうなっちゃうよね。」

「帰順って何?降伏や和睦とどう違うの?」

「帰順と降伏はほぼ同じと考えて良いよ。でも和睦というのは仲直りまで持って行くことなんだ。南朝も尊氏が叛旗を翻した原因は、直義の強い勧めがあったということを知っていたから、反対する人が多かったらしいんだけれど、後醍醐天皇の死後に権力を掌握した北畠親房が賛成して、これを受け入れることにするんだ。すると南朝に心を寄せる武士たちが続々と直義の下に参集し始めるんだ。そんな中、石塔頼房が大和国で挙兵して山城国まで侵攻したのを始め、同じ時期に各国で直義派の武将が次々に兵を挙げるんだ。関東では上杉憲顕が挙兵して関東執事の高師冬を鎌倉から追放するんだよ。師冬は関東を離れて、甲斐国の守護の武田信武の許へ逃れるんだけど、その後二度と関東には戻れなかったんだよ。」

「京都はどうなっていたの?」

「京都は尊氏と師直が出陣して居なくなっちゃったけど、義詮がきちんと纏め上げるんだ。」

「じゃあ、ちゃんと幕府の舵取りをやれたのね。」

「そうでもないよ。足利一門の武将たちが、次々と直義派に寝返るんだ。義詮の補佐をしていた斯波高経なんかも越前国の守護から外されたことで、直義の許へ奔るんだよ。他にも、山名時氏や今川範国なんかも離反してるね。」

「醜いわねえ。でもそうなると、尊氏の方が劣勢になっちゃうんじゃないの?」

「うん、義詮はバラバラに行動しては各個撃破されるだけだから、1351年には一度京都を脱出して尊氏と合流するんだ。ところが直ぐに戻って来たにもかかわらず、直義派の桃井直常が入京しており、一旦は追い払うんだけれど、結局は丹波国まで撤退せざるを得なくなるんだ。すると直義派が京都を制圧してしまい、結局尊氏たちは播磨国まで下向するんだ。そして2月17日に『打出浜の戦い』になるんだ。数の上では尊氏軍の方が勝ってたんだけど、ここで高師直・師泰兄弟は負傷し、尊氏も切腹を覚悟するほどの惨敗を喫するんだ。でも尊氏は何とか直義と和睦を取り付けることに成功するんだよ。」

「どういう条件で和睦したの?」

「高師直・師泰兄弟の出家が条件だったんだけど、この兄弟は随分恨みを買っていたからね・・・」

「出家する程度では済まなかったのね?」

「二人は出家した上で、尊氏と一緒に上洛の途につくんだけれど、武庫川を渡る直前に、待ち伏せていた上杉重季に討ち取られてしまうんだ。それだけじゃなくて、高師直・師泰兄弟の一族は根絶やしに近い状態になっちゃうんだ。」

「上杉重季って、『御所巻』の時の上杉重能の縁者なの?」

「養子だったらしいよ。でも上杉重能には可愛がって貰ったんだろうね。」

「でも、これで万々歳って訳じゃないんでしょう?」

「そう。この和睦には問題があったんだ。直義は政務で義詮の補佐として復帰したのに、引き続き足利義詮に任せることに同意したんだ。それに恩賞充行権を、そのまま尊氏に持たせたんだ。」

「えっ!一体どうして?」

 理英が不思議そうに尋ねる。

「結局、直義にとって、今回の戦いの目的は、尊氏から政権を奪うことではなくて、高師直を排除することだったんだよ。」

「でも、そんなことをしたら・・・」

「そう、直義軍の主力として戦った武将たちは、自分たちの領国が増えなかったから、不満を溜め込むんだよ。それにもう一つ問題があったんだ。」

「南朝に帰順したことね。」

 理英が答える。

「そうなんだ。だから直義は戦後直ぐに南朝と和睦交渉を始めるんだけど、意見の隔たりが大き過ぎて決裂しちゃうんだ。そして、そうこうするうちに義詮が直義に対して不満を覚え始め、対抗心を顕にしたことで、直義は幕府内で孤立しちゃうんだよ。そのうちに他の有力武将も政務を放棄して領国へ戻ってしまい、次々に挙兵するんだ。そこで直義は京都を脱出して北陸経由で関東に向かうんだ。しかし緒戦で直義軍は尊氏軍の佐々木道誉軍に破れて、直義派から尊氏派へ乗り換える武将が現れ始めるんだ。そして尊氏は、いったん拒否された南朝との和睦交渉を引き継いで再開し、妥結してしまうんだよ。これを『正平の一統』と呼ぶんだ。」

「じゃあ、皇統は大覚寺統に戻ることになったの?」

「その筈なんだけど、今度は尊氏が直義討伐のために京都を出陣すると、南朝の四条隆資と洞院実世が入京して、和睦の条件通り北朝の天皇と皇太子を廃して、北朝が一時的に消滅するんだ。」

