現在社会では書籍化できるのは当たり前の普通でしかないと思う
俺が何を言いたいかは既にタイトルで書いたとおりだ。
だがそれが、確信的に読者の本人に痛感させられる理由で、キッパリ断言調でドヤ顔で説明してやりたいわけだよ諸君の方。
俺は思うに、既に日本の娯楽産業は一線超えて、産業革命的なインフレを成し遂げたと思っている。
パソコンさえあれば、ハッキリ言って娯楽的な情報は腐るほど手に入る。
少し情報収集に処理の技術を極めれば、超一流の情報媒体なんて腐るほど手に入るのが現代社会である。
ぶっちゃけ既に分かり易いイメージで話すならば、
VRMMO的なソードでアートなオンラインゲームが、完全に実用化しているレベルと断言して差支えがないだろう。
あんな神ゲーがあるのだから、人間が書籍化できるレベルの物語を文章で描けるのは、これは言ってしまえば至極当然の帰結真理なのだ。
人間の基本的で基礎的な、根本的で抜本的な能力値的に断言して、
(付け加えて、もちろん、人間は灼熱のジリ貧クソカス戦場のような場所で生きて、真に人間性を覚醒する必要が、ほぼ前提で必須条件だ。
最大限という名の絶対値で、鍛錬と節制を徹するようになって、だ、ハッキリ言うが、そうでない人間は全員がゴミ屑だと思っている。)
どう考えても、書籍化できるレベルの小説を書けないのは、絶対的に圧倒的におかしい話なのであるという、つまりはそういう話だな。
つまるところ、平均的な日本国民は、だれでも簡単にライトノベルで書籍化できて当然なのだ、というありきたりな結論になる。
そりゃ当然だ、子供一人とか生んで、立派に育て上げることに比べれば、難易度的には簡単すぎる、
こんなのは人生を賭けるにも値しない、本気を使うまでもない、それ故に大して真剣にも、なれはしないのが当然ではあるのだが、
まあライトノベルを書籍化して、日本に与える経済的な純粋利益よりも、圧倒的に子供を育てた方が100%確定で良いのには異論がないだろうがよ。
文化的な発展を理由に異論を挟むモノも居るだろうが、子供が居なければ、日本という文化が先細りにもなろう、
その先細りを補って余りある、芸術作品を描けるか? それはほとんど不可能な難事業で大変だろう?
俺が言いたいのは結論としては、こうだ。
書籍化できるレベルに達する、というのはつまるところ、知的促進による人間的な延命処置でしかないという話だ。
人間は馬鹿になれば、死んだも同じだ、
そして大抵の人間は老化して、禿げて、クソ親父や婆になって、死んだ方がマシな状態になって、性根が腐りきるのだ。
小説家になれるレベルで知的啓蒙をすれば、これが回避できるのか?
答えは違う、
死んだ方がマシな状態になって、初めて日本国民は社会の歯車として、機械的な生産活動に耐えることができるようになる、
つまり滅私奉公で、他人に世界に尽くす事ができるのだ。
たいていの馬鹿は、それが耐えられず、社会的に優位なポジションに居座ろうと、勉強したりするものだ。
発展途上国の奴ら、日本に出稼ぎするモノも含めて、弱者など腐るほどいるのだ、そいつらを利用・犠牲・搾取して、
自分自身は働かず、環境的に勉強もできないような、死んだ方がマシな連中を馬車馬の如く働かせて、自分だけが旨い思いをするものだ。
だが例外的な奇跡を除いて、死んだ方が遥かにマシな状態に、そういう馬鹿はなるものだ。
人間は死んだ方がマシな状態で長期的に生きることによって、緩やかに安楽死できるのだ。
もちろん、実際に安楽死を選択する事によっても、それは成せる。
だが現代社会の強烈な、それは自滅回避因子、
自殺だけは絶対にしない、という意志的な下に創作される、絶対的な上位人間存在が創り上げる芸術媒体、
これらによって、実際は自殺なんてできない場合がほぼ100%を占める。
そして自殺もできずに、不老不死を願うような、哀れで愚かで、悲惨な末路を送る人間が、あまりにも多すぎるのが現実だ。
俺が言いたいのは、書籍化して人生が圧倒的に好転するのは間違いである、という事だ。
もちろん、例外的な奇跡の事例として、究極のラノベを創作できれば違うのだが、
そういう特異点、絶対的なレベルと人間の主観が断定できるレベルの、
ハッキリ言って、スケールの違う、格違いの領域の話は、既に人間の存在そのものをアヤフヤにする事例なので、ここでは無いものとしておく。
最後に、付け加えて繰り返しなるが、もちの論で、
人間は本当に、灼熱のジリ貧クソカス戦場のような場所で生きて、真に人間性を覚醒する必要が、ほぼほぼの前提で必須条件なのだ。
これは最大限という名の絶対値で、鍛錬と節制を徹するようになって、初めて最低限の低次元から脱した、超次元に無限軌道を成すに足る、自由意思を持つ人間に成れるという意味なのだが、
ここで改めて言うが、断言、俺はそうでない人間は全員がゴミ屑だと思っているのだ。
俺は常々思っているのだが、そうでない人間は穏健派という名の現状永続主義、保守という名の腐敗の元凶であるのだ。
もちろん、そういう存在は人間社会を維持する上で必須、必要悪、
だが人間が腐るモノ、生物だと認知するなら、絶対的に排他されるべき害悪でしかないのだ。
ハッキリ人間の屑の癖に、どの面さげて、俺のような超絶革新主義、全身革命家に向ける論があるのか、はなはだ疑問であるのだが?、閑話休題。
そういう訳で、戦場で肉体的に、あるいは精神、知的に、人間として観た場合の、”致命傷”を追っている場合は、例外なのだ。
致命傷を負っているならば、俺的に書籍化できなくても、ライトノベルが書けなくても、まあ許せる。
だがもし、そういう致命傷を負った、終わっている人間が描けるとしたら、それは別格のモノだと俺は断言する。
その場の体力などに任せた、ノリやテンションや勢いで、それは絶対的に無いからだ。
緻密に積み重ねられた研鑽の歴史、基礎研究のようなモノを延々と、飽くなき探求心で追及し続けた、それは成果物で、恐らく技術体系だからだ。
それは流派のように、凡人が汎用的に模倣できる形になっているだろうし、歴史に影響を与えて、延々と積み重なる場合も多いだろう。
人間はゆっくりとでも進化するモノだ、だがゆっくり進化するのは駄目だ、人間には寿命がある。
だから今すぐに、どこまでも果てなく続く連理のように、進化の果てを見せてくれることだけを望むのだ。
果てが死でも構わないのが、人間の本音なのだから、何かしらの終わりを見せてくれるような、進化の極地を生むこと自体が肝要なのだろう。