第九章 『枕草子』事件
その日理英は朝食を食べ終わると、リビングのソファに寝転んで文庫本を読んでいた。数ページ読んだ所で人の気配がしたので顔を上げてみると、父の猛だった。視線が合うと、猛の方から声を掛けてきた。
「日曜なのに読書とは珍しいな。今日は遊びに出かけないのか?」
「うん。今この本読んでるから。」
直ぐに視線を本に戻した理英は、顔を上げないまま答えた。
「最近よく本を読むようになったな。感心、感心!」
「永渕君に言われたの。読解力をつけるのなら、ジャンルを問わずに本を沢山読んだ方が良いんだって。」
それを聞くと一瞬猛の表情が曇ったが、そんな内心の変化はおくびにも出さないように、感情を抑えた声で尋ねた。
「そうか、そうか!ところで、今何を読んでるんだ?面白いのか、それ?」
そう言うと猛は、理英の読んでいる本を覗き込んだ。たちまち猛は険しい表情になった。
「お前、なんて本を読んでるんだ!サガンじゃないか!」
理英が読んでいたのは、フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』だった。
「こんな本、お前にはまだ早い!」
そう言うと猛は、理英の読んでいた本を取り上げた。
「お父さん、何するのよっ?」
理英も言い返す。
「そんな婚前交渉をするような、ふしだらな女が主人公の小説は、中学生が読むもんじゃないと言ってるんだ。」
猛の口調がさらにきつくなった。
「お父さん、今どき何言ってんの?頭固いよ!」
「それにお前たち中学生には、もっと優先順位の高い読み物があるだろう。そんなものを読むくらいなら、古典を読みなさい!古典を!」
「え~!古典なんて、古臭くて退屈だよ!」
「大体、あんな男の子と付き合うから、こんなものを読むようになるんだ!」
「永渕君は関係ないでしょう!」
さすがに牽強付会もいいところなので、理英も逆上して言い返した。こうして寛永寺家で内紛が勃発したのである。
猛と親子喧嘩を始めた理英は、心がささくれ立ったまま家を飛び出してしまった。と言っても、理英は何処か行く当てがあって家を出てきた訳ではない。理英の足は、自然と永渕の家のある海岸の方へ向いていた。今日は日曜日だが、自分が家を出たのがまだ9時過ぎだったので、永渕は家に居るだろうと踏んだのである。永渕の両親は理髪店を営んでいるから、第3日曜以外の日曜日は休日になることも無く、家族で外出している可能性は皆無に近かったのである。
「こんにちは。」
「あら、寛永寺さん、いらっしゃい。」
永渕の家の店のドアを開けると、白衣を着た永渕の母親がにこやかに理英を迎え入れた。
「お邪魔します。永渕君は?」
「そろそろ10時になるっていうのに、まだ寝てるのよ。玄関の方から入って直ぐの部屋だから、起こしてくれない?勝手に入って良いわよ。」
「そう言えば、永渕君は低血圧なんですよね。健康診断の時に血圧を見たことがあるんですけど、上が91で下が52でしたから、朝は辛いんじゃないですか?」
「だからって、昼まで寝て良いって訳じゃないわ。あの子は多少手荒な方法じゃないと目を覚まさないから、手加減しないで良いわよ。」
笑いながらそう言われたので、理英は一旦店を出て玄関から入り直した。玄関を入って直ぐ目の前に、奥へ繋がる廊下があって、その横に襖で囲われた三畳間があった。三畳間の廊下側の長押には留め金が付いていて、穂鞘の付いた槍が掛かっていた。本物だろうかと思って見ていると、襖の向こから永渕のものと思われる呻き声が聞こえてきた。少し心配になって襖を開けてみると、三畳間の真ん中に布団を敷いて永渕が寝ていたが、よく見ると掛け布団の上に三毛猫が一匹横たわっており、更にその横に5つの小さな白い毛玉があった。毛玉の正体は、生まれてからまだそんなに経ってない真っ白な子猫で、丸まって寝ているのだった。それが全て永渕の臍から上に集中して居座っていたため、その重みでうなされていたのだった。
「うわぁ、可愛い!」
理英は声を上げると、猫たちを永渕の身体の上から下ろして布団の脇に寝かせ、子猫の中の一匹を掌の上に乗せてみた。子猫は気が付かないまま眠り続けていたので、指先でその小さな身体をそっと撫でてみた。まだ柔らかな体毛が手に心地良い。撫でられた子猫は顔を上げ、目を開けてこちらを見たが、白い瞬膜が出ていて、如何にも眠そうな目をしたまま大きな欠伸を一つすると、理英の掌の上でまた眠り始めた。よく見ると、永渕の枕の横にも一匹、こちらは茶色の虎縞の子猫がやはり丸くなって寝ていた。まだ縞自体はか細いが、一人前にちゃんとした縞模様になっている。この子猫が一番小さいようだ。理英はもっと他の子猫たちに触るため、部屋の中に入って永渕の寝ている布団ににじり寄ってみると、妙な圧迫感を感じた。ふと視線を上げて周囲を見渡すと、三畳間の壁の二つが本棚になっていて、結構な数の書物が入っていた。教科書や参考書もあったが、何よりもその蔵書の多さに驚かされた。
中公文庫の『日本の歴史』・『世界の歴史』シリーズや、旺文社文庫の現代語訳が付いた『平家物語』・『源氏物語』・『枕草子』・『方丈記』・『徒然草』等の古典の文庫本が一番上にあった。さらに遠山啓の『数学入門』・吉田洋一の『零の発見』・アインシュタインとインフェルトの共著である『物理学はいかに創られたか』・武谷三男の『物理学入門』・井上清の『日本の歴史』・貝塚茂樹の『中国の歴史』・吉川幸次郎と三好達治の『新唐詩選』の正・続編といった勉強に関係のあるものの他に、戒能通孝の『裁判』と『法律入門』・上田誠吉の『誤まった裁判』・末川博の『法律』・古畑種基の『法医学の話』等の岩波新書が並んでいた。
しかし何と言っても歴史小説が多く、『武将列伝』・『悪人列伝』・『海と風と虹と』といった海音寺潮五郎の作品群や、『燃えよ剣』・『国盗り物語』・『関ヶ原』といった司馬遼太郎の作品群、『私本太平記』・『三国志』・『新・平家物語』といった吉川英治の作品群が、書棚のかなりの部分を占めていた。理英が見たところ、最も多かったのは『昭和史発掘』・『日本の黒い霧』シリーズをはじめとする松本清張の作品群だった。九州を舞台にした『時間の習俗』・『黒地の絵』等の本もあった。これは永渕の言を信じるならば、彼の両親の嗜好なのだろう。
少なくとも普段理英が積極的に手にとって見ることのない類の本ばかりであった。その中の『青のある断層』を手にとって見ると、『梟示抄』のところに栞が挟んであった。『別冊 黒い画集』では『陸行水行』のところに、同じ様に栞が挟んであった。『点と線』では途中に挟んである栞に、永渕の字で「何故ここで旅客機に思い至らない?」と書き込みがあった。『霧の旗』でも同じ様に、「何故ここで警察に通報をしない?」という書き込みのある栞を見つけた。どうやらストーリーの不自然な展開が気になった箇所に栞を挟んでいるようだ。
しかし1箇所だけ、本棚の隅にスペースが出来ていた。よく見ると取っ手の付いた黒い革貼りのケースが横向きに押し込まれていた。なんだろうと思って手を伸ばしてみると、どうやら楽器の保管ケースらしかった。ケースの側面に製造メーカーのロゴが入っていたが、英語ではないようで、理英には読めなかった。
「・・・ブフェット・クラムポン(Buffet Crampon)・・・?」
永渕はまだ寝ていて気付いていないようなので、止め具を外して中身を見てみることにした。音を立てないようにそっと止め具を外して蓋を開けてみると、中には黒檀に銀の金具が付いて5つに分かれた縦笛の様な楽器が入っていた。よく手入れがされているクラリネットだった。
「キレイ!」
思わず理英の唇から声が漏れた。しかし、永渕がこの楽器を演奏している所は、まだ見たことが無い。今度、目の前で演奏してくれるようにお願いしてみようか、などと考えながら楽器ケースの蓋を閉めると本棚を漁り続けた。
よく見ると楽器ケースの横には、LPレコードが差し込まれていた。シベリウスの交響詩『フィンランディア』・ボロディンの歌劇『イーゴリ公』・ドビュッシーの交響詩『海』・ホルストの組曲『惑星』・ラヴェルのバレエ音楽『ボレロ』等のクラシックの名盤ばかりだった。
さらにその横には、いわゆる「ドーナツ盤」と呼ばれるEPレコードが並んでいた。殆どが桜田淳子のもので、デビュー以降最新の『天使のくちびる』までのシングル盤をコンプリートしている様だった。桜田淳子のファンだということは、以前中村から聞いて知っていたが、チェリッシュの『ペパーミント・キャンディー』や『ひまわりの小径』、トワ・エ・モアの『或る日突然』や『虹と雪のバラード』、Carpentersの『TOP OF THE WORLD』や『JAMBALAYA』もあったのは、理英にとっては意外だった。普段教室の中では分からない永渕の一面を覗けたことで、理英は少し嬉しくなった。
理英は永渕の部屋のガサ入れが一区切りつくと、そろそろまだ寝入っている永渕を起こすことにした。永渕の枕元に近づいて鼻を摘まむと、耳元に唇を近づけて囁いた。
「お寝坊さん、もうお昼ですよ~!」
するとそれに反応したのか、永渕は突然寝返りを打って、下から理英に抱き付くような格好になった。
「えっ?、えっ?、えっ?、えっ?・・・・・・」
理英は思わずたじろいで、声を上げてしまった。それでやっと永渕は、
「んあっ?」
と一声発して寝ぼけ眼を開け始めた。そして理英の姿を認めた永渕は、驚愕の声と共に手を離して後ろに飛び退ったため、本棚に背中をぶつけてしまい、バサバサと本が何冊か降ってきて、永渕の頭を直撃した。理英は思わず噴き出しそうになったが、努めて平静を装って挨拶をした。
「おはよう、ブチ君。」
「お、おはよう。」
永渕の声にはまだ、明らかに動揺の色があった。
「どうしたの?こんなに朝早く。」
「朝早くじゃないわよ。そろそろ太陽が南中するわよ。」
と言って否定すると、
「そ、そう?」
という永渕のドギマギした返事が返ってきた。
「おばさんから、永渕君を起こしてくれって頼まれたんだけど、必要なかったわね。」
理英はそう言うと、くすくすと笑った。
「御免。顔を洗って着替えるからちょっと向こうで待ってて。」
そう言って永渕は、理英をダイニングを通り抜けて店舗への出口にある四畳半の和室へ案内した。
10分程すると、着替えを済ませた永渕が、お盆に紅茶と焼き菓子を載せて姿を現した。
「今日はどうしたの?何か用なの?」
理英の前のテーブルに、紅茶と焼き菓子を並べながら永渕が尋ねた。焼き菓子はヨックモックのシガールとラングドシャーだった。
「用が無きゃ、来ちゃいけない?」
「そんなことは無いよ。君の顔を見られて、僕も嬉しいよ。でも、君のいつもの生活パターンじゃあない。心配するのは当然でしょ。何かあったの?」
「今朝ね、お父さんと喧嘩しちゃったから、家に居たくなかったの。でも他に行く当てが無かったし、永渕君の顔を見たくなったから、ここに来たの。それだけよ。」
「お父さんと?一体何があったの?」
永渕がそう尋ねてきたので、理英は今朝の出来事を話し始めた。
「そっかー!大変だったね。」
「横暴でしょ?」
理英が同意を求める。
「でも、お父さんの気持ちも少し分かるかな。」
「ど・こ・が~っ?」
自分を全面的に支持してくれることを期待していた理英は、抗議の声を上げた。
「そりゃ、君にとっては理不尽極まりない発言かもしれないけれど、同じ家族でも性別も年齢も生育環境も違うんだから。お父さんの立場で考えたら、それほどおかしなことじゃないってことだよ。」
「でも貴方と付き合ってるから、サガンなんかを読むようになるんだって言われたのよ!」
「確かに僕の立場からしたら頭にくる物言いだけれど、冷静になってよく考えてごらん?君はお父さんにとって掌中の珠なんだと思うよ。そこに僕みたいな、何処の馬の骨か分からない男が言い寄って来たって聞けば、そりゃあ心中穏やかじゃないと思うよ。」
「じゃあ、あんなこと言われても黙ってるつもり?」
「ただ黙ってるつもりはないよ。でも君のお父さんには、君に誠意を尽くしている姿を見せて、理解して貰うしか道は無いんじゃないかな?」
理英はその言葉を聞いても、何となく割り切れないものを感じたが、永渕の立場からしたら仕方が無いことなのかもしれないと思い直し、これ以上彼を責めるのは止めることにして話題を変えた。
「そう言えば、ブチ君は猫を飼っていたのね。知らなかったわ。」
「ああ、近くに大念寺っていう浄土真宗のお寺があるんだけど、去年の初め頃そこのお嬢さんが飼っている猫が子猫を5匹生んで、貰い手が無くて困ってたんだ。そのままじゃ保健所に連れて行かれて殺処分されちゃうから、うちの母が1匹引き取ったんだけど、今年の6月に死んじゃってね。でもその猫がよく一緒に遊んでいた三毛猫が妊娠していることが分かったから、母がそのまま飼い始めたんだよ。まだ生まれてから2ヶ月目だけど、今度はうちが大きくなる前に飼い主を探さなくちゃいけないんだ。頭が痛いよ。」
「何なら、うちで飼って貰えるように頼んでみようか?」
「止めた方が良いよ。これ以上君の家庭に不和の種を持ち込みたくないし、ご両親は旅行が好きなんでしょう?ペットを飼い始めたら、おいそれとは旅行できなくなるよ。」
「そっか。それじゃあ色好い返事は貰えないかなあ?」
「ところで、ブチ君には妹さんがいるのよね。」
「うん。だけど今日は友達の所に行って原稿を描いてると思うよ。」
「原稿って?」
「漫画を描くのが大好きで、友達と一緒にオフセット印刷の同人誌を作ってるんだ。」
「そうなの?」
「僕が小学生の頃、藤子不二雄先生の『まんが道』っていうコミックスを買って読んでいたら、妹の方がハマっちゃってね。何なら描いたものを見せようか?」
永渕はそう言うと入って来た方とは違う襖を開けて、隣の部屋へ入って行った。そこには妹のものと思われる机があり、その上に設えてある本棚から、薄い本を何冊か持って来た。
「はい、どうぞ。」
そう言って手渡された本をパラパラと捲ると、可愛い絵が視界に飛び込んできた。
「絵柄は綺麗なんだけど、内容が薄っぺらでしょう?あいつにはストーリー・テラーとしての素養が無いんだ。」
と永渕は辛辣な科白を吐いた。理英が何冊か目を通すと、確かにどれもありきたりのラブ・ストーリーだった。
「まあ、これは例外だけどね。」
永渕はそう言うと、今度は月刊の商業誌を出してきた。
「何、これ?」
「ここに掲載されている、佳作になった作品を読んでごらん。」
永渕に促されるまま理英がその少女漫画雑誌を読んでみると、同人誌とは少し描かれているキャラクターが違うことに気が付いた。理英と同じく、眼鏡をかけたお下げ髪の少女が主人公だった。出来が良いばかりに同級生に敬遠されてだんだん孤立していくが、自分を敵視していると思っていた男の子に想いを告げられて孤独感を癒される、というストーリーだった。途中でその男の子に勧められて、髪を下ろしてコンタクトレンズにすると、輝くような美少女になるという設定は、少女漫画のお決まりのパターンだったが、男の子の心理描写は少女漫画では描かれない視点だったので、ついつい引き込まれてしまった。しかし何かに思い当たったらしく、読み終わると直ぐに永渕に訊いた。
「ひょっとしてこれ、私とブチ君がモデルなの?」
「ひょっとしなくても、そうだよ。」
その返事を聞くと、理英の顔はカーッと紅潮してしまった。永渕に、
「この審査委員の講評を読んでごらん。」
と言われて、漫画の後に載っていた寸評を読むと、
「ヒロインの心理描写だけでなく、女性なのに思春期の男の子特有の面倒臭い心理描写も巧くできています。」
となっていた。
「そりゃ巧い訳だ。僕のつけていた日記を盗み読みしてたんだから・・・」
と永渕は苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。
「私たちって、傍から見るとこんな風に見えていたのね。」
と、溜息混じりの感想を述べた。
「でも私は、このヒロインほどには、まだ貴方のことを知らないわ。」
「そう?まあ僕も積極的に自分のことは話さなかったからね。それは仕方ないよ。」
「でも、今日此処へ来て、いろいろと新しいことを知れたわ。」
と、理英が嬉しそうに微笑みながら言う。
「新しいこと?」
「貴方の読んでる本とか、好きな音楽とか・・・」
「ああ、僕が目を覚ます前に、部屋の中を見てたのか。」
「昔一緒にピアノを習ってたって、中村さんから聞いていたけど、クラリネットも演奏できるの?」
「ああ、あれね。あれは母方の潮伯父さんの形見なんだ。」
「形見?」
