プロローグ 3 安西春真の場合
六月の最終日。
昨日までの快晴が嘘のように、お昼までの快晴が嘘のように、時計の針が三時を回った辺りから急に雨が降り出した。
天候の悪化は本当に一瞬。
厚い雲が空を覆ったと思ったら、そのすぐ後に雨が降り注ぎはじめ、見る見るうちに土砂降りとなった。
「ハルちゃん本当に帰るの?」
「やめときなよハル、絶対ずぶ濡れになるよ?」
一日の授業が終了し、ホームルームも終わって、私は早速帰宅しようと準備を始めたが、そこにきた千佳ちゃんと沙世ちゃんは二人して唖然とする。
千佳ちゃんは私にとても心配そうな顔を向け、沙世ちゃんは私の愚行を制止させようとそんな言葉を口にした。
「ん? 何で? 大丈夫だよ。そんなに強く降ってる訳じゃないし、帰れない事も無いよ。このくらいなら」
私は冗談や偽りを含めずに、思ったままの事を言っただけだが、千佳ちゃんと沙世ちゃんの二人は私がそう言ったのを聞いて絶句する。
純粋にそう思っただけなのだが、偽り込みでもそう思った生徒はいないらしい。教室内を見回しても、帰り支度をしている者は一人もいなかった。
別に、早く帰らなければいけない用事も無かった。見たいテレビ番組があった訳じゃあないし、歯医者に予約している訳でも無かったし、楽しみにしていた雑誌が発売される日でもない。まぁ、楽しみにしているとしたら、昨日のお誕生日ケーキの残りがまだ冷蔵庫に入っている筈だ。今のところ帰った後でも楽しみと言ったらそれくらいだろうけど、それでも、特に早く帰らなければならない理由にはならない。
漠然とした今の状況の考察、高校~自宅間の道程、そして降水量を鑑みて察した結果、この雨の状態なら、今外に出ても普通に帰る事が出来ると思っただけだ。
大した事の無い雨量。
「……あはは、そんな顔しないでよ二人とも。ほら、私は別に今帰れるけど、二人は普通に少し雨が弱くなるのを待てば良い訳だし」
私が苦笑してそう説明するが、私とは違う理由で二人も苦笑した。三人で笑顔を引き攣らせる。
その時、雨雲に覆われていた空が光りを放ち、次いでけたたましい音を立てて閃光が走った。
聞こえた限りでは『ガッシャーン!』といった感じ。
カミナリ。
どうやら、何処かに落ちた様だ。
千佳ちゃんはそれに『きゃうっ!』という声を上げて身体をビクリと弾ませ、沙世ちゃんはカミナリに怯える千佳ちゃんの肩を抱いていた。
「はいはーい、チカ、怖がらないでー。大丈夫だから。心配ない心配ない」
沙世ちゃんはそう言って千佳ちゃんを宥める。
「……ほら、カミナリも鳴っているし、風も強いよ。危ないよハルちゃん……。少しだけ雨が弱くなるのを一緒に待とう?」
身体を震わせて、千佳ちゃんは私を説得した。沙世ちゃんは何も言わないが、それでも、千佳ちゃんの意見に同意しているだろう事が窺える表情だ。
高校で友達になってまだ三カ月も経ってないのに、こういう風に心配してくれるのが、私はとても嬉しい。
しかし……、
「えっと、ごめんね。実は今日早く帰らなきゃいけないの。お母さんもお父さんも今日は帰りが遅くて、私がご飯作らなくちゃ……」
私は嘘を吐いた。
「……あぁ、そっかぁ。それじゃあ、仕方が無いね……」
千佳ちゃんはそう言って俯き、「ごめんね。何にも知らなかったのに……」と続け、沙世ちゃんも「うーん、それじゃあ、気を付けて帰りなね?」と、私を気遣った上でそう言ってくれる。
咄嗟に口を吐いてしまった嘘だとしても、心が痛まない訳が無い。友達になって三カ月も経っていないのに、二人はこんなにも私を心配してくれている。……それなのに。あぁそれなのに、だ……。嘘を吐く必要なんて何も無かった筈なのに、私の口は嘘を吐いた。
「……うん、ごめんね二人とも、私なら大丈夫だから。それに、さっきさっさと帰っちゃった人もいるしね」
自分の嘘を棚に上げて、私は話を少しずらした。
向けた矛先は、私の隣の席に座る彼。
「……あぁ、オウウミくんね」
沙世ちゃんは目を細くして彼の席を一瞥し、千佳ちゃんも不安そうに彼の席に視線を送る。未だに空は光を放っているが、千佳ちゃんの震えは既に治まっていた。また大きなカミナリが鳴ったとしたら縮こまってしまうかも知れないが……。
「……オウウミくん、六時間目にはもういなかったよね」
呆れているのだろうか、それとも諦めているのだろうか。沙世ちゃんはそう言って一つのタメ息を吐いた。
奥海くんは時折授業を抜け出す傾向があった。
遅れて登校して来たり、さっさと早退しちゃったり、午前中に抜け出したかと思ったら午後に戻って来たり、何とも自由奔放な感じ。
