第二章 アタランテの蹉跌
殿上中学校が指定している秋~春用の長袖の体操服はデンマーク型の襟付きで、学年毎に色分けがされている。現在、女子生徒は1年生が臙脂色の体操服とトレパンかブルマ、2年生が緑色の体操服とトレパンかブルマ、3年生が青色の体操服とトレパンかブルマとなっている。ただし夏季は白い半袖の体操服を使っており、女子は丸首の襟と袖の部分がそれぞれの学年の色で縁取りされている。因みに男子生徒も上は同じで、下は学年毎の色のトレパンか白のショートパンツである。ただし男子の夏用の体操服には、女子と違って縁取りは無い。そのためせっかく色分けしていても、夏が来ると男子は白一色になってしまい、この時期だけは学年の区別がつかなくなるという欠点がある。
体育の授業を受ける生徒の中に、白い夏の体操服が混じり始めた5月の最終日、2時間目の体育の授業が終わった直後に、理英は女子の体育教師の今井涼子に声を掛けられた。
「体育委員の三波さんは、今日の体育を見学していたみたいだったから、代わりに総務委員の貴女にお願いして良いかしら?」
「何でしょうか?」
「実は今週末の校内記録会で使用する予定の、リレー用の新しいバトンが第一倉庫に無いのよ。去年購入した筈なのに、一度も使わなかったから体育館にある第二倉庫に仕舞われたのかと思って。確認しておいてくれない?」
殿上中学校には、体育倉庫は二つ存在する。この中学校の校庭の隅は、高速道路の高架が掠めて通っている。その下に設置されている体育系部活動の部室の並びの一番端っこに、第一体育倉庫がある。ここには主に、屋外競技用の体育用具が収められている。もう一つの第二体育倉庫は、体育館の舞台袖にある空間を利用して作られている。こちら側には主に、屋内競技用の体育用具が収納されているのである。
「確認するだけで良いんですか?」
「直ぐに見つかって時間に余裕があったら、職員室の私のところに持って来るか、第一倉庫に移しておいてくれたら助かるんだけど。」
「分かりました。」
「置いてあるとしたら、壁際の棚に収めてある段ボールの中だと思うわ。第二倉庫の鍵は開いている筈よ。今日、男子はハンドボールだったから、今頃後片付けをしてると思うわ。」
この学校の体育館は講堂と兼用になっているため、舞台袖の横が第二倉庫になっていて、体育館を使う屋内競技のための道具が収納されていた。理英が行ってみると、永渕をはじめとする数人の男子生徒が、ボールを入れた籠やビブスを片付けていた。
「入っても良い?」
「ああ、もう終わるから良いよ。」
そう言われて理英が体育倉庫の中に入ると、体育の授業で使った道具に染み付いた汗の匂いが鼻腔に流れ込んできた。獣染みた臭いに思わず理英は顔を顰めた。理英が倉庫の中を見回すと、バスケットボール・バレーボール・ハンドボール等の球技で使うボールを競技毎に入れた籠や、跳び箱・踏切台・マット等が一応整然と並べられていた。壁際に並べられたスチール製の棚を見渡すと、収められた道具の名前を黒マジックで書いた段ボール箱が、ぎっしりと詰まっていた。「バトン」もしくは「陸上競技」と書かれた段ボールは無かったが、何も書かれていない真新しい段ボールが一つ、奥の方の棚の最上段に置かれていた。
「これかな?」
理英が手を伸ばして下ろそうとするが、段ボール箱の底の部分にやっと指先が届く様な状態だった。見かねた永渕が、下ろすのを手伝おうと近づいた時だった。二人の背後でガシャンという大きな金属音が鳴った。体育倉庫の扉を閉められたのだ。理英は迂闊にも作業の終わった男子生徒から、第二倉庫の鍵を預かることをしていなかったのだ。ハッとした二人が扉の方を振り返ると、男子生徒の笑い声とともに、