「うん、去年の冬に癌で亡くなったんだけど、使っていた楽器は誰も引き取り手が無いから、母が貰ってきたんだ。潮伯父さんは戦後すぐの頃、進駐軍のキャンプに行って、音楽を演奏することでお金を稼いでたんだ。特にジャズを演奏すると喜ばれたから、クラリネットとサクソフォンをマスターして演奏してたんだよ。成人して会社に勤めるようになってからは、趣味で演奏してたくらいなんだけど、楽器は良い物を揃えてたみたいだから、捨てるのは勿体無いって言ってね・・・」
「そんなに良い物なの?」
「クラリネットはビュッフェ・クランポンのR13ボア、サクソフォンはセルマーのマークⅦだよ。どちらも結構値が張るんだ。」
「クラリネットは本棚にあったけど、サクソフォンは何処にあるの?」
「ああ、あれは大きいから、押入れの中に入れてあるんだ。見てみる?」
「どうせなら、何か演奏して聞かせてよ。」
「良いよ。でも此処で吹いちゃあ近所迷惑になるから、海岸の方に行かない?」
10分後二人の姿は、永渕の家の裏を通っている国道199号線の向こう側の岸壁に在った。そこは貨物船を接岸させるために半円形に掘削されており、海面まで下りて行けるように石畳の階段が続いていた。現在は下関市の一部になっている巌流島が間近に見える場所だった。海面は穏やかで、時折小さな波が打ち寄せて来る程度だったが、水面には中天に差し掛かった太陽の光が反射して、波間で躍っていた。海に向かって右半分は目の前に在る大日本製糖の専用の岸壁になっていたが、左半分はどこが所有しているのか分からず、暫らく利用していない様子だった。海の方へ降りていく石段の手前には幾つかの茸の様な形をしたビットがあり、昔はここでロープを使って貨物船を係留していたことが窺える。
理英がそのうちの一つに腰掛けると、永渕は隣のビットの上にクラリネットの楽器ケースを置いて、中からクラリネットを取り出すと、手際良く次々と繋げていって楽器を組み立ててしまった。永渕はクラリネットが一本の管になると、『VANDOREN』と印刷された紙箱からリードと呼ばれる葦でできた板切れを取り出し、マウスピースの部分にリガチャーで固定すると口に咥えて息を吹き込んだ。するとベルの部分から哀愁を帯びた物悲しい音色が流れ出し、理英の耳朶を翳めて行った。
「へえ、こんな音がするんだ。ねえ、何か吹いて見せてよ。」
理英がそう言うと、永渕は幾度かロングトーンをすると、いきなり『美しき天然』を演奏し始めた。今が夕方ならばぴったりの曲なのだろうが、抜けるような青空の下で演奏するのには、理英には少しそぐわないように感じられた。
「それって、よくチンドン屋さんが演奏してるやつよね?」
「そうだね。あと、サーカスのジンタでもよく聞くよね。」
「どうせ演奏するのなら、せめて『クラリネットこわしちゃった』ぐらいにしてよ。」
と理英が笑いながら言うと、
「うーん、それはクラリネット奏者が一番嫌がる選曲だね。多分、チンドン屋さん呼ばわりされるのと同じくらい嫌がるよ。」
という返事が返ってきた。
「そうなの?」
「どちらも、もう耳に胼胝ができるくらい言われてるからね。」
「ふーん、そういうもんなの?」
「そうだよ。他にもオーボエ奏者ならば『チャルメラ』とか『蛇使い』は禁句だね。トランペット奏者なら『ラッパ』呼ばわりを一番嫌がるし、ユーフォニアム奏者なら『U.F.O.(unidentified flying object)』は禁句だよ。」
永渕はそう言って笑った。
「へー、そうなんだ!ところで、ユーフォニアムって何?」
「吹奏楽団なんかで中低音域を担う金管楽器の一種だよ。見てくれはチューバの小さいやつって感じだね。」
「そんな楽器あるんだ!」
「それから、サクソフォンにも禁句はあるよ。サクソフォンっていう名前は長ったらしいから、『サックス』って略して呼ぶことが多いんだけど、それをからかってわざと『〇ックス』って呼ぶ奴が居るんだ。」
それを聞いた理英は、思わずプッと吹き出してしまった。その様子を見ていた永渕は、
「それじゃあ、僕の演奏を伴奏代わりに何か歌ってよ。」
と言うと、クラリネットを演奏し始めた。映画『サウンド・オブ・ミュージック』の『エーデルワイス』だった。その旋律を聞いた理英は、捻挫をして学校を休んだとき、永渕が見舞いに来たことに思い当たったので、少し恥ずかしかったが一曲歌うことにした。理英は歌い終えると、
「もう、やだーっ!」
と言うなり、永渕の背中を叩いた。永渕は、
「別に恥ずかしがることはないよ。少なくとも、僕が歌うよりかは上手いよ。」
とあまり意味の無いフォローをすると、続けざまに何曲か演奏をした。『サインはV』・『アテンションプリーズ』・『美人はいかが?』・『美しきチャレンジャー』・『モンシェリCOCO』・『エースをねらえ!』・『魔女っ子メグちゃん』・『さすらいの太陽』とみんな理英の知っている曲だったが、さすがにもう一緒に歌うことはしなかった。永渕が吹き終えて一旦楽器を口から放すと、理英は、
「楽譜無しで演奏したってことは、全曲暗譜してるってことよね?」
と尋ねた。永渕は、
「まあね。でも僕に言わせればちょっと違うかな?今吹いたのは、みんな妹が見ていた番組の主題歌なんだよ。僕も妹に付き合って見ていたから、どっちかって言うと、身体が覚えてるって感じなんだよね。」
と返事をすると、悪戯っぽく笑って、今度は楽器をサクソフォンに持ち替えて吹き始めた。曲目は、『Moonlight Serenade』・『Fly Me to the Moon』・『Stranger in Paradise』の3曲だった。演奏を終えると、
「どう、古い曲も良いもんでしょ?」
と訊いてきた。
「今のは全部古い曲なの?」
「最初に吹いたのが、『Moonlight Serenade』っていう、1939年にトロンボーン奏者のグレン・ミラーが作曲したジャズの曲だよ。次に吹いたのは『Fly Me to the Moon』っていう、1954年にフェリシア・サンダーズっていう人が歌った曲だよ。尤も、広く知られるようになったのは、フランク・シナトラがカヴァーして歌い始めてからだけどね。最後に吹いたのは、トニー・ベネットが歌った『Stranger in Paradise』っていう、1953年の『キスメット(Kismet)』っていうミュージカルの挿入歌だよ。でも、聞いていて退屈だった?」
「ううん!最後の曲は何処かで聞いたことがある様な気がするんだけど、どれも新鮮で耳に心地良かったわ。」
「でしょ!3曲目を何処かで聞いたことがあるって思ったのは、この曲がアレクサンドル・ボロディンという人の歌劇『イーゴリ公』の中の『韃靼人の踊り』からメロディーを採っているからだと思うよ。」
そう言われて、理英は永渕のレコードの中に同じものがあったのを思い出した。そして永渕は続けた。
「でもこれは音楽だけのことじゃないと思うよ。美術も文学も同じじゃないかな?だから君のお父さんの言う『古典を読め』っていう科白も、僕は少し理解できる気がするよ。」
「お父さんの肩を持つ気?」
たちまち理英が鼻白んだ。
「そういう訳じゃないけれど、食わず嫌いはどうかなって思って・・・」
「食わず嫌いって訳じゃないわよ。私だって少しは読んだことあるもの。でも『源氏物語』は話のテンポが遅くて『須磨帰り』しちゃったし、『枕草子』は清少納言の自慢話にうんざりしちゃうのよ。」
「へえ~、一応両方とも読もうとしたんだ。」
「当たり前でしょ!だから食わず嫌いって訳じゃないの!」
「でも来週から、教育実習が始まるんだよね?」
「そう言えば、ホームルームの時に伏見先生がそんなこと言ってたわね。」
「教生さんが来たら、国語は多分次の『枕草子』からやらせるんじゃないの?」
「そっか!それで鮎川先生は先週急いで、短歌の範囲を終わらせたのね。」
「だろうね。だから嫌でも読まなくちゃならなくなるよ。」
「う~っ、憂鬱だなあ~!」
「『枕草子』なら現代語訳付きの文庫本を持ってるから、君に貸そうか?少しは助けになると思うよ。」
と永渕が水を向けたが、理英からは、
「うん、お願い。」
という気の乗らない返事が返ってきた。
「なんだか、乗り気じゃなさそうだね。じゃあ一つ、面白い話をしてあげようか?」
「面白い話?」
「ねえ、君は清少納言って、どんな人だと思ってる?」
「そうねえ、社交的で機転が利く天真爛漫な人だと思うわ。陽性でさっぱりとした無邪気な人って言う人もいるけれど、私は負けず嫌いで煽てに弱く思慮の浅い自己中心的な人だと思うわ。」
「でも、君のその人物評価はどこから来てるの?」
「そりゃあ、『枕草子』に書かれている自慢話からよ!」
「そうだね。でも、もし今僕たちが『枕草子』って呼んでる作品は、本当は清少納言が書いた物じゃないかもしれないって言ったらどう思う?」
「えっ!どういうこと?」
「『枕草子』には清少納言に関する宮中のエピソードが70話くらい在るんだけれど、そのうち30話くらいが清少納言の自慢話なんだ。これが彼女の人物評の根拠なんだけど、もしこれが無いものが原本だとすると、現在の人物評は全くの的外れってことになっちゃうよね。」
「そんなものが本当に実在するの?」
「実はあるんだよ。じゃあ、清少納言の夫だった、橘則光については、どんな印象を持ってる?」
「そうねえ、実直でお人よしで気の弱い、でも風流を解さない和歌の苦手な人って感じかな。」
「それも『枕草子』の記述を基にしたものだよね。でもそれは、『枕草子』の記述が100%信用できるって前提でのイメージでしょう。例えば『宇治拾遺物語』の第132段には、『則光、盗人を切る事』という彼が一人で三人の盗賊を退治する話が出てくるし、彼の和歌は二首ほど勅撰和歌集である『金葉和歌集』に採られているんだよ。」
「それ全部本当なの?」
「本当だよ。盗賊退治の話は他にも『江談抄』の第25話や『権記』の長徳4年(西暦998年)11月8日の項にも記載があるから、武勇にすぐれた人物なのは多分間違いの無い事実だと思うよ。それに『金葉和歌週』の方はちゃんと載ってるのを確認したからね。勅撰和歌集に載るっていうのがどんなに大変なことかは、分かるんじゃない?」
「『平家物語』の薩摩守忠度の話を知ってるから、よく分かるわ。でも、学校の教科書に載ってることと随分違うんだけど・・・」
「君は教科書に書いてあることを無条件で信じるの?権威主義だなあ!教科書に書いてあるからって正しいとは限らないんじゃない?例え教科書に書いてあることでも、一旦は疑ってみなくちゃ。」
そういうと永渕は悪戯っぽく笑った。
「今までそんな風に考えたことは一度も無かったわ。でも今言ったことは本当なの?」
「本当だよ。だから『枕草子』の記述を排除すれば、僕には武勇にすぐれた歌詠みの達人、ってイメージなんだよね。これ以上は話すと長くなるから、一旦僕の家に帰らない?もうお昼になったと思うから、きっと母さんがお昼ご飯を作ってくれていると思うよ。良かったら、一緒に食べない?」
そういうと永渕は、楽器を分解して片付け始めた。二人で永渕の自宅へ戻ると、玄関の扉を開けた途端に、焼き飯の醤油と胡麻油の焦げる匂いが漂ってきた。匂いが鼻腔を擽って理英の食欲を刺激した。二人が家を出る前に、永渕が母親に耳打ちしていたようで、食事は理英の分も用意されていたが、永渕の父親と妹の分が無かった。永渕の妹は友人の家で、お昼をご馳走になるという連絡が入っていたらしい。父親は外出先で食事を摂ることになっているとのことであった。
3人での食事が終わると、早速永渕が自室から何冊かの本を持って来て口を開いた。
「じゃあ、続きを始めようか。実は『枕草子』って呼ばれている作品には、約20種類の写本があるんだ。」
「写本?」
そう言うと理英は不思議そうな表情を浮かべた。
「写本っていうのは、手書きで複製された本や文書のことさ。古典と呼ばれる作品には、原本の他に写本が存在するものもあるけど、原本が存在せずに作成時期の異なる複数の写本が現存している方が多いんだ。」
思わず理英が尋ねる。
「どうして、そんなことになっちゃったの?」
「日本でも木版による印刷技術は飛鳥時代から存在したんだけれど、それによって印刷されたのは仏典や漢籍に限られていて、文学作品は長く印刷されることは無かったんだよ。」
「ああ、それで!木版印刷は自分でやるとなれば手間もかかるし、コピー機も無かったから、全部手で書いて写していたのね。」
「でも写本では、書き写す過程でしばしば写し間違いや誤字・脱字が生じたんだ。しかも、書き写した人の『自分ならばこう書くのに』という意識的な改変があったり、本文の脇に記しておいた注釈が次に書き写す時に本文に組み込まれてしまうこともあったんだ。そして、それが次々と書き写されていく間に、どんどん原文から離れて行ったんだ。これは『枕草子』に限らず起こっていることで、オリジナルの本が消滅しちゃって、写本だけが後世に残ることになった場合には、写本同士を突き合わせると、まるで別の作品のようになっていることも多々あるんだ。」
「でも、それじゃあ、写本の数だけ、内容が少しずつ違う『異本』が生まれるんじゃない?」
「そうだよ。だから有名な古典には、○○本っていう名前が付いている写本が多いんだ。」
「ふ~ん、じゃあ『源氏物語』にも写本はあるの?」
「『源氏物語』には、大島本・陽明文庫本・保坂本・尾州家本・大沢本・阿仏尼本など100種類以上あるらしいよ。でも、写本の系統は大きく分けて、青表紙本・河内本・別本の3種類位にまとめることができるんだって。」
「それで『枕草子』にも20種類もの異本があるのね。」
「うん。でも写本の系統からいくと、『能因本』・『堺本』・『三巻本」の3つに分けられるようだね。あと、『前田本』っていう、加賀の前田家に伝わるものもあるんだけど、これは他に類似の写本が無くて『孤本』って呼ばれてるね。ただ、『源氏物語』と大きく違うのは、この3種類の写本同士の相違の幅が非常に大きいんだ。」
「そんなに違うものなの?」
「『枕草子』では一つ一つのお話を『段』って呼んでいるけれど、文章の長さ、お話の内容、各段の並び方が、全く別の形をしているんだよ。」
「そんなに違うんなら、今はどれが『本物』ってことになってるの?」
「『本物』って訳じゃないけれど、僕たちが使う教科書に載っているのは『三巻本』って呼ばれる物から採ってきているんだ。でも、どうやらこれは一番最後にできた物だとも言われているんだ。」
「ええっ!じゃあ、私たちは偽物を学ぶことになるの?」
「偽物っていう言い方が適切かどうかは分からないけれども、オリジナルと呼ぶにはかなりの眉唾ものだってことだね。ただ『枕草子』の写本は、共通する本文を多く含みながらも大幅に異なった形態を持つ写本があるから、どれを底本にするかで論争があるんだ。」
「どういうこと?」
「例えば、『枕草子』の出だしの所、第1段はどんな文章か知ってる?」
「有名だから知ってるわよ。確か、
『春は、曙。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。』
だったわよね?」
「さすが学年主席だね。」
「変な褒め方しないでよ!」
そう言うと理英は永渕を睨んだ。
「ごめん、ごめん!そこは能因法師が所蔵していた能因本でも、
『春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。』
ってなっているんだ。」
「能因法師って、あの
『あらし吹く み室の山の もみぢばは 竜田の川の 錦なりけり』
って歌を詠んだ百人一首の人?」
「そうだよ。お見事っ!」
「それが清少納言とどう関わってくるの?」
「能因法師は本名を橘永愷といって、『枕草子』の原作者である清少納言の実子・橘則長に姉妹が嫁いでいて、姻戚関係にあるんだ。」
「そんな繋がりがあったのね。」
と理英は得心がいったという顔で答えた。
「ところが前田家本では、
『はるはあけぼの。そらはいたくかすみたるに、やうやうしろくなりゆくやまぎはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。』
ってなっているんだ。」
「ホントだ。少し変わってきてるわね。」
「さらに堺本では、
『春はあけぼのの空は、いたくかすみたるに、やうやう白くなり行く山のはの、すこしづつあかみて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたるもいとをかし。』
ってなってるんだ。」
「随分違っちゃうのね。」
「でも、もっと驚くのは、写本によって収録されている話の数が違うんだ。」
