表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

第一章 パンドラの函

 「キャーッ!」という女子中学生の黄色い声が、教室中に充満する。それまで水を打ったように静かだった教室が、興奮の坩堝と化していた。顔を赤くする者、好奇の目で見守る者、この事態にどう対処して良いか分からずに立ち尽くす者、さまざま反応が教室中に溢れていた。その騒然とした様子に、既にホームルームが終わった隣のクラスの生徒たちも、何事かと覗きに来始めた。クラス担任の伏見光代は、この騒ぎに頭を抱えてしまった。

 それは1976年の5月下旬、もうすぐ梅雨に入ろうかという日の、2年9組での出来事だった。



 伏見光代の勤めている殿上中学校は、九州の最北端、企救半島にある政令指定都市、北九州市を構成する門司区にある。門司は戦前には交通の要衝として、そして中国大陸や東南アジアとを結ぶ、日本第2位の国際貿易港として栄えていた。しかし戦後になって、福岡県の中心産業であった炭鉱で閉山が相次ぎ、県の中心が県庁所在地である福岡市へと移ってしまったため、北九州市に拠点を構えていた大企業も次々と福岡市へ移転してしまい、街の衰退が始まっていた。また、ここにあった五つの市が合併して北九州市が誕生したことで、市の中心も徐々に小倉へと移ってしまい、街は廃れていく一方だった。そして北九州市の基幹産業である製鉄業が「鉄冷え」によって斜陽産業となったことで、街から活気が失われ、それにつれてそこに住む人々の心も荒みつつあった。

 伏見がいる殿上中学校は、そんな門司の町の中央に位置している。門司区は細長い地形の上、海岸線のすぐ近くまで山が迫っていて、居住できる土地は限られているため、町並みも海岸線に沿って細長く発展せざるを得なかったのである。そのため国鉄の鹿児島本線も西鉄の路面電車も、海岸線に沿うように走っている。この区には中学校が九つあるが、殿上中学校はその中でも最大の中学校で、内裏東と藤ヶ丘という二つの小学校の卒業生を受け入れていた。学年毎にクラスは九組まであって、一学年につき400人を超える生徒が在籍している。

 伏見光代は30代前半で、北九州市立殿上中学校で教職に就いていた。美大を卒業した後、「美術」の担当教員として北九州市に採用されたのである。現在は美術教師としてだけではなく、クラス担任に美術部顧問と、三足の草鞋を履いていた。伏見の実家は、重要文化財に指定されている門司港駅の近くにある錦町商店街で画材店を営んでおり、伏見にはお嬢様育ちなところがあったため、時間に追われる様な生活が続くことによって、自分の芸術家としての感性が摩滅していくのを感じていた。しかも、伏見は美術教師として勤めていても、画家としての絵画制作の道も諦めておらず、二科会に所属し二科展等への出品も続けており、それが忙しさに更に拍車をかけていた。

 伏見はこの春からは2年9組の担任を受け持っていた。この中学校は3年ほど前までは荒れていて、校区内の生徒の中で裕福な家の子供は、国立の福岡教育大附属小倉中学校か、私立の名門である明治学園へ流出してしまうという現状に苦しんでいたが、最近やっと少しずつ落ち着きを取り戻しつつある、という状況であった。

 しかし、まだ気を緩めることは出来なかった。フィリップ・ジンバルドという心理学者の行動特性の検証を基に、環境犯罪学の分野で「割れ窓理論」というものが研究されているそうだが、断片的に入ってくる情報には、一々頷けるものが多いのである。だとすれば、ここで安心して手綱を緩めてしまっては、これまでの努力が水泡に帰するのではないか、という不安を教員全てが共有していた。


 伏見は、来月の授業計画を立てる手を止めて、自分の机の上にある冷めた緑茶を一口啜った。門司区には1000メートルを超える高い山は無いが、それでも10峰ほどの山々が峰を連ねている。その中で最も高いのが標高518メートルの殿上山であり、殿上中学校はその麓に立てられているが、海岸線の近くにまで山が迫っているため、日中の海風がここまで心地良い潮の香りを運んで来るのである。

 伏見は開いた窓から入ってくる潮の香りのする空気を吸い込むと、一度大きく伸びをして目を閉じた。初夏の暖かな日差しが心地良く、先ほどあった嫌な出来事を暫し忘れることにした。


 伏見は昼休みに教頭の水木に呼び出され、担任を務めているクラスのことで叱責を受けたばかりだった。クラスの中でできる生徒とできない生徒の差が大き過ぎるというのが、その理由だった。確かに伏見の受け持つクラスには、学年で10番以内に入っている生徒が5人も居たが、反対に350番以下の生徒も7人も居た。1クラス45人編成で9クラス在って、1学年400人ちょっとであることを考えると異常な偏りだった。

 尤もこれにはれっきとした理由があった。本来ならば1年生の学年末試験の結果で、成績が優秀な生徒も振るわない生徒も、均等にバラけるようなクラス分けをするはずだった。しかし前年度の学年末試験を実施する際に、男子担当の若い体育教師の安永が、100点満点のうち、筆記試験の成績は50点までとし、残りの50点は平常点、つまり普段の授業における実技の点数を加算すると言い出したのだ。

 他の教師たちは、平常点のつけ方が安永の恣意的な採点になり易く、採点の透明性が保てないことから反対した。また筆記試験は、実技の振るわない生徒、つまり運動が苦手でも真面目な生徒を救済するという側面を持っていることを主張して反対する教師も居たが、結局安永が押し切ってしまった。その結果、筆記試験は良いが実技はちょっと、という生徒は押し並べて低い点数に抑えられてしまい、却って2年生のクラス編成の段階で、学力の偏りが生じる結果となってしまった。

 そしてその影響をモロに受けていたのが、伏見が担任を務める2年9組であった。伏見のクラスには、本来学年で10番以内に入る成績の生徒が5人も集まってしまった代わりに、成績が学年でも最下位に近い生徒も多数含まれてしまったのである。そのため、授業の進度や内容のバランスをとることは、各科目の担当教師の頭痛の種になっていた。伏見自身も、これならばいっそのこと、学力別クラス編成にした方がやり易い、と思わずにはいられなかった。

 水木教頭は言う。しかし、ここは公立中学校なのである。最優先事項は、たとえ本人たちがそれを望んでいたとしても、優秀な生徒を更に伸ばしてやることではなく、生徒全体の底上げなのであり、落ちこぼれる生徒を極力出さないことなのだと。水木教頭の言うことは正しい。だとすれば、一部の生徒が不満を持っていても、授業の内容が成績の低い生徒に合わせたものになるのも仕方の無いことなのである。

 そのことを伏見は頭では理解しているのであるが、だからと言って、更に上を目指しているできる生徒の存在を無視するのは筋が違うと思っていた。第一、落ちこぼれそうな生徒のためを思って授業内容を落として合わせているのに、肝心の彼らがそれを聞いていないのであれば、できる生徒たちの方が不満を募らせるのも致し方ないことなのである。それにできる生徒たちは、本来褒められこそすれ、責められるべきことは無いはずである。伏見はそう考えると、特にこの5人には要らぬ迷惑を掛けているのかもしれないと思った。ひょっとしたら、寛永寺の授業態度が悪いのは、そういった不満を抱えていることも一因なのだろうか、と考えると申し訳無いという気持ちが込み上げてきた。つい、自分のクラスの生徒一人ひとりの顔を思い浮かべてみる。


 伏見のクラスで一番成績の良い生徒は、寛永寺理英という女生徒である。彼女は学業においてだけでなく、スポーツや音楽・美術・家庭科全てにおいて優れた成績を修めている。そしてそれは学内だけでのことではなく、この学校がある区内9校の中で、昨年3回行われた業者による共通テストでも、ずっと主席を通していた。尤も本人は、そのことを鼻にかけて取り澄ましているという訳では無かった。むしろ傍から見れば普通の女の子と全く変わらないため、人から言われない限りそうとは見えないのである。

 もし欠点を挙げるとするならば、それは授業態度であろうか。他の女の子同様お喋りが好きなようで、授業中も両隣の席の女の子たちと、授業そっちのけでお喋りに興じていることが多々あった。だが、そこで問題を出して回答するように当ててみても、寛永寺はいつでもキチンと正解を答えるので、始末に負えないのである。教師の中には小面憎いと口にする者も居て、その成績の割りに教師の間の評判は芳しくない。彼女は懸命に努力しなくてもキチンと結果を出してしまう、いわゆる天才型の人間なのだろうと思わずにはいられないのである。

 寛永寺の容姿は際立った美人という訳ではない。しかし額が少し秀でている点を除けば、可愛らしい顔立ちをしている。しかも、寛永寺は一挙手一投足が綺麗なのである。だから眼鏡をかけているせいで随分損をしている、と伏見は思っている。伏見は彼女の顔を見ると何故か、つい『ポセイドン・アドベンチャー』のパメラ・スー・マーティンを思い出してしまうのであるが、そのことを本人に伝えると微妙な表情を浮かべていた。彼女はジュリー・アンドリュースのファンのようで、どうやら似ていると言うのであれば、そちらの方にして貰いたかったようだ。伏見はつい、これだから年頃の女の子の扱いは難しい、と感じてしまった。

