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第十八章 天井下事件

 2学期の終業式間際の出来事である。1976年の暮れも押し詰まりつつある師走の放課後、永渕と一緒に下校していた理英は、日が暮れるのが早くなった通学路で永渕にこう切り出した。

「ねえ、ブチ君。冬休み、年末年始はどう過ごすの?」

 理英の家では、毎年正月2日に「三社参り」をするのだが、それに永渕を引っ張り込もうという魂胆からの問い掛けであった。そもそもの馴れ初めのせいで、当初は険悪だった父親の猛と永渕の関係も、最近雪解けの様相を呈してきたのである。と言うよりも、初めの頃は理英が永渕と付き合うのを全力で拒んでいた猛が、どういう風の吹き回しかある時期から、その頑なな態度に変化を見せてきたからであった。これを奇貨としてもう一押しして、少なくとも今のうちに良い関係を築いてしまうことを、理英は模索しているのであった。

 「三社参り」とは西日本特有の行事で、正月の初詣として、三つの神社を一度に詣でることである。寛永寺家では毎年詣でる神社は決まっていなかったが、ここ数年は自動車に乗って、宮地嶽神社・筥崎八幡宮・太宰府天満宮に詣でている。以前は和布刈神社や宗像大社にも詣でたこともあり、本来ならば近場の和布刈神社の方が誘いやすいのだが、最近の寛永寺家の傾向として、どうせ遠出をするのなら、博多まで足を延ばそうという思惑が働いている。

 もちろん三社参りの後は例年、博多で「河豚ふく料理」を満喫できるのも大きかった。和布刈神社には、松本清張の『時間の習俗』にも出てくる「和布刈神事」があって、夜中に父親に連れられて見に行ったこともあるのだが、当時はまだ子供だったこともあり、理英にはあまり面白いものとは感じられなかった。しかし、理英は本来「良い子」であるため、せっかく連れて来てくれた父親をがっかりさせないように、睡魔と闘いながら大人しくしていたというのが実態である。

 永渕の方も理英の口調から敏感に何かを感じ取ったようではあったが、その口から出たのは期待外れの返答だった。

「まだ正式に決まった訳じゃないんだけれど、12月27日から1月5日まで従姉と一緒に東京の叔父の家に行く予定になってるんだ。だから・・・」

 思いがけず断わりの返事を貰った理英の顔がくしゃりと歪む。永渕の科白が終わる前に、悲しそうな表情になると、

「え~っ!」

と声を上げて俯いてしまった。その様子を見た永渕は、罪悪感で押し潰されそうになって、慌てて、

「そんな顔しないで、ピッピ。お土産買ってきてあげるから。」

と言って、理英を宥めにかかる。だがこんなことでいちいちめげていては、永渕の「カノジョ」なんて務まらない。無論、お土産なんかで懐柔される心算も無い。次の瞬間、理英は良いことを思いついたとばかりに、晴れやかな表情で顔を上げると、鼻に掛かった甘え声でこう訊いた。

「ねえ、それ私も付いて行っちゃ駄目?」

 理英は涙を滲ませたを上目遣いにして、永渕の顔を真っ直ぐに見詰める。今度は永渕が驚く番だった。

「はあっ!?」

 驚愕のあまり永渕が素っ頓狂な声を上げると、直ぐに理英を思い止まらせようと言葉を尽くして説得を始めた。

「いや、何言ってるの君?自分の言ってることの意味、ちゃんと分かってる?そんなことをするなんて、君の親御さんが聞いたら何て言うかっ!大体、嫁入り前の娘がそんなふしだらなっ!それに叔父さんたちにも都合ってものがあるし・・・」

「でも去年の夏は、一緒に行ったブチ君の従姉は友人を連れて行ったんでしょう?」

 永渕は必死で翻意を促すが、理英も永渕の最後の科白の言葉尻を捉えると、以前永渕から聞いていた話を持ち出して、頑として譲らない姿勢を示した。なかなかのタフ・ネゴシエーター振りだ。ただでさえ抗い難い雰囲気に、とうとう永渕の方が根負けしてしまった。理英に追い詰められて、すっかり返答に窮してしまった永渕は溜息交じりに、

「分かったよ。父さんに頼んで向こうに訊いてみるよ。だから駄目って言われたら、諦めるんだよ。それに、君もちゃんと御両親の許可を取ってね。」

と力無く返事をしてしまった。理英は永渕の言質を取るや否や、

「楽しみだなあ~っ、東京旅行!」

と、既定事項のように決めつけると、再び足取りも軽く歩き始めた。そしてそんな理英とは対照的に、永渕の足取りが急に重荷を背負ったかのように重くなったのが、傍から見ていても分かった。

 尤も、永渕がこういう返答をしたのには、理英の父か叔父夫婦が難色を示して、理英の企みを阻止してくれるだろうという淡い期待をしたからであった。しかし永渕の思惑とは裏腹に、ことはトントン拍子で進んでしまい、永渕の期待も空しく冬休みは一緒に東京へ旅立つ羽目になってしまった。理英の父親がOKしたのは永渕にとっても意外だったが、東京の叔父夫妻も、去年1年間永渕を鎧袖一触にしていたという才媛がどんな娘なのか会ってみたい、という興味を抱いたようだった。

 OKの返事を貰ってからは、急ピッチでことが進んだ。理英は両親から、旅立ちまでに冬休みの宿題を終えるよう言い渡されたため、終業式から2日で片を付けると、旅行に必要な衣類や道具を揃えるのを一日で終えて、同時に東京でお世話になる永渕の叔父夫婦へのお土産も買い込んでいた。


 出発の前日、理英が自分の部屋で持って行く荷物の中身を整理していると、妹の理香がやって来てドアをノックした。

「おねえ、明日持って行く物をチェックしてんの?」

「そうよ。お土産とか着替えの服とかね。」

「修学旅行の前より熱心だね。」

「悪い?」

「悪くは無いけどさ・・・」

 理香はそう言うと、四つん這いになるような格好で鞄の中に荷物を押し込んでいる理英の背後に回ると、スカートを捲り上げた。

「ちょっと、何すんのよ!」

「おねえ、持って行く下着も厳選した方が良いよ。ブチさんはパステル・カラーの様な淡い色が好みでも、挑発するんなら、もっと濃い色の方が効果あるよ。赤とか黒とか紫とかショッキングピンクとか・・・」

「子供が分かった様なこと言うんじゃないっ!」

 そう言うと理英は振り向きざまに拳を振るったが、理香はもう行動パターンは読めてますとばかりに身体を反らして躱してしまった。

「少なくともおねえよりは、男心が分かるつもりよ。」

 理香はそう憎まれ口を叩くと、さっさと部屋を出て行ってしまった。


 12月27日の昼前、理英の姿は永渕と共に板付空港にあった。ただし二人きりの旅行ではなく、若松に住んでいる永渕の従姉も同行していた。名前を永渕康子という、30代半ばの小柄な独身女性だった。これは二人のお目付役というよりも、元から予定されていたことである。理英も予め永渕から聞いていたうえ、こちらが後から押しかけて来たこともあって、否やは無かった。去年の夏休みに永渕と一緒に上京した従姉というのも彼女だったようだ。小倉駅の新幹線口で待ち合わせると、永渕は二人を引き合わせて、簡単に紹介をした。この時のこの従姉の反応は、理英の存在に興味津々といった様子で、それを隠そうともしていなかった。

 今回の旅行に同行者が居ることは、最初に永渕から聞いていたので、理英も身嗜みには注意を払っていた。理英が今日着ているのは、襟・袖・裾にファーをあしらった白いケープファーコートに紺色のミディ丈のタイトスカートで、足元はレースアップ・ブーツといった出で立ちである。コートの中には淡い桜色のセーターの下に濃いピンク色のシャツを合わせている。首にはタータン・チェックのマフラーを巻いて、勿論今日は髪を下ろしているが、以前永渕に貰った髪留めのゴムを鞄に忍ばせている。

 康子の方は黒のチェスターコートにベージュ色のミモレ丈のフレアスカート、靴は黒いフラットシューズを履いていた。コートの下には辛子色のセーターを着ているのが分かる。しかし肝心の永渕は、ネルシャツの上に理英がクリスマス・プレゼントとして贈った手編みのサックスブルーのセーターを着て、グレーのダッフルコートを羽織り、下は淡いベージュのデニムを履いているといういつものスタイルだった。靴はもちろん通学時に履いているプーマのスニーカーである。吐く息は白いのに、マフラーも手袋もしていない。

 三人は小倉駅からこだまに乗って博多駅まで行き、そこからタクシーで板付空港へ向かった。永渕たちは親族に日本航空の取締役が居るので、東京へ行く時はいつも株主優待券を送って貰って旅客機を利用していたらしいのだが、今回は特別に理英の分まで株主優待券を譲って貰ったのでチケット代が半額になり、永渕の従姉も含めて三人で「空の旅」と洒落込んだのである。

 実は、理英は空港を利用するのも初めてで、出発ロビーに着いてからも戸惑いっ放しだった。術を心得ていないため搭乗手続きや手荷物検査に少々手間取ったが、永渕の的確なフォローもあって余裕を持って時間通りの飛行機に乗ることができた。永渕は空港に着くと直ぐにチェックイン・カウンターに向かって搭乗手続きを済ませるとともに、抱えていた大きなクーラーボックスを手荷物カウンターで預けていたので、傍で見ていた理英にも航空機での旅に慣れているのが分かった。因みに永渕のクーラーボックスの中身は、今朝下関の唐戸市場で買ってきた河豚である。六人分あることから、叔父さんたち家族へのお土産、と言うよりも今日の夕飯のおかずのようだ。


 飛行機の中では、富士山が見やすいようにと理英は窓側に座らせてもらった。因みに隣の真ん中の席には永渕が、通路側の席には永渕の従姉が座った。理英が飛行機の座席に座ると、真っ先に機内オーディオサービスが目に飛び込んできたので、早速肘掛けのジャックにイヤホンを差し込んで、何が流れているのか聞いてみた。日本航空では4年前の1972年から始まったサービスであるが、物珍しさから機内のスクリーンに「機内安全ビデオ」が流れ始めるまで、暫くの間夢中で聞いてしまった。

 飛行機が離陸した後に巡航高度に達し水平飛行に入ると、スチュワーデスが一斉に立ち上がって飲み物とお菓子を配り始めた。これをきっかけに、理英は前の座席の背からテーブルを取り出した。やがて機内サービスとして配られている焼き菓子とジュースを受け取ると、今朝待ち合わせの前に小倉駅前の「シロヤ」で買っておいた玉子サンドイッチを鞄から取り出して頬張った。手作業で丁寧に作られた玉子サラダの味を堪能しながら、理英は永渕に話し掛けた。

「ブチ君、今回は私も一緒に飛行機に乗れる手配をしてくれて、ありがとう。」

「どう致しまして。だって、僕たちが飛行機に乗る以上、君だけ新幹線って訳にはいかないでしょ。」

「でも、実を言うと、私は飛行機に苦手意識があったんだ。」

「それは高所恐怖症ってこと?それとも日航がよく墜落事故を起こしてるから怖いってこと?」


 永渕がこういう科白を吐くのは、日本航空が1970年代に入ってから3件の墜落事故を起こしていたからである。即ち1971年7月3日の「ばんだい号」墜落事故、1972年6月14日のニューデリー・パラム空港墜落事故、及び1972年11月28日のモスクワ・シェレメチボ空港墜落事故の3件である。


「それもあるけど、もともと飛行機ってお金持ちの移動手段ってイメージがあったし・・・」

「君の言う通り昔は旅客機の運賃はバカ高くて、利用できるってだけで特権階級って感じがしてたけど、今はそこまで高くないじゃない。」

「確かにそうだったわね。それに、お父さんの仕事の関係で、飛行機には余り良いイメージが無かったのも事実だし。」

「お父さんの仕事の関係?ひょっとして三鬼隆さんのことを言ってるの?」

「そうよ。その名前、よく知ってるわね。新日鐵(八幡製鐵)の関係者以外から聞いたの、初めてよ。」

「確かに、もう四半世紀も前のことだもんね。みんな忘れちゃってるか。でも僕の母方の伯父のうち二人は、新日鐵で働いているんだよ。」

「それでっ!」


 「八幡製鐵」は、前身の日本製鐵が財閥解体の対象となり、過度経済力集中排除法の適用を受けて1950年(昭和25年)4月に四分割する形で解体されて出来た会社である。前身の日鐵は、1934年(昭和9年)に官営八幡製鉄所を中心に官民の製鉄業者を合同して発足した企業で、法律で規定された国策会社であった。しかも日本の鉄鋼生産量の大半を生産する巨大企業であったため、敗戦後の占領下では財閥解体の対象とならざるを得なかったのである。1948年(昭和23年)12月に解体が決定すると、その1年半後には解体が実施され、八幡製鐵・富士製鐵・日鐵汽船(現・NSユナイテッド海運)・播磨耐火煉瓦(現・黒崎播磨)の計4社が発足した。この時、八幡製鐵は八幡製鐵所を承継し、富士製鐵は輪西製鐵所・釜石製鐵所・広畑製鐵所・富士製鋼所を承継したのである。

 理英の父親が勤める新日本製鐵(新日鐵)は、この八幡製鐵が1970年(昭和45年)3月に富士製鐵と合併して発足したものであった。この合併では、手続上は八幡製鐵が存続会社となって新日鐵に社名を変更し、富士製鐵は解散したという形を採っているが、戦後の日鐵解体に伴って発足した承継会社の一つがこの富士製鐵なので、むしろ旧に復したということになる。富士製鐵の持つ製鉄所は、日鐵から承継した広畑・室蘭・釜石に、系列高炉メーカーの東海製鐵を吸収合併して加わった名古屋の計4か所と広範囲に亘ったため、元八幡製鐵の従業員たちにしてみれば、この合併で勢力範囲が一気に全国へと広がった感がある。当然八幡からの出張も日本全国に拡がり、その回数も増えることになったのである。


「でも三鬼さんのお嬢さんが日航のスチュワーデスになったから、もうそんな忌まわしい記憶は払拭されたのかと思ってた。」

「そんなことないわよ。まだ私たちが生まれる前の事件だけど、未だに新日鐵の従業員は、東京や北海道に出張するのにも、必ず鉄道を使ってるわ。私たち新日鐵の従業員やその家族は、『もく星号墜落事件』のことを覚えていて、大なり小なり引き摺ってきているのよ。」


 「もく星号墜落事件」とは1952年4月9日、つまり日本航空が創業してまだ半年しか経っていない時期に発生した、謎の日航機墜落事故のことである。日本航空はこの時期、マーチン202型機を中心に、「すい星号」・「きん星号」・「か星号」・「もく星号」・「ど星号」・「てんおう星号」の6機を運用していたが、その中の1機である「もく星号」が羽田を離陸して間も無く消息を絶ったのである。マーチン202型機は、現在運用しているジェット機と違って、44人乗りの小さな双発プロペラ機である。

 この日は発達した低気圧が接近していて、激しい風雨に見舞われていたが、その中を飛行した羽田発・伊丹経由・板付行きの、乗員・乗客37名が乗った日本航空301便「もく星号」が、伊豆大島に墜落(正確には三原山の山頂から東側斜面の標高650m、つまり約2130フィート付近の、現在の御神火茶屋の辺りに激突)してしまったのである。事故当時の伊豆大島付近は豪雨と濃霧に覆われていて、視界が全く利かなかったそうである。

 謎というのは、この便が消息を絶った直後から「日航機、海上に不時着」、「乗員乗客全員救助」といった誤報が米軍側から出て全国を駆け巡ったため、そう言われているのである。無論、搭乗していた37名は全員死亡している。事故後のマスコミ報道の迷走は、米軍がその威信を守ろうとして故意に流した、失態を糊塗するためのデマに踊らされたため、ということで落ち着いている。

 ところが、この事故の原因について日本政府が調査を行おうとしたところ、米軍側は全面的な協力を約束したにも拘らず、事故原因の調査・解明に必要な唯一の物的証拠である交信記録の録音テープを、事故調査委員会に提供するのを頑なに拒否したうえに、機長らの遺体の司法解剖もさせてくれなかったのである。そのため日本側の調査は頓挫してしまい、事故の直接原因は操縦者の運行上の錯誤という推定原因で片付けられてしまった。しかしこの事故が遠因となって、日本の空の安全はアメリカの手に委ねてはいけないという世論となって、日本航空の自主運行の機運を後押しし、それを早期に実現するきっかけとなったのである。

 事故の真相は、米空軍のジョンソン基地(現:航空自衛隊入間基地)の航空管制センターが、「館山通過後十分間は高度2000フィート」との誤った指示を出したことが原因であった。三原山は海抜758m(約2300フィート)の山であることから、当時は館山-大島間の最低安全高度は4000フィート以上に設定されていたのである。もし館山から高度2000フィートで8分も飛び続けると、確実に三原山に激突することになるが、いくら悪天候によって三原山山頂付近が雲に隠れて目視が不可能であったとしても、これは日本人パイロットならば誰もが常識として知っていることであった。しかし、当時は4月28日のサンフランシスコ講和条約が発効する前であることから自主運行ができず、ノースウエスト航空(Northwest Airlines,Inc.)からパイロットを派遣してもらっている状態で、そのアメリカ人機長もフライト直前には宿酔状態だったとの噂がある。

 この墜落したもく星号は行先が福岡であったことから、乗客の過半数は九州出身者で占められており、当時八幡製鐵の社長だった三鬼隆氏も偶然乗り合わせていて、この事故で亡くなっている。まだ3年前(1949年7月)に起きた「下山事件」の記憶も生々しい中での事故だったため、マスコミ等では、三鬼氏を謀殺するために搭乗機ごと爆破したのではないか、という憶測が飛び交ったのは致し方ないことではあった。

 それどころか、米軍戦闘機のパイロットが面白半分に、「もく星号」を射撃訓練の標的にしたため逃げ惑って事故を起こしたのではないか、という主張をする人まで居たのである。実はロイヤルの創業者・江頭匡一氏もこの便に搭乗する予定であったが、当時帝国ホテルで打ち合わせをしていた米軍専用タクシーの営業権譲渡交渉が難航して纏まり切らず、直前にキャンセルして搭乗を取り止めたため命拾いしている。

 しかし、この時の日本航空の対応は見事であった。「頭を下げれば責任を認めたことになる」と言うノースウエスト航空側の当初の反対を押し切って、会長である「絹のハンカチ」こと藤山愛一郎と社長の柳田誠二郎が、当日中に事故遭難者の自宅を徹夜でお詫び行脚したことで、旅客の遺族からは文句が全く出なかったのである。それどころか、後に乗客の遺児の中から日本航空に入社する者が3名も現れることになる。殊に三鬼隆氏の令嬢である三鬼満喜子は、スチュワーデスとなって旅客機に乗務したため、日本航空はこの事故のイメージをさほど引き擦らずに済んだのである。

 なお「もく星号」の機体は全壊してはいたが、幸いにも墜落後に火災が発生しなかったため、遺体の損傷は軽微であった。だが、そのことは別の問題を引き起こしていた。この便に乗務していたスチュワーデスの権田節子の制服姿の遺体が、スカートが捲れあがったあられもない姿のまま写真に収められ、サン写真新聞という毎日新聞社系列の夕刊紙に事故現場写真として一面トップで掲載されたのである。これを見た同僚のスチュワーデスたちは怒髪天を衝いた状態で、飛行機に乗る以上は死を覚悟して乗務しているが、亡くなってからあのような辱めを受けるのは耐えられない、と会社側へ掲載紙に対して抗議をするように訴えている。


「まあ、それは仕方が無いことだよね。」

 永渕が同意する。

「でもこのフライトを経験したことで、私のそういう嫌な記憶も薄れると思うわ。」

 理英はそう言うと永渕に微笑みかけた。永渕はそれを受けて、

「それに飛行機の墜落事故が発生する確率は、宝籤に当たるよりも小さいらしいから、無視しても良いみたいだよ。」

と暢気な科白を口にした。数年後、永渕は大学受験で上京するために乗った飛行機が、フライト中の機長の発狂が原因で真冬の羽田沖に墜落し、陸地まで寒中水泳をする羽目になるとは、この時はまだ知る由も無かった。


「ねえ、叔母さんが嫁いだ東京に住んでるブチ君の叔父さんって、どんな人なの?」

 永渕も今朝小倉駅で買った「東筑軒」のかしわめしを食べていたが、その箸を止めて答えた。

「そうだねぇ、職業で言えば、現在は作家ってことになるのかなぁ?」

「作家っ!?」

「うん。実は毎日新聞の記者だったんだけど、叔母さんと結婚した後に発生した『外務省機密漏洩事件』の時に、社内で西山太吉記者を庇う発言をして、会社に居づらくなって辞めたんだ。李陵を擁護した司馬遷みたいなもんだね。だから現在の肩書は、作家兼政治評論家兼フリー・ジャーナリストってとこだね。あと、母校の國學院大學の非常勤講師もしているんだったかな?」