彼と同じ中学校から進学してきた子が言うには、当時から授業を抜け出す傾向があったらしい。
そして、ここでもう一度、けたたましい音のカミナリ。
「ひやぁあっ!」
しゃがみ込んで身体を震わせる千佳ちゃん。
「はーい、落ち着いて。怖くない、怖くないから大丈夫よー」
腰元までの高さになった千佳ちゃんの頭をポンポンと軽く叩きながら沙世ちゃんは適当に声を掛ける。明らかに先程より対応が御座なりな感じになっていた。
「……じゃあ、私ももう行くね」
高校指定の鞄を手に持ち、私は二人に笑顔を向けた。
「……うん、ハルちゃん気を付けてね?」
「風邪引かないようにするんだよ?」
二人に手の平をヒラヒラと振り、「チカちゃんもサヨちゃんも、気を付けて帰ってね」と答えて、私は教室を出た。
校内。
教室同様、廊下でも生徒達は窓から外を眺めて雨が弱くなるのを待っていた。どの生徒からも、『雨早く止まねぇかなぁ』とか、『カミナリ凄いねぇ』とか、『帰るのだるいな』とか、そういう会話が聞こえて来る。
教室を出て、廊下を進み、下駄箱へと行く。教室と廊下には生徒が沢山たむろしていたが、下駄箱には一人の生徒もいなかった。そりゃあそうだ。千佳ちゃん沙世ちゃん同様、この雨の中で帰宅しようという生徒は少ないのだろう。……というか、この下駄箱の状況を見る限り、そういう生徒は皆無なのだろう。当然と言えば当然なのだろうが、如何せん私は納得が出来ない。だって、この程度の雨は帰宅を躊躇わせるほどのものじゃないと思ったから。
下駄箱で上履きを履き替え、鞄から折り畳み傘を取り出して広げる。
校舎を出て、高校の敷地内をも出た。無論だけど、高校の敷地内で外に出ているのは私だけだったし、校門をくぐるのも私だけ。
夕立の勢いで降り続ける土砂降り。
それは一向に止む気配が無い。
強い雨がアスファルトの地面を叩き、家屋の屋根を叩き、私の差す折り畳み傘を叩く。それはまだギリギリ六月という今の時期に早くも鳴き始めた蝉の鳴き声にも似ていた。どれがどれで、何が何の音なのか分からない。
アスファルトの地面に雨水が溜まり、それを避けて歩く。
帰路に発った今も尚、雨の強さは増す一方だった。
ほんの数メートル先の様子も窺えない雨粒の壁。
帰りの道は憶えているけど、正面から何が来るか全く分からない。それは右も同じで左も同じで、後方なんて言うに及ばず。
正面から来る人、自転車、自動車、そういったものに気を付けなければいけない筈なのだけど、それ等に全く遭遇しない。擦れ違いもしないし気配も感じない。……いや、気配は豪雨で消されているだけか……。
強い雨、吹き荒ぶ風、厚い雲の中で起こる稲光。
その悪条件の帰路の途中、私は思う。
千佳ちゃんと沙世ちゃんに吐いた下らない嘘。
父は会社員だが、母は専業主婦だ。私が早く帰る理由なんて無い。
それなのに、何で私は二人に嘘なんて吐いたんだろう……。
自分の事なのに分からない。
罪の意識が拭えない。
何で私は嘘なんて……。
あんな嘘に何の意味が……。
上の空でボーっとしながら歩いていると、私は豪雨によってアスファルト地面の窪みに出来た水溜りを踏み、次いで、暴風によって折り畳み傘をひっくり返された。
たった数瞬気を抜いただけで、私は全身びしょ濡れになってしまったのだ。
高校の夏制服も、ローファーも、鞄も、多分財布も携帯電話も無事ではないだろう。
「…………はぁ」
意図的なタメ息。
びしょ濡れになった事に対してではない。
二人の友人に対して嘘を吐いてしまった事に対しての罪悪感。
これだけ濡れてしまってはもう傘を差している意味はない。風によってひっくり 返された折り畳み傘を畳み、鞄の外ポケットへと仕舞った。
変な考え方かも知れないけど、この豪雨と暴風と、ついでに稲光の中で、傘も差さずに雨に濡れているのは、何だか気分が良かった。絶対に誰もやらないし、誰もやろうとしない行為。私だって普段は絶対にやろうと思わないが、裏を返せばこんな時しかやる機会も無い。これを自分への罰だと解釈しよう。折り畳み傘がひっくり返ったのも、豪雨に晒されているのも、帰宅した後にきっとお母さんにしこたま怒られるだろう事も、私が下らない嘘を吐いた事への罰だ。甘んじて受けとめよう。
自分の吐いた下らない嘘に凹み、滅多にやる機会の無い雨に打たれる感覚に高揚した。
