第七「ダイナミックにいきましょう」
ハナコ視点と第三者視点(インさんside)の描写があります。注意です。
だいなな――だいなみっくにいきましょう
突然だが諸君。どうしようもない現実に逃げたくなる時はないだろうか。
人はそれを現実逃避と呼ぶが、でも仕方ないこともあると私は大いに頷きたい。
私は現在進行中で逃避している最中だからだ。ちなみに物理的に。
「もう耐えられない……!」
私はついに決心した。この監禁生活から逃れる事を……!
作戦は至って簡単だ。昼間インさんが外出した時を見計らって、ガーゴイルさんにちょっと散歩してくると言えば準備は完了だ。
なので玄関を掃き掃除していたガーゴイルさんに私は近づいた。私に気づいたガーゴイルさんは柔らかな微笑みを浮かべた。そうすると野性味のある美貌がいくらか軟化するのが不思議だ。
「おや、ハナコ様。如何なさいましたか?」
「うん。ガーゴイルさんに聞きたいことがあって」
「私に、ですか。なんでございましょうか?」
「ここの庭って散歩していいのかな?なんか侵入者用の罠とかありそうで……」
「ふふ、ありますが大丈夫ですよ。ハナコ様に反応しないよう既に改良済みでございますから。ご安心ください」
「お、おぉ」
にっこりと完璧な笑みのガーゴイルさんに私は若干引いた。なんと反応していいのやら分からない。
「じゃ、じゃあちょっと散歩してくるね!」
「はい、いってらっしゃいませ」
私はガーゴイルさんに引きつる笑みで手を振り走り去る。振り返った時に見えたガーゴイルさんは綺麗に一礼をしていた。その所作が完璧な執事で思わず拍手を送りたくなったのは秘密である。
私はそのまま足を進め、ガーゴイルさんの視界から完全に外れる。というか、屋敷の裏の方まで回る。私はセオリー通りである事を祈った。
すなわちちょっとした抜け道である。この広大な屋敷の敷地の周りをぐるっと囲む立派な塀にちょっと穴が開いてないかなぁと思ったのだ。成人男性は通れなくとも、十三歳にしては小さい体格の私なら通れる穴が開いてないかと。
この屋敷は見た目は立派だけど明らか新築ではない雰囲気だ。使いこまれた趣があり、ゆうに築百年を超えると言われても納得してしまう外観だった。ならば囲む塀も同じこと。見た所維持しているのはガーゴイルさんとドールさんの二人だけのようだし。優秀な二人だけど二人だけでは手がまわる範囲は限られている。
私の推察は当たっていた。
植物に隠されるようにして穴は存在していた。塀の老朽で崩れたのだろうか。匍匐前進すれば何とか通れるスペースだった。
私はごくりと唾を飲み込み、覚悟を決めた。
だって、私はまだ両親の元に帰る事を諦めるなんて出来ない。あの愛情を裏切りたくない。
私は匍匐前進で塀の穴へと進み、抜ける。そして敷地外へと足を踏み入れた。
目の前に広がるのは漆黒の森。木々の色が黒く、そのせいか薄暗く感じる。一応ちょっとした食料と水を拝借してはいるけど大丈夫か心配だ。多分大丈夫じゃないと思う。だって両方とも洋服にポケットに突っこめる大きさだ。じゃないとガーゴイルさんに、ドールさんにばれる危険性があったからだ。
でもこれ以外ここを脱出できる方法が思い浮かばない。なんとか人里近くまで歩いていって保護してもらう。完全に運頼みな上、不確定だ。
インさんに直訴するよりは確実だと信じたい。私は漆黒の森の中に足を進めた。
「……はな」
予定より早く屋敷に戻ったインにガーゴイルは目を丸くする。ガーゴイルは玄関で掃き掃除をしていた。ハナコが去ってからまださほど時間は経っていない。
「おや?イン様、お帰りなさいませ。早かったですね」
「ハナは?」
「ハナコ様……ですか?そう言えば、散歩するとおっしゃっておりましたが……」