「へぇ~、結構いろいろやってるのね。素敵な叔父様なんでしょうね。」

 理英が社交辞令を交えて感想を漏らす。すると永渕は記憶を手繰り寄せるように遠い目をすると、ポツリとこう言った。

「昔、1969年頃だったかなぁ、毎週月曜日にTBSのナショナル劇場で『S・Hは恋のイニシァル』ってドラマを放送してたの、覚えてる?」

 永渕の唐突な質問に、今一つピンとこない顔で理英が訊き返す。

「どんなドラマだったっけ?」

「布施明や石立鉄男が新聞記者の役で出てたんだけど・・・」

「だったら、『パパと呼ばないで』の前よね。ひょっとして、伊東ゆかりとかジュディ・オングが出てたやつ?」

「そうそう、他にも森繁久彌や大坂志郎なんかも出てたと思うんだけど。」

 それを聞いた理英は、不意にある歌を口遊み始めた。

「♪ 夢を見るのはS・H、愛するイニシァルS・H、・・・」

「そうだよ、その主題歌のドラマ!あのドラマの舞台は毎朝新聞っていう架空の新聞社だったんだけど、撮影は竹橋にある毎日新聞東京本社の社屋の中で行われたから、何度も仕事中の叔父の姿が背景に映り込んでたんだよ。」

「う~ん、あのドラマはそんなに注意して見ていた訳じゃ無いから、よく覚えていないなぁ~。」

「それじゃあ・・・」

 そう言うと永渕は、手荷物として持ち込んでいたショルダーバッグを、前の座席の下のスペースから引っ張り出すと、今年の初夏に出た『週刊新潮』のバックナンバーを取り出して、後ろの方にあるモノクロのグラビアページを開いて見せた。手錠をかけられたまま椅子に座っている和服姿で丸眼鏡の男性を中心に、複数の人物が写っている古い写真だった。どうやら裁判所の法廷内部を撮影した写真のようである。中央に写っている和服姿の男の真横には制服姿の廷吏も写っている。

「ここを見て!」

 永渕はそう言うと、和服姿の男の背後に設けられた机に座っているスーツ姿の男性二人のうち、鋭い視線を飛ばしている若い男の方を指で差し示した。胸に会社のバッジを着け、豊かな毛髪を七・三に分けており、ストライプ柄のネクタイをしている。隣にはこれも新聞記者と思われる、痩せて眼鏡をかけた面長の男性が耳の後ろを掻いている姿が写っている。

「この法廷の被告席の真後ろにある報道席に座っている人物、これが若い頃の叔父の姿だよ。」

「これ、何の写真?」

「『帝銀事件』控訴審判決日当日の開廷前の写真だよ。中央に写っている和服姿の人物は、この事件の犯人とされている平沢貞通さんだよ。」

 それを聞いて驚いた理英は、

「帝銀事件っ!」

と、一声小さく叫ぶと暫し絶句してしまった。しかし、直ぐに怪訝な表情を浮かべるとこう訊いてきた。

「ブチ君は今、『犯人』じゃなく『犯人とされている』って言い方をしたわよね?ということは、ブチ君はこの事件の犯人は平沢貞通じゃないって思ってる訳よね?」

「そうだね。叔父もこの事件を詳細に取材してて、犯人は関東軍防疫給水部の満州731部隊の軍医中佐だって確信を抱いているみたいだし・・・」

 永渕はそう言うと語尾を濁した。


「顔と肩書は分かったけれど、その叔父さんはどういう人生を歩んできたの?」

「名前は、長田慶一郎。確か生まれは一の橋辺りだって聞いてるよ。父親は長田忠三郎といって、天保銭組じゃなかったそうだけど、陸軍士官学校を卒業した関東軍の将校だったから、幼い頃は満州の新京辺りで育った筈だよ。」

「そんな昔から話を始めるつもり?」

「そこから始めないと、僕が言う注意事項も理解できないと思うよ?」

 理英は永渕の説明は長いが、物事を理解をする上で無駄なことは言わないのを知っているので、

「分かったわ。その叔母さんのお舅さんって人は陸軍の軍人だったのよね?」

と返事をした。

「ところで『天保銭組』ってなに?」

「『天保銭組』っていうのは、旧日本陸軍の将校の中でも、陸軍大学校を卒業した人間のことだよ。陸軍大学校は本来、参謀将校を養成するための教育機関だったんだけれど、昭和の初期には彼らが陸軍の主要ポストをほぼ独占していたんだ。ここを卒業すると軍服に「卒業生徽章」を付けるんだけれど、それが江戸時代の天保通宝(百文銭)に似ていたからそう呼ばれたんだよ。」

「ふ~んっ。」

「お舅さんは陸士の第32期生だったから、橋本欣五郎なんかと同期で、仲が良かったみたいだね。」

「橋本欣五郎って、あのA級戦犯の?」

「そう、桜会を組織して3月事件や10月事件を起こした人だよ。他にも、山本条太郎、張作霖、板垣征四郎、土肥原賢二なんかとも親しかったようだよ。」

「へ~っ!ってことは、一応はエリートの末席に連なってはいたんでしょう?」

「そうなんだけれど、途中で軍を辞めちゃったから、大陸浪人や馬賊をやってたこともあったらしいよ。」

「馬賊っ!?馬賊って、『夕日と拳銃』の伊達麟之介みたいな人のことよね?なんで陸軍を辞めちゃったの?」


 「馬賊」とは、清朝末期から満洲国期に亘って満洲周辺で活動していた、騎馬の機動力を生かして荒らし回る盗賊のことである。そして『夕日と拳銃』は、理英たちと同じ福岡県出身の作家である檀一雄の手になる冒険小説である。主人公の伊達麟之介は、実在した「幕末の四賢侯」の一人である伊達宗城の孫(と言うよりも伊達政宗の末裔と言った方が分かり易いか)、伊達順之助(張宗援)がモデルになっている。尤も、理英も永渕もこの原作をちゃんと読んだ訳ではない。1964年にTBSでテレビドラマ化されたものを、地元ローカル局のRKBが夕方に再放送していたのを見ていたのである。

 理英が覚えていたのは、このドラマで主演していたのが、工藤堅太郎という俳優だったからである。後に理英がよく見ていた『ケンちゃん』シリーズのカミナリ先生役や『ミラーマン』のS.G.M.隊員の藤本武役をやっていて、馴染みがあったのである。尤も永渕の記憶の方はもっとマニアックで、『ウルトラQ』の第26話「燃えろ栄光」のダイナマイト・ジョー役や「少年ドラマシリーズ」の一つ『暁はただ銀色』の緑川先生役で覚えていたようだ。

 また永渕は、このドラマの主題歌がアニメ『巨人の星』の主題歌『ゆけゆけ飛雄馬』と同じメロディーだということを覚えていて、理英の前で歌ってくれたことがあった。その時は永渕が、

「♪ 満州広野 夕日を浴びて 思い描くは 何事ぞ 国の山河か 同胞か アジア大陸 駆ける夢・・・」

と歌い出したのを聞いて、余りにもそっくりなので吃驚した記憶がある。テレビ時代劇『水戸黄門』の主題歌『あゝ人生に涙あり』の歌詞が七五調なので、友人の郁子がよく同じ長さの七五調の唱歌である『どんぐりころころ』の歌詞と入れ替えて歌っていたが、こちらがそっくりなのは偶然などではなかった。

 理英は当初そのことに全く気付いていなかったので、盗作なんじゃないかと疑ったのだが、作曲者が同じ渡辺岳夫という人だという説明をされてやっと納得した次第である。嘗て大映の永田雅一がテレビを「電気紙芝居」と呼んで馬鹿にしていたように、当時のテレビ番組は映画などよりも一段低く見られていたうえ、『巨人の星』が所謂「ジャリ番」だったこともあって、手を抜いて使い回したんだろうというのが永渕の見解である。「ジャリ番」とは、「子供ジャリが見る番組」の略称であり、テレビ関係者が子供番組を蔑んで使っていた言葉である。

 実はそういう例は他にも在って、「パシーン」という鞭の効果音が印象的なNHKの1964年の大河ドラマ『赤穂浪士』のOPテーマ曲は、「大河ドラマ主題曲史上最大のヒット曲」となっているが、音楽を担当した芥川也寸志は1955年8月に公開された新東宝映画『たけくらべ』で使った曲を流用しており、他の映画作品でも使っていたらしいのである。芥川は本来クラシック音楽の作曲家で、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)が映画『ウエストサイド物語』等を手掛けたことで映画音楽の地位が向上し始めていたとはいえ、それ以上に低いものと見られていたテレビ番組の放送音楽には、さすがに本腰を入れる気にならなかったのだろう。


「陸軍では戦闘機乗りだったらしく、1922年(大正11年)のある日、飛行機に乗って敵陣の様子を偵察した後、結果を上官に報告したんだって。けれど、上官たちは碁を打ちながら片手間に聞いていたらしいんだ。そのことにむかっ腹を立てたお舅さんは碁盤を蹴り飛ばして、その勢いで陸軍を辞めちゃったらしいんだ。その報告の際に、敵の補給部隊の大規模な動きから本格的な攻撃が近いことを警告したんだけど、上官たちは聞き流そうとしたらしいんだ。」

「それで大陸浪人になっちゃったの?」

「そうなるね。僕が四歳の時に亡くなったから余り詳しくは知らないんだけど、でも僕には気の短い人って印象しかないんだよなぁ。だからこの件も、我慢が足りなかったっていう側面があるのかもしれない。」

「そうなの?」

「人間の生活に必要なのは、食べることと寝ること、後は学ぶことだけだっていうのが口癖で、何事もサッサと済ませることを求める人だったよ。風呂に入るのも烏の行水で、食事をする時間も極力短くするために早食いなんだ。その頃の僕なんてゆっくり味わって食べる方だったから、しょっちゅう『サッサと喰えっ!食事をしてる時は隙だらけなんだから、いつ八路軍に襲われるか分からんぞっ!』って叱られたもんだよ。」

「八路軍っ!?」

 それを聞いて理英は唖然となってしまった。「八路軍」とは、日中戦争時に華北で活動していた中国共産党軍の通称である。1937年8月22日に毛沢東と朱徳が率いる中国工農紅軍が、中国国民政府の国民革命軍に編入されて「第八路軍」と呼称されたことに由来している。国民革命軍が戦時用の編成に移行していく中で「第十八集団軍」に改称されたが、共産党内では「八路軍」が党員用の公式名称として使われ続けた。華南で活動していた新四軍と共に、現在の「中国人民解放軍」の前身となった軍団なのである。今の日本で八路軍に襲撃される可能性なんてきっとゼロに違いない、と理英は思った。


「退役後は病気に罹ったこともあって、暫くの間定職に就かなかったらしいんだけど、満州航空って会社が発足すると、飛行機のことをよく知っているっていうんで、そこの工廠長に迎えられるんだ。満航に居る間には、1931年(昭和14年)4月に、そよかぜ号っていう飛行機に同乗して、今のパーレビ国王がイラン皇太子だった頃のご成婚祝賀で奉祝飛行をしたりもしてるんだ。」

「何の病気だったの?」

「そこまでは聞いてないんだけれど、そのおかげで助かったこともあるんだ。」

「助かったって?」

「張作霖と親しかったことから、関東軍司令官の村岡長太郎って人から、暗殺を依頼されたこともあったらしいんだ。でも病気で長期入院していたもんで、村岡司令官は早々に依頼するのを諦めて、関東軍の軍人の中から河本大作大佐に白羽の矢が立ったんだ。もし引き受けていたら、敗戦後直ぐに川島芳子なんかと一緒に銃殺されたかもしれないね。」

「確かに、ある意味ラッキーだったわね。」

「第2次世界大戦の敗戦とともに、満州航空は無くなっちゃったけれど、その後1951年に東京の銀座で日本航空が設立されると、今度はそこの創業メンバーとして声が掛かったんだ。」

「へぇ~、優秀だったのね。」

「そう言いたいんだけれど、この時の日本航空の創業メンバーは、旧鍋島藩の士族出身者が多かったんだ。初代会長の藤山愛一郎さんだけでなく、2代目社長になる松尾靜麿って人も旧鍋島藩の出身で、九州帝国大学の卒業生だったから、その縁で引っ張られたんだと思うよ。」

「そうなのっ?じゃあ鍋島藩の士族だったの?」

「そうだよ。鍋島藩の馬廻役だったらしいね。東京に出てきたのも、そのお舅さんの父親が副島種臣と関係が深かったからなんだ。明治維新直後には海軍に居たらしいんだけど、その時の上官が副島種臣だったんだって。だからあの家にはそこら中に、副島種臣の書簡や掛け軸が転がっているから、よく見ておくと良いよ。」

「分かった。そうさせてもらうわ。」

「そういう事情で、発足当初の日航は、『日本航空』なんて名前は烏滸がましいから『佐賀航空』に変えろ、ってずいぶん嫌味を言われたらしいよ。」

「ふ~ん。」

「叔父はその家の男4人・女3人の7人兄弟の長男として生まれたんだけど、終戦前に家族は日本に戻っていたから、中国残留孤児にならずに済んだんだ。中学・高校は、麻布中学・麻布高校と進学して、フランキー堺さんなんかの一っこ上の先輩だったらしいよ。大学は國學院大學に進学して、折口信夫先生の研究室で国文学を学んでいたらしいんだ。因みに今回株主優待券を譲ってくれたのは、この叔父の一番下の弟の彰七郎さんって人だよ。」

「折口信夫って、あの孫悟空とかいう俳号の・・・」

「釈迢空でしょっ!でも短歌の授業、一応覚えてるんだね。」

「一応って、どういう意味?」

 理英が気色ばむ。

「いや、授業中にあれだけおしゃべりに夢中になっていたにもかかわらず、ちゃんと聞いていたことに驚いてるんだよ。」

「余計なお世話よっ!」

 そう言うと理英は右足で、隣の席に座っている永淵の左足の甲を思いっきり躙った。

「ねぇ、あの噂って、本当なの?」

 理英が急に声を潜めて尋ねる。

「あの噂って?」

「折口信夫がゲイだったって噂。」

「ああ、それは本当だよ。でも、昔は男色家なんてそんなに珍しい話じゃないと思ったけど・・・」

 永渕は事も無げに答えた。

「そうなのっ?」

「他にも、木下惠介とか淀川長治とか平幹二朗とか水野晴郎とか居るじゃない?レナード・バーンスタインもそうだったと思うけど・・・」

 それを聞いて理英は目を丸くした。

「えっ!皆そうなの?」

「知らなかったの?」

「うん、全然。」

と言って理英はかぶりを振ると、ポツリと一言だけ言葉を続けた。

「叔父さんのお尻、よく無事だったわね。」

 理英がそう言ったのを聞くと、永渕は声を上げて笑い転げた。


「ところで、叔父さんの今の家族構成はどうなっているの?」

「奥さんと息子が一人。奥さんが僕と血の繋がってる叔母さんってことになるね。叔母は門司高等女学校を卒業した後、門司市長だった柳田桃太郎さんの秘書をしていたんだ。」

「あの参議院議員の?」

「そうだよ。その頃は門女って結構評価が高かったんだよ。女学校の先輩には、労働省のキャリア官僚で婦人少年局長をやってる高橋久子さんなんかが居たそうだよ。その秘書時代に、九州に左遷されてきた叔父と出会って結婚したんだ。」

「ブチ君の叔父さんもずいぶん苦労してるのね。なんで左遷されちゃったの?」

「東京本社時代に、大和銀行の浮貸し事件を記事にしちゃったんだ。毎日新聞社としては三菱銀行と三和銀行をメイン・バンクにしていたから、関係無いと思っていたらしいんだ。ところが毎日新聞の大阪本社は大和銀行を取引の中心に据えていたから、銀行側からの報復で取引中止を言い渡された大阪本社の役員たちから睨まれちゃったという訳さ。」

「なるほどねぇ~。従兄っていうのは?」

「従兄は今、東大法学部の4年生だよ。東深沢小学校・東深沢中学校から駒場東邦高校を経て入ったんだ。東大では合気道部の主将をしてて、去年は東大の新年の寒稽古に付き合わされたんだよ。女子部員も居たのに、全く手加減なしだったよ。滝行やったり、神社の階段をダッシュで駆け登ったり・・・今年も4日にやるそうだよ。今回は君も付き合わされると思うから、覚悟しておいた方が良いよ。」

 永渕はそう言って理英を脅した。

「それで、トレーニングウェアを持参しろって言ってたのかぁ~。それに東大のサークル活動に警察官僚のOBが参加してることまで知っていた理由もよく分かったわ。」

「いや、トレーニングウェアの件は滞在中、従兄の日課に付き合わされるからだけどね。」

「日課って?」

「駒沢公園を一周した後、軽い運動をするんだよ。腕立て伏せ100回と腹筋運動100回くらいなんだけど。」

「それも私は遠慮したいなぁ~。あ~、せっかくの東京旅行がだんだん憂鬱になってきたっ!」

 それを聞いた永渕は、一頻り笑った後、

「叔父はある意味、武闘派でもあるんだ。だから身体を鍛えることを勧めるんだよ。」

「武闘派ってどういうこと?ジャーナリストなんだから、暴力に言論やペンで戦うんじゃないの?」

「昔ザ・フォーク・クルセイダーズっていうグループがいたの覚えてる?」

「『帰って来たヨッパライ』とか『悲しくてやりきれない』を歌っていた人たちよね?」

「実はそういったヒット曲の他に、『イムジン河』っていう持ち歌があったんだけど・・・」

「『イムジン河』?聞いたことないなぁ・・・・・・」

 理英は不思議そうな顔でそう答えたが、不意に何か思い付いたらしく、

「あっ!もしかして遠足のバスの中で、ブチ君が野次を飛ばしてた歌?」

と、問い返した。

「そう、それっ!実はこの曲は、当時レコードの発売やテレビでの放送を巡って、一悶着あったんだ。そして、その時の出来事が原因で、今日まで『放送禁止歌』になっているんだ。」

「それって、どうして?歌詞が物凄くエッチだった訳じゃ無いわよね?」

「違う、違う。そういう曲じゃないよ!」

 永渕が慌てて否定する。

「そう言えばそもそも、『イムジン河』って何処にある河なの?実在してるの?」

「『イムジン河』っていうのは、朝鮮半島に実在する川の名前だよ。正式な名称は『臨津江』と言って、朝鮮半島中部に水源を持つ、全長約300km位の川で、黄海に流れ込んでいるんだよ。河口には有名な『江華島』があるんだよ。」

「そうなんだっ!」

「この『臨津江』は38度線に沿って流れているため、現在、朝鮮半島の分断を象徴する存在になっているんだ。1968年頃にザ・フォーク・クルセイダーズが歌ったものの歌詞も、主人公が臨津江を渡って南へ飛んでいく水鳥を見ながら、なぜ半島南部にある故郷へ帰れないのか、誰が祖国を分断したのか、ってことを水鳥に問いかける形で、故郷への募る想いを語らせる内容になっているんだ。」

「それがどうして放送禁止になってしまったの?」

「それは、いろんな理由があるみたいなんだけど、最大の理由は、歌詞が改変されて南側に配慮した内容になっていることに朝鮮総連が噛みついて、歌詞を勝手に変えるなって抗議したことらしいんだ。」

「朝鮮総連って?」

 理英が尋ねる。

「朝鮮総連っていうのは略称で、正式名称は『在日本朝鮮人総聯合会』って言うんだ。朝鮮民主主義人民共和国、いわゆる北朝鮮を支持する在日朝鮮人で構成された団体なんだけど、法律上は『権利能力なき社団』として扱われているんだよ。彼らは、金日成が唱えた「主体チュチェ思想」を指導指針として、あらゆる分野の運動を展開しているんだ。2年前に起きた『文世光事件』の黒幕でもあるんだよ。」

「へぇ~、恐ろしいわね。」

 そう言って、理英が肩を竦めた。

「『イムジン河』のレコード発売直前の1968年2月になって、朝鮮総連は発売元の東芝音楽工業に対して、『この曲が朝鮮民主主義人民共和国の歌であること』を認めて、『原曲の作詞作曲者名を明記すること』や『歌詞の忠実な日本語への翻訳』を求めてきたんだ。これを受けた東芝音楽工業は、日本と国交のない北朝鮮の正式名称を出すことを躊躇して、結果的に発売自粛の措置を執ってしまうんだ。当時の日本は北朝鮮を国家としては認めてなくて、朝鮮半島を統治している国家は大韓民国だけってことで見解を統一していたからね。」

「でも、なぜそれが『放送禁止歌』となることに結びついたの?」

「一つには朝鮮総連の要求を認めてしまうと、レコード倫理審査会の国際親善条項に触れてしまうってこともあったんだけど、この曲はもともと北朝鮮の曲で、元々の歌詞は、1番で臨津江の流れに対してなぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、2番では臨津江の流れに対して、荒れ果てた『南の地』つまり韓国へ、花の咲く『北の地』つまり北朝鮮の繁栄した様子を伝えて欲しい、となってるんだ。つまりこの歌はもともと、北朝鮮が韓国よりも優れていることを誇示する内容のプロパガンダだったんだ。当初ザ・フォーク・クルセイダーズのメンバーは『作詞・作曲者不明の朝鮮民謡』だと考えていたらしいんだけど、そうじゃなかったんだね。」

「ふ~ん。でも、叔父さんは毎日新聞社に居た訳よね?あまり関係は無いんじゃない?」

「そうでもないんだ。叔父はその当時、同じ資本系列で立ち上がって間もないTBSの報道部に出向していたんだ。トラブルの際に矢面に立つ広報の様な部署ではなかった筈なんだけどね。」

