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SF

燃える涙と月のこども

 人類が月に到着して数十年。

 依然として進まない惑星改造(テラフォーミング)とは裏腹に、実地調査と月の研究は進んでいく。

 そして、ある程度進んでしまえば今度はそれを元に金儲けができないかを考えるのが人間というものだ。

 最初は日常において意識することがない物理学や数学の分野でブレイクスルーを起こしたが、日常においてもっとも衝撃的だったのは医療分野だろう。

 低重力下では癌の進行度が著しく遅くなるとともに、脳梗塞の諸症状にも改善が見られたのだ。国連主導で作られた医療施設には、地球では助かる見込みのない要人と金持ちを中心として多くの患者が送られ、そして実際に半数は生還させた。残りの半数は大気圏外から地球を眺める墓標となったが、それでも人類には希望だった。

 早期の癌や軽度の麻痺ならばほぼ完璧に完治。

 地球では最先端の医療を用いてもさじを投げられるレベルの患者でも半数は生還できるのだ。


「とはいえ、2200万か……」


 月面大病院。

 その端に併設された空気浄化設備の裏で、40絡みの男がタバコをふかしていた。

 電子タバコの煙はごうごうと鳴る空気浄化設備に飲まれて消えるが、きっと嫌煙家が見たらブチ切れるんだろうな、と笑った。


『アンタが汚した空気を浄化するのに何種類のフィルターと何リットルの空気が必要だと思ってるんだ! 病気を治そうって人間が集まってんだからタバコなんぞ吸ってるんじゃねぇ! 死にてぇなら地球(おか)で死ねよ!』


 それは実際に男が言われた言葉であり、そして最もなことであった。

 正論すぎてぐうの音もでないが、男としては独身貴族を貫いてやっとこさ溜めた2200万もの金を全て捨ててまでここでの治療を行っているのだ。

 多少の息抜きくらいは許して欲しいし、フィルターも空気も2200万の中に含まれてるんじゃないだろうか、とも思っていた。

 そして、もう1つ思うのが、


「確率は50パーセントか」


 それは男が生き残る確率であり、そして死ぬ確率でもあった。

 ゼロから50まで上がったとなれば大きな上昇ではあるが、いざ直面してみればその数字はあまりにも頼りなかった。

 考えてみれば、コインの裏表に命を預けるようなものなのだ。


「やっぱり、潔く豪遊して死ぬべきだったかな……」


 2200万という金は男自身が金持ちだったり、あるいは大企業の重役だったから溜められた金額ではなく、半分以上は死んだ両親の生命保険で、残りは男自身があくせくと働いて溜めた結果であった。