「そうなの?」
「例えば、写本の中には、清少納言に関する宮中のエピソードが一つも入っていない物が在るんだ。それらは、エピソード数で言えば、95話型・190話型・285話型の3種類が確認されているんだ。」
「それでさっき、清少納言の印象を聞いたのね。確かに宮中のエピソードが無ければ、『枕草子』は随分と精彩を欠いた物になるわね。気の抜けたコーラと言っても良いわ。」
「さらに、宮中のエピソードが入っているものにも、230話型と300話型の2種類があるんだ。」
「230話型には、どのエピソードが欠けているの?」
「230話型には第1段の『春は、曙。・・・』から第75段の『あぢきなきもの』までのお話がすっぽり抜けているんだよ。」
「それって、今の『春は、曙。・・・』の部分が入ってないってこと?」
「そうなんだ。突然『ここちよげなるもの』から始まっちゃう『枕草子』が複数存在するんだ。」
「本当?ちょっとショックだわ。『春は、曙。・・・』の文章がない『枕草子』があるなんて!全然知らなかった!」
「だから和辻哲郎先生なんかは大正時代に、堺本の『枕草子』を読んで不満を持って、これほど形式の違う『枕草子』が併存するのならば、その基本となる原型を追求すべきで、それをせずに語句の意味にばかり拘っている学者を批判したんだよ。」
「和辻哲郎って、あの『風土』を書いた有名な哲学者の?」
「そうだよ。日本人のものの考え方を知ろうとして、日本の古典を読み漁ったんだ。尤も批判だけではなくて、評価している部分もあるんだけどね。」
「評価しているのは、どういった点なの?」
「そうだね、第74段の『職の御曹司におはしますころ、・・・』と第82段の『さて、その左衛門の陣などに行きて後、・・・』との間に錯簡があることを発見した点なんかだよね。」
「錯簡?」
「『錯簡』っていうのは、綴じ違いのことだよ。古い写本にはよくあるらしくて、当時は本にページ数を打つ習慣が無かったから、1冊だけの写本の綴じ糸が切れてバラバラになっちゃったら、第三者は容易に復元することができなかったんだ。だからそこで間違って綴じちゃうと、お話の流れに食い違いが出来ちゃうんだよ。」
「それが今言った、第74段と第82段の部分なの?」
「そうだよ。この二つの段はもともと連続していたんだ。それは内容をよく読めば分かるんだ。」
「どういうお話なの?」
「第74段は中宮定子が、京都御所の中にある、宮内庁の『職の御曹司』という古い大きな建物に居た頃の話なんだ。『職の御曹司』の奥の方には鬼が出るという噂があったので、南側の端近くに住んで、その周りに女房達が詰めていたんだ。女房達の詰所の前は、宣陽門から建春門を通って御所へ出入りする貴族達の通り道だったんだよ。2つの門の間には左衛門の陣があって、そこに居て大声で先払いをする衛士の声を聞き知った女房達が、誰の声か当てようとするんだ。そこで、清少納言が左衛門の陣へ遊びに行ってみようと言い出すと、他の女房達も、我も我もと追い駆けて来るってところで終わっているんだ。」
「それで第75段以降はどうなってるの?」
「第75段は、さっき言った『あぢきなきもの 』になるんだ。第76段は『ここちよげなるもの』で、第81段の『もののあはれ知らせ顔なるもの』まで、全く違った種類のお話が続くんだ。」
「じゃあ、第82段はどういう内容になっていたの?」
「そこから、左衛門の陣へ行った話の続きが始まるんだ。その出来事の後、清少納言は里下がりをしていたんだけれど、中宮定子から参内を促す手紙が来るんだ。そしてそこには、左衛門の陣へ行った時の清少納言の格好について、中宮定子の感想が添えられているんだよ。」
「だから研究者たちは気が付いたのね!」
「そうなんだ。和辻先生はその部分では研究者たちの努力を評価してるんだよ。でも、『枕草子』本文の内容を見ると、もっと変なことに気が付くよ。」
「変なこと?」
「そう!例えば、『本能寺の変』はいつ起こったか知ってる?」
「う~っ!私年号を覚えるのは苦手なのよ~。でも明智光秀が謀反を起こす前に、
『ときは今 あめが下しる 五月かな』
って句を読んだから、5月だろうと思うんだけれど・・・」
「へえ~っ、有名な『愛宕百韻』の発句だね。」
「そうよ。確か『時は今 雨が下しる 五月哉』と詠むか、『土岐は今 天下治る 五月哉』と詠むかで、意味が全く違ってきちゃうって聞いたわ。」
「ハハハッ!でも、残念でした。『本能寺の変』が起きたのは、1582年の旧暦6月2日の未明だよ。年号を覚えるんなら、思いっ切り残酷なこととか、エッチなことと結びつけると覚え易いよ。」
「どういう風に?」
「この場合だと、まず教科書に載っていた織田信長を思い出して、彼が変質者で頭に女の子のイチゴ柄のパンティを被っている姿を思い描いてごらん。」
「ええっ!?」
「あとは川柳にして、『本能寺 いちごのパンツ(1582年)に 萌える信長』って覚えれば忘れないんじゃない?」
それを聞くと理英は、頬を赤らめて、
「もう~っ、永渕君のエッチ~!」
と言うなり、永渕の肩を強く叩いた。
「でも、もう忘れないでしょ?」
「確かに忘れたくても、忘れられそうにないわ!」
「ところで、『本能寺の変』では6月1日の夜中から6月2日の未明に、光秀は丹波亀山城を出陣したことになるけれど、その時光秀を照らしていた月はどんな月だったか分かる?」
「え~っ!?そんなの分かる訳無いじゃない!」
「どうして?今言った年号は西暦だから確かに太陽暦のものだけど、月日は当時のまま、つまり太陰暦のものだから、分かる筈だよ。」
「そっか!1日は朔の日だから、新月になるのね。じゃあ、月は殆ど出て無かったってのが正解ね!」
「そうだよ。それでも光秀は、槍の穂先や兜の前立てなんかが月の光を反射しないように気を付けて出陣したんじゃないかな?」
「でも、それが『枕草子』とどう繋がってくるの?」
「『枕草子』の第79段に、こういう文章が出てくるんだ。」
そう言うと永渕は、『枕草子』の該当ページを開いた。そこにはこういう文章が載っていた。
【第79段】
返る年の二月廿よ日、宮の、職へ出でさせたまひし御供にまゐらで、梅壼に残りゐたりしまたの日、頭の中将(藤原斉信)の御消息とて、「昨日の夜、鞍馬に詣でたりしに、今宵、方のふたがりければ、方違になむ行く。まだ明けざらむに帰りぬべし。かならず言ふべきことあり。いたう叩かせで待て」と、のたまへりしかど、「局にひとりはなどてあるぞ。ここに寝よ」と、御匣殿の召したれば、まゐりぬ。
久しう寝起きて下りたれば、「昨夜いみじう人の叩かせたまひし、からうして起きてはべりしかば、『上にか。さらば、かくなむと聞えよ』と、はべりしかども、『よも起きさせたまはじ』とて、臥しはべりにき」と語る。心もなのことや、と聞くほどに、主殿司来て、「頭の殿の聞えさせたまふ、『ただ今まかづるを、聞ゆべきことなむある』」と言へば、「見るべきことありて、上なむ上りはべる。そこにて」と言ひて、やりつ。
局は、引きもやあけたまはむと、心ときめきしてわづらはしければ、梅壼の東面の半蔀上げて、「ここに」と言へば、めでたくてぞ、歩み出でたまへる。桜の綾の直衣の、いみじう花々と、裏のつやなど、えも言はずきよらなるに、葡萄染のいと濃き指貫、藤の折枝おどろおどろしく織り乱りて、紅の色、うちめなど、輝くばかりぞ見ゆる。白き、薄色など、下にあまた重なりたり。狭き縁に、片つ方は下ながら、すこし簾のもと近う寄り居たまへるぞ、まことに絵に描き、物語のめでたきことに言ひたる、これにこそは、とぞ見えたる。
御前の梅は、西は白く、東は紅梅にて、少し落ち方になりたれど、なほをかしきに、うらうらと日のけしきのどかにて、人に見せまほし。御簾の内に、まいて、若やかなる女房などの、髮うるはしくこぼれかかりて、など言ひためるやうにて、ものの答えなどしたらむは、いますこしをかしう見所ありぬべきに、いとさだすぎ、ふるぶるしき人の、髮などもわがにはあらねばにや、ところどころわななき散りぼひて、おほかた色異なるころなれば、あるかなきかなる薄鈍、あはひも見えぬきはきぬなどばかりあまたあれど、つゆの映えも見えぬに、おはしまさねば、裳も着ず、袿姿にて居たるこそ、ものぞこなひにて、くちをしけれ。
「職へなむ、まゐる。ことづけやある。いつかまゐる」などのたまふ。「さても、昨夜、明しも果てで、さりとも、かねて、さ言ひしかば、待つらむとて、月のいみじう明きに、西の京といふ所より来るままに、局を叩きしほど、からうして寝おびれ起きたりしけしき、答へのはしたなさ」など、語りて笑ひたまふ。「むげにこそ思ひうんじにしか。など、さる者をば置きたる」と、のたまふ。げにさぞありけむと、をかしうもいとほしうもあり。しばしありて、出でたまひぬ。外より見む人は、をかしく、うちにいかなる人あらむと思ひぬべし。奥の方より見いだされたらむ後ろこそ、外にさる人やとおぼゆまじけれ。
暮れぬれば、まゐりぬ。御前に人々いと多く、上人などさぶらひて、物語のよきあしき、にくきところなどをぞ、定め、言ひそしる。涼、仲忠などがこと、御前にも、劣りまさりたるほどなど、おほせられける。「まづ、これはいかに。とくことわれ。仲忠が童生ひのあやしさを、せちにおほせらるるぞ」など言へば、「なにか。琴なども、天人の降るばかり弾きいで、いとわろき人なり。御門の御女やは得たる」と言へば、仲忠が方人ども、所を得て、「さればよ」など言ふに、「このことどもよりは、昼、斉信がまゐりたりつるを見ましかば、いかにめでまどはましとこそ、おぼえつれ」と、おほせらるるに、「さて、まことに常よりもあらまほしうこそ」など言ふ。「まづそのことをこそは啓せむと思ひて、まゐりつるに、物語のことにまぎれて」とて、ありつることども聞えさすれば、「誰も見つれど、いとかう、縫ひたる糸、針目までやは見透しつる」とて笑ふ。
「西の京といふ所の、あはれなりつること。もろともに見る人のあらましかばとなむ、おぼえつる、垣なども皆古りて、苔生ひてなむ」など語りつれば、宰相の君の「瓦に松はありつや」と答へたるに、いみじうめでて、「西の方、都門を去れること、いくばくの地ぞ」と口ずさみつることなど、かしかましきまで言ひしこそ、をかしかりしか。
という原文が載っていた。そして、その後ろには、
【第79段・現代語訳】
明くる年の二月二十日過ぎに、中宮が職の御曹司にお出ましになったお供に加わらないで、梅壺に居残った、その翌日、頭の中将(藤原斉信)からのお手紙ということで「昨日の夜、鞍馬寺に参詣したのだが、今晩、方角が悪いので、方違えに、ほかにとまる。まだ夜の明けぬうちに宮中に帰るつもりだ。ぜひとも話したい用事がある。あまり局の戸を叩かせないように、そのつもりで待っていてほしい」と言って来られたが、「局にひとりきりで残って居ることはあるまい。こちらで寝なさい」と、御匣殿からのお呼びがあったので、そちらに参上した。
寝坊して起きて局にさがって来ると、留守していた下仕えが「昨夜、たいそうひどく戸を叩くお方がいらっしゃったので、やっとのことで起きて聞きましたところ、『御匣殿の所にいるのか。それなら、これこれと申し上げよ』とのことでしたが、『お取次ぎしても、よもやお起きにはなりますまい』と、おことわりして寝てしまいました」と、報告する。気のきかないことをしたものだなと聞くうちに、主殿司がやって来て、「頭の殿の御伝言です、『今これから退出するのだが、お話ししたいことがある』」と言うので、(清少納言)「片づけなければならない用事があるので、御座所にこれから参上します。そこでお目にかかります」と言って帰した。
局では、戸を引きあけなどなさるかもしれないと心配で、厄介でもあるので、梅壺の東側の半蔀を上げて、(清少納言)「どうぞ、こちらへ」と言うと、すばらしい容姿を現して歩み寄られた。桜がさねの綾の直衣のたいそう花やかで、裏の色つやなどなんとも言えず美しいのに、薄紫染めのごく濃い指貫には藤の花の折枝の模様を実に絢爛豪華に白く浮き織りにして、出だし袿の紅の色の打った光沢など、輝くばかりに美しい。その紅の下にはさらに白や薄紫色などの下着が多く重ねられている。狭い簀子に、片足は下におろしたまま、心もち簾の根際近くに身を寄って腰かけていらっしゃる御様子というものは、ほんに絵に描いたり、物語にすばらしいものとして説き立てている貴公子とは、まさしくこのことなのだなと思われた。
梅壺庭前の梅は、西は白く、東のは紅梅で、もうすこし散りかかっているけれども、それでもまだ風情に富んでいるのに加えて、うらうらとのどかな日ざしで、人に見せたいようだ。まして御簾の内にはうら若い女房などが、物語によく、見事な黒髪が長くこぼれかかって、などと言っているような姿で、外の頭の中将に受け答えしているといった図ならば、この場の情景ももうすこし風流で見所があるであろうに、もう盛りもとうに過ぎて、なんの見ばえもなくなった私のようなお婆さんが、髪なども自分のではないかして、所々ちぢれ乱れて、それに、いつもと違って皆黒い喪服を着ているころとて、ごく薄い鈍色のうわ着に、重ねの色合いもない着物ばかりたくさん着ているけれども、ちっとも見ばえがしない上に、中宮御不在のおりとて、裳もつけず、袿姿で居たのが、なんともぶちこわしで、情けない次第だった。
(斉信)「職にこれからお寄りする。何か伝言でもあるなら―――。いつ参上するのか」などとおっしゃる。(斉信)「それにしても、昨夜、方違えに行った先で夜を明かしてもしまわないで、こんな時刻だからと言っても、前々ああ言っておいたのだから、待っているだろうと思って、月のたいそう明るい中を、西の京くんだりから帰り着く早々、局を叩いたところ、やっとのことで寝ぼけて起きてきたその様子、返事のとりつく島もないつっけんどんな調子といったら、なかったな」などと昨夜の模様を語ってお笑いになる。(斉信)「まったくもって、がっかりしたな。なんで、あんな者を使っているのか」と、おっしゃる。ほんに、そうでもあったろうと、おかしくも、お気の毒でもある。しばらくお話になってから、出て行かれた。
外から見る人がいたら、風流な想像をめぐらして、御簾の内にはどんな美人が居るかと思うことだろう。部屋の奥の方から私の後ろ姿を見る人がいたら、外にそんな立派な貴公子がいたとは夢にも思われないに違いない。
その日、暮れてから、職の御曹司に参上した。中宮のお前には女房たちが大勢はべり、殿上人なども伺候していて、物語のよしあし、気に入らぬ所などを議論して、論難しているところだった。涼や仲忠など、宇津保の諸人物について、中宮にもその優劣について御意見をお述べになる。ある女房が、「さあさあ、この問題についてあなたはどうお考えです。早く意見を申し述べなさい。上様には、仲忠の子供のころの生い立ちのみじめさをしきりに難点としておっしゃっておいでですよ」など言うので、(清少納言)「いえいえ、問題になりません。琴など弾いても、天人が降りて来た程度の奇瑞に過ぎず、はなはだ見ばえのしない人物です。いったい涼は、仲忠のように、帝のお娘御を北の方に頂戴したでしょうか」と言うと、仲忠びいきの連中は勢いを得て、「やっぱり、ねえ」などと気勢をあげる。と、中宮は「こんな物語の人物の優劣論よりは、今日の昼間、斉信がやって来た時の姿をお前が見たならば、どんなに夢中になってほめそやすかと思われたことだった」と、おっしゃると、女房たちが「ほんに、いつもよりずっとすばらしかったわ」などとあいづちを打つ。 (清少納言)「いえ実は私も、何よりもあのお方のすばらしかったことを申し上げようと思って参上したのですが、物語の議論にとりまぎれて」と言って、昼間の会見の模様を言上すると、聞いていた女房たちも、「それは皆、あのお姿はとっくりと拝見はしましたけれど、この人のように、着物の縫い糸やその針目までこまかく観察したでしょうか」と言って笑う。
頭の中将(斉信)が、「西の京という所の、寂しく荒れ果てていたこと。一緒に眺める人がいたら、いっそうあわれもますことであろうにと思われたことでした。築地などもすっかり古びて、苔がびっしり生えていまして」など語ったところ、宰相の君が、「瓦に松はありましたか」と応じたのに、中将(斉信)がひどく感じ入って、「西の方都門を去れること、いくばくの地ぞ」と口ずさびに吟じたことなど、女房たちが、口々にかしましいくらい言い立てたのは、いかにも風流な話題だった。
という現代語訳が載っていた。そのページを指し示しながら永渕は、
「この段の中に藤原斉信のこういう科白が出てくるでしょう?