「お二人さ~ん、ごゆっくり~!」
という冷やかしの声が聞こえた。永渕と一緒に道具を片付けていた、後藤と平岡の声だった。どちらも悪餓鬼として、生徒達からも教師達からも認知されていたし、永渕とは決して仲が良いとは言えない生徒達だった。理英が慌てて扉の方に駆け寄って扉を開けようと試みたが、もうビクともしなかった。
「やられた!」
永渕が呆れた様に小さく叫んだ。
「どうしよう?」
思わず理英は永渕の方を振り返って、心細そうに呟いた。永渕は、鈍いのか、何も考えていないのか、ボーっとしているだけなのか、この状態にも表情一つ変えずにいた。しかしこういう時には、永渕の茫洋とした感じが物事に動じない印象を与えて、逆に安心感を与えてくれた。
「出入口はそこしかないから、外から鍵を掛けられたんじゃ、もう助けが来るのを待つしかないね。」
「仕方無いわね。」
理英もそう言うと溜息を吐いた。
「幸いにも2時限目が終わったところだから、3時限目・4時限目に僕たちが席に居なければ、さすがに先生が気が付くと思うよ。少なくともこれまでは、授業をエスケープすること無く、真面目に受けてきたんだから。」
「そう言えばそうね。」
「それより、君を巻き込んじゃってごめんね。多分、僕が恨まれてるんだと思う。」
永淵がそう言うのを聞くと、急に理英はドキドキし始めた。さすがにこのまま何日も閉じ込められっぱなしということは無いと思ってはいたが、こんな格好で二人っきりで閉じ込められているという状況が、理英の心臓の鼓動を速めていた。理英は永渕と並んで立っていたのだが、そのことに気付くと思わず一歩後ずさって距離をとった。永渕の人間性を信じていない訳では無かったが、状況が状況であるだけに、自分に好意を抱いているという事実と、この間のキスの一件で、万一ということもあるのではないか、という考えが頭を掠めて、意識せざるを得なかったのだ。しかし、その様子を見ていた永渕が笑いを噛み殺した声で尋ねた。
「何?僕に襲われるとでも思ってるの?」
「別にそんなつもりじゃ・・・」
「隠しても分かるよ。まあ、この状況じゃ当然だね。」
「ごめん!信じてない訳じゃないんだけど・・・」
「確かに僕にとっては千載一遇のチャンスだけれど、これは誰かの過失でこうなったんじゃなくて、明らかに故意だからね。」
「どういう意味?」
「狙いは明白だね!もの凄く美味しそうな餌だけど、その手に乗ったら身の破滅ってこと。」
「意味分かんない。」
「決まってるじゃない。あいつ等は僕や君に対する、先生や同級生からの信頼を失わせたいんだよ。考えてもごらん。助けが来た時に、僕と君が素っ裸で抱き合ってたとしたら、一体どうなるか?これまで積み上げてきた信頼が、一遍に崩壊しちゃうよ。そんなの嫌でしょ?」
「確かにそうね。」
「『据え膳食わぬは男の恥』って言うけれど、僕はへそ曲がりでね。そんな思惑にうかうかと乗って、誰かの掌の上で踊らされる気はさらさら無いよ。こんなにハッキリとした悪意を向けられているのに、考えも無しに罠に掛かると思っているのならば、僕を馬鹿にし過ぎだよ。据え膳に後足で砂をかけてやる!」
理英は永渕のその科白を聞くと、プッと噴き出してしまった。
「僕、何かおかしなこと言った?」
「ううん、違うの。結構プライドが高いなあって思って・・・」
「だってこの企みは、人間なんて一皮剥いたらみんな同じだろ、って高を括っているからやったんでしょう?」
「つまり永渕君は、お前の頭では測りきれない人間だって居るんだぞ、って言いたい訳ね。」
「だから君は安心して良いよ。今回僕は手を出さないから。」
「今の言葉信じていいのね?」