「そうなると、尊氏の征夷大将軍の地位はどうなっちゃったの?」

「それも取り消されちゃうんだ。尤も尊氏にとっての焦眉の急は、直義の方だったから、あまり気にしていた感じは無いけどね。直義は北陸街道を進んで鎌倉に入るんだけど、直義派の関東執事の上杉憲顕だけでなく、鎌倉公方の足利基氏までが一緒に迎え入れるんだ。尊氏は直義が鎌倉を目指していることを熟知していたから、東海道を進んでいたんだけど、そこにこれまで直義派として行動していた今川範国が、尊氏派に乗り換えて合流するんだ。更に下野国で、尊氏派の宇都宮氏綱が直義討伐の兵を挙げて、周囲の勢力を糾合して上野国・武蔵国で続けざまに直義軍を破るんだ。そして府中・小沢城・金井原と勝利を重ねて、相模国の『足柄山の戦い』でも尊氏軍と挟撃する形で直義軍を破るんだ。そして1351年の末に『薩錘山の戦い』でも直義軍が敗れると、とうとう尊氏からの降伏勧告を受け入れるんだ。尊氏は直義を連れて鎌倉に入るんだけれど、浄明寺に入って謹慎させられていた直義が、1352年の2月に急死するんだよ。」

「なんだか怪しいわね。」

 理英が尤もな感想を漏らす。

「この当時から、直義の死は尊氏による毒殺ではないかという噂が立っていたんだ。」

「やっぱりそう考えるわよね。」

「1352年の直義の死から一月ほど経つと、新田義興ら新田一族が上野国で挙兵して、幕府軍が戦わずに逃げたため鎌倉を占拠したんだ。また南朝の宗良親王が、直義派だった信濃国の諏訪直頼の助力を得て挙兵するんだ。さらに奥州でも北畠顕信が挙兵して、常陸国に侵攻するんだ。同じ頃、北畠親房が軍勢を従えると、後村上天皇を奉じて石清水八幡宮に陣を敷いたんだ。細川顕氏率いる幕府軍がこれに向かうんだけど、細川頼春が討ち死にして、細川顕氏自身も近江国へ敗走するんだ。この時に北朝の人々が京都に取り残されたため、光厳上皇・光明上皇・崇光上皇の3上皇と皇太子の直仁親王が入京した南朝軍に捕えられて、『三種の神器』とともに連行され、正平の一統は瓦解するんだ。」

「南朝側は、もう最初から尊氏を裏切るつもりで手を握ったのね。」

「そうだね。さらに深刻なのは関東の方で、新田義興が新田義宗や宗良親王と合流して、武蔵野国にまで進出するんだけど、この時足利直義という盟主を失った上杉憲顕が南朝軍に味方するんだ。」

「大変じゃない!」

「そこで尊氏は、小手指原と笛吹峠で何とか南朝軍を破って、再び鎌倉を取り戻すんだ。京都でも、脱出した足利義詮が有力武将を従えて態勢を立て直すと、南朝の北畠顕能軍を破って京都を回復するんだ。」

「でも、北朝の皇族はどうなったの?」

「残念ながら、取り戻せなかったから、幕府は正当性を失ってしまったんだ。そこで、既に出家していた光厳上皇の皇子だった弥仁王を担ぎ出して後光厳天皇として即位させるんだ。」

「三種の神器も無いのに?」

「だから、今に至るまで北朝の正当性を論われるんだろうね。それに皇位継承には、先帝による院宣も必要だったんだ。だから苦肉の策として、南朝に連れ去られた光厳上皇の母親の西園寺寧子に院政を開かせた上で、彼女の院宣をもって即位の手続きをとらせたんだよ。」

「北朝側は、もう何でもありになっちゃったのね。」

「でも、この後も直義派の南朝への寝返りが相次ぐんだ。伊勢・志摩国の守護だった石塔頼房の他に、越中国の守護・井上俊清や若狭国の守護だった山名時氏・師義親子、備後国の守護・上杉重季と続いて、足利直冬までも鞍替えしてしまうんだ。そして、山名時氏と楠木正儀・石塔頼房が再び京都に突入し、義詮を敗走させて京都を奪還するんだ。尤も義詮は一月位で態勢を立て直して、翌月の内に京都を回復するんだけどね。すると間も無く、鎌倉に居た尊氏も、関東の平定が一段落着いたことで、京都に戻るんだけど、一つ禍根を残すことをやってしまうんだ。」

「何をやっちゃったの?」

「鎌倉公方の権限を拡大させて、恩賞を宛がう権利を与えちゃったんだ。そのせいで、関東以東の鎌倉公方の権力が強くなり過ぎて、幕府から離れて自立したがるようになるんだよ。」

「ふ~ん。」

「とは言っても、一応これで三年にも亘った『観応の擾乱』にも決着がついて、これまでの様に当面の相手は南朝だけになるんだよ。」

「でも、南朝は息を吹き返しちゃったんでしょう?」

「確かに京都をめぐって激しい戦いを続けることにはなるんだけれど、1354年には南朝の精神的な支柱だった北畠親房が亡くなるんだ。」

「何となく南朝の行く末も見えてきたわね。」

「そこで南朝は足利直冬に京都奪回を要請するんだ。京都の義詮は佐々木道誉や赤松則佑などの重臣を引き連れて、大軍で直冬討伐の兵を挙げて播磨国まで来るんだけれど、直冬は山陰道を進んで畿内に入るんだ。義詮が大軍を率いて行ったため、京都の守りは手薄になってしまい、尊氏は後光厳天皇を連れて京都を脱出し近江国まで逃げるんだ。」

