メイン 4 安西春真は受け入れなければならない。
確かに……、言われてみれば確かにそうだ……。
昨日あんなにびしょ濡れだったのに、帰宅した時には夏用の制服も髪の毛もすっかり綺麗に乾いていた。鞄も、ローファーも、鞄に入れていた教科書もノートもだ。不思議に思わなかった訳じゃないけど、何故だかそれは『そういうものなのだろう』と容易に受け入れる事が出来た。
病院の屋上を飛び立ったヘリコプターの中、そこで私と奥海くんはお昼ご飯を食べた。
二つのソファーが向かい合わせになっていて、その間に足の低いテーブルが一つ。
八畳ほどある私の部屋より一回りほど広いヘリコプター内の空間。敷地もお金も時間も力も、あるところにはあるんだなぁと、この一機のヘリコプターは私にそう思わせるだけの力があった。
目に見えるだけでもテレビとエアコンと冷蔵庫。台所こそ無かったものの、電子レンジも備え付けてあったので、私と奥海くんはお弁当を温かくして食べる事が出来た。聞くと、それ等は常設の家電製品だと聞かされ、私は一層の驚きを隠せなかった。
「つまり、夏の暑さとか冬の寒さとか、秋に葉っぱを赤くしたり、春に桜を咲かせたり、そういうのは全部『特境省』がやってるんだ。」
お弁当は私も奥海くんも食べ終えている。
私は食べ終えたお弁当箱を鞄に仕舞い、奥海くんはコンビニのお弁当のプラスチックパックを袋に入れて、口を縛って二つあるゴミ箱の片方に捨てた。今、私は奥海くんに買ってもらったオレンジジュースのパックを手にして、そんな話を聞いている。
『つまり』とか言われても、それはあまりにも想像し難い事実だ。それに、事実かどうかもまだ分からない。
「……どういう事?」
問うが、「言った通りの意味だよ」と返されてしまう。確定で無い情報ばかりなので、どうやら今のところ、私は思考を巡らせるくらいの事しか出来ないみたいだ。
「俺が説明出来る範囲は残念ながらここまで。だから、あとはモモコさんに任せるよ。変な人だけど良い人だから。」
「……とりあえず、成り行きに任せるわ……。それが一番確実な気がする……」
「ははっ、それが良いよ。誰しも最初は行動指針を誰かしらに託さなきゃあいけないもんさ。誰でもね。安西さんだけじゃない。俺も最初はそうだったし、件のモモコさんとかも最初はそうだったって聞いた事がある」
緊張なのか、とても喉が渇く。
さっきから少しずつ飲んでいたオレンジジュースのパックが空になり、それを持て余していた。
「捨てるんならそこね。」
奥海くんは二つ設置されていたゴミ箱の片方を指し示す。
片方が燃えるゴミ、片方が燃えないゴミ。
「……うん、助かるわ」
空になったオレンジジュースのパックは畳んで燃えるゴミへ、ストローは燃えないゴミへ。
「それで、後どれくらいでその『トッキョウショウ』に着くの?」
ヘリコプターに乗って三十分ほどが経っている。これまでにヘリコプターに搭乗した事が無いので感覚が分からないけど、空を飛ぶ乗り物で三十分と言ったらかなりの距離を移動しているんじゃないのか? 少なくとも既に関東には居ないかも知れない……。
問うと、奥海くんは携帯電話をズボンのポケットから取り出して時間を確認した。
「三十分か。そんじゃあ、そろそろ行きますか」
「えっと……、まだ向かってなかったの?」
「いや、向かってなかったっつーか、とっくに着いてたんだけど」
……とっくに? 着いてたって……?
