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第十章 展覧会事件

 寛永寺理英が通っている殿上中学校は、男子生徒よりも女子生徒の人数が少し多い。一クラス当たり1~2人ほど多い計算になる。そのため、どのクラスにも44~45人の生徒が居るが、大体男子生徒21~22人に対し、女子生徒23~24人の割合になっている。しかし理英のクラスである2年9組だけは男子生徒21名に対して、女子生徒が24名という歪な構成になっている。これは女子生徒の数については本当に24名居る訳ではない。実は新学期早々に女子生徒が1名、通常のクラスから養護学級へ組み替えられたのである。彼女は小学校入学以来、中学1年生までは通常のクラスで受け容れていたのであるが、学業の習熟度合いに問題があるという理由で、中学2年から養護学級へ編入替えとなったのである。ただし、修学旅行や遠足等の学校行事の際には、1年生から3年生までの生徒が居る養護学級では、クラス単位での参加はできないため、慣例として各学年の9組に入ることになっているのである。

 この女子生徒の名前は、椿美智子という。元々、学業の方は余り芳しくなかった生徒ではあるが、四月の新学年発足時に行われた知能指数検査の結果が止めを刺してしまった。この検査で美智子は、軽度の知的障害があると判定されてしまったのである。理英は同じ藤ヶ丘小学校の出身であったため、小学生の頃から彼女を知っていた。理英自身は少しトロい子くらいにしか認識していなかったため、春先のこの出来事には少なからずショックを受けてしまった。

 当然彼女の保護者は、2年生になってから養護学級に編入されたことに不満だったようで、学校側へ強硬に抗議したようだったが、学校側の粘り強い説得で何とか同意を得ることができた。しかし1年生の時まで一緒に学んでいた生徒たちにとっては、理英と同様にショックが大きかったようで、このことを積極的に話題にする生徒は居なかった。尤も、悪いことばかりでもなかった。1年生時までの顔馴染みがクラスの中に多数居ることで、これまで美智子が各種学校行事の際に、孤立したり苛められたりすることが無いのが救いであった。もちろん理英も、学校行事に参加するために彼女が2年9組に入ってきた時には、以前と変わらず接するように努めていた。

 この時の知能指数検査については、理英もよく覚えている。結果が返ってきて一人一人にその判定シートが渡された時に、クラスで最も知能指数が高かった者として、理英の名が読み上げられたのだ。IQは167だったそうで、これは全学年でもトップとのことだった。後から本人に聞いた話であるが、永渕の判定結果はIQ148と理英よりもずっと低く、学年中でも6番目だったが、これには本人の努力は全く寄与していないからという理由で、永渕本人は歯牙にもかけていない様子だったのは意外だった。他の学年でも同様の発表をしており、3年生では学業でも学年主席の雑賀豊という男子生徒が、IQ171で学年トップだったという噂が耳に入って来た。

 しかし一番驚いたのは、1年生では永渕の妹がIQ156で学年トップだったという情報が齎された時だった。永渕の妹もある程度はデキが良かったが、学業では学年で20~30番目くらいに位置していると聞いていたので、理英にしてみれば少し意外だった。学業においてこの学年の首席は野口吾郎という、有名なアイドル歌手と読み方で同姓同名の男の子だったからだ。学区内にある、野口総合病院の跡取り息子で、母親が看護婦出身であることから、自分の血が入ったせいで息子の出来が悪いと言われないように、息子の教育には非常に熱心なことで有名だったのである。因みに永渕の妹は、この勉強もスポーツもよくできる文武両道の男子生徒に熱を上げていると、永渕から聞かされていた。永渕の言によると、彼の妹は小学生の時分から、よく担任の先生に、「知能指数は高いのに(なぜ勉強はできないんでしょうか)ねぇ。」と言われ続けてきたのだそうだ。


 2学期になって、もう10月も半ばを過ぎた。朝夕の登校時に目に映る青空にも、鰯雲の群れが泳ぐようになっていた。2学期は楽しい学校行事が目白押しである。今月の初めには体育祭があった。脚の速い理英が存分に活躍できる、楽しい時間であった。来月の初旬には、文化祭が待っている。そしてその前に、もうすぐ学校行事の目玉の一つである「秋の遠足」もある。理英も、本来ならばウキウキと沸き立つような気分になる筈なのだが、今年に限って言えば、実はそうでもなかった。と言うのも、今年の遠足の目的地が、中学生にとってあまり面白味のある場所ではなかったからだ。

 遠足は各学期1回ずつあり、1学期と3学期は小規模なもので、目的地は歩いて行ける範囲内の場所であるが、2学期だけはバスに乗って遠出をする本格的なものなのである。理英たちの学年は、1年生の時は到津遊園地が遠足の目的地であった。

 到津は小倉北区にあり、神功皇后が、三韓征伐から帰還の折、宇美の里で応神天皇を産み、そして長門の豊浦宮への帰途、この地に船を着けたことから「到津」となったと云われている。しかし、高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』に拠ると、西晋の陳寿が書いた中国の歴史書『魏志倭人伝』(『三国志』中の『魏書』第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条)に出てくる、伊都の国の港だったことがその名の由来ではないかということである。

 そして、そこにある到津遊園地は、1932年に西日本鉄道(西鉄)の前身である九州電気軌道によって開園された、動物園と遊園地を併設した公園である。現在は西鉄が運営しており、園内の遊園地施設は、県内随一の規模を誇っている。理英にとってこの時の遠足は、自由時間に様々なアトラクション、特に絶叫マシーンを体験できて楽しい思い出になったが、今年はちょっと様相が異なっていたのである。

 今年の1年生の目的地は、八幡東区の桃園にある「北九州市立宇宙科学館」になっていた。この宇宙科学館は1955年(昭和30年)に八幡駅の3階に開設された「八幡市立児童科学館」を前身としていて、1960年(昭和35年)に桃園公園に開設された「八幡市立児童文化センター」の分館建設を機に、8年後の1968年(昭和43年)に八幡駅の児童科学館が移転統合されてできたものである。1970年(昭和45年)に天文館が増設され、この時プラネタリウムも設置されている。此処の一番の目玉は、何と言ってもこのプラネタリウムであり、それなりに楽しめそうだった。

 そして3年生の目的地は、隣県の下関市長府にある「下関市立下関水族館」だった。下関水族館は、海を挟んだ隣の門司区で、1951年(昭和26年)に開館した個人経営の「和布刈水族館」が成功しているのを見て、1956年(昭和31年)にそれを真似て開館したものである。こちらは市営の水族館だが、クジラを模した捕鯨資料の展示施設「鯨館」や、コウテイペンギンなど動物の一部は、当時下関市に本拠を置いている大洋漁業からの寄贈によるものだったと聞いている。しかしここの一番の目玉は、日本で初めて開催されたと言われている「イルカショー」である。因みに和布刈水族館は、下関水族館にお客さんを奪われたことによる入場者減と、関門橋架橋工事が和布刈地区で着工されたこともあって、1968年(昭和43年)3月31日をもって閉館している。


 これに対して理英たち2年生の目的地は、戸畑区鞘ヶ谷にある北九州市立戸畑美術館であった。なんでもこの遠足の日を含めた1週間の内に、『オランダの巨匠展』という展覧会が開催されるというのが、その選定理由らしかった。そしてこのプランを強力に推したのが、理英たちのクラス担任でもある美術教師の伏見光代だったのである。というのも、この展覧会で展示される作品には、ファン・エイク兄弟、ペーター・ブリューゲル、レンブラント・ファン・レイン、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホらの作品と共に、伏見の大好きなヨハネス・フェルメールの作品が五点も含まれているからであった。伏見が言うには、フェルメールの作品は、「フェルメール・シンジケート」と呼ばれる組織がその貸出し等の一切の移動を牛耳っており、そのせいで滅多に国外へ貸出されることは無いそうなのである。だから五点もの作品が一度に展示されるのは世界的に見ても珍しく、是非生徒たちに見せるべきだというのが伏見の見解であった。

 最初にそれを聞いた時には、理英も一瞬ズッコケそうになった。日本においては、西洋美術、特に絵画とくれば、真っ先に挙げられるのは「後期印象派」の作品群である。ゴッホ・ゴーギャン・セザンヌ・スーラ・マティスといった画家たちが展覧会の主役であり、フェルメールという画家は余りにも地味過ぎた。もちろんそれは日本だけではなく、世界的に見ても、の話である。フェルメールは現在の美術界においては、世界的な基準に照らしても脇役に過ぎないのである。とても単独では展覧会など開ける程の知名度は無かった。事実、1968年に国立西洋美術館と京都市美術館で開かれた「レンブラントとオランダ絵画巨匠展」で、日本に初めてフェルメールの作品がやって来たことがあったが、それは初期の地味な絵である『ディアナとニンフたち』だけであり、しかも殆ど注目されることは無かったのである。尤もこの展覧会は無駄ではなかった。この来日によって日本人の中にも、伏見の様な熱心な「フェルメール信者」を産んでいたのである。しかし伏見に先見の明があったことが分かるのは、もっとずっと先のお話である。


 ヨハネス・フェルメールは、バロック期を代表する17世紀オランダの画家の一人である。彼は「オランダ絵画の黄金時代」に当たる1632年に、オランダ西部の商業都市であるデルフトで生まれた。父親であるレイニール・ヤンスゾーン・フォスの第2子であったという。父親はもともと織物職人であったが、彼が生まれる直前に、デルフトの運河沿いの「空飛ぶ狐亭」という宿屋を経営し始めた。ここが彼の生家となった。そして父親はそれとほぼ同時期に、画家や工芸家の組合ギルドである「聖ルカ組合」に入って、画商としても活動を始めたのである。

 1642年になると、父親はさらにマルクト広場に面した「メーヘレン亭」という宿屋を購入して、そこに家族で移り住んだが、1652年に父親がこの世を去ると、フェルメールがそれらの事業を継承することになった。なお、この時父親が購入した宿屋の名前を覚えておいて欲しい。後に奇妙な偶然の一致が見られるからである。

 当時のデルフトで画家になるためには、デルフトの組合に親方として入らなければならないが、それには著名な画家の下で、6年以上の徒弟修業をしなければならず、当時の徒弟制度に従って十代半ばで修業を始めるのが慣例だった。しかしフェルメールに関しては、誰を師として仰いでいたのかという明確な記録が残っていないのである。彼は父親が亡くなった後、1653年にカタリーナ・ボルネスという女性と結婚し、その年のうちに「聖ルカ組合」に加入してすぐに親方として活動し始めていることから、彼がこの時までに徒弟としての修業を終えていたことは間違いないと推測されるのであるが、その経歴は謎に包まれているのである。いや、この宿屋の主人であったということ以外は、その生涯は謎に包まれていると言って良い。