「慌しいのねぇ。」

 理英が溜息交じりで感想を述べる。

「そして1355年の正月には、直義派だった桃井直常と斯波高経が入京して、南朝は京都を回復するんだけれど、これが最後の京都奪還になるんだ。南北朝になってからは、都合4回目の京都制圧なんだけど、また翌月には尊氏軍が京都に攻め寄せて一ヶ月以上続いた戦闘の後、尊氏軍が勝利するんだ。この時の敗北で南朝側は多数の兵を失って、畿内では軍事活動を継続できないほど勢力が衰えるんだ。このため、南朝が優勢な地域は征西将軍・懐良親王と菊池一族の居る九州だけになっちゃうんだ。豊後国の守護・大友家と豊前国守護の宇都宮家が帰順していたからね。」

「九州は、それ以外の地域とは反対だったのね。」

「でも九州以外の南朝勢力は徐々に衰退していって、1357年には南朝に拉致されていた光厳上皇・崇光上皇と直仁親王が帰京するんだ。」

「釈放されたの?」

「よく分からないんだ。ひょっとしたら監視の目が緩んだところを脱出したのかもしれない。そこで尊氏は翌年の1358年に、九州征伐に向かうことを決意するんだけれど、義詮に諌められているうちに、病死しちゃうんだ。」

「これで当初の主要な登場人物は全員、退場と相成った訳ね。」

「そうだね。因みに南朝に帰順していた筑後国の守護・少弐頼尚は、九州探題の一色直氏と対立していただけだったから、一色氏が居なくなるとあっさりと幕府方に寝返って、南朝は九州での地盤も失うんだ。そこで懐良親王を奉じた菊池武光が最後の大勝負を仕掛けるんだ。筑後国の大保原の戦いで少弐軍を破って少弐忠資の首を挙げるんだけれど、菊池軍の損害も大きくて少弐軍の止めを刺せなかったんだ。」

「じゃあ、失敗に終わっちゃったのね。」

「でもその影響で、1361年には『観応の擾乱』の際にも一貫して尊氏派だった仁木義長と細川清氏が反旗を翻すんだ。」

「どういうこと?」

「二人は今言ったように尊氏派だったんだけど、尊氏が亡くなったことで幕府内での後ろ盾が無くなって、義詮が実権を握った際に幕府を追放されたんだ。そのため南朝に帰順したんだよ。」

「そうなんだ。」

「彼らは楠木正儀・石塔頼房と共に一時的に京都を奪回するんだけれど、南朝の弱体化は顕著になっていて、軍事活動も散発的になっていくんだ。1362年には細川清氏が戦死し、1363年には周防国・長門国の守護・大内弘世と山名時氏が幕府に降ったんだ。1364年には伊予国の河野通朝が、細川頼春に攻め滅ぼされるんだ。」

「そろそろ南北朝も終わり?まだ『日本国王』の話が出ていないようなんだけど?」

「よく知ってるね。九州ではジリ貧ながらもまだ南朝勢力が頑張っていて、1368年に元が滅び明が建国されたため、使者を日本に送ってくるんだ。でも彼らはまず九州に上陸するから、応対したのは懐良親王たちだったんだよ。懐良親王は5回にわたって使者を明に送って『日本国王』として認めてもらうんだ。」

「な~るほど!そういうカラクリだったのね。」

「そして1367年には、第2代将軍・足利義詮が無くなって、嫡男の義満がわずか9歳で後を継ぐんだ。この代替わりは、管領の細川頼之の下でスムーズに行われるんだ。この人はかなり有能な人だったらしく、今川了俊が九州探題に抜擢されると、九州の南朝勢力をじわじわと追い込んでいって、1390年にはついに幕府に帰順させることに成功するんだ。」

「そして最後は、足利義満によるペテンで南北朝合一が実現するのね。」

「そういうこと!」

「長かったなぁ~!ちょっと一休みしない?まだ持って来てくれたエクレアが残ってるし、お母さんにお茶を入れてもらうから。コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「じゃあ僕は、コーヒーをお願い。」

「わかった。」

 そう言うと理英は、キッチンで夕飯を作っている母親に声を掛けた。


 お茶を飲んで一息つくと、理英の方から切り出した。

「それで『太平記』って、誰が書いたの?」

「一応は小島法師って人だと言われているけれど、どんな人なのかは分からないんだ。それに、確か12・13巻辺りは、足利直義が手を加えているって言われているんだよ。ひょっとしたら小島法師は、『太平記』の第4巻に出でてくる児島高徳と同一人物かもしれないって言う人も居るね。」

「児島高徳って?」

「第4巻で物語の中に突然出てくる『備前国の住人』なんだけど、建武年間の任官・叙爵の記録には名前が無いんだ。だから実在すら疑われているんだけど・・・」

「へぇ~、そうなんだ。」

「でも非常に印象的な場面で登場するんだよ。後醍醐天皇の隠岐の島への配流を聞いた児島高徳は、一族とともに天皇一行を待ち伏せて、身柄を奪還しようとするけど果たせないんだ。だから天皇の宿舎の庭の桜の木に、後に『桜樹題詩』と呼ばれる『天莫冗勾践、時非無范蠡』という『両句十字』の詩を書き付けるんだ。」