「うん。『季布に二諾無く、侯臝一言を重んず。』ってやつだよ。」
「何、それ?」
「初唐の魏徴って人が作った『述懐』ていう漢詩の一節さ。親父が詩吟をやってるもんだから詳しくなっちゃって。李攀竜っていう人が編んだ『唐詩選』っていう明代の漢詩選集の冒頭に載っている詩だよ。」
「どんな詩なの?」
理英がそう尋ねると、永渕は見様見真似で『述懐』の詩吟を、「中原還た鹿を追い・・・」と詠じた。そして詩吟が終わると、また話を続けた。
「『隋唐演義』っていう本によると、魏徴っていう人は唐に帰順してから皇太子の李建成って人に仕えてたんだ。帰順する前に居た瓦崗塞っていう所で同志だった秦叔宝・程知節・王伯當・羅士信といった豪傑達は弟の李世民に仕えたので、離ればなれになったんだ。ところが、李世民が皇太子の地位を脅かし始めると、魏徴は李建成に李世民を粛清するように進言したんだ。でも李建成は心根の優しい人だったから、弟の殺害を逡巡しているうちに、李世民の方が感付いてしまって、逆に『玄武門の変』を起こして兄を返り討ちにしてしまうんだ。魏徴は生け捕りにされるんだけど、李世民に剛直な性格を気に入られて自分に仕えるように命じられたんだ。その時の自分の胸中を吐露したのがこの詩なんだ。僕が引用したのは、その中にある比喩の部分だけどね。」
「へえ~、そんな詩なんだ。」
「この季布っていうのは、項羽と劉邦が天下を争った漢楚の争覇戦の時に項羽に仕えていた武将で、鐘離昧と共に最期まで付き従った忠臣ということになってるんだけど・・・」
「違うの?」
「実際は、両者の形勢が逆転した『垓下の戦い』の辺りで、一兵卒に身を窶して戦線を離脱したみたいなんだ。つまり項羽を見捨てたんだね。」
「じゃあ、どうしてそんな風に言われているの?」
「確かに義理堅い人ではあったようだけど、そう信じられたのは、同郷の遊説家だった曹丘生が『黄金百斤を得るは、季布の一諾を得るに如かず』という評判を世間に広めたせいらしいんだ。PRするのって大事なんだね。」
「なるほどねぇ~。」
「まあ、僕の場合には、大望があるから手を出さないっていうのもあるんだけどね。」
「なに、それ?」
「僕は君のことが好きだけど、別に今君とイチャイチャしたりとか、肉体関係を持つことが最終目標じゃないよ。そんな目先のことより、もっと先のことを見据えてるんだ。できたら、これから先の人生を君と一緒に歩いていけたら、って思ってる。それなのに、こんなところで劣情に負けちゃったら、君のご両親は僕のことをなんて思うだろうね?そんな状態になったら、永年に亘って上手くやっていけると思う?」
理英は永渕のその科白を、驚きを持って聞いていた。急にそわそわとし始めたが、そんなことはおくびにも出さないように、努めて冷静さを装って、
「まあ、良くは思わないでしょうね。」
とそっけなく答えた。
「結婚っていうのは、本人同士だけじゃなく、家同士でするものでしょう?だったら、今ここでそんなことをしたら、後で大変なことになるのは目に見えてるよ。特に君のお父さんはそんなことをした後で、『お嬢さんをください。』って言っても、首を縦に振ってくれないだろうしね。」
それを聞くと理英は内心ドキドキし始めたが、わざと大声でアハハハッと笑って誤魔化した。
「確かに『大望』だわ!」
「それに考えてもごらんよ。僕は長男で、君は男の兄弟がいない長女だ。と言うことは、もし一緒になったら、将来どちらかの親と同居することになるかもしれない。そんな時に僕と君のご両親の関係がギクシャクしていたらどうなると思う?少なくとも、子供の教育上良い影響は与えないと思うけど・・・」
「そんな先のことまで考えてるの?」
そう言うと理英は呆れた様に永渕を見た。