 ヨハネス・フェルメールといえば、日本では『青いターバンの少女』もしくは『真珠の耳飾りの少女』の名で知られている一枚が最も有名である。『デルフトの眺望』と共に、フェルメールの最高傑作とされている作品である。この作品は描かれている少女の謎めいた雰囲気から、『北方のモナリザ』とも呼ばれている。他の多くのフェルメールの作品とは異なり、この作品には物語性や教訓性といったものは全く無くて、無地の暗い背景に少女の上半身だけが描かれている絵画であるが、トルコ風のターバンを被ったオランダ人少女のか弱く無垢な瞳が、透き通る様な純潔さを醸し出しており、見た者の胸に強烈な印象を残す傑作である。第2次世界大戦中に、狂気と野望に憑りつかれていた筈のヒトラーが、わざわざ自分の山荘の壁に掛けて孤独を癒したと言われている作品なのである。宗教的な絵ではないにもかかわらず、ある種の崇高さが備わっているため、この絵を目にする者は、ヒトラーを含めて皆、心が癒されるのを感じるのである。尤もこの代表作は、残念ながら今回の展覧会の展示作品には入っていないため、伏見も肩を落としていた。今回来日しているのは、『窓辺で手紙を読む女』・『手紙を書く女』・『恋文』・『地理学者』・『天文学者』の五点なのである。

 先程フェルメールの生涯は謎に包まれていると書いたが、それは彼の絵画制作に関しても同じことが言える。フェルメールに関しては、残されたデッサンに至っては皆無と言ってもよく、制作年数や工程の記録も残ってはいない。フェルメールのデッサンが残っていない理由として、彼はデッサンをする代わりに、「カメラ・オブスクーラ」と呼ばれる暗箱を使用していたのではないか、と言われている。カメラ・オブスクーラは暗箱に取り付けられたレンズに光を通過させ、箱の中に斜めに置かれた半透明のスクリーンに画像を結ばせるという、原始的なカメラのことである。これはフェルメールの絵画の持つ、広角レンズで撮影したような遠近感を誇張した構図や、彼の作品の一部でしか認められないが焦点のぼやけたハイライトのタッチ、という特徴から裏付けられると言われている。

 フェルメールの絵画の特徴は、まるで写真の様な写実的な技法と緻密な空間構成、そして光と影を使って巧みに質感を表現している点にある。彼の作品には、日常的な題材を象徴的な美にまで高める能力を感じられ、見る者を引き込まずにはいられない静謐な世界が広がっている。これはフェルメールが、画家として完成度の高い技術を持っていたことを示している。また非常に寡作な画家でもあることから、作品の希少性が高いという特徴がある。異論はあるが、現存する作品点数は世界中に僅かに36点しかないのである。これは、彼の作品がマルク・シャガールやワシリー・カンディンスキーの様に迫害を受けたという訳ではない。彼は43年間の生涯の中でも、50枚程度の絵しか描いていないからである。

 通常、我々一般人が誰か特定の画家を好きになっても、その作品を全て見ようと思ったら、余程の大金持ちででもない限りは、画集やレゾネといった出版物に頼るしか手段は存在しない。と言うのも、著名な画家であれば大抵その作品は世界中に散らばってコレクションされており、中には個人の所有物になってしまったために現在は公開されていない、という物も結構あるからだ。しかしフェルメールの作品は30数点しかないうえに、アメリカを初めとした欧米の先進国8か国の美術館に収蔵され、全て公開されているため、ちょっと長めの休暇を取ることさえできれば、殆どの作品を短期間で鑑賞することが可能なのである。そのため世界の富裕層の中には、フェルメールの全ての絵画を一気に見るために、「全点踏破の旅」と称して短時日のうちに世界中を旅する強者つわものも居るほどである。

 そんな作品群のうち五点が来日して、他のオランダの絵画と一緒に、東京と全国九つの政令指定都市を巡回しており、この北九州市でも約1週間ではあるが展示されることになったのである。というのも、東京と全国の政令指定都市にある10個の美術館が相互に協力してこれらの作品を日本に招いたため、各都市での展示期間は公平を期してそれぞれ1週間しかないのである。万が一この機を逃したら、もう翌週には博多へ行ってしまうことを考えれば、伏見が食指を動かしたのも無理からぬことではあるが、絵画に余り興味の無い理英たち中学生にとっては興醒め以外の何物でもなかった。


 秋の遠足を二日後に控えた日の昼休み、理英は昼食が終わると、仲の良い三人の友人と共に教室の片隅でお喋りに興じていた。

「ピッピ、この遠足はチャンスだよ!」

 不意に前田瞳が理英の耳元で悪魔の様に囁く。

「何が?」

 理英がキョトンとした表情で応じる。

「ブチ君との距離を縮めるチャンスだって言ってるの!」

 瞳の鼻息が荒くなる。

「二人の交際は衆人環視の中でのキスから始まったのに、それ以降全然進展が無いんだもの。話を聞く限りは『健全な交際』の域を一歩も出る気配が無いし、見てるこっちがイライラしちゃう。」

 坪田郁子も瞳に同調して嗾ける。

「こういうことは、そんなに周りが焦ったって、どうしようもないよ。」

 妹背薫はのんびりとした口調で二人を宥める。

「そんなこと言ってたら、卒業するまで何も無いよ。もっと積極的に仕掛けなきゃ!」

 瞳が反駁する。

「でも積極的に仕掛けるって、具体的に何をすれば良いの?」

 理英が問い返す。透かさず瞳が答える。

「まず明後日の遠足で、二人のお昼のお弁当をピッピが作って、一緒に食べるのよ!できたら、『はい、アーン。』ぐらいして食べさせてあげるのよ。」

 それを聞いて理英は驚いた。

「えっ!私、料理はあんまり得意じゃないんだけど・・・」

「何巫山戯たこと言ってんの?一応家庭科の成績も、小学校の時からずっと5だったじゃん。」

「それはペーパーテストの影響が大きいと思うよ。」

 理英が事も無げに自己分析を披歴する。しかし瞳は許してくれない。

「とにかく、まずはブチ君の胃袋を掴むところから始めようよ。」

 瞳はそう言いながら、理英のお腹に向かってストマック・クローを仕掛ける様な仕草をした。理英はその手を払い除けながら、

「でも私、自分のお弁当も作ったこと無いんだよ。ブチ君、食べてくれるかなぁ?」

と、不安を口にした。

「食べてくれるに決まってるでしょう!愛しい彼女が作ってくれたお弁当なら、例え不味くても『美味しい』って言ってくれるって。」

 瞳が断言した。

「ちょっと、最初っから不味いって決めつけないでよ!傷つくなぁ・・・」

 理英が抗議の声を上げる。

「分かった、分かった。私たちが一緒にお弁当のおかずを考えてあげるから、剥れないでよ。」

 瞳が慌てて理英を宥め始めた。

「ブチ君のおかずの好き嫌いは知ってる?」

 今度は薫が尋ねる。

「あんまり好き嫌いは無いって言ってたけどなぁ。ただ、・・・」

「ただ、何?」

 郁子が理英の言葉尻に素早く反応する。

「食べる物のことになると、北大路魯山人になるって言ってた。」

「北大路魯山人?誰、それ?」

 不思議そうな声で郁子が問い返す。

「明治から昭和にかけての芸術家で、料理家や美食家としても知られてる人なんだって。」

と、理英が掻い摘んで説明する。

「へ~え、初めて聞いた。」

 郁子が感心しながら言う。

「あっ!その人知ってる!確かフランスへ旅行した時に、パリの『トゥール・ダルジャン』で名物の鴨料理を食べたんだけど、『鴨の血のソースが料理に合わない』って言い出して、持参した山葵醤油で食べた人だよ。」

 料理の得意な薫が意外な知識を披露する。

「へぇ~、そうなんだ!」

 三人とも呆れた様な声を上げる。

「それにレストランや料理屋で不味いものを出すと、『主を呼べいっ!』って言って、シェフや花板さんを自分の席まで呼びつけて、叱り飛ばしてたんだって。」

「うっそ~!」

「本当だって!」

「ふ~ん、それってブチ君は味に煩いってことよね。よし、今日の放課後はピッピの家に集合!作戦会議を開くわよ!」

 瞳がそう宣言したところで、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。


 その日の放課後になると、理英たち四人は理英の家のキッチンに集まった。母親の早苗は隣のダイニングから意外そうな顔つきで四人の様子を窺っていた。四人は理英の家の冷蔵庫の中身を物色すると、弁当のおかずについて話し始めた。

「さて、お弁当のおかずは何にしようか?」

 早速、瞳が口火を切る。

「衛生面を考えれば、火を通した物が良いのよね。」

 郁子が応じる。

「でも、栄養のバランスも考えないと・・・」

 薫も発言する。

「やっぱり、見た目の美しさが一番なんじゃない?」

 理英も加わる。

「じゃあ取り敢えず、卵料理・肉料理・魚料理・野菜料理の順で候補を挙げていこう!その上で見た目や栄養の面も含めて選ぼうよ。」

と、薫が大まかな流れを提案する。

「そうねぇ、まず卵料理は何にする?」

 郁子が呟く。

「とは言っても、私は茹で卵か卵焼きしか作れないわよ。」

と、理英が答える。

「選択肢が狭いなぁ~。」

 瞳が呆れた様な声を出す。

「でも、まあ、それはしょうがないよ。どっちかにしよう!それに卵焼きなら、うなたま(う巻き)や明太卵焼きにすればポイント稼げるし・・・」

 見兼ねた薫が助け舟を出す。

「だったら、茹で卵の方が良いかな。」

 理英が答える。

「どうして?」

「だって、当日の朝、時間が限られている中で作らなくちゃいけないんでしょう?それなら、失敗の少ない茹で卵の方が良いわよ。前日から作り置きできるし。」

「でもなあ、茹で卵より卵焼きの方がポイントは高いと思うよ?それに黄色い色がおかずに花を添えるし。」

 郁子が反論する。

「じゃあ、茹で卵の黄身をマヨネーズと和えてから、白身に戻してみたらどうかな?その脇にブロッコリーを添えたら、見た目も良いと思うよ。」

 薫が新たな提案をする。

「それ、良いかも。単に茹で卵を入れるよりも、工夫した分、きっとポイント高いよ!」

 郁子が同調する。

「それじゃ、次は肉料理ね。メニューとしては、鶏の唐揚げ、ハンバーグ、コロッケ、メンチカツ、ミートボール、タコさんウィンナー、こんなところかしらね?」

「あっ、それならハンバーグが良いんじゃないかな?ブチ君も好きって言ってたし・・・」

 理英が応じる。

「でも、ハンバーグだけって訳にもいかないでしょ?見た目が茶色一色になっちゃう。同じ挽肉料理なら、ピーマンの挽肉包み揚げにしてみない?それにタコさんウィンナーでも付けてさ。」