 寛永寺と言えば真っ先に、切れ長の涼しい目とメタルフレームの眼鏡が思い浮かぶほど印象的で、会う人全てに聡明な印象を与えるが、言動はどちらかと言えばまだ、伏見の目には子供っぽく写った。髪型も、校則に則って長い黒髪を三つ編みかツインテールにしているため、背丈はクラスの中でも高い方なのに、年齢よりも幼い印象を与えていた。そして、そのゆで卵の様な白い肌と長く艶やかな黒髪は、どことなく深窓の令嬢を思わせたが、父親は新日鉄の八幡製鉄所に勤めているサラリーマンであるから、飽くまで印象の話である。

 伏見はよく寛永寺が他の女生徒とはしゃぐ姿を見かけていたが、学年トップという成績のせいか、近づき難いと思っている生徒も多いらしく、女子生徒たちの輪の中心に居ることは多いが、本当の意味で友達付き合いをしているのは3~4人位のようである。それが分かったのは、新学年が始まって少し経った頃、寛永寺の様子がおかしくなったからだった。元気が無く、気持ちが沈んでいる様子だったので、女子生徒のうち何人かに尋ねてみたのだが、知らないという答えしか返って来なかった。その状態は半月ほど続いたが、今ではすっかり元の明るさを取り戻しているので、伏見自身も何よりだと思ってもう触れないようにしている。

 寛永寺はその万能ぶりからか、それとも旺盛な好奇心と行動力からか、はたまたツインテールにしている髪型からか、同級生からは「ピッピ」と綽名されている。これはアストリッド・リンドグレーンの童話『長靴下のピッピ』に出てくる主人公のピピロッタ・ロングストロンプに由来している。尤も、そう呼び始めた生徒たちも原作は読んではいないようで、NHKの「少年ドラマシリーズ」の枠で流れた、1969年に制作されたインゲル・ニルソン主演のスウェーデンのドラマを見てのことだったらしい。伏見はそれを聞いた時、寛永寺の特徴を捉えた、なかなか良く出来た綽名だと感心してしまった。

 しかし彼女には、同級生から面と向かって言われることの無い、もう一つの二つ名がある。それは去年一年間をずっと首席で通したことで付けられたもので、「絶対女王」というものである。中には「Absolute Queen」とか「Miss Perfect」と英語で呼ぶ者もいるほどだ。そのため、寛永寺は学年主席という重圧を感じてはいたが、そのことを周囲には微塵も感じさせなかった。そのため、同学年の生徒の中には、涼しい顔でいつも主席を取る嫌味な子と思っている者も多いのである。


 その絶対女王が、学年が変わった早々、その座から陥落するという椿事が起こった。新学年最初の中間試験で彼女を引き摺り下ろしたのは、同じクラスになった永渕であった。

 予兆は昨年からあった。寛永寺は、1年生の間に受けた5回の校内の定期試験と、3回の県内一斉の業者テスト、計8回全てで主席であった。そのため、彼女は気付かなかったのだ。1年生の最初の中間試験でようやく20位に入った男子生徒が、その後回を重ねる毎に席次を上げてきていることを。

 寛永寺の牙城は難攻不落と思われていて、もう卒業するまで安泰なんだろうと皆が興味を失いかけていたところの出来事だったので、校内に与えた衝撃は大きかった。それは寛永寺本人にとっても同じだったようだ。だから中間試験と期末試験の間にある業者テストで、寛永寺が主席の座を奪い返したのは彼女なりの意地だったのだろう。これまで鎧袖一触にしてきた相手に、いきなり平手で頬を張られたようなショックだったのかもしれない。

 この出来事以来、誰の目にも二人の間に一種の緊張感が漂っているようだった。ひょっとしたら、気を回し過ぎているだけなのかもしれないが、二人が接触する度に周囲はハラハラして見ていたのである。


 そのもう一方の当事者である永渕陽一は、伏見のクラスでは最も優秀な男子生徒であり、色白でどことなく中性的な雰囲気を持っている。寡黙で気が優しく、普段は茫洋としていることから、男子生徒の間では少し軽く見られているようだ。顔立ちも優しい面差しをしているため、小さい頃はよく女の子に間違われたと聞いている。彼の行動は慎重で自制心も強く、これらのことは本来ならば美徳であるはずなのだが、彼の場合はそれが消極性に繋がっていて、マイナスに働いている様に見える。元々表情から感情を読み取りにくい生徒であったが、最近は表情の変化まで乏しくなった気がしている。何事に関しても動じないというのとは少し違うが、元来感情を表に出すことはあまりしない生徒であったが、今はなんだか他者に心の中を読ませないようにしているようだ。良く言えば「泰然自若」、悪く言えば始終「ボーっとしている」感じで、腹の底が見えないのである。

 九州という荒っぽい土地柄から仕方が無いこととはいえ、伏見としては1年生の時から彼の担任をしていたため、彼が軽く見られていることについては、ちょっと歯痒い思いをしている。永渕は記憶力や洞察力・数的推理力に優れていて、こういった部分では寛永寺よりも勝っているかもしれない、と伏見は思っている。寛永寺を天才型とすれば、彼は努力型の秀才の典型であった。

 成績については、伏見が知る限りでは、1年生の時は最初から学年でもトップクラスの方ではあったが、決して勉強家だったわけではない。むしろ自然体で淡々とこなしている印象があった。ところが、1年生の夏休みが終わると直ぐに変化が現れ始めた。勉強に熱心に取り組むようになり、3学期には学年で主席争いをする位置にまでつけたのである。彼の母親の話では、夏休みに東大に合格した従兄に会って影響を受けたということであったが、伏見はどうもそれだけではないような気がしている。

 そして成績が上昇し始めると同時に、寛永寺を意識しているのではないかと思われる言動が端々に見られるようになったのである。切磋琢磨する相手として意識しているのならば良いのだが、一方的に敵視しているようだと、今は同じクラスに居るだけに、ちょっと面倒なことになりそうだと危惧している。

 この生徒のことを考える時には、親のことも考慮する必要があった。彼の家は明治維新直後から3代続く理髪店であるが、結構教育熱心な家庭なのである。それは勉学以外のことにまで及んでいて、口煩く躾けられていた。彼は元々寛永寺と同じく左利きだったようだが、旧士族の家系であるせいか、かなり早い段階から無理やり右利きに矯正されたことがそれを物語っている。

 教育に関しても独特の方針があり、義務教育期間である以上、日々の生活の中では学業こそが最も優先すべき事項であり、それはとりもなおさず真面目に授業を受けるのが当たり前である、ということだった。そして試験の点数というのは、授業をちゃんと聞いていたかを示すバロメーターであるから、90点以下ということは、授業の1割以上を聞いていなかったということに他ならず、1科目でも90点以下があれば罰として丸坊主にされていた。尤も、1年生の2学期以降は、丸坊主にされることは滅多に無くなったが・・・

 しかし同時に、伏見は親だけでなく、永渕本人も少し変わった生徒だと認識している。この年頃の男の子は、大抵が女子生徒の目を意識するようになる。ところが彼は、1年生の時はそうではなかった気がするのだが、現在の彼の行動からは、女子生徒に好かれようという意志は、一切感じられなくなっている。と言うより、自分の意思を通すためにはなりふり構っていられない、という焦りの様なものを感じてしまうである。そのため、目的を達成するのに邪魔になる場合には、女子生徒にどう思われるかということまで考えないような態度が目につき始めている。


 他の3人は学年でも10番以内の席次を行ったり来たりしていたが、女子生徒の中で2番目になるのは、中村聖子になるだろう。ショートカットでボーイッシュな、宝塚歌劇団の男役にでも居そうな少女であり、活発な印象がある。

 彼女には5歳上の姉が一人居り、数年前にこの中学を卒業していたが、やはり優秀な生徒だった。本人は姉の存在を強く意識しているようで、学業についても、その対抗意識からか、真面目に取り組んでいた。

 中村は、姉の影響からか、寛永寺とは正反対で、言動はどちらかと言えば大人びたところがあった。父親は大学の教授で、母親も高校の教師をしているため、教育に熱心な家庭という印象を受ける。彼女にはこの中学に従姉妹が3人いて、その内の一人が同じ学年にいるため、放課後はいつもその子とつるんでいた。そして彼女は永渕の幼馴染であったため、永渕と最も親しい女子生徒である。珍しく永渕とは「陽ちゃん」、「聖子ちゃん」と名前で呼び合う仲であるが、伏見の目から見れば、喧嘩友達に近い印象がある。尤も、中村はプライドが高く勝気な性格らしく、他の男子生徒とも強い口調で言い争っている姿を目撃している。

 実は、新学期が始まった当初、中村は積極的に寛永寺と交流を持とうとしていた節があった。何か学べるところがあると思っっていたのかもしれない。しかし何時の間にか、それほど口を利かなくなってしまっていた。今では、それぞれ気の合う仲間と別々のグループを作っている。そして彼女も永渕と同じく、寛永寺をライバル視している感じがしている。

 寛永寺のグループに集う女の子はどちらかというと子供っぽいところがあり、学業の成績もまちまちであるが、中村のグループにいる子は成績が良く、少し大人びた感じの子が揃っている。最初は、派閥争いの様な事は起きないことから、趣味や性格の違いによるものだろうと考えていたが、今は何となくお互いにわざと関心を持たないようにしている感じがしているのである。