「でも、確実にやって来る未来かもしれないだろう?だったら今のうちから、先を見据えた行動をしなくちゃ!」
それを聴くと理英は含み笑いを浮かべた。
「気の長い話ね。」
「少なくとも、明るく健全な家庭を築いていくためには必要な工程じゃないかな?僕にとっては将来に向けた『明るい家族計画』だと思うけど?」
さすがに今度は理英も噴き出した。
「それ、意味が違うと思う。」
そう言うと理英は愉快そうにケラケラと笑った。
「でも、此処で僕たちが何もしなくても、世間は何て言うか分からない。そのためにはここを早く脱出するに越したことは無いけれど、この入口を除くと脱出口になりそうなのは、やはりあそこの窓くらいしかないのかなぁ?」
そう言って永渕は、入口があるのと同じ壁の上部にある窓を指差した。窓は壁の上部に幾つか並んでおり、人間が出入するには大きさは申し分無かったが、高さはゆうに3メートルを超えていた。
「窓ははめ殺しじゃなさそうだし、大縄跳びの縄が何本かあるから、それを繫げて身体と棚にでも括り付ければ命綱になると思う。向こうに出た後はレスキュー隊員がよくやるように、壁を歩くようにして降りれば良いんだけど、問題はどうやってあそこまで登るかだよね。僕が壁際に立って君が肩の上に乗っても、果たして手が届くかなあ?」
「やってみる?」
「でも無理はしないようにね。落っこちて怪我をしちゃあ大変だ。」
永渕は5メートルはありそうな大縄跳びの縄を2本結び合わせると、一方の端をスチール製の棚に結わえ付け、引っ張って安全を確認した後、もう一方の端を理英の身体に斜めに巻きつけた。理英は「なんだか引田天功になったみたい。」と思っていると、永渕は窓が設えられている壁に向かってしゃがみ込んで、理英に肩の上に乗るように促した。理英が肩の上に乗ると、永渕は壁に手を突きながらゆっくりと立ち上がった。しかし、理英が肩の上で伸び上がっても、まだほんのちょっとだけ指先が届かない。
「ダメ、届かない!」
「じゃあ、僕の頭の上に乗れる?」
この申し出に理英は驚いた。さすがに他人の頭を土足で踏んづけることに抵抗があったのと、立った時に安定感が無さそうだったからだ。しかし、永渕はなおも頭の上に乗ってみるように促した。理英は躊躇いながらも永渕の頭の上に乗ってみると、なんとか指の第一間接を窓の桟に掛けることができた。意を決して懸垂の要領で身体を持ち上げようとしてみたが、やっぱり上手くいかない。そのことを永渕に伝えると、
「そっか、分かった。怪我をしちゃ馬鹿馬鹿しいから、もう降ろすよ。仕方無いからおとなしく助けを待とう。」
永渕はそう言って、理英に桟から手を放すように声をかけると、またゆっくりとしゃがみ始めた。脱出を諦めることにしたのだ。理英が永渕の肩から降りると、永渕の白い体操服の肩の部分に理英の足跡がついているのが目に入った。二人はスチール製の棚に背を凭れるようにして、マットの上に足を投げ出して座った。
「ごめんね。体操服汚しちゃって。」
「いいよ、それより君の方こそ指は大丈夫?」
「大丈夫!桟についてた埃で汚れただけよ。」
「確か左利きだったよね。じゃ、僕の左手首を右手でぎゅっと握っていてくれない。」
「永渕君は右利きだったよね?」
「元々は左利きだったらしいんだけど、幼い頃に矯正されたんだ。だから今でも握力も腕力も左の方が強いんだ。もし僕が変な気を起こしても、こうすれば・・・」
と言うと永渕は、理英の手首と肘の近くを握って回して見せた。その瞬間、手首の間接を極められたのが分かった。下手に動けば骨折しそうだった。