 趣味らしい趣味といえば渓流での釣りくらい。

 0円とはいかないが、経済的にみればかなりコストパフォーマンスの良い趣味だと言えた。

 タバコは吸うが、ヘビースモーカーというほどでもない。

 酒は下戸で、賭け事に至っては小心者過ぎて結果を見られないのでやっているとストレスが溜まる始末だった。


「でもなぁ……別段欲しいロッドもないし、仕掛けも十分だしなぁ……」


 釣り自体はしたいけどよ、と口の中で続けると、背後に気配が生まれた。

 とっさに電子タバコをポケットの中に放り込むが、そこにいたのは170センチメートルはあろうかという、すらっとしたスタイルの女性だった。

 アジア系なのかショートカットの黒髪に薄めの顔。

 しかし瞳がぱっちりとした二重で、唇が薄く色づいた姿は美しいと言えた。


「あれ、おじさんこんなところで何してるの?」


 ざっくり編みのニットにスキニーのデニムを合わせた彼女は、小さく微笑みながら男のそばに来た。


「……ん、もしかして、タバコ?」

「まぁな」


 男はばつが悪そうに答えるが、バレてしまったものは仕方ないとポケットからタバコを取り出した。

 そして女性が怒る様子がないことを確認すると、それを吸い始めた。


「やっぱりタバコ吸う人はここで隠れるように吸うんだねぇ」


 くくく、と小気味よく笑った女性に、思わず男はどきりとした。

 風俗などは利用することもあったが、そういったことと関わりのない男にとって女性の笑顔は眩しかったのだ。


「私、奈々。おじさんは?」

「俊明」


 名前で名乗られて思わず名前で返してしまったことに、俊明は年甲斐もなく頬を赤らめた。しかし奈々はそんなことは気にしてないのか、笑みを深くして手を差し出してきた。


「また来てよ。私もひましてるから、話し相手になって」


 俊明はおずおずと手を握り返した。

 暖かく、そして柔らかな手だった。


 それから、奈々と俊明は何度も会った。

 元々、月の低重力に慣れるために入院は手術の半年前だ。

 つまり俊明は半年後まで、投薬と定期検診以外にやることがないのである。余命は1年と言われていたが、宇宙ならば少し伸びる公算も有り、ただ暇を持て余すこととなった。


「俊明さんはどこの出身なの?」

「三重県だな」

「ってことは伊勢神宮とか?」

「俺は四日市の出身だからそこまで近くないよ」


 小さい頃は何度か行ったけどな、と笑うと、奈々は瞳を輝かせる。


「そっかそっか。じゃあ、もし地球で会えたら案内してよ!」

「良いけど、参拝以外に見どころはないぞ?」

「良いの」


 にこにこと笑う奈々を見ながら、俊明はふと思った。


(この子、何の病気なんだろうか)


 癌は年齢関係なくなるが、卒中や梗塞というのは考えにくい年齢だ。

 健康体に見えることを考えると、


(宇宙白血病か)


 そう結論した。

 宇宙白血病とは大気に守られていない宇宙で長く活動することで、放射線濃度が上がって白血病を誘発する病気である。

 船外活動員としては職業美病の1つであり、その代わりに高額収入で引退が早いというのも特徴であった。低重力障害、膠原(こうげん)病と並んで三大疾病となっている。


(運が無かったんだな)


 船外活動用の宇宙服は鉛のシートや特殊素材を何百層にも重ねたフィルターで守られている。そのため、引退後ならばともかく奈々の年齢で発症するのは不幸としか言いようが無かった。


(まぁでも、髪も抜けてないってことは多分初期だよな)


 初期ならば治癒の見込みもかなり高い。

 俊明はそれにほぅっと安堵の息を吐くも、同時に助かるかどうかわからない己と比べて羨ましくも思うのであった。


「ね、俊明さん聞いてる?」

「あ、すまん」

「もー。きちんと聞いてよ!」

「悪かったって」


 そして俊明はだんだんと己が奈々に惹かれていることに気付いた。


「へー、今は都内の会社なんだ。凄いね!」

「上京して拾ってもらっただけだよ」


 子供のようにまっすぐで素直な反応。


「私、注射苦手なんですよね……」

「そうか? 昔は痛かったけど、最近のはほとんど痛くないからなぁ」

「あ、知ってる。昔は今のより針が太かったんでしょ?」


 屈託のない笑み。


「え?! 東京ってついてるのに浦安にあるの!?」

「ああ。あれはファミレスが普通のドリアにミラノ風って付けてるのと一緒だ」

「っていうと?」

「イメージ戦略さ」


 会話の終わりには、奈々は必ず、


「俊明さんって物知りだねぇ」


 感心したように笑うのであった。

 奈々の二倍は生きているのだから当然だ、と思わないでもないが、それはつまり、


(……親子みたいな年齢差なんだよな……)


 俊明の中にある思いを萎ませる現実でもあった。

 そんな俊明の個室に、ある日奈々が飛び込んできた。

 普段ならば空気浄化設備の裏に隠れるようにして会っていたので俊明はどきりとしてしまうが、


「大変だよ俊明さん!」


 必死の形相でニュースが表示された電子媒体を差し出してきた奈々に、何事かと身を固くした。

 電子媒体には宇宙に浮かぶ小さな地球を背景に、小さなゴミが大量に浮かんでいる映像が流されており、


「衛星とシャトルが激突!?」


 にわかには信じがたい事実が報じられていた。

 スペースシャトルF−13と人工衛星『明洞』が激突し、その破片が宇宙飛散物(スペースデブリ)として月と地球を結ぶ航路を塞いでいるというのだ。

 宇宙飛散物(スペースデブリ)の回収は自転との相対速度が毎秒3キロメートルという超高速になるために難しく、出来ても大型のものを少し拾うだけ。しかもその回収作業中に飛散物(デブリ)とシャトルが衝突でもすればさらに飛散物(デブリ)が増えるという最悪の条件だった。

