吸血鬼の肖像
プロローグ
暗い部屋であった。
冴え渡る月の光さえ、その部屋の内部を照らすことはできず、闇は暗く淀んでいる。
窓の外に見える森の木々の高さから、その部屋の位置が2階であることはわかるのだがその広さとなると、重い闇に呑まれて見当が付けられない。
不気味な部屋、そして闇である。
しかし、その闇の中にも人はいた。
長身を漆黒のロングコートに包み、憂い顔で中央の机の上にある『紫水晶』を見つめていた。
哀しい色の瞳であった。
その年齢はまだ、少年をいくつも過ぎてない、若々しい青年のものだ。
まるで、何か大切なものでも失くしてしまったのだろうか、その白蠟のごとき顔には、疲れとも苦悩ともとれる相がありありと見える。
男は『紫水晶』を手に取った。
両手に捧げるようにして持ち、目の前にかざす。
闇の中でも妖しい光を放つその水晶を見る目が、しかし次の瞬間、水晶の光さえ凌ぐ真紅の憐光に包まれた。
静かに、そして鋭く男の瞳が『紫水晶』を射る。
その瞳にはどのような妖力があるのだろうか『紫水晶』の光は、まるで男の瞳に怖れるがごとく色を失い・・再び色を取り戻すかわりに、一人の女の顔を映し出した。
美しい女であった。
歳は男と較べると2、3歳は若い17、8歳で、クセのない黒髪がストレートに肩を隠し、切れ長で大きめの目は、女というよりは、少女という言葉の方を印象させる。
真夏の向日葵のような少女である。
満身に陽光を浴びる背景が、この少女には一番似合うであろう。
その証拠に、少女の顔が映っただけで、この部屋の闇は薄れた。
いや、そんな気がした。
「セレーヌ・・・」
『紫水晶』をしばらく見つめて、男が静かに言った。
感傷のつぶやきとも、水晶の中の少女への呼びかけともとれる言い方だ。
男の寂しい声には、その瞳に涙が溢れていないことが不思議に思えるほどだった。
言葉以上の何かを無言で語りかけているかに見えた。
男はやがて、机に『紫水晶』を戻した。
しかし、戻したそれには、もう少女の姿は跡形もなく、元の紫色を示していた。
男はさらに、窓辺へと近づくと窓を大きく開けた。
熱かな夏の夜風とともに満月の光は、今度は何者にも邪魔されることなく室内に溢れる。
まるで、風が光を運ぶように―。
月の明かりではじめて部屋の広さがわかった。
西洋欧風の室内は、四方20メートル以上はあるか。
調度や家具といったものは、『紫水晶』の乗っている古びた机と椅子、そして、男の背後にある大きな肖像画だけである。
天井も高く約4メートル。
大きめのシャンデリアが三組ほど吊り下がっているが、そのシャンデリアに火が点ることが、果たしてあるのだろうか?
いや、今までに灯が点ったことさえあるのか?
男は窓辺でしばらくの間、闇と熱気を呼吸し、月や星々の煌きを眺めていた。
顔は月明かりを受けて、闇の色に染まってはいるがあくまで白く、それでいて精悍さを感じさせるものがある。
後ろへ流れる金髪が、漆黒のロングコートと調和して、どこかの貴族か貴公子といった印象を与えた。
少女とは対照的な、月の光がよく似合う青年であった。
男は後方を振り返る。
そこには、この部屋で唯一の装飾品とも呼べる一枚の肖像画が壁を彩っていた。
縦1・5メートル、横1メートルはある。
大きな肖像画であった。
誰の描いたものか、大胆に原色を使ったその絵彩も優ことながら、それさも打ち消すほどのモデルの可憐さ、美しさであった。
しかし。その肖像画を見た全ての人たちが次の瞬間、驚きとともに首をかしげる。
その肖像画に描かれている、モデルの顔を見て・・
その画に描かれていたモデルの顔は、男がさきほどまで見つめていた、『紫水晶』に映った少女のものと同一、瓜ふたつであった。
しかし、どこかが違う。
顔こそよく似たものであるが、その肖像画の少女と、水晶に映った少女のかもし出す雰囲気が―。
まるで、太陽と月。
大空と深海。
表と裏・・・・
そして、光と闇のように。
「セレーヌよ許してくれ。あのとき貴女を守れなかった私を。そして、今もこうして生き続けている、この憐れな男を」
男は小声で肖像画の中の少女に、まるで語りかけるように言い、瞳をさらに哀しみに染めた。
心の中の感傷を振り払いながら肖像画に背を向ける。
開いた窓から入り込む風が、男の長い髪を撫ぜて乱すのもかまわず、足を窓枠にかけて立つ。
そして―。
次の瞬間、男の姿は部屋の内から満月の下へと、黒いコートをなびかせて翔び―惣然と消え失せた。
落ちるはずの地には何の音もしない。
もちろん、その姿もなかった・・・
部屋には一枚の大きな肖像画が、闇と一緒に残されていた。
暗い部屋であった。