#1 プロローグ
初投稿です!
不慣れなところも多いのでご意見、ご感想、誤字脱字の指摘など、どんどん頂ければ嬉しいです。
――――放たれた気球はゆっくりと舞い上がった。
すぐに人の背丈を超え、家の背丈も超え。
より高みへと。
かすかに甘い蜜蝋が燃えた香りを地上に残し、そよ風に揺られて大空をゆらりゆらりと昇っていく。
「飛んだ……」
きっと端から見れば間抜けな顔だろう。
あんぐりと口を半開きにして空を見上げているのだから。
「すごい! すごいわ!」
隣にいるエミリーは頬を紅潮させながら気球を指差し大興奮だ。
その姿を見て僕にも遅れて実感がわき上がる。
「……本当に飛んだ……やったぁぁーーーー!」
僕は空に向かって両手を突き上げ、叫んでいた。
すごい! 本当だった!
「ハルト、やったね!」
「エミリー! やったよ!」
彼女の両脇に手を入れ持ち上げると、その場でくるりと一回転、勢いそのまま後ろに倒れこみ、二人で歓声をあげ喜びながら野原を転がり回る。
嬉しさの感動で涙が出そうだ。
気球の研究を始めて丸二カ月――これが通算九回目の挑戦での成功だ。
僕が手作りした気球は小型の樽ほどの大きさで、袋状にした紙を竹材で補強し、下に蜜蝋で作った蝋燭をぶら下げている。
この構造で飛ぶと書いてあったけれど、半信半疑で作っていたのだから驚きと喜びも格別だ。
はしゃいだ流れから野原にごろりと寝転がれば、視界には雲一つない秋晴れの青空が広がる。
「もうあんな高さまで……」
その紺碧の空にぽつんと白く浮かぶ気球は頼りなさげに揺れながら、僕の視界の先で今なお天空の高みを目指している。
僕の隣にそっと腰を下ろしたエミリーも、眩しそうに空を見上げる。
「…………私はあれほど空高く飛ぶものをこれまで渡り鳥しか知らない。いえ、私だけじゃない、きっと誰かに話しても嘘つき呼ばわりされるわ……」
それには答えず、しばし気球の行き先を感慨深く見守る。
「………………」
二人の間に沈黙が訪れる。
聞こえるのは風のささやきと秋深い虫の声だけだ。
ゆったりとした時間が流れる中、ふと視線を感じて見てみれば、エミリーが僕のことをじっと見ている。
「……ハルトはすごいと思うわ」
「うん? 急にどうしたのさ?」
「ハルトには物作りの才能がある。早く都に出るべきよ」
「…………僕には才能なんて無いよ。本当にすごいのはこの本を書いた人だよ」
そう、この“気球”は僕が考えたものでは無い。
僕が今も大事に握りしめている古びた本に書かれていたものだ。
僕にはこの作者のように新しい何かを作り出すような本当の才能は無い。
「そんなことないわ。本に書いたあった通りじゃ飛ばなくて、素材を変えたり大きさや形を色々試して工夫したのはハルトでしょ。胸を張って自慢して良いのよ」
「そうじゃないんだよ……」
「もう……その引っ込み思案がハルトの悪いところよ!」
エミリーが横から手を伸ばし、僕のこめかみを握った手の甲でグリグリとこねくり回す。
「人手が掛からずに粉を挽いてくれる水車、重さが半分になった井戸の釣瓶、ハルトが作ったものでみんな便利になったと喜んでいる」
「僕もみんなに喜んで貰えるのは嬉しいよ」
「蜜蜂の巣箱と蜂蜜を取る道具もそう、今まで甘いものは年に数回のご馳走だったのに、あれのおかげで毎週のように味わえるようになったのよ。みんなハルトに感謝しているわ」
「……でもその感謝はこの本の作者が受けるべきものだと思うんだ」
「違うわ、この村で実現したのはハルトじゃない! 結果だけ見て天才だと騒ぐ人もいるけど、裏では蜂に刺されたり、小さな模型からこつこつ実験を重ねたり、色々苦労して工夫して……簡単に実現したものなんて一つも無かった」
「………………」
「本に書いてあるだけじゃ意味がないの、みんなの役に立ってこその知恵であり道具よ」
エミリー言うことは正論だ。
それだけに彼女の純真な思いに僕にはどう答えたら良いかわからない。
村のみんなの役に立ち、褒められることは嬉しい――でも天才だ、神童だと持て囃されるのは素直には喜べない。
それは僕には、みんなには教えられない秘密があるからだ。
「私はハルトが作るものを見るとドキドキする。次はどうなるんだろうって。きっと都の人でも予想が出来ないわ」
僕がそんなことを考えているとは知らずに、エミリーは尊敬の眼差しを向けてくる。
「この気球だって話が分かる都に住む貴族様とか、見る人が見ればちゃんと評価してくれるわ」
いつか本当のことを伝えられる日が来るんだろうか。
その時エミリーは僕のことをどう思うだろうか……。
「だからハルトが都に移り住むときは、私も連れて行ってね。約束よ」
「ふぅ……さっきから都、都って。最後には何故か僕が都行くことになっちゃっているんだけど?