「それで叔父さんはどう絡んでくるの?」

「その朝鮮総連の抗議活動の一環として、この曲を流していたテレビ局やラジオ局に抗議というか、嫌がらせをしていたんだ。具体的には、毎日仕事にならないくらいの物凄い数の抗議電話をかけてきて電話口で恫喝したり、職員の出退勤時に押し掛けて来て、放送局の建物に通用口から出入りする従業員に向かって、大声で怒鳴りつけて威嚇したり、誰がやったか分からないように取り囲んで殴る蹴るの暴行を加えたんだ。」

「えっ!?」

「つまり人垣で通用口まで人間一人が通れるくらいの通路を作って、出勤するのにそこを通らざるを得ない職員たちを脅かしたんだよ。真っ先に精神的にまいってしまったのは、アナウンサー等の女性職員だったらしいよ。」

「それでどうなったの?」

「毎朝毎晩、出退勤時に脅かされた女性職員から、こんな辛い思いをするんだったら、もう『イムジン河』を放送しないで欲しい、っていう声が上がったんだ。」

「ええっ?全然『ペンは剣より強し(The pen is mightier than the sword)』じゃあないじゃない!」

「でも実際に、朝出勤して来た女性職員の中には、着ている服をボロボロに破られた状態の人も結構居たらしいよ。出勤途中で強姦されたんじゃないかって疑うような惨状だったらしいんだ。けれど叔父たちは、それは言論が暴力に負けたことになるから、絶対に屈しちゃいかんと頑張ったんだよ。」

「それは正論ね。でも・・・」

「だから叔父たちは、朝早く出勤してその人垣から女性職員を護衛して歩いたんだ。でも人垣の中から叔父たちを小突こうとして拳が飛んで来たもんだから、応戦して殴り返しちゃったらしいんだ。叔父は当時、極真空手の二段だったから、殴った相手が怪我をして警察のご厄介になっちゃったんだよ。ただ不可解なことに、叔父たちを小突いた連中は誰もお咎めなしだったらしいね。そして23日間の勾留期限が明けて叔父が社に出勤してみると、会社の方はとっくに白旗を上げていて、『イムジン河』は『放送禁止歌』になっていたって訳さ。」

「酷い話ねっ!」

「叔父はこのことがあって、直ぐに毎日新聞に呼び戻されて、出向は解除になるんだけれど、後年またTBSと関わりを持つことになるから不思議だよね。」


「じゃあ、そのブチ君が影響を受けた従兄っていうのは、どういう人なの?」

「僕よりも相当に優秀な人だよ。記憶力も、判断推理・数的推理・資料解釈・空間把握も、一般教養も。」

「ブチ君がそう言うんなら本当に優秀な人なのね。スポーツの方はどう?」

「こっちは僕と一緒で、小中学校の頃はまるでスポーツセンスが無かったようなんだ。体格的にも恵まれていなかったから、身長は今の僕と余り変わらない筈だよ。でも運動音痴って訳でもなくて、叔父に鍛えてもらって年齢を重ねるごとにスポーツが得意になっていったんだ。だから得意種目は斑模様ってところかな?」

「斑模様?」

「さっきも言った通り、子供の頃はスポーツセンスが無くて運動音痴だと思われていたから、友達が野球なんかで遊ぶ時には、仲間に入れて貰えなかったらしいんだ。だから未だに団体競技、例えば野球やサッカーやバレーボールなんかは、苦手というよりも殆んど経験が無くて素人も同然の状態なんだ。」

「へぇ~っ!それはある意味、哀しいことね。」

「その代わり個人競技、例えば体操やテニスや武道なんかは得意だよ。腕っぷしも強くて、今年は4年生だったから、大学の合気道部のキャプテンを務めていたよ。」

「それじゃあ、リーダーシップは有るのね?行動的な人なの?」

「いや、普段は温厚で控え目でおとなしい人だよ。けれど僕と同じで、スイッチが入っちゃうと荒れ狂っちゃって、手が付けられなくなるんだ。」

「何かそんな出来事があったの?」

「1~2年前に東大の合気道部で新入生歓迎コンパを、錦糸町駅の近くの居酒屋で開いたことがあったんだ。それがお開きになった後で、帰宅途中だったのか、2次会に行こうとしていたのか、業平橋の辺りを歩いている時に、女子の新入部員が飲み歩いていた力士の一団に絡まれたらしいんだ。」

「それは災難だったわね。相撲取りって、気は優しくて力持ちってイメージがあるけど、実際は不良あがりのワルも沢山居るらしいからね。そう言えば今年の初め頃にも、白田山と陸奥嵐が赤坂のクラブで山口組系の組長と飲んでいて、他の暴力団と発砲事件を起こしてたわね。」


 この年(1976年)の2月13日の午前2時頃、山口組のナンバー3であった佐々木組の佐々木道雄組長が、贔屓にしていた宮城野部屋の白田山と陸奥嵐を連れて、港区赤坂のソウルハウスで飲んでいた時のことである。佐々木組長が酒席の最中に、陸奥嵐の失言に激怒してガラスのコップを投げつけたところ、そのコップは運悪く、近くの別のボックスに居た福井組の組員に当たって、双方の組員の大喧嘩にまで発展してしまった。そこで事態を収拾するために、ボディガードとして連れて行った佐々木組組員の武田義道が、拳銃(SW380)を3発撃ってしまったのである。これで警察が介入することになってしまい、力士と暴力団と繋がりが白日の下に晒されることになってしまった。元々の原因は、白田山の方は佐々木組長とは昵懇の間柄であったが、陸奥嵐は初対面であったにも拘らず軽口を叩いてしまったための出来事であった。この事件を受けて日本相撲協会は、陸奥嵐と白田山に減給処分を下したが、もう後の祭りであった。


「そうだね。この時も最初は先輩の男子部員が止めてたらしいんだけれど、小競り合いになってしまって、その時力士相手に大立ち回りを演じたんだよ。向かってきた幕下力士の腕を折ったらしいし、他にも入り身投げで業平橋から何人か投げ落としたから怪我をした力士もいたとかで、一晩警察のご厄介になっちゃったんだ。合気道部OBの亀井静香さんが何とか執り成してくれて、最終的に説諭だけで済んだみたいなんだけど・・・」

「良かったわね!逮捕歴が付いちゃったら、就職にも影響が出るもんね。」

「そうだね。最近は合気道だけでは飽き足らなくて、『大東流合気柔術』も習ってるらしいし・・・」

「『大東流合気柔術』て何っ?」

「『大東流合気柔術』っていうのは、日本の古流武術の一派で、会津藩の殿中武術を参考に編纂された武術てことになっているんだ。西郷頼母から教授された武田惣角っていう人が広めた武術ってことなんだけど・・・」

「・・・なんだけど?」

「どうもその歴史は眉唾物らしいんだ。武田惣角っていう人が滅茶苦茶強かったのは間違い無いみたいなんだけど、旧会津藩へ行ってもその痕跡が認められないんだ。それに西郷頼母の甥っ子の西郷四郎も、その存在を知らなかったらしいし、そもそも知っていたら天神真楊流柔術なんて習わなかったろうし・・・」

「西郷四郎って、講道館四天王の一人で、あの姿三四郎のモデルになった『山嵐』の使い手の?」

「そうだよ。まぁ、あの人は別にその武道の歴史云々よりも、単に自分が強くなりたいだけなんだから、その辺は余り関係無いのかも。」

「ふ~ん、そうなんだ。」

「もともと格闘技に目覚めたのだって、東大に入ってから体育の授業で柔道を習ったんだけど、それが知っていた講道館柔道とあまりにも違っていて、ショックを受けたからだし・・・」

「柔道って、講道館柔道のことじゃないの?東大ではどんな柔道を教えているの?」

「東大で教えているのは、『七帝柔道』ってやつで、『高専柔道』の系譜を受け継いでいる、もう一つの柔道なんだ。寝技に特化していて、結構実戦的なものだよ。」

「七帝柔道?」

「そう、東大を始めとして七つの旧帝国大学の柔道部で行われている、寝技中心の高専柔道の流れを汲む柔道のことだよ。『七大学柔道』とか、『七大柔道』とも呼ばれることもあるよね。」

「その高専柔道っていうのは何?」

「高専柔道ってのは、『全国高等学校・専門学校柔道』の略称だよ。戦前の旧学制時代に高等学校・専門学校・大学予科で行われていた寝技中心の柔道のことなんだ。1898年(明治31年)に、東京の第一高等学校と仙台の第二高等学校の柔道部の間で行われた対抗戦に端を発してるんだけど、大正3年に旧京都帝大主催の全国大会が開催されて以降続いたことで、徐々に独自の形に進化していったんだ。」

「それって講道館柔道とは、どう違うの?」

「高専柔道や七帝柔道は、オリンピックや全日本選手権で行われている講道館柔道とはルールが全く異なってる、世界で唯一の非常に特殊な柔道なんだ。講道館柔道とのルールの最も大きな相違点は、寝技で明らかに膠着状態になった時に、審判が『待て』をする規定が無いことだね。」

「それってそんなに大きな違いなの?」

「寝技での『待て』が無いってことは、寝技を重視していて、これが重要な要素となってくるからなんだ。だから、寝技への引き込みも認められているんだよ。」

「講道館柔道ではそうなってないの?」

「講道館柔道では、投げ技を掛けて縺れた時にのみ寝技への移行が許されているんだけれど、高専柔道では自由に寝技にいけるんだ。だから試合が始まるや否や、立ち技を掛けることなく、どちらかが引き込んで寝技になることが多いね。」

「どうしてそうなっちゃったの?」

「高専柔道が寝技に特化していったのは、試合形式を多人数団体戦の勝ち抜き勝負にしたため、大学から柔道を始める初心者を多数入部させて、部員の半数近くを白帯が占めたことが大きな理由だったみたいだね。厳しい受験勉強で相当体力を落とした新入生が大半だった筈だから。」

「でも、それだけが理由って訳じゃないんでしょう?」

「そうだね。それに寝技中心に移行していった理由はもう一つ、寝技は立ち技よりも、天賦の才に左右される部分が少なくて、かつ短期間で確実に上達することも挙げられるね。寝技っていうのは立ち技よりも会得し易いだけでなく、体格や腕力に影響されず、偶然が勝負を左右する危険性が少ないからね。」

「つまりその従兄は、旧七帝国大学の柔道に受け継がれている、高専柔道の極意に触れたのね。」

「そして学生たちが自ら創意工夫を重ねて、次々と新しい技を生み出していったことで、寝技の技術が異常に発達してるんだ。『前三角締め』っていう技は、高専柔道から生まれた締め技の芸術品って言われているほどだよ。あと、講道館柔道で認められている関節技は、手、特に肘への攻めだけなんだけど、高専柔道では足への関節技も認められていて、『足緘あしがらみ』の様な技も使えるんだよ。」


「まあ、何かを真剣にやれば、相当な水準にまで行っちゃうんだから、あの人を一言で言い表せば、文武ともに人並外れてるってことになるのかなぁ?」

「じゃあ、完璧じゃない!」

「いや、全く欠点が無い訳じゃあないんだ。」

「どんな欠点を持ってるの?」

 理英がそう尋ねると、永渕は珍しく言い淀んだ。恐らく尊敬する人の欠点を口にしたくないのであろう。しかし理英にじっと見詰められていることに居心地の悪さを感じたのか、

「どちらかと言うと、文系タイプというよりも理系タイプの人なんだ。」

と口を開いた。

「具体的にはどういうこと?」

「端的に言うと、物事を見たまんま、つまり表面的にしか受け取れないんだよ。だから文章理解の分野は難ありというか、他人の言葉や行動なんかの裏の意味を読み取れないんだ。人間として冷たいと思うかもしれないけれど、根が正直な人だから、人間には裏もあるし、深みもあるってことに考えが及ばないんだと思う。良く言えば、皮肉なんかが通じないし、腹芸もできないってことなんだけどね・・・だから国語なんかでも、詩や短歌や俳句だと、暗喩やそこに秘められた裏の意味なんかがよく理解できないらしくて、苦手にしていたんだ。」

「つまり人間としての底が浅いから、他人の気持ちを推し量れないってことね?」

と、理英は身も蓋も無いことを口にした。

「実は今年、国家公務員採用上級試験を受けたんだけど、余り良い点数じゃなかったらしくて、希望していた大蔵省には行けなかったようなんだ。だから国家公務員になるのは諦めて、三井物産に就職するつもりなんだけど、僕はそれで良かったのかもって思ってるんだ。だって、そういうことができないと、ああいう所では苦労することが目に見えてるもんね。」

 そう言うと永渕は、弱々しく笑った。


「ここで二つ、大事なことを言っておくよ。まず叔父は思想的には右翼に分類される人なんだ。」

「それって、児玉誉士夫と同じ穴の狢ってこと?」

 理英はそう言って、ロッキード事件で注目を集めた右翼の大物の名を挙げた。

「いや、叔父は思想右翼に当たるらしくって、児玉誉士夫や笹川良一や赤尾敏のような利権右翼とは一線を画してるみたいだね。でも、野村秋介さんとは接点があるって聞いたことがあるなぁ。」

「ちょっと、怖いわね!」

「だから、なるべく皇室の話題は避けるように。もし、皇族のことを呼ぶ必要がある時には、必ず『陛下』や『殿下』を付けてね。間違っても前田さんみたいに『天ちゃん』なんて呼ぶんじゃないよ!」

 理英はそれを聞いて、永渕が理英を連れて来たがらなかった理由が、何となく分かったような気がした。

「肝に銘じておきます。」

「それからもう一つ、今うちで猫を飼っていることは秘密だからね。」

「えっ!?どうして?」

「叔父の家ではポメラニアンを飼ってるんだけど、猫を飼うのはご法度なんだ。」

「どういうこと?」

「さっきも言ったよね?鍋島藩の関係者だって。」

 それを聞いて驚いたように理英が尋ねる。

「ひょっとして『鍋島の化け猫騒動』が関係しているの?」


 『鍋島の化け猫騒動』とは、肥前国佐賀藩の2代目藩主・鍋島光茂の時代の逸話である。光茂の碁の相手を務めていた臣下の龍造寺又七郎が、光茂の機嫌を損ねたために斬殺され、それを聞いた又七郎の母も飼っていた猫に悲痛な胸中を語って自害してしまった。その母の血を嘗めた猫が化け猫となり、城内に入り込んで毎晩の様に光茂を苦しめるが、光茂の忠臣である小森半左衛門がこの化け猫を退治し、鍋島家を救うという伝説である。

 史実を言えば、鍋島氏以前には龍造寺氏が肥前を治めていたが、龍造寺隆信の死後は彼の補佐だった鍋島信生(直茂)が実権を握った後、隆信の孫の高房が自殺し、その父の政家も急死した。このため、佐賀藩は鍋島氏の手に移ってしまうが、龍造寺氏の残党が佐賀城下の治安を乱したため、直茂は龍造寺の霊を鎮めるために天祐寺を創建した。これが「鍋島騒動」の発端とされ、龍造寺氏の遺恨を想像上の猫の怪異で表現したものが「化け猫騒動」だと考えられている。また、龍造寺氏から鍋島氏への実権の継承は問題無しとされたが、高房らの死や、佐賀初代藩主・鍋島勝茂の子が夭折したことなどから、一連の話が脚色され、こうした怪談に発展したのだと思われる。

 この伝説は後に芝居になり、嘉永年間には中村座で『花嵯峨野猫魔碑史』として初上演された。題名の「嵯峨野さがの」は京都府の地名だが、「佐賀」を捩ったものであることは明らかである。この作品は全国的に人気を博したが、鍋島藩から苦情が出たため直ぐに上演中止となった。しかし上演中止申請に携わった町奉行が鍋島一族の鍋島直孝だったため、却って化け猫騒動の巷説が有名になって逆効果になってしまった。

 このエピソードはその後、講談の『佐賀の夜桜』や実録本の『佐賀怪猫伝』によって広く世間に流布されることになった。講談では、龍造寺の後室から怨みを伝えられた飼い猫が小森半左衛門の母や妻を食い殺し、彼女らに化けて鍋島家に祟りをなす、というストーリーになっている。一方、実録本の方では、龍造寺家とは一切関わりが無くなってしまっている。鍋島藩士の小森半太夫に虐待された異国種の猫が怨みを抱いて、主君の愛妾を食い殺してその姿に成り変わって鍋島家に仇をなすが、家臣の伊藤惣太らに退治されるという筋立てである。

 そして昭和初期には、この伝説を基に『佐賀怪猫伝』・『怪談佐賀屋敷』・『秘録怪猫伝』等の怪談映画が大人気となった。これらの映画の中で化け猫役を何度も演じた、入江たか子や鈴木澄子といった女優たちは、「化け猫女優」として世に名を遺すことになったのである。


「そういうこと。だから僕が知ってる範囲内では、鍋島藩の関係者はみんな猫が嫌いみたいだね。」

 理英は余りに時代錯誤な事実に驚き、反応に困ってしまって、

「ふ~ん。極力気を付けるようにするわ。」

と、つい気の無い返事をしてしまった。


 理英たちの乗った飛行機が羽田空港に到着すると、まだ午後二時過ぎだというのに太陽はかなり傾いていて、夕方に近い風情を醸し出していた。日が傾くのが福岡よりも大分早い感じがする。もう黄昏間近になったかの様な雰囲気に、理英は随分と東へ移動したことを実感していた。 

 羽田に着くと到着ゲートを潜って、接続している東京モノレールに乗り換え、浜松町駅に出た。ここから山手線に乗り換えて渋谷まで出る。そこから更に東急東横線に乗り換えて、都立大学前駅で降りた。そこからは東急バスに乗って、「都立大学理学部前」のバス停で降りる。ここから深沢学園通り沿いに少し歩いた所に、永渕の叔父の家があるらしい。バス停の周りは東京とは思えないくらい空地と竹林が目立っていた。バスを降りて歩き始めると、永渕が声を掛けてきた。

「ほら、あのお屋敷見てよ。誰のお屋敷か分かる?」

 そう言って、立派な総檜造りの門構えのお屋敷を指差した。理英がその家の門を見上げると、「鶴田」という表札が目に入った。

「ブチ君、これひょっとして・・・」

 理英がそこまで言うと、永渕が正解を披露した。

「そう、俳優の鶴田浩二さんの家だよ。凄い家だろう?」

「立派なお屋敷ねぇ~。」

「この通りの向こうには、王貞治選手と森進一さんの家もあるんだよ。」

 永渕はそう言うと、「深沢一丁目」のバス停のある方角を指した。


 そうこうしているうちに、直ぐに永渕の叔父の家の前に着いてしまった。鶴田浩二の家には及ぶべくもないが、同じ様な普通の二階建ての民家が5軒ほど並んで建っている。それらの家の側面の壁には、小さいながらも「鶴丸」のロゴマークのレリーフが嵌め込まれていたのには、理英も少なからず驚いた。


 「鶴丸」は日本航空のシンボルマークである。日本航空は創立直後の1951年9月に社章を制定したのだが、特徴が無く印象に残らないという評判だった。そこで海外への進出を決めた1958年に、宣伝課長の千田図南男に命じられた鷹司信兼が、丹頂鶴をモチーフに新社章を作ろうとしていたところ、カリフォルニアにある広告代理店ボッツフォード社の女性社員から、日本の家紋を参考にデザインしたものを提案されて採用したものなのである。


 永渕の従姉はそのうちの一番端の家屋の前まで行くと、入口の門にある呼び鈴を押した。直ぐに中から小犬の鳴き声が近づいて来るのが聞こえると、ポメラニアンと一緒に中年の女性が笑顔でドアを開けて現れた。永渕の叔母の淑江である。

「いらっしゃ~い!」

 元気のいい声で挨拶された理英は、永渕たちの挨拶の後に自己紹介をして挨拶をした。直ぐに中に通されると、一番奥の応接間へと案内された。驚いたのは、家の中に入ると廊下を含めて至る所に本棚があって、本がぎっしりと詰まっていたことだった。収められている本の種類は多岐に亘り、古書店が1軒開けるのではないかと思える程の量だった。応接間に入るまでの間には、都合十数個の本棚が目に入った。玄関から直ぐの所に仏間があって、ここを抜けて食堂の脇を通り、書斎兼応接間に入ったが、仏間には床の間も設けてあり、掛け軸が掛けられていた。茶色く変色した古い紙に達筆な文字が躍っていたが、署名をよく見ると「副島種臣」の名が記されていた。

 奥の書斎兼応接間には、頭が禿げあがり作務衣を着た小太りの男性が、革張りのソファに腰掛けていた。これが永渕の叔父らしい。白髪交じりの髪の毛は、耳の周りに少し残っているだけである。永渕の叔父はウォルター・クロンカイト(Walter Leland Cronkite,Jr)を思わせる風貌をしていたため、第一印象としては知的な感じを受けたが、目付きはまだ現役の新聞記者のように鋭い。ポメラニアンのラルフにじゃれ付かれながら理英たちが入って来ると、即座に鋭い視線を飛ばしてきたが、直ぐに笑顔を作って旅の疲れを労う言葉を掛けてくれた。理英はその姿を脳裏で先ほど見た写真と比較して、

「時の流れって、残酷だなぁ。」

と独り言ちた。

 永渕の叔父はソファから立ち上がると、理英たちをソファに座るように促した。永渕と康子に続いて理英が挨拶を済ませると、20代前半の若い男性が応接間に入って来た。永渕の従兄の秀一郎である。背は男性の平均身長位と思われるので、170cmにちょっと足りない位なのだろうが、永渕に比べて筋肉質な身体つきをしており、何らかの武道をやっていることが分かる。穏やかな雰囲気は永渕と同じであるが、顔は永渕とはそんなに似ておらず、なかなか知的でハンサムな顔立ちをしている。しかし目つきは父親譲りなのであろう、眼鏡越しに鋭い視線を送ってきていた。直ぐに笑顔で開口一番、