「歴史の中で具体的に、後醍醐天皇のために何かをしたって訳じゃないのね?」

「空回りしただけで、何もしてないっていうのが客観的な事実だね。」

 永渕が身を蓋もないことを言う。

「じゃあ『太平記』って、本当はどんなことが書かれているの?」

「前半は歴史物語って感じなんだよね。でも日本の動乱期の物語を書いているのに、『太平記』っていうタイトルをつけていることからも分かると思うけど、南朝贔屓と言うよりも、慇懃無礼な皮肉まみれって感じだね。」

「どんな風に?」

「例えば、冒頭の序文で『徳無き天子は滅ぶ』っていう朱子学の基本原理を述べているんだけど、第21巻の後醍醐天皇の臨終の場面では、苦しい息の下で、


 『妻子珍宝及王位、臨命終時不随者、これは如来の金言にして、平生朕が心に感ぜし事なれば、秦の穆公が三老を埋み、(始皇帝の宝玉を随へし事、一つも朕が心に取らず。ただ生々世々)執念ともなるべきは、朝敵を亡ぼして、四海をして太平ならしめんと思ふ事のみ。』


って言わせるんだ。」

「あっ、そうか!元々南北朝時代は、後醍醐天皇が自分の皇統である大覚寺統で皇位を独占しようとしたことで始まったんだっけ。」

「そう、つまり後醍醐天皇の身勝手な行動から天下が乱れたのに、後醍醐天皇はそこに思いが至らないんだ。」

「つまり作者は客観的な事実を並べ立てることだけで、この天子は駄目だって言ってるのね。」

「それにこの『四海をして太平ならしめんと思ふ事のみ。』って部分で初めて『太平記』というタイトルの意味が判る仕掛けになっているんだ。」

「それじゃあ、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』と同じね。あれも4番まで聞いて、初めて歌のタイトルの意味が分かる構造になっているじゃない。でも、よく『太平記』の文章まで覚えてるわね。」

「ここは一番有名な部分だからね。それに昔から『太平記読み』があるように、文章のテンポが良いから覚え易いんだよ。」

「そうなの?」

「それから、この科白の後に続けて後醍醐天皇は、


 『これを思ふゆゑ、玉骨はたとひ南山の苔に埋まると雖も、魂魄は常に北闕の天を臨まんと思ふ。』


って有名な科白を吐いているんだ。当時の人達がこれを聞いたら、『何言ってやがんでえ!』って思った筈だよ。『太平記』を南朝贔屓の作品だって言う人は、こういう皮肉が分からないんじゃないかな?少なくとも、行間を読む能力が無いと思われても仕方無いよ。」

「そうなんだ。知らなかった!じゃあ、後半はどうなってるの?」

「後半は、討ち死にした南朝方の武将達の怨霊譚っていうか、怪談の色彩の濃いお話になってるよね。」

「そっかぁ~!実際に自分の目で読んでみないとダメなのねぇ~。」

「じゃあ、まず三人の候補のうち塩冶氏からね。塩冶氏は元々宇多源氏で、塩冶郷出身の塩冶頼泰が始祖だったと思うけど、塩冶高貞は後醍醐天皇の討幕運動に参加した後、さっき言ったように足利尊氏側に寝返って、室町幕府が成立した時に出雲と隠岐の守護になるんだ。」

「なるほど。それなりの家柄なのね。」

「高氏は源氏の棟梁だった八幡太郎義家の家人、高階惟章が足利義国と一緒に下野国に住んだことで始まるんだね。以来、高氏と称して義国の子孫たちの執事を代々勤めるんだ。高師直は、室町幕府成立後に、弟の師泰らとともに幕府の要職を占め、北畠顕家や楠木正行を討ち取り、吉野にあった南朝をさらに奥の賀名生へ追いやるんだ。尊氏の弟の足利直義と対立するまでは、終始足利氏を補佐したんだ。」

「じゃあ、やっぱりこの肖像画はその3人の中の誰かなのかな?」

「そう思うけれど、塩冶高貞は、高師直に謀反の疑いありと讒言されて、領国の出雲に逃亡した後自害してるんだよ。子弟の殆どもその後討ち取られているから、塩冶氏はきっと逆賊扱いだった筈だし、違うんじゃないかな。」

「ああ、高師直が塩冶判官の妻だった顔世御前に横恋慕して、兼好法師に恋文を書かせて送ったのに拒絶されたのを恨んで、謀反の濡れ衣を着せて討伐したっていう、あれね。」

「まあ、顔世御前は架空の人物だけど、『新名将言行録』には塩冶高貞に濡れ衣を着せたのは事実だと記載されているね。」

「う~ん、でもそんな一族の肖像画を描かせるのなら、後で真相を明らかにして、室町幕府の方から詫びるっていう段取りになるわよね。でも室町幕府はそんなことしてるの?」

「いいや、謝罪なんてするもんか!」

 永渕は即座に否定した。

「だったら、将軍の花押なんて入れないわよね。」

「う~ん!足利義詮っていう人は自分のお墓を、南朝方の楠木正行のお墓の隣に作らせるような人物だから、塩冶一族の誰かという可能性も完全には排除できないけれどね。」

「何それ?」

 理英が驚いた様に尋ねる。

「知らないの?京都の宝筐院という臨済宗のお寺に足利義詮のお墓があるんだけど、楠木正行の人柄に惹かれた義詮は、わざわざ敵だった正行のお墓の隣に埋葬するように遺言してから亡くなったんだよ。」