「ッ!?」
「ってイン様?! どこに行かれるのですか!」
ガーゴイルの声はインには届かなかった。一目散に駆け出したインは屋敷の外へと向かう。通称『死の森』。亡国クレリア帝国の辺境にある漆黒の木々が埋め尽くす鬱蒼とした森である。
クレリア帝国、別名魔導国家クレリア。それはかつて禁忌の大罪を犯した国の名だ。
そのクレリア帝国の辺境にある黒い木々が群生する森が『死の森』だ。この森は文字通り危険な森である。
クレリア帝国の負の遺産である『魔法生物』の生き残りが僅かながら存在するからだ。だからこそ、この屋敷をイン達は拠点にすることにした。ここならば容易に見つからないし、見つかっても攻め入る事が難しい場所だからだ。
ここはかつて亡国クレリア帝国の公爵の別荘の内の一つだった。今はその公爵も闇へと消えたが。
インは直感を頼りにハナコを捜索する事にした。この屋敷の敷地内にハナコの気配が感じられなかったからだ。早くしないとハナコの命が危ない。
黒い森を私はひたすら走る。後ろからうすら寒さを感じるからだ。おかしいな、と思ったのはこの森を歩き始めて十分した頃だったか。ゾクリと背筋を走った悪寒に私は後ろを振り向いた。けどそこには人影一つなかった。もしかしたらインさんが追ってきているかもしれない。気づいたら私は走っていた。条件反射と言うべきか、捕まったらヤバいと私の本能が背中を押すのだ。
「ハナ。どこ?」
ひゅうひゅうと私の口から音がする。どれくらい走ったのなんて覚えていない。ただひたすら走る。後ろから聞こえるインさんの声に私は身震いした。
インさんの声は特別だ。少し低めの声はポツリと呟くだけで存在感がある。あれは一種の美声だ。寝起きのかすれ気味の声なんて色気半端ないもの、って今はそれどころじゃない。
私は漆黒の木々の間を縫うようにして走り抜ける。幸いまだインさんにまだ追いつかれていない。とはいえ相手は暗殺者、油断は禁物だ。
「きゃぁッ!!」
木の根に足をとられ、私は盛大に地面に転がる。ずしゃあと音をたて、地面を擦った身体は悲鳴を上げじくじくと痛みを訴える。一番痛い右ひざを見ればだらだらと鮮血が垂れていた。あれは石で膝を切ってしまったかもしれない。
「……みつけた」
近くでぽつりと落とされる低めの声に私は目を見開いた。
「駄目じゃないか。ハナ。……あぁ、そんなに盛大に転んで」
私の膝の怪我を見て、インさんはその端正な顔を歪ませる。
「さ、帰ろ。ハナ」
私に向かって手を広げるインさん。私は唇を戦慄かせて、かろうじて口を開ける。
「やだ」
私の声にインさんの動きがピタリと止まる。
「なんで?」
温度のないインさんの声に私は頭を横に振る。
「だって……誰でもいいんでしょ?」
私は泣きたい気持ちを堪えて聞く。声が震えていない事を祈りながら。
インさんの顔を窺う。これでもし、めんどくさそうな顔をされたら私の中の何かが崩れる、と直感的に思ってしまった。
私は恐る恐るインさんの方へと振り返る。インさんは私を見下ろしている。それ故、顔に影がかかり、表情が見えづらい。
「誰でも?……そんな訳ない」
誰だ?あれは。
私はそう思ってしまった。それ程、インさんの声は震えていたし、その銀色の瞳は苛烈な光を帯びていた。その声に潜む激情の激しさが、低さで伝わってくる。
「ハナ、俺の特別。……逃げられると思わない方がいいよ」
膝を折りしゃがみ、私と目線を合わせたインさんが静かに言い放った。いつものインさんみたいに静かな声なのに、不思議と熱っぽい響きがあった。
無意識にジリッと後ろに下がった私の背中に木の幹がぶつかる。あ、これ詰んだかもと私は現実逃避気味に考えた。
ヤンデレが本格的になって参りました。