『さても、昨夜、明しも果てで、さりとも、かねて、さ言ひしかば、待つらむとて、月のいみじう明きに、西の京といふ所より来るままに、局を叩きしほど、からうして寝おびれ起きたりしけしき、答へのはしたなさ』
っていうものなんだけれど・・・」
と喋り出した。
「それがどうしたの?」
思わず理英が尋ねる。
「君は月の呼び名を知ってる?十五夜を『満月』もしくは『望月』って呼ぶような・・・」
「えっと、確か十六夜を『十六夜』って言うのよね。『十六夜日記』ってのもあるし・・・」
「そうだよ。それから?」
「十七夜は、立ったままで月が出てくるのを待つから『立待月』。十八夜は、月が出てくるのを立ったままで待つのは長過ぎるから、座って待つ『居待月』。十九夜は、座って待つのも長過ぎるから、横になって待つ『寝待月』。二十夜は『更待月』で、二十三夜は『下弦の月』、二十六夜は『有明月』で、三十夜が『晦日月』だったと思うわ。」
「大正解!ところが、この段は、
『返る年の二月廿よ日、宮の、職へ出でさせたまひし御供にまゐらで、梅壼に残りゐたりしまたの日、頭の中将(藤原斉信)の御消息とて、「昨日の夜、鞍馬に詣でたりしに、今宵、方のふたがりければ、方違になむ行く。まだ明けざらむに帰りぬべし。かならず言ふべき今年あり。いたう叩かせで待て」と、のたまへりしかど、「局にひとりはなどてあるぞ。ここに寝よ」と、御匣殿の召したれば、まゐりぬ。』
という文章で始まってるんだよ。」
「えっと、『二月廿よ日』って、具体的にいつのことか分かっているの?」
「中宮定子が、宮中の梅壺の御殿から中宮職へ移ったのは、記録に拠れば長徳2年2月25日だから、このエピソードは2月27日のことになる。太陰暦では、満月は必ずその月の15日だから、この時の月は27日だと満月から12日後の月になるんだ。」
「ってことは、月はかなり細くなってるんじゃない?」
「それだけじゃないよ。月明かりも微かなものになっている筈なんだ。」
「あれっ?でも斉信は、『月のいみじう明きに』って言っているわね。これは現代語訳すると、『月のたいへん明るい中を』って意味になっちゃわない?」
「どう?おかしいでしょう?」
「確かに!もし本当に清少納言が、実際の出来事を基に文章を書いたんだとすると、藤原斉信がこんなことを言う筈が無いわ!」
それを聞くと永渕は、今度は別のページを開きながら、
「でも、ここだけじゃないよ。287段の『十二月二十四日、宮の御佛名の初夜の・・・』という文章にも同じ様な記述があるんだ。」
永渕はそう言うと、別のページを開いた。そこにはこういう文章があった。
【第287段】
十二月二十四日、宮の御佛名の半夜の導師聞きて出づる人は、夜中ばかりも過ぎにけむかし。
日ごろ降りつる雪の、今日はやみて、風などいたう吹きつれば、垂氷いみじうしたり、土などこそ、むらむら白き所がちなれ、屋の上はただおしなべて白きに、あやしき賤の屋も雪に皆面隠して、有明の月のくまなきに、いみじうをかし。銀などを葺きたるやうなるに、水晶の滝など言はましやうにて、長く短く、ことさらに掛けわたしたると見えて、言ふにもあまりてめでたきに、下簾もかけぬ車の、簾をいと高う上げたれば、奧までさし入りたる月に、薄色、白き、紅梅など、七つ八つばかり着たる上に、濃き衣のいとあざやかなるつやなど、月に映えてをかしう見ゆるかたはらに、葡萄染の堅紋の指貫、白き衣どもあまた、山吹、紅など着こぼして、直衣のいと白き、紐を解きたれば、脱ぎ垂れられていみじうこぼれ出でたり。指貫の片つ方は、軾のもとに踏み出したるなど、道に人のあひたらば、をかしと見つべし。月のかげのはしたなさに、後ざまへすべり入るを、常に引き寄せ、あらはになされて、わぶるもをかし。「凛々として氷鋪けり」といふことを、返す返す誦じておはするは、いみじうをかしうて、夜一夜もありかまほしきに、往く所の近うなるもくちをし。
【第287段・現代語訳】
十二月二十四日、中宮の御仏名の半夜の導師を聴聞して退出する人は、もう夜中のころも過ぎていたであろう。
ここ幾日も降った雪が、今日はやんで、風がひどく吹いたりしたので、家々の軒からはつららがたいそう垂れている。地面などは、まだらに白い所が多いといった程度だが、屋根はどこもすっかり真白なのに、みすぼらしい小家も、雪ですっかり醜さを隠して、有明の月が明るくあたりを照らしているので、とてもきれいな景色だ。屋根はさながら銀でも葺いたような美しさなのに、水晶の滝とでも形容したいように、つららが長く短く、わざわざ趣向をこらして掛けわたしたように見えて、言葉も及ばないすばらしさの中を、下簾もかけない車の、簾を高々とまき上げてあるので、奥までさし込んだ月の光に、薄紫、白、紅梅など七、八枚ほど重ね着た上に、濃い紫の表着のたいそうあざやかな光沢など、月光に映えて美しく見えるそのかたわらに、葡萄染めの固紋の指貫に、白いひとえなどたくさん、山吹色や紅の衣などをいだし衣にして、直衣の真白なのが、入紐を解いているので、はだけて、下の衣がたいそうこぼれ出ている。指貫の片足は、車の軾の所に踏み出しているところなど、途中で誰かと行き会ったら、しゃれた恰好と見るに違いない。月の光の明るさがきまり悪いので、女が後ろの方に引っ込むのを男はしょっちゅうそばに引き寄せ、あらわな様子にされて迷惑がるのも、おもしろい。「凛々として氷鋪けり」という詩を、男がくりかえし吟じていらっしゃるのは、とてもおもしろくて、一晩中でもこうして車に乗っていたいのに、目的の所が近くなるのも、残念だ。
永渕は、
「ほら、この文章の前半で、『地面の土などは、まだらに雪の白い所が多い感じだが、屋根の上はほとんど真っ白なのに、怪しげなみすぼらしい卑賤の者の家も、雪がすっかりとその醜い様子を隠して、有明の月が陰なく辺りを照らしているので、とても趣きがある。』って言ってるのに、最後の方では、『月の光が明るくて体裁が悪いので、女が後ろの方に引っ込むのを、男は常に自分へと引き寄せて、二人の関係があらわにされてしまい、女が嫌がっているのも面白い。』ってなってるんだ。でも、有明の月ならば、夜中の0時から1時の間に地平線に姿を現す筈なんだ。しかも京都には東山があるから、月の出初めは山影に遮られて、殆ど月明かりは届かない筈なんだよ。それなのに『月の光が明るくて』って、どういうことなんだろうね?」
と原文を指差しながら、自己流の現代語訳をして説明した。
「因みに第79段に出てくる斉信っていうのは、蔵人頭の藤原斉信のことで、この役職は天皇家の秘書官的な仕事をするところなんだけれど、当時は「所」といわれる天皇家の家政機関一切を取り扱うようになっていたんだ。当然後宮の仕事もしていたから、定子の御殿にもしょっちゅう公務で出入りしていたんだけれど、実は道長派に属していて、定子に対していろいろと嫌がらせをしているんだよ。」
「嫌がらせって?」
「この記述のある長徳2年2月25日というのは、道長の意を受け蔵人頭として、中宮定子を宮中から退出、つまり追い出した日なんだ。」
「ええっ!?」
「しかも中宮が宮中から退出するというのは一つの儀式になっていて、いろいろと決まりごとがあるんだけれど、それ相応の乗り物や従者が必要な筈なのに、その世話をしなければならない蔵人頭が鞍馬に参詣なんてしちゃったら、配下の蔵人の役人たちは大変だったと思うし、定子たちも何かにつけて不便だったと思うよ。道長のご機嫌を損ねないためにサボタージュしたとしか思えない、何とも狡猾な態度だよ。」
「確かに酷いわね。でもそうなると、斉信っていうのは、決して嫌々道長の味方になった訳じゃないわよね?」
「どっちかって言うと、打算があって積極的に道長の味方をして、出世街道を歩いてるとしか思えないね。それは斉信のとった行動を、一つ一つ検証していけば分かることだよ。」
「でも、それが本当ならば、定子本人だけでなく、定子付きの女房達は、斉信の不誠実な態度を憎んだはずよねえ。でも『枕草子』にはそういう記述は無いのかしら?」
「残念ながら、全く無いね。清少納言は、藤原斉信の応対を頻繁に勤めていたようだけれど、むしろ『枕草子』の清少納言は、彼と親しくしていることを、自慢しているふしがあるよ。もし本当にそうなら、僕は清少納言という人の、中宮定子への忠誠心を疑うね。本当に中宮定子を慕っていたのならば、恨み言の一つも書いていてもおかしくないんじゃないの?」
「ブチ君って、結構細かい性格してるわね!」
「じゃあ、細かいついでにもう一つ、話をしておこうか。『枕草子』の第130段に、
【第130段】
故殿の御ために、月ごとの十日、経、仏など供養ぜさせたまひしを、九月十日、職の御曹司にて、せさせたまふ。上達部、殿上人、いと多かり。清範、講師にて説くこと、はた、いと悲しければ、ことにもののあはれ深かるまじき若き人々、皆泣くめり。・・・(以下略)
という文章があるんだけれど、ここの現代語訳はたいてい、
【第130段・現代語訳】
亡くなった道隆公の追善のために、中宮様は毎月の十日に、お経や仏像などを供養なさったが、九月十日に、職の御曹司で、とり行わせられた。上達部や殿上人がたくさん参列した。清範が講師として説経したその内容が、ひどく悲しみをそそるので、世の無常といったことに格別縁もなさそうな若い女房たちも皆涙をしぼる様子だ。・・・(以下略)
となっているんだ。」
「それがどうかしたの?」
そう言うと理英は、永渕の手許を覗き込んだ。
「まだ授業で古文の文法を習っていないから分からないと思うけれど、この最後の文章の現代語訳は文法的に見て凄く変なんだ。」
「どういうこと?」
「ここの『皆泣くめり。』の『めり』っていうのは、本来『推量』や『婉曲』の意味を持つ助動詞なんだよ。だからここの現代語訳は『泣くらしい。』とか『泣くようだ。』って訳すのが正しい筈なんだ。でも、中には、『特別に諸行無常の真理とは縁が深いわけでもない若い女房たちも、みんなで泣いてしまった。』となっているものもあるんだ。」
「それ、本当なの?」
「例えば、同じ『枕草子』の第64段を見てごらん。」
と言うと永渕は、同じ『枕草子』の本を捲って違うページを示した。そこには、
「草の花は撫子、唐のはさらなり、大和のも、いとめでたし。女郎花。桔梗。朝顔。刈萱。菊。壺すみれ。(草の花は、なでしこ、唐のは言うまでもなく、大和のも、たいへんすばらしい。女郎花。桔梗。朝顔。刈萱。菊。壺すみれ。)」
という書き出しで始まる、第64段の文章が載っていた。永渕が指差したのは、その最後の段落で、
「これに薄を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。秋の野のおしなべたるをかしさは、薄こそあれ。穂先の蘇枋にいと濃きが、朝霧に濡れてうちなびきたるは、さばかりの物やはある。秋の果てぞ、いと見所なき。色々に乱れ咲きたりし花の、かたもなく散りたるに、冬の末まで頭の白くおほどれたるも知らず、昔思ひいで顔に風になびきてかひろぎ立てる、人にこそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしもこそ、あはれと思ふべけれ。(この中に、薄を入れないのは、まったくもって合点がゆかないという意見が出そうだ。だいたいが、秋の野の風情というものは、薄がしょって立っているようなものだ。穂先の赤らんだのが、朝露に濡れて風になびいている風情といったら、ほかにこれほどの物があろうか。ただし秋の終りは、まったくみっともない。さまざまな色どりで思い思いに咲き乱れていた秋草の花が、あとかたもなく散ってしまった後、冬の終りまで、頭がもう真白にボサボサになってしまったのも知らぬげに、昔の盛りの時を思い出しているような風情で、風になびいてゆらゆら立っている様は、まるで人間の一生のようだ。人生の象徴といった意味をそこに読み取って、そうした薄の姿に特別感慨をもよおす人もおそらくいるに違いない。)」
という部分の初めの行だった。
「ほら、この部分。『これに薄を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。』という部分があるだろう?この現代語訳を見てごらん。」
「ホントだ!『これに薄を入れぬ、いみじうあやしと、人言ふめり。』が『この中に、薄を入れないのは、まったくもって合点がゆかないという意見が出そうだ。』と訳されてるわ!」
「これを見てもわかるように『めり』は『~ようだ』とか『~だろう』と訳すべきなんだよ。」
「それがどうして第130段ではそうなっていないの?」
「そう訳すと、今度は逆に、第130段がおかしなことになるからだよ。この『枕草子』の作者が本当に清少納言ならば、その泣く様子を目の前で見ている筈だからね。だから本来の訳し方をすると、この文章は『枕草子』の作者が清少納言ではないことを裏付ける証拠になっちゃう筈なんだ。」
「そんな細かいこと、よく気付いたわね。」
「『神は細部に宿る』って言って欲しいね。じゃあ、今度はもっと大雑把な話をしてみようか?」
「何々?」
「『枕草子』の第100段に、『淑景舎、春宮にまゐりたまふほどのことなど・・・』っていう文章があるんだけれど、ここでは関白の藤原道隆が、しきりに冗談を言って場を盛り上げる父親として描かれているんだ。『枕草子』には、『日一日、ただ猿楽言をのみしたまえ。(一日中、ただひたすら冗談ばかり仰る。)』と記されているんだよ。」
【第100段】
(前略)
さて、ゐざり入らせたまひぬれば、やがて御屏風に添ひつきてのぞくを、「あしかめり。後めたきわざかな」と、聞えごつ人々も、をかし。障子のいと広うあきたれば、いとよく見ゆ。上は、白き御衣ども、紅の張りたる二つばかり、女房の裳なめり、引きかけて、奥に寄りて東向きにおはすれば、ただ御衣などぞ見ゆる。淑景舎は、北にすこし寄りて、南向きにおはす。紅梅いとあまた、濃く薄くて、上に濃き綾の御衣、すこし赤き小袿、蘇枋の織物、萌黄の若やかなる固紋の御衣たてまつりて、扇をつとさし隠したまへる、いみじう、げにめでたくうつくしと見えたまふ。殿は、薄色の御直衣、萌黄の織物の指貫、紅の御衣ども、御紐さして、廂の柱に後をあてて、こなた向きにおはします。めでたき御有様を、うち笑みつつ、例のたはぶれ言せさせたまふ。淑景舎のいとうつくしげに、絵に描いたるやうにて居させたまへるに、宮はいと安らかに、今すこし大人びさせたまへる御けしきの、紅の御衣に光りあはせたまへる、なほたぐひはいかでか、と見えさせたまふ。
御手水まゐる。かの御方のは、宣耀殿、貞観殿を通りて、童女二人、下仕四人して、持てまゐるめり。唐廂のこなたの廊にぞ、女房六人ばかりさぶらふ。狭しとて、かたへは御送りして皆帰りにけり。桜の汗衫、萌黄、紅梅などいみじう、汗衫長く引きて、取り次ぎまゐらする、いとなまめき、をかし。織物の唐衣どもこぼれいでて、相尹の馬頭の女少将、北野宰相の女宰相の君などぞ、近うはある。をかしと見るほどに、こなたの御手水は、番の釆女の、青裾濃の裳、唐衣、裙帯、領布などして、面いと白くて、下仕など取り次ぎまゐるほど、これはた公しう唐めきて、をかし。
御膳のをりになりて、御髮上まゐりて、蔵人ども、御まかなひの髮上げて、まゐらするほどは、隔てたりつる御屏風もおしあけつれば、かいま見の人、隠れ蓑取られたるここちして、あかずわびしければ、御簾と几帳との中にて、柱のとよりぞ見たてまつる。衣の裾、裳などは、御簾の外に皆押し出だされたれば、殿、端の方より御覧じいだして、(道隆)「あれは誰そや。かの御簾の間より見ゆるは」と、とがめさせたまふに、(宮)「少納言が、ものゆかしがりてはべるならむ」と申させ給へば、(道隆)「あなはづかし。かれは古き得意を。いとにくさげなる娘ども持たりともこそ見はべれ」などのたまふ御けしき、いとしたり顔なり。
あなたにも御膳まゐる。(道隆)「うらやましう、方々の皆まゐりぬめり。とくきこしめして、翁、媼に御おろしをだに賜へ」など、日一日、ただ猿楽言をのみしたまふほどに、大納言殿、三位の中将、松君率て(ゐて)まゐりたまへり。殿、いつしかと抱き取りたまひて、膝に据ゑたてまつりたまへる、いとうつくし。狭き縁に、所狭き御装束の下襲引き散らされたり。大納言殿は、ものものしうきよげに、中将殿は、いとらうらうじう、いづれもめでたきを見たてまつるに、殿をばさるものにて、上の御宿世こそ、いとめでたけれ。(道隆)「御円座」など聞えたまへど、(大納言)「陣に着きはべるなり」とて、急ぎ立ちたまひぬ。
しばしありて、式部の丞なにがし、御使にまゐりたれば、御膳宿の北に寄りたる間に、褥さし出だして据ゑたり。御返、今日はとく出ださせたまひつ。まだ褥も取り入れぬほどに、東宮の御使に、周頼の少将まゐりたり。御文取り入れて、渡殿は細き縁なれば、こなたの縁に異褥さし出だしたり。 御文取り入れて、殿、上、宮など御覧じわたす。(道隆)「御返、早」とあれど、とみにも聞えたまはぬを、(道隆)「なにがしが見はべれば、書きたまはぬなめり。さらぬをりは、これよりぞ、間もなく聞えたまふなる」など申したまへば、御面はすこし赤みて、うちほほゑみたまへる、いとめでたし。(上)「まことに、とく」など、上も聞えたまへば、奥に向きて書いたまふ。上、近う寄りたまひて、もろともに書かせたてまつりたまへば、いとどつつましげなり。宮の御方より、萌黄の織物の小袿、袴、おし出でたれば、三位の中将、かづけたまふ。頸苦しげに思うて持ちて立ちぬ。
松君の、をかしうもののたまふを、誰も誰も、うつくしがりきこえたまふ。(道隆)「宮の御子たちとて引き出でたらむに、わるくはべらじかし」など、のたまはするを、げに、などかさる御ことの今まで、とぞ、心もとなき。 (以下略)
【第100段・現代語訳】
(前略)