「二人は不倶戴天の敵だったんでしょう?でも、良い話じゃない!時代が違えば、親友になれたんじゃない?」

「その可能性はあるよね。因みに、高貞が自害した後に、息子の冬貞が家督と出雲国の守護職を継承したけれど、名前からして足利直冬から偏諱を賜ったみたいだから、義詮とは反目してたんじゃないのかなあ?」

「でも、そうなると、残ったのは高氏かあ・・・」

「高氏といえば師直と師泰が有名だけど、他にも有力な武将は居たんだよ。」

 永渕が補足する。

「でもさっきの話では、足利尊氏・義詮親子が足利直義・直冬親子と摂津国の打出浜で戦ったけど、負けてしまって高師直・師泰兄弟の一族は根絶やしにされた筈よ。」

「確かに高氏は他にも、師夏・師世・師兼・師幸・師景なんかが上杉能憲に殺害されているし、同じ頃に甲斐国でも関東執事として下向した高師冬が上杉憲顕に敗れて自害しているね。そこでほぼ断絶した状態になったんだけど、その後復活したから、それから描かせた可能性はあるよ。」

「師直・師泰と一緒に殺された人たちはどういう人たちなの?」

「まず、高師夏は高師直の嫡男で、関白二条兼基の娘との間にできた子だね。尤も、師直が二条家から拉致して強姦した挙句生ませた子供じゃないかって言う人も居るね。」

「拉致・強姦!二条家にしてみれば、畜生一発やりやがったな、ってとこね。」

「『嵐を呼ぶ男』の石原裕次郎じゃあるまいし、そういう物言いはやめてくれない?君の清純なイメージ、ぶち壊しだよ。」

「アハハハッ!ごめん、ごめん。気をつける。」

「師夏の享年は13歳。美少年で父親に似ず、善良で温和な性格だったらしいよ。」

「じゃあ、二条家の血を濃く引いていたのかしら?なんか、可哀相ね。」

 理英がしんみりとした口調で言う。

「高師世は師泰の子供で、師直が直義との政争で一旦失脚した時に後任の執事になるんだ。その後、『御所巻』を行って師直が復権したから、殺害された時の肩書きは前執事だったみたいだね。彼は弟の師秀を養子にしているんだ。」

「でも、高師直は失脚すると直ぐに『御所巻』を起こすんでしょう?」

「そうだよ。『御所巻』の直後に高師直は執事職に復帰してるから、高師世の在任期間はすごく短いんだよね。」

「前執事ならひょっとして、と思ったんだけど、その程度なら師直・師泰兄弟と肩を並べるところまではいかないわよね。」

「そうなるね。次の高師兼は長年三河国の守護を務めていて、師直・師泰の従兄弟であると同時に、母親が彼らの妹なので甥でもあるという複雑な関係にある人物なんだ。北畠顕家に敗れた『青野原の戦い』に参加したときに、南朝方の兵力を削いで疲弊させたことで名を馳せたみたいだね。でも、基本的には京都に居て、師直に従っていたようだよ。」

「そういえば三河国は高氏の本拠地よね?負けたのに有名になったの?それから、青野原って何処なの?」

「『太平記』では北畠顕家に負けたことになっているけど、この時顕家は京都の奪還を目指していたんだ。それなのにこの合戦の後、紀伊半島の方へ転進しているから、さっきも言ったけれど、実態は顕家が負けていたか、勝っても作戦の継続が難しいほど兵力の損耗が酷かったんだと思うよ。だから有名になったんだよ。それから青野原っていうのは、今の関ヶ原のことだよ。不破の関とも言うよ。ここは大軍を展開しての合戦がやり易い開けた場所だから、壬申の乱でも主戦場になっているよ。」

「へ~、そうなんだあ。でも存在としては、ちょっと地味よねえ。」

「高師幸は師直・師泰の従兄弟で、高師景は師直の甥で、高師久って人の子供だね。でも、この二人については、これ以上のことを記している書籍は、まだ目にしてないよ。」

「じゃあ、その二人は、高氏の中でもさほど目立った存在じゃなかったってことかしら?」

「まあ、その認識で良いと思うよ。」

「じゃあ、高師冬って人は?」

「高師冬は師直・師泰の従兄弟で、武蔵国と伊賀国の守護で、関東公方の執事を務めていたんだ。でも、『観応の擾乱』で直義派の上杉憲顕に敗れて、甲斐国の須沢城で諏訪直頼に包囲されて自害しているね。30歳位だったらしい。」

「もう死屍累々って感じね。」

「でも生き延びた人たちも居たんだよ。」

「どんな人たちなの?」

「例えば、高師泰には高師武っていう三男がいて、安芸国高田郡国司荘に下向して逼塞していたんだ。この人の子孫が国司氏を名乗って、幕末に『蛤御門の変』を起こして自刃した国司信濃(親相)はその末裔だね。」

「へえ~、長州藩に子孫が居たんだ!」

「そういった末裔の話ならば、さっきの塩冶氏にも血筋を伝える系統は残っていて、上田秋成の『雨月物語』の中で『菊花の契り』というお話の題材になっているね。」

「一口に『滅びた』って言っても、血筋が完全に絶えてしまう訳ではないのね。」

「それから、師直・師泰兄弟には、高重茂っていう弟が居るんだけど、関東執事の他に武蔵の守護も務めた有能な官僚で、和歌も上手な文人だったそうだよ。この人は直義派に属していたから生き残ったんだ。」