 男子でクラスの次席と言えば、やはり瀬木康彦だろう。彼も永渕とは同じ小学校の出身で、小学校でも4年間同じクラスだったらしい。永渕に言わせれば、瀬木は感性や直感に頼った行動をとる天才型の人間なのだそうである。そのため、昔から瀬木は突拍子も無い行動をとっては、周囲を驚かせていたらしい。

 ただし、瀬木の行動は一見マイペースに見えるが、女の子の視線を多分に意識し過ぎるところがあり、新学期早々に伏見たち教師陣を驚かせる挙に出ていた。2年生になって突然、野球部へ入部したのである。クラブ活動は通常、1年生で入部し、段々と辞めていくものであるが、彼は敢えて中途入部に踏み切ったのである。

 これには全校が驚いた。学年でもトップテンに入る秀才が、そろそろ進路のことを考え始めなければいけなくなる時期に、敢えて最も練習が厳しく、学業に割く時間が削られる部活動を始めたのであるから、その反響は凄まじかった。特に、生徒よりも教師の方に、当惑する者が多かった。しかもその動機を聞いて教師たちは呆れてしまった。というのも「女の子にモテたい」だったからである。

 学業でいえば、瀬木は感性や直感に頼った行動をとる割りに、理数系の方が得意であった。ただし、その解き方は閃きに頼る部分が大きく、決して論理的な思考をしているという訳ではない。そのため成績には波があって、安定感は感じられない。

 永渕と大きく違うのは、運動におけるセンスの良さであろう。特に団体競技では、いつの間にかゲームの流れの中で大事なところに居て、印象的な活躍をするのである。要領がいい、というのとは違う気もするが、勘が良く勝負事に関する嗅覚は鋭いとしか思えないのである。


 5人目は、米田真美である。彼女は他の4人が強烈な個性を放っているのに比して、おとなしく物静かな性格のため、一番目立たない存在である。成績は学年で10番前後をキープしているうえ、席次の変動の幅も小さいことから、伏見は安定した印象を持っているが、地味な印象は拭えない。

 身体は大きい方ではなく、肌の色も浅黒いせいか容姿に自信が持てないようである。本人の態度からも、そのことを気にしている様子がありありと窺えた。また、そのせいで一人で居ることが多く、そのことが消極的な性格に輪をかけているような気がしていた。永渕も一人で居ることが多いが、彼の場合は好んで一人になっている面があり、また一人で居ることを愉しんでいる風があるが、彼女からはそういう感じを受けることはなく、どことなく寂しさがつきまとうため、気をつけてやらねばならない子である、という認識である。

 学業においては、女の子らしく理数系科目に苦労しているようではあるが、特にその科目の成績が悪いという訳ではなく、点数的には得意な科目も無ければ、苦手にしている科目も無いため、押し並べて成績が良いという印象である。そして何より授業態度が良く、コツコツと見えないところで努力を積み重ねるタイプであるため、伏見は好感を抱いている。

 敢えて欠点をあげるならば、消極的過ぎて、率先して物事をやってみんなの模範になるということが期待できない点であろうか。これだけの優等生であるのに、先に挙げた4人の個性が強すぎるため霞んでしまって、ある意味損をしていると思っている。

 伏見は、この五人の顔を思い浮かべると、心の中で五人に対して自分の力量不足を手を合わせて謝っていた。


 国語教師の鮎川の凛とした声が響き渡った。

「はい、今手渡した紙を出しなさい!」

 国語の授業中の出来事だった。女子生徒たちの間で行き交っていた紙片が見つかった瞬間である。

「は~い。」

 罪悪感など微塵も感じさせない、間延びした返事が返ってきた。紙片を手渡した生徒と受け取った生徒が、互いに視線を交わすと、「バレちゃった」とばかりに口元に薄ら笑いを浮かべながら、教壇に立つ鮎川の所までトコトコと歩いて持って来た。

 国語を担当する鮎川真知子は、紙片を受け取るとそれに視線を落とした。そして溜息を一つ吐くと、

「この手紙を回していた生徒は、放課後ホームルームの後に話しがありますから、残っておくように!」

とだけ言って、通常の授業に戻った。

「じゃあ、久保田さん。次の段落から朗読してちょうだい。」


 2年9組の担任である伏見は、授業が終わった鮎川から、職員室で紙片を渡されて事情を説明されると、溜息を一つ漏らした。紙片には相合傘の下に担当するクラスの男女二人の名前と、二人の関係に触れた内容が書かれていた。


 永渕 陽一

 中村 聖子

   永渕は夜な夜な聖子の家を訪ねては逢瀬を重ねている。二人は確実にデキている。


 二人とも伏見が担任を務めるクラスの真面目な生徒であり、家庭訪問で知ったのだが、二人の家は同じ町内にあって、ほぼ斜向かいに位置しているため、幼馴染でもあった。

 特に、永渕の家は曽祖父の代から海岸沿いで理髪店を営んでいるため、店内には順番待ちのお客のために雑誌や漫画本が多数備えられており、近所の子供たちの格好の溜まり場になっていると聴いている。そういった事情もあって、中村も小さい頃から永渕の家に入り浸っていたようだ。しかし二人の性格や態度、そして聴いている話からすると、これは有り得ないのではないか、と伏見は思った。

 紙片に書かれている永渕の行動は事実であったが、伏見は永渕が中村の自宅に通っている目的も、永渕から聞いて知っている。永渕の目的は中村本人ではなく中村の父親だった。しかし、二人の名前が相合傘の下に書かれていることで、紙片を回していた女子生徒達の意図は明白だった。融通の利かないクソ真面目な優等生二人を同時に揶揄できる絶好の機会なのだ。思わず伏見が口走る。

「この年頃の子供たちって、こういう話題が本当に好きよねえ。」

「でもだからと言って、授業中にこういうことをするのは見逃せませんけどね。しかもこういう冷やかすと言うか、揶揄するようなことは特にね。言われる方の気持ちも考えないと。」

 そう言うと鮎川は、伏見の隣の机の椅子に腰掛けた。

「中村さんのお父さんは、大学で宇宙工学を教えてるんですよね。」

「ええ、九州工業大学の教授だと聞いています。」

「なら、永渕くんが足繁く通っているのは、それ絡みの話を聞くためですね。」

 伏見は黙ったまま肯くと、鮎川に尋ねた。

「ねえ、鮎川先生。どう始末を付けたら良いのでしょうか?」

「まあ、授業中に手紙の遣り取りをしたことを叱って、2度としないように言い含めたら良いんじゃないですか?」

「でもこの手紙の内容は、書かれた当事者からしてみれば嫌でしょうね。」

「じゃあ、手紙を回した生徒たちから二人に謝らせますか?」

「それが良いと思います。」


 放課後、いつものようにホームルームを行うと、その最後に伏見が厳かに口を開いた。

「今日、国語の時間にこの手紙を回した人は立ちなさい。」

 先ほどまでとは声のトーンが違っている。伏見が怒っているということが敏感に分かったらしく、さっきまで私語でザワザワと騒がしかった教室の中が、一瞬で静かになった。

 2年9組の女子生徒23人のうち、16人が立ち上がった。聖子と親しい女子生徒は一人も入っていなかった。伏見は毅然として言い放った。

「授業中にこういうものを回すのも感心しませんが、こういう噂話を無責任に流すのも良いことではありません。」

 そこで一呼吸置くと、続けてこう言った。

「書いたのは誰ですか?」

「私です。」

と手を挙げて答えた女子生徒がいる。こういう噂話が好きな本村靖子だ。

「私は中村さんが、毎週土曜の夜になると永渕君が来る、って言っているのを聞きました。嘘は書いてないと思います。」

 そう言うと本村は口を尖らせた。

「そうです、そうです。」

と本村を庇う様に発言した女子生徒がいる。本村と仲の良い堀内真由美だ。

「嘘でなければ、勝手に噂を流しても良い訳ではありません。それにこの文章の後半部分は、単なる憶測に過ぎません。こういうのを『邪推』と言います。」

 その言葉に直ぐに反応して手を上げた生徒がいる。一番前の席に座っている当事者の永渕だった。

「その紙には何が書いてあるんですか?」

 それだけ言うと永渕は着席していた机を離れると、紙片を貰おうと教壇の方へ手を伸ばしてきた。一瞬、伏見は躊躇ったが、紙片を渡すことにした。永渕は紙片に目を落とすと、苦笑しながらポツリと言った。

「女の子って、本当にこういう噂話が好きですね。」

 そこで顔を上げると、うんざりした口調で続けた。

「確かに、毎週のように中村さんの所に行っているけれど、会っているのは中村さんのお父さんです。理科の山崎先生の授業が変則的で教科書通りに進めてくれないから、頭の中でポイントを整理するために、中村先生に教えを乞うているんです。僕は中村先生のこと、尊敬しているんですよ。でもこういうことになると、聖子ちゃんに迷惑が掛かるから、少し控えた方が良いのかな?」

と言うと、溜息を吐いた。更に続けて、

「ところでみんなに聞きたいんだけど、何のためにこんなものを書いて回すの?そんなに僕や中村さんに興味があるとは思えないんだけど。」

と、立っている女子生徒たちに向かって、皮肉な口調で言った。この子がこういう口調で喋るときは、例え穏やかな表情を浮かべていても怒っている時だ。気をつけなければいけない、と伏見は警戒した。