お身づくろいが終って、お座敷にいざって御入御になったので、私もそのまま御屏風にぴったり身を寄せて覗くのを、(女房)「無作法だわ。そんなことをしていいのかしら」と、後ろでぶつぶつ言う人たちのいるのもおもしろい。二間との隔ての障子は広々とあけられているので、様子はよく見える。北の方は、白い表着をお召しになって、紅の張った打衣をその下に二枚ほど、女房の裳を借りられたのであろう、裳をひきかけて、やや奥まった座に東を向いていらっしゃるので、こちらからはお召物だけぐらいしか見えない。淑景舎は、北にすこし寄ったお席に南向きにいらっしゃる。紅梅の袿を沢山、濃いのから薄いのを重ねて、その上に濃い紅の綾のお召物、さらにすこし赤みがかった小袿――――これは蘇芳の織物――――を重ね、萌黄色の若々しい感じの固紋の表着をお召しになって、檜扇でぴったり顔を隠していらっしゃる御様子、お美しく、ほんにすばらしくおかわいらしくお見えになる。関白様は、薄紫色の御直衣に萌黄色の織物の指貫、下に紅の内衣を幾枚もお重ねになり、入紐をきちんとさして、廂の柱に寄りかかって、こちらを向いて坐っていらっしゃる。お二人の姫君のお美しいお姿を前にして、にこにこしながらお得意の冗談を飛ばしていらっしゃる。淑景舎がたいそうおかわいらしく、まるで絵に描いた姫君のように坐っていらっしゃるのに対して、中宮は、ゆったりと落ち着いた態度で、姉君らしく一段と大人びていらっしゃる御様子が、紅のお召物にまるで照り映えるようにお美しいのは、やはりくらべるもののないご立派さだと、お見えになる。
朝のおきよめの水をさし上げる。淑景舎のは、宣耀殿、貞観殿と、間の御殿を通って、童女二人、下士四人で、お運びしてくるようだ。貞観殿との間の廊の、唐廂よりこちらの所に、淑景舎お付きの女房六人ほどが控えている。狭いということで、半分ほどの女房は、淑景舎をこちらにお送りしてから皆あちらに帰って行ったのだった。童女二人は桜がさねの汗衫に、萌黄色や紅梅色の着物など見事な色合で、汗衫の裾をうしろに長く引いて、おきよめの調度類を手から手に取り渡してさし上げるのが、とてもしゃれた美しさだ。織物の唐衣が御簾から押し出されて、相尹の馬の頭の娘の少将や、北野宰相の娘の宰相の君などが、廊の近い所に坐っている。そうした光景に目を楽しませていると、中宮のおきよめの水は、番に当たった采女が青色の裾濃の裳に、唐衣、裙帯、領布といったいでたちで、白粉を真白に塗り、下仕たちが手に手に取り渡してさし上げる光景、これは淑景舎とはこと変って、いかにもお后らしく儀式ばった唐風の風儀で、おもしろい。
朝のお食事の時になって、理髪の女官が参上して、女蔵人たちが、お給仕のために垂れ髪を結い上げて、中宮にお食膳をさし上げる段になると、隔てとして仕切ってあったこの屏風もおしあけてしまったので、覗き見をしていた私は、まるで鬼が隠れ蓑を取られたような恰好になって、それでも、まだまだ見たい気があるので、窮余、御簾と几帳との間に隠れて、柱の外側の所から、拝見する。ところが、着物の裾や裳などは、御簾の外にすっかり押し出されているので、関白様は、部屋の端の方からこれを見つけられて、(道隆)「あれはいったい誰かね。あちらの御簾の間から見えているのは」とお見とがめになるので、(宮)「少納言が様子を見たがっておりますのでしょう」と申し上げなさると、(道隆)「これは閉口だな。彼女は昔から懇意の間柄だよ。ひどくみっともない娘たちを持っていると見られるのは困るな」などおっしゃる御様子、たいそう御自慢そうな御様子である。
淑景舎にもお食事をさし上げる。(道隆)「皆様のお召し上りを、こちらは指をくわえて見ていなくてはならぬ。早くおすませになって、この爺さん婆さんにも、せめておさがりをやって下され」などと、一日中おどけた冗談ばかり連発しておられるうちに、大納言様と、三位の中将が、幼い松君を一緒にお連れしていらした。関白様は、早速お抱き取りになって膝の上におすわらせになる、その松君のおかわいらしさといったらない。お二人は、狭い東の簀子に場所ふさげな堂堂たる正装のお姿なので下襲ねの裾など長々と引き散らされている。大納言様はでっぷりと色白でいらっしゃり、中将様はいかにもきけ者といった感じ、どちらも御立派なお姿を拝見すると、関白様の御運勢もさることながら、母北の方の御果報というものは、なんともすばらしい。(道隆)「敷物をお敷き」などおっしゃるけれども、(伊周)「これから陣の座に参りますから」とおっしゃって、急いで座を立たれた。
それからしばらくしてから、式部の丞誰やらが蔵人として帝からのお手紙のお使いで参上したので、御前宿からすこし北に寄った間の簀子に敷物をさし出して坐らせた。中宮の御返事は、今日はすぐに出来てお渡しになられた。まだその勅使の敷物を取り入れないうちに、春宮のお手紙のお使いとして、周頼の少将が参上した。お手紙を受け取って、貞観殿との間の渡殿の簀子は細くて狭いので、こちらの御殿の東の簀子に別の敷物をさし出した。お手紙を受け取って、関白様、母北の方、中宮などが順に御覧になる。(道隆)「お返事を、早く」と、おせかせになるけれども、はずかしがってすぐにもお書きにならないので、(道隆)「私が拝見しているから、お書きにならぬのであろう。そうでない時は、こちらから進んでひっきりなしにお手紙をさし上げられるらしいが」などとおからかいなさると、淑景舎のすこしお顔を赤らめて困ったような笑みを浮べていらっしゃるのが、とてもすばらしい。(母君)「ほんに、お早く」などと母北の方も申し上げなさるので、後ろ向きになってお書きになる。北の方がおそばに寄って一緒になってお書かせなさるので、いよいよおきまり悪そうにしていらっしゃる。御主人たる中宮方から、萌黄の織物の小袿と袴とを禄として簀子におし出したので、三位の中将がこれを御使者にお授けになる。肩にかけると頸が苦しいかして手に持って帰って行く。
松君が、かわいらしく何かおっしゃるのを、どなたもどなたもかわいくてたまらぬというふうでいらっしゃる。(道隆)「中宮のお産みになった皇子ということで人前に出しても、ちっともおかしくはないな」などと関白様がおっしゃるにつけても、ほんに、どうして中宮には今までお産のこともおありなさらぬのだろうと、気にかかることではある。(以下略)
「それはいつの出来事なの?」
「淑景舎というのは、藤原道隆の次女の藤原原子のことで、彼女が東宮妃になったのは正暦6年、つまり995年の1月のことだから、その直後の2月20日以降ということになるね。」
「中宮定子の妹ってことね。何だか建物の名前みたいね。」
「三条天皇が皇太子だった頃の妃で、この当時は宮中で住んでいた建物の名前で呼ばれていたんだよ。確かに、ここには道隆の燥いでいる姿が描かれているんだけど・・・」
「本当は違うって言いたい訳ね。」
「この年は3月9日に改元されていて、元号では正暦6年及び長徳元年なんだけど、この頃の道隆がこんなに元気な筈はないんだ。道隆は、前年の11月13日から病の床に就いていて、この年の1月5日には重体になっているんだよ。そして2月5日には関白職の辞表を出しているんだ。」
「えっ!そうなの?」
「でも、なかなか受理されなかったから、2月26日に辞表を再度提出し、3月9日には、嫡男だった三男の伊周を関白の臨時代理に任命するんだ。辞表は4月3日になってやっと受理されるんだけれど、4月10日には43歳で亡くなっちゃうんだ。」
「道隆は43歳で亡くなったって言ったけれど、死因は何なの?」
「飲水病つまり糖尿病なんだ。道隆は大酒飲みだったらしくて、『大鏡』にも死因は酒だとわざわざ書いてあるし、『栄花物語』には糖尿病患者特有の症状が記されているんだ。この病気は突然悪くなる病気じゃなくて、徐々に悪くなっていくから、今のように医学が進んだ時代でも、死ぬ1~2か月前の糖尿病患者は、倦怠感から元気が無く寝込んでいるものなんだよ。ましてや、インシュリン注射なんて存在しない平安時代の患者がどういう状態になっているのか、容易に想像できるんじゃない?」
「私は医学的なことは分からないけれど、1月5日には既に重体だったって本当なの?」
「1月5日に、道隆は宮中に参内するんだけれど、天皇の御前に出ることができずに、御座所の近くに在った女房達の詰所まで来たのに帰ってしまうんだ。おそらく、もう一歩も自分の足では歩けなかったんだと思うよ。」
「でも、それで重体だってことになるの?」
「なるよっ!関白っていうのは天皇より先に上がってきた書類を見て政策を決める仕事だから、常に天皇の側に居なくてはお話にならないんだ。それが御前に出ることもかなわず、2度も辞表を出したってことは、政治生命を絶たれたのと同じ意味だよ。」
「糖尿病からくる倦怠感のために、もう関白職を続ける気が失せたってことは考えられないの?」
「それはないと思うよ。道隆はつい2年前の正暦4年、つまり993年に関白になったばかりだから、まだ関白職への執着は十分にあったと思うよ。もう回復の見込みがないことを知っていたとしか思えないよ。」
「確かに、道兼と道長という二人の弟が、自分の後を襲うのは分かっていたでしょうし、自分の跡継ぎの伊周はまだ若かった筈だから、石に噛り付いてでも関白職を手放したくはなかったでしょうね。」
「そんな状態なのに、2月半ば、つまり最初の辞表を出した10日後に、同じ御所の中の定子の御殿へ行って、機嫌良く一日中冗談を言っているなんて考えられないよ。」
「でも、もし永渕君の言う通りだとしても、『枕草子』のこの部分だけは、清少納言本人が書いた物じゃないってことにしかならないわ。」
その返事を聞くと、永渕はクスリと笑ってから言った。
「じゃあ、もう一つおかしな点を挙げようか。」
「まだ何かあるの?」
「藤原道隆の系統は『中関白家』って呼ばれてるんだけれど、道隆の死後どうなったか知ってる?」
「没落して政権の中枢からは遠ざかってしまった、ってことは知ってるけれど・・・」
「清少納言が中宮定子の御殿に出仕していたのは、993年から中宮定子が出産で亡くなる1000年までの約8年間と考えられているんだけれど、その期間中に中関白家と中宮定子の境遇は激変するんだ。でも、『枕草子』にはそういった出来事に関する記述が一切出てこないんだ。もし記してくれていれば、超一級の歴史的資料になったのにね。」
「それは、清少納言が定子の身の回りのお世話をするための女房だったから、気が付かなかったんじゃないの?」
「そんな馬鹿な!当時の貴族が政治の実権を握るためには、自分の娘や姉妹を後宮へ入れて皇子を生ませ、その皇子を即位させることによって、やっと外戚として政権を掌握することができたんだ。だから宮中に勤める女房たちの御殿ていうのは、後宮で彼女達が仕える女御の伝手を頼って、除目の際に官職を得ようとする中級貴族の活動拠点なんだよ。現代で言えば、海外に駐留する大使館員みたいなものだと考えれば良いよ。そんな立場に居る人が、そういう政変に何にも気付かなかったって言うのならば、よっぽどのボンクラだよ。でも残っている和歌なんかを読む限りは、清少納言がそんなボーっとした人だったとは、到底僕には思えないんだ。大体、目の前で中宮定子の境遇が徐々に悪くなっているんだから、本当に主人のことを想っている女房ならば、むしろ直ぐに気がつかなきゃおかしいんだよ。」
「永渕君が清少納言を高く評価していることは分かったわ。でも、中宮定子の境遇の変化は、どうして起こったの?」
「藤原兼家の嫡男だった道隆は、一条天皇の元服の折に、長女の定子を女御として入内させるんだ。二人は政略結婚だったにもかかわらず、仲睦まじい夫婦だったらしいよ。ところがその5年後に関白であった定子の父親の道隆が43歳で亡くなると、彼女の運命は暗転するんだ。」
「暗転って、具体的にはどう悪くなっていくの?」
「995年、旧暦で言うと長徳元年4月10日に道隆が死去すると、国母である東三条院詮子の介入によって、道隆の嫡男の伊周ではなく、定子の叔父である右大臣の道兼が内覧になって政権を掌握するんだ。」
「『内覧』って何?」
「『内覧』っていうのは、天皇に奉る文書や、天皇が裁可する文書などの一切を先に見ること、またはその権限のある令外官の役職なんだよ。中世までの関白は、『内覧』の権限が明示的な権限のほぼ全てだったんだ。」
「『令外官』ってのも分からないわ。」
「『令外官』っていうのは、桓武天皇の治世以降に新設された、律令に規定の無い官職のことだよ。関白とか内大臣とか中納言とか検非違使とか征夷大将軍とかのことさ。」
「ふ~ん、なるほどっ!」
「けれど当時都を襲った疫病のために道兼が数日で急死すると、今度は道兼の後釜をめぐって、内大臣の伊周は、さらにその弟で権大納言だった道長と争うんだけれど、一条天皇の生母で道長の姉の詮子がゴリ押しして道長に内覧の宣旨を下させるんだ。そして道長の許に権力が転がり込んだことで、後盾を失った定子の立場は急激に悪化していったんだ。」
「でも、叔父さん達が『内覧』になったのなら、さほど悪くなった様には思えないんだけど。」
「そうでもないよ。確かに藤原氏は一致団結して他氏を排斥していったけれど、この当時は他氏の排斥は一通り終わっていて、既に藤原氏内部の勢力争いに移行していたんだよ。だから例え肉親でも自家の邪魔になる者は、容赦なく蹴落としていく様な状態だったんだ。」
「ずいぶん醜いのねえ・・・でも、まだその時には、道長は彰子を入内させていなかったんでしょう?だったら、定子が皇子を産んでしまえば、簡単に形勢は逆転しちゃうんじゃないの?」
「確かにこの時には、彰子はまだ8歳だったからね。初潮もまだだったろうしね。」
「ちょっと、ブチ君。デリカシーってもんが無いわよ!一応私も女の子なんだけど。」
「ああ、御免、御免!話にのめり込んでいて、うっかりしてたよ。でも何時から、そういう話を女の子の前でしなくなったんだろうね?」
「昔はしてたっけ?」
「うん、してたね。ちょっと前までは雑誌に女性タレントの初潮の時の話が堂々と載ってたじゃない?」
「そう言われれば私も、『週刊明星』や『週刊平凡』で森昌子や桜田淳子の話を見た様な記憶が・・・」
「じゃあ、本題に戻ろう。君が言うような事態になっていれば、当然のように政権は外戚の伊周に行っちゃうんだけれど・・・」
「何かあったのね?」
「翌年の正月16日に『長徳の変』が起きるんだ。」
「『長徳の変』?」
「『長徳の変』っていうのは、996年に藤原道隆の弟の道長が内覧の宣旨を得た後に起きた政変のことだよ。道隆の一族である中関白家の人々が排斥されたんだ。『花山院闘乱事件』とか『花山法皇奉射事件』とも言うんだけどね。」
「花山院って?」
「『花山院』というのは先代の帝の花山天皇のことで、当時は出家して花山法皇になっていたんだ。」
「どうして出家しちゃったの?」
「花山天皇は藤原道隆たちの父親である兼家の亡兄・伊尹の娘・懐子を母としており、伊尹の子の権中納言・藤原義懐が天皇を補佐して朝政を執っていたんだ。だから兼家は、懐仁親王つまり後の一条天皇の早期の即位を望んでいたんだよ。」
「非情ねっ!甥っ子を追い落としたんだ。」
「自分が早く外戚として権力を振るいたかったから、必死だったんだろうね。」
「だからって、それで花山天皇の一刻も早い退位を望むなんて!」
「花山天皇は情緒的な性格で、寵愛していた女御・藤原忯子が死去すると深く嘆き、苦しんでいたんだ。そこで蔵人として近侍していた藤原道兼は、元慶寺の厳久と共に出家を勧めるんだ。そして道兼も一緒に出家することを約束すると、花山天皇もその気になっちゃうんだ。」
「つまり出家することで退位させようとしたのね。」
「そして986年、旧暦で言うと寛和2年6月23日に、道兼は花山天皇を密かに内裏から連れ出して、山科の元慶寺まで連れて行くんだ。天皇は厳久から戒を受けて剃髪するんだけれど、一方道兼の方はと言えば、
『父に告げないまま出家すれば不孝になると思います。父に別れを告げてから、出家したいと思います。』と言い逃れて、寺から逃げ出してしまうんだ。花山法皇が騙されたことに気付いた時にはもう後の祭りで、宮中では父親の兼家と兄の道隆が東宮、つまり一条天皇の即位の準備を手早く済ませていたんだよ。」
「ずいぶん卑怯な手を使ったのね!」
「そして翌朝、藤原義懐と権左中弁・藤原惟成が元慶寺に駆けつけたんだけど、出家した天皇の姿を見ると絶望して、彼らも一緒に出家してしまうんだ。これを『寛和の変』と呼ぶんだよ。」
「それで兼家の一族は隆盛を極める訳ね!」
「そうとばかりは言えないよ。このことが遠因となって、兼家一家の結束にひびが入るんだ。」
「何故ひびが入ったの?」
不思議そうに理英が尋ねる。
「これで一条天皇の外祖父になった兼家は摂政に任じられ、花山天皇を欺いて出家させた道兼も一緒に栄達して参議になった後、989年には正二位・権大納言にまで昇進するんだ。」
「それなら道兼には文句は無い筈よね。」
「ところが、990年に父親の兼家が病気で亡くなると、道兼の期待に反して長兄の道隆が関白になっちゃうんだ。『大鏡』によると道兼は、一条天皇の即位には自分に一番の功があったのだから、当然自分が関白を継ぐべきだと思っていたらしいんだ。そういう訳で、兼家の後継者に道隆が選ばれたことを、道兼はずっと恨んでいたらしいよ。」
「なるほど。母親が同じお兄さんでも、そこは譲れなかったのね。でも同情はできないかな。本当に気の毒なのは花山院なんだから・・・」
「この花山院は皇族の中でもトラブル・メーカーだったようで、この後に『長徳の変』の原因を作っちゃうんだ。」
「『長徳の変』っていうのはどんな出来事なの?」
「その前に兼家の三人の息子たちについてケリをつけようよ。」
「わかった。じゃあ先に、道兼たちのその後について、お願い。」
「父親の兼家が亡くなった5年後に兄の道隆が病死すると、道兼は待望の関白になるんだけど、彼も拝賀の僅か7日後に35歳で病死しちゃうんだ。だから当時は『七日関白』と呼ばれたそうだよ。」
「そこでいよいよ道長の登場って訳ね。」
「さっきも言ったように道兼の死後、後継の内覧を巡る政争が、今度は伊周と道長の間に繰り広げられたんだ。結局、5月になって道長に内覧の宣旨が下り、翌月には道長が内大臣の伊周を飛び越えて右大臣に昇進し、氏長者と天下執行の宣旨を獲得したんだ。『大鏡』には、伊周が妹の中宮藤原定子を介して一条天皇の寵愛を得ているのを、かねてから愉快に思っていなかった道長の姉の東三条院詮子が、夜の御殿に押し入って、渋る一条天皇を涙ながらに掻き口説いたことが記されているよ。」