「・・・どう?これなら万一のことがあっても、僕の身体の自由を奪えるでしょう?これは『一教』という合気道の技なんだ。さらにこうやって、相手の腕を両手で持って一直線になるようにして捻って、自分の脇を支点にして体重をかけて倒れこむと『脇固め』という関節技になって、完全に相手を制圧できるでしょう?護身術として使えるから覚えておいてね。」
「分かった!でもこんな技、一体どこで覚えたの?」
「僕の従兄が去年東大の文科一類に合格したんだけど、同時に合気道部に入部したんだ。そこで習った技を、僕を実験台にしてよくかけてくるんだ。これはその一つさ。」
「へぇ~!東大の運動部なんて、みんな野球部みたいに弱いのかと思ってたんだけど・・・」
「合気道部は違うみたいだね。警察官僚の亀井静香さんって人は、卒業後も毎年正月の寒稽古に参加していて、警察の逮捕術なんかを教えてくれてるらしいよ。」
その後、二人は暫くの間、そうやって他愛の無いお喋りをしていたが、やがていつしか永渕はうとうととして眠り込んでしまった。スースーという寝息が聞こえ始めると、理英も安心したのか一緒に寝入ってしまった。
1時間後、永渕と寛永寺、二人の姿が見えないことに気付いた3時限目の地理の担当教師である杜が、職員室に戻ってきて伏見に異変を伝えた。寛永寺の授業態度は決して良いとは言えなかったが、これまで授業をサボったことは無く、永渕に至っては皆勤賞だったのだから、伏見もさすがに異常を感じ取った。伏見は杜から連絡を受けると、直ぐに直前の授業だった体育担当教師に連絡を取って事情を聞いた後、2年9組の教室へ取って返して、クラスの生徒たちを問い質した。後藤と平岡があっさり白状したことで、伏見は4時限目に授業の無い他の女性教師に応援を頼み、鍵を持って第二体育倉庫へ赴いたのであった。女性教師だけに応援を頼んだのは、体育倉庫の中で何が起こっているか分からないからである。伏見は永渕を信頼してはいたが、この間の一件で、万が一ということが頭を掠めたのである。
第二体育倉庫のドアの前まで行くと、伏見は心の中で間違いが起こって無いことを祈りながら、
「二人とも居る?大丈夫?」
と中へ声を掛けた。伏見は自分では落ち着いているつもりだったが、その声は上擦っていた。しかし中からの返事は無かった。そこで伏見たちは第二体育倉庫の鍵を開けて、他の教師と一緒に中へ踏み込んだ。しかしそこで見た光景は、拍子抜けするほど長閑なものだった。
窓から差し込む陽の光の中に、体操服姿の二人の姿があった。二人の手はしっかりと繋がれていたが、スチール製の棚に背中を預け、マットの上に足を投げ出して座っていた。お互いの頭が凭れかかるような状態で、気持ち良さそうに眠りこけていたのである。教師達が倉庫の中に入ってくる足音に気付くと、二人は眠そうな目を開けて、安堵の吐息を吐く教師たちの姿を虚ろな目で見詰めた。
「ああ、助けに来てくれたんですね。」
永渕が間延びした声で話し掛ける。国語を担当している女性教師の鮎川が、倉庫の中と二人の匂いを嗅いだ後、伏見に目配せをして、
「まあ、この二人のことだから心配はしていなかったけど、何も無かったようね。安心したわ。」
と本音を漏らした。
伏見は万一のために女性教師だけに声をかけてやって来たが、杞憂に終わったことを喜んだ。
6月に入って直ぐの土曜日に、殿上中学校の校内記録会があった。その日、会場となった門司競輪場周辺は、抜けるような青空に、初夏の陽射しが降り注いでいた。