どうせ帰宅したら怒られるし、こんな豪雨に振られる事も滅多にない。幸いにして辺りに人影はなく、帰り道で遭遇するような事も多分ないだろう。この雨だ、外に出ようとするのは稀有な人物だし、それこそ、そんな稀有な奴は、今の状況を複雑ながらも楽しめてしまっている自分くらいのもんだと思う。だから、私は普段帰宅する際の二股の道を、敢えて遠回りする方を選んで進んだ。
遠回りと言っても、違ってくる時間は五分かそこら。
たった五分かそこらの時間を稼ぐために、私はわざわざその道を選んだ。
住宅街を道路の端に寄りながら進む。
本当はど真ん中を歩いても大丈夫だとは思うが、そこはモラルの問題だ。道路は端っこを歩くものだと教えられている。
と、それを忘れていた頃に、漸く正面に車の影を見た。見通しも視界も悪いこの天候で、十数メートル前方に、車の影を私の目が捉える。
咄嗟に道の端に身を寄せて立ち止まり、車が通り過ぎるのを待つ。が、それはこちらに向かって来る様子が無かった。
私は立ち止まったままで目を凝らす。
その車は止まっている訳ではない。
動いている。
動いては、いる……。
が、こちらに向かって来る様子は無い。
そして、私は更に目を凝らして、気が付いた。
それは車ではなかった。
何かは分からないが、取り敢えず『大きな何か』……。
動いているには動いているが、その動きは機械的な動きではなく、生き物的で流動する様な動き……。
それが生き物だとするならば、それは、私の知るような生き物ではない。こんな大きな生き物など見た事無い。それは、熊のような大きさで、象のような大きさで、それなのにそれは、熊でも象でも無い。もっというと、こんな住宅街に熊とか象とかいる訳ない……。
それが何かが分からない以上、直ぐにでもこの場を離れるのが得策だった。得体の知れない物に近付きたくないのは人としての習性か、それとも日本人としての習性か……。
だけど、私はそこを動かなかった。
足が竦んだ訳ではない。
私はその『大きな何か』が動く傍らで、それとは違う生き物的な動きを見た。
それは多分、一般的な、人としての『誰かさん』。恐らく男性だと思われる。
目を凝らし続けると、豪雨はおさまる気配は無いものの、自然とその先の物が見えて来た。
『大きな何か』と『誰かさん(恐らく男性)』。
それ等がどういった経緯でその場にいるのかは定かではない。
あと五分も歩けば自宅に着くその道程。
奇しくもその五分とは、分かれ道で選んだ遠回りの過剰時間。
その場から動けない。
いや、動こうとすれば動けない事も無い。
だけど、私は動こうとしなかった。
動ける筈も無い。
私は、クリアになりつつある視界の先で、その『大きな何か』と目が合ってしまったからだ。
……いや、それが目なのかどうかは分からない。だけど、その目と思しき何かが私の方にギョロリと向いた。そしてそれと同時に、その『大きな何か』の口と思しきものの両端が、グイっと大きくつり上がった。
その瞬間、私の身体はビクリと跳ねる。
……あぁ、終わった……。
そう思った。
私は、この場を生きて離れられる自身が無い。
神に祈ろうとしたけれど、こんな状況はどの神に何を祈れば良いのか分からない……。
あれは、天敵。
そうじゃなければ捕食者。
あれは追う側。
私は追われる側。
私が鼠ならあれは猫。
私が蛙ならあれは蛇。
私が蝶ならあれは蜘蛛。
そう思った途端、身体が震えた。
それは、きっと恐怖からの震えだ……。
あの『大きな何か』が何を食し、何を取り入れ、何を排泄してどのように成長するかは分からないが、きっと私程度の物なら簡単に食して取り入れ排泄させるでしょう。それに、もし私があれの捕食対象じゃなかったとしても、きっと猫が鼠をいたぶる様に、蛇が蛙をその眼で射抜く様に、蜘蛛が蝶を緊縛する様に、きっと私もあれに同じ様な事をされるのだろう。身体の自由を奪われ、恐怖を与えられ、散々いたぶられた結果、私は十六歳で死ぬのだろう。
こんな事なら、今朝我慢したお誕生日ケーキの残りを無理してでも食べておくんだった……。
そう思ったのと同時に、身体の震えが止まった。
変な感じの冷静さ。
それは覚悟した結果だと思う。
私は、あれの手に掛かって、今、この場で、死ぬ事になる。
その『覚悟』。
死ぬのは怖いし死にたくも無い。
だけど、きっと私はあれから逃げられない。
だから、せめて苦しまないで死にたいとさえ思ってしまった。
自分でも驚いている。
なんせ、急な展開に急な思考の回転。
冷静さ。
そして、今まさに死に行かんとする恐怖。
昨日十六歳になったばかりなのに、たった年一つを跨いだだけで、こうもいきなり高校生活が劇的に一転するものなのだろうか……?
