序章 クリュティエの涙
この作品を
キャロリン・キーン(Carolyn Keene)
ジョセフィン・テイ(Josephine Tey)
アストリッド・リンドグレーン(Astrid Lindgren )
の3人の作家に捧げます。
それは1976年4月、新学年の始業式から数日後の、春とは名ばかりのまだ肌寒い日の夕暮時の出来事だった。
早春の陽は既に傾き、世界が茜色に染め上げられた校舎裏で、一組の男女の中学生が向かい合って佇んでいた。午後から吹き始めた海風が、葉桜になった桜の木々の枝を静かに揺らしていた。
男子生徒の名は、中田秀昭。詰襟の学生服姿で、背が高く、鍛えられてがっしりとした体格をしていた。坊主頭ではあるが、その甘いマスクのおかげで、同学年の女子生徒からは絶大な人気があった。足下には肩掛け鞄と、部活で使う運動用具を入れたスポーツバッグを置いていた。彼は今年2年生になったばかりではあるが、野球部でも既にレギュラーの座を掴んでおり、4番を打つスラッガーとして鳴らしていた。だからと言って野球バカという訳でもない。学業も優秀で、学年ではいつもベスト10に名を連ねている、文武両道の生徒だった。
女子生徒の名は、寛永寺理英。赤いスカーフに、袖口とセーラーカラーに赤い三本のラインの入った濃紺のセーラー服姿だった。少女は透き通る様な白い肌に、瓜実顔の整った顔立ちをしていたが、親からの遺伝と思われる近視のため、いつも眼鏡を掛けていて、校則に従って膝下10cmのスカート丈に、長い黒髪を三つ編みのお下げにしているので、垢抜けない感じがした。通常ならば女子生徒の中では地味な存在だった筈だが、彼女は向かい合っている男子生徒以上に学業が優秀だったため、この学校だけではなく、この中学のある門司区でも結構な有名人だった。そんな二人が校内の密会場所に選んだのは、二人が委員を勤める生徒会室のある建物の裏庭であった。
傍から見ればお似合いのカップルに見えた筈だが、二人はぎこちない笑顔を浮かべたまま見詰め合っていて、その場を重苦しい沈黙が支配していた。先程から気まずい空気が流れ、それに耐え切れなくなったのか、突然男子生徒の方が頭を下げながら辛そうに言葉を発した。
「ごめん!俺、他に好きな娘が居るんだ。・・・」
それを言葉を聞いた女子生徒の方は、笑顔を浮かべていた顔が見る見る強張り、瞳が涙で潤み始めたため、顔を伏せてしまった。しかし直ぐに居た堪れなくなり、その場から逃げ出すように踵を返して駆け出して行った。すると、物陰からその様子を見ていた女子生徒が三人飛び出してきて、その後を追い駆け始めた。男子生徒の方も、直ぐに後を追おうとしたが、それを見ると躊躇って足を止めてしまった。その瞬間、頭上から間延びした男子生徒の声が響いた。
「あーあ、可哀相に。」
その声を聞いた中田は、声の主を捜した。しかし探すまでもなく、声の主は直ぐに、校舎裏に植えられている木の一本から飛び降りて来た。どうやらその木の横に伸びた太い幹に座って、先程から一部始終を見ていたらしい。中田は背丈は自分と同じくらいあるが、ひょろりとしたその痩せぎすの男子生徒に咎める様に言った。
「お前、見ていたのか?覗き見とは趣味が悪いな。」
「僕も悪いとは思ったけどね!でも、区内随一の才媛と言っても、寛永寺さんも女の子だったんだな。」
二人は小学校時代から旧知の仲だった。
「ところで、お前、今、寛永寺の後を追っ駆けて行った三人、誰だか分かるか?」
そう言うと中田は、四人が走り去った方角へ目を向けた。
「多分、妹背薫・前田瞳・坪田郁子の三人だと思うよ。いつも一緒にお昼を食べるくらい仲が良いから、今回はあの三人が寛永寺の背中を押したんじゃないかな?でもこんなことになっちゃったから、きっと責任を感じているんだと思うよ。」
「そっか。だったら彼女たちにも悪いことしちゃったな。」
中田はそう呟くと、細身の男子生徒の方へ顔を向けて、
「俺の断り方、あれで良かったのかな?」
と、尋ねた。
「良いんじゃない?中途半端に優しくする方が、寧ろ残酷な結果になるよ。色恋沙汰なら、鈍ら刀で甚振るよりは、切れ味の良い刀でスパッと切ってやった方が、傷も早く癒えるって!」
「でも、好きな娘の存在なんて言わなきゃ良かったかな?必要以上に傷付けちゃったかも・・・」
「その娘の存在を隠して、二股交際することを考えなかった時点で、僕は君の正直さに好感を持ったけどね・・・」