校内記録会とは、各クラス毎に代表選手を出して、陸上競技の記録を競う大会である。体育祭と違うのは、純然たる陸上競技の種目だけで競うことである。会場も学校のグラウンドではなく、近くにある門司競輪場を借りて行われる。競輪場の走路内に陸上用トラックがあり、北九州市立門司陸上競技場として活用されているのである。実施競技は、100m走、200m走、400m走、800m走、1,000m走、1,500m走、4×100mリレー、4×200mリレー、4×400mリレー、100mハードル、110mハードル、走り幅跳び、走り高跳び、三段跳び、遠投、そして砲丸投げである。
足の速い理英は、100m走と100m×4リレーの選手に選ばれていたのであるが、意外なことに永渕も1,500m走の選手に選ばれていた。
校内記録会に出場しない生徒は、基本的に競輪場のスタンドから応援することになっているが、総務委員や体育委員・保健委員等の役員は、教師の指示に従って、本日行われる競技の進行の補助をしたり、トラックの内側に設置されたテントの中で諸々の雑事に追われて働いていた。無論、総務委員の理英と保健委員の永渕も、身体の空いている時間には、トラックの内側でよく立ち働いていた。
記録会の実施競技は順調に消化されていったが、理英が予想もしていなかった波乱もあった。1,500m走の代表3人の中に永渕が入っていたのだが、出場選手27人中3着でゴールしたのだ。永渕と小学校が同じだった女子生徒たちからは常々、永渕は足が遅いと聞かされていたので、理英も大して期待はしていなかったのである。しかし、それはどうも短距離走に限った話だったようである。
後で中村聖子に聞いてみたところ、100m走ではいつもクラスでビリ争いをするほど遅かったが、小学校5年の時に200m走が体育の種目に加わると、クラスでも真ん中に近い順位になったそうである。小学校6年になって、400m走や800米mもやるようになると、更に順位を上げてクラスでも5位以内に入るまでになったということだった。競走馬でいえばスプリンター・タイプではなくステイヤー・タイプのようで、走る距離が伸びるほど順位が上がるようである。
尤もゴール直後に話し掛けた時には永渕は、陸上部のように毎日練習しているのでもない限り、長距離走は根性のある順番にゴールできると言い切っていた。
今日の永渕はスタートの号砲が鳴ると同時に、積極的に先頭集団に加わった。陸上部の浅井と小久保が1・2フィニッシュを決めたのは下馬評通りだったが、意外にも20メートル近く離されながらも3位でゴールしたのである。予想外の展開に、理英も途中から興奮して、黄色い声援を送っていた。
そして教師たちや各種委員の生徒たちの働きによって、記録会はプログラム通り順調に進行していき、後は、100m走×4リレーを残すだけになった。2年9組はここまで順調に結果を残していた。しかし、好事魔多し。アクシデントはこの最終種目で起こった。
永渕や理英の所属する2年9組の第1走者は、陸上部の三波笑子が務めた。ぶっちぎりのトップで第2走者にバトンを渡したが、第2走者で他のクラスにじりじりと差を詰められ、第3走者では僅かな差ながら、2年2組と2年5組に抜き返されてしまった。いよいよアンカー勝負となり、勝負の行方は理英の細い双肩に掛かることになった。
3つのチームが殆ど差が無い状態でバトンパスを行なうと、理英は一気にトップ・ギアに入れた。2位の2年5組のランナーは難なく抜けたが、1位の2年2組はアンカーに最も足の速い生徒を置いていたらしく、僅かな差なのになかなか縮まらない。そこで50mほど過ぎた所で理英は勝負に出た。余力を残さないように、更にもう一段ギアを上げたのだ。本当はゴール直前まで脚を溜めておきたかったのだが、仕方が無かった。