「やあ、陽ちゃん、久し振り。伯父さんや伯母さんは元気?」

と言って挨拶すると、理英に向かって、

「初めまして。貴女が寛永寺さん?従兄の秀一郎といいます。陽ちゃんから噂はいろいろ聞いています。物凄く出来が良いんだってっ?」

 そう言われた理英は、少々気恥ずかしい思いをした。天下の東大生に「出来が良い」と言われるほど、何か実績を残してきた訳では無いからだ。

「いえ、そんな・・・」

と言って謙遜すると、

「陽ちゃんが学年を制圧するのに随分梃子摺っているのは、貴女が阻止してるからだって聞いてるよ。それに性格も凄く良いらしいし。僕が東深沢中学に居た時にも、学年首席ではないけれど、僕のクラスで一番だったのは女の子だったんだ。でも、その子は性格がきつくてねぇ。陽ちゃんが羨ましいよ。」

 そう言うと秀一郎は小さく溜息を吐いた。事前に永渕から情報を仕入れていたことで、もっと非情で冷酷そうな人を想像していたが、悪い人ではなさそうだな、と理英は内心ホッとした。秀一郎は永渕の方を向くと早速、

「僕はもう4年生で、あとは卒業式を待つだけだから、今年の冬は何処でも連れてってあげられるよ。何処が良い?」

と訊いてきた。永渕は理英の方をチラッと見ると、

「東京が初めての人間も居るから、初心者向けのコースでお願いします。」

という返事をした。秀一郎は、

「分かった。じゃあ、これまで行った場所と重複するかもしれないけれど、明日から精力的に回ろう!」

と言うと、同時に、

「その代わり、明日から朝食前に日課に出るけど、彼女も一緒に連れてって良いよね?」

と訊いてきた。理英はその科白を聞くと天を仰いだ。


 この家は思ったよりも広く、2階にあった三つの6畳間のうち、一番奥の来客用に空けていた部屋を理英と康子で使うことになり、直ぐに荷物を下ろした。窓を開けると、応接間の窓から見えた庭の様子が一望できた。もう一つの部屋は秀一郎の部屋のようである。永渕はこちらで寝起きするらしい。理英は荷解きが終わると、早速永渕の居る従兄の秀一郎の部屋へ潜り込んだ。

 理英たちの部屋にも二つ本棚があったが、こちらは文学全集のような当たり障りのない品揃えだった。だが永渕の従兄の部屋の中は、中々にマニアックな本が揃っていた。部屋の壁のうち窓の無い三方には全て本棚を置いており、本棚の数は全部で六つあった。勉強机に作り付けられている本棚と一番側にある本棚には法律や語学の書籍が詰まっていたが、それ以外には岩波文庫・岩波新書や旺文社文庫・講談社現代新書・中公新書などが入った本棚が一つ、ミステリーとSF小説だけが詰まった本棚が一つ、さらに手塚治虫の漫画だけを収めてある本棚も一つあった。

 また早川書房の月刊『S-Fマガジン』を定期購読しているようで、それだけが詰まった本棚も一つあって、創刊号から1号も欠けることなく揃っていた。理英はこれを見て、創刊時にこの雑誌の編集長だった福島正実の訃報を、今年の春先に見たのを思い出した。今年は年初から「ミステリーの女王」アガサ・クリスティーなどの超大物の訃報が相次いだので、すっかり忘れていたのだ。

 思えば今年は檀一雄に始まって、周恩来、薩摩治郎八、ルキノ・ヴィスコンティ、藤原義江、マックス・エルンスト、ハワード・ヒューズ、武者小路実篤、キャロル・リード、マルティン・ハイッデガー、嶋田繁太郎、安川第五郎、毛沢東、ドルトン・トランボ、アンドレ・マルローといった著名人の訃報が続き、世界が寂しくなってしまった感がある。永渕ならばこのリストに、3月10日に亡くなったマシオ駒も入れるのだろうか。

 旅装を解いた理英は永渕と二人で本棚を物色すると、面白そうな本を譲り受けた。本当は滞在中に借りて読むだけの心算だったが、秀一郎から持って帰っても良いと言われたので、その言葉に甘えることにしたのである。遠藤周作の『海と毒薬』、北杜夫の『怪盗ジバコ』、そして夏休みに永渕から薦められたのに表紙のイラストが不気味で却下した筒井康隆の『時をかける少女』の3冊である。この冬休みにも、少ないながらも読書感想文の宿題が出ていたが、これで何とかなりそうだった。


 夕飯で、永渕が担いで持って来た「ふく」に舌鼓を打った後、お茶を飲みながら理英が尋ねた。

「そう言えば、秀一郎さんの従兄弟に物凄く優秀な東大の同級生がいるって聞いてるんですけれど・・・」

「叔母が嫁に行った『高砂屋米穀店』の東海林君かい?彼は僕の同い年の従兄弟なんだけど、東海林龍一郎って言って、近くのお米屋さんの息子なんだ。彼は今年の8月に外務公務員採用上級試験に合格したから、来年の春からは茗荷谷に通い始めると思うよ。」

「霞が関じゃないんですか?」

「茗荷谷には外務省の研修所があってね、入省直後はそこで何ヶ月か外交官のタマゴとして研修を受けるのさ。」

「二人とも高校以外は幼稚園から大学まで一緒だったってお聞きしましたけど?」

「うん、高校以外は全部一緒だったよ。東京都は学校群制度があるから、二人とも都立高への進学は諦めちゃったんで、高校だけは違っちゃってね、僕は駒場東邦に行ったんだけど、アイツは学芸大附属に行っちゃったんだ。」

「どちらも凄い学校ですよね。」

「でもアイツと僕は同レベルって訳じゃないよ。アイツと一緒の学校では、僕は一度も一番を取ったことがないんだ。言わば『目の上のたん瘤』ってやつだね。そう言えば、君と陽ちゃんの関係とよく似てるね。」

「私たちなんかとは比べ物にならない次元の話ですよ。優秀だったんですね。」

「でも傍からは、全然そうは見えないんだけどね。」

「そうなんですか?」

「昔っから窓際の席に座って、授業中も口を開けてボーっと窓の外を見てるだけだったのに、何故か試験では殆んど満点を取って、首席の座を掻っ攫っていくんだ。高校では何回か旺文社の全国統一模試を受けたんだけれど、その度に全国ランキングであいつの名前を見ていたよ。全国の高校生が参加している筈なのに、3番から下に落ちたのを見たことがないや。」

「へぇ~っ!」

 理英が思わず感嘆の声を上げる。

「変わった奴で、ヒッピーの様な清潔感の無い長髪を、靴紐で後ろに縛ってポニーテールにして、本郷のキャンパスを闊歩しているよ。顔立ちも全然賢そうじゃないしね。」

 それを聞いた理英はその人物像を頭の中で想像してしまい、つい吹き出してしまいそうになるのを必死で堪えた。

「顔を見たければ、明日にでもお米を注文しようか?きっとアイツが米袋を抱えて持って来ると思うよ。」


 理英が風呂から上がって、ドライヤーを借りて部屋で髪を乾かしていると、康子が風呂から上がって部屋に戻ってきた。康子は髪が短いせいか、ドライヤーで乾かす必要は無いようだ。部屋で二人きりになると、康子は待ち構えていた様に、早速理英に永渕との関係などを、好奇心剥き出しで根掘り葉掘り尋ねてきた。こうなるとガールズトークというよりも、被疑者の取り調べに近かった。逃げることも許されず、完全に尋問に近い状態であれこれ問い詰められたので、肝心な所はぼかしながら、正直に5月からの出来事を、順を追って話さざるを得なかった。しかしそんな他愛の無いことでも、康子さんにとっては面白かったようで、永渕とのエピソードの一つ一つに、枕を抱いたまま足をジタジタと動かして笑い転げていた。そんなこんなで、この日の就寝は12時近くになってしまった。


 そして翌28日から、思いもかけずハードな日々が始まった。朝6時に起床すると、近くにある駒沢オリンピック公園でランニングの後、軽い運動をすることを滞在中の日課として課されたのである。理英は生欠伸を噛み殺しながら、永渕たちの後に付いて公園に向かうと、この公園が意外に広いことに気が付いた。聞けば園内に各種競技場が設置されており、ランニング・コースは一周2km以上あるらしい。

 秀一郎に先導される形で、ランニング・コースを反時計回りに回り始めたが、走り慣れているのか二人のスピードは結構速く、理英は一人取り残されそうになりながらも、懸命に二人の後を追って走った。走っている間は永渕だけでなく、秀一郎も時々こちらをチラチラと振り返ってペースを調節してくれていた筈なのだが、それでも全然差が詰まらなかった。体育の授業では800mまでは走ったことがあったが、走る距離が2キロにまで延びると、こうも勝手が違うのかというほど遅れてしまった。

 走り終わってみると10分と経っていなかったが、14歳の女の子にはきついペースだったらしく、走り終わった後も暫く膝がわらってしまった。脹脛もプルプルと痙攣してうまく歩けない。それでも二人は理英が迷子にならないように、気を使ってペースを緩めて走っていたのだそうだ。

 理英は決して足は遅い方ではない。むしろ学年では女子で五本の指に入るほどの俊足である。しかもそれは短距離に限った話ではない。本人は長距離にも結構な自信を持っていたつもりだった。しかし現実問題として理英は今、目の前を走っていた二人に、遂に追いつくことができなかった。しかも永渕の方は鈍足だという評判の持ち主なのに、このザマである。尤も永渕の評判は短距離に関してだけで、長距離については当てにならないことを、理英は身をもって知っていたので、さほどショックは受けなかったが、それでもプライドは甚く傷つけられた。

 日課が終わると朝食を摂ってから街へ観光に出かけることになっていたが、さすがの理英も今回は全く食欲が湧かなかった。と言うよりも、胃が食事を受け付けなかったという方が正しい表現だろう。それでも無理矢理にお茶と味噌汁で食べ物を胃に流し込んで朝食を済ませ、4人揃って東京観光に出かけたのだが、その頃になってからやっと体力が回復してきたのが分かった。

 

 東京見物初日の12月28日の午前中は東横線で渋谷まで出て、そこから銀座線に乗り換えて上野に出ることにした。明日の29日で御用納めになってしまうので、閉まってしまう前に上野動物園や東京国立博物館・国立科学博物館・国立西洋美術館を見て回るのである。昼食は途中で、上野の「黒船亭」でオムライスを食べた。午後からはアメ横通りや浅草寺を散策した後、秋葉原と神保町へ移動した。アメ横通りでは途中、永渕の従兄の秀一郎が母親から頼まれたと言って、車海老や数の子を買っていた。

 ポーラテレビ小説『やっちゃば育ち』のモデルとなった秋葉原からは、既に「やっちゃば」の面影は消えてしまっていて、電気街として有名になっていたので、欲しかったソニーの小型ラジカセを安く買うことができた。その後神保町へ出て「さぼうる」でお茶をした後、古本屋巡りをして回った。神保町では永渕が従兄の秀一郎と一緒になって、何かに取り憑かれたように古書を漁り続けていたのが印象的だった。なんでも絶版になった本を多数置いてあるのを見つけたらしい。永渕は絶版になった筈の獅子文六の『悦っちゃん』の角川文庫版があったと言って、興奮した様子で買っていた。二人とも金銭的に余裕があれば、店ごと買ってしまいそうな勢いであった。理英はこの時初めて、二人とも「書痴」であることに気が付いた。


 二日目の29日は朝の日課の後、東横線で中目黒まで出て、そこから日比谷線に乗り換えて神谷町に出た。言わずと知れた東京タワーに昇るためである。この日は芝の増上寺に参った後、麻布十番へ出て「Edoyaエドヤ」という洋食店で昼食を摂り、午後からは東京タワーだけではなく、その下にある蝋人形館や水族館にも行き、最後に「東京タワーボウリングセンター」で3ゲームほどボーリングをして帰った。結果は104点、117点、124点とまあまあの出来だった。その一方で永渕は波が激しく、98点、119点、141点というスコアだった。

 東京タワーボウリングセンターは「東京タワーボウル」の名で親しまれており、プロボウラーの中山律子が所属していることで全国的に知られる有名なボウリング場である。理英も練習している本人に会えるかもと思って期待していたのだが、年末ということもあってか、残念ながらこのボウリング場で姿を見ることは叶わなかった。


 しかし、理英にとってこの日最も面白かったことは、その日の夕方に起こった。この日の夜、テレビで歌番組をやっていた。と言っても流行歌を流しているものではなく、所謂「懐メロ」の番組である。いつも見ている番組がお休みになっていて、年末の特番続きだったので、夕飯後何となくテレビの画面を眺めていた時のことである。途中で各旧制高校の寮歌が、校名のナンバーをカウントダウンする形で流れていった。「日本三大寮歌(第一高等学校の『嗚呼玉杯に花うけて』・第三高等学校の『紅もゆる丘の花』・北海道帝国大学予科の『都ぞ弥生』)」が『都ぞ弥生』から順に流れていったのだが、最後に第一高等学校の寮歌『嗚呼玉杯に花うけて』が流れている途中で、永渕の言葉を裏付ける一幕があったのである。


 二曲目の『紅もゆる丘の花』が終わったところで、膝の上に乗ってきたポメラニアンのラルフの背中を撫で乍ら、理英が永渕にこう話し掛けた。

「ねえ、京大っていうか三高の寮歌って、『琵琶湖周航の歌』じゃなかったっけ?」

「それは学生歌だよ。確かに『琵琶湖周航の歌』の方が有名だけど、あれはボート部の歌だから。三高の正式な寮歌は『紅もゆる丘の花』で良い筈だよ。」

 そういう会話を交わしているうちに、次の第一高等学校の寮歌『嗚呼玉杯に花うけて』が流れ始めた。今度はそれを耳にした永渕が、理英の方を向いて話し掛ける。

「いつか二人でこの歌を歌える日が来ると良いね。」

 その科白を受けて、理英が返事を返す。

「その日が本当に来るように、二人で頑張りましょっ!」

 しかし、そんな二人の雰囲気を台無しにする科白があらぬ方角から飛んで来た。

「歌いたいんなら、いつかと言わずに今歌えば良いじゃない。」

 科白の主は秀一郎だった。その科白を耳にした者は、全員その場で凍り付いた。透かさず永渕の叔父が声を上げて注意をする。

「おい、秀一、今のはそういう意味じゃないぞ!」

 当然である。永渕が口にしたのは、いつか二人とも東大に合格できたら良いよね、という意味を婉曲に表現した科白だった筈である。ところがこの永渕の従兄は、東大に行ける程の明晰な頭脳を持っていながら、言葉を額面通りにしか受け取れず、そういう科白の裏に込められた意味に気が付かなかったのである。思いがけないところで永渕の言ったことが実証されたため、理英は永渕に目配せして「よく分かった」という意思表示をした。


 三日目の30日は、御用納めの後で開いてないのを承知の上で、日課の後に永田町の国会議事堂を見に行った。従兄の秀一郎が父親から届け物を頼まれて、内幸町にある日本記者クラブへ寄ることになっていたので、一旦渋谷まで出ると銀座線で新橋へ向かった。日本記者クラブは今年、内幸町の日本プレスセンタービルへ移転したばかりであった。ここも仕事納めは済んでいる筈なのだが、マスコミの親睦団体ということもあってか、まだ多くの人が出入りしていた。

 理英たちは秀一郎の所用が済んでから、新橋駅前にある老舗「末げん」で昼食を摂った。理英たちが店に入ると、床張りのテーブル席に通された。席に着いて周りを見渡すと、壁に鳩山一郎が揮毫した「敬天愛人」の書が掛かっていた。注文した料理がやって来るまで理英は永渕と、

「『敬天愛人』って、西郷隆盛の専売特許じゃなかったっけ?」

「別に西郷さんの専売特許という訳じゃないよ。確かにこの言葉は、西郷隆盛の『南洲翁遺訓』の中に出てくるから、西郷さんの言葉として知られているけど、西郷さんが言い出した言葉じゃなくて、他の人の言葉を借りてきたんだよ。」

「じゃあ、その『他の人』って誰なの?」

「西郷さんが影響を受けたとされる広瀬淡窓にも『敬天』という言葉があるけれど、『愛人』の部分が無いんだよ。どうも、この『敬天愛人』という言葉を最初に使ったのは、中村正直のようなんだ。」

「ふ~ん。」

などという会話を交わしていた。

 この「末げん」では永渕が絶品だと吹聴していた「かま定食」を注文して食べた。「かま定食」とは何だろうと思っていると、程なくして料理が運ばれて来て何なのかは直ぐに分かった。その正体は親子丼だった。確かに理英にとっても美味しく感じられる料理だったが、中に入っている鶏肉が挽き肉になっているので、鳥皮が苦手な永渕が好きそうな料理だなと納得した。昼食を摂った後は、国会議事堂の方へ20分ほどかけて徒歩で移動した。永渕が「虎ノ門事件」の現場を見たいと言っていたので、「末げん」を出てから途中まで「外堀通り」を歩いて移動することにしたのである。


 因みに「虎ノ門事件」とは、1923年(大正12年)12月27日、東京市麹町区虎ノ門外において、今上天皇(昭和天皇)がまだ摂政宮だった頃、無政府主義者の難波大助から仕込み杖(ステッキ式散弾銃)で狙撃された暗殺未遂事件のことである。銃弾は摂政宮には命中しなかったが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守に軽傷を負わせていた。このため事件当日に当時の内閣総理大臣・山本権兵衛以下全閣僚が、摂政宮(皇太子)に辞表を提出し、当日の警護責任を取らされて、警視総監の湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎(後の讀賣新聞社主)が懲戒免職になっている。 現場には「虎ノ門記念碑」が建っていたが、事件の現場は虎ノ門公園(現商船三井ビル)の側なので、碑のある場所の反対の側つまり銀座線虎ノ門駅の8番出口の向かい側になる。


 「末げん」を出て直ぐに左折して「外堀通り」を歩いていると、突然永渕が、

「新橋はちゃんとしたビジネス街だと思っていたのに、風俗店があるんだね。」

と、言い出した。駅前にあるニュー新橋ビルにはそれに類するけばけばしい看板や表示が出ていたが、この辺りは1973年に大火に遭って焼失し、最近やっと再建されたばかりの地域だと聞いていたので、その時にそういった店舗は整理されなかったのだろうか、と思って永渕が見ている方角に目を遣ったが、やはりそれらしい店舗特有の毒々しい看板などは出ていなかった。しかしよくよく見てみると、理英の視界の端に「カレーのスマトラ」という看板が飛び込んできた。どうやら永渕はこの看板を、『カーマ・スートラ(Kama Sutra)』と読み間違えたらしい。後で永渕を「こ~の、むっつりスケベめ!」と言って揶揄う良いネタが手に入ったと思って北叟笑んだが、今は自分の胸だけに留めて置くことにして、何食わぬ顔で聞き流すフリをした。

 虎ノ門駅を右折すると一本向こうの「国会通り」に入ったので、途中で通商産業省や大蔵省・外務省等の日本の中枢を担う省庁のビルを横目にしながら歩くことになった。国会議事堂の建物は柵の向こうからしか見ることができなかったが、テレビでしか目にしたことのない建物を実際に目の当たりにして、理英には感慨深いものがあった。

 ついでに、かつて全国にその名を轟かせていた都立日比谷高校がその近くにあったので、ここにも足を延ばして見て回った。さすがに校舎内には入れなかったが、校庭やグラウンドを見ることができた。しかし実際に目にしてみると、東京のど真ん中に存在することを除けば、特別な施設が在る訳でもなくて、何と言うこともない普通の学校であることを確認しただけだった。結局、その学校の優劣を決めるのは、そこに在籍している人間だということなのだろう。

 年も押し詰まって周囲の飲食店等も殆んどやっていないようなので、東京ヒルトンホテルの中で午後のお茶をすることにした。このホテルの中に入っているコーヒーハウス「オリガミ」は、「パーコー麺」などの名物料理で有名だったので、ここにしようと永渕が言い出したのだ。理英たちが席に案内されると直ぐに、2メートルを超える大男が、こちらも身長170cmを超える大柄な中年女性と供にお店の中に入ってきた。東京広しといえどもそんな大男は、この界隈には一人しか居ないだろうと思われた。プロレスラーのジャイアント馬場選手である。このお店の常連らしく、ウェイターが直ぐに飛んで来て、いつもの席に案内した。

 思わぬ所で著名人に会えたので、理英はテンションが上がってしまい、テーブルまで色紙にサインを貰いに行って、ついでに永渕の持っていたカメラで一緒に写真まで撮って貰った。永渕はいつも東京に来た時には、ショルダーバッグの中に色紙を何枚か入れていると言っていたので、それを1枚譲ってもらったのである。なんでも以前、石神井公園駅の近くで女優の壇ふみさんに偶然出会ったのだそうだが、その時に生憎カメラもサインをして貰える様な紙も持ち合わせなかったため、それ以来いつも小型カメラと色紙を携帯しているのである。