「それに、僕と中村さんが本当にデキているんなら、もっと人目も憚らずイチャイチャしてると思わないのかな?」

 そう言いながら、首謀者の本村に近付いて問いかけた。

「でも、永渕君は、碌に女の子の名前も覚えないじゃない。このクラスでまともに名前を覚えている女の子、何人居るの?でも、中村さんだけは下の名前で、しかも『ちゃん』付けで呼んでるよね。」

「でも、それがどうしたって話だよね。聖子ちゃんはご近所さんだし幼馴染だから、物心付いた時からそう呼んでいるんだけど。それなら、普段から僕と親しく接触してる子は何人居るの?普段、接触も無く口も利かないんだったら、僕にとっては居ないのと同じなんだけどな。」

 永渕は、立っている女子生徒たちの間を歩きながら、言葉を継いでゆく。そして、寛永寺の前まで来ると、顔を横目で睨んで言った。

「でも驚いた。君みたいに聡明な人まで、こんなことに加担していたなんて。ここに書かれていることが本当だったら、僕と聖子ちゃんが恥ずかしいってだけで済むんだろうけど、事実と違って根も葉もない噂だったら、書かれた当人たちだけでなく、それぞれの家族まで嫌な思いをするってことに、思い至らなかったの?」

「それは考えたわ。でも、書いてあったことは、全くの嘘とも思えないし、皆が興味があることだし・・・」

「ということは、君は無条件でここに書いてあることを信じたって訳じゃないよね?それなら、100%信じられなくても、相手にどんな影響を与えるか分かっていても、面白そうだったら見ない振りしてやっちゃうってことなの?」

「そういう訳ではないけど、いちいち対象になった人の気持ちや事情まで考えていたら、何もできないじゃない!」

「君に興味を持って貰えたのは光栄だけれど、それなら、何の確証も無い勝手な憶測だけで、僕の気持ちも、聖子ちゃんの気持ちも、全く無視してるよね。」

「それは仕方が無いことでしょう?」

「そう?君たちの愉しみのために、僕や聖子ちゃんの気持ちや抱えている事情を黙殺されたのは悲しいよ。」

 永渕はポツリとそう言った。

「それは、書いてあることは事実じゃないってこと?」

 首謀者の本村が声を掛ける。

「さっきから、そう言ってるつもりだよ。」

 永渕は本村の方を振り向いてそう言うと、再び寛永寺に言った。

「それに、本当に僕に興味があるんなら、君ならちょっと考えれば分かりそうなもんなのに。」

「どういう意味?」

 永渕の言葉に棘を感じた寛永寺が、気色ばんで言い返す。

「僕は、君くらい頭の良い人なら、とっくに僕の心底を見透かしているんじゃないかと、内心ひやひやしていたってこと。」

 「頭の良い」という表現に、揶揄されたと感じた寛永寺は眉根を寄せただけで、それには答えずに、黙って視線を送った。

「人間というのは、口では何とでも言うけれど、行動まではなかなか誤魔化せないからね。そこから類推していけば、簡単に真実に辿り着けるのに。“The truth is out there(真実はそこにある)”ってことだよ。」

「随分簡単に言うのね。」

「人間の心なんて、そんな複雑なもんじゃないよ。それに僕の頭の中身は、結構単純な造りなんだけど・・・」

 二人の会話に、目に見えない火花が散り始めた。

「それに本当だと思っていたとしても、こんな幼稚な悪戯、影響を考えれば、少なくとも君なら、皆を止められたんじゃない?」

「私が悪いって言うの?」

「そうは言ってないし、そこまで思っても無いよ。」

 そう言うと永渕はクスリと笑った。

「じゃあ、配慮に欠けるって言いいたいの?それとも、思慮が浅いって言いたいの?少なくとも、入ってきた情報の処理の仕方が拙い、って聞こえるわ。」

「言っとくけどね、この世に流布している情報には、必ずバイアスがかかっているものなんだ。その情報を聞いた人を発信者の意図した方向に誘導しようとしていたり、発信者の願望が含まれていたりするんだよ。だから聞く方は、必ず情報には発信者の利益を図るための方向性が付け加えられていると思った方が良いんだ。逆に真実を知りたいのならば、そういったものを差し引い考えてみれば、本当の姿が見えてくる筈なんだ。」

 永渕はそこで一旦言葉を切ると、更に続けた。

「でも、人間の行動は違う。もっと単純だよ。人間というものは、無駄なことするのを厭う傾向があり、本能的に、最も合理的な行動を採ってしまうものなんだ。だから、その人が何を考えているのか、どう思っているのかを知りたければ、その人のとった行動を記録していって、その方向性を探れば、例えバラバラに見えた行動でも、同じ方向を向いている筈だから、その共通に指し示す方向を探れば自ずと答えは出ると思うよ。」

 そう言うと永渕は、悪戯っぽく笑った。それを聞くと、寛永寺は少し拗ねたような表情を浮かべてこう言った。

「随分分かった風な口を利くのね。つまり貴方の行動をちゃんと見てれば、貴方の考えや想いが分かるってことね。」

「まあ、そういうことだね。特に君ならば造作も無いことなんだけれどね。」

 そう言うと永渕は寛永寺の席を離れて、再び本村の席の方へ向かった。

「だから百歩譲って、もし万一僕に関心があったのだとしても、こういうことは聖子ちゃんやその親御さんに迷惑が掛かるから、できれば止めて欲しいんだけど、どうすれば良いんだろ?」

「そう。私も言っておくけど、貴方の行動を見ていても、残念ながらその共通する方向性とやらは皆目見当がつかないの。でも、もし、こういうことをして欲しくないんだったら、一番良い方法があるわ。」

「へえ、どんな方法?」

「あなたの好きな女の子の名前を公表してしまえば良いのよ。好きな子がいないというのならば、関心を寄せている子でもいいから名前を教えてよ。そうすれば、もう誰も詮索しなくなると思うわ。」

「なるほど。情報公開に勝る予防法は無いってことか。」

「そうよ!」

「でも、先に注意しとくけど、例えどんな人間でも、その人の心の中にはいろいろなものが存在していて、それを全て公にするってことは、言ってみれば『パンドラの匣』を開けるようなものだと思うよ。」

「そんなことは、分かってるわ!」

 永渕の持って回ったような物言いに対して本村が、少しイライラした様子で答えた。

「本当に?開けた途端に教室の中で核爆弾が爆発するようなものだから、それによって、これまでのクラスの中の人間関係が全て破壊されて、景色が一変するかも知れないんだよ。それでも君たちには、それを受け入れる覚悟はあるの?」

「あるわよ!」

 売り言葉に買い言葉といった様子で、本村が答えた。

「寛永寺さんは、どう?」

「私もあるわ!」

 寛永寺も不貞腐れた様に答えた。しかし永渕は意に介さずといった風情で、周囲をグルリと見渡して言った。

「他のみんなはどうなの?僕の意中の人をこの場で発表すれば、それで事を収めてくれるわけ?」

 クラスの全員に永渕が問い掛ける。立っている女子生徒たちは、皆お互いに無言で視線を交わし、顔を見合わせた。紙片を回した本村が答える。

「いいわよ。約束してあげる。その代わり、この推測が外れているのならば、納得のいく答えを聞かせてよ!」

「だったら教えてあげる。その代わり、金輪際こういうことはしないと約束して貰える?聖子ちゃんだけじゃなく、これから名前を挙げる人に対しても。」

 物言いは穏やかなままだったが、永渕にしては珍しく、喋る言葉に怒気を孕んでいることが感じられ、有無を言わせない口調だった。剣呑な雰囲気が教室中に漂う。その時、

「あっ!そうか!僕、分かっちゃった!」

 不意に永渕の背後で男子生徒の声が響いた。声の主は瀬木だった。永渕は振り返ると、

「じゃあ、これから答え合わせをしよう!」

と言って不敵な笑みを浮かべた。しかし突然何か思いついたような仕草をすると、

「そうだ、その前に、さっきの物言いは頭にきたから、先に落とし前をつけてからにしなきゃ。」

 思い出したようにそう言うと、永渕は踵を返して再び寛永寺に近づいて行った。「落とし前」という言葉に引っ掛かりを覚えた伏見が、訊き返そうとするよりも早く、永渕は左手で寛永寺の眼鏡のブリッジを摘んで外すとそのまま右肩を掴み、右手を広げて大きく振りかぶった。そして掌を寛永寺の左の頬目掛けて一気に振り下ろした。

「ダメ!」

 伏見は咄嗟に声を上げたが、永渕は右手を寛永寺の頬から5cm程の所で止めると、そこからゆっくりと掌を頬につけた。軽いペチンという音がすると、続けて永渕の吐き出す様な切ない声が聞こえた。

「ばぁーか・・・」

 そして両手で寛永寺の頬を挟んで引き寄せると、その唇に自分の唇を重ねたのである。叩かれると思っていた寛永寺は、永渕の手が振り下ろされた瞬間に思わず目を瞑ってしまったため、咄嗟に何が起こったのか分からなかった。唇に暖かい感触を感じて目を開けると、そこには永渕の顔があった。理英の顔の間近で、永渕の長い睫毛が揺れていた。

 キスされているんだと悟ると、反射的に永渕を押し退ける様な格好になった。そのシーンを目撃すると、教室の中は「キャーッ!」という黄色い歓声で溢れ返った。寛永寺は自分でも、耳の先までカーッと赤くなったのが分かった。しかし押し退けようとしたはずの永渕は、今度は仰け反って逃げようとした寛永寺の身体を、両手で抱き寄せた。寛永寺の耳が永渕の制服の胸に当たり、早鐘の様な心臓の鼓動の音が聞こえてきた。思わず顔を見上げると、永渕は穏やかな目で見つめ返した。

