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メイン 1 安西春真は戸惑う


 七月の初日。


 天気は朝から曇り気味。


 昨日の予報では快晴になる筈だったし、昨日の天気も予報の段階では雨が降るなんて事は一言も言っていなかった。

 それなのに、昨日は急な雷雨だし、今日も朝から太陽は雲に隠れてしまっている。


 そんな、七月の初日。


 奥海昴は、私が昨日遭遇した奇天烈な事象など、本当は何も無かったかのように、極々普通に登校してきた。


「……おはよう」


 そう言った声の上擦りが自分でも手に取る様に分かった。

 私がそう言うと、彼は気だるそうな身体を机に突っ伏して、「ん? あぁ、おはよう」と、御座なりな感じに挨拶を返してくれる。


 何だか、こちらから昨日の事を聞くのが忍ばれる態度だ。


 聞くべきか、それとも聞かないべきか。


 積極的に知りたいと思う気持ちが無い訳でもないが、彼の口が自然と開くのを待つべきでもあると感じる。


 というか、だ……。


 そもそもそれ以前に、私は不思議と落ち着いていた。


 昨日のあれに遭遇して、奥海昴に遭遇して、びしょ濡れの制服についてお母さんに怒られるかと思いきや、自宅に着いた時には不思議な事に制服も髪もすっかり乾いていた。それでも風邪を引かない様に普通にお風呂に入って、夕飯を普通に美味しく食べ、家族と普通に談笑し、昨日残していたケーキを食べ、眠くなった頃に普通に布団に入った。眠りにつく前に件の不思議な生き物や奥海昴の事を考えた。


『あの生き物はどういうものなんだろう』とか、『彼は明日何を説明してくれるんだろう』とか……。


 それ等を冷静に考えられる自分が、それ等に微塵の恐怖も感じていない自分が、とても不思議だった。


 例えば、私は多分、ネッシーとかUFOとか、そういうものを見たら凄く驚くもんだと思っていた。奇異の物を見て興奮するか、それが存在する恐怖に怯えるか、それを目撃した事を言って回るか、少なくとも、そういう何かしらの反応をするもんだと、自分では思っていた。


 それなのに、私は帰宅後に至極冷静を保っていた。

恐怖し、動揺し、混乱したものの、それ等は直ぐに払拭されてしまったのだ。それ等の感情を名残惜しくも思わない。十六歳になって肝が据わったのだろうか? 深く悩む事無く眠りに入れてしまったのだ。

兎にも角にも、どういう訳か、私はそれ等の奇異的事象を『受け入れて』いる。


『受け入れてしまえて』いる。


「おはようハル。昨日は大丈夫だった? ちゃんと帰れた?」

 朝の挨拶も御座なりに、笑いながらこちらに歩み寄って来たのは沙世ちゃん。


「うん、おはようサヨちゃん。昨日は結局ずぶ濡れになって帰ったよ……。風で折り畳み傘ひっくり返されちゃった」


 失敗談っていうのは少し照れるなぁ……。

 照れ笑いの様な苦笑い。そんな表情を浮かべて言うと、沙世ちゃんは呆れた様に一つ息を吐き、「……全く、ハルは阿呆だねぇ」と、しみじみといった感じに笑みを浮かべられる。