「そしてさっき言ったように、翌996年、旧暦で言えば長徳2年4月に、内大臣だった定子の兄の伊周と中納言だった弟の隆家らが『長徳の変』を起こして左遷されちゃうんだ。」
「左遷?」
「今僕は『左遷』と言ったけれど、これは表向きのことで、実質的には『配流』つまり『流罪』に当たるんだよ。」
「『長徳の変』って、どんな事件だったの?」
「これは、先代の帝で出家していた花山法皇に対して、中関白家の伊周と隆家の兄弟が、矢を射掛けるという事件を起こしてしまうんだ。」
「どうしてそんなことしちゃったの?」
「花山法皇は多情多恨な人で、出家してからも女性関係は派手だったんだ。長徳2年頃、藤原伊周は太政大臣だった藤原為光の娘の三の君の所に通っていたんだけれど、出家の身でありながら、花山法皇も同じ為光邸に密かに通っていたんだ。それを知った伊周が恋敵と思い込んでしまい、長徳2年1月16日に弟の隆家らと謀って、為光邸から帰るところを待ち伏せしたうえで、隆家の従者が法皇の衣の袖を弓で射抜くんだ。ところが法皇が通っていたのは、妹の四の君の方だったんだよ。」
「いくら誤解してたからって、ずいぶん乱暴な話ね!」
理英が率直に思ったことを口にした。
「平安貴族というと雅やかなイメージがあるけれど、当時は貴族間の暴力事件なんて、決して珍しい話ではなかったんだよ。」
「そう言えば『源氏物語』の中にも『葵の巻』に『車争い』っていうのがあったわね。妊娠して悪阻で気分が優れない葵の上が、周囲の勧めで葵祭りの見物に牛車で出かける話なんだけれど、通りは見物の牛車で立て込んでいて、もう牛車を止める場所がないから、葵の上の従者たちが六条御息所の乗った牛車を押し退けようとして、乱闘になるのよね。六条御息所は葵の上の従者たちに牛車を壊されたうえ、酷い恥辱を受けたのが原因で、生霊となって祟り始めるのよ。」
「よく細かい内容まで覚えているね。それでも退位したとはいえ、元天皇に向けて矢を射掛けたという事件は政治問題化しちゃうんだ。」
「なるほど!花山法皇が激怒したのね!」
「いや、そうじゃないんだ。花山法皇は出家の身での女通いが露見すると体裁が悪いと思っていたし、隆家の従者に矢で射られた恐怖もあって、口を噤んで自邸に閉じ籠もっていたんだよ。それなのに何故かこの事件の噂が広がってしまい、この一件が世上の噂に上るのを待ってから、道長は一条天皇の上意を動かしたんだ。そして4月24日には、伊周と隆家の二人は官位を剥奪されて、伊周は大宰権帥に、隆家は出雲権守に左遷されるんだ。」
「何だか変な話ね!でも気持ちは分かるけれど、例えどんな理由が在ったとしても、法皇を射るのは当時でも大逆罪に当たる筈だから、それは仕方が無いんじゃないの?それに中宮定子には、誄は及ばなかったんでしょう?」
「直接的にはね。だけど、伊周と隆家の異母兄弟や外戚の高階家の人々、中宮定子の乳母子の源方理らも左遷されたり殿上籍を削られたりと、一族は悉く勅勘を蒙ったんだ。」
「『勅勘』って何?」
「天皇から直々に処罰を受けることだよ。」
「ふ~ん。『一族は悉く』って、それまでに藤原氏が他氏を排斥してきたのと同じ手口じゃない!なんだか釈然としない話だわ。」
「因みに、長徳の変で中関白家の藤原伊周・隆家兄弟が左遷されたまさにその当日、さっきから『枕草子』の中に度々登場している藤原斉信が、参議に任ぜられ公卿に列しているんだよ。彼は藤原為光の息子で、三の君と四の君のお兄さんでもあるんだ。」
「ちょっと待って!何だかきな臭い話になってない?」
「そんな感じはするけどね。ところが伊周兄弟は、何度も配流地への出立を促されたにもかかわらず、体調不良を口実にして応じずに、定子の邸に身を潜めていたんだ。度重なる命令無視に業を煮やした朝廷は、ついに二条宮の家宅捜索を許可して、定子の邸に検非違使の役人たちが雪崩れ込んだんだ。この時、伊周は別の場所に居て難を逃れたんだけど、弟の隆家は見つかってしまって、検非違使の役人に引き立てられてしまうんだ。」
「伊周兄弟も往生際が悪いのね。」
「そして中宮定子は当時懐妊中で内裏を退出して里第に居たから、自邸に逃げ込んだ隆家が検非違使に罪人として捕らえられるところを目撃して、自ら鋏を取って落飾、つまり出家するという事態を招くんだ。」
「じゃあ、相当にショッキングなシーンだったのね。」
「邸の戸が打ち壊され、几帳や御簾が引き剥がされる様な惨状だったらしいね。中宮定子はこの後も、この年の夏に住んでいた二条宮が全焼し、10月には母親の貴子も没するなどの不幸が続いたんだ。」
「それは母体には良くないわよね。お腹の赤ちゃんにも良い影響は無いわ。」
理英が溜め息交じりに話す。
「そうなんだよ。出産は予定から大幅に遅れ、この時、世間では定子のことを『懐妊十二月』と噂したらしいよ。そしてこの年の12月に、定子は失意と悲嘆の中で、一条天皇の第一皇女となる脩子内親王を出産するんだ。」
「本来ならば祝福されて生まれてくるはずの脩子内親王も不憫よね。」
「その後、長徳3年の4月、西暦で言えば997年の5月頃になってから伊周らの罪は赦されるんだ。また一条天皇は周囲の反対を押し退けて、誕生した第一皇女・脩子内親王との対面を望み、同年6月には再び定子を宮中に迎え入れたんだ。」
「一条天皇は、よっぽど定子のことを愛していたのね。」
「この時の事情については、『栄花物語』には、一条天皇の意を体した東三条院や道長の勧めがあったと記しているね。また中宮の外祖父であった高階成忠が、吉夢、つまり皇子が誕生する夢を見たと言って、躊躇う定子を駆り立てたと言われているんだ。」
「じゃあ、紆余曲折はあったけれど、なんとか元通りになったってことなの?」
「いや、そうじゃないよ。中宮の御所は清涼殿から遠い中宮職の御曹司と決められたんだけど、そこは『内裏の外、大内裏の内』と呼ばれていて、厳密には『後宮』とは言えない場所に位置していたんだ。その上、さっきも言った様に、母屋には鬼が棲んでいると噂されていた不気味な建物で、中宮付きの官人の事務所に使われたことはあっても、后妃の寝殿に宛てがわれたことは無かったんだ。」
「嫌だなあ、そんな処!」
理英は思わず顔を顰める。
「このことからも、定子の中途半端な境遇が伺えるんだけれど、また再入内の当日に、一条天皇は他所へ行幸し、夜中に還幸していて、朝野の視線を定子の再入内から逸らそうとしているんだ。」
「一条天皇も苦労したのねぇ。」
「『栄花物語』に拠ると、暫くして、職の御曹司では遠すぎるからと、一条天皇の配慮により近くに別殿が準備されたそうだよ。そして天皇自ら、夜遅くに通い、夜明け前に帰るという思いの深さだったらしいけど、天皇が定子を内裏の中へ正式に入れず、人目を避けて密かに通わざるを得なかった点に、一度は出家した后の入内という異例の出来事への、世間の風当たりの強さが推し量れるよね。貴族たちの顰蹙を反映して、藤原実資って人は『小右記』に、『天下不甘心』って書いているよ。」
「なんだか二人とも気の毒になってきたわ。」
「その後定子は、長保元年11月7日、西暦で言えば999年12月17日に第一皇子の敦康親王を出産するんだけれども、同じ日にまだ入内して6日目の道長の長女彰子に女御の宣旨が下るんだ。一条天皇の皇子誕生に対する喜びは大きかったようだけれど、この出来事を受けて長女の彰子を入内させていた道長は焦燥感に苛まれて、彰子の立后を謀るようになったんだ。道長は蔵人頭の藤原行成を使って、東三条院詮子と一条天皇に働きかけ、翌年の長保2年2月25日、西暦の1000年4月2日には先に『中宮』を号していた定子を皇后に横滑りさせて、彰子を立后させて『中宮』と称して、史上初めての『一帝二后』となったんだ。」
「藤原行成って、あの『三蹟』の?」
小首を傾げて理英が訪ねる。
「うん、そうだよ。藤原斉信と同じく、彼も道長派だったんだ。藤原斉信と藤原行成はこの後、道長の側近中の側近として重用されていくんだ。」
「呆れた!彼も道長の手先だったの?いくら字が上手くても節操が無いんじゃあね。つまり一条天皇に正妻が二人できたってことよね?」
「そうなんだけれど、もう定子には後ろ盾になる親族が居ないから、実質的に追い出されたようなもんだよ。そして心労に苛まれた定子は、その年の暮れに第二皇女の媄子内親王を出産すると、後産が降りないまま翌日未明に亡くなるんだ。その時、御産に奉仕していた伊周は、座産の姿勢のままで亡くなった妹の亡骸を抱えて慟哭したと言われているね。」
「藤原氏の姫君だからって、幸せな人生を過ごせた訳じゃあなかったのね。」
「今の僕の説明を頭の片隅に入れておいて、この文章を読んでごらん。」
永渕はそう言うと、また新しいページを開いて指し示した。それは第138段の文章で、以下のような内容だった。
【第138段】
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条殿といふ所におはしますに、なにともなく、うたてありしかば、久しう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほ、え絶えてあるまじかりける。
右中将おはして、物語したまふ。「今日、宮にまゐりたりつれば、いみじう、ものこそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣)、をりにあひ、たゆまでさぶらふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八、九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうて居並みたりつるかな。御前の草のいと茂きを、『などか。かき払はせてこそ』と言ひつれば、『ことさら露置かせて御覧ずとて』と、宰相の君の声にて答へつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居、いと心憂し。かかる所に住ませたまはむほどは、いみじきことありとも、かならずさぶらふべきものにおぼしめされたるに、甲斐なく』と、あまた言ひつる。語り聞かせたてまつれ、となめりかし。まゐりて見たまへ。あはれなりつる所のさまかな。対の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」など、のたまふ。「いさ、人のにくしと思ひたりしが、またにくくおぼえはべりしかば」と、答へきこゆ。「おいらかにも」とて、笑ひたまふ。
げにいかならむと、思ひまゐらする。御けしきにはあらで、さぶらふ人たちなどの、「左の大殿方の人、知る筋にてあり」とて、さし集ひものなど言ふも、下よりまゐるを見ては、ふと言ひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはず、にくければ、「まゐれ」など、たびたびあるおほせ言をも過して、げに久しくなりにけるを、また、宮の辺には、ただあなた方に言ひなして、そら言なども出で来べし。
例ならず、おほせ事などもなくて日ごろになれば、心細くてうちながむるほどに、長女、文を持て来たり。「御前より、宰相の君して、忍びて賜はせたりつる」と言ひて、ここにてさへ、ひき忍ぶるも、あまりなり。人づてのおほせ書きにはあらぬなめり、と、胸つぶれて、とくあけたれば、紙には、ものも書かせたまはず、山吹の花びらただ一重を包ませたまへり。それに、「言はで思ふぞ」と書かせたまへる、いみじう、日ごろの絶え間嘆かれつる、皆なぐさめて嬉しきに、長女も、うちまもりて、「御前には、いかが、もののをりごとにおぼしいできえさせたまふなるものを、誰も、あやしき御長居とこそ、はべるめれ。などかはまゐらせたまはぬ」と言ひて、「ここなる所に、あからさまにまかりてまゐらむ」と言ひて去ぬる後、御返事書きてまゐらせむとするに、この歌の本、さらに忘れたり。「いとあやし。同じ古事といひながら、知らぬ人やはある。ただここもとにおぼえながら、言ひいでられぬは、いかにぞや」など言ふを聞きて、小さき童の前に居たるが、「下行く水、とこそ申せ」と言ひたる。など、かく忘れつるならむ、これに教へらるるも、をかし。
御返りまゐらせて、すこしほど経てまゐりたる、いかがと、例よりはつつましくて、御几帳にはた隠れてさぶらふを、「あれは、今まゐりか」など、笑はせたまひて、「にくき歌なれど、このをりは、さも言ひつべかりけりとなむ思ふを、おほかた見つけでは、しばしもえこそなぐさむまじけれ」など、のたまはせて、かはりたる御けしきもなし。 (以下略)
【第138段・現代語訳】
道隆公がお亡くなりになったりしてから、世間に事変が起こり、物情騒然として来て、中宮も参内なさらずに小二条殿という所にいらっしゃるころ、私は、別にどうという理由もないがおもしろくない気分だったので、長いこと里にさがっていた。しかし中宮の御身辺が気がかりなので、やはりそのまま御無沙汰を通せそうにない気持ちだった。
そのころ、右中将がたずねていらして、いろいろお話をなさった。(右中将)「今日、中宮の御所に参上したところ、たいそうお寂しい御様子でした。しかし、女房の装束も、裳や唐衣が時節にぴったりしていて、さすがにきちんとしたたたずまいでおそばにはべっていたことでした。御簾のわきの隙間から室内をのぞいたところ、八、九人ほど、朽葉の唐衣、薄紫色の裳に、紫苑や萩など、とりどりの美しいよそおいでずらりとはべっていたことでした。お庭の草がたいそう生いしげっているので、私が『どうしてこんなふうになさっておられるのです。お刈り取らせになったらよろしいのに』と言ったところ、『わざわざ、露を置かせて御覧になりたいとの中宮の御意向ですので』と、宰相の君の声で答えたのが、風流なことだと思われたことでした。『貴女のお里さがりが、たいそう情けない。こうした所にお住みになるような時には、どんなことがあってもきっとおそばを離れないものと中宮はお思いになっておられたのに、その甲斐もなく』と、女房たちは口々に申しました。私が貴女にそのことをお話しするように、というつもりだったのでしょう。参上して、御様子を見て御覧なさい。しみじみとした御殿の様子でしたよ。対の前に植えられていた牡丹などの風情のあることといったら」などと、おっしゃる。(清少納言)「さあ、気が進みませんわ。皆さんが私のことをにくらしいと思ったのが、こちらでもまたにくらしく思われましたので」とお答え申し上げる。(右中将)「ぬけぬけとおっしゃることだ」と言ってお笑いになる。
ほんに、どんなにしておいでになるだろうと、お思い申し上げる。中宮はそんなことをちっとも思っていらっしゃらないのだが、おそばの女房たちなどが、私と親しい間柄の人に左大臣がたの人がいる、と言って、みな集まっておしゃべりしている時でも、私が局からお前にあがる姿を見ると急にお互い話をやめ、仲間はずれにする態度が、今までにないことで、にくらしいので、中宮から「参上せよ」などと、何度もある御伝言も、そのまますっぽかして、ほんに皆の言うようにもう長い御無沙汰になってしまったが、そうするとまた、中宮の周囲では、私のことを左大臣がたについてしまったように悪評を立てて、果てには根も葉もないことまで取り沙汰されるようだ。
これまでと違って、お便りもなくて何日もたつので、心細い思いでぼんやりしているころ、長女が手紙を持ってやって来た。(長女)「中宮様から、宰相の君にお命じになって、そっと下されたものです」と言って、この私の家に来てまでも、気がねして声をひそめたようなそぶりなのも、あんまりだ。女房に命じて代筆させたお手紙ではないのだろう、と、胸がどきどきして、急いであけたところ、中の紙には何もお書きにならず、山吹の花びらただ一ひらをお包みになっておられる。その花びらに「言はで思ふぞ」とお書きになっておられるのが、すばらしい御趣向で、ここ何日かお便りもなかった悲しみもすっかりぬぐい去られたようで、うれしいが、長女もそうした私の顔をつくづくと見守って(長女)「中宮様には、どんなにか、何かにつけて貴女様のことを思い出していらっしゃるそうでございますが、女房がたも皆、どうして参上なさらないのですか」と言って、(長女)「ちょっとこの近所に寄ってから、またうかがいますから」と言って立ち去った後、その間にこの御返事を書いておこうとしたところ、「言はで思ふぞ」の歌の上の句がとんと頭に浮かんで来ない。(清少納言)「おかしなことが「おかしなことがあればあるものだ。同じ古歌とはいいながら、こんな歌を知らない人があろうか。もうすぐここまで出て来ていながら、口に出て来ないのは、これはどうしたことか」など言うのを聞いて、小さい女の子の前に坐っていたのが「下行く水、と申しますわ」と言ったけれども、どうしてこんなにきれいに忘れてしまったのだろう、こんな子供に教えられるのも、おかしい。
その時の御返事をさし上げてからすこし日数がたって参上したけれども、首尾はどうであろうかと気のひける思いなので、御几帳に半分隠れるようにしてはべっている私の姿を御覧になって、(宮)「あそこにいるのは、新参の者か」などとお笑いになって、(宮)「気に入らない歌だけれど、こういう時にはぴったりした歌だったと思われることだが・・・・・・、大体、しょっちゅうお前がそばにいなくては、ちょっとの間も気が晴々しそうにもないことよ」などおっしゃって、別段御機嫌にお変わりもない。(以下略)
この文章を永渕は、現代語訳を交えながら理英に読んでやっていたが、読み終わると、
「この中宮定子を評する言葉に注意してごらん。」
と言ってきた。そこには、「かはりたる御けしきもなし。」という文章があった。
「この言葉がどうかしたの?」
「『御けしき』の現代語訳というのは、本当に『御機嫌』で良いんだろうかってことさ。『御様子』じゃないんだろうか?実にさりげない文章だけれど、これは何時のことか分かる?定子が髪を下ろしてから2ヵ月後の出来事なんだ。『枕草子』の文章からすると、清少納言は久しぶりに出仕したことになるけれど、もしそうだとすれば、中宮定子は第一皇女修子内親王を身籠って6ヶ月位」になっている筈なんだよ。」
「そうすると、定子のお腹はだいぶ大きくなってたはずよねえ。」
「うん、特に同じ女性だから気付かない筈は無いと思うんだけれど・・・」