「意中の人って、・・・・・・私のことだったの?」

自分でも少し間が抜けていると思う科白を口にしてしまった。

「今まで気づかなかったの?」

「私、『目の上のたんこぶ』として憎まれているんだと思ってた。」

「どうして?」

「だって口を利いても素っ気無いし、テストの答案が帰ってくると私の方を睨む様に見ていたし、てっきり目の仇にされてるんだと思ってた。」

「『目標』や『標的』にはしたかもしれないけど、『目の仇』にしたつもりは無いんだけどな。僕は付き合いたいって思うのならば、その前にせめて君の隣に居るのに相応しい存在になりたいと思っていただけだよ。」

「でも、それに、永渕君はクラスの女の子の名前も碌に覚えないから、そういうことに興味が無いのかと・・・」

「そいつぁ酷いなあ。正確な表現をすれば、『君以外の女の子には興味は無い』んだけどな!」

 永渕がそう答えると、寛永寺は一旦視線を外して、そのまま言葉を失って黙り込んでしまった。その表情を窺ってから、永渕は言葉を重ねた。

「さて、僕は今『パンドラの函』を開けてしまいました。その箱の底に『希望』は残っていますか?」

 寛永寺の瞳には、困惑の色が浮かんでいた。

「その答え、今じゃなきゃダメ?」


 バタン、という玄関のドアが閉まる音がした。いつもより大きな音だった。同時に靴を脱ぎ捨てて二階へ駆け上がる音が聞こえた。どうやら理英のようだが、何か様子が変だ。早苗の母親としての直感が働いた。どうも学校で何かあったようだ。理英の部屋でドアを閉める音がしたと思った次の瞬間、ベッドに倒れ込む音が聞こえた。忍び足で二階にある理英の部屋に近づいてみる。物音は全くしない。泣いている訳でもないようだ。しかし、気になる。まだ安心は出来ない。コンコン。理英の部屋のドアをノックしてみる。返事は無い。ドアに鍵は掛けていないようだ。

「理英、帰ってきたんでしょう?」

 早苗がそう問いかけると、やや間を置いて、

「うん・・・」

という返事があったが、いつもの元気が無い。早苗はドアをそっと開けると、部屋の中に入った。理英はベッドの上でうつ伏せになっている。

「どうしたの?学校で何かあったの?」

 しかし、理英はその問いには答えなかった。

「誰かに苛められたの?」

 重ねて早苗が訊く。理英は、ようやく枕に埋めていた顔を上げると、意外なことを訊いてきた。

「ねえ、お母さん。お母さんは男の子から『好きだ』って告白されたことあった?」

「えっ?」

 思わぬ科白に初めは早苗もたじろいだ。しかし次に、娘ももうそういう年頃になったのかという感慨が押し寄せてきた。少し間を置いてからこう答えた。

「ええ、あったわ。でも高校生の頃のことだったから、今のあなたの年齢よりも少し後のことね。」

 そう答えると、続けて、

「誰から告白されたの?」

と優しく尋ねた。

「・・・・・・永渕君。」

「えっ!本当に?」

 この4月以降、同じクラスになった彼の名は理英の口から聞いて知っていただけに、早苗にとっては驚きの方が大きかった。理英は早苗の問いにコクンと頷いた。意外な名前が出てきたことで、早苗は驚いて矢継ぎ早に尋ねた。

「あの子は、あなたのことをライバル視してて、あまり口も利かないんじゃなかったの?」

 そこで理英は、今日学校であったことを全て母親に話した。

「ふ~ん、永渕君もやるじゃない。」

 早苗はそう言うと口許を綻ばせた。

「それで、この後はどうするの?」

「まだ考えてない。って言うか、考えられない!」

「どうして?あなたも『パンドラの函』を開けることを要求したんでしょう?開けちゃった以上は、もう旧には戻らないわよ。よく考えてから、返事をすることね。後悔しない返事を。」

 早苗がそう言うと、玄関の呼び鈴が鳴るのが聞こえた。


「はーい。ちょっと待ってくださいね。」

 そう言って、玄関のドアスコープを覗くと、顔に見覚えの無い一人の男子中学生がドアの前に立っていた。早苗が、

「どちら様でしょうか?」

と尋ねると、インターフォン越しに返事が返ってきた。

「クラスメイトの永渕といいます。お嬢さんは、もう帰宅されていますか?今日、学校であったことを直接謝りたくて来ました。」

 思いがけない来訪者を、早苗はリビングに招き入れた。同時に永渕の来訪を2階の自室に居る理英に伝えると、お茶を持って応接間に戻った。

「貴方がうちの娘の唇を奪った永渕君ね?」

 早苗は愉しそうに訊いた。

「すみません。今日はつい勢いで・・・本当にごめんなさい。後で職員室に呼び出されて、君のやったことは『強制猥褻罪』で訴えられても仕方のないことなんだぞ、って叱られました。」

 それを聞くと早苗は、噴き出しそうになるのを我慢しながら、

「あら、いいのよ。訴える気なんて無いから。」

と落ち着き払って答えた。

「でも、あの後、教室を飛び出すように帰っちゃったんで、傷付けちゃったんじゃないかと心配しているんです。」

「大丈夫!予想してなかったことだから、ちょっと驚いただけよ。大体、自分は部外者のつもりで、安全な所から高みの見物を決め込む魂胆だったんでしょうけど、突然当事者になったことで動揺しているだけだと思うわ。あの子は頭の回転は速いけれど、まだ考えが幼くて浅いところがあるのよ。」

「だったら良いんですけれど・・・」

「まあ、事の成り行きは、もう理英から聞いているけど、正確に事情を知りたいから、今度は貴方の言葉で話してくれない。」

 永渕の話の内容は、理英が喋ったこととほぼ同じだったので、早苗は一先ず安堵することにした。後は理英の気持ち次第である。そう思っていると、永渕の方から尋ねてきた。

「僕を怒らないんですか?」

「怒って欲しいの?」

「僕はその方が気が楽です。」

「でも、怒る、怒らないは理英の気持ち次第でしょう。あの子が君のことを嫌っていたのに、そういうことをしたのなら、親として怒るべきでしょうね。でも、その部分はまだハッキリしていないから。」

「親御さんとしては心配なんじゃないんですか?」

「どうして?そりゃあ、もの凄い器量良しだったら、悪い虫がつかないか心配でしょうけど、どちらかと言うと、女の子なのにこんな風に育てて良かったのかな、と不安に思っていたところなのよ。でも、精一杯良い子に育ててきたつもりよ。そこをちゃんと評価してくれる男の子が居たってことは、親として嬉しいわ。」

「そんなものなんですか?」

「それに、あなたのことは理英から聞いているわ。真面目な子だってことが分かってるから、心配はしてないわ。ちょっと変わった子だって話だったけれど、その『変わっている』部分に、ちゃんと納得できる理由があったんだから、もう心配する必要はなくなったわ。」

 そう言うと、未だ慣れない様子で萎縮している永渕を寛がせるため、早苗は突然声のトーンを変えて、

「いや~、しかし旦那もお目が高い!ウチには良い娘が揃ってますが、特に上の子は上玉ですし、まだ生娘ですぜ!」

と言って永渕をからかった。

 すると不意に背後のドアが開いて、

「なに遣り手ばばあみたいなこと言ってんのよ。永渕君みたいな真面目な子は、返事に困るでしょう?」

と言って理英が入ってきた。もう部屋着に着替えている。永渕は顔を見るなり、直ぐに椅子から立ち上がり、

「あの、今日はごめん。突然あんなことして・・・」

と謝り始めた。理英は、

「ほんと、吃驚した。急にあんなことするんだもん。」

と、少しふて腐れた様な口調で言った。

「でも、あの場で全てのことに一遍に答えを出すのには、ああするのが一番効果的ね。おかげで、私も明日から皆に冷やかされそうだけど。」

 そう言うと理英は、永渕の方をチラリと見た。

「うん。僕の方は覚悟の上だったけど、いきなり巻き込まれた君の方は大丈夫かな、って思って来てみたんだ。明日からは、そのことで何かあったら、僕が護るようにするよ。だから、学校を休んだりはしないで欲しい。」

「うん、分かってる。」

 理英がそう言うと、それきり二人は黙り込んでしまった。永渕は少し照れた顔で窓の外に視線を外していた。自分が居ると話し辛いのかと思い、早苗は一旦キッチンの方へ下がった。すると廊下に人影があるのに気付いた。小学6年になる妹の理香であった。

「理香、あなた立ち聞きしていたの?」

「帰ってきたら、リビングの方から声が聞こえたから耳を澄ましてたの。」

「どこから聞いていたの?」

「ほぼ全部だと思うけれど、後で詳しく教えて。」

「言っとくけど、キスの件は、パパには内緒よ!」

 早苗は理香に釘を刺した。理香は口を尖らせて応えた。

「分かってるぅ!私もそこまで野暮じゃないよ。」


「おい、理英はどうした?」

 職場から帰宅した小笠原猛は、食卓につくなり妻の早苗に尋ねた。寛永寺家では、いつも父親の帰宅を待って家族4人で夕飯を摂ることになっているのだが、今夜に限って長女の理英の姿が見えなかったのだ。