 薫が理英の意見に修正を加える。

「ブチ君、ピーマンは大丈夫なの?」

 ピーマン嫌いの瞳が尋ねる。

「前にも言ったけど、野蛮人だから好き嫌い無く何でも食べるって、ブチ君のお母さんも言ってた。」

 理英が答える。

「好き嫌いが無いと、こういう時楽よねぇ。」

 瞳が率直な感想を口にした。

「でも緑色のおかずは、もうブロッコリーがあるよ?」

 郁子が疑問を呈する。

「じゃあ、包むのを緑色のピーマンだけじゃなくて、赤や黄色のパプリカにしてみたら?」

 薫がさらに修正を加える。

「あっ、それなら見栄えがするわね。」

「よし、決定っ!」

「じゃあ、次。魚料理はどうする?」

「蟹クリームコロッケとか、烏賊リングとか、秋刀魚の竜田揚げとか、ちくわの磯部揚げとか?」

 郁子が揚げ物の候補を挙げてみる。

「焼き鮭や焼きたらこなら、ピンク色が綺麗だよ。」

 薫も本腰で議論に加わる。

「ブチ君なら、揚げ物とどっちが喜びそう?」

 瞳が理英に尋ねる。

「う~ん、おせち料理では『有頭海老の旨煮』が好きだって聞いたことがあるけど・・・」

 理英が記憶の糸を手繰り寄せながら答える。

「じゃ海老フライにしよっか?尻尾の赤い色が彩りを添えるわよ。」

 瞳が結論を出す。

「それじゃ、次は野菜料理ね。ブロッコリーを使うのは決まったから、後はどうしよっか?」

 郁子が訊く。

「手軽に作れるものなら、ミックス・ベジタブルを使ってみたらどうかなぁ?三色で綺麗だし。」

 薫が提案する。

「ブチ君もミックス・ベジタブルを塩・胡椒で炒めたものが好きだって言ってたから、それで良いんじゃない?」

 理英が薫の意見に乗っかる。

「それじゃあ、後は作り置きができる『南瓜の胡麻和え』でも入れない?オレンジ色が綺麗だよ!」

「私はナポリタンとかマカロニサラダを考えていたんだけど・・・」

 薫と郁子が各々意見を述べる。

「それなら、ポテトサラダにしようっ!ブチ君が好きだって言ってたもん!」

 理英が即決する。

「じゃ、それで決まりね。最後にご飯はどうしよう?白いご飯じゃあ芸が無いよね。」

 瞳が意見を述べる。

「真ん中に梅干しを入れてみる?それとも永谷園のふりかけでも使ってみようか?」

 郁子が意見を出す。

「そんじゃ、鶏そぼろごはんにでもしない?東筑軒の『かしわめし』みたいに、錦糸卵や刻み海苔も載せてさっ!」

 薫が楽しそうに言う。

「いいねっ、それ!名案だよ!」

 瞳がそう褒めると、薫ははにかみ乍ら笑った。遠足に持っていくお弁当の中身は、これでほぼ決まりである。この日は、明日の下校途中にスーパーマーケットで食材を買ってから、もう一度ここに集まることで衆議一決して解散となった。


 翌日、登校すると理英は直ぐに永渕の席まで行って、明日の遠足にはお弁当を持って来ないようにお願いをした。永渕は怪訝そうな表情を浮かべたが、薄々感付いたのか直ぐに了解してくれた。瞳たちはサプライズのつもりで計画を練っていたから、突っ込んだ質問をされて口を滑らせたらどうしようと懸念していたが、意外とすんなり事が運んだので、理英は少々拍子抜けしてしまった。


 その日の6時限目の授業が終わると、遠足の前日ということもあり、放課後の終礼では担任の伏見から遠足及び美術館内での注意事項と、遠足の目的について詳細な説明があった。その言葉の端々から、伏見のフェルメールに対する熱意を感じ取ることができたが、伏見が熱くなればなるほど、逆に生徒たちは醒めてしまっていた。伏見は生徒達のそういう反応にもめげずに、遠足が終わった後は道草を食わずに真っ直ぐ家へ帰るように注意すると、「家に帰り着くまでが遠足です。」の決め科白で終礼を締め括った。

 終礼が終わると、いつもなら直ぐに教室を出て職員室へ向かう伏見なのだが、今日に限ってそのまま教室に居残った。そして理英と目が合うと、真っ直ぐにやって来て話し掛けた。

「寛永寺さん、ちょっとお願いがあるんだけど・・・」

「何でしょう、先生?」

「実は椿さんのことなのよ。」

「椿さんの・・・?」

「本来ならば、こんなことは今学期の学級委員である中村さんに頼むべきことなんだけど・・・」

 そう言うと伏見は言いにくそうに口籠ってしまった。そこで理英は助け舟を出すことにした。

「まあ、1学期は私が学級委員でしたから、別に構いませんが。」

 その科白を聞くと伏見はホッとしたのか、続きを喋り出した。

「このクラスに限らず女の子はみんな仲の良い友達とグループをも作るものなのだけれど、明日の遠足で椿さんを貴方たちのグループの中に入れてあげて欲しいのよ。」

「ああっ、そういうことですか!」

 確かに2年9組に限らず、同年代の女の子達はみんな気の合う仲間と仲良しグループを作っていて、このクラスには六つのグループが存在している。理英のいるグループは、成績も趣味嗜好も同じとは言い難いが、キャアキャアと騒ぐのが好きな女の子4人で形成されていた。理英の他は妹背薫・前田瞳・坪田郁子の四人で、全員が藤が丘小学校の卒業生である。2学期の学級委員である中村聖子のいるグループは、竹田麗子・古賀恵梨香・嵯峨美由紀の四人で、比較的勉強のできるいわゆる優等生グループだった。他に、秦弓恵が中心になっている浅野春美・谷垣典子・渡辺光代のオシャレと宝塚歌劇団が好きなグループと、三波笑子が中心になっている城戸雅子・新庄茜・安田智花のスポーツ少女のグループ、誰がリーダーか判らない尾崎京子・久保田恵美・摂津美恵子・米田真美のグループは大人しい子のグループ、内海敦子が中心になっている本村靖子・堀内真由美のお喋りと噂話が好きな子の井戸端会議グループが存在した。

 伏見の言う通り本来ならばこういうことは、2学期の女子の学級委員を務める中村聖子に頼んで、彼女のグループに入れてもらうのが筋なのであろうが、このグループは出来の良い子が多いうえ、嵯峨を除けばみんな椿美智子とは異なる内裏東小学校の卒業生なのだ。中には椿と口をきいたこともない子も居る。そんなグループに椿を入れてもらっても、浮いてしまって彼女が疎外感を感じるだけだろうという伏見なりの配慮なのだ。

 唯一3人組の内海敦子のグループに入れてしまえば人数的にも帳尻が合って良さそうだったが、このグループは本村靖子と堀内真由美が底意地の悪い行動をとることが知られていたため、伏見も椿が虐められる可能性を懸念して回避したのであろう。理英には伏見が考えていることが、手に取るように分かった。

 その点、理英のグループはみんなが椿と同じ藤が丘小学校の卒業生であるため、全員過去に何処かしらで接点があり、虐められる心配は無いだろうと伏見は判断したのである。しかし二つ返事でこの依頼を引き受けることを約束したのは、頼まれた当の本人である理英ではなかった。

「分かりましたっ!ミッチーのことは任せてくださいっ!」

 そう言って返事をしたのは、瞳たちだった。不意に背後から飛んできた元気のいい声に反応して、

「みんな、本当に良いの?」

と、振り向きざまに驚いた表情で理英が尋ねる。

「グループを作るにしても、バスの座席はどうすんの?殆どが二人掛け用のシートだよ?最後尾は5人掛けだけど、きっと男子が占領するよ。」

「だから良いんじゃない?」

 平然と瞳が答える。

「そう、そう。人数合わせのために、ピッピはブチ君と同じ座席に座ってね。」

 郁子も同調する。どうやら理英の退路を断つ作戦のようである。

「ブチ君には私たちが話をつけとくからっ!」

 そう言うと瞳たちは悪戯っぽい笑みを浮かべた。


 そして放課後、4人は町で一番大きなスーパーマーケットである「丸和」に寄ってから、再び理英の家のキッチンに集まった。先ほど買って来た食材を取り出して、薫の指揮の下で直ぐに調理に取り掛かると、悪戦苦闘しながらも、何とか下拵えを終わらせ、明朝理英が手短に仕上げをすれば良いところまで持って行った。この日3人が理英の家を出たのは、夕方6時を回ってからで、周囲は薄暗くなりかけていた。


 遠足の当日、空はいつもの様に澄んで晴れ渡っていた。見上げた空は抜けるように青く高く、無数の鰯雲が泳いでいた。絶好の遠足日和である。普段より1時間以上早く起きた理英は、手早くお弁当の仕上げを済ませて弁当箱に詰め、二人分のお弁当をリュックサックに入れると、いつもより早い時間に家を出て行った。心地良い秋の透明な風が吹き抜けると、自然と足取りも軽くなり早足になっていた。下ろし立ての白地に赤いラインの入ったスニーカーが、軽やかに通学路を駆け抜ける。「ブチ君、喜んでくれるかな?」そう思いながら、お弁当を手渡した時のことを想像すると、ドキドキしながらも何時の間にか表情が緩んでいたらしい。登校の途中で出会った級友達からその顔を見られて、

「ピッピ、何か良いことでもあったの?」

と、何度も訊かれてしまった。


「じゃあブチ君、今日はピッピのこと宜しくねっ。」

 行きのバスに乗り込む直前、瞳は永渕にそう言うと、理英の背中をドンっと押して二人をくっ付けた。永渕は抱きしめる様な格好で体勢を崩した理英の身体を支えたため、制服越しに理英の体温を感じて慌ててしまい、

「う、うん、分かったよ。」

と、どもりながら返事をした。瞳たちはその返事を確認すると、ニヤニヤと笑いながらさっさとバスに乗り込んでしまった。理英の身体を預けられた永渕も、一旦身体を離して理英の体勢を立て直すと、

「じゃあ、僕たちも入ろうか。」

と言うなり、理英の手を取ってバスに乗り込む様に促した。理英も過度に意識してしまったせいか、頬を染めながら、

「うん。」

と短い返事をすると黙って永渕の後に続いた。


 車内にはBGMとしてカーラジオから『巴里の屋根の下(Sous les toits de Paris)』が流れていた。1930年に制作・公開されたルネ・クレール監督のフランス映画で使われた、ラウール・モレッティ作曲の主題歌である。理英はバスに乗り込んで永渕と同じシートに座ったまでは良かったのだが、どうも瞳たちだけではなく、クラス中の視線がこのシートに集まっている様な居心地の悪さを感じてしまった。臨海学校の帰りのバスで同じ席に座った時には、みんな遊び疲れてグッタリしていたため、これほど好奇の目に晒されることは無かったのである。それに、バスで永渕の隣に座るのは初めてではなかったが、やはり瞳たちに散々煽られていたので、理英の方も少し照れ臭いという事情もあった。そこで、本当は色々と話したいことがあったのだが、まずは差し障りの無い話から始めることにした。


「これから美術館に向かうんだけれど、ブチ君には好きな画家っているの?」

「うん、いるよ。洋画家なら『波』を描いたギュスターヴ・クールベや『ピレネーの城』を描いたルネ・マグリットが大好きだよ。日本画なら断然、『富岳三十六景』の葛飾北斎だね。」


 ギュスターヴ・クールベは、フランスの写実主義の画家で、スイスとの国境に近いフランシュ・コンテ地方の山村であるオルナンの出身である。クールベは1855年のパリ万国博覧会の際に、『オルナンの埋葬』と『画家のアトリエ』の出展しようとしたが拒否されたため、万博会場のすぐ近くの建物を借りて、「ギュスターヴ・クールベ作品展」を開き、自らの作品を発表したことで有名である。これが美術史上、初の個展となったからである。当時の画家には、サロンでしか自分の作品を発表することができなかったため、このクールベの試みは評判となり、後に続く画家が続出したのである。