「そっか!それにさっきの話からすると、この時の定子はもう尼さんの姿をしていた筈だわ!」
「そうなんだよ。『吉徳大光』の『顔がいのち』じゃないけれど、『髪は女の命』ってのが本当ならば、何か一言あって当然だと思うんだ。」
「違和感ありまくりだわ。」
「それにもっと言えば、さっき言ったように。定子の邸の二条宮は6月8日に家事で全焼していたから、小二条という邸に引っ越していて、久しぶりに出仕した清少納言は、初めてその邸に行った筈なんだ。」
「それだけ以前と違っているのに、『かはりたる御けしきもなし。』は変よねえ。」
「因みにここの現代語訳は、そのままじゃ変だと思ったらしくて『別段御機嫌にお変わりもない。』ってなってるね。他の訳者も同じ様に『中宮様のご機嫌が変わっている様子もない。』って訳しているよ。でも、そんなことが続いた後じゃあ、例え『御機嫌』の意味であったとしても、変わってないはずは無いんだけどね。」
「う~ん、確かにこうして見ていくと、ブチ君の言う通り『枕草子』は清少納言と呼ばれた女性が書いたものとは思えないわね。」
「僕も『枕草子』全部がそうだとは思っていないけれど、少なくとも宮中エピソードについては、その嫌疑が濃いんじゃないかなぁ。」
「じゃあ、ブチ君は誰が書いたんだと思うわけ?」
「ズバリ、能因法師が怪しいんだけれど・・・」
「確証が無いってこと?」
「その通り!」
「それぞれの写本の成立時期は何時なの?」
「三巻本については安貞2年つまり1228年って言われてるね。さっきも言ったように、もっと後になって成立したんじゃないか、って言う人も大勢居るね。能因本は、本当に能因法師が持っていたものならば、988年から1058年の間に書き写されて成立したんだと思うけど、最後に書き写されたのは、観応元年つまり1350年ってなってるね。堺本は元亀元年っていうから1570年、前田家本は寛永6年だから1629年ってことになるよ。」
「じゃあ、能因本が一番古いんだから、って理由付けも簡単にはできないわねえ。」
「まっ、しょうがないよ。僕達みたいな素人がそんなに簡単に結論が出せるんだったら、学者さんの誰かがとっくに発表しちゃってるよ。」
「それもそうね。でもブチ君のおかげで、『枕草子』に少しは興味が持てるようになったわ。『枕草子』の本、借りて帰っても良いのよね。授業が始まるまでに、もう一度読んでみるわ。」
永渕の予想は当たっていた。翌週の月曜日の全校集会で、校長先生が直々に、この中学校で受け入れる教育実習生の先生方を紹介した後、彼らは指導教官の下で、その日から実地に授業をやり始めたのである。理英たち2年9組には、社会と国語には女性の、英語と数学には男性の教生が付くことになった。英語と社会は月曜日から、国語と数学は火曜日から教生の授業が始まることになったのであるが、国語の授業では出だしから波乱があった。
国語の担当教員である鮎川が、若い女性を連れて教室に入ってきた。いつもは、授業が始まっても、学級崩壊寸前かと思うほど生徒達のお喋りで五月蠅いのに、今日に限っては、生徒達は興味津々といった様子で、値踏みをする様に、教生の一挙手一投足を見詰めていた。
鮎川に促されて、教生は教壇に立つと、黒板に自分の名前を書いて自己紹介を始めた。名前は「榊原祐子」といい、殿上中学校のOGで、福岡教育大学の4年生だった。長い黒髪を後ろで一つに束ねてポニーテールにしていて、黒っぽいスーツを着ていた。目が大きく少し気の強そうな感じのする女性だった。永渕の机は教卓のすぐ前だったので、見上げるようにずっと顔を上げていた。榊原は、
「それでは、今日から古典の『枕草子』に入りたいと思います。古典というのは、古文という古い文語体で書かれた文学的価値のある作品のことです。昔の堅苦しい文章で書かれていて、取っ付き難いと思っているでしょうが、そんなことはありません。特に『枕草子』は、古文の中でも比較的平易な文章で日常のことが書かれていて、私たちにもイメージし易いので、直ぐに読めるようになると思います。」
という説明をすると、続けて、
「まず、授業を始める前にみんなに訊きますが、『枕草子』について何か知っていることはありますか?」
と言って言葉を切ると、最前列の生徒の顔を見渡した。そして、
「それでは、この列の人、前から順番に知っていることを一人一つずつ答えていって頂戴。」
と言うと、永渕の左隣の谷垣典子を指した。谷垣は、
「えっと、平安時代に書かれた随筆です。」
と答えた。それを聞くと榊原はにっこりと笑って、
「そうですね。平安時代の西暦1000年前後の出来事を基に書かれたらしいということが分かっています。じゃあ、次の人。」
と言うと、今度はその後ろの梅田秀樹を指した。梅田からは、
「清少納言によって書かれました。」
という答えが返ってきた。榊原は、
「はい。清原元輔の娘である清少納言が、宮中に出仕して中宮定子に仕えていた頃の出来事を中心に書いていったと言われています。じゃあ、・・・」
と言ったところで、永渕が即座に手を上げると同時に発言した。
「それ、本当ですか?」
思わぬ人物からの思わぬ発言に教室中がざわついた。しかし榊原は怯むことなく、
「どうしてそんなことを訊くの?これは日本人にとっては、疑問の余地の無い常識よ。そうですよね、鮎川先生?」
と口の端に笑みを浮かべて、鮎川の方へ視線を走らせた。しかし意外にも鮎川は真顔で事の成り行きを見守っていた。自分に発言を振られた鮎川は少し間を取ると、逆に、
「じゃあ、永渕君は、どうしてそのことを疑っているの?」
と、問い返した。榊原はその発言を聞いてようやく、ことの深刻さに気が付いた。
「専門家の間には、自分の知らない何かが在るのか?」
という考えが頭を掠め、生徒の疑問を一笑に伏そうとしていた己の未熟を恥じた。鮎川は大学生の頃、國學院大學で平安時代の王朝女流文学を専攻していた、という過去を聞いていたためである。
鮎川に尋ねられた永渕は、先日理英に話して聞かせたことを、淀み無くとうとうと述べ立てた。しかし、それを聞いた鮎川は、少しもたじろぐこと無く答えた。
「今永渕君が言ったことは、全部事実よ。実際にそういった考え方を支持する学者さんも少なくないわ。池田亀鑑先生なんかも同じようなことを仰っているわ。でも、そう断定するだけの史料は、残念ながら残っていないの。もしかしたら、兼好法師の『徒然草』に『平家物語』の作者の藤原行長について記述されていたように、これからそういった物が発見される可能性はあるけれど、私たちは真偽が判別するまで待っている訳にもいかないのよ。だから、今言ったことは一つの学説としては尊重するけれども、これまでの通説を覆すには至っていないのよ。」
「だから、今は真偽のほどは棚上げして、現在の通説を受け入れたうえで、素直に授業を受けろと?」
永渕が棘のある言い方で応じる。
「そうよ。真偽のほどはともかく、テキストとして読み込めば、キチンと古文を読みこなせる技術を習得することはできるでしょう?」
「その部分は否定しませんが、その一時しのぎの状態がもう何十年も続いているんじゃありませんか?」
「その通りよ。でも、今この場でそれに白黒つけることができない以上、どうしようもないんじゃない?」
「でもそれならば、『作者不詳』として教科書に載せるべきなのでは?」
「そこには文部省の『大人の事情』ってものがあるのよ。私も良いことだなんて思わないわ。でも、そこで立ち止まってしまっては、前に進めなくなるのも事実よ。」
どうやら二人とも、『枕草子』が置かれている現状を良しとしていないのは、理英にも伝わってきた。だが、このままでは議論が膠着してしまうのもまた事実であった。
「しかし、『枕草子』の中で中関白家の没落に関して何も記していないのは、やはり不自然です。もし自分の目の前で、現在進行形で没落が続いていたのならば、恨み言の一つも記して然るべしです。」
永渕の声が響く。その刹那、理英の脳裏で閃くものがあった。即座に手を挙げると、
「ちょっと待ってください。実は私も永渕君と同じ部分で違和感を感じていたんですが、今一つの可能性に気が付きました。ここで披露しても宜しいでしょうか?」
と言い出した。その言葉を聞いた永渕は、
「どういうこと、寛永寺さん?」
と、興味津々といった様子で尋ねる。しかし理英はその問い掛けには直接応えず、
「ねえ、永渕君。確か貴方の得意な法律の世界、特に刑事裁判では、被告人の無罪を主張する場合には、嫌疑について完全な無実を立証する必要は無くて、被告人が犯罪を行ったことについて合理的な疑いを差し挟むことができれば、弁護側が勝つのよね?」
「今の日本やアメリカのような国ではそうだね。」
「だったら、私でもやれそうな気がするわ。『枕草子』の作者が清少納言であるという通説側の弁護人になっても良いかしら?」
それを聞いた永渕は、やれやれという表情を作ると、
「良いよ!お手並み拝見といこう。」
とだけ言って、承諾の意を示した。その返事を聞くと理英は、堰を切ったように話し始めた。
「永渕君が、『枕草子』の著者は清少納言ではない、っていう主張の論拠を掻い摘んで言うと、
1.描写されている自然現象や地理との矛盾、特に『太陰暦』と作中の月齢が合わない点
2.藤原道隆の病状の進行と描写されている道隆の様子の矛盾
3.文中で使用されている語句の使い方のおかしさ
4.中関白家の没落、特に『長徳の変』に関する無視ともいえる記述の空白
5.作中で描かれる人物像の矛盾、特に夫だった橘則光の滑稽な描写と道長の手先だった藤原斉信と藤原行成への好意的な記述の数々
の5点に絞られると思います。このうち、1や2については勘違いや記憶違いで済まされる可能性がありますし、2ついては書き手の主観も混じるので、作者が別人であるとは一概には言えません。3については、写本を繰り返すうちに写し間違いがあった可能性も捨てきれません。私が別の可能性について思い当たったのは、4と5についてです。」
理英はそう言うと、一旦言葉を切って間を置いた。
「私は、ひょっとしたら、清少納言が中関白家の没落について、『枕草子』に何も記さなかったのは、清少納言自身が、それに加担していたことに気が付いたからじゃないかって思ったんです。だから自分の恥になると思って、敢えて記さなかったのではないでしょうか?」
「つまり清少納言は伊周兄弟が失脚するのに協力してたってこと?」
と、鮎川が確認する。
すかさず永渕が反論する。
「寛永寺さん、それは有り得ないよ。悪いけど藤原道長って人は、例え裏切り者であっても貢献すれば、必ず厚く報いる人なんだよ。例えば、徳川家康は関ヶ原の戦いで、途中から寝返って形勢逆転に貢献した筈の赤座直保・小川祐忠・朽木元綱の三将を処罰しているけど、家康と違って道長って人は、そういう方面では行き届いた人だったらしくて、実際に協力した人物は後で必ず報われているんだ。」
永渕は穏やかな物言いながら、理英の見解を真っ向から否定するつもりのようだ。
「藤原斉信や藤原行成みたいに?」
理英が尋ねる。
「そうだよ。ところが清少納言は、宮廷を退いてからは酷く零落れて、生活は苦しかったようだよ。鎌倉時代初期に、刑部卿だった村上源氏の源顕兼という人が編纂した『古事談』という説話集には、こんな話が出ているんだ。中宮定子が亡くなった後、宮廷を去ることを余儀なくされた清少納言は、受領の藤原棟世と再婚して地方へ下ったりもしたらしいんだ。でも晩年には零落しちゃって、出家して廃屋のような庵でひっそりと暮らしていたらしいよ。その頃、若い殿上人がたくさん牛車に乗って清少納言の家の前を通った時、あまりに家がみすぼらしいので、『清少納言はなんとお労しいことになってしまったものか』と、車中で噂したらしいんだ。すると、庵の中から外を眺めていた清少納言が簾を掻き揚げると、鬼の様な形相で身を乗り出して、『貴方がたは駿馬の骨を買わないということか!』って叫んだって伝えられているんだ。」
「勝気な清少納言らしいエピソードね。でも最後の科白はどういう意味なの?」
「ああ、それは中国の『戦国策』という書物に出てくるお話だよ。『戦国策』というのは、前漢の劉向という人が編纂した、戦国時代の遊説の士の言説、国策、献策、その他の逸話を国別に分類して、まとめた書物のことだよ。因みに『戦国時代』という言葉は、この書物に由来するんだ。」
漢籍に詳しい永渕が、鮎川を差し置いて説明する。
「へえ~っ、そうなんだ。でも、それは一体どういうお話なの?」
「燕の噲王の時代、斉の宣王は論客を何人も燕に送り込んで噲王を誤導し、権力欲の権化とまで呼ばれていた評判の良くない子之を宰相に据えさせ、燕の国政を任せっきりにさせたんだ。すると太子の平や他の大臣などは国が乱れることを心配して、打倒子之を旗印に挙兵するんだよ。この時、斉から平の許に、太子に協力するから一緒に子之を討とう、という内容の書状が届くんだ。太子の平はこれを見て喜び、斉の援軍を呼び寄せて城門を開いたところ、あっという間に燕を制圧して支配下においたうえで、宰相の子之だけではなく燕の噲王までも殺してしまうんだ。2年後に斉が撤兵すると、太子の平が即位して昭王になり、荒廃した国土の復興を始めるんだ。しかし何から手を付けて良いか分からなかったので、郭隗という学者にこう言ったんだ。『斉は、先王の御代に、我が国が乱れているのに乗じて襲ってきて我が国を支配しました。我が燕は小さな国で斉に報復する力が無いことは承知しています。しかし、私は是非とも賢者を得て共に国政に励んで国を再建し、それによって先代の王の恥を雪ぎたいのです。是非その任に相応しい人物を教えてください。その方を師として学びたいのです。』ってね。そこで郭隗はそれに答えて、『昔、ある君主が大金を出して使用人に駿馬を買いに行かせたそうです。ところがこの使用人は死んだ馬の骨を五百金で買って帰ってきました。それを知った君主が怒り出すと、彼は“死んだ馬の骨でさえこんな大金を出すなら、それを聞いた人は生きている馬ならもっと高く買ってくれるに違いないと思う筈です。駿馬は直ぐにでも手に入るでしょう”と言いました。そして、一年も経たないうちに、その言葉通りに三頭の駿馬が手に入りました。今、王が是非とも賢者を招きたいと思われるならば、まずはこの私、郭隗からお始めください。そうすれば私よりも優れた人物が千里の道も遠しとせず、昭王に仕えるためにやって来ることでしょう。』という返事をするんだ。そこで昭王は郭隗のために屋敷を建て、郭隗を師としてその教えに耳を傾けるようにしたんだよ。すると郭隗の言葉通り、賢者たちが争って燕にやって来るようになったという故事なんだ。」
「ところで、昭王の斉への報復は上手くいったの?」
「この時馳せ参じた賢者の一人が、この間話した楽毅という将軍なんだ。楽毅は破竹の勢いで、即墨と莒の二つの都市を除く斉の七十余の都市を、次々と攻め落としちゃったんだよ。」
「ああ、『火牛の計』で出てきた人ね。」
思い出した様に理英が応じる。
「そしてここから、『先ず隗より始めよ』とか『死馬の骨を買う』という故事成語ができたんだ。」
「なるほど、清少納言は晩年になっても、漢籍については往年の冴えを見せていたって訳ね。」
すると黙って聞いていた鮎川も、
「因みにこれは書道の時間に教えるかもしれないけれど、正倉院の白眉とされている宝物に『楽毅論』という書があるの。これは中国の三国時代に、魏の夏侯玄が楽毅について論じた人物論なんだけど、348年に『書聖』と呼ばれる王羲之という書の達人がこれを書き写したことで有名なの。日本ではさらにそれを、744年に光明皇后が臨書しているの。その時が来たら見せるから、楽しみにしていてね。」
と、永渕から抜けた情報を補った。それを聞き終えると永渕が続けた。
「でも清少納言の生活自体は本当に苦しかったらしくて、出家した晩年は、兄の清原致信の所に身を寄せて厄介になっていたくらいなんだ。さっきの『古事談』には、源満仲の次男の源頼親が清原致信の屋敷に強盗に入って、致信を殺した後に法師姿の清少納言まで殺そうとしたっていう話も出てくるよ。その時清少納言は男と間違えられていることが分かって、自分の着物を捲くって見せ、女だということを教えて、辛くも難を逃れたっていう逸話なんだよ。」
「着物を捲くって見せたって、本当なの?あの当時は、今みたいにパンティなんかは無かったから、モロ出しになっちゃうわよね?俄かには信じられないわ。」
理英が率直な感想を述べる。
「でも清少納言はこの時点ではもう高齢だったから、死の恐怖の前では羞恥心なんか吹っ飛んだんじゃないかなぁ。それに同じ様な話は世界中にあるよ。」
「世界中に?」
「例えば、ルネサンス期のイタリアにも、イーモラとフォルリの領主婦人だったカテリーナ・スフォルツアって女傑が居るんだけれど、25歳で夫のジローラモが反乱軍に暗殺された際のエピソードは有名だよ。カテリーナと子供達は城外で反乱軍に捕まっちゃうんだけど、それでも城の守備隊は降伏しなかったんだ。そこでカテリーナは反乱軍に、守備隊が投降するように説得してくると言って、子供達を残して城に入って行くんだけれど、彼女は城に入ったまま出て来なかったんだ。業を煮やした反乱軍は、人質になっている子供達を城から見える場所に並べて、処刑するぞと脅したんだけれど、カテリーナは城館の屋上に立ってスカートを捲り上げると『馬鹿共め、これがあれば子供なんてこれから幾らでも作れるのを知らんのか!』と啖呵をきったうえで、自分の性器をくぱぁと開いて見せたんだ。これには反乱軍も呆気に取られて、まんまと時間稼ぎをされてしまうんだ。その間にカテリーナの実家が送った援軍が到着して、この反乱は鎮圧されちゃうんだ。」
永渕のその話を聞くと、誰かがプッと噴き出す音が聞こえた。そしてそれを合図に、クラス中が爆笑に包まれた。
「まさか授業中に『くぱぁ』なんて聞くとは思わなかった!」
そう言って笑っているのは男子生徒が多かったが、女子生徒にも呆れたような顔で笑っている者が少なくなかった。中には理英と同じ様に顔を赤らめて俯いている子も居たが、どうやらそれは女子生徒の中でも少数派のようである。
理英は頬を染めたまま、笑い声を鎮めるかのように一つ咳払いをすると、こう言い放った。