 宇宙物理学者、工学者などの有識者が出した結論によると、飛散物(デブリ)の大半が大気圏へと突入して燃え尽きるまで、十年単位の時間が必要になるとのことだった。


「伊勢、いけなくなっちゃったね」


 奈々ははは、と笑った。

 いつもとは違う、力のない笑みだった。


「そうだな……まぁでも、月面コロニー(ここ)には牧場とか農場とかもあるんだろ?」

「まぁ、あるけど」

「じゃあ、待ってればそのうち行けるんじゃないか?」


 癌とか梗塞・卒中用の薬もある程度は備蓄あるだろうし、と続けると、奈々の瞳からぼろりと涙がこぼれた。


「私の薬、ないもん」

「無い? ちょっと待て、奈々は何の病気なんだ?」


 狼狽える俊明に、奈々はぼろぼろと涙を零しながら抱きすがった。


「私、病気じゃないもん」

「じゃあ、なんの薬がいるんだ?」

「低重力障害児用の、強心薬」


 その言葉に、俊明は固まった。


「低重力障害……奈々、君はいま、何歳なんだ?」

「……9歳」


 低重力障害とは、月で生まれた子供のことだ。

 低すぎる重力で発達した骨格と筋肉は地球の重力に耐えることが出来ず、月でしか生きていけない。その上、体の発達が異常に早く、弱い筋肉では血液を十分に末端まで送ることができないために、強心薬と呼ばれる薬が必要だった。

 俊明はその言葉に衝撃を受けた。

 9歳であること。

 低重力障害であること。

 薬が足りないこと。

 その全てが、俊明には受け入れがたい事実だった。

 固まる俊明の胸の中で、奈々は泣いていた。


「死にたくない……死にたくないよう」


 地球にだっていってみたい、美味しいもの食べたい、と己の願望を口にする奈々だが、それはもはや叶わないからこそ告げるものであった。

 俊明はそれを聞いてようやく我に返った。


「なぁ、奈々」

「なに」


 鼻の先を赤くした奈々の頭をなでてやる。

 愛しい女性としてではなく、可愛い子供としての仕草である。


「薬はどのくらいあるんだ?」

「いちねん、くらい」


 奈々は答えると、ぐず、と鼻を啜った。


「今から俺が、奈々が生き残れないか出来るだけ頑張って調べてみる」

「……うん」

「それで、もし駄目だったら、俺が一緒に死んでやる」


 ぽかんとした顔の奈々に、俊明は笑みを見せる。歳相応の落ち着いた態度を心がけながら、


「死ぬのは怖い。独りだと特にな。だから、俺が一緒に逝ってやる」

「駄目だよ」

「駄目じゃない」


 奈々の反論を遮ると、俊明は再び頭を撫でた。


「それが嫌なら、俺と一緒に、最期まで諦めずに頑張ろう」


 な、と訊ねれば、戸惑いながらではあるが頷きが返ってきた。


***


 それから俊明は、推移を見守りながら色々なことを調べた。

 どうやら強心薬はかなり特殊な化学物質が必要らしく、月では生産できないこと。

 低重力障害児は元々の寿命が15歳前後であること。

 地球との交易断絶により、幾人かが自殺したり、暴れたりしたこと。

 地球から、確率度外視で必要物資を乗せたミサイルを打ち込む計画が持ち上がったこと。

 しかしそれが飛散物(デブリ)をさらに増やす要因に成りかねず、結局は白紙撤回すること。


 もちろん、奈々とも会っていたし、電子タバコもぷかぷかふかしていたが、それでも俊明なりに必死だった。

 奈々もそんな俊明の姿に気づいていたのか、時々ぐずったものの基本的には笑顔が多くなった。

 2人が会う場所は、空気浄化設備の裏だけでなく、俊明の病室だったり、奈々の個室だったり、あるいは日光浴用に作られた、特殊フィルターが重ねられた採光室だったりと変化したが、相変わらず地球のことを聞きたがる奈々に、俊明は知っている限りのことを語っていた。