 クールベの『波』は、ノルマンディー地方の町エトルタに滞在した折に見た、移ろい行く空模様の中で荒れ狂う嵐と穏やかな波、そして白亜の断崖と薄明かりを題材にして描いた作品である。クールベはこの作品で、平穏な生活がかき乱されるような不吉な雰囲気と、自然の持つ荒々しい力を描いたのである。

 これに対して、ルネ・マグリットはベルギーのレシーヌ出身の画家で、シュールレアリスムの作品を残している。彼の作品では描かれている対象は明確に描写され、筆触が殆んど残らない古典的な描き方をしていて、丁寧な仕上げを施しているのが特徴である。

 マグリットの『ピレネーの城』は、青い大海原の上に、巨岩が浮かんでいるという、本来ならば有り得ない景色を描いた作品である。青空と白い雲が作り出す明るい背景とは対照的に、重量感のある岩肌が空中に描かれていて、その上に城が建っているのである。ひょっとしたら、ジョナサン・スウィフトの記す『ガリバー旅行記』に出てくる「ラピュタ」とは、こんな天空の城なのかもしれない、と思わせるほどの迫力で見る者に迫って来る作品である。


「へぇ~っ!でも洋画家のその二人、描く絵はずいぶん違うんじゃない?」

「確かにクールベは写実主義だし、マグリットはシュールレアリズムだから一見違うように見えるけれど、どちらもデッサンのしっかりした絵を描くじゃない?僕は、デッサンがしっかりした画家が好きなんだ。」

「ふ~ん。」

「そういう君は誰か好きな画家がいるの?」

「私は『裸のマハ』を描いたフランシスコ・デ・ゴヤが好きかな。あと画家というよりイラストレーターと言った方が良いのかもしれないけど、竹久夢二やいわさきちひろの描く絵が好きだな。」


 フランシスコ・デ・ゴヤはディエゴ・ベラスケスと並んで、スペインを代表する宮廷画家である。1746年にスペイン北東部にあるサラゴサ近郊のフエンデトードスに生まれている。代表作には『裸のマハ』・『着衣のマハ』の他に、『マドリード、1808年5月3日』や『わが子を食らうサトゥルヌス』がある。

 竹久夢二は明治から昭和にかけて活躍した、「大正浪漫」を代表する日本の画家であるが、理英が言うように、どちらかと言えばイメージ的には今で言うイラストレーターに近い存在である。数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれている。代表作には『黒船屋』や『夢見る女』があり、父親が八幡製鉄に勤めていた関係で本人も枝光に住んでいたことがあるという、北九州市とは縁の深い人物である。

 いわさきちひろは、2年前に亡くなってしまったが、子供の水彩画に代表される日本の女流画家であり、絵本作家でもある。自分と同じ左利きであることから、理英は一方的に親近感を感じていた。彼女は、弁護士でもある日本共産党の衆議院議員である松本善明氏の妻、という顔も持っていた。日本共産党の演説の中に出てくるヒューマニズム思想に深い感銘を受けて共感したことで活動に加わり、知り合ったということである。


「へ~え、そうなんだ。イラストレーターで良いんだったら、僕はアルフォンス・ミュシャが好きだな。特に『四芸術』の『舞踏』は最高だね!」


 アルフォンス・ミュシャはチェコ出身の、アール・ヌーボーを代表する画家である。しかし多くのポスターや装飾パネルやカレンダー等を制作していることから、彼も今では画家と言うよりも、グラフィックデザイナーもしくはイラストレーターと言った方がしっくりくる人物である。代表作としては、『ジスモンダ』や『黄道十二宮』があるが、当時のフランス演劇界の女王として君臨していたサラ・ベルナールをモデルにしたものが多く、他にも『椿姫』、『メディア』、『ラ・プリュム』、『トスカ』などがある。

 『四芸術』はリトグラフの作品群で、『絵画』・『音楽』・『舞踏』・『詩』の四作品からなっている。描かれたそれぞれの女性のポーズと花によって、『絵画』では色彩、『音楽』では音、『舞踏』では踊り、『詩』では思索、という風に芸術の特性を表現している作品群である。特に『舞踏』は、流れるような髪の美女が、光の中で優雅に舞っている一瞬の姿を、太く明瞭な輪郭線で描き、華やかで繊細な装飾を施している1枚であり、四つの中でも特に人気が高いのである。


「あっ!でも、エドガー・ドガの『ドビニ嬢』は別格で好きかな?」

「どうして?」

 永渕がその理由を尋ねる。

「若い女性の横顔を描いた肖像画なんだけど、よく私に似てるって言われるの!」

「そう?確かにピッピは少し日本人離れした顔立ちをしてるけれど、正面からならば兎も角、横顔で良いのなら、僕は君の横顔は陸奥亮子に似てると思うよ。」

「陸奥亮子って誰っ?」

 自分以外の女性の名前が出たことで、急に理英が気色ばむ。発する語気が刺々しい。

「明治時代の女性で、不平等条約の治外法権を撤廃させた外務大臣、陸奥宗光の奥さんだよ。」

 その回答に安心したのか、理英の声のトーンも穏やかなものになった。

「ふ~ん、今度調べてみるね。」


 そういったあまり意味があるとは思えない他愛の無い話から二人の会話は始まったが、何時の間にか理英も永渕もお喋りにのめり込んでいた。しかしその楽しい時間もあまり長くは続かなかった。突然、皆で歌を歌うことになってしまい、マイクを回し始めたのである。

 車内のBGMは、『パリの空の下(Sous le ciel de Paris)』というユベール・ジロー作曲のシャンソンに変わっていた。これはパリ200年祭を記念して作られた、1951年のジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画『巴里の空の下セーヌは流れる(Sous le ciel de Paris)』の挿入歌でもあり、リーヌ・ルノーが歌った曲であるが、残念なことに途中で切られてしまった。

 前の座席に座っている生徒から順番にア・カペラで1曲ずつ歌うことになったが、理英たちの座っている座席は前の方だったので、直ぐにマイクが回って来てしまった。この年頃の男の子は変声期を迎えるため、高音が出難くなって音域が狭くなるので、歌を歌うのを嫌がる子が多いのである。そしてそれは永渕も同じであったようで、直ぐに険しい顔つきになってしまった。こういう場合には、誰かが歌っていると必ず、

 「音痴!」

とか、

 「糠味噌が腐る!」

等という野次が飛んで揶揄われるのが常であったからである。

 前の席に座っている生徒から順番で、岩崎宏美の『ファンタジー』、イルカの『なごり雪』、森田公一とトップギャランの『青春時代』、バンバンの『「いちご白書」をもう一度』ときたところで、理英たちにマイクが回って来た。前の座席に座っていた梅田秀樹が振り向いて永渕にマイクを手渡したが、永渕が歌い出したのは思いもよらぬ曲だった。


 永渕は聞き覚えのある出だしのフレーズを4回繰り返した後、

「♪ トワ ヴィザベコワ エパートゥワアモバ ジャメソンシサン ・・・」

と続けて歌い出したのである。(少なくとも理英にはそう聞こえた。)それを耳にした理英は直ぐに、

「ミッシェル・ポルナレフの『シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma chérie)』だ!」

と気付いたが、この曲が日本で流行ったのは理英たちが小学校3年生の頃だったので、覚えている同級生がどれだけ居るのかは不明だったが、野次を封じるという意味では、この作戦は有効であったと言えるかもしれない。誰も原曲を覚えておらず、本来はどんな歌なのかも分からなかったため、野次を飛ばせなかったのである。

 しかしよくよく考えてみると、永渕はフランス語を知っている訳ではない。つまり彼はこの歌詞を、耳から入ってきた、意味の無い単なる音の羅列として覚えているだけなのだ。意味の無い数字や文字の羅列を覚えるというのは、意外に難しいということは理英も知っている。だとしたら永渕の記憶力は恐るべきものなのではないか、ということに思い至った時、唐突に『キイハンター』で大川栄子演じるコミカルな美女、「記憶の天才」谷口ユミが頭の中に思い浮かんだ。いつも永渕は自分と理英と比較して卑下しているようだが、本人は意識していないものの、実は意外な才能を持っているのかもしれないと思った。


 理英がこの曲を覚えていたのは、大学でフランス語が第2外国語だった父の猛から、邦題の『シェリーに口づけ』と言うのはとんでもない誤訳だ、と教えられていたおかげである。多分これは「シェリー」を「シェリー酒」か、または英語の女性名である「Sherry」と勘違いしたのではないかと、猛が口にするのを聞いていたのである。猛が言うには、フランス語で「シェリー (chérie)」というのは「愛しい人」という意味であり、英語で言えば「ダーリン (darling)」に該当するのだそうである。だからフランス語の原題を正しく訳すと、「愛しい君に全てを捧げる」という意味になる、と猛は二人の娘を前にして握り拳で力説したことがあったのである。因みにこの時、同時に理英が大好きだった大和和紀の漫画『モンシェリCoCo(mon cherie CoCo)』も正しいフランス語ではなく、『マシェリCoCo(ma chérie CoCo)』と表記するのが正しいのだと教えられた記憶もある。

 この時の記憶が俄かに甦ったため、永渕からマイクを受け取ると、理英は少しはにかみながらも、中島まゆこの『モンシェリココ』を歌うことにした。そして無事歌い終えると、後ろの座席に座っている瞳と郁子にマイクを手渡した。瞳はマイクを受け取ると直ぐに、松本ちえこの『恋人試験』を歌い出した。


 実は今朝から理英の頭の中では、エンドレスである曲が流れ続けていた。それは理英が「展覧会」と聞いて真っ先に思い浮かんだ、ムソルグスキーの『展覧会の絵』の中の一曲だった。

 モデスト・ムソルグスキーは、ミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフと共に、19世紀後半のロシア帝国で民族主義的な芸術音楽の創造を志向した作曲家集団「ロシア五人組」の一人であり、代表作として管弦楽曲『禿山の一夜』やピアノ組曲『展覧会の絵』が知られている。

 とは言っても理英自身は、ムソルグスキーの曲はこの二つしか知らないし、ボロディンは歌劇『イーゴリ公』の中の『韃靼人の踊り』のみ、リムスキー=コルサコフは交響組曲『シェヘラザード』と『熊蜂の飛行』しか聞いたことがない。バラキレフとキュイに至っては、もう何も知らないと言った方が良い状態である。そして今朝から理英の頭の中でエンドレスで鳴り続けていたのは『展覧会の絵』の中の一曲で、それは「リモージュの市場」でも「バーバ・ヤーガの小屋」でもなく、「キエフの大門」であった。しかし永渕がフランス語で『シェリーに口づけ』を歌ったせいで、そのメロディーも何時の間にか雲散霧消してしまった。


 尤も当の永渕はと言えば、自分が歌っている時に野次を飛ばされるのを嫌がっていたくせに、その後一度だけだが、誰かがフォーク・クルセイダーズの『イムジン河(臨津江)』を歌っている最中に、2番のサビの部分で