「……どゆこと?」
「いや、飯食ってたじゃん。俺も飯食う時間が欲しかったから、『特境省』の上を旋回してもらってたの。病院の屋上から飛び立って五分くらいで着いてたよ」
奥海くんはそう言いながら、笑顔で肩を竦めた。
……五分って、まだ二人のお弁当をレンジでチンしてるくらいじゃないか……。
因みに常設の電子レンジは一台で、奧海くんは私に先にお弁当を温める順番を譲ってくれた。
「……なんだろう、こういうヘリコプターの燃料とかって高いんじゃないの? やっぱりお金ってあるところにはあるのね……」
私は呆れを混ぜてそう呟いたが、彼はそれを聞いて、片眉を上げて薄く笑う。
「と思うでしょ? 実は、このヘリも『夏』で動いてるんだよ。お金の掛かる燃料なんざ一切使っておりません」
奥海くんはそう言って、ソファーに深く背を預けた。
私はというと、そう言われたところで大体何も分からない。ソファーに座ってもただただ小さく纏まって、お弁当を平らげた事だけが、私が機内で出来た唯一の事だ。
……だから、『夏』って具体的になんなのさ……。
機内の壁に取り付けられている固定電話を手にとって、奥海くんは「もしもしー、サジさーん」とそれに話し掛ける。多分、操縦席にそのまま繋がっているのだろう。そして、操縦者がサジさんなる方なのだろう。
「ん? はい、そうです。はい、――はい? 違いますよ。――はい、はい。オッケーです。そんじゃあ、それでお願いして良いすでか? はい、――はーい。お願いしまーす」
固定電話を元の位置に戻し、奥海くんは「そんじゃあ行きますか。」と私に言うと、ヘリコプターが下降しているのが身体で感じ取れた。
新鮮な感覚だ。
そこで、ヘリコプターが完全に着陸する前に一つの疑問。
「さっきの病院から五分くらいって事は、ここってまだ一応都内なの?」
どういう質問に答えてくれて、どういう質問に答えてくれないかがまだ手探りの状態だ。なので、答えてくれるかは別問題だが、これから疑問に思った事はとりあえず聞いてみようと思った。彼の言うこれから会う事になるだろうモモコさんなる人にも同じ事が言える。
「ここ? そう、都内だよ。っつーか都内のど真ん中。俺等んところから電車使って三十分掛かるかどうかってくらいだね」
期待はしていなかったけど、思いの外すんなり答えてくれた。
これくらいは答えてくれる範疇の疑問。
下降を始めてから程なくして、ヘリコプターの機体にズシンといった感じに衝撃が流れた。
着陸した衝撃。
次いで、エンジンと思しき機関が停止し、機内で薄く聞こえていたプロペラの音が消える。着陸してからそのまま機内で数分待っていると、外側からドアが開けられた。
「あいよ、到着いたしましたよー。当機は『特境省』屋上へと到着致しましたー。帰りも乗りたきゃ送りますんでー御声掛けしてくれればいつでも飛ばしますよーっと。ま、電車でも帰れるんだけどね」
ドアを開けてくれた男の人は陽気な感じにそんな事を言い、機内にいた私と奥海くんの二人に陽気な笑顔を向ける。
「うん、ありがとうサジさん。今日モモコさん居ますよね?」
「あぁ、居るなぁ。ちゃんと居るぜ。っつーか、モモコとシヅルはもうここに住んでるっつってもおかしくない奴等だからな。どっちか一人は常に居ると思って間違いねぇよ。今日も二人は真面目に待機してるってわけ」
「そっか、じゃあ行ってみるよ。あぁ、あと、ミスタードーナツ買ってきたから、サジさんも後で食って下さい」
「うぃ、ありがとうよ。頂きます」
短いやり取りの後、常備されている階段を設置して、先に五つのドーナツの袋と自分の鞄を持った奥海くんがヘリコプターを降りる。彼は慣れた風に一連の動作を行なうが、如何せん私はヘリコプターに乗るのも始めてだったし、勿論降りるのも始めてだ。大体乗る時にしたって結構苦労をしたもんだ。通常のヘリコプターのサイズがどの程度のものか知らないけど、このヘリコプター、テレビや何かで見るよりも随分とサイズが大きい。全部が全部そうなのか分からないけど、流石に階段も常備されているとは思わなかった。階段を使って搭乗するとは、まぁまぁ思わなかった……。
……まぁ、そもそもヘリコプターに乗るとも思っていなかったのだけど……。
そんなヘリコプター未体験者だった私。鞄を肩に掛けて、おっかなびっくりで階段に踏み出そうとすると、ヘリコプターの操縦者であろうと思われるサジさんが手を差し伸べてくれた。
「あ、すみません……」
サジさんの手を借りて階段を下りると、「いいえ、お困りのお嬢さんを捨て置くなんて事は私の性分では御座いませんので」と、大袈裟な感じに紳士的な振舞いをする。一見すると道化師とも取れるその振る舞い方が、少しだけ面白かった。
降り立った建物の屋上は少しだけ風が強かった。周りを見回してみると、何処に視線を向けても背の高いビルが見えるばかり。四方を全て建物で囲まれている事が、この場所が都内であり、加えて都会である事を思い知らされる。
「――あ、あの、ありがとうございました」
周りの高層ビル群に見とれていて、自分がいつまでもサジさんの手を握っている事に気が付き、焦って手を離して御礼を言うと、サジさんと奥海くんは、それが可笑しかったのだろう、二人して声を出して笑った。
「はっはっは。いえいえ、お嬢さんのお役に立てて光栄ですよ」
腰を折って大仰な感じに頭を下げるが、サジさんはその言いに続けて「ははっ、なんつってね」と冗談を言う風に笑った。……正確には『冗談を言った風に笑った』か?
「どうも始めまして。ここの職員をやっております『大匙小匙』と申します。今後ともよろしくお願いします」
短く刈り込んだ髪形を薄く茶色に染め、スポーツをしていそうな日に焼けた肌。お子さんがいても良さそうなくらい落ち着いた風貌の背の高い男性ことサジさんは、私にそう自己を紹介した。
「ああ、えっと、安西春真です。『オオサジコサジ』さんですか? 凄く珍しい名前ですね」
それに倣い、私も同じ様に自己紹介をして頭を下げた。
そして、それと同時にサジさんの名前の珍しさに驚く。
ある種の感動を覚えるほど語呂が良く、それでいて韻を踏んでいる珍しい名前。ご両親のセンスを窺いたくもなるが、それはそれで逆に良いセンスだと言って良いのだろうか?
素直にそれに感心した。が、横から奥海くんが「いやいや、それ嘘だから。真に