その『大きな何か』の片腕だと思われるものが、私の方に急激な勢いで伸びて来る。
腕と思われる部分が細く伸び、それとは対照的に手の平だと思われる部位は大きくぶ厚く、指だと思われる五本の部位は、全部が全部鉤状に折れ曲がって、鋭く尖っている。
もの凄い早さなのに、私にはそれ等がハッキリとそういう形状をしている事が視認出来た。
そして、容易に想像する事も出来る。
あれに当たったら、簡単に死ぬ……。
あっさりと、簡単に、まるで最初からそうなるが為に生まれてきたのだと錯覚すらさせられる程……。
そう思ったその時、私は、声を聞いた。
今まさにその『大きな何か』の腕が、手の平が、指が、私に迫らんとした時に、私は、声を聞いたのだ……。
「……何で」
? 何で?
「……何でお前がここにいるんだぁあっ!」
その言葉が私に向けられたものだと判断するのに、少しだけ、ほんの数瞬だけ時間が掛かった。
そう叫んで言った『誰かさん(恐らく男性)』は、凄い勢いで私に迫りくる『大きな何か』の細腕に回り込んで私の前に立つと、その細腕を右手の裏拳で弾き飛ばす。
再度確認するが、『大きな何か』の細腕は私に凄い勢いで私に迫ってきたが、それが私に到達する前に『誰かさん(恐らく男性)』は私の前に立つと、『大きな何か』の細腕を弾き飛ばした、と。
即ち、『誰かさん(恐らく男性)』はそれを凌駕するほどの速さで動き、私を助けてくれた訳で……。
「……お前、あれが見えるか?」
弾かれた細腕から煙を上げながら苦しみ悶える『大きな何か』の傍らで、『誰かさん』はそう私に問うた。
「……何か煙みたいなの上げて、凄い苦しそうにしてるけど……」
「じゃあ、あれが何だか分かるか?」
煙を上げて苦しそうなのは見えるけど、それは結局のところ見えているだけだ……。
「……知らないし、出来れば、あまり知りたくもない……」
豪雨の中でも会話が出来ている事に驚く。何故か他の物音、激しく屋根やアスファルトの地面を打つ雨音やカミナリの音とはハッキリと区別され、彼の声だけは異様なほどクリアに聞こえた。
「……あぁ、今ん所はそれで上出来だ。今はまだ知らなくて良い。知って行くのはこれからだ。……だけど、出来れば知りたくないって望みは叶わないと思った方が良い。残念だけど、見えちまったもんは諦めろ」
言われても、それがどういう意味だか全く分からない……。
それで上出来? 知らなくて良いの? でもこれから知ると? 知りたくないのに知る事になる?
私は、諦めた方が良いの……?
真に受けるべきか、それとも聞き耳を持たないべきか……。
……だけど、私は彼の言いを聞いて思う。
冷静な思考が、私にそう思わせる……。
もしかしたら……、あくまでももしかしたらで仮の話だ……。
今日私が、何の用事も無いのに豪雨の中帰れると思ったのも、
千佳ちゃんと沙世ちゃんに下らない嘘を吐いたのも、
水溜りを踏んだのも、
暴風に折り畳み傘をひっくり返されたのも、
帰路に遠回りを選んだのも、
もっと言うと、席替えで彼の隣になったのも――、
今日この日の、この場所で、『これ』に遭遇する為だったのかも知れない……。
「取り敢えず、就職おめでとう」
そう言うと、奥海昴は私に苦笑いを向けた。