「それはトルーマンと毛沢東だろっ!」

と野次を飛ばしていた。気になった理英が後で、

「李承晩と金日成じゃないの?」

と訊いてみたところ、

「その二人は単なる操り人形でしょっ!それに韓国人の多くは、理不尽にも日本のせいだと思い込んでるんだから。」

という答えが返ってきた。


 バスの中ではまだ級友たちの歌が続いている。後ろの席の郁子が太田裕美の『赤いハイヒール』を歌っている最中だったが、理英は構わずに永渕に話し掛けた。

「ねえねえ、伏見先生はフェルメールに随分ご執心の様だけど、一体どういう絵を描く人なの?」

 理英の問い掛けに永渕は、フェルメールの略歴などを搔い摘んで説明した後で、こう続けた。

「そうだねぇ。僕たち日本人が西洋美術を理解しようと思ったら、幾つかのハードルがあるってことは分かる?」

「それは作品が描かれた背景や動機ってこと?」

「うん、そうだよ。」

「だったら、文化の違いを何処まで理解しているかってことじゃない?」

「そうだね。詳しく言えば文化・伝統・慣習・歴史ってのが挙げられると思うけれど、真っ先に挙げられるのは宗教だろうね。」

「それって、キリスト教に対する理解が求められるってこと?」

「それが最大のものだと思うけれど、それ以外にもギリシア神話・ローマ神話・北欧神話・ケルト神話・スラブ神話・バルト神話なんかがあるよね。あと、アーサー王伝説なんかも入ってくることがあるんじゃないかな。」

「結構いろいろあるのね。」

「ところが、フェルメールの殆どの作品の題材には、ごく初期のものを除くと、そういった宗教色が無いんだ。当時のヨーロッパでのごくありふれた日常的な光景を描いているんだよ。」

「そっか、西洋の文化を理解してない私たちにとってはハードルが低いんだ!」

「そういうことっ!」

「じゃあこれから行く展覧会は、私たちのような初心者を考慮したうえで開かれたものなのかしら?」

「それは違うと思うよ。」

 永渕は理英の発言をあっさりと否定した。

「どうしてそう思うの?」

「展覧会を開いている戸畑美術館の館長さんには、そういった素養が無いようなんだ。だから良い噂も聞かないし、あまり期待していないんだ。」

「どういうこと?噂って何?」

「現在の北山祐樹という館長は、学芸員キュレーターの資格を持つという触れ込みなんだけど、美術館の運営が非常にワンマンらしいんだ。だから、その強引な運営手法に反感を抱く者も多いらしくて、就任以来多くのベテラン学芸員が美術館を去ってるんだよ。」

「本当っ?ところで、さっきから口にしてる学芸員って何?」

「学芸員っていうのは日本の博物館法で定められた、博物館や美術館で働く専門の職員のことだよ。学芸員の職に就くためには、国家資格を取らなくちゃいけないんだ。欧米の博物館や美術館なんかでは、職種としてキュレーター(curator)って呼んでいるね。日本ではそれを学芸員って訳してるんだ。」

「ふ~ん。」

「ところが今、市民の間で密かに流布している有名なエピソードがあるんだよ。以前、澁澤龍彥に関する展覧会を企画した学芸員が居たらしいんだけど、この館長は『誰、それ?』と一言発しただけで、その提案書を碌に見もせず却下したらしいんだ。」

「ええっ?澁澤龍彥なら、私でも知ってるわ!確かフランス文学者で、『悪徳の栄え』を翻訳してマルキ・ド・サドを日本に紹介した人よね?裁判になっていたもの!それに球体関節人形に関しても名前を聞いたことがあるわ。」

「でしょっ?中学生でも知ってるような人物を知らないんだから。それ以来、美術館の学芸員たちだけではなく、噂を漏れ聞いた一般の市民まで北山館長を馬鹿にした様な目で見てるらしいよ。」

 客観的に見れば、永渕も理英も一般的な中学生の知的レベルを遥かに凌駕しているのであるが、永渕はそういうことには斟酌せずに斬って捨てた。

「な~るほど。それでか~っ!」

「どう、納得した?」

「うん、納得できたわ。」


 暫くするとバスの運転手から、もうすぐ目的地に到着する旨の連絡があったため、伏見は生徒たちに歌を止めるように指示を出した。途中で調子に乗った男子生徒が一人、北原ミレイの『ざんげの値打ちもない』を歌い出したため、このバスに同乗していた副担任である国語教師の吉原秀之が、歌の途中でその生徒に拳骨をハメたのを除けば、バスの中では終始和やかな時間が過ぎていた。

 やがて理英たちを乗せたバスの群れは、次々に北九州市立戸畑美術館が建つ敷地の駐車場に入って来ると、着いたバスから順番に生徒たちを下ろしていった。つまり2年1組から順番にバスを降りて、美術館の建物の中に誘導されて入って行ったのである。当然、理英たちのクラスは殿ということになる。

 この北九州市立戸畑美術館の建物は、磯崎新という著名な建築家の手になる作品で、聖堂カテドラルをイメージして設計されている。人口百万人以上を抱える政令指定都市とはいえ、北九州市の様な地方都市には少々不釣り合いなほど荘厳な建物で、その威容は訪れた理英たちを圧倒した。美術館の入口を通過して館内へと入ったセーラ服と詰襟の集団は、それぞれ思い思いの級友たちと一緒に列を作って見学を始めていった。

 伏見が先頭で理英たちが乗っているバスから降りると、直ぐに品の良い中年男性が相好を崩して駆け寄って来て、揉み手をせんばかりに慇懃な挨拶をした。この人物が先ほどの二人の会話で話題に上った北山館長で、大勢の来館者を引き連れて来てくれたことへのお礼に来たようだった。実は、北九州市にはありがたくない二つ名が幾つか存在している。「文化果つる街」というのも、その一つである。それは、この展覧会が美術関係者の間で話題になっているにも関わらず、ここ北九州市では展覧会開催中の来館者数が少なく、館内が閑散としていたことからも首肯できた。今回の展示物がこの地に来るまでの間、各地でそれを使った展覧会が開催されて盛況だったという評判も、理英にはまるで嘘の様に感じられた。


 この特別展覧会は、実行委員会の役員でもあった北山館長の肝煎りで、展示する絵画の貸出交渉にも海外の美術館との人脈を使って、一役買ったそうである。理英が永渕の話を聞く限りでは、各美術館とのコネクションの構築といった方面での手腕は長けているようではあるが、その反面、美術品そのものに対する思い入れはさほど感じられなかった。

 また、海外の美術館から絵画を貸し出してもらって展覧会を開催するのには、海外の美術館との人脈だけではなく、結構なお金が掛かるのである。必要最低限の経費だけを考えてみても、絵画の賃貸料・輸送費や損害保険料の他に、展示会場の施設使用料やその運営費、そして展覧会の広告宣伝費がある。万が一のために損害保険を掛けるにあたって、航空機には1機あたり保険評価額で200億円までしか積載できないことになっているため、数機に分けて積む必要があり、輸送費も馬鹿にならないのである。

 永渕の言に拠れば、恐らくそれ以上の金額の物を積むことになれば、イギリスのロイズ保険組合が再保険を引き受けてくれないのだろう、とのことである。三億円事件を契機に、再保険という制度が周知されてきたことによる影響であった。そういう場面でも、北山の実務能力は遺憾なく発揮されたようであった。

 さらに日本での展覧会開催となれば、入場料やパンフレット等の関連商品の売上げだけでは賄えないので、テレビ局や新聞社とタイアップして別途に収入を確保する必要も出てくる。そういった資金調達の部分でも、北山館長の果たした役割は大きかったようなのである。北山にしてみれば、自分が大きな役目を担った展覧会が地元でコケるのは、何としても回避したい所なのであろう。


 理英たちのクラスの生徒たちも美術館の入口を潜ると、各グループでまとまりながら列を作って、展示された作品を順番に見て回り始めた。

「ねえブチ君、一緒に見て回ろっ!」

 理英は建物の中に入ると直ぐに、永渕にそう声を掛けて制服の肘の部分に、絆創膏だらけの左手の指先を隠すように腕を絡めると、セーラー服の紺色のプリーツスカートを翻して見学者の列の最後尾へグイグイと引っ張って行った。

「いや、そんなに引っ張らなくても、僕は元から君と一緒に回るつもりだよ!」

 永渕は周囲の目を気にしているのか、頬を染めて返事をした。


 『オランダの巨匠展』はこの美術館の特別企画展となっていて、常設展示の見学コースとは別に、特別展示用の順路が設けられていた。今回理英たち殿上中学校の生徒たちは、特別展示を見終わった後に昼食を摂って、常設展示も見学する予定である。特別企画展の会場は、フロアを細長い螺旋状に仕切って順路にし、数メートルおきに左右交互に作品が展示されていた。順路は照明が薄暗く調節されており、展示している作品だけに上下左右の斜めからライトが当たって、闇の中に浮き上がって見えるようになっていた。そして順路の入口には、この特別企画展開催の趣旨と、展示物の年代的な流れなどに関する解説が案内板に記されていた。

「ねえ、ブチ君!『後期印象派』って、『印象派』とは何がどう違うの?」

 案内板を読んだ理英が、直ぐに頭に浮かんだ疑問を口にする。

「『印象派』っていう呼び名は、クロード・モネの作品『印象・日の出』に由来するんだ。19世紀後半のフランスに端を発した、絵画を中心とした芸術運動をした芸術家たちのことなんだ。」

「へえ~。それって、どういうものなの?」

「つまり印象派の画家たちは、実際に見えたものをそのまま忠実に描こうとしたんだよ。物の形よりも光の変化や空気感なんかの一瞬の印象を再現することが目的だったんだ。それから描く題材も、当時は低俗とされていた風景画や静物画、特に農民や一般市民や普通の街並みを描いたものが多いんだ。」

「なるほど~っ!でも、どうしてそうなったの?」

「一つには、海を渡った日本の浮世絵の影響が大きいって言われているけど、もう一つカメラの発明も大きかったんじゃないかなぁ。」

「そっか~!ありのままに写し取るだけなら、写真を撮れば良いんだもんね。ところで、印象派にはどんな画家たちが参加していたの?」

「そうだねぇ、覚えている限りで言うなら、まずクロード・モネでしょ。あとは、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレー、エドゥアール・マネ、そして君の好きな『ドビニ嬢』を描いたエドガー・ドガといった人たちが居るよね。」

「じゃあ、『後期印象派』は?」

「今言った『印象派』の成果を受け入れつつも、他方では反発しながら印象派を乗り越えようとした画家たちのことなんだよ。」

「具体的には、どんな画家たちがいるの?」

「分類が正しいかどうかわからないけれど、『後期印象派』として分類されている画家の名前を思いつくままに挙げると、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ、ポール・ゴーギャン、アンリ・マティス、ポール・セザンヌ、ジョルジュ・スーラ、アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレックといったところかな?」