「兄の師直・師泰とは仲が悪かったの?」

「性格は温厚で寛容な人だったし、戦はあまり上手くなかったらしいから、兄達とは反りが合わなかったのかもしれないね。尤も、この人は直義と非常に親しかったらしいから、それが理由なんだろうね。」

「それで、『観応の擾乱』の後はどうなったの?」

「関東へ下って足利基氏に仕えたんだけど、1368年に起きた反乱に加わって鎮圧されてからは、消息不明になってる。」

「じゃあ、これも違うのかな?」

「それから、高師秋っていう師直・師泰兄弟の従兄弟が居るけど、この人は兄弟の師冬と違って、息子の師有と共に直義側に付いているんだ。理由としては、高氏嫡流の座を師直・師泰兄弟に奪われたことによる怨恨もしくは嫉妬から対立したと言われているね。」

「本当は高師秋の方が嫡流だったの?」

「そうだね。足利尊氏・直義兄弟の祖父だった足利家時の置文を所持していた家だったんだ。師義・師員・師有という子息も居たらしい。」

「足利家時の置文って、あの、自分の代では天下を取れそうもないので、三代のうちに天下を獲らせよ、って祈願したっていう、あれ?」

「よく知ってるね。でも師秋たちは、開幕当初に伊勢の守護を短期間務めただけで冷遇されていたんだ。」

「ふ~ん、でもそれなら師直・師泰兄弟よりも足利将軍家の覚えがめでたかった武将は、高氏には居ないってことになるわ。」

「まあ、そうなるかな。」

「ということは、この肖像画はやっぱり高師直か高師泰ってことになっちゃうわね。でも、高氏を代表して描かせたとなると、やっぱり高師直ってことになっちゃうのかなぁ。」

「それが君の出した結論?」

「そうね。他に答えなんてなさそうだし。」

と、理英は素っ気無く答えた。

「じゃあ、せっかく結論が出たところで悪いんだけど、『卓袱台返し』しても良い?星一徹みたいに。」

「この結論じゃ不満なの?」

「うん、まあそうだね。」

「どうして?どこか変?」

 理英が尋ねる。

「この人物そのものだよ。この武将、何歳くらいだと思う?」

「そうねえ、昔は寿命も短かったから、30代くらいだと思うけど。」

「いや、実は死後にこういう遺影を描かせる場合には、大抵亡くなる直前からせいぜい数年前位の姿を描く筈なんだよ。だとしたら、この絵姿を高師直だとすると不自然なんだよ。」

「そっか、高師直や師泰だったら、もう少し老けてなければいけないのね。」

「高師直や師泰は50歳前後で亡くなっているらしいから、今の年齢にすれば60~70歳位じゃないかな。」

「つまり、髪には白髪が混じっている筈だし、顔に皺なんかも描かれる筈ってことよね。」

「僕の母方の先祖は長州藩(萩藩)の人間なんだけど、来島又兵衛っていう人の家臣というか足軽だったらしいんだ。この来島又兵衛って人は『蛤御門の変』に参戦したんだけど、川路利良に狙撃されて47歳で討ち死にしたんだ。でも、もうその頃には周囲の人から『威勢の良い爺さん』って言われていたんだって。」

「昔は老けるのも早かったのね~。」

「うん。ところがこの絵は、どう見ても壮年~中年に見える。それに僕には、キム・ドクみたいな顔に見えるんだけど。」

「誰それ?」

「全日本プロレスに出てるプロレスラーだよ。大木金太郎さんのお弟子さんらしいね。」

「私はプロレスは好きじゃないから分からないけれど、何となく野卑な感じがするわね。」

「そう思う?それに実は『太平記』には、


 『さては、武蔵守は討たれざりけり。安からぬものかな。師直いづくにかあるらん。』(と云ふ)声を力にて、内甲に乱れ懸かりたる鬢の髪を押しのけ、血眼になつて遥かに北の方を見るに、輪違の旗一流れ打つ立てて、清げなる老武者、七、八十騎が程ひかへたり。』


って記述があるんだ。この人物が『清げなる老武者』に見える?」

「『清げなる』って、どんな意味だっけ?」

「『すっきりとして美しい』とか、『さっぱりとして綺麗だ』という意味の清潔な感じのすっきりとした美しさを表現する言葉みたいだね。ひょっとしたら、野口五郎みたいな清潔感のある男性のことを表す言葉かもしれないね。」

「なるほど、確かに卓袱台返しだぁ~!でも、そうなってくると、もうこの人物を特定する術は無くなっちゃうわね。」

「果たして、そうかな?」

「その口調からすると、永渕君は他に誰か思い当たる人物が居るのね?」

「うん、一人居るんだ。高氏の人間は、『打出浜の戦い』で、一族の殆どが殺害されたんだけど、その当時、この合戦に参加してなくて、命拾いをした人間が居るんだ。」

「本当?」

「しかもその人物は、足利義詮から偏諱を賜っているんだ。」

「有力な候補じゃない!誰なのそれ?」

「高師詮っていう人なんだけどね。」

「聞いたことないなぁ。」

 理英はそう返事をしたが、直ぐにさっき見せられた系図の中に名前が載っていたことを思い出した。

「そりゃそうだ。『観応の擾乱』では、1351年の『打出浜の戦い』の後、上杉能憲によって多くの高一族に属する人間が殺害されたんだけれど、この人は一族とは別行動をとっていたので命拾いしたんだよ。」