 阿呆かぁ……。まぁ、そう言われればそうかも知れない。私もしみじみとそう思う……。


 まだ朝のホームルームが始まるまで少し時間がある。そこで沙世ちゃんは、丁度良く教室に入って来た千佳ちゃんを見付け、手招きしてこちらに呼び寄せた。

 鞄を置きもせずに足早で近寄って来た千佳ちゃんは、登校して来て早々、朝の『おはよう』もすっ飛ばして、「ハルちゃん昨日大丈夫だった?」と、私を気に掛けてくれた。


「……あはは、大丈夫じゃ無かったよ。家に着いた時はずぶ濡れになっちゃってた」

 そう言って自虐的に笑うと、千佳ちゃんは眉をハの字に歪めて目に涙を溜めるのだ。


「……もうっ! ばかハルちゃん! すっごい心配したんだからね!」

 今にも泣き出しそうな千佳ちゃんの頭を胸に抱き寄せ、フワフワでサラサラな、少しパーマの掛かったショートヘアーの髪の毛を弄る。

 かいぐりかいぐり。

 あぁ、いいなぁ。犬とか猫とか飼ってると、きっとこういう感じなんだろうなぁ。

 犬もとい猫もとい、私の胸に顔を埋める千佳ちゃんは、私の背中に腕を伸ばした。傍目から見たらお互いに抱き合っている形になる。


「う~、ごめんよ千佳ちゃん。私が愚かだったよぉ!」

 泣き出しそうだった千佳ちゃんを一層に抱き締めて、私は謝罪を口にした。ふざけた口調を使いはしたが、これは本当に、真意の申し訳なさだ。


 昨日無理して帰った事ではない。

 昨日嘘が口を吐いた事を。


「沙世ちゃんも、ごめんね」

 言うと、沙世ちゃんは先程から変えずに浮かべていた呆れにも似た笑顔の表情を緩め、柔らかい感じの緩い笑みを私に向ける。


「ふふっ、別に、私は気にしてないよ? そりゃあ心配しなかった訳じゃないけど、気にはしてないわよ。だから、ハルが謝る事じゃないわ」

 片眉を上げて、沙世ちゃんはニヒルな感じに笑った。

 普段からなかなかに洞察力の鋭い子だ、もしかしたら、沙世ちゃんは私が昨日嘘を吐いて学校を出た事を分かっていたのかも知れない……。


「昨日凄かったんだよ。ハルちゃんが帰っちゃった後。バリバリーってカミナリが鳴って、風も強かったんだから、サヨちゃんと『ハルちゃんはちゃんと帰れたかなぁ』ってずっと心配してたよ……。携帯電話にメールしても全然返事が返って来ないし……」

「……チカ、カミナリが鳴ってて風が強かったのはハルも多分知ってるから……。ま、ケータイにメール打って返信が無かったのは私も心配したけどね」


 抱き付いた姿勢から離れ、千佳ちゃんは少し伏し目がちにそう言うと、沙世ちゃんもそれに続く様に口を開いた。


 ……そう言えば、昨日は帰ってから携帯電話は一度も手に取っていない……。帰って、雨に濡れた携帯電話を乾かしてそのままにして、今朝家を出る時に引っ掴んで来たんだった……。


 ポケットから携帯電話を取り出して画面を表示させると、着信メール件数が三件。不在着信の通知が一件。


「……ごめん、昨日携帯電話が濡れて、帰って乾かしてそのままだった……」


 ……完全に私自身のミステイクだ。今思えばも何も、昨日あれだけ心配されたんだ。携帯電話にメールが来ているだろう事は容易に予測の出来た事……。申し訳ない……。沙世ちゃんはもう一度先程と同じ呆れた表情を浮かべたけど、千佳ちゃんは一安心という風に胸を撫で下ろした。


「えへへ、でも、ハルちゃん風邪とか引かなくて良かったね。びしょ濡れで帰ったんならもしかして今日も風邪気味とかかも知れないよ? 季節の変わり目なんだから」

「うん、分かった。気を付けるよ」


 言うと、千佳ちゃんは表情に満面の笑みを浮かべる。沙世ちゃんは呆れながらも優しく笑ってくれる。


 あぁ、もう、千佳ちゃんは可愛いし沙世ちゃんはカッコいいなぁ!

 私が男だったら絶対どちらかに惚れているよ!

 妹の千佳ちゃん姉の沙世ちゃんって感じ。


 と言う事は、私は三姉妹の真ん中かな?