「確かに絵画の傾向としては、何となくまとまりに欠けるような気がするけど、画風はどうだったの?」

「画風については、特にこれと言って決まった定義は無い筈なんだ。」

「じゃあ、『後期印象派』の画家たちの特徴って何?」

「僕たち素人でも一番はっきり分かるのは、陰影の付け方かなぁ・・・」

「陰影っ?」

「うん、そうだよ。特に白い服なんかを描いているとハッキリ判るんだけれど、陰になる部分へ色を塗るときには、同じ色の絵の具に少量の紫色を混ぜて表現しているんだよ。」

「紫色!思いつきもしなかったわ。私なら多分黒かグレーを混ぜちゃうわね。」


 そういう他愛も無い会話を交わしながら、理英は永渕と一緒に、見学の列にくっついて展示会場を見て回った。その二人のすぐ後ろに瞳・郁子・薫の三人が付いてくる格好になっていて、さらにその後ろに美智子がくっついていた。そのためどの作品も、美智子は斜め後方から見て回る形になっていた。その様子に気付いた永渕が、

「椿さん、もっとこっちへおいでよ。そんなに後ろの方に付いて回っていたら、絵が見づらいでしょう?」

と言って美智子を前の方へ誘ったが、美智子は怯えたように無言で首を横に振ると、そのまま最後尾から付いて回り続けた。理英が見た限りにおいて、「オランダ絵画の黄金時代」と呼ばれる17世紀の作品群が充実している印象だった。展示されている作品は、ファン・エイク兄弟、ヒエロニムス・ボッシュ、ペーター・ブリューゲル、フランス・ハルス、レンブラント・ファン・レイン、ユディット・レイステルと続いてゆき、そして中盤で伏見イチオシの画家、ヨハネス・フェルメールの展示作品の前までやって来た。フェルメールの作品5点は、『窓辺で手紙を読む女』・『手紙を書く女』・『恋文』・『地理学者』・『天文学者』の順に展示されていた。

 このうち『地理学者』と『天文学者』には、フェルメールの作品にしては珍しく制作年が記されており、前者が1669年、後者が1668年に描かれた物とされている。また、描かれている人物がよく似ていることから、モデルが同一人物ではないかと言われており、長きに亘って一対の作品であると見做されてきた。事実、この2作品は描かれてからずっと、同一人物に所有されていたのだが、18世紀末から19世紀初頭に売却された際に別々の人物の手に渡っており、現在では前者はドイツ・フランクフルトのシュテーデル美術館が、後者はフランス・パリのルーブル美術館が所有している。そのため今回の展覧会では、この2作品が約200年ぶりに再会することが目玉の一つになっていた。

 展示されている5枚のフェルメールの絵を見ながら理英は、

「デッサンのしっかりした絵で、永渕は好きそうだな。」

などと考えながら、展示を見て回っていた。


 ここまで展覧会の見学はスムーズに進んでいたが、この中盤のフェルメールの展示を見終わった際にささやかな事件が起きた。理英たちがフェルメールの作品群を見終わって、直ぐに次のゴッホの作品の展示がある順路へ向かおうとした時のことである。最後尾について見て回っていた美智子が、小声で薫に話し掛けた。

「ねぇ、この辺りの絵ってみんな同じ人が描いたの?」

「そうよ。この辺りに飾ってあるのは、みんなフェルメールっていう人が描いた絵なんだって。だから同じ様な絵ばかりが、この辺に固まって飾られているでしょう?」

 それを聞いた美智子は、怪訝そうな表情を浮かべて言った。

「でもあの絵は違う・・・と思う。」

 美智子は一言そう言うと、フェルメールのコーナーに飾ってある最後の絵『天文学者』を指差した。

「えっ?」

 薫は意外な言葉に意表を突かれた。

「どういうこと?」

「あの絵だけ、他の絵と違ってる。」

「そんな筈無いわよ。みんな同じ人が描いた絵の筈よ。絵柄もよく似てるし・・・」

 無理に笑顔を作って、薫が優しく窘める。

「でも、あの絵だけは私には違って見えるのっ!」

 美智子の声が少し大きくなった。美智子と薫が次の順路にやって来ないのを見て、ゴッホのコーナーへと続く次の順路から、瞳と郁子が先に進むように促しに戻って来た。

「二人とも何やってんの?早く来ないと置いてっちゃうよ。」

 薫がその言葉に反応する。

「ちょっと待って!椿さんがおかしなことを言ってるの。」

「おかしなこと?」

「あの絵だけ別人が描いた絵だって。」

「ええっ!」

 二人も驚きの声を上げる。

「そんな筈無いわよ。展示する前に、ここの美術館の人たちもちゃんと作者を確認してると思うよ。」

「私にはこの辺の絵は、同じ人が描いた絵にしか見えないけどなぁ。」

 口々に美智子の発言を否定していく。しかしその声が大きかったのか、周囲に居た他の生徒たちも4人に注目し始めた。その中には永渕と理英も居た。二人も一緒になってこっちへやって来る。

「何かあったの?」

 永渕が尋ねてくる。

「ううん、何でもないっ!ちょっとミッチーが変なことを言い出しただけ。」

 そう言って瞳が否定する。おそらく良い雰囲気で美術館を回っていた二人に水を差すまいとしての発言だろう。しかしそれを聞いて、理英の好奇心が疼いた。

「変なことって、何?」

 をキラキラと輝かせて理英が尋ねる。その表情を見た郁子が観念した様に答える。

「この絵だけ、他の絵とは違うんだって。別の人が描いたんじゃないかって・・・・・・」

 郁子はそう言うと、展示されている5枚のフェルメールの作品のうち最後の1枚である『天文学者』を指差した。

「ええっ!」

 理英も驚きの声を上げる。

「どうしてそう思うの、椿さん?」

 横から永渕も口を挟んでくる。

「この絵だけ、暗いの・・・」

「えっ?」

「この絵だけ画面が暗いの。」

 美智子はポツリとその言葉だけを口にした。

「暗い?」

 永渕も理英も首を傾げる。二人の目には、どの絵も鮮やかな明るい色彩に彩られているように見えるからだ。

 「確かに、どの絵も手前が影になっているように暗く描いているけれど、画面の奥には光が当たっている場所があって、そこで何かしらのドラマが起きている構図になっているから、暗いという印象は抱かなかったな。」

 永渕がポツリと感想を述べる。

「そうね。画面の中心は鮮やかな明るい色で溢れているから、私も暗いっていう感じはしなかったわ。」

 理英も永渕の意見に同調する。しかしそうこうしているうちに、見学の列が渋滞し始めた。それに気づいた引率の教師の中から、体育教師の安永がやって来て声を上げた。

「お前ら、何やってんだ!早く進まんか!」

 その声に応じて永渕が返事をする。

「ちょっと待ってください。今展示されている作品に疑問が生じているんです。」

「疑問?何だそれは。」

 面倒臭そうに安永が尋ねた。

「この絵は作者が違うんじゃないかって・・・」

「そんな訳あるかっ!くだらん事言ってないで、さっさと進めっ!」

 舌打ちをする様に安永が言う。

「じゃあ、椿さんの抱いた疑問をそのままにしておけって言うんですか?」

「椿?」

 安永はそう言うと、あからさまに不信感を浮かべた顔で美智子を一瞥すると、

「分かった!椿には俺がよく言い聞かせておくから、お前たちは先に行ってろ!」

と、言い放った。その科白にカチンときたのか、日頃から安永と上手くいっていない永渕は、敏感に反応した。

「安永先生、ひょっとして椿さんが養護学級の生徒だからって、彼女の発言を軽く見てるんじゃないでしょうね?」

と疑問を呈すると、図星を指された安永は、

「やかましいっ!とっとと進めっ!」

と、今度は怒気を帯びた声で返してきた。この発言にはさすがに理英も反発を覚えて、

「安永先生!それ、どういう意味ですかっ?」

と、食って掛かる。その騒ぎを聞きつけて、2年9組の生徒だけではなく、他のクラスの生徒や教師たちも集まって来ていた。遠巻きにしてその様子を見ていた人垣の中から、一人の年配の女性が出てきた。


「安永先生、そういう態度は教育上良ろしくないんじゃないですか?」

 教師たちの中でも最年長の音楽教師である本阿弥淑子が割って入る。本阿弥淑子は東京芸大を卒業しているが、その学生時代は戦中・戦後に跨っている。太平洋戦争末期、学校から帰る冬の夜道で、灯火管制が敷かれた夜の闇への恐怖を紛らわせる為に、習ったばかりのシューベルトの『菩提樹』やヴェルディの『女心の歌』を原語で歌っていて、憲兵隊にしょっ引かれるという経験をしていた。敵性語を使う非国民ということで、吊るし上げようと手薬練を引く憲兵たちに向かって、「ドイツやイタリアは同盟国じゃないんですか?味方ですよね?どこが敵性語なんですか?何が悪いんですか?」と言って食い下がり、ドイツ語を解する天保銭組の上官を引っ張り出して謝らせたという武勇伝の持ち主なのである。今では優しいお婆ちゃんといった風情を見せてはいるが、単なる強面の安永が敵う相手ではない。本阿弥は早々に安永を黙らせると、美智子の方に向き直って、

「椿さん、何処がおかしいの?」

と、穏やかな声で尋ねた。それに対して美智子は、今しがた理英と永渕に話したことを繰り返した。

 その最中に、騒ぎを聞きつけた担任の伏見が、ここの館長を務める北山祐樹と共に展示会場の入口の方から駆け付けて来た。どうやら伏見は、来館の挨拶に来た北山館長とそのまま入口のところで話し込んでいたらしい。押っ取り刀で駆け付けた伏見と北山に、美智子に代わって永渕が事情を理路整然と説明した。それを聞いて、

「でも今回展示している作品は科学的な検査を経ているし、全て鑑定書の付いている物ばかりよ。贋作だなんて!」

と、伏見が呆れた様に言う。北山もその発言を受けて、事態を収拾すべく何か発言しようとしたが、それに永渕が水を差した。

「一概にそうとは言えないんじゃないですか?」

 永渕は更に続けて言う。

「伏見先生や館長さんならば、フェルメールといえば、メーヘレンの名前が直ぐに思い浮かぶんじゃないんですか?」

 永渕のその科白に、二人はドキリとした表情を見せた。


 メーヘレンとはオランダ人画家のハン・ファン・メーヘレン(Han van Meegeren)のことである。フェルメールの父親がマルクト広場に面した「メーヘレン亭」という宿屋を購入したことは既に述べたが、この贋作者の名は歴とした本名であり、同じ名前なのは恐ろしい偶然である。彼は1889年にオーファーアイセル州デーフェンテルで生まれたオランダの画家であるが、現在では「20世紀最大の贋作者」として知られている。

 メーヘレンは、自分の画家としての力量を認めようとしないオランダの美術界に復讐したい、という動機から贋作ビジネスに手を染めたのだが、特にフェルメールの贋作を好んで制作したのである。というのも、当時の美術界ではまだフェルメールに関する研究が緒についたばかりだったため、一握りの専門家さえ騙し果せれば容易く真作と認められたことから、贋作が非常に作り易い状況だったのである。メーヘレンは1932年からフェルメールの贋作に手を染めて、生涯に11点を制作したと伝えられている。彼は没落した貴族から極秘に仕入れた絵画を売却している、という触れ込みで多数の贋作を制作・販売したため、結果としてヘルマン・ゲーリングを始めとするナチス・ドイツの高官たちにも、大量の贋作を売ることになってしまったのである。