 尤も、永渕はアントニオ猪木の信者なので、理英のお願いで記念のツーショット写真こそ撮ってくれたが、当然の様に理英の行動を冷ややかに見詰めていた。ジャイアント馬場選手のテーブルから「アップルパンケーキ」を注文する声が聞きこえたので、理英たちもデザートとして同じ物を頼んでみたが、これが絶品だった。嬉しそうに食べる理英の姿を優しい眼差しで見ていた永渕が、自分の分も半分分けてくれたので、好意に甘えて遠慮なく平らげてしまった。甘い物は別腹とは言うが、さすがに少し食べ過ぎたようで、食べ終わってからも少しの間動くのが億劫になってしまった。


 四日目の大晦日は、午前中は永渕の要望を受け入れて、池袋の巣鴨プリズン跡に出かけた。正確には東池袋中央公園内にある平和祈念慰霊碑に足を運んだのであるが、周辺は東京拘置所移転後の池袋再開発のため、大規模な建設工事が行われていた。なんでも2年後の1978年には、「サンシャイン60」というアジア一の高さを誇る超高層ビルが完成するのだそうである。その後は西武百貨店と東武百貨店を覗いた後、新宿へと移動した。

 新宿に着くと、「新宿中村屋」でお昼ご飯として、ラス・ビハリ・ボースの本格的なカリーライスを食べた。その後、「新宿住友ビルディング」いわゆる新宿三角ビルに行ってみた。『ウルトラマンレオ』や『仮面ライダー』といった特撮ドラマで目にしていたため、その形状も含めてどういうものなのか興味があり、実際に見てみたかったのだ。

 新宿を少しぶらついた後、「新宿タカノ」で洋菓子を買ったりしたが、最後は永渕が行きたがっていた、3年前に開店した「珈琲専門店MAX」を訪れた。「珈琲専門店MAX」は、現在ブームになっている「珈琲専門店」として生まれたこだわりの店らしい。特に店内の瀟洒な木製天井が、落ち着いた大人の雰囲気を醸し出している。この店を最後に、この日は午後の早い時間帯に帰って来た。居候させて貰っているお礼として、永渕の叔母がおせち料理を作るのを手伝うのと、夜になってから明治神宮へ二年参りに出かけるためである。

 帰ってからは、永渕の叔母が年越し蕎麦や、おせち料理の栗きんとんや膾を作るのを手伝った。その甲斐あってか、日本レコード大賞の放送が始まる頃までには、新年を迎える準備は全て終わってしまった。深夜に二年参りに出かけることが分かっていたため、永渕の叔母は紅白歌合戦の途中で中座して、午後10時前には、年越し蕎麦を出してきた。理英は生まれてこの方、年越し蕎麦と言えば汁蕎麦つゆそばだったため、笊蕎麦ざるそばが出てきたのには驚いた。所変われば食べ物も変わるものだな、と実感した次第である。

 年越し蕎麦を食べ終わると、秀一郎が、

「去年は梓みちよの『リリー・マルレーン』を聞いてから家を出たんだけれど、東急コーチのデマンド・バスがなかなか来なくって、原宿駅に着く前に新年を迎えちゃったじゃない?だから今年は少し早く出ようよ。」

と言い出したので、田中星児の『ビューティフルサンデー』が終わると外出をする準備をした。本当は岩崎宏美の『ファンタジー』まで見たかったが仕方がない、諦めることにした。

 時計の針が午後10時半を過ぎると、理英は永渕と従姉の康子、従兄の秀一郎の4人で明治神宮へ二年参りに出かけた。去年は東急コーチのデマンド・バスを利用しようとして失敗したらしいので、今年は歩いて都立大学駅まで出ることにしたのである。今年は順調に来たらしく、11時半前には原宿駅に着いて南参道の参拝者の列の最後尾に並ぶことができた。

 しかしさすがに東京は人出が多く、最後尾だった筈の理英たちの後ろに、見る見る参拝者の列が伸びていった。理英たちが拝殿の正面にある南神門を潜った頃には、午前1時を回ってしまっていた。しかも拝殿前の境内は多くの参拝客でごった返しており、なかなか賽銭箱や鈴のある拝殿前に辿り着けない。参道の真ん中は「正中せいちゅう」と言って神様が通る道であるから、人間は左右の端に寄って歩かなくてはいけないと教えられてきたが、余りにも混雑が酷くて神社側の誘導に従っていたらこれを守ることなどできなかった。境内では、拝殿まで辿り着くのが待てないのだろうか、誰かが遥か遠くからお賽銭を豆撒きの様にして投げていて、真新しい硬貨が空中でキラキラと輝いて舞っていた。理英たち一行は苦心惨憺の末、何とか拝殿の前まで辿り着くと、お祈りをするのもそこそこに明治神宮を後にした。

 帰り道には行儀が悪いとは思ったが、参道に出ている屋台でたこ焼きと焼き玉蜀黍トウモロコシを買って食べながら原宿駅まで戻った。率直な感想を言えば、福岡に居てはお目にかかれないほどの人出の多さに圧倒されてしまって、理英はクタクタに疲れてしまったのである。そのため帰りの終日運行している東急東横線の列車の中では、座席に着くなりついウトウトとしてしまった。永渕に寝顔を見られるのは気になったが、睡魔に襲われてしまってどう仕様もなかったのである。

 

 しかし、ようやく午前3時頃になって永渕の叔父の家に戻ってみると、大変なことが起きていたのである。「ただいま。」という声と共に玄関に入ると永渕の叔母が出てきて、開口一番、

「康子、大変よっ!元史が亡くなったわっ!」

と声を上げた。それを聞いた康子は一言、

「嘘っ!」とだけ言って両手で口許を覆い、絶句してしまった。

 理英たちが二年参りに出かけた後、一緒に来ていた康子宛てに、彼女の兄が交通事故で亡くなったという連絡が入っていたのだ。康子は3人兄弟の末っ子で上に兄が二人いるのだが、元史というのは長兄の方で、やはり二年参りに出かけて行って、自動車に跳ねられたというのだ。真っ青になった康子は、予定を切り上げて、翌朝直ぐに福岡に戻ることにした。この元史という人物は永渕や秀一郎にとっては従兄、永渕の叔母夫婦にとっては甥っ子にあたるため、本来ならば葬儀に出席する必要から、彼らも福岡へ行かなければならないのだが、変死だったらしく、司法解剖等を待って葬儀が行われるとのことで、追って連絡を入れるから待っていて欲しい、ということであった。そのため、永渕は予定通り東京に残ることになった。

 永渕のこの従兄が司法解剖に回されたのは、轢き逃げによって亡くなったからだった。康子は寝ないで身支度を整え、夜が明けると朝一番の便で福岡へ帰郷してしまった。康子が福岡に発つ直前に、福岡から追って連絡があった。葬儀社はどこも既に正月休みに入っているため、1月4日に正式に依頼をして、通夜が1月5日、告別式が1月6日になるだろうとのことだった。


 そのため、せっかく前日に理英が手伝って作ったおせち料理も、味気無いものになってしまった。新年を寿ぐ雰囲気の中で頂くおせち料理を、残った人間で黙々と食べることになってしまったのである。そのおせち料理を食べている様子で、永渕の従兄の死が、この家族にとっても衝撃だったことを実感した。永渕の叔母が作るお雑煮は、さすがに福岡の出身らしく、あごだしの雑煮で理英も馴染みのある味だったが、中に入っている餅が四角いのにも驚かされた。理英は生まれてこの方、丸い餅しか見たことがなかったのだ。

 遅い朝食が終わると、今日だけは日課を免除して貰うことができた。ここ数日で理英も、永渕たちの走るスピードに付いて行けるようにはなっていたが、やはり走らなくて良いのは気が楽だ。しかし、さすがに外のお店はどこも元日からは開いていないだろうということで、この日ばかりは一日中永渕の叔父の家から出なかったのである。お昼近くまで寝ていて、それからはテレビ等を見てダラダラと過ごしていたが、理英が退屈そうにしているのを見かねた永渕の叔母の提案で、小倉百人一首でカルタ取りをやることになった。

 「散らし取り」でやるので、この叔母が読み手を引き受け、永渕の叔父・秀一郎・永渕と理英が取り手になった。結果から言うと、永渕の叔父が34枚、秀一郎が28枚、陽一が21枚、理英が17枚と惨敗であったが、この3人の手を掻い潜って札を取るのは並大抵のことではなかった。理英も覚えている句は幾つもあったのだが、他の3人は殆んど全ての歌を覚えているようで、上の句を読み終わる前には誰かが取っているという状態であった。

 これは後で永渕から教えて貰ったことである。読み札の「上の句」が読まれ始めてから、どの取り札を取って良いかが確定するまでの最初の数文字のことを、「決まり字」と呼ぶのだそうだ。どうやら3人は、自分の周囲にある札を全て覚えておいて、そこから上の句を読み手が読み始めたら取り札を捜すという作業をやっていたらしい。この「決まり字」は、句によって違っていて、長いものでも最初の6文字だけで分かるのである。つまり「上の句」は、この「決まり字」だけを覚えれば効率良く札を取れるのだ。特に「む・す・め・ふ・さ・ほ・せ」の「1字決まり」は最も早く動き出せるようで、最初の五文字を読み終わる前に、既に取られてしまっていた。

 勝負が終わった後、國學院大學の臨時講師をやっている永渕の叔父は、

「東大生って言っても、まだこの程度なんだよ。そんなのにはまだ負けられんよ。」

と言って、父親の威厳を誇示していた。

 この家は思ったよりも来客が多く、元日だというのに夕方になってから立て続けに3組の来客があった。みんな新年の挨拶にやって来ているようだった。一組は目黒の柿の木坂で花屋を営む親族のようだった。15:00頃にやって来ると、淑江叔母さんは身内の不幸を気取らせない様に、和やかな時間を過ごしていた。

 しかし、残りの二組はちょっと雰囲気が違っていた。17:00頃に先に来たのは、話の内容から鉄建公団の幹部らしい3人の上品な男性客だった。年賀の挨拶の品を手渡すと、早々に叔父さんの書斎兼応接間に招き入れられて、小一時間ほど話し込んでいたようだった。そういう状態だったため、永渕の叔父たちの会話の内容は全く分からなかったが、来訪者たちがにこやかな表情で出て行ったのを見ると、何か成果があったらしい。

 19:00頃に来たのは、東大の学生時代に秀一郎の家庭教師をしていたという、農林水産省の若手官僚だった。なんでも近いうちに退官して、政治家を目指すとのことで、その活動を始めるにあたって、具体的なことを相談しに来ていたらしかった。できれば出身地である北海道から総選挙に出馬したいらしかったが、実家のある選挙区は中川一郎という自由民主党の有力な政治家が地盤にしているので、どうしたら良いだろうかという相談だったらしい。叔父さんは政治部の記者もやっていたことがあるらしく、竹下登の私設秘書をしている内藤武宣という人物に宛てて紹介状を書いていた。なんでも毎日新聞で同僚だった人のようで、現在は竹下登のお嬢さんと結婚してその秘書をしているそうである。

 この日は昼近くまで寝ていたため、10時を過ぎても全く眠くはなかったのだが、来客に気兼ねして早々に2階の部屋へ引き上げて来てしまった。理英の部屋にもテレビはあったが、新年の特番ばかりで特に見たい訳でもなかったので、風呂から上がるとさっさと布団を敷いて横になってしまった。六畳しかない筈なのに、康子の居なくなった部屋はかなり広くて寒々しく感じられた。


 翌1月2日は渋谷に出ると、銀座線に乗って銀座まで行き買い物をして回った。噂で聞いていた「銀ブラ」を経験したのである。永渕の叔父夫婦も、この日は午前9時半から皇居で行われる、新年の一般参賀に出かけるため、途中まで一緒に出てきたのである。永渕の叔父夫婦は正月には毎年、この一般参賀に参加しているようである。

 理英の銀座でのお目当ては、母から頼まれた三越の初売りの福袋である。土地代が日本一高いのにもかかわらず、三越や松坂屋といった百貨店の規模が大きくて吃驚してしまったが、理英が一番気に入ったのは地下の食品売り場が充実していた松屋であった。尤も理英はここに来るまでは、大牟田市にある同名の松屋という百貨店と同じ系列の店だとばかり思い込んでいた。それを聞いた永渕が笑いながら否定していたのが、田舎者扱いされたようでちょっと悔しい。永渕も訃報を聞いて少しは落ち込むのかと思っていたら、理英の前だからなのだろうか、そんな気配は微塵も見せなかった。途中、資生堂パーラーでランチを摂ったが、食事中も普段と変わらぬ様子で喋っていた。

 15:00頃に買い物が終わった後、何処かでお茶をして帰ろうということになった。永渕は、1923年(大正12年)の関東大震災で被災して喫茶店経営から撤退していたが、昔のカップやスプーンを復元までして1970年に再建した「銀座 カフェーパウリスタ」に行きたがったが、此処はコーヒーは充実しているがサイドメニューには理英が楽しめるような物が無いだろうということで、「洋菓子舗 ウエスト」に行くことになった。理英は此処の冬季限定メニュになっているストロベリーサンデーを食べてみたかったのである。

 なお「銀座 カフェーパウリスタ」は、大正時代には文化サロンとなっていて、水上滝太郎・吉井勇・菊池寛・久米正雄・徳田秋声・正宗白鳥・宇野浩二・芥川龍之介・久保田万太郎・広津和郎・佐藤春夫・獅子文六・小島政二郎・平塚らいてうといった人々が集ったことでも知られていたため、理英も少しだけ永渕の心情が理解できたが、食欲には勝てなかったので永渕に譲りはしなかった。

 この日も永渕の叔父の家は午後から千客万来であったため、今日の理英たちの外出は来客に遠慮したという側面もあったのだ。ただ、20:00からは大河ドラマの『花神』の第1話の放送を見るとかで、来客には遠慮してもらっていたため、理英たちが戻ってくる頃には、永渕の叔父の家は静かになっていた。


 1月3日は横浜まで足を伸ばしてみた。桜木町駅で降りると、日本郵船の氷川丸や赤レンガ倉庫や横浜マリンタワーを見て回った。山下公園では、園内に「水の守護神像」や「インド水塔」や「リカルテ将軍記念碑」の様な物もあって、理英の好奇心を疼かせた。大桟橋まで来ると、理英はつい無邪気に永渕にこう訊いてしまった。

「横浜って言えば、私は2番の歌詞からつい『赤い靴』を思い出すんだけれど、その歌碑なんかは無いの?」

 『赤い靴』は、1922年(大正11年)に野口雨情の作詞、本居長世の作曲で発表された童謡のことである。最初にこの歌を聞いた時に、理英は「異人さん」という言葉を知らなかったため、「曾爺さん」と聞き間違えてしまったことで、記憶に残っている歌なのである。

「今の所、そんな物は見当たらないね。まあ、あれは日本が貧しかった頃の悲しいお話だから、思い出したくないのかもしれないけど・・・」

「えっ!・・・、悲しいお話って、どういうこと?」

「『赤い靴』のモデルになった少女のお話だよ。」

 永渕はそう言うと、『赤い靴』のモデルになった少女の実話を聞かせてくれた。永渕自身も3年前の1973年(昭和48年)11月の新聞の夕刊に掲載された投稿記事で知ったのだという。この新聞の夕刊には、「野口雨情の赤い靴に書かれた女の子は、まだ会った事も無い私の姉です。」という「岡その」さんの投稿記事が掲載されていたのである。それは、こういう内容のものだった。


 モデルになった少女の名前は「岩崎きみ」ちゃんといって、1902年(明治35年)7月15日に静岡県清水市宮加三(旧二見村)で、未婚の母である「岩崎かよ」さんの娘として生まれている。しかし、父親の名を明かせない私生児ということで世間の風当たりは厳しく、かよさんは娘とともに当時開拓地として注目を集めていた北海道へ渡ることになった。

 その後、かよさんは函館で出会った鈴木志郎という人物と結婚して、留寿都村の開拓農場に入植することになったが、その開拓地での生活の厳しさを聞き知って、止む無くまだ3歳のきみちゃんを、函館にあった教会のアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出すことになる。歌に出てくる「異人さん」というのは、このヒュエット氏のことである。

 この新しい家族はその後、きみちゃんが6歳の頃に、宣教師夫婦が母国への帰国を命じられて、急にアメリカへ旅立たねばならなくなってしまったそうだ。しかし、きみちゃんは当時「不治の病」と呼ばれていた結核に冒されていたため、長い船旅はできないと判断したヒュエット夫妻は、麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院にきみちゃんを預けたのである。

 つまり、実際にはきみちゃんは船には乗れなかったのだが、その後も病状は悪化の一途を辿り、とうとう1911年(明治44年)9月15日に、死の床で再び会うことも叶わぬ母を慕いながら、僅か9歳でこの世を去ったということであった。今この女の子は、青山墓地の鳥居坂教会の共同墓地に眠っている。

 きみちゃんを預けてから2年後、母のかよさん夫婦は入植に失敗して、鈴木志郎との間に生まれた娘、つまり投稿者のそのさんを連れて札幌に出ることになった。夫の鈴木志郎は札幌で新聞社に入社すると、そこでその新聞社にいた同僚の野口雨情と知り合う。同世代で、夫婦に子供一人という同じ家族構成だったこともあり、両家族は急速に親しくなって、一軒の家を二家族で借りて共同生活を営んだ。

 その折に野口雨情は、母かよさんからきみちゃんへの想いを聞いて感動し、これを詩に綴ったそうである。この野口の詩に本居長世が曲を付けて完成したのが、童謡『赤い靴』だった。母親のかよさんはそんな娘の死も知らないまま、きみちゃんはヒュエット夫妻とアメリカに渡って幸せに暮らしていると信じて、1948年(昭和23年)に64歳で、「きみちゃん、ごめんね」という言葉を残して他界している。

 この時の相続等の手続きの中で、偶然きみちゃんの存在を知った妹のそのさんは、きみちゃんの足跡を追って、その過酷な最期に辿り着いたのであった。実は、この記事をきっかけにして歌碑設立の機運が高まり、3年後の1979年に「かもめの水兵さん」の歌碑と共に、「赤い靴履いてた女の子」像が山下公園に建てられることになるのだが、この時の理英たちはまだそれを知らない。


 理英はこの話を永渕から聞くと、胸が詰まって涙が溢れてきた。しかし泣いているのを気取られない様に、永渕から少し距離を取るべく、桟橋の突端の方に歩いて行った。戦前に建てられたと思われる海沿いの古い教会の礼拝堂チャペルには、錆びて緑青の吹いた風見鶏が取り付けられており、時折強く吹く冷たい海風に煽られて、キイキイと音を立てて回っていた。九州よりもずっと早く傾き始めた太陽を見ながら桟橋の端の方に近付くと、理英は海からの風に長い髪を靡かせながら、心悲うらがなしい気分で桟橋の波打ち際を覗き込んだ。理英の吐いた白い息が、冷たい海風に溶けて消えてゆく。

 この後、港の見える丘公園の方にも行った後、横浜中華街の「聘珍樓」でランチを摂った。この聘珍樓は、現存する日本最古の中華料理店なのだそうである。理英はこの横浜という街は、故郷の門司港とよく似た街だなあという感想を持ったが、街の規模は門司港をもっと何倍にも大きくした印象だった。


 1月4日の朝は、理英は福岡から架かってきた母親からの電話で叩き起こされた。前日の夜、品川で「青酸コーラ無差別殺人事件」が発生していたのである。「青酸コーラ無差別殺人事件」とは、東海道新幹線の食堂車でアルバイトをしていた男子高校生が、アルバイト先から宿舎へ戻る途中、品川駅近くの公衆電話ボックスに置かれていた未開封のコカ・コーラを拾って、宿舎に持ち帰って飲んだところ、コーラに混入していた青酸ナトリウムで中毒死した事件のことである。

 そのうえ今日の午前8時頃には、この男子高校生がコーラを拾った電話ボックスの近くの歩道で、同じく青酸中毒で倒れている作業員が発見されて、死亡が確認されたのである。この男性が倒れていた場所の近くに、男性が開栓したとみられるコーラのびんが発見され、残っていたコーラから青酸反応が検出されたため、この日は朝から大騒ぎになっていたのである。テレビのニュース番組でも、今日はそればかりを流し続けていたらしい。

 そしてこれら一連のニュースを目にした理英の母親は、東京に行っている理英の身を案じて、早朝から電話を寄越したのである。

「くれぐれも、拾った物を食べたり飲んだりしないようにねっ!」

「ちょっと、いい加減にしてよっ!私のこと、浮浪児かなんかだと思ってるんじゃない?」

「どうかしらね?あなた、意外に食い意地が張ってるから。」

「私が拾い食いなんて、みっともないことする訳無いじゃないっ!」

「そおっ?あなたときたら幼稚園に通ってた頃、友達から『3秒ルール』を教えて貰ったって言って、食べ物を落としても拾って食べてたじゃない!」

「それは昔の話でしょっ!」

 永渕には到底聞かせられない話なので、まだパジャマ姿の理英は電話口で吠えた。

「それから、野次馬根性を起こして事件の現場には近づいちゃ駄目よっ!」

「えっ!?」

 母のその科白を聞いた理英は、胸の内を見透かされたようで一瞬ギクリとした。内心の動揺を気取られないように冷静に反駁する。

「せめて好奇心旺盛って言ってよ。」

「イギリスの諺にも『好奇心は猫を殺す』っていうのもあるしねぇ。お母さん心配で心配で・・・」

「大丈夫よっ!心配しないでっ!」

「その様子だと、まだブチ君の前では猫を被ってるようね?そろそろ化けの皮が剝がれる頃なんじゃないっ?」

 そんな不毛な会話を強制的に終わらせると、今のが電話で良かったとつくづく思った。今の電話の内容は、とても永渕たちには聞かせられない。理英は事件の一報を聞いて好奇心が疼き出したが、永渕からこの電話の内容を問われたので、母親との会話の内容を搔い摘んで話すと、この事件は推理だけでは解決できない問題だし、ひょっとしたらまだ警察が捜索し切れていないような証拠や痕跡を消してしまって、捜査の邪魔になるかもしれないので、この一件には関わらないように緊く言い含められてしまった。