「へえ~、ラッキーねえ!」

「その後は片田舎に隠れ住んでいたんだけれど、高師直の後継者と目されていた高師夏も一緒に殺害されたため、家臣だった阿保忠実や荻野朝忠といった人達によって担ぎ出されたんだ。」

「な~るほど!その時に足利義詮に付いたと。」

「確か、最初に丹後国守護、次に但馬国守護になるんだけれど、1353年の西山吉峯の合戦に負けてしまって、さっきの阿保忠実・荻野朝忠らから自害を勧められて切腹しちゃうんだ。」

「それじゃあ、神輿として担がれたのが良かったのか悪かったのか、分からないわね。」

「しかも、この二人の家臣は、師詮が切腹している間に、逃げて生き延びることができたらしいんだ。」

「え~っ!、ひど~い!」

「でもこういうことは、偶にあるみたいだよ。『本能寺の変』の時にも織田有楽斎は、信長の嫡男だった信忠に二条御所で切腹を勧めたくせに、自分はちゃっかりと逃げて生き延びているんだ。」

「織田有楽斎って有楽町の語源になった人よね?」

「それは俗説だよ!」

「俗説?」

「だって、織田有楽斎が江戸に住んだという記録は無いし、有楽町と永楽町は明治になってから付けられた名前だよ。」

「本当?私、信じ込んでた。」

「因みに『有楽斎』っていうのは号で、織田長益っていうのが本名らしいね。何でもありの戦国時代においてさえ有楽斎のとった行動は非難されたらしいからね。」

「そうなんだ。下克上の世だったといっても、まだそういった秩序は残ってたのね。」

「京都でも民衆から戯れ歌で『織田の源五は人ではないよ、お腹召せ召せ、召させておいてわれは安土に逃げるは源五、六月二日に大水出でて、おた(織田)の原なる名を流す。』って皮肉られてるんだ。分かり易く言えば『臆病者』とか『卑怯者』ってことだね。」

「そっか、まだ秩序が残っていた室町時代初期なら、もっと強い非難を浴びた筈だもんね。」

「だからこの絵は、その時見捨ててしまった後ろめたさから、師詮を描いて供養しようとしたんじゃないのかな?」

「うん、それはあり得る!」

 理英は元気良くそう言って永渕に同意した。

「教科書に書いてあることを覚えるだけじゃ、本当のことは分からないのね。」

「どう?歴史って覚えるばかりじゃないし、面白いでしょう?」

「本当にそうね。自分の頭で考えながらだったから、お喋りしてて楽しかった。」

「今度から、アプローチする方法を変えてみたら、もっと勉強も面白くなると思うよ。」

「うん、そうしてみよっかな。」

 そう言うと理英は、あどけなさの残る天使の様な笑顔を永渕に向けた。

「そうだ!そう言えば今日ここに来た時に、直ぐに私の所に来ないで、暫くお母さんと話し込んでたわね。何を話していたの?」

「えっ!べ、別に何でも無いよ。ただの世間話だよ。」

「え~っ、お母さんとそんなに話が合う訳ないでしょ。んっ?そういえば昨日も帰り際に、お母さんと話し込んでたわよね。ひょっとして、お母さんと話してたのは・・・・・・さては謀ったなぁ~!」

 そう言う理英をやり過ごす様に、永渕は言った。

「じゃあ、そろそろ今日あった授業について教えてあげる。」

「んも~っ!」


 午後7時少し前、理英が永渕が帰るのを見送っていると、背後で早苗がポツリと言った。

「貴方たちがお喋りしてるのを見てると、下手な漫才なんかよりずっと面白いわ。アカデミックな話をしてたかと思うと急に下世話な話になったり、下卑た話をしてたかと思うと一瞬で高尚な話に変わったり、ジェットコースターのように次々と話題が変わっていって、聞いてて飽きないわね。」

 このタイトルを見て、『ウルトラセブン』のフック星人の登場回の様な大掛かりなミステリーを期待していた方、ごめんなさい。これは、「騎馬武者像」の像主を推理する歴史ミステリーであり、安楽椅子探偵譚です。このお話は私が中学二年生の時に、30~40分ほどお喋りした内容を基に、組み立てています。これがミステリーとしての初エピソードです。当初執筆時には、「騎馬武者像」の像主を特定するところまでは至らず、候補者を3人位に絞るところで終わっていましたが、改稿時までにたくさんの史料や学説が出てきたことで、一人に絞り込むことができました。


 冒頭部では、寛永寺理英と永渕陽一の人物像をもう少しハッキリと浮き立たせるために、読んでいる本や好きな女優などを挙げてみましたが、1976年という時代に合わせたものになっているので、若い読者の方には少々古すぎてピンとこないかもしれません。また、そのせいで前半が冗長になってしまった感があります。今、自分の筆力の無さを痛感しています。