「おねえは食べたくないんだって。」

 代わりに妹の理香が答える。

「学校で何かあったのか?」

「ほっぺを叩かれて痛いんだって!」

 即座に「余計なことを言うな」とばかりに早苗が智恵を睨んだ。

「何だって?」

 途端に猛が気色ばむ。

「誰に叩かれたんだ?」

「いえ、叩かれたと言っても、強く張られた訳ではないのよ。平手で軽く叩かれただけ・・・」

「しかし女の子に手を挙げるなんて、親としては先方と学校に注意すべきだろう。それに叩かれたんなら、理英は怪我でもしてるんじゃないのか?」

「別に理英は、怪我なんてしてませんよ。」

「ほっぺよりも、胸が痛いんだって。」

 早苗は理香の言葉の途中で、「しっ!」と言って遮った。

「叩いた相手は誰なんだ?」

「永渕君ですよ。」

「永渕?同じクラスに問題のある子が何人かいることは聞いているが、その名は初めて聞くな。」

「そりゃそうですよ!成績で、理英と校内でトップ争いをしている子ですから。」

「何だ、じゃあ、学業で負けていることを逆恨みして叩いたのか?」

「違いますよ!今回の件は理英の方が悪かったようですし・・・」

「なぜ、叩かれた方が悪いんだ?大体、中学生にもなったんなら、もう大人だろう。だったら手を挙げなくても、口で言えば良いってことくらい分かる筈だ。」

「それが、他の女子生徒と一緒に、永渕君と中村さんの仲を冷やかすというか、中傷するような事をしたらしいんです。」

「だったら、なんで理英だけが叩かれたんだ?」

「分かりませんか?」

「きっと、おねえが鈍いのは、パパに似たんだよ!」

 横から理香が口を挟む。

「本当にねぇ・・・」

「どういう意味だ?」

「永渕君は理英に岡惚れしてたんですよ。」

 今度は、猛の方が狼狽する番だった。これまで理英から他の同級生達の男女交際の話を聞いてはいたが、つい笑って聞き流してしまっていた。しかし、いざ自分の子供にそういう話が出ると、心の準備が出来ていない分、さすがに慌てざるを得なかったのだ。いや、自分の娘が同級生から「女」として見られているということに、軽いショックを受けたといっても良い。

「ちょっと待て!理英は中学2年だぞ!まだ13歳の子供に・・・」

 その科白は理香によって遮られた。

「パパ、中学生はもう大人なんじゃないの?いつもそう言ってるじゃん!」

「そうですよ。それに理英の話だと、同じ学年に男女交際している生徒もちらほらと居るみたいですし・・・」

「しかし、その、永渕とかいう奴、本当に、理英のことが好きなのか?」

 猛はしどろもどろになりながらも尋ねた。

「間違いないですよ。理英が帰宅した後で、本人が手を挙げたことを謝りに来ましたから。その時、じっくりと話を聞かせて貰いました。」

「何だと!ここに来たのか?」

「ええ、そのことで職員室に呼ばれて、先生にきつく叱られたようですよ。その足で直ぐにここに来たんです。」

「理英も会ったのか?」

「そうじゃなきゃ、謝りに来た意味が無いじゃないですか。永渕君は良い子でしたよ。」

「なぜ分かる?」

「理英がいつも言ってましたよね?永渕君は真面目でよく勉強するって。あれって、理英の隣に居て相応しい人間になりたいから、だったんですって。他にも色々と変わったことをするって聞かされていたけど、全てに理由がありましたよ。『理英』の存在を中心に置いてみれば、全て納得できる行動でしたもの。」

 それを聞くと、さすがに猛も絶句せざるを得なかった。

「でも、きっと変人だよ。」

 今度は理香が茶々を入れてきた。

「あら、どうして?」

 猛に代わって早苗が尋ねる。

「だって、おねえのことを可愛い女の子だって言ってるんだよ。私、おねえのクラスメイトは結構知っているけど、おねえより可愛い子いっぱい居るよ。それなのに、選りによって、どうしておねえなの?」

「そんなこと言うもんじゃありませんよ。余計なことかもしれないけど、容姿でいえば、あなたは理英によく似てるんですからね。」

「じゃあ、趣味が特殊なんだ!眼鏡っ娘が好きとか。頭の悪い男の子って、眼鏡をかけてる賢そうな女の子を支配して、憂さを晴らそうとするらしいから。」

「言っときますけど、2年生になってあった2回の試験では、二人の成績は五分なんですからね。理英なんて、中間テストの後、『1学年に9クラスもあって学年で2番なのに、クラスで2番なんて成績、初めて取ったわ』って言ってたじゃない。理香にも少しは見習ってほしいんだけど・・・」

「じゃあ、目が不自由とか。それとも、我が家の財産狙いとか。ひょっとしたら、男日照りのおねえに対するボランティア活動の一環かも知れないね・・・」

 理香がそこまで言うと、不意に後ろから頭を小突かれた。理英だった。

「いい加減にしなさい!怒るよ!」

「おねえ、夕飯食べないんじゃなかったの?」

 後頭部を摩りながら理香が尋ねる。

「自分の部屋に居ても、ダイニングから話し声が聞こえてくるから、降りて来たのよ。あんた、言いたい放題じゃない!失礼ね!私だって学校では、女の子らしく振舞ってるわよ。」

「まだ鍍金は剥げてないの?」

 理英が拳を振り上げる。

「ぶつよ!」

「もうぶってる!」

 いつも通りの理英の姿を見て、猛が声をかける。

「理英、大丈夫か?頬は腫れてないようだけど、どっちを叩かれたんだ?」

 理英は人差し指の先で自分の左頬を指しながら答えた。

「左だけど大丈夫!5cmくらいのところから、軽くペチンとやられただけだから。それよりも、その時に言われた『ばぁーか』って言葉の方が、妙にズシンと胸に刺さったの。切ないような、愛おしいような響きだったから。今でも、気になって、気になって。悪いことしちゃったなあって。」

 それを聞くと猛は、つとめて平静を装って尋ねた。

「で、理英、お前は、その、なんだ、永渕って子のことを、どう思っているんだ?」

「何でそんなこと聞くの?」

「いや、そりゃあ、やっぱり、親として・・・」

「パパ、その人におねえを盗られるんじゃないかって心配なんだよ。」

「理香!」

 今度は、猛が叱りつけた。

「アハハハ・・・、そうねえ、融通の利かない性格だけど、真面目だし、優しいし、良い人だとは思ってるよ。でも、恋愛の対象からは、外してたなあ。」

「そうなのか・・・」

 顔に安堵の色を浮かべて猛が答える。

「だから、今回のことが無ければ、きっと意識しなかったと思う。それに、今回こんなことに加担したのは、聖子の方は間違いなく永渕君を好きだったから・・・」

「じゃあ、早くもその歳で三角関係に悩んでるんだ~。」

「理香、あんた、愉しんでるでしょう?」

理英が妹を睨み付ける。

「でも永渕君は、あなたにきちんと気持ちを伝えたわけでしょう?だったら、今一番肝心なのはあなた自身の気持ちじゃない?少なくとも、今向き合うべきなのは、永渕君の方でしょう。聖子ちゃんのことばかり気にしていたら、今度は永渕君を傷つけるわよ。」

「うん、分かってる。だから悩んでるのよ。」

「もし、どうしても肚が決まらないのならば、少しだけ返事を待ってもらうのね。」

「うん、でも待ってくれるかなあ?」

「待ってくれるわよ。でも、お母さんとしては良い返事をしてあげて欲しいなあ。お母さんは一途な男の子が好きだから、永渕君を気に入っちゃった。でも、永渕君はどちらかと言うと、斜眼帯を付けた競争馬に近いけどね。」

「もう、他人事だと思って!大体、お母さんの恋人になる訳じゃないでしょう。」


 ピンポーン!

 翌日の午前7時、不意に玄関の呼び鈴が鳴った。早苗が朝食の準備の手を止めて、玄関のドアスコープを覗くと、永渕だった。

「おはようございます。」

「あら、永渕君、おはよう。理英は今起きて顔を洗っているところよ。朝食を食べてから、身繕いをするから30分くらい待ってて。」

「昨日のことがあったから、学校を休むんじゃないかと、心配で来てみたんです。」

「大丈夫よ、そんなことでサボらせないわ。それより、上がっていきなさいよ。」

「いいんですか?せっかくの家族団欒の時間なのに。僕はここで待ちますよ。」

「気にしなくてもいいわよ。ただし、主人も居るけどね。昨日のことは、キスのこと以外、全部話しておいたわ。」

 早苗は小声でそう言うと、目配せをしてキッチンへ戻った。

「分かりました。それじゃあ、失礼します。」

 永渕は意を決すると、玄関をくぐった。


 理英の家は、リビングとダイニングが繋がっているため、永渕は当然の様に父親の猛と顔を合わせることになった。

「おはようございます。」

と挨拶をして猛に声をかけると、

「同級生の永渕と申します。昨日はお嬢さんに手を上げてしまい、すみませんでした。」

と淀みなくお詫びをして、深々と頭を下げた。永渕の存在を無視するかのように朝刊を読んでいた猛は、その様子をチラリと横目で見ながら、

「ああ。その話は昨日、娘と家内から聞いた。」

とだけ言うと、再び新聞に目を落とし、仏頂面をして黙り込んでしまった。猛も内心どう声を掛けたものか、考えあぐねているらしい。ダイニング・ルームを暫し重苦しい沈黙が支配した。見かねた早苗が助け舟を出した。