 永渕は昨年の夏休みに上京した際に、大ファンだったアイドルの桜田淳子に会いたくて、彼女が通っていた品川高校へ行ってみたそうだから、品川駅周辺の土地鑑は有る筈である。理英はそれを当てにして付近の調査をしてみようと思ったのだが、こう頭から反対されては調査どころではないので、返す返すも残念だが諦めることにした。


 この日は東京最後の夜ということで、永渕の叔父の親族がやっているという麻布十番の『ラ・パレット』というレストランで最後の宴と相成った。この日も来客の予定があったらしいのだが、態々夕方に時間を作ってくれたのだ。永渕の従兄の秀一郎も、午前中は葬儀に出席するための準備に追われて、今日予定されていた東大・合気道部の寒稽古は欠席することを決めていた。理英たちも、朝の日課の後は慌ただしく動くことになった。

 まだ東京で行きたい所があったので、夕方このレストランで落ち合うことにした理英たちは、先に家を出るとその前に渋谷で途中下車して、原宿や青山や表参道にも行ってみた。途中の青山では、「ボートハウス」というお店で、このお店のロゴが入った流行りのトレーナーを買った。ここの白地にサックスブルーの「Boat House」のロゴが入ったトレーナーは、現在大変な人気なのであるが、このお店でしか買えないので大変貴重な物となっているのである。

 紙袋を抱えて(と言っても、理英の分は全て永渕に持たせているのだが)麻布十番のレストランに着くと、永渕の叔父夫婦はまだ到着前だった。そこでこのレストランで荷物だけ預かってもらって、周囲を散策することにした。麻布十番というと、民団(在日本大韓民国民団)の本部が近くにあると聞いていたため、余り治安の良い場所とは思えず、この街に良いイメージを持っていなかった。しかし実際に目にしてみると、お洒落な街並みに変貌しようとしていて、目を見張ってしまった。

 理英は、ホテルのレストランは何度か利用したことがあるが、本格的な一軒家のフレンチ・レストランは初めての経験だったので、特にテーブル・マナーが問われるシーンでは緊張したが、永渕が事前に説明してくれた上に、さり気なく要所要所で的確にサポートしてくれたおかげで、大きな失敗をすることもなくフランス料理を楽しむことができた。ここでは生まれて初めて「フォアグラ」というものを口にしたが、いつも父がお酒の肴として食べている「あん肝」とさほど変わらない食感だったので、期待が大きかった分少しガッカリしてしまった。


 そして1月5日の昼、永渕と二人きりになった帰りの飛行機の中で、理英は永渕の複雑な親族関係を聞き出すことに成功した。尤も、プライベートなことなので普通に訊いてみても、全てを喋ってくれるとは思えず、聞き出すのに理英は少々策を弄してしまった。冬休みの宿題である読書感想文のために、永渕の従兄の秀一郎から3冊の文庫本を借りたのだが、そのまま持って帰っても良いと言われたので、理英は飛行機の中で読む心算で、客室に持ち込めるショルダーバッグの中に入れていたのである。理英がこれらの本を選んだのには、実は訳があった。3冊のうち北杜夫の『怪盗ジバコ』は、1967年に当時人気絶頂のクレージーキャッツの主演で『クレージーの怪盗ジバコ』として映画化されていて、昔テレビで見たことがあったため、読書感想文も書き易いと思ったのである。


 ちなみにこの映画は間接的に、後の日本のテレビ業界に大きな影響を与えていた。監督である坪島孝の指名によって、東宝の豊浦美子がこの作品のヒロインである眉田洋子役に抜擢されたのである。ところがこの時、彼女は円谷プロ制作の『ウルトラセブン』に友里アンヌ隊員役として出演が決まっていて、既に撮影に入っていたのである。そこで東宝は豊浦に、当時の風潮として「本篇」と呼ばれていた映画への出演を優先させたため、『ウルトラセブン』の方は降板せざるを得なくなってしまった。なお『ウルトラセブン』のアンヌ隊員役は、同じ東宝の一期後輩である菱見百合子が引き継ぐことになるのであるが、これが二人の運命の分かれ道であった。菱見のアンヌ隊員役は好評を博して彼女の当たり役となり、その後半世紀以上も『ウルトラの女神』として、人々の記憶に深く刻まれることになったのである。


「ねえ、ブチ君。北杜夫の『怪盗ジバコ』を読んでたら、知らない言葉が出てきたんだけど、教えてくれない?いくら国語辞典を引いてみても、出てこないのよ。」

「え~っ?北杜夫先生って、国語辞典に載って無いような難しい言葉を使っているの?僕に分かるかなぁ?」

「主人公のジバコが怪盗と呼ばれるようになる前に、イスタンブールのトプカピ宮殿で、アルセーヌ・ルパンと世界最大のエメラルドを巡って邂逅するエピソードなんだけど、『肥後の随喜』っていう道具が出てくるのよ。どんな物か知らない?」

 機内サービスのコーヒーを飲みながらそれを聞いていた永渕は、口に含んだコーヒーを吹き出しそうになったのを堪えたため、ゴフッという音を立てて咽てしまった。

「どう、どう、どう、・・・」

 苦しそうに咳をする永渕の背中を、慌てて理英が擦ってやる。咳が収まった永渕は理英の方を向くと、

「ほ、本当にどくとるマンボウの本に、そんな物が出てくるの!?」

と、どもりながら訊いてきた。永渕には小さい頃から吃音があった。普段の会話の中では滅多に出てこないのだが、酷く焦った時にはこうして顔を出すことがある。こうなった時は心理的に酷く動揺している状態なので、もうこの場の主導権はこっちのものである。

「出てきてるのよ。ほら、この『怪盗ジバコ』のここの処・・・」

 理英はそう言いながら文庫本を取り出すと、本の半ば過ぎ位のページを開いて指で指し示した。それは第6章の「トプカピ宮殿」というエピソードの中で、この物語の主人公であるジバコがまだ若い頃、トルコのイスタンブールにあるトプカピ宮殿で、怪盗として名高いアルセーヌ・ルパンと、ここに収蔵されている世界最大級のエメラルドを奪い合うエピソードだった。実際にトプカピ宮殿には、262カラットもある巨大なエメラルドが、「ターバン飾り」に埋め込まれて展示されている。そして理英が指さしたページには、全く場違いなシーンなのに、確かに「モース硬度計」等の専門的な単語と共に、「肥後の随喜」という単語も出てきていた。確かに、そこにはこう書かれている。


 「なんだか、噂にきく日本のヒゴのズイキみたいではないですか」

 「さよう、ヒゴのズイキですじゃ」


 ただし理英は、それが何なのかを既に知っている。「肥後の随喜」とは、熊本県で採れる固くて食べられないハスイモの葉柄の皮を剥いて乾燥させた後に、男性の陰茎を模して編み上げた物である。これは無理すれば食用にならないこともないが、実は「性具」つまり「大人のおもちゃ」として利用されてきた歴史を持っている。江戸時代には肥後の細川藩が、徳川将軍家というよりも大奥などへの献上品として、参勤交代の土産物として持参していたのである。

 その文章を目にした永渕が困惑した表情を浮かべたのを、理英は見逃さなかった。理英の「学年主席」の看板は伊達ではない。理英は知識量が多い分、しっかり耳年増でもあるのだ。無論、そういったことの情報源は親友の瞳と郁子である。そんな理英からすれば、耳まで赤くして恥じらっている永渕が可愛く見えてしまい、つい「ウブなネンネじゃあるまいし」などと思ったが、揶揄うのはこれくらいにして、本来の目的を果たさなければならない。

 この顔は知っていても説明できないという顔だと判断した理英は、永渕に顔を近づけると、無垢な笑顔を見せて、

「ねぇ、ブチ君も知らないの?」

と、問い掛けた。無論、演技である。理英が得意とする「カマトト戦術」で、窮地に陥った永渕は、何とか説明するのをはぐらかせないものかと、頭脳をフル回転させている様子がありありと分かった。こういう時の永渕は、理英の好奇心を逸らすために、やけに饒舌になって、口も軽くなってしまう。そして永渕が恐慌をきたしてしまえば、もう理英が掌の上で転がすのは簡単である。

「『肥後』って地名が付いてるってことは、熊本の特産品なんだろうけれど、熊本では見かけたことないのよねぇ。今度旅行で熊本に行ったら、探して買って来ようかしら。」

 無邪気な風を装って、理英がとんでもない科白を口にする。

「や~め~て~っ!」

「あらっ、どうしてよ?」

「中学生が買えるもんじゃないから!せめて親御さんに相談して、買ってもらおうねっ!」

「へぇ、結構高いんだ?」

 この科白で理英が何か勘違いしていると踏んだらしく、永渕はそれに合わせる様に、

「伝統のある工芸品だからねっ!」

と言うと、この話題を打ち切って、話を逸らそうとし始めた。そこで理英はその手に乗った振りをして、警戒されること無く質問を浴びせて、永渕のプライベートな情報を聞き出し始めた。しかし後になってよくよく考えてみれば、永渕は隠す気などは毛頭無かったのかもしれない。


 永渕の父方の親族は、伯父が六人と叔母が一人居て、合計8人兄弟になるそうだが、このうち上の伯父三人とは疎遠なのだそうだ。というのも、上の三人と下の五人で母親が違うからだった。上の三人は先妻の子で、永渕たちの祖母は後妻に当たるとのことである。永渕たちの祖父は早く先妻と死に別れたため、若い後妻を娶ったらしい。これが永渕の祖母なのであるが、先妻の子供たちとはしっくりいかなかった様だ。そのせいで、永渕たちの祖父が亡くなった時には相続でずいぶん揉めたらしい。

 相続財産は僅かな金銭を除けば、現在の土地と店舗兼住宅しかなかったのだが、先妻が生んだ上の三人の兄弟たちはこれを売って金に換え、それを皆で分けるよう主張してきたそうだ。しかしこの店舗を手放すと収入の道を絶たれてしまい、それ以降の活計たつきに困るため、泥仕合になってしまったらしい。「後妻打うわなりうち」と言うか露骨な後妻苛めなのだが、このことがしこりとなってしまい、現在先妻の兄弟たちとは絶縁状態になっているとのことであった。そのため今回の葬儀にも、先妻方の兄弟は一人も顔を出さない予定である。

 下の五人の兄弟は、上から順に、あきらかずおはじめいさお淑江よしえというらしい。勲というのが永渕の父親で、最後の叔江というのが、今日まで東京でお世話になった永渕の叔母である。行きの飛行機で同行したのが、一番上の晃という伯父の娘さんで、この晃には二男一女が居て、上から順に男、男、女と子供を授かっていたので、今回亡くなったのは、康子の上のお兄さんということになる。

 一番上の伯父の晃は、門司港を拠点にして、果物の輸入を中心とした貿易会社を経営していた。二番目の兄の計は現在福岡県警に勤めていて、刑事部に所属して「警部補」の肩書を持っている。理英たちが夏休みの初め頃に出くわした事件では、大変お世話になっている。三番目の兄の肇は北九州市役所に勤めていて、どういう訳か自治省からの天下り組を押し退けて、建設局の局長のポストに収まっていた。理英が永渕と一緒に「寄留」の相談をしに行ったのは、この伯父さんである。

 亡くなった康子の兄はどうやら、永渕の親族の中では「持て余し者」だったらしいということが分かった。大学は東京の國學院大学を卒業しているが、国文学を専攻した後大学院へ進んだものの、出来が良くなかったのか、その後助手になることができず、かと言って文学部卒業の学歴では就職口も無かったようで、この歳まで無職で親の厄介になっていたらしい。とは言え伯父の晃にとっては可愛い跡取り息子であることから、無碍にはできなかったのであろう、毎月小遣いを渡しながら30代半ばまで養っていたが、今回の事故に遭って生命を落としたのである。

 この亡くなった従兄は大晦日には、両親と一緒に11時過ぎに年越し蕎麦を食べると、地元に帰省していた友人達と再会するために、11時半頃になって二年参りを兼ねて徒歩で若松恵比寿神社に出かけたということであった。しかし午前0時を大きく過ぎても約束の場所に現れなかったことから、この友人がわざわざ電話を架けてきて、異変に気付いたのである。

 伯父の晃の方でも午前1時を過ぎても連絡はおろか戻っても来なかったため、心配になって待ち合わせ場所まで探しに行ったところ、自宅と恵比寿神社のほぼ中間地点で、血塗れになって倒れているのを発見したのだそうだ。晃伯父さんは直ぐに救急車と警察を呼んだらしいが、即死に近かったらしく、既にこと切れていたそうである。

 倒れていた場所から少し離れた地点にブレーキ痕と衝突した際に壊れて落ちたと思われる自動車の部品があったため、自動車で轢いた後にこの従兄の身体が車体に乗り上げたのを、蛇行運転で振り落としたものと判断された。死因は脳挫傷であったが、現場検証と司法解剖の結果、これは振り落とされた際に負った傷だろうと判断された。

 そして轢き逃げの犯人として、元暴走族の男が警察に逮捕されていた。犯人の名前は依田敏久といって、警察がこの従兄が倒れていた現場での現場検証を終えて撤収作業をしていたところに、数時間後に気になって現場に戻って来たところを逮捕されていた。バンパーと屋根がへこみワイパーが壊れているのを不審に思った警察官から職務質問を受けた際に、自分から全てを自供したとのことである。

 犯人の依田は同じ若松区に住む元暴走族の独身の若者であった。父親は新日鐵の一次下請けをしている会社を経営しており、裕福な家の次男坊として甘やかされて育ったことと、優秀な兄と比較されながら育ったことで、すっかりグレてしまったらしい。これまでにも何度か問題を起こし、その度に両親が尻拭いをしてきたようだった。兄の方は慶應義塾大学に進学して経営を学び、東京で数年商社勤務をした後、次期社長含みで父親の会社に入っていた。現在の肩書は経理部長だったが、実質的に父親に代わって経営を取り仕切っているようだった。

 この犯人は3年程前に交通事故を起こしたのがきっかけで、自分のこれまでの非を詫びて、心を入れ替えて働くと言って、以降は家業を手伝っていたとのことであった。しかし、三つ子の魂百までということなのか、この日自動車で出かけて行って、轢き逃げ事件を起こしてしまったらしい。

 永渕の従兄を轢いた自動車は、両親の経営する会社が所有している白いクラウンで、この日も両親に黙って乗り回していたらしい。昔の暴走族仲間たちと初日の出を見るために、集合場所に向かう途中で事故を起こしたと言うのである。夜が明けると直ぐに、この男の両親が謝罪に現れたそうだが、永渕の伯父の憤懣は治まらない様子だったようで、早々に追い返したらしい。

 遺体は司法解剖にかけたのと、時季的に葬儀社はどこも正月休みだったらしくて、三が日の間は年内に受け付けた分だけしかやってもらえなかったらしい。そのため1月4日に依頼をして、通夜が1月5日、告別式が1月6日ということになった。そして告別式の後に、初七日も済ませてしまう予定であった。

 偶然とはいえ理英もこの事件に関わりを持ってしまったため、制服のセーラー服に喪章を付けて、告別式に顔を出すことにした。本来ならば翌々日は1月8日の始業式なので、冬休みの宿題を片付けるのに追われる身だった筈なのだが、今年は永渕と東京へ旅行に行くため、予め殆んど済ませていたことと、始業式が土曜日に当たっているので、翌日の9日は日曜日ということになり、宿題を提出するのは10日以降となって、まだ少しだけ猶予期間があったのである。


 葬祭場は門司区と同じ北九州市の端っこではあるが、ちょうど正反対に位置する若松区にあるため、永渕の母親が運転するカローラに一緒に乗せて行ってもらうことにした。永渕の家族は皆お通夜には出席していたが、父親以外は向こうには泊まらずに自宅に戻って来ていたのである。自動車は普段は父親が運転しているらしく、母親の運転はぎこちないものだったが、葬祭場までなんとか無事に辿り着くことができた。

 現地に到着してみると、東京で世話になった永渕の叔母の淑江が、息子の秀一郎と一緒に来ていたので、東京で泊めてもらったお礼を述べた。なんでも昨日の夜に航空機でやって来て、小倉ホテルに泊まっているとのことであった。「小倉ホテル」は、小倉北区船場町にある北九州市を代表するシティホテルである。隣のブロックには福岡銀行小倉支店のレトロな石造りの建物があって、小倉の中心地に建っている。もともと映画製作配給会社の日活が経営する「小倉日活ホテル」としてオープンしたため、開業当初は北九州市を訪れる銀幕のスターたちが挙って宿泊していたという。現在は経営権が譲渡されてしまったため、「小倉ホテル」と名を改めている。

 新年早々だったが、この葬祭場には他にも幾つかの葬儀の予定が入っており、思っていたよりも人が多かった。後で聞いたところによると、正月のお雑煮の餅を喉に詰まらせて亡くなったお年寄りの葬儀もあったようである。午後1時から始まった告別式が終わって出棺すると、永渕たち親族一同は「骨上げ」をするために揃って火葬場に行ってしまったので、理英は一人ぼっちになってしまった。

 「骨上げ」というのは、収骨室で火葬が終わった後のお骨を、専用の長い箸を使って二人一組で遺骨の箸渡しをして、骨壺に移す儀式のことである。この儀式を行うのは、主に喪主や故人の近しい人などのため、理英は一緒には連れて行ってもらえなかったのである。

 永渕からは遺族用の控室で待っているように言われていたが、他にも故人の友人や関係者が数人居残っていたため、見知らぬ人の中で長時間黙って一人で待つのは、何となく居心地が悪く感じられ、居た堪れなくなって外に出てきたのである。

 理英の足元を冷たい北風が通り抜けていく。こういう時は、女子の制服にもスラックスがあればなあと思う。今日はセーラー服を着ているので理英はスカート姿なのだ。さすがに素足だと寒いのでパンティストッキングを履いているが、これでは1℃位しか暖かくはならない。スラックスならば3℃位は暖かいはずだし、その下にも何か履くことができるので、自分が女の子であることが恨めしく感じられた。

 永渕は、せっかくスラリとした綺麗な足を持っているのだから隠すのは勿体無い、と言うのだけれど、普段から冬になるとセーラー服のスカートの下に、体育の時間に着るジャージのズボンを履きたいと思っている理英にとっては何の慰めにもなっていない。よく戦時中の写真で、女子学生が上半身はセーラー服なのに下半身はモンペを履いているのを見かけるが、普段はカッコ悪いと思って見ていても、こういう季節になるとその機能性が羨ましくなるのである。

 この葬祭場には本館の中に設えているそれぞれの遺族用の控室とは別に、早く来過ぎてしまった参列者や葬儀社の人間や出入り業者まで、誰でも利用できる待合室が別棟として備えられていた。暖房の入っている待合室ででも待っていようかと思っていたが、結構中に人が多かったのと、テーブル席が四人一組で設えていたので、たった一人で占領してしまうことは憚られて、遠慮したのである。だが、じっとしていると余計寒く感じられるので、理英は陽が傾き始めた葬、当ても無くブラブラと歩き始めた。


 その時駐車場の方から、幼い子供の金切り声が聞こえてきた。

自動車くるまの中、ヤダッ~!」

「そんなこと言わないで。直ぐに戻って来るから、自動車の中で大人しく待っててちょうだい。」

 母親と思しき女性が、その女の子を宥めている声も聞こえる。女の子はどうやら二人居るようだ。一人は5歳くらい、もう一人はさらに小さく3歳くらいの姉妹で、まだ就学前の子供と思われた。この下の子は火が付いたように泣いているだけで、もう何を言っているのか分からない。しかし、自動車の中で二人っきりで母親を待つのを嫌がっているのだけは、何となく理英にも分かった。声のした真っ赤なスカイラインに近づいてみると、二人の幼い姉妹が、母親と思しき女性の羽織っている毛皮のコートから出ている、喪服のフォーマル・ワンピースのスカートの裾にしがみ付いて泣いているのが見えた。

「もうっ!聞き分けの無いこと言わないでっ!」

 母親の口調がだんだんキツくなっていくのが傍目にも分かったので、理英は思い切って声を掛けてみることにした。


「どうされたんですか?」

 理英の問い掛けにその女性は、一瞬驚いた様な表情を浮かべて振り向いた後、バツの悪そうな顔で答える。

「いえ、この子たちが我儘を言ってるだけなんですよ。あんな所に子供を連れては行けないのに・・・」

と困ったような表情で返事をした。その間も子供たちは、相変わらず火が付いたように泣いている。苦り切った母親の顔を見て、理英が一つの申し出をした。

「だったらそこの待合室の中で、私が二人の面倒を見ていましょうか?」

「えっ!?」

 母親の顔にますます困惑の色が広がった。

「あのう、どちらのご遺族の方でしょうか?」

「いえ、私は今日は学級委員として、クラスメイトの親族の葬儀に顔を出してるだけなんですよ。」

 理英の返事を聞いたその女性は、

「ああ、そうでしたか。それじゃあ、ちょっとお言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」

と安心した様子で言うと、二人の女の子を理英に預けた後、こう言って葬祭場に入って行った。

「じゃあ、ママはパパと一緒にちょっとご挨拶をしてくるから、お姉ちゃんと良い子にして待っているのよ。このお姉ちゃんを困らせないでね。」

 それを聞いた上の子は、泣きじゃくりながらも首を縦に振ったが、心細そうに母親の後ろ姿を見送っていて、今にも母親の後を追って走り出しそうな雰囲気であった。

 