前のランナーの真後ろの位置から少し脇にずれると、見る見る差を縮めていった。ついに差が1m以内になったところで、2組と9組の席でワッと歓声が上がった。ゴールまであと20メートルもない位置だった。その歓声で気が付いたのか、2組のランナーが抜かれるのをブロックしようとして少し脇にずれてきたため、一気に抜こうとしていた理英と交錯してしまった。2組のランナーの蹴り上げた後ろ足が、理英の軸足である左足を薙ぎ払う形になったのだ。軸足を刈られた理英は、咄嗟に残った右足で堪えようとしたため、却っておかしな体勢で転倒してしまった。
会場全体がワッとどよめく。見る見る2組のアンカーとの差が開いていく。理英は直ぐに起き上がろうとするが、脚が思うように動いてくれない。必死でもがく理英の横を、5組のランナーが避けながら抜いていく。右足が変な形に曲がった状態で倒れこんだのを見て、直ぐに永渕が動いた。同じクラスの保健委員をしている秦に声を掛ると、真っ青な顔で秦の腕を引っ張りながら一緒にコースに飛び出してきた。そして審判にレースの棄権を告げると、理英の許に駆け寄った。
「変な倒れ方したけど、右足は大丈夫?」
そう言いながら永渕は、理英の右足からシューズを脱がせ、靴下を剥ぎ取った。
「大丈夫って言いたいけど、結構痛い・・・」
理英は涙目になりながらも、か細い声でそう返事をした。足首が腫れあがり、紫色に変色しているのを認めると、永渕は理英の背中と膝の裏に手を回して、理英の身体を抱え上げた。丁度「お姫様抱っこ」をする格好になったため、最初に2年9組が陣取っているスタンドから指笛や冷やかしの声が飛んだ。それを聞いた他の生徒も事情を察したらしく、同じ様に冷やかし始めた。
競技トラックの内側の芝生に座っている生徒達からの冷やかしの声が耳に入り、理英は耳朶まで赤くなったが、永渕は委細構わず、トラックの内側に設えられた救護テントに向かって、宙に垂れた理英のツインテールを揺らしながら走り出した。驚いた理英は思わず永渕の首に腕を回して身体にしがみ付いてしまった。同じ保健委員の秦が、人間を抱えてこんなに早く走れるものなのか、とばかりに驚いた表情で後に続いた。
永渕は救護テントに着くと、中に臨時に設置された簡易ベッドの一つに理英を下ろして、今度はトラックの外周に建っている観客スタンドの下にある競輪場施設本体の建物の中に、また慌しく駈けて行った。直ぐに氷を入れたバケツを持って戻って来ると、理英の痛めた足をバケツに突っ込んだ。その時には、既に女性の校医が理英の足首を見ていて、周囲には2年9組の生徒が10人ほど集まってきていた。
「みんな、ごめん。せっかくバトンを繫いでくれたのに・・・」
理英が申し訳無さそうに震える声でみんなに詫びると、皆が口々に理英を慰めた。
「いいわよ、気にしないで!」
「自分を責めないで、ピッピ。」
「事故だったんだ、仕方が無いよ。」
永渕が不安そうな声音で校医に尋ねる。
「先生、どうですか?骨折や肉離れは?」
「そんな泣きそうな顔しなさんなって!」
校医が答える。その口調から察するに、彼女も理英と永渕の話を知っているようだった。
「大丈夫よ、内出血や炎症の具合から見て中度の捻挫だけど骨や腱には異常は無いわ。患部の見た目は酷いけれど、そんなに心配しないで良いわよ!でも、もう今日は此処から引き上げて、病院でレントゲンを撮ってちゃんと診てもらった方が良いわね。」
女性の校医はそう言うと、応急処置として理英の足首を固定するためのテーピングを始めた。しかし翌週から、理英は数日間学校を休むことになってしまった。
という訳で、登場人物の設定紹介エピソードの投稿が終わり、いよいよ次回から謎解きエピソードの開始です。第二章の終わり方から気付いた読者の方も居られるかもしれませんが、まずは「安楽椅子探偵」から挑戦です。ご期待ください。