 尤も、当初は彼が贋作の制作に関わっていたことは全く知られていなかったため、「売国奴」の烙印を押され、ドイツが降伏した後の1945年5月29日には、ナチス協力者およびオランダ文化財の略奪者として逮捕・起訴されてしまう。当局は法廷で長期の懲役を求刑したが、メーヘレンは拘留中に、ナチス・ドイツに売却した一連の絵画、そして『エマオの食事』等が自ら製作した贋作であることを告白した。そして証拠として法廷で「フェルメール風の絵」を描いてみせたのである。さらに一連の絵画に対しX線写真撮影などの最新の鑑定が行われた結果、彼が売り捌いたフェルメール等の絵とされてきた絵画が、全て彼の手になる贋作であることが証明されてしまった。このため、メーヘレンは「売国奴」から一転して「ナチス・ドイツを騙した英雄」と評されるようになったのである。

 結局、メーヘレンはナチス・ドイツへの絵画の販売については無罪となり、フェルメールらの署名を偽造した罪でのみ、詐欺罪としては当時では最も軽い刑期である禁固1年の判決を受けた。だが、メーヘレンの身体は長年の酒と麻薬で蝕まれていたため、程なくして心臓発作で斃れ、1947年の12月30日にアムステルダムで死去した。実刑判決が出た1カ月後の出来事であり、享年58歳であった。


 しかし伏見は溜息を一つ吐くと、永渕の科白に対して気丈に応じた。

「それくらいは知ってるわ。ゲーリングを騙した贋作師のことでしょう?そのために、フェルメールの作品に対する真贋の鑑定は、より精密に行われることになったのよ。」

 伏見はフェルメールに対する一途な思いを込めて、永渕の目を真っ直ぐに見返して言った。その科白に続けるように、

「君たちには悪いけれど、ここにある作品はみんな、X線分析検査も質量分析計検査も受けているんだ。贋作が紛れ込む余地なんて無いんだよ。」

と、北山館長は諭すように言った。


 二十世紀の前半、絵画の真贋を鑑定するときに最も注意して見られる重要な部分は、絵具であった。そのため、その頃の真贋判定方法として主に用いられていた手法は、アルコールを浸した綿で絵画の表面を拭くというものだった。油絵具は三百年も経過すると石の様に固まってしまうので、アルコールで拭く検査をしても色落ちすることはまずありえないと考えられていた。これに対して、描かれてから余り歳月の経っていない絵画の油絵具は、乾いて固まっているように見えても、芯から固まってはいないので、アルコールを浸した綿で絵画の表面を拭くと、薄く絵具が溶け出すのである。

 このことを熟知していたメーヘレンは、この検査方法を巧く擦り抜けるため、長い歳月を経た硬い絵具を再現する手法を編み出したのである。贋作の表面の絵具にフェノール樹脂を塗りつけたうえで、オーブンで一定の時間加熱して固めるという手法を編み出し、17世紀の本物の絵画の絵肌そっくりに再現することに成功する。こうしてメーヘレンは、贋作チェックのためのアルコールによる溶解検査を見事にクリアしてみせたのである。

 さらに絵を描く際に用いるキャンバスや額縁は、フェルメールらと同じ17世紀の無名の画家の作品を購入して絵具を削ぎ落とした物を使用し、更に絵具・絵筆から溶剤に至るまで当時と同じ物を自分で製造してから使用する、という念の入れようであった。その上で、絵が完成するとキャンバスを丸めてクラクリュール(ひび割れ)を作り、上から薄く墨を塗る等して古びた色合いを出すなど、その贋作製造方法は徹底していた。


 だがそれでもなお、伏見の言葉は正しかった。絵画の真贋の鑑定にX線検査が広く導入されてからは、さすがにこの手法では誤魔化すことはできなくなり、贋作の世界においてメーヘレンの名は既に過去のものになりつつあったからである。そして現在、そのような厳しい鑑定を経ることによって、フェルメールの真作として認められているのは、32~36点となっているのである。


 ところが永渕はその伏見の言葉を聞き流すように、美智子に問い掛けた。

「椿さんは、どんな風にこの絵を見ていたの?」

 美智子は最後の絵を見た時に、自分の立っていた位置を指差すと、

「あそこから見てた。」

と、短く答えた。永渕と理英が美智子の指し示した位置まで戻ろうとするのを伏見が慌てて止めようとしたが、本阿弥が伏見の袖を引いて黙って首を左右に振ってみせた。二人の好きにさせてみよう、という意思表示に他ならない。

 美智子の返答を聞いた永渕と理英は、先ほどとは立ち位置を変えてフェルメールの作品群を見直し始めた。そして件の『天文学者』の前まで来た時のことである。突然永渕が、

「あっ!」

という驚きの声を上げた。普段情緒が欠落しているのではないかと思わせるほど、あまり感情を表に出すことのない永渕が驚愕の叫びを上げたため、彼を知る周囲の人間の方が驚いたくらいである。

「どうしたの、ブチ君?!」

 真っ先に理英が、横から顔を覗き込むようにして訊いてきた。その声に永渕が答える。

「ここから見ると、これだけ全く違う絵だ。画面が圧倒的に暗い。」

「えっ?」

 理英も思わず振り向いて件の絵を見詰めた。

「ホントだ!他の絵と全然印象が違う!」

「あなたたち何を言ってるの?」

 伏見もそう言いながら、足早に二人の立っている位置まで歩み寄って来た。しかし、二人の立っている位置からその絵を一瞥すると、愕然とした表情になってそのまま立ち竦んでしまった。伏見の顔から見る見る血の気が引いていくのが、傍で見ていても分かった。彼らの周囲にはもうかなりの人が集まって来ていた。来館者だけではなく、この美術館の職員や学芸員まで集まり始めたのである。

「どうしたんですか?伏見先生!」

 本阿弥が伏見に声を掛ける。しかし、伏見はその問い掛けには応えず、柳眉を逆立てて館長の北山の許に戻って行くと、開口一番非難の声を上げた。

「北山館長、これは一体どういうことなんですか?」

 伏見が何とか声を絞り出して問い糺す。

「あの『天文学者』だけ筆使いが全く違うわ!」


 興奮した伏見を、副担任の吉原の手を借りて椅子に座らせてから落ち着かせると、本阿弥が理英と永渕に尋ねる。

「一体どういうことなの?貴方達から理由を説明してくれない。」

 その問い掛けを受けて永渕が答える。

「じゃあ、誰にでもハッキリと分かるようにしましょうか?」

 そう提案すると、北山館長と集まってきた学芸員たちに永渕が言った。

「ここにある5枚のフェルメールの絵を額縁から外して戴けませんか?そして灯りを全て落としてください。」

「しかし、そんなことをすれば作品を壁に掛けられないからフラットな状態では見られないし、これらの額縁は表面が硝子張りになっているから、作品を保護する目的も持っているんだよ。」

 早速、北山館長が難色を示す。しかし、学芸員の中で一番年嵩の男性が異議を唱え代案を示した。

「ここには、これだけ美術館の人間が居るんですよ。どうやって作品に危害を加えるというのですか?そんなことをしようとする輩は、直ぐに我々が取り押さえます。それに絵に関してはイーゼルを持って来ますから、そこに置けば良いでしょう。おいっ!」

 そう言うとその学芸員は、他の若い学芸員たちに指示を出した。指示を受けた若い学芸員たちがイーゼルを5台持って来ると、他の学芸員も加わって、フェルメールの作品を額縁から外していった。5枚の絵がイーゼルに据え付けられてから、永渕は絵に当てられていた照明用のライトを一つ外して手にすると、他のライトも全部消してしまった。部屋の中が真っ暗になると、永渕は手にしたライトのスイッチを入れて、絵のほぼ真横から若干斜め前になるような右端の位置に立つと、

「では僕がライトをもってこれらの絵を順番に照らしていきますから、絵の前に立って見ていてください。」

と、言った。

 その場に居た全員が、永渕の言葉に従って絵の前に立ち始めた。永渕は全員が絵の前に来るのを見届けてから、まず『窓辺で手紙を読む女』を手に持ったライトで照らし始めた。はじめは右端からライトの光を当てていた永渕だったが、そこからライトの光を当てながら絵の周りをゆっくりと反円を描くように回り始めた。ライトを持って絵を照らしていた永渕が、絵の左端まで達すると口を開いた。

「どうです?ライトの光が絵の表面に当たって、どういう角度で照らしても、綺麗に反射しているでしょう?」

 永渕のその言葉に応える様に、若い男の学芸員が発言した。

「そりゃ当然だよ。フェルメールの描いた絵は全て絵具が幅広く長く塗られていて、そのせいで油絵にしてはその画面が驚くほど平坦なんだ。だからこうやって画面に光を当てても、塗られた絵具によってできる陰影が浮き上がってくることは、他の画家と比べると極端に少ないんだよ。」

「そうなんです。そのことは大事なことなので、よく覚えておいてください。」

 永渕はそう言うと、ライトを手に持ったまま、次に『手紙を書く女』の方へ移動した。

「どうです?これもさっきの絵と同じ様に、ライトの角度を変えても綺麗に反射しているでしょう?」

 永渕はそういう問答を繰り返しながら、次々と四つの作品にライトを当てて、それによって生じる陰影を確認していった。そして『窓辺で手紙を読む女』・『手紙を書く女』・『恋文』・『地理学者』と確認していき、最後の『天文学者』にライトを当てて周り始めた時だった。絵を見ていた全員が、口々に驚きの声を上げた。

「なんだ、これっ?この絵だけ見え方が全然違う!」

「あっちの4枚の絵はどんな角度からライトを当てても殆どそのまま反射して光ってるのに、この絵だけ絵具の跡でできる黒い影が沢山出来てるわ。」

「この絵だけ筆使いが全く違うんだっ!」

「これは一体、・・・」

 そういった声を受けて、やっと永渕が謎解きを始めた。

「フェルメールという画家の作品の特徴は、さっきそちらの学芸員の方が仰った様に、絵具を幅広く長く塗っているため、油絵にしてはその緻密に描き込まれた画面に反して、筆使いの跡は油絵の常識を覆すほど平坦なことなんです。だから、こうやって画面に光を当てても、それによって浮き上がってくる絵具によってできる陰影は、先程の4枚の絵のように殆んどできないんです。」

「確かに。本来油絵の場合は、緻密な絵を描こうとすると、どうしても幾度も塗り重ねることによって、絵自体に厚みができてしまうのが普通だからな。」

 永渕の説明を受けて意図を理解したのか、先ほどの若い学芸員が納得した様に合の手を入れる。永渕はそれに頷くと、

「そういう意味では、油絵の世界において、フェルメールという画家は特異な存在なんです。だから贋作者が、フェルメールに絵柄を似せようとすればするほど、絵が緻密であるが故に、逆に筆致が多くなってしまい、結果そこだけ絵具が厚く塗られてしまうことになります。だからこうやってライトで角度をつけて光を当てていくと、絵の細かいタッチが全て露わになってしまって、すぐにバレてしまうんですよ。本当はできるものなら、手で触ってみて絵肌を確認するのが一番良いんですけどね。」

と言って謎解きを終えた。

「なるほど、これは盲点だった。科学的な鑑定法がどんどん発達していく中で、こういう初歩的な判別法があることをすっかり忘れていたよ。これは我々学芸員が、それぞれの画家や作品の特徴をよく把握していれば、けっして無理なことじゃない。ただそのためには我々にも日々の絶え間無い自己研鑽が必要になる、ってことを肝に銘じないといけないな。」