「自動車の中で待ってるのが嫌だったら、お姉ちゃんと一緒にあそこでママを待っていようよ。」

 理英はそう言って二人の女の子に声を掛けると、葬祭場本体とは離れて建てられている待合室に誘った。女の子たちは遠ざかる母親の背中を不安気に見詰めていたが、やがて理英に付いて待合室の方へ移動した。待合室の中に入ると、案外多くの人で混雑していた。待合室の真ん中には大きなテーブルが置かれていて、保温されている大型のコーヒーサーバーやジュース・烏龍茶等の飲み物や個別包装になったお菓子が置いてあった。理英は何とか3人が座ることのできるスペースを見つけて、二人の女の子に座るように勧めると、お菓子と飲み物を3人分取って来て、自分も一緒になって座り込んだ。席に着くと直ぐに理英は、

「やっと泣きべそかくの治ったね。こんにちは。お姉ちゃんの名前は、寛永寺理英っていうの。貴方達のお名前は?」

と、笑顔で挨拶をした。上の子がおずおず々とそれに答える。

「依田・・・・・・真由美。」

「そう、まゆちゃんね。貴方は?」

 今度は下の子に向かって問い掛ける。

「・・・亜由美。」

 下の子はポツンと名前だけを口にした。それを聞いた理恵は、

「そっかぁ、あゆちゃんっていうの。まゆちゃんとあゆちゃんはどうして自動車の中でママを待つのを嫌がったの?」

と言って、二人の女の子に微笑みかけた。すると姉妹のうち、姉の真由美が答えた。

「だって、お化けが出るんだもん。」

「お化け?」

 理英が不思議そうな顔でそう問いかけると、今度は妹の亜由美が首を一つ大きく縦に振った。

「どんなお化けが出るの?」

「さかさ男。」

「さかさ男?」

 理英は瞬時に頭の中で知っているお化けの名を一つ一つ挙げてみるが、思い当たるものが無い。

「『さかさ男』って、どんなお化けなの?」

「自動車に飛び乗ってきて、屋根の上から自動車の中を怖い顔で覗くのっ!」

「それって、今日の出来事?」

 理英がそう尋ねると、妹の方が大きく横にかぶりを振って否定した。怪訝そうな理英の表情を見ると、姉の真由美の方が、

「今日じゃないけれど、この間自動車に乗ってた時に出たのっ!」

と、強く主張した。そして、それに続けて、

「この間、初詣に行った日の帰り道で出たの。」

と補足した。

「初詣?・・・・・・」

 理英はその言葉に妙に引っ掛かるものを感じていた。

「うん!その時、お父さんもお母さんも一緒に見ているのに、次の日になったら見てないって言うの。」

「お父さんやお母さんは、そのさかさ男を見た時、どんな様子だったの?」

「お父さんは吃驚した顔をしてた。お母さんも悲鳴を上げた後、顔を背けてたわ。」

「初詣ってことは、ここ一週間くらいのことよね?」

「うん、年越し蕎麦を食べてから出かけたの。」

「えっ?ということは、大晦日の夜ってこと?」

「うん、そう。おえべっさん(若松恵比須神社)に初詣に行って、その帰り道で・・・」

「そのお化けって、どんな風に出たの?」

「おえべっさんにお参りをした帰り道で、自動車の後ろの席でうとうとしてたら、突然頭の上でドスンって大きな音がして目が覚めたの。それで目を開けたら、さかさ男が自動車の屋根の上からフロントガラス越しに覗いていて、凄い怖い顔で私たちを睨みつけたの。」

「それでどうしたの?」

「お父さんもお母さんも驚いた顔で叫び声を上げていたわ。うわぁーって言って。その後ハンドルを回して、ジグザグに自動車を走らせたの。そうしたらお化けは顔を屋根の方に引っ込めて、居なくなっちゃった。」

「それで、貴方たちはどうしてたの?」

「お化けの顔が怖かったから、途中から目を瞑っていたの。そうしたらお父さんが、『もう大丈夫。お化けはどっか行っちゃったよ。』っていうから目を開けたら、お化けは居なくなってたの。あれは何だったのって訊いたら、『さかさ男』っていう妖怪だって言ってたの。でも、また出てくるんじゃないかって思って、その後も目を瞑って震えていたら眠っちゃたらしくて、気が付いたらお家のベッドで寝てたわ。」

「その後、パパやママにお化けのこと訊いてみた?」

「うんっ!訊いてみたけど、二人とも知らないって言うの。夢でも見たんでしょうって。」

 理英は怪訝そうな表情を浮かべて、

「それは変な話ねぇ。」

と、応じた。

「お姉ちゃんは、信じてくれる?」

「うん、信じるわ。」

「ありがとう、お姉ちゃんっ!」

 この返事で信頼を得たのか、理英はこの二人の幼い姉妹とすっかり仲良くなってしまった。しかし程無くして母親が父親と一緒に戻って来たので、二人を両親に引き渡すことになった。どうやら目的の相手には会えなかったようで、また時間をおいて出直して来ると言って立ち去ってしまった。

 二人が両親と一緒に立ち去った後、理英はまた一人になって時間を持て余したが、今度は15分も経たないうちに、永渕たちが火葬場から戻ってきた。待合室の窓から、骨壺の入った桐の箱を抱いた伯父の晃を先頭に、葬祭場の自動車から降りてくるのが見えた。式場に入ると喪主を務めている晃が、その帰りを待っていた参列者に向かってお礼を述べて、「精進落とし」の席へと誘った。


 火葬場で「骨上げ」を済ませて帰って来た永渕に理英が話し掛けると、理英も「精進落とし」の席へと案内されたので、革靴ローファーを脱いで控室の方へ上がって行った。「精進落とし」とは、初七日法要の際に、僧侶や世話役などの労をねぎらう目的で振る舞われる食事のことであるが、ここ北九州市では火葬場から戻った後に行うことが一般的になっている。この告別式では「精進落とし」としてお寿司が出されていた。寿司桶の中を覗いてみると、十五貫ほどの寿司が入っていた。鮪は赤身だけではなく、中トロや大トロも入っていて、なかなか豪勢だ。理英は寿司桶の中から玉子を箸で摘まむと、口許へ運びながら、

「ねえ、ブチ君!『さかさ男』って、知ってる?」

と、「精進落とし」の席で隣りに座った永渕に尋ねてみた。永渕は割り箸を割ると逆さに持って、自分の寿司桶の中から雲丹の軍艦巻きを摘まんで理英の寿司桶に移した後、鮃を口に放り込み乍ら答える。どうやら永渕は、雲丹が嫌いなようだ。理英は、どうせなら大好物のイクラの軍艦巻きも一緒にくれればいいのに、と思いながらもそれを見ていた。

「『さかさ男』かぁっ!さかさ男っていうのは、アフリカ大陸のジャングルに現れるという妖怪だよ。名前の通り、肩からは足が生え、腰からは手が伸び、頭も逆さについているっていう化け物なんだって。佐藤有文の『妖怪図鑑』って本で読んだことがあるな。確か小学生の頃、友達に借りて読んだ記憶があるよ。」

 永渕はそう答えると、次に鯛を口にした。

「へぇ~っ、他にどんな特徴があるの?」

「この妖怪に出会ってしまうと、全身が金縛りに遭ってしまって、絶対に逃げることは不可能なんだって。さかさ男は金縛りになった人の前に立ちはだかって、三つの質問をするんだ。それは本来ならば誰でも簡単に答えられる他愛のない問い掛けばかりなんだけど、それらの問いに対して全てあべこべに答えなかったら、手足を取り替えられてさかさ男と同じ姿に変えられてしまうんだそうだ。魂を喰らうために民家の近くに現れ、ヒューヒューと笛を吹くような声で鳴くんだって。中央アフリカに住んでいるウバンギ族の間で言い伝えられているらしい。水木しげるの本でも同じ妖怪が、『アシャンティ』という名前で紹介されていたと思ったけど・・・」

 永渕はそこで言葉を切って、今度は魬を頬張った。

「ふ~ん、でもそれが本当なら、あの子たちが言ってた『さかさ男』とはちょっと違うわね。」

「あの子たちって?」

 そこで理英は永渕達が火葬場に行っている間に出会った母娘の話をした。甘海老を食べながらそれを聞いていた永渕は、

「う~ん、それは気になるね。でも、そのお化けっていうのは『さかさ男』じゃなくて、日本の妖怪の『天井下てんじょうさがり』に近いような気がするね。」

と言いながら、寿司桶の貝柱に手を伸ばした。

「天井下って?」

「水木しげる先生によると、夜中に突然天井から現れる、長い髪を振り乱した毛むくじゃらの醜女の妖怪で、驚かせるだけで特に危害は加えないらしいよ。でも、逃げる時に天井に穴を開けていくらしいんだ。鳥山石燕の妖怪画集『今昔画図続百鬼』にも、長い髪の醜い老女が、家の天井から逆さまにぶら下がった姿として描かれていたと思うよ。」

 その時、葬祭場の係員が小走りにやって来ると、喪主である伯父の晃に耳打ちをした。耳打ちされた晃は顔色をサッと変えるとすっくと立ち上がり、足早に葬祭場の入口の方へ向かった。その様子を永渕は中トロを摘まみながら見ていた。


「あんたら、何しに来たんだ!」

 晃の怒鳴り声が、葬祭場の入口の方から響いてきた。その場に残っていた他の親族の人たちも、一体何事かと腰を上げて声のする方へ向かった。

「何かあったみたいだね。」

 永渕が理英の耳元でそう囁くと、

「僕たちも行ってみよう。」

と言って、持っていた穴子の握りを寿司桶に戻すと、理英の手を取って遺族控室から連れ出した。

 怒鳴り声のする葬祭場の入り口の方へ行って見ると、伯父の晃が仁王立ちになって、一組の男女に怒声を浴びせ掛けているところだった。罵声を浴びせられている男女は床に正座して、土下座をしていたようであるが、理英たちより先に追い付いた永渕の父親が執り成そうとしたようで、その声に反応して顔を上げていた。永渕の肩越しに現場を覗いた理英には、その二人に見覚えがあった。少し前に、自動車の中で待つのを嫌がっていた二人の女の子を、理英に預けた夫婦だった。晃の科白からすると、この二人は加害者の兄夫婦のようだった。当事者でないにも拘らず、殊勝にも弟の不始末を詫びに来たらしいのだが、晃は委細構わず怒りを爆発させていた。

「お前らの魂胆は分かってるぞ!弟の公判までに和解に持ち込んで、情状酌量で実刑を免れさせるつもりだろうっ!」

 晃はそう決めつけると、

「さっさと出てけっ!」

と一声叫んで、もう用は無いとばかりにその場を離れようとした。しかしその時、晃の袖を引いて、引き留める者が居た。永渕の父親である。

「まあまあ兄さん、そう邪険な扱いをしなくても。あの人たちは直接の関わりが無いにも関わらず、こうして頭を下げに来てくれたんじゃないか。兄さんは、私や肇兄さんが同じ様なことを仕出かしても、ああやって頭を下げはしないだろう?だったら、少しくらいは労いの言葉をかけてやっても・・・」

 しかし晃は全てを言い終わらないうちに、

「うるさいっ!」

と、一喝すると今度こそ本当に踵を返して、精進落としをしていた遺族用控室へと戻り始めた。ドスドスと足音を立てて奥へ下がって行く晃に釣られる様に、他の親族もその場を離れ始めたが、永渕の父親は簡単には諦めない様子だ。

「御覧のように兄はまだ冷静な話ができないようなので、今日のところはどうかお引き取りください。」

と口早に声を掛けてから、急ぎ足で後を追い始め、先頭を歩く晃の背にまだ何か話し掛けていた。


 理英は予想外の出来事に何もできず立ち尽くしていたが、他の参列者の最後尾について一緒に戻ろうとすると、永渕がその腕を掴んだ。

「ひょっとしたら、まだ居るかもしれない。」

「居るかもって、誰が?」

「君が言っていた姉妹だよ。」

 どうやら永渕も同じことを考えていたらしい。永渕の父親と晃伯父さんは、遺族控室へ戻る途中の廊下で立ち止まってまだ何かやり取りをしていたが、今度は叔母の淑江も永渕の父に加勢していて、簡単には引き下がりそうになかった。先ほどの夫婦はまだその場を離れずに、遠くから事の成り行きを見守っていた。二人は永渕の父親と晃伯父を中心にできた人垣を迂回する様に、その外周を回って先に控室へと戻った。

 火葬が終わったので式場自体はもう片付けられていたが、隣接する遺族控室の中にも祭壇が設けられていて、火葬が終わった骨壺はそこに置かれていた。控室のテーブルの上には、先ほど中座するまで皆が食べていた、精進落としの料理がそのままになっていた。祭壇の上には遺影の他に幾つかのフォト・スタンドも置いてあり、故人のかつての写真が飾られていた。写真の中の人懐っこそうな笑顔は、親族たちの涙を誘っていた。永渕はその写真の入ったフォト・スタンドを一つ取ると、直ぐに遺族控室を出て行った。

 遺族控室を出た二人は、足早に葬祭場の駐車場へと向かった。この葬祭場の駐車場の中には結構な数の自動車が止めてあったが、さきほど理英が見かけた赤いスカイラインは一台だけしか見当たらなかったので、その自動車に近付いてみる。目当ての自動車を見た永渕が歩きながら呟く。

「ケン・メリかぁ。家族で乗る自動車としては、相応しくないよなぁ。」

 「ケン・メリ」というのは、第四代スカイラインであるC110型クーペの通称であり、日産自動車の広告キャンペーン「ケンとメリーのスカイライン」からきている。これは、先代のC10型の時代から始まった「愛のスカイライン」キャンペーンを引き継いだもので、このキャッチコピーも引き続き使用していた。このキャンペーンのCMは、若い男女のカップルがスカイラインに乗って、全国津々浦々を旅するというシリーズもので、このカップルの名前がケンとメリーである。それまでのスカイラインのCMは、性能の高さやレースでの成績をアピールした硬派なイメージのものを流していたが、これまでとは異なるソフトなイメージのCMは、当時の世相ともマッチしたのか、社会現象とも呼べるまでの人気を博していたので、自動車に全く興味の無い永渕でも知っていたのである。

 その自動車に近づくとその中から、シクシクと子供のすすり泣く声が聞こえてきた。やはりあの子たちは夕闇が迫る駐車場の中で、自動車の中に置いてけぼりを食らったようだ。まあ、両親のあんな姿を子供には見せたくない、という心情は、理英にも十分理解できた。永渕がドアのレバーに手をかけると、ロックはしていなかったようで自然にドアが開いた。

「どうしたの、君たち?大丈夫?」

 永渕が声を掛けると、中に居た女の子たちはビクッと肩を震わせてこちらを見たが、理英の顔を見つけると妹の亜由美が、

「お姉ちゃ~んっ!」

と言って抱きついてきた。

「この人、だあれ?」

姉の真由美は理英に訊いてくる。

「安心してっ!お姉ちゃんのカレシよっ!」

 理英がそう言って微笑むと、二人は警戒心を解いたようだった。姉の真由美は妹の亜由美の手前、泣き出したいのを我慢していたのであろう。それまでは心細そうな顔をしていたものの、妹のようには泣き喚いてはなかったのだが、理英の姿を見つけて安心したのか、抱き着くなり堰を切った様に泣き声を上げ始めた。

「とにかく、ここじゃあ何だから、待合室の方へ行こう。」

 永渕は理英にそう言って、懐からメモ帳を取り出して1ページだけ破ると、いつも胸ポケットに差しているペンで走り書きをして、自動車のワイパーに挟み込んだ。そして理英にへばり付いて泣いていた真由美の方を抱き上げると、待合室の方に向かって歩き始めた。理英も亜由美を抱き上げて後に続く。待合室に入ると、もう他の会場も式が進行し始めたのか、先程と比べて人影も疎らになっていた。永渕は目聡く4人ほど腰掛けられるスペースを見つけると、抱いていた真由美を椅子に座らせてから理英たちを誘導した。理英も抱いていた亜由美を椅子に座らせると、直ぐにおしぼりを持って来て、ぐしゃぐしゃになった二人の顔を優しく拭いてやる。二人を落ち着かせたところで、コーヒーやジュースを持って来ると、永渕が徐に喋り始めた。

「君たちのご両親がここに来るまでそんなに時間は無いだろうから、手短に話すよ。君たちが見たって言う『さかさ男』について教えて欲しいんだけど、・・・」

 永渕はそう言うと、懐に入れていたフォト・スタンドに入った写真を取り出して二人に示した。

「・・・そいつはこんな顔をしていなかった?」

 すると写真に視線を落とした二人は、瞬時に怯えた顔をして痙ったような声を上げると、火がついた様に泣き出し始めた。その様子を見ていた理英が、即座に抗議の声を上げる。

「ブチ君、何てことをっ!」

 理英の声はこの結果を予見していたようだった。しかし永渕はその声を、柳に風といった風情で受け流し、念を押すように重ねて尋ねる。

「君たちの言う『さかさ男』は、やっぱりこの人なんだね?」

 その言葉に、姉の真由美が泣きじゃくりながら首を縦に振る。その騒ぎに、少なくなったとはいえ待合室の中のに居る人の視線が、理英たちのテーブルに集中するが、永渕は意に介さない様子で言葉を続ける。

「だったら、もう大丈夫。この『さかさ男』は、金輪際君たちの所へは現れないよ。君たちのパパとママが退治しちゃったから。」

 それを聞いた真由美が、こわごわ々と訊き返す。

「本当・・・?」

「本当だよ。」

 永渕は満面の笑顔で言い切って見せた。その態度を目にした亜由美は、その言葉を信用できると思ったのか、鳴き声を上げるのを止めて、しゃくり上げながらも落ち着きを取り戻し始めた。

「じゃあ、どうしてパパとママは『さかさ男』のこと知らないって言ったの?」

 姉の真由美の方は至極尤もなことを尋ねる。その問いに永渕は表情を崩さないで即答する。

「そりゃ君たちがあんまり怖がっていたから、心の傷にならないように、悪い夢を見たってことにして忘れてもらおうと思ったんだよ。」

 その説明に納得したのか、真由美もやっと安堵の表情を見せた。

 しかし、その会話を聞いた理英は、それで良いのだろうか、というもやもやしたものを胸に抱いた。今永渕が「退治した」と口にした「さかさ男」の正体は、彼の従兄なのだ。しかも自動車で轢き殺されている。そしてこの子たちの言ってることが真実ならば、その従兄を死に追いやったのは、この子たちの両親なのだ。そんな理英の感情とは裏腹に、永渕は笑顔を取り戻した子供たちと仲良くなり始めていた。


「ねぇ、お姉ちゃん。さっきこの人のことを『カレシ』って呼んでたよね?」

 すっかり元気を取り戻した姉の真由美が理英の方に向き直ると、悪戯っぽい笑みを浮かべながら尋ねてきた。真由美は急に声を潜めると、

「どこまでいってるの?」

と畳みかける。

「えっ!どこまでって・・・?」

「もうチューしたのっ?チュー?」

 理英は意外な質問に含羞の色を浮かべて、この子は意外にませているなと思いつつ、どう返事しようか迷っていると、横から永渕が助け舟を出した。

「ごめんね。まだそこまでいってないんだ。」

 永渕はヌケヌケと嘘を吐くと、その返事を聞いた真由美は、一瞬つまらなさそうな表情を浮かべて、

「な~んだ、そっかーっ!」

と、期待が外れたといった声を出した。しかし、次には更に一歩踏み込んだ内容の質問を発した。

「ねえ、お姉ちゃんはこの人のどこを気に入ったの?」

「どこって・・・?」

 理英が口籠っていると、横から永渕が、

「人を好きになるのに、理由なんて要るの?」

と逆に訊き返した。

「えっ!?」

 今度は真由美が答えに詰まる。

「真由ちゃんは、これこれこういう理由でこの人が好き、とか、この人が嫌い、とか判別してるの?」

 そう言われた真由美は、直ぐに首を横に振ると、

「してないっ!」

と元気よく答えた。

「だよねっ。それと同じだよ。」

「じゃあ、お兄ちゃんも、このお姉ちゃんのことを好きな理由は無いの?」

「最初は無かったと思う。ただ好きだった。でも今なら幾つか挙げることができるよ。」

 永渕がそう言うと、真由美が食い付いてきた。

「どこどこっ!どんなところ?」

「思いつくまま上げると、顔立ち・頭の良さ・色の白さ・物腰の柔らかさ・品のある振る舞い・控えめな性格・機転の利くところ・落ち着いているところ・そして僕のことを一生懸命思ってくれているところ、かな?」