「永渕君、理英の身支度が終わるまで、ちょっとリビングで座って待っててね。」

そう言うと、永渕をリビングの方へ押しやりながら、猛を窘める様に目配せした。


「思ったより、いい男だね。優しい顔立ちをしているし、確かに真面目そうだし。ちょっと線が細い感じはするけど、おねえにしては上出来じゃん!なかなかの釣果だよ。」

 理香が、セーラー服に着替えている理英に向かって声をかけた。殿上中学の制服は、男子は黒の詰襟だが、女子は襟と袖に赤い三本線が入った紺のセーラー服である。

「理香、あんた、リビングを覗いたの?」

 着替えながら、理英が尋ねる。

「『蓼食う虫も好き好き』って言うけど、やっぱりどんなもの好きなのか、興味があってね。でも雰囲気は、パパに似てるね。」

「失礼ね~。」

「ねえ、おねえ。今からコーヒー出すんだけどさ、睡眠薬でも入れとく?」

「何でよ!」

「『飛んで火に入る夏の虫』ってことよ。薬が効いてグッスリ寝込んだところで、縛り上げておねえの部屋に運び込めば、もう泣こうが喚こうが、邪魔は入らないよ!後は、襲って既成事実を作っちゃえば、こっちのもんじゃない?」

「あんた、何言ってんの?」

「だって、鉦や太鼓で探しても、あんな良い物件、もう出てこないかもよ?今日は学校休んじゃっても良いから、眠ってる間に『陵辱』しちゃいなよ。あんなことやこんなこと、好き放題にできるよ。」

「あんた、『陵辱』って言葉の意味、理解して使ってる?それは私がやられた時に使うの!」

「じゃあ、おねえには永久に縁のない言葉だね。」

 理香はそう憎まれ口を叩くと、コーヒーを持ってリビングへ向かった。


 コーヒーをお盆に載せて、理香が入ってきた。

「おはようございます。」

「おはよう、理英さんの妹さんだよね。」

 理香はコーヒーをテーブルの上に置きながら、

「理香といいます。」

と自己紹介をすると、両目に興味津々といった色を浮かべてじっと顔を見詰めてきた。

「え、何?僕の顔に何かついてる?」

「いいえ、うちのおねえのことを好きだって言うもの好きはどんな顔してるのか、ちゃんと見ておこうと思って。」

と、悪戯っぽい口調で答えた。

「どうして?そんなに変なこと?」

「うん、変っ!永渕さんも眼鏡を掛けた方が良いんじゃないですか?それとも女性の趣味がマニアックなのかな?」

 いきなり理香が先制パンチを浴びせた。不意打ちを喰らって、永渕は一瞬たじろいだが、

「マニアックって、いくらお姉さんでも、ちょっと酷くない?」

と抗議の声を上げた。

 しかし、そんな苦情はどこ吹く風とばかりに、

「それとも、男の子にモテそうにないから、優しくすれば簡単にヤらせてくれるとでも思ったの?」

 さすがにこの質問には、永渕も赤面して俯いてしまったが、理英のために反論することにした。

「そんなことないよ!君のお姉さんは、ものすごくモテるよ。ただ、『高嶺の花』過ぎるから、みんな近寄り難いだけなんだと思う。」

 永渕が赤くなって俯いていたのを満足そうにニヤニヤ笑って見ていた理香が、「そんなの初耳だ」と言わんばかりに目を丸くした。

「ねえ、『蓼食う虫も好き好き』って言うけれど、一体おねえの何処が良いの?」

 理香は、本当に不思議そうな顔をしてそう訊いてきた。

「何処って、僕は全てが素敵な女の子だと思うけど・・・」

「え~!ど・こ・が~!おねえなんて風呂上りに、無い乳放り出して、パンツ1枚でキッチンまで行って牛乳飲んでるよ。それでよくパパとキッチンで鉢合わせて、喧嘩になってる。色気や恥じらいは欠片も無いよ。」

「それは家族しか居ないから、安心しているだけじゃない?それくらいなら、僕の妹も似たようなことするし。それに、お父さんに見られて喧嘩になるってことは、少なくとも恥じらいはあるんじゃないかなあ?」

「でも、おねえはよくクラスメイトを家に連れて来るから、私もたくさん知ってるけど、他にも可愛い子いっぱい居るじゃない。それなのに、選りによって、どうしておねえなの?分っかんないなあ!」

「へえ、誰が来たの?」

「おねえが理科の実験レポートを作成した時に、同じ班になった女の子が何人か家に来たけれど、秦さんなんて、おっぱい大きくて、そこら中にフェロモン振り撒いてるような人だったよ。出るとこ出てて、引っ込むところ引っ込んで。あんな女の子と比べたら、おねえなんて寸胴もいいとこだよ。」

「ハハハ、確かにそうかもしれないけれど、でも僕はそういう女の子は苦手だなあ。」

「どうして?」

「だって、秦さんはどうしても『女』を意識してしまうし、その上でどう接したら良いかなんて、僕にはまだ分かんないよ。ただドギマギするだけだと思う。それに彼女は時々感情的になることがあるから、そうなったらどう扱えば良いか全く分からないよ。でも君のお姉さんは、言葉を尽くしてキチンと説明すれば、ちゃんと聞く耳を持ってるからね。」

「ふーん。男の子は皆、ああいうグラマラスな女の子が好きなんだって思ってた。」

「そうかなあ?そういう男の子ばかりじゃないと思うけど・・・」

「え~、そうだよ~!だから皆もそれを意識していて、胸の大きさで女子のヒエラルキーが決まるんじゃない!」

「そうなの?女子には胸の大きさでカースト制度があるんだ?」

「そうだよ!少なくとも女子にとっては、胸が1mmでも大きい方がエライ、ってことになってるんだから!きっと、おねえなんて最下層に位置してるよ。」

「それだったら、世の男の子はみんなホルスタインが大好きってことになっちゃうけど・・・少なくとも僕は、そういう目では見てなかったなあ。それに理英さんの年齢からしたら、まだそんなに焦る必要も無いと思うけど・・・まだ伸び代があるって考えれば良いんじゃない?」

 しかし納得していない様子の理香の表情を見ると、永渕は苦笑して更に続けた。

「じゃあ、良いよ。僕は、貧乳教の信者ってことで。」

「何、それ?ヒンズー教みたいに言わないでよ!」

 そう言うと理香は愉快そうにケラケラと笑った。

「じゃあ、今度、おねえとクラス対抗の陸上記録会で、リレー・チームを組む三波さんはどう?身体も引き締まって健康的で、スタイルの良い、涼やかな美人じゃない?胸は秦さんほど大きくはないけれど、おねえよりは大きいし、鍛えてるだけあって張りがあったよ!」

「なあに?もしかして、触ってみたの?」

「女の子同士だから自然に揉めたよ。あの人は男の子ウケすると思うんだけど・・・」

「うん、それは僕もそう思うけれど、あの娘の行動には、確固たる信念というか、自分というものを感じないんだよねえ。周囲に流されるというか。しかもそれは、自分の頭で考えられないんじゃなくて、考えることを面倒臭がっているように見えるんだ。多分、好きになった人が不良なら、自分もそういう格好をするんじゃないかな?どんな美人でも、そういう人は、ちょっと尊敬できないよね。それに彼女は、陸上部で足腰を鍛えているから、腿や脹脛に筋肉の線が出ていて、ミニ・スカートは履けないようだよ。」

「結構注文が厳しいね。」

「そう?」

「それなら、この間おねえと一緒に宿題をするために来ていた、転校生の摂津さんは?おねえと同じナイチッチだけど、お人形さんか、って思うくらい、ちっちゃくて目が大きくて驚くほど可愛かったよ。生クリームみたいな、見ていたら蕩けそうな笑顔が印象的だったもん。そのくせ、自分の意見をしっかり持っていて、将来を見据えた夢まで具体的に語っていたよ。」

「ナイチッチって、守屋浩じゃあるまいし・・・成る程、摂津さんはしっかりしているよね。でも、あの子は逆に自分が損をしないように、要領よく振舞おうとしているのが透けて見えるんだ。悪いけど、そういう計算高い子は、趣味じゃないな。」

「でも、可愛いから許せるんじゃない?」

「可愛いからって、大目には見られないかな。それに君のお姉さんには、容姿だって良い所はいっぱいあるよ。」

「確かに、おねえはサラサラの長い髪が綺麗だし、七難も隠すような色白だけど、じゃじゃ馬だし、胸ちっちゃいし、顔も十人並みじゃない。どう贔屓目に見ても、何処にアドバンテージがあるのか分からないよ。私には永渕さんが天性の嘘吐きだとしか思えないんだけど。」