 コパトーンの商標は、ジョディ・フォスターがCMに出演する30年も前からあったので、ジョディ・フォスターがモデルだというのは都市伝説ではないのか、という声を頂きました。しかし、2006年に映画『フライトプラン』のジャパンプレミアで来日した際に、1月13日のTBS「NEWS23」の金曜深夜便のコーナーで、筑紫哲也さんとの対談の中でご本人が肯定されていましたので、当時の会話をそのまま使わせて戴きました。


 なお、下記の【執筆時参考文献】というのは、1983年~1984年に初めてこの原稿を書いた際の参考文献です。執筆時から今回の改稿時に亘って読んだ上で作品に影響を与えた参考文献は、【改稿時参考文献】として表示しています。


 この文章における『太平記』からの引用は、

  『太平記』(三)・(四) 兵藤 裕己:校注 2015・04・16 岩波書店

の記述を基にしています。

『平家物語』からの引用は、

  『平家物語』(三) 梶原 正昭・山下 宏明:校注 1999・09・16 岩波書店

の記述を基にしています。

 戯れ歌の引用は、

  『英傑の日本史 激闘織田軍団編』 井沢 元彦:著 2013・02・23 角川書店

の記述を基にしています。


【執筆時参考文献】

『南北朝』 林屋 辰三郎:著 1957・10・20 創元社

『日本の歴史』(上) 井上 清:著 1963・08・25 岩波書店

『日本の歴史』(中) 井上 清:著 1965・10・23 岩波書店

『日本の歴史』(下) 井上 清:著 1966・06・27 岩波書店

『日本の歴史 8.蒙古襲来』 黒田 俊雄:編 1974・01・10 中央公論社

『日本の歴史 9.南北朝の動乱』 佐藤 進一:編 1974・02・10 中央公論社

『武将列伝』(二) 海音寺 潮五郎:著 1975・03・25 文藝春秋社

『悪人列伝』(二) 海音寺 潮五郎:著 1975・12・25 文藝春秋社


【改稿時参考文献】

『ごめんあそばせ 独断日本史』 杉本 苑子・永井 路子:共著 1988・01・10 中央公論社

『破軍の星』 北方 謙三:著 1993・11・25 集英社

『葉隠三百年の陰謀』 井沢 元彦:著 1994・07・06 徳間書店

『逆説の日本史 6.中世神風編 -鎌倉仏教と元寇の謎』 井沢 元彦:著 2002・07・01 小学館

『逆説の日本史 7.中世王権編 -太平記と南北朝の謎』 井沢 元彦:著 2003・03・01 小学館

『皇子たちの南北朝』 森 茂暁:著 2007・10・25 中央公論新社

『こんなに変わった歴史教科書』 山本 博史 他:著 2011・10・01 新潮社

『逆説の日本史 別巻2 ニッポン風土記(東日本編)』 井沢 元彦:著 2012・10・10 小学館

『英傑の日本史 激闘織田軍団編』 井沢 元彦:著 2013・02・23 角川書店

『井沢元彦の激闘の日本史 南北朝動乱と戦国への道』 井沢 元彦:著 2014・04・20 角川書店

『学校では教えてくれない日本史の授業 悪人英雄論』 井沢 元彦:著 2015・03・17 PHP研究所

『誰も書かなかった「タブーの日本史」大全』 別冊宝島編集部:著 2015・05・12 宝島社

『軍神の血脈 楠木正成秘伝』 高田 崇史:著 2016・03・15 講談社

『あなたの歴史知識はもう古い!変わる日本史』 日本歴史学会:著 2017・04・20 宝島社

『南北朝動乱』 水野 大樹:著 2017・05・20 実業之日本社

『観応の擾乱』 亀田 俊和:著 2017・07・20 中央公論新社

『蒙古襲来と神風』 服部 英雄:著 2017・11・25 中央公論新社

『南北朝 日本史上初全国的大乱の幕開け』 林屋 辰三郎:著 2017・12・13 朝日新聞出版

『図解 観応の擾乱と南北朝動乱』 水野 大樹:著 スタンダーズ 2017・12・26

『壬申の乱と関ケ原の戦い なぜ同じ場所で戦われたのか』 本郷 和人:著 2018・01・31 祥伝社

『陰謀の日本中世史』 呉座 勇一:著 2018・03・09 角川書店

『後醍醐天皇』  兵藤 裕己:著 2018・04・20 岩波書店

『初期室町幕府研究の最前線 ここまでわかった南北朝期の幕府体制』 亀田 俊和:編 2018・06・04 洋泉社

『逆転した日本史』 河合 敦:著 2018・07・01 扶桑社

『天皇の日本史』 井沢 元彦:著 2018・07・20 角川書店

『教科書には載っていない最先端の日本史』 現代教育調査班:編 2018・08・01 青春出版社

『上皇の日本史』 本郷 和人:著 2018・08・08 中央公論新社

『日本史の論点』 中公新書編集部:編 2018・08・20 中央公論新社

『日本史のミカタ』 井上 章一・本郷 和人:共著 2018・09・10 祥伝社

『室町幕府全将軍・管領列伝』 平野 明夫:編 2018・10・25 星海社

『日本史の新常識』 文藝春秋:編 2018・11・20 文藝春秋

『考える日本史』 本郷 和人:著 2018・11・30 河出書房新社

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