「女性でも、何か他に代え難いものがある時には、羞恥心を捨てることがあるというのは認めるわ。今、永渕君が言ったように、藤原道長に協力した者は、皆報われているというのも事実だと思う。でも、知らず知らずのうちに協力していたり、道具として使われていた場合にも同じことが言えるの?」
「いや、さすがにそこまでは分からないね。どちらかと言うと、そういう場合は寧ろ、そのままそっとしておいたんじゃないかな?特に後者の場合は、まだこれからも使う可能性があるからね。」
「私もそう思います。そして気になったのが、『枕草子』の第138段のこの記述です。」
「『枕草子』の第138段?」
鮎川が記憶を辿る様な声で訝しげに呟く。
「そこには、こう書かれています。」
そう言うと理英は、『枕草子』の第138段を、澄んだ声で朗読し始めた。
【第138段 】
殿などのおはしまさで後、世の中に事出で来、騒がしうなりて、宮もまゐらせたまはず、小二条殿といふ所におはしますに、なにともなく、うたてありしかば、久しう里にゐたり。御前わたりのおぼつかなきにこそ、なほ、え絶えてあるまじかりける。
右中将おはして、物語したまふ。「今日、宮にまゐりたりつれば、いみじう、ものこそあはれなりつれ。女房の装束、裳、唐衣)、をりにあひ、たゆまでさぶらふかな。御簾のそばのあきたりつるより見入れつれば、八、九人ばかり、朽葉の唐衣、薄色の裳に、紫苑、萩など、をかしうて居並みたりつるかな。御前の草のいと茂きを、『などか。かき払はせてこそ』と言ひつれば、『ことさら露置かせて御覧ずとて』と、宰相の君の声にて答へつるが、をかしうもおぼえつるかな。『御里居、いと心憂し。かかる所に住ませたまはむほどは、いみじきことありとも、かならずさぶらふべきものにおぼしめされたるに、甲斐なく』と、あまた言ひつる。語り聞かせたてまつれ、となめりかし。まゐりて見たまへ。あはれなりつる所のさまかな。対の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」など、のたまふ。「いさ、人のにくしと思ひたりしが、またにくくおぼえはべりしかば」と、答へきこゆ。「おいらかにも」とて、笑ひたまふ。
げにいかならむと、思ひまゐらする。御けしきにはあらで、さぶらふ人たちなどの、「左の大殿方の人、知る筋にてあり」とて、さし集ひものなど言ふも、下よりまゐるを見ては、ふと言ひやみ、放ち出でたるけしきなるが、見ならはず、にくければ、「まゐれ」など、たびたびあるおほせ言をも過して、げに久しくなりにけるを、また、宮の辺には、ただあなた方に言ひなして、そら言なども出で来べし。
第138段をそこまで読むと、理英は朗読を止めて、
「この部分の現代語訳は、こうなっています。」
と言うと、今度は現代語訳を読み上げた。
【第138段・現代語訳】
道隆公がお亡くなりになったりしてから、世間に事変が起こり、物情騒然として来て、中宮も参内なさらずに小二条殿という所にいらっしゃるころ、私は、 別にどうという理由もないがおもしろくない気分だったので、長いこと里にさがっていた。しかし中宮の御身辺が気がかりなので、やはりそのまま御無沙汰を通せそうにない気持だった。
そのころ、右中将がたずねていらして、いろいろお話をなさった。(右中将)「今日、中宮の御所に参上したところ、たいそうお寂しい御様子でした。しかし、女房の衣装も、裳や唐衣が時節にぴったりしていて、さすがにきちんとしたたたずまいでおそばにはべっていたことでした。御簾のわきの隙間から室内をのぞいたところ、八、九人ほど、朽葉の唐衣、薄紫色の裳に、紫苑や萩など、とりどりの美しいよそおいでずらりとはべっていたことでした。お庭の草がたいそう生いしげっているので、私が『どうしてこんなふうになさっておられるのです。お刈り取らせになったらよろしいのに』と言ったところ、『わざわざ、露を置かせて御覧になりたいとの中宮の御意向ですので』と、宰相の君の声で答えたのが、風流なことだと思われたことでした。『貴女のお里さがりが、たいそう情けない。こうした所にお住みになるような時には、どんなことがあってもきっとおそばを離れないものと中宮はお思いになっておられたのに、その甲斐もなく』と、女房たちは口々に申しました。私が貴女にそのことをお話するように、というつもりだったのでしょう。参上して、御様子を見て御覧なさい。しみじみとした御殿の様子でしたよ。対の前に植えられていた牡丹などの風情のあることといったら」などと、おっしゃる。(清少納言)「さあ、気が進みませんわ。皆さんが私のことをにくらしいと思ったのが、こちらでもまたにくらしく思われましたので」とお答え申し上げる。(右中将)「ぬけぬけとおっしゃることだ」と言ってお笑いになる。
ほんに、どんなにしておいでになるだろうと、お思い申し上げる。中宮はそんなことをちっとも思っていらっしゃらないのだが、おそばの女房たちなどが、私と親しい間柄の人に左大臣がたの人がいる、と言って、みな集まっておしゃべりをしている時でも、私が局からお前にあがる姿を見ると急にお互い話をやめ、仲間はずれにする態度が、今までにないことで、にくらしいので、中宮から「参上せよ」などと、何遍もある御伝言も、そのまますっぽかして、ほんに皆の言うようにもう長い御無沙汰になってしまったが、そうするとまた、中宮の周囲では、私のことを左大臣がたについてしまったように悪評を立てて、果てには根も葉もないことまで取り沙汰されるようだ。
理英は現代語訳をそこまで読むと、こう言った。
「この段落は、あまり注目されていませんが、研究者の間では、長徳2年のことを書き記していると言われています。とすれば、この文章中の『世の中に事出で来』というのは、中宮定子の兄弟である藤原伊周・隆家が配流された事件、つまり『長徳の変』を示していると思われます。」
「つまり、寛永寺さんは、清少納言は『長徳の変』についてちゃんと記述していると言いたい訳ね?」
鮎川が確認する。榊原は黙ったまま、ことの成り行きを見守っている。
「それだけではありません。こういうぼかした書き方をしているのは、積極的に書きたくない何かがあったのではないかと思えるんです。」
「その何かっていうのは、見当がついてるの?」
理英が自説を述べている間中、理英の白皙の横顔をじっと見詰めていた永渕が尋ねる。
「ついています。」
理英はそう言い切ると、言葉を継いだ。
「私が注目したのは、『枕草子』の第138段の中の『さぶらふ人たちなどの、「左の大殿方の人、知る筋にてあり」とて、さし集ひものなど言ふも、下よりまゐるを見ては、ふと言ひ止み、放ち出でたるけしきなるが、見ならはず、にくければ、・・・』という記述と『また、宮の辺には、ただあなた方に言ひなして、そら言なども出で来べし。』という記述です。」
そこまで言うと、理英は一旦言葉を切って息をついた。
「この部分は『おそばの女房たちなどが、私と親しい間柄の人に左大臣がたの人がいる、と言って、みな集まっておしゃべりしている時でも、私が局からお前にあがる姿を見ると急にお互い話をやめ、仲間はずれにする態度が、今までにないことで、にくらしいので、・・・』と『そうするとまた、中宮の周囲では、私のことを左大臣がたについてしまったように悪評を立てて、果てには根も葉もないことまで取り沙汰されるようだ。』と現代語訳されていますが、具体的にどういうことだったのか、よく分からない文章です。この第138段では、清少納言は道長派への寝返りをきっぱり否定していますが、中宮定子の周りの女房たちがこういう噂をしたのは何故なのか、気になっていました。でもこの間、永渕君から『長徳の変』について教えてもらって、この出来事はその直後のことだということを知りました。ということは、この時に他の女房達から何か疑われるような出来事があったとしか考えられません。」
「つまり寛永寺さんは、その出来事こそが『長徳の変』だと言いたい訳ね。だったら、ここの現代語訳は『(中宮定子に誠実に仕えている振りをしているけれども、実は)左大臣側に籠絡され(て『長徳の変を起こし)た人間が誰だか知っている』という意味になるわね。だとしたら、これは清少納言にとって非常に辛辣な批判になってしまうわね。」
と、鮎川が応じる。
「だから私は、この女房達の批判が的を射たものだとしたら、伊周兄弟が失脚する原因となった『花山法皇奉射事件』に、清少納言が関わっていたんじゃないかと思ったんです。藤原斉信や藤原行成は道長の手先ですが、同時に蔵人頭を勤めています。だから、当然後宮の仕事もしていて、定子の御殿にもしょっちゅう公務に託つけて出入りしていました。その際に彼らは道長の手先として、道長のためにいろいろ政治的な工作を仕掛けていた筈です。そして頻繁に彼らの応対を勤めていたのは清少納言です。これは『枕草子』の記述からも明らかです。清少納言自身も、彼らとの交流を自慢げに書き記しています。とすれば、ひょっとしたら彼らが清少納言の耳に、三の君の住む藤原為光邸を夜中に頻繁に訪れている人物がいる、って吹き込んだんじゃないかと思うんです。」
「そうか!藤原行成はともかく、藤原斉信は確かに怪しいね。彼は藤原為光の息子で、三の君と四の君のお兄さんだからねぇ。伊周や花山法皇が自宅に通って来ているのは、よく知っていた筈だしね。」
永渕が同意の意を示すと、それに頷いて理英は言葉を続ける。
「そして、おそらく清少納言は事実確認をキチンとせずに、女性特有の井戸端会議のつもりで周囲に漏らしたため、それが三の君の恋人である伊周の耳に入って、あんなことになったんじゃないか、って思うんです。」
「でも、それだけで花山法皇に矢を射掛けるかしら?」
理英の見立てに対して、鮎川が鋭い疑問を投げ掛ける。
「いくら憎い恋敵でも、皇族だと判っていれば、私もさすがに彼らが弓を向けるとは思えません。」
と言って、理英も鮎川の指摘を一旦は受け入れる。しかし、続けてこう述べる。
「だから、その間男の素性を伏せて、もしくは他人の名前を騙って耳打ちしたんじゃないかと思うんです。そして道長の思惑通り、嫉妬に駆られた伊周はよく調べもせずに暴走してしまった・・・」
「なるほどっ!全ては道長の計算通りだったって訳か。」
永渕が合いの手を入れる。
「いいえ、道長の方にも計算違いがありました。」
理英が直ぐに否定する。
「計算違い?それは何?」
鮎川が興味深げに尋ねる。
「女性関係が奔放で、あれだけ醜聞塗れの花山法皇が、それでも世間体を気にして自邸に籠もってしまったことです。だから自分たちで『花山法皇奉射事件』を吹聴して回らねばならなかった。その分、一条天皇が動き出すまで、道長は余計な時間が掛かってしまったんです。それと同時に事件の進展が不自然なものになってしまい、私達のような後世の人間から見ても疑惑を持たれる結果となってしまったんです。」
「う~ん。中関白家の没落に関する記述がないことについては、君の説明の方が辻褄が合うね。」
永渕はそう言うと、不承不承ではあるが白旗を挙げた。しかし、続けて、
「でもそれだけだと、道長の手先だった藤原斉信と藤原行成への好意的な記述の説明はできてないよね?そこはどうなの?」
と言うと、もう一つの論点について説明を求めてきた。それに対して、理英が問い返す。
「それもできると思うわ。藤原斉信と藤原行成が、当時の一流の文化人だったことは間違いない訳でしょう?」
「まあ、そこは動かし難いかな。」
と、永渕は肯定した。
「その二人は、例え腹に一物あったとしても 清少納言のことを高く評価してくれていたのは、間違いの無いことよね?だとしたら、後から底意があって近づいてきたことに気付いたからといって、清少納言が突然掌を返したように、斉信と行成のことを悪し様に書いたとしたら、どういうことになるかしら?」
「当然、そう評価してくれたことは清少納言に取り入るためのおべっかであって、心の底からのものではない、ってことになるね。」
「そう、清少納言に対する評価も偽物、ということになってしまうのよ。そんなことを認めるなんて、あのプライドの高い清少納言にできる訳が無いでしょ。しかも自分がおだてに弱く、その人がどういう人物かを見抜けなかった『間抜け』ってことになるわよ。それは定子付きの『宮の女房』としては失格ってことよ。」
「つまり自分の尊厳を守るために恨み言を封印したってことか。藤原斉信と藤原行成については分かったよ。でも橘則光の描写についてはどうなの?」
と、永渕は重ねて問うた。
「その頃の二人の関係は、既に元夫婦だった訳でしょ?だったら簡単よ!ラブラブな状態ならいざ知らず、別れた後ならばもう愛情が醒めていて、逆に厳しい目で相手を見ていたんじゃないの?仲の良かった夫婦でも、倦怠期を迎えると途端に相手に対する視線がシビアになるって言うじゃない。」
「怖っ!」
教室の中から男子生徒の声が飛んだ。理英は声のした方を振り向いて、艶然と微笑みながら応じる。
「そうよ、女性って怖いのよ。くれぐれも甘く見ないことね。」
鮎川もそれを受けて、
「それならば寧ろ『長徳の変』に直接言及していないことや、藤原斉信と藤原行成への恨み言を書かなかったことこそが、清少納言が『枕草子』を書いたことの証拠になるわね。でも、それは・・・」
「無論、私の推測に過ぎません。けれども現段階では、私の説明の方が永渕君の『能因法師作者説』よりも説得力があると思いますけど、如何でしょうか?」
理英がそう締め括ると同時に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り始めた。結局、50分あった今日の国語の授業時間の殆どを、この『枕草子』の謎解きに使ってしまったのである。
その日の昼休み、理英が仲良し4人組で昼食を摂ろうとしていると、永渕の方から一緒にお昼を食べないかと声を掛けてきた。
「ピッピ、旦那が呼んでるよ!」
瞳や郁子にそう冷やかされながらも、誘いに応じて四人組の輪から抜けて永渕の席までお弁当を持って行くと、永渕の方から話を始めた。
「今日の国語の時間は、見事だったよ。」
弁当を広げながら、永渕が言った。
「あら、そんなことないわよ。私はブチ君の論拠を一つ潰しただけよ。だから、逆にブチ君から恨まれちゃったかもって思ってたんだけど・・・」
理英も弁当を広げながら、永渕に答える。
「どうして恨む必要があるの?」
「ブチ君に恥を掻かせちゃったんじゃないかと思って。」
理英がすまなさそうに言う。
「そんなことは無いよ。でも、正直ちょっと驚いたな。僕がほんのちょっと喋ったことを基に、あんな推論を組み立ててしまうなんて。」
「別に意図して論理的に組み立てた訳じゃないわ。あの時も言ったけど、単なる閃きに過ぎないわ。」
理英が正直に答える。
「単なる閃きだとしても、大したもんだ。やっぱり君は地頭が良いんだね。君が本気になって勉強し始めたら、僕なんか全く歯が立たなくなっちゃうんだろうな。」
「あら、男の沽券に賭けても負けられないんじゃなかったの?でも、ブチ君と付き合い始めてから、私も自分の視界が広がったというか、今まで目に入らなかったものが、目に入るようになってきたわ。今まで退屈だと思っていた日常が、少し面白くなってきてるの。だから、これからも宜しくね。」
そう言うと理英は、永渕の弁当箱に目を遣って、
「私、ブチ君のお母さんが作る卵焼きの優しい甘さが好きなんだ。」
と言うなり永渕の弁当箱の中にあった卵焼きをを箸で摘まむと、あっと言う間に自分の口の中に放り込んだ。
「う~ん、美味し~い!」
【執筆時参考文献】
『ルネサンスの女たち』 塩野 七生:著 1969年5月20日 中央公論社
『チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』 塩野 七生:著 1970年3月10日 新潮社
『悪人列伝』(二) 海音寺 潮五郎:著 1975年12月25日 文藝春秋社 「藤原兼家」
『枕草子』上巻 清少納言:著/石田 壌二:訳注 1979年8月20日 角川書店
『枕草子』下巻 清少納言:著/石田 壌二:訳注 1980年4月30日 角川書店
【改稿時参考文献】
『枕草子の謎』 藤本 泉:著 1988年6月15日 徳間書店
『将門の秘密』 藤枝 ちえ:著 1995年8月20日 光文社 「いじわる式部日記」
『動乱の日本史 日本人の知らない源平誕生の謎』 井沢 元彦:著 2014年12月25日 角川書店
『戦国軍師列伝』 井沢 元彦:著 2015年4月16日 光文社
『誰も書かなかった「タブーの日本史」大全』 別冊宝島編集部:著 2015年5月12日 宝島社
『学校では教えてくれない日本史の授業 謎の真相』 井沢 元彦:著 2016年2月15日 PHP研究所
『変と乱の日本史』 河合 敦:著 2017年2月20日 光文社
『名著で読む日本史』 渡部 昇一:著 2017年3月29日 扶桑社
『学校では教えてくれない戦国史の授業』 井沢 元彦:著 2018年2月15日 PHP研究所
『殴り合う貴族たち』 繁田 信一:著 2018年8月3日 文藝春秋社
『疑惑の日本史』 博学面白倶楽部:著 2019年3月2日 三笠書房
この作品はもともとこのシリーズの第11章として考えていた作品ですが、途中で3章分の文章を割愛したため、第8章に繰り上がってしまいました。ただ、この割愛した部分でも、シリーズ全体としての伏線を張っていたので、手直ししてアップするかもしれません。その時は、この章から繰り下げることになり、第11章になるかもしれません。
このエピソードは、私が長年疑問に感じていたことを、文章にして提示してくださった藤本泉先生に触発されて書きました。海外で行方不明になって以来、藤本先生の消息が途絶えているので、心配でなりません。どなたかご消息をご存知の方が居られましたら、教えてください。
なお、この作品中で引用している『枕草子』の原文及び現代語訳は、角川書店から出ている石田壌二氏の『枕草子』上・下巻からのものです。実際には、当時発売されていた旺文社文庫版の『枕草子』を使って議論していたのですが、現在では絶版になっているため、ノートに書き写していた一部の文章を除いては、今回確認できずに引用を見送りました。