 それを聞くと永渕は苦笑した。

「嘘を吐いてるつもりはないんだけどなあ。それにウィリアム・シェイクスピアじゃないけど、『じゃじゃ馬ならし』も楽しいのかもよ。」

「どういうこと?」

「君は日本社会党の副委員長だった江田三郎さんって人、知ってる?」

「知らな~い!」

「この人には、江田五月さんっていう裁判官の息子さんがいるんだけど、東大法学部を次席で卒業してるんだ。司法試験にも10番目の成績で合格していて、本当なら検事になれる筈だったんだけれど、学生時代に『社青同(日本社会主義青年同盟)』っていう組織で学生運動をやっていて、逮捕歴もあるってことで、任官されなかったんだ。慣例では、司法試験を50番以内で合格すれば、無条件で任官されるのにね。ところが、この人の同級生に中嶋義雄って人がいるんだけれど、この人は東大法学部を首席で卒業して、国家公務員上級職試験にもトップで合格して、大蔵省の主計局にすんなり入っているんだ。江田さんと同じように『社学同(社会主義学生同盟)』って組織で活動して、逮捕もされて、一度退学処分も受けてるのにね。」

「ふ~ん。」

「この時、大蔵省で採用に当たった高木文雄さんは、こう言ったそうだよ。『単なる優等生ではダメ。悍馬の方が馴らす楽しみがある。』って。要は受け止める方の器の大きさって言うか、懐の深さの問題だと思うんだよね。」

「それって、検察庁より大蔵省の方が懐が深いってこと?」

「僕はそう思うね。君のお姉さんについても、同じことが言えると思わない?要は、僕という人間の器の大きさの問題なんじゃないかってね。それに、君のお姉さんは、僕にとっては赤兎馬になるかもしれないよ。」

 そこまで言うと永渕は、一旦言葉を切った。

「でもきっと、そんなことは関係ないんだと思うよ。今、僕が言ったことは、全部後付けの理由に過ぎないと思う。」

「えっ!どういう意味?」

「実は、僕の場合は、一目惚れなんだ。」

 永渕が照れた様な表情で白状すると、

「ええー!本当に?」

 理香は珍獣でも見るような目で永渕の顔をまじまじと見詰め返した。

「うん。実は去年の夏休みに東大生になった従兄に会って刺激を受けて、もうちょっと学業に身を入れようと思ったんだ。それで取り敢えず、誰か目標になる人を定めようとしたんだけど、ちょうど自分の前に立ち塞がっている人物が居たから、顔を拝んでおいたら具体的に敵愾心を燃やせるかなって思って、10月頃に君のお姉さんのクラスを覗いてみたんだ。でも、そこに居たのは、想像してたのとは全く違う、天真爛漫で活き活きとした女の子だったんだよ。モノトーンの世界の中で、君のお姉さんだけが、カラフルに色付いていた印象があるんだ。後悔したね。敵愾心ではなく、恋の炎に火が付いちゃったんだから。『岡惚れ』ってやつだね。だから、人を好きになるのに理由なんて無いし、ましてやそれを聞くのは、野暮ってもんなんだと思うよ。」

「どうして?」

「きっと『恋』って言うのは、魂が惹かれ合うものなんだ。少なくとも僕は、君のお姉さんに一瞬で魂を奪われた。魂ごと君のお姉さんに引き摺って行かれたって言うべきかも知れない。恋っていうのはするもんなんじゃなくて、落ちるものなんだと思うよ。」


 理英は、リビングの方から漏れてくる永渕の科白を聞いたとき、心臓が大きく一つ、トクンと鳴った音を聞いた気がした。「ときめき」という名の刃が心臓を貫いたことを、意識せざるを得なかった。

「やだ、何で私、顔が赤くなってんの?」

 理英は、髪を三つ編みにする手を止めて、洗面台の鏡に映っている季節外れの紅葉を散らした自分の顔を見詰めた。


 リビングではまだ、理香と永渕の会話が続いていた。

「おねえなんて、この間、胸が少し膨らんだからって言ってブラを買いに行ったんだけど、店員さんにサイズを伝えると、『あっ、うちにはそんな小さいサイズは置いてません!』って言われたんだよ。」

 理香が笑いながらそこまで喋ると、ドタドタという足音が近付いてきた。二人の話し声に聞き耳を立てていた理英だった。身繕いは終わっているようだが、三つ編みはまだ片方しか出来ておらず、右側の髪の毛は単にヘアゴムで纏めただけのお下げ髪だった。

 理香にこれ以上、有ること無いこと吹き込まれては堪らないと思った理英が、リビングへ駆け込んで来ると、永渕の手首を掴んで叫んだ。

「お待たせ!もう準備が出来たから行こう。」

 あっけに取られた永渕は、そのまま理英に引き摺られる様にして、寛永寺家を出ることになった。二人を見送った早苗に向かって、理香が呟いた。

「ねえ、ママ、あんな男の子、他にも居るかなあ?」

「えっ、どうして?」

「おねえが羨ましいな、って思って。自分のことをあんなに一途に想ってくれる男の子だったら、私も欲しいなあ。」

「理香にも年頃になったら、良い人が出来るわよ。」


 理英に引っ張られるようにして寛永寺家を出た永渕は、スカートの裾を風に翻して前を走る姿を、後ろから見蕩れながら走っていた。白いソックスを履いたスラリとした脚が大地を踏みしめる度に、理英の艶やかな黒髪が大きく揺れて、まるで催眠術を掛けている様に見えていた。

 手を繫いだまま寛永寺家を飛び出して暫く走ると、ようやく理英が足を止めた。まだ永渕の手を握っていることに気が付くと、驚いて手を振り払うようにして引っ込めた。その時、理英は自分の掌が濡れていることに気がついた。永渕の掌の汗だった。この汗の量からすると、永渕は内心ドキドキであるに違いない。普段は感情が無いのではないかと思うほど平静を装っている永渕でも、簡単に心の中を覗けることに気がつくと、不意に「なぁーんだ」という思いとともに、笑いが込み上げてきた。

「ごめんなさい。慌てて連れ出しちゃって。理香が余計なことばかり喋るから、聞かせたくなくて、つい・・・」

「別に気にすること無いよ。」

「でもあの子、本当に口が悪くって。あの子から私のことは聞かせたくないの。」

「分かった。さっき聞いたことは、全部忘れる。僕が見聞したこと以外で君を判断したりはしないって誓うよ。ところで、右側の髪の毛、まだ三つ編みに出来てないけど、学校に着いたら僕がやってあげようか?」

「できるの?」

「一応、床屋の息子だよ。」

「ありがとう。お願いできる?一人でやると時間がかかっちゃって・・・」

「三つ編みは手間だからね。」

「そうなの!だから寝坊して時間が無い時には、単にヘアゴムで留めるだけにしてるの。」

「じゃ、さっさと学校に行こう。」

 永渕がそう言うと、理英は思いついたようにお願いをした。

「それから、もし今後も私と一緒に登校するつもりなら、もう少し遅い時間に来てくれない。私は毎朝、『おはよう720』を見てから家を出てるんだ。」

「ごめん、ごめん。今日は君が家を出た後じゃあ意味が無かったから、早起きして来たんだ。」

 そう言うと二人は微妙な距離を保ちながら、再び学校へ向かって歩き始めた。永渕は落ち着きを取り戻すと、いつもの様に表情を消してしまった。そこで今度は理英の方から意識的に永渕の方に寄って行き、腕が接触するように歩いてみた。理英のセーラー服の腕が触れる度に、永渕の身体が、小さくビクンと反応した。理英はひとりごちた。

「清盛さん、衣の下の鎧が透けてて丸見えですよ。」


 登校の途中でクラスメイトに出くわして冷やかされるかと思ったが、時間が早すぎたのか、まだ登校する生徒自体がまばらだった。いつもよりずっと早く学校に着いた二人は、理英の三つ編みを完成させるために、2年9組の教室へ急いだが、教室には既に誰か来ているようだった。

「現行犯、見っけ!」

 永渕が張りのある声で叫んだ。既に登校していた二人の女子生徒が、黒板に理英と永渕の名前を、相合傘の下に大書しているところだった。

「えっ!」

 あまりに早い冷やかし相手の出現に、犯人たちは驚きの声を上げた。犯人の正体は本村靖子と堀内真由美だった。

「刑事訴訟法第213条により、現行犯逮捕します。」

 永渕の声を聞くと、落書きをしていた二人は、ばつの悪そうな顔になった。

「こういうことをしないと約束したから、昨日あんな真似をしたのに!大体、まだ寛永寺さんの返事を貰ってないんだから。彼女がOKって言ってくれるまでは、そんなことは書いちゃダメだからね!」

 そう言われると二人は、悪戯を中止せざるを得なかった。理英は不思議そうな顔で、

「ひょっとして、こうなることを予測して、早く来たの?」

「うん、可能性があると思ったから、早めに来たんだよ。まあ、こんなことされても僕は悪い気はしないけどね。」

 永渕はそう言って笑うと、

「さっ、椅子にかけて。髪の毛、三つ編みにしてあげるから。」

と理英を促した。


【参考文献】


 『出発のためのメモランダム』 江田 五月:著 1978・01・30 毎日新聞社

 この作品を書きました、謎の中国人作家「李 熒惑」と申します。身バレすると面倒なので、こう名乗っております。序章の「クリュティエの涙」の前書きで、キャロリン・キーン(Carolyn Keene)・ジョセフィン・テイ(Josephine Tey)・アストリッド・リンドグレーン(Astrid Lindgren )の三氏に献辞を述べましたが、この第一章でキャロリン・キーン氏とアストリッド・リンドグレーン氏への献辞の意味がお分かり戴けると思います。ジョセフィン・テイ氏については、第三章の「教科書事件」までお待ちください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