 それを聞いた真由美は一言、

「へぇ~!」

という声を上げたが、理英はそれを聞いて深く恥じ入った。今、永渕が挙げた理英の美点のうち半分は、まだ猫を被っている部分なのだ。


 理英がもやもやしたものを抱えながらも、子供たちとの会話に加わって10分ほど経つと、待合室の中に一組の男女が入って来た。真由美と亜由美の姉妹の両親である。二人は理英たちの姿を見つけると、真っ直ぐに歩み寄って来た。安堵したように父親の方が言う。

「ここに居たのか。」

 そうして理英たちの方に向き直って、

「すみません。娘たちがご迷惑をお掛けしました。」

と、お礼を口にして、妻と一緒に頭を下げた。理英たちの様な子供にまで頭を下げたことで、随分腰の低い人だなと思っていると、永渕が、

「いいえ、泣きじゃくっていて、あんまり気の毒だったんで、あやして連れて来ただけです。こちらこそ勝手なことをしてしまって、すみませんでした。」

と言って頭を下げた。しかし、永渕の次の言葉で、この夫婦の顔色が変わった。

「首尾よく線香を上げることができましたか?」

 ここは葬祭場なので、線香を上げるのは当たり前であるが、態々こういう表現をするということは、先程の一悶着を見ていたことになる。その科白に母親の方が尋ねる。

「ひょっとして、永渕さんの・・・」

「故人の従弟に当たる、陽一と申します。」

 それを受けて、

「そうでしたか。私は兄の依田義久と申します。この度は弟が大変な不始末をしでかして・・・」

と、頭を下げてそこまで喋ったところで、永渕の科白が先を阻んだ。

「弟さんは、犯人じゃないんでしょう?」

 いきなり核心を突く発言をする。それを聞いた二人は、顔を紙のように白くしてまじまじと永渕の顔を見詰めた。

「差し出がましいようですが、今回の一件は幼いながらも二人のお嬢さんも現場で見ています。今はまだ訳が分からなくても、近い将来その意味に気づく日が来ると思います。だからその時が来ても、親として軽蔑されることのない振る舞いをすべきだと愚考しますが。」

 それを聞いた父親の方が、

「何のことでしょうか?」

と震える声で答える。飽くまで惚ける心算のようだ。どこまで知っているのか、こちらの意図を窺う様な不安そうな眼付に変わっていた。

「乗って来られた自動車を見た時に、確信したんですよ。あの赤いスカイラインも社有車かもしれませんが、あっちがいつも弟さんが乗っていた自動車ですよね?『羊の皮を被った狼』っていう異名を持ったスカイラインがあるのに、走り屋だった弟さんが昔の暴走族仲間と一緒に走る時に、クラウンを選ぶなんて有り得ない。逆に、家族四人で乗るのならセダンの『ヨン・メリ』ならばともかく、クーペの『ケン・メリ』は選ばないですよね。違いますか?」

 しかし永渕の問い掛けに応えは無い。それを好い事に永渕は続ける。

「僕たちは警察ではないので、どうするかの判断は、そちらにお任せします。それによって、僕たちがどうこうするということは致しません。だから、もう一度よく考えてから決めて下さい。ただ、何も咎が無いとは言いませんが、この件で弟さんが身柄を拘束されていることを、大変気の毒に感じているだけです。」

 しかし次の瞬間、父親の方の顔色が変わった。満面に朱を注いだような形相で、

「君に何が分かるんだっ!」

と一喝した。理英は思わずビクッとして腰を浮かせて、怯えた目で永渕を見遣ったが、永渕は相変わらず表情を変えずに相手を見詰めている。永渕は泰然自若と言えば聞こえは良いが、ハッキリ言って未だに理英にも、表情から感情の変化が読めない曲者なのである。父親は興奮のあまり声を震わせながら言い募る。

「あいつのせいで、私も両親も妹も、今までどれだけ肩身の狭い思いをしてきたと思ってるんだっ!それを今日から心を入れ替えて働きますと言われても、ああそうですかと簡単に許せるもんじゃないっ!むしろこの位のことをして役に立ってもらうのは当然だろっ!」

「あなたっ!」

 そこまで一気に捲し立てたところで、母親の方が制止に入った。二人の娘も怯えた表情で父親を見ている。待合室に居る人間の視線は全て、このテーブルに集中していた。父親は妻の制止で我に返ると、周囲のテーブルを見回して口を噤んだ。しかし、そんな中でも永渕は口を開いた。

「僕は貴方たちご家族の中での出来事は詳しくは知りません。しかし、今貴方が口にされた言葉は、貴方のご家族の中では通じる理屈ではあっても、万人が納得する理屈じゃないと思いますよ。」

「だったら、今、私が居なくなったら、父がここまで大きくした会社は一体どうなるんだ?百人ちょっとしかいない従業員たちにも、それぞれ家族があって生活もある。年老いて現場を離れて久しい父に、もう一回会社を任せろと言うのか?」

 永渕は厳かに科白を続ける。

「『正しいこと』と『大切なこと』が必ずしも一致しないことくらい、僕も理解している心算です。綺麗事かもしれませんが、それでも僕は、できる限りそれを一致させた人生を歩みたいと思っています。ただ、それだけです。先程も言いましたが、判断はそちらにお任せします。」

 そこまで言うと、永渕は理英の方を振り返って、席を立つように目で促した。理英は立ち去る永渕の後を追う形で、二人に軽く会釈をして速足でその場を離れた。永渕に追いついた理英は、永渕に問い掛ける。

「あれで良かったの?」

「それは分からないよ。ただ僕は身柄を拘束されている弟さんのためにも、二人の娘さんのためにも、もっと良い選択をして欲しかっただけなんだ。」

 永渕がそう言うと、不意に背後から声を掛けられた。

「陽ちゃん、本当にそれで良いの?」

 声の主は秀一郎だった。普段は感情を露わにしない永渕が、ギクリとして立ち止まる。

「秀一郎さん・・・」

「あの夫婦に一つだけ確かめたいことがあったんで、あの二人の後から付いて来たんだ。遣り取りを全部聞かせて貰ったから、疑問は氷解したけどね。」

 どうやら人情の機微に疎い筈の秀一郎でさえも、この夫婦の振舞いに違和感を感じ取ったようだった。秀一郎は更に言葉を続ける。

「でもあの決着の付け方は気に入らないなぁ。一緒に居た子供達に気を遣ったのかもしれないけど、拘置所に居る無実の弟さんについては、どう考えてるんだい。まさか本人から名乗り出たんだから、最悪の場合はこのままでも良いってこと?」

「いや、そういう訳じゃあ・・・」

 そう言って永渕は口籠る。

「じゃあ、あの夫婦の人間性に賭けてみるってこと?頼り無い話だねぇ。」

「あの、このことは計伯父さんには・・・」

「言いやしないよ。そんなことしたら、あっという間に手錠をかけてしまうに決まってる。」

 その時、待合室の入口を勢いよく開ける音に続いて、自動車のドアを乱暴に閉める音がしたかと思うと、タイヤを軋ませて急発進する音が響いた。あの家族が乗ってきた赤いスカイラインだった。キュルキュルキュルキュルというタイヤが地面を擦る不快な音を立てて方向転換したかと思うと、こちらへ向かて来るではないか。即座に事態を把握した秀一郎は小さく溜息を吐くと、

「どうやら君とこの娘の口封じをする心算らしいね。ずいぶんと短絡的な行動だけど、どうする?」

と永渕に尋ねた。

「背中を見せるのは嫌だなあ。」

 永渕が短く答える。

「おっ、気が合うねぇ。でも、そうこなくっちゃあ!」

 秀一郎のその返事を受けて、永渕が理英に向かって言う。

「ピッピ、悪いけど一っ走り葬祭場の遺族控室に行って、計伯父さんを呼んできてくれない?」

 しかし理英は、まだ状況判断がつきかねていた。

「早くっ!」

と永渕は短く叫ぶなり、理英の背中を軽く叩いた。そう言われた理英は、弾かれた様に全速力で葬祭場に向かった。しかし葬祭場の入口の前まで来ると、やはりあの場に残った二人のことが気になって、つい後ろを振り返ってしまった。赤いスカイラインが車列を曲がりながら、急激にスピードを上げて、二人に迫る。車列を曲がり終えて、スカイラインと永渕たちの間には、何の遮蔽物も無くなった。薄暮の中で自動車のヘッドライトが、永渕と秀一郎を捉える。あの父親は躊躇うこと無くアクセルを踏み込んだのか、スカイラインが真っ直ぐに二人に向かって来る。秀一郎は永渕を一瞥すると一言、

「跳べる?」

と問い掛けた。

「勿論っ!」

 永渕が短く答えると、一斉にスカイラインに向けて走り出した。二人は急速に距離を縮める自動車の手前まで全力疾走すると、飛び蹴りをするような格好で飛び上がった。宙に舞った二人の足元を掠めるようにして赤いスカイラインが走り過ぎて行ったが、直ぐに急ブレーキをかけるキキキキキーッというけたたましい音がした。以前フジテレビの『オールスター90分!』という番組の中で、極真会館の東孝が同じことをやったのを、理英はテレビで見たことがあったが、本物を見るのは初めてである。

 永渕は普段から体育の走り高跳びでも、自分の身長よりも10cm以上は高く跳んでいたので、140cmそこそこの車高しかないスカイラインを跳び越すのは朝飯前なのかもしれないが、全速力でこちらに突っ込んでくる自動車に向かってそれを試みるのには、相当な度胸が要るだろうことは理英にも理解できた。

 理英は不意に頭の片隅で、『キイハンター』で千葉真一が演じる風間洋介のアクションシーンを思い出したが、今回の相手は明らかな殺意を持って自動車を走らせている。二人の命を狙っている以上、これで終わりではないのだ。殺意の対象である人影の数を合わせるために、秀一郎が自分の身代わりであそこに残ったのだと気付いて、理英は後ろ髪を引かれる思いを振り切って、入口のドアを開けて葬祭場の中に飛び込んだ。永渕家の遺族控室まで全力疾走で駈け抜けたつもりだったが、遺族控室までの短い通路がやけに長く感じられた。


 当然、襲撃がこれで終わりではないことは、永渕たちも重々承知している。スカイラインが通り過ぎた跡に着地すると、直ぐに二人は自動車の背後に向かって脱兎のごとく駆け出した。二人を仕留め損なったスカイラインは、ハンドルを回して方向転換を図ったため、タイヤが軋む耳障りな音をさせてその向きを変えようとしていた。

 二人は背後から自動車に追い縋ると二手に分かれて、永渕は助手席側のドアに、秀一郎は運転席側のドアに取り付いた。運転席側のドアはロックしているようで、秀一郎がレバーを引っ張ってもビクともしない。しかし永渕が手を掛けた助手席側のドアは、ロックしていなかったのか簡単に開いた。再び走り出す前に永渕が助手席に飛び込んだ。

 足元から飛び込んだので、永渕はちょうど運転手の頭を蹴飛ばすような感じで潜り込むことになった。そんな蹴りでは運転手の意識を刈り取るまでは至らなかったが、それでも相手が怯んで手元を狂わせることができたため、ハンドル操作を誤らせることには成功した。あらぬ方向へハンドルを切ったスカイラインは、大きな音を立ててそのまま葬祭場の壁面に激突した。追突の衝撃で秀一郎の身体が吹き飛ばされたが、何とか上手く着地することができた。

 自動車のボンネットは拉げて、フロントガラスには蜘蛛の巣状のひびが入っていた。同時に大きなクラクションの音が、駐車場に響き渡る。殆んど同時に理英が伯父の計を連れて、葬祭場の中から飛び出して来た。見れば他の親族も野次馬と一緒に引き連れている。永渕が即座に自動車のキーを引き抜いて運転席側のドアから出てくるのと入れ替わりに、計が上半身を運転席に入れて、

「依田義久、殺人未遂の現行犯で逮捕するっ!」

と短く言うと、運転手を壊れた運転席から引き摺り出した。追突の衝撃で割れたフロントガラスの破片を浴びて、血だらけになった父親はがっくりと項垂れてへたり込んでしまったが、本職の警察官である計は委細構わず右手を取ると後ろ手にして組み伏せてしまった。

「兄さん、警察を呼んでもらったから、直ぐに来る。」

 永渕の父親はそう告げると、永渕と秀一郎に向き直って、

「バカタレッ!危ないことしやがってっ!」

と言って雷を落とした。

「ごめんなさい。」

 消え入るような声で永渕が謝る。そこにあるのは、いつもの茫洋とした永渕の姿ではなく、年相応の14歳の少年の姿であった。本当はこんな姿を理英には見せたくないのだろう。永渕はそれだけ言うと俯いてしまった。

「秀一っ、お前も何ですかっ!お前が付いていながら、こんなことになるなんてっ!」」

 叔母の淑江も頭ごなしに叱りつけたため、秀一郎の方は一瞬不服そうな表情を浮かべたが、反論することなくこうべを垂れた。

「勲も淑江も、それじゃあ二人とも可哀想だよ。でも、よく犯人の身代わりに気が付いたね。お手柄だよ。」

と、伯父の計が執り成そうとした時、遠くからパトカーのサイレン音が近付いて来るのが聞こえ始めた。


「結局、お兄さんが起こした交通事故を、弟が両親から頼まれて罪を被って、身代わり出頭していたのかぁ~。」

 理英は大儀そうにそう言うと、弁当箱の中からミニ・ハンバーグを箸で摘まんで口に放り込んだ。今日は1月10日、3学期の初日である。今日から授業も再開されて、初めての授業科目では冬休みの宿題の提出が始まっていた。現在は昼休みになっていて、二人で昼食の弁当を食べながら、永渕から事件の顛末について、伯父の計から教えてもらった範囲内で報告を受けているところである。

「せっかく穏便に済ませようと思って情けをかけたのに、あの姉妹には却って可哀そうなことになっちゃったね。」

 永渕も気怠そうな口調で応える。

「こっちから告発するようなことはしないって言ったのに、口封じに走るんだもの。仕方が無いわよ。」

「唯一の救いは、弟さんの身柄が直ぐに釈放されたことくらいだね。」

「でも、どうしてあの夫婦は葬祭場に現れたのかしらっ?あんな所に来なければ、私達に感付かれることも無かったのに・・・」

「そうしないで居られるほど、神経が図太くなかったてことじゃない?実際に事故を起こした時、被害者の顔を見てるんだし。」

「確かにっ!被害者に睨まれて、まゆちゃんもあゆちゃんもトラウマになるくらい怯えてたしねぇ。」

「何かしておかないと、夢見が悪かったってことだよ。小泉八雲の『怪談』にも『かけひき』っていうエピソードがあるように、日本人には根深い『怨霊信仰』があるから。」

「それでブチ君は、自首する機会を与えたのね。でもやっぱり、後味が悪いわよねぇ・・・」

「始業式の後、警察の連絡を受けた水木教頭からは、たっぷり絞られたしね。」

 永渕もそう言うと、弁当箱の中から海老フライを摘まんで、尻尾を残して食い千切った。二人はあの後、やって来た警察にパトカーで運ばれて、若松警察署で事情聴取を受けることになった。しかも、それは供述の裏取りをするために一度では終わらず、何回かに分けて警察が二人の自宅を訪問して、同じ様な質問を繰り返していたのである。最初のうちは二人も快く応えていたが、何度も細かく同じことを訊かれるので、この頃にはいい加減うんざりしていた、というのが本音である。しかしそのおかげで事件のその後の経緯を、永渕は計伯父さんから捜査に支障のない範囲内で教えて貰えたのである。

 二人が気になっていたのは、あの幼い姉妹と母親のことであった。まだ幼い二人から両親を取り上げてしまうような結果にならないだろうかと危惧していたのだが、幸い母親の方は短期間の事情聴取の後、書類送検されるようではあるが、身柄は拘束されずに済みそうだということだった。上手くいけば略式起訴ではなく、不起訴処分もあり得るらしい。あの姉妹は現在のところ、父親の妹である未婚の叔母が、母親代わりに面倒を見てもらっているらしい。それを伝え聞いた理英は、内心ホッとしていた。

 ただし、父親の方は業務上過失致死・救護義務違反・保護責任者遺棄の他に、殺人未遂や器物損壊が加わってしまったため、もはや実刑は免れないだろうとのことであった。あの二人から父親を奪ってしまう結果になったことを思うと、理英の小さな胸はチクリと痛んだが、それを口にすると必要以上に永渕が心配するので、全く関係の無いことを口にしてみた。

「結局、お寿司もイクラの軍艦巻きは食べられなかったし・・・」

「そっちかい!?」

 透かさず永渕がツッコみを入れるが、こちらも理英の胸中が分かるのか、キレの無い反応である。


「でもあの姉妹が妖怪に怯えているって事実を、よく従兄の交通事故に結びつけられたね?」

 永渕が率直な感想を漏らすと、それを聞いた理英が即座に答える。

「初歩だよ、ワトソン君っ!」

 その返答に呆気にとられた永渕が尋ねる。

「ねえ君、ひょっとしてシャーロック・ホームズのつもり?」

「そうよ、悪い?私がワトソン博士じゃあ、おかしいでしょう?それとも貴方がホームズをる?だったら、私はアイリーン・アドラーってことで良いけど。」

「ハティ・ドーランの間違いじゃない?」

 つい永渕が一言ボソリと零した。「ハティ・ドーラン」は、アーサー・コナン・ドイルの『シャーロック・ホームズの冒険』に収録されている「独身の貴族」に登場する、ロバート・セント・サイモン卿の花嫁になる筈だった女性の名前である。アメリカの金鉱山キャンプで育ったおてんば娘で、自由奔放で激情的な性格と衝動的な行動で、結婚式当日に失踪事件を引き起こす迷惑な婦人として描かれている。それを聞き咎めた理英が、聞こえなかった振りをして圧力をかけるように尋ねる。

「んっ!?なんか言った?」



【参考文献】


 『小説 帝銀事件』 松本 清張:著 1961年8月15日 角川書店

 『時間の習俗』 松本 清張:著 1972年12月15日 新潮社

 『いちばんくわしい世界妖怪図鑑』 佐藤 有文:著 1973年3月15日 立風書房

 『怪盗ジバコ』 北 杜夫:著 1974年6月25日 文藝春秋社

 『日本の黒い霧』(上) 松本 清張:著 1974年7月25日 文藝春秋社 「『もく星』号遭難事件」

 『日本の黒い霧』(下) 松本 清張:著 1974年7月25日 文藝春秋社 「帝銀事件の謎」

 『小泉八雲集』 小泉 八雲:著/上田 和夫:訳 1975・03・18 新潮社

 『密約-外務省機密漏洩事件』 澤地 久枝:著 1978年9月10日 中央公論社

 『ゴルゴ13』 51.毛沢東の遺言 さいとう・たかを:著 1988年7月30日 リイド社

 『コータローまかりとおる!柔道編』第11巻 蛭田 達也:著 1997年5月16日 講談社

 『拳児』第2巻 松田 隆智:原作/藤原 芳秀:作画 1997年8月15日 小学館

 『案外、知らずに歌っていた童謡の謎』 合田 道人:著 2002年2月1日 祥伝社

 『夕日と拳銃』(上) 壇 一雄:著 2008年7月25日 角川書店

 『夕日と拳銃』(下) 壇 一雄:著 2008年7月25日 角川書店

 『運命の人』(一) 山崎 豊子:著 2010年 12月3日 文藝春秋社

 『運命の人』(二) 山崎 豊子:著 2010年 12月3日 文藝春秋社

 『運命の人』(三) 山崎 豊子:著 2011年 1月7日 文藝春秋社

 『運命の人』(四) 山崎 豊子:著 2011年 2月10日 文藝春秋社

 『私が愛した大河ドラマ』 洋泉社編集部:編 2012年2月8日 洋泉社

 『満州航空の全貌 1932~1945 大陸を翔けた双貌の翼』 前間 孝則:著 2013年5月16日 草思社

 『唱歌・童謡ものがたり』 讀賣新聞編集部:著 2013年10月17日 岩波書店

 『満洲航空 空のシルクロードの夢を追った永淵三郎』 杉山 徳太郎:著 2016年2月1日 論創社

 『七帝柔道記』 増田 俊也:著 2017年2月25日 角川書店

 『日本航空一期生』 中丸 美繪:著 2018年6月25日 中央公論新社

 『私の「紅白歌合戦」物語』 山川 静夫:著 2019年12月5日 文藝春秋社

 『外務省研修所』 片山 和之:著 2020年5月30日 光文社

 『大河ドラマの黄金時代』 春日 太一:著 2021年2月10日 NHK出版


【参考映像】


 『たけくらべ』 監督:五所 平之助 主演:美空 ひばり 1955年8月28日公開 新東宝映画


【引用】


 『S・Hは恋のイニシァル』(1969年)

  作詞:山上 路夫

  作曲:山本 直純

  唄:布施 明


 『夕日と拳銃』(1964年)

  作詞:夏 五郎

  作曲:渡辺 岳夫

  唄:ヴォーカル・ショップ

 この作品の中に登場する鶴田浩二さんの邸宅は、鶴田さんが亡くなられた後に取り壊されて、現在はマンションになっています。王貞治さんも森進一さんも既に転居されていて、痕跡すら残っておりませんので、現地に行ってみても、もう分からないと思います。また「もく星号墜落事件」に関しては、日本経済新聞に連載していた、江頭匡一氏の『私の履歴書』も参照しています。

 なお、ザ・フォーク・クルセダーズ(The Folk Crusaders)の表記は、当該レコード発売時の表記である「ザ・フォーク・クルセイダーズ」を採用しました。

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