 学芸員の中で一番年嵩の男性が率直な感想を述べた後、こう結んだ。

「この特別展示は北山館長の肝煎りだったんだ。この騒動の落とし前は、我々が自分たちでつけることにするよ。これまでのこともあるし、当然旗振り役だった北村館長には責任を取ってもらうことになるだろうけどね。」

 そう言うと、この年嵩の学芸員はジロリと北山館長を横目で睨んだ。


 後日、このフェルメールの『天文学者』という作品は、贋作であることが確認されたという報道があった。贋作を展示した理由は、企画のかなり初期の段階から、『天文学者』と『地理学者』の貸出しについてそれぞれ内諾を得ていたのだが、直前になって『天文学者』を所蔵するルーブル美術館から絵の貸出し中止を告げられた、とのことであった。当初は修復師たちから絵のコンディションが悪く、海外への輸送には耐えられないとして反対されたとのことであったが、真相はルーブル美術館側が少しでも多く絵画の賃貸料を稼ぐために、貸出し交渉の段階において二股をかけていた、ということであった。つまり直前で、別の美術館で開催される展覧会への貸出しが決まってしまったのである。所謂、「ダブル・ブッキング」の被害に遭ってしまったのだ。

 この展覧会の実行委員会は土壇場になってその煽りを受け、仕方なく別のフェルメール作品を探して交渉したが、現存する作品展数が少ないことが徒となって埒が明かなかった。しかも企画の早い段階から、既にタイアップしている企業に対しても、フェルメールの『天文学者』と『地理学者』の約200年ぶりの日本での邂逅を既定路線として契約していたため、急遽贋作を用意して当座を凌がざるをえなくなってしまったのである。このルーブル美術館との交渉においても、北山館長が交渉の中心となり独自の人脈を使って進めていたため、贋作の展示にも絡んでおり、責任を取って館長の職を辞したとの報も追って入ってきた。


「やれやれ、すっかり遅くなっちゃった。お腹空いちゃったね。」

 永渕は理英の方を振り向くとそう言って話し掛けた。今日の遠足のスケジュールでは、特別展示の見学が終われば直ぐに昼食となる予定だったので、11時半には昼食を摂れる筈であったが、先ほどのフェルメールの贋作騒ぎで、生徒たちが昼食を摂るのが当初の予定から大幅に遅れ、午後1時過ぎになってしまったのである。昼食が終わっても、まだ常設展示の見学が残っているため、少し気忙しい昼休みになってしまった。

 美術館に隣接する「美術の森公園」の芝生の上にレジャーシートを敷くと、理英は永渕と二人で遅い昼食を摂ることにした。この美術館の中にも、「カフェ・ミュゼ」という評判の良いレストランが入っているのだが、収容人数が少なくてとても理英たち400名以上の生徒を収容しきれないため、美術館の横にある公園で昼食を摂ることになっていたのである。周囲には同級生たちが仲の良い友達と昼食を摂るために、思い思いの場所にレジャーシートを広げている。

「ブチ君、これ私が作ったの。ブチ君の口に合うと良いんだけど・・・」

 理英はそう言いながら、今朝リュックサックに詰め込んだ弁当箱をおずおずと永渕に向けて差し出した。

「今朝、左手が絆創膏だらけだったのは、こういうことだったんだね。左利きの君には、片刃包丁は使いづらいよね。」

 レジャーシートの上に座った永渕は、そう言って理英から弁当箱を受け取ったが、直ぐに膝の上に置いてしまい、理英の絆創膏だらけの左手を見詰めながら両手で包み込むように握り締めた。そして腹の底から絞り出すような声で、

「ピッピ、僕の為にありがとう。」

とポツリと一言だけお礼の言葉を口にすると、それきり理英を見詰めたまま黙り込んでしまった。その状態で固まってしまった二人を、周囲の同級生たちが興味津々といった態で見守る。理英は余りの気恥ずかしさから逃れようと、

「ブチ君、気が付いていたの?」

と、恐る恐る尋ねた。

「そりゃあ、君に弁当を持って来るなって言われたから、薄々はね。少なくとも推理するのは、今日のフェルメールほどは難しくなかったよ。」

 そう言うと永渕は、やっと理英の左手を解放した。利き手が自由になった理英は、自分の弁当をリュックサックから取り出しながら、

「でも、ブチ君は博学ねぇ。」

と賛辞を述べたが、永渕は視線を理英から外さずに首を横に振って、

「いくら博学でも、真贋を見分ける目が無いんじゃあ、意味無いよ。今日の件に関しては、僕の目は完全に節穴だったね。全て椿さんのお手柄だよ。」

と、言下に否定した。

「さて、じゃあ君のお手製のお弁当を頂くことにするよ。」

「でも、誰かのためにお弁当を作るなんて初めての経験だったから、味の方はあんまり自信が無いかな。」

 じっと見詰められているのが照れ臭くなって、理英が少し戯けた科白を口にする。

「まあ、それは食べてみれば分かるって。でも、自分のためにそういうことをしてくれたことの方が、僕にとっては嬉しいな。」

 そう言いながら永渕は、理英から渡された弁当箱を手にすると、蓋を取って中を覗き込んだ。

「へぇ、おかずが色とりどりで美味しそうだね。じゃあ、遠慮なく頂きま~す!」

 永渕が最初に手にしたのは、ピーマンの包み揚げだった。永渕はそれを箸で摘まむと、無造作に齧り付くと、

「うんっ、美味しいよ。」

と言って理英に微笑みかけた。不安気な表情で永渕が弁当を食べる様子を見詰めていた理英は、その一言でやっと顔を綻ばせた。



【参考文献】


 『邪馬台国の秘密』 高木 彬光:著 1973年12月10日 光文社

 『改稿新版 邪馬台国の秘密』 高木 彬光:著 1979年4月15日 角川書店

 『ギャラリーフェイク』 第2巻「ジョコンダの末裔」 細野 不二彦:著 1993年9月01日 小学館

 『フェイクビジネス 贋作者・商人・専門家』 ゼップ・シェラー:著/関 楠生:訳 1998年5月01日 小学館

 『フェルメール全点踏破の旅』 朽木 ゆり子:著 2006年9月20日 集英社

 『恋するフェルメール』 有吉 玉青:著 2010年9月15日 講談社

 『フェルメールへの招待』 朝日新聞出版:編 2012年2月29日 朝日新聞出版

 『フェルメールになれなかった男 20世紀最大の贋作事件』 フランク・ウイン:著/小林 頼子・池田 みゆき:訳 2014年3月10日 筑摩書房

 『魅惑のフェルメール全仕事』 大友 義博:著 2014年12月05日 宝島社

 『フェルメール生涯の謎と全作品』 大友 義博:著 2015年10月13日 宝島社

 『フェルメール 作品と画家のとっておき知識』 千足 伸行:著 2018年9月25日 河出書房新社

 『消えたフェルメール』 朽木 ゆり子:著 2018年10月05日 集英社

 『フェルメール最後の真実』 秦 新二・成田 睦子:共著 2018年10月10日 文藝春秋

 『フェルメール 作品と生涯』 小林 賴子:著 2018年10月25日 角川書店

 『フェルメールの憂鬱』 望月 諒子:著 2018年11月08日 光文社


【引用】


『シェリーに口づけ(Tout, tout pour ma chérie)』(1969年)

 作詞:ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)

 作曲:ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)

 唄 :ミッシェル・ポルナレフ(Michel Polnareff)


 前作の投稿から随分時間が空いてしまいました。実はこの章のプロトタイプにあたるものは出来ていて、昨年中に投稿する予定だったのですが、著作権法上の問題と設定を変更したことによる辻褄合わせで、ほぼ全編書き直しになりました。

 著作権法上の問題というのは、「歌詞」の引用について、引用の5要件に当てはまるように手直しをする必要があったからです。(尤もこれでも十分ではないかもしれませんが・・・)所謂「歌詞」の引用には、以下の5要件が要求されています。これから投稿する方の参考になるかもしれませんので、搔い摘んで記述しておきます。


 1.公表された著作物であること。(著作権法・第4条第1項)

 2.引用であること。(裁判例から、「区別性」と「主従関係」が要求される。東京地判H30・2・21 平成28年 (ワ) 第37339号 「沖縄うりずんの雨」事件)

 3.引用による利用行為が「公正な慣行」に合致し「引用の目的上正当な範囲内」であること。

 4.出典を明示すること。(著作権法・第48条第1項第1号、東京高判H14・4・11 平成13年 (ネ) 第3677号 「絶対音感」事件・控訴審)

 5.引用部分を勝手に改変しないこと。(東京高判H12・4・25 平成11年 (ネ) 第4783号 「脱ゴーマニズム宣言」事件・控訴審)


 また設定の変更というのは、作品の中心になっている贋作の疑いのある作品を、別の画家の作品にしていたためです。当初は日本の某美術館に収蔵されているゴッホの作品でお話を書いていたのですが、それでは問題になりそうだったので、急遽フェルメールの作品に変更した次第です。このゴッホの作品については、予てから贋作ではないかとの指摘があり、今日まで贋作説が根強く囁かれてきている物なのですが、未だに真贋論争に決着がついていないため、見送ることにしました。

 実は日本にあるゴッホの作品に関しては、

  東京・新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館の『ひまわり』(1987年に「クリスティーズ」で落札)

  岡山・倉敷の大原美術館 『アルピーユの道』(1935年に大原孫三郎氏が購入)

だけではなく、

  『芦屋のひまわり』

についても贋作説が絶えませんでした。これは1919年に関西の実業家である山本顧彌太氏が、7万フラン(当時のレートで約2億円)で購入した作品なのですが、第二次世界大戦の空襲で焼失してしまったため、今では真相は薮の中です。贋作を噂されるゴッホの作品は、世界を見渡せば他にも、

  ワシントン・ナショナル・ギャラリーの『左利きの自画像』

  フィラデルフィア美術館の『カミーユ・ルーラン』

  オルセー美術館の『ジヌー夫人』

等がありますが、日本人が購入するゴッホの作品ほど数は多くありません。と言うか、ゴッホの作品に関しては、日本人が購入した物に限って、必ず贋作騒動が持ち上がるので、ついつい日本人はカモにされているのでは、と疑心暗鬼になっております。

 なおこの作品を読んで、フェルメールの評価が少し低過ぎるのではないか、と感じる方が居るかもしれません。しかしこの作品の舞台が、1976年であることを考慮してくだされば納得できると思います。現在の熱狂的な「フェルメール・ブーム」は、1995~1996年にワシントン・ナショナルギャラリーとマウリッツハイス王立美術館で開催された「ヨハネス・フェルメール展」以降のことと記憶しており、1976年当時はまだ、数多いる巨匠の一人に過ぎない存在であり、フェルメールのファンであることを公言する人も少なかったことを考慮して、当時の控えめな評価で記していますので、ご容赦ください。

 現存するフェルメールの作品は現在37点とされていますが、最も厳しい鑑定家に拠れば32点としている人も居て、それらの方たちは以下の作品を除外しますが、この作品ではアーサー・K・ウィーロック氏の判断に従っています。

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