「ん、とりあえず、そろそろ朝のやつが始まりそうだ。ハル、また後でね。チカももう席に着いておいた方が良いよ」


 携帯電話で時間を確認すると、確かにそろそろ予鈴が鳴る頃だった。沙世ちゃんは千佳ちゃんを引きつれてそれぞれの自分達の席へと戻っていく。


「また後でねハルちゃん」

 そう言った千佳ちゃんに手を降り返し、私は机の下で昨日千佳ちゃんと沙世ちゃんがくれたメールの内容を確認した。


 フォルダ分けされていて、千佳ちゃんと沙世ちゃんのメールは同じところに保存されるようになっている。


『ハルちゃん、ちゃんとお家に帰れたかな?』

 これは千佳ちゃんから。


『ハルー? 大丈夫だった? カミナリとか凄いねぇー』

 これは沙世ちゃんから。


 改めてとても申し訳ない……。

 千佳ちゃんは電話までしてきてくれていたのに、全く気が付かなかった……。

 肩を少し落としてそう思うが、反面、とても嬉しくも思う。


 心配してもらえると言うのはとても嬉しい事だ。

 やはり、昨日の嘘が悔やまれる……。



 高校に入ってから特に仲良くなった二人。


 千佳ちゃん。

 沙世ちゃん。


 どうやら二人は中学生の時からの友達らしく、高校で私に話し掛けてくれたのは、最初の出席番号での席順が近かったかららしい。


 役得役得。


 背恰好が私よりももう少し小さくて、ショートヘアーのコロコロした可愛らしい小動物的な子が千佳ちゃん。

 背がスラーっと高くて、ついでに足も長くて、髪も綺麗な黒のロングで、凛々しい感じのお姉さん気質なのが沙世ちゃん。


 高校受験が終わった辺りでお父さんの仕事の関係上引越しを余儀なくされ、不承不承都心へと越して来た。


 なので、私は言わば編入生。


 中学時代の顔見知りが全く居ない中で、千佳ちゃん沙世ちゃんから話し掛けてきてくれたのは、当時十五歳という年齢ながらも不安を抱えていた私にはとても有難かった。


 二人の存在は高校生活を送る上で、私にとって必要不可欠なものとなっている。きっと二人が揃って学校を休んだ場合、私はお昼ご飯を一人で食べる事になるだろう。


 それくらい、私は二人に依存していた。


 朝のホームルームが始まる前の予鈴が鳴り、程なくして担任の先生が教室に入ってくる。


 私は携帯電話を制服のポケットに仕舞おうとしたのだけれど、そこでもう一度、携帯電話の待ち受け画面に目を向けて首を傾げた。


 千佳ちゃんと沙世ちゃんから届いていた二通のメールを開けて、千佳ちゃんからの不在着信も確認した。


 それなのに、新着メールの表示がまだ一つ残っている。

 指定分けされていないフォルダを開け、その中に開かれていないメールが残っているのを確認する。


 登録されていないメールアドレス。


 見慣れないドメイン。


 軽率な判断だったけど、開かれていないメールなら開かない事には内容を知る事は出来ない。開いてからウイルスとか商法バグとかブレイクの可能性があるかも知れないと思ったが、開いてしまってからではそんな心配は既に遅いし、そのメールは、ウイルスでも商法バグでもブレイクでもなかった。


 表示された内容を目で追う。


『とりあえず、今日の事は誰にも話さない方が賢明です。っつーか多分誰も信じないと思います。あと、なし崩し的に明日の午後付き合ってもらう事になってしまいましたが、俺の方もそれは仕様が無い事なんで、ある程度の事は割り切れる様にしておくと楽だと思います。多分。色々意味が分からない事ばかりだと思いますが、大体の疑問に思ってる部分は説明出来ると思います。それじゃあ、明日よろしくお願いします』


『オウウミスバル』


 携帯電話をポケットに仕舞い、隣の彼を横目で窺う。


 さっき『おはよう』と言ったままの、机に突っ伏した姿勢で微動だにしない彼は、窓の外の曇り空を眺めている様だった。


 勿論、彼にメールアドレスを教えた記憶は、無かった。







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