 そして、半年が過ぎる頃には奈々の身長は180センチメートルを超えた。

 俊明は奈々には内緒で手術をキャンセルし、投薬治療のみに切り替えた。生き残る確率は半々だが、手術に比べて強い薬が必要なため、副作用で白髪が一気に増えていた。


「あー、きついなぁ」

「やっぱり痛いのか?」


 奈々は採光室に立っていた。

 日光を浴びた奈々は、透けるような肌と艷やかな黒髪が輝いており、はやりとても美しかった。

 180を超えてしまった奈々は関節がぎしぎしと痛むようになったらしく、ゆっくりとストレッチをしているが、顔は笑みを浮かべている。


「ちょっとね。俊明さんこそ、辛いんでしょ?」


 白髪に視線をやる奈々に、俊明はニヤリと笑ってみせる。

 本当は辛いが、それを言うことで庇護すべき相手と傷の舐め合いをしたくはなかったのだ。


「いやいや、実際の辛さよりも見た目の方がインパクトがデカイんだよ。辛そうに見えれば周りが気を使ってくれるからな」

「というと?」

「イメージ戦略さ」


 一通り笑うと、2人はまた地球の話に興じた。


「釣りかぁ。やってみたいなぁ」

「最高だぞ。ヘラブナが良いな。いや、最初は海釣りで爆釣の楽しさを知ってもらうべきか?」

「ばくちょう?」

「針を垂らしたら一分もしないうちに魚が釣れる状態のことだよ。糸を垂らしてる時間より魚を針から外す時間の方が長くなるくらい釣れることだってある」


「ええ!? ラーメンの替え玉って博多だけなの!?」

「ああ。博多っていうか、豚骨ラーメンな」

「なんで!?」

「豚骨以外は細麺じゃないから、茹でるのに時間掛かるんだよ」


「マンチニール?」

「ああ。前に出張でフロリダ行った時に見たんだけど、世界一危険な植物なんだってさ」

「何何? 食人植物とか?」

「そりゃ映画とか小説にしか出てこないな。マンチニールは毒が強くて、雨宿りに使っただけで溶け出した毒が垂れてくるんだ。水ぶくれとか炎症とか起こすらしいぞ」

「雨かぁ……浴びてみたいなぁ、雨」

「そっちか」


「ね、地球から見ると月ってうさぎの模様に見えるんでしょ?」

「ま、日本ならな」

「見てみたいなぁ……」

「でもこじつけみたいなもんだし、正直あんまりうさぎっぽくないぞ?」

「……本物のうさぎも見てみたいなぁ」

「うさぎは知らないが、猫カフェとかふくろうカフェとかはあるぞ」

「ふくろう! 猫! 触りたい! 抱っこしたい!」


 そんな話をしている内にようやく一年が過ぎた。

 俊明は髪が全て白髪になり、奈々は10歳になり、身長が2メートルを超えた。

 ある日、俊明は採光室に呼ばれた。

 時間は夜。

 日光浴ができないために、あまり採光室にいく意味がない時間だ。


「こんばんわ」


 夜の採光室で見る奈々は、すらりとしたシルエットが猫のようにしなやかで、やはり美しかった。


「こんばんわ。どうしたんだ?」

「ちょっと言いたいことと聞きたいことがあって」


 どっちからにしよっか、と顔を覗き込む奈々に、俊明は曖昧な笑みを返した。


「それじゃ、言いたいことは何だ?」

「強心薬、切れちゃった」


 あはは、と笑う奈々は明らかに空元気だが、どこか踏ん切りでもついているのか落ち着いた様子であった。一年掛けて、どうにか現実を受け入れたらしい。


(……まだ10歳だぞ)


 俊明は内心で歯噛みする。

 しかし、できることはない。調べても、手立てがなかったのだ。

 代わりに、努めて話題を変える。


「そうか。……それじゃ、聞きたいことは?」

「俊明さん、病状はどうなの?」

「どうだろうな」


 俊明は笑うと、不満顔の奈々を後ろから抱きしめた。

 既に俊明の方が30センチメートル近く小さいために不格好だが、俊明は奈々の手を取って上へと伸ばさせた。


「奈々」

「なに?」

「いま、地球に一番近いの、奈々だぞ?」


 それは、強引な話題の変更だった。

 しかし、その言葉に顔を上げた奈々は、息を呑んだ。


「きれい」


 採光室の先、黒の宇宙に浮かぶ地球には、きらきらと光の筋が流れていた。

 大気圏に突入し、燃え尽きようとしている飛散物(デブリ)達だ。

 燃え尽きることに涙する飛散物(デブリ)の欠片。

 それが流星のように尾を引いていたのだ。


「きれい」


 奈々は再び呟いた。


 そして、数日後、2人は――

ご愛読ありがとうございました!


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