「ありがとな。ところでお前に一つ訊いても良いか?」
「何?」
「お前は小学生の頃から判で押した様に、終業のチャイムが鳴ると同時に学校を飛び出していた筈なんだが、今日はなんでこんな時間まで学校に残って居るんだ?」
そう問われた痩せっぽちの男子生徒は、頬を染めてそっぽを向くと、
「別に良いだろ、そんなこと!」
と、急に乱暴な口調になった。その態度を見た中田は、我が意を得たりとばかりに、
「お前こそ、寛永寺を追って行かなくて良いのか?心配だったんだろ?それに振られたての女はオトし易いらしいぞ。」
と、悪魔の囁きを口にした。
「傷付いて精神的に弱った女の子に迫るなんて、そんな付け込むような卑劣な真似できるか!」
中田は物凄い目で睨まれながらその返事を聞くと、満足そうにこう言った。
「真面目だなぁ~!正々堂々というのも良いけど、色恋沙汰は駆け引き無しじゃ上手くいかないぞ。せっかくのチャンスをみすみす見逃すことにならないか?」
「ご忠告、ありがとう。でも、今はその時期じゃないんだ。」
「その時期って?」
「僕は君と違って持っている引き出しが少ないから、人様に誇れるようなものは殆ど持っていないんだ。そんな状態じゃ彼女と付き合えないだろう?」
「しかし、去年一年間で8回試験があったけれど、お前の名前が成績上位者として張り出されなかったことは無かったろ?俺の記憶じゃ、ベスト10から落ちたのも1~2回だったと思うけど・・・それで十分じゃないのか?大体学業であいつと釣り合いが取れる男なんて、お前を含めてこの学校に何人も居ないだろう?」
「それでもまだ、彼女と肩を並べる域には達していないよ。彼女は、政令指定都市の中では小なりといえども、人口100万人超の街でベスト10に入る才媛だよ。それに彼女みたいに何でもソツ無くこなす天才と張り合うってことがどれだけしんどいことなのか、全く分かってないよね。彼女と対等に付き合うためには、この先更にどれだけの犠牲を払えば良いのか、考えただけで慄然とするよ。」
「別にそこまで深く思い詰めなくても良いんじゃないか?」
「良かないよ!僕が人様に誇れるものがあるとしたら、今のところ学業だけだ。でも学業でさえ彼女に敵わないようじゃあ、彼女は遠くから仰ぎ見るだけの存在になってしまうんだよ。」
それを聞いた中田は一つ溜息を吐くと、やれやれといった顔で応えた。
「まあ、そう思うんならお前の好きにしろ。寛永寺のこと、後は任せるから、上手くやれよ!」
「この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・出来事などとは、一切関係ありません。」
このお話は、私が大学生の頃(1983~1984年)に書いたものなのですが、さすがに内容が古臭くなっていたので、大幅に改訂致しました。このお話の主人公・寛永寺理英は、私が中学生の時の同級生Uさんを原型に、あと二人くらいの女の子の特徴を加えて造形しています(でも、特定したりしないでね。)。また私には想像力が無いので、実際に在った事件等をモチーフに、内容を大幅に改変して書いています(くれぐれも特定したりしないでね。)。
この小説を書こうと思ったのは、私の大好きな「ハルチカ」シリーズを執筆されている初野晴先生が、「ハルチカ」シリーズから恋愛要素が排除されている理由として、「ミステリーに恋愛要素はいらない」旨の発言をされてると聞いたからです。是非それを覆してやろうと思って書き始めましたのですが、やはり失敗だったようです(笑)。初野先生、ごめんなさい!
ですから、この作品は恋愛エピソードと謎解きエピソードに分かれています。恋愛エピソードには、ギリシア神話から採ったタイトルを、謎解きエピソードには「××事件」というタイトルをつけています。お話を動かす二人が中学生であることから、松本清張先生の言を待つまでも無く、周囲で刑事事件ばかり発生していては不自然なので、彼らが学習する教科に関することも入れてみました。対象科目は、国語・社会・理科・美術と、なるべく偏らないようにテーマを選択しています。本当は、「フェルマーの最終定理」を扱っていた数学のミステリーもあったのですが、皆さんご存知の様に、プリンストン大学のイギリス人数学者アンドリュー・ワイルズ先生が解決してしまったので、意味が無くなってしまいボツにしました(笑)。できれば週一くらいで書いていきたいのですが、無理かなぁ・・・