ただエミリーが都に行きたいだけだろ?」
「そうよ! 私は早くこんな田舎の生活から抜け出したい! 眠らない街と言われる王都セレス、水の都アルベール、城塞都市ハミルトン。都と呼ばれる大都市はどこも想像できないほど多くの人々が住んでいるのよ」
「うん」
「夜な夜な舞台が繰り広げられ、歌姫の美声に人々が魅了される演劇場。商店街では籠から溢れるばかりに食べ物が並べられ、様々な衣服と装飾品はところ狭しと飾り立てられ、異国の商品まで揃っている」
「そうだね」
「お城では舞踏会か開かれ、騎士と令嬢の叶わぬ恋物語が紡がれる」
「それは絵本だけ……」
「そんな都に国中、世界中から人々が集まってくる。こんな田舎の村とは比べものにならない。はぁ、旅人から話を聞くたびに憧れが募るわ。ハルトもそうでしょ?」
「うーん……お金の心配が無いなら面白そうとは思っちゃうよね」
「私は早くあの気球のようにこんな田舎の村から飛び出したいわ……」
「気球のようにねぇ……」
「………………」
急にエミリーが口をつぐむ。
エミリーが黙るなんて珍しい……。
内心でそんな失礼なこと考えていると、彼女は急に寝転ぶ僕の顔を覗き込むように半ば覆いかぶさってきた。
さっと僕に彼女の影が落ちる。
さらさらと良く手入れされた自慢の金髪が肩から流れ落ちる。
その髪は日の光を反射して川のきらめきのように輝く。
それまで僕の視界を占めていた青い世界は閉じられ、代わりに光り輝く世界が広がる。
その光景はただ美しい。
エミリーが流れ落ちた髪をゆっくりとかき上げると、隠れていた白い肌の胸元が露わになり、ふわりと女の子らしい良い香りが漂う。
幼馴染で見慣れているとは言え村一番と評判の美少女だ、彼女のその何気ない動作に僕の胸はトクンと高鳴り、思わず息を飲んだ。
エミリーは僕と同い年で十二歳になったばかりだというのに、この頃女性らしい仕草が増えてきた。
またそれをあえて僕に強調している節がある。
それに気づかないほど僕も鈍感では無いが、かといってどう対応するのが良いのかまではわからず、情けないことに気付かないふりで逃げるしかない。
こんな時どうしたら良いのか、僕がこれまで読んだ百冊近い本にもその解答は載っていないのだから。
そして、この体勢だと、ここ数年で激変した胸元がひどく自己主張して落ち着かない。
特に今日は胸元が開かれた前開きの胴衣であり、またその細い腰をさらに紐で締め上げる衣装なのだ。ただでさえ豊かな胸が下から持ち上げられ特に強調される。
これがジャレンおじさんが言うところの男の性というものか……
どうしても気になりちらりとちらりと見てしまう。
そんな僕を見てエミリーは、はにかんだ笑みを浮かべている。
その透き通った蒼氷色の瞳で見つめられると何もかも見透かされた気分になってしまう。
「ハルト…………話があるの」
彼女は艶のある声でそう言うと、伏し目がちに顔をじりじりと寄せてくる。
彼女のふっくらとして柔らかそうな唇に僕の目は釘付けだ。
「恥ずかしいんだけど、聞いてほしいの……」
逆光でわかりづらいけれど、心なしか彼女の頬も朱に染まっているようだ。
……無意識に僕はゴクリと生唾を飲む。
「……私こんな気持ちは生まれて初めてよ……」
もう息遣いが聞こえる距離だ。
その吐息には熱を感じる。
「あの気球でお金稼げないかしら!?」
そう言った彼女の瞳は純粋な子供のように期待でキラキラと輝いていた。
「…………へっ?」
僕は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
一瞬何を言われたのか理解出来なかった。
僕が淡い期待を抱いて、想定していた言葉とは全然違った。
僕は一人で勘違いしていた。
……そのことに気づくと赤面するほど恥ずかしい。
「気球よ、気球! あれを大きくすればきっと人も渡り鳥のように大空を飛べるわ! 人を乗せるサイズの気球を作って海の船のように空で人や荷物を運ぶの!」
「…………」
「もう、ちゃんと話を聞いてる?」
「あー、大丈夫。聞いてる、聞いてるよ」
顔を横に背けた上で左手で顔を隠しながら、右手でパタパタと合図する。
内心で悶え苦しんでいる間に、僕がいったいどんな顔芸を披露していたのかは、考えないことにしよう。
「あの気球を大きくすればきっと人も空を飛べるわよね?」
「……うーん、どうだろう。素材の強度とか大きさには限界があるよ?」
「そこはハルトがいつものように工夫して――」
「無理、無理。人が乗れるぐらいの大きさにもなると、先立つものが無きゃ工夫するための研究が出来ないよ」
お金と言われるとすぐに考えが浮かばないのか、エミリーは上体を戻して一人でうーん、うーんと悩み始めた。それを傍目に僕も片膝を立てる形に座り直し、気球へと目を戻す。
もう結構な高さまで昇っている。
変な期待をしてる場合では無かった。
そろそろ蜜蝋の火が消える頃だろうか。
でもあの胸は反則だ。
気球の高さを目測で大まかに測り記憶する、帰ったら情報を整理しなくては。
よこしま考えに横槍を入れられつつ、真面目な顔だけは維持して観測を続ける。
きっと死んだ目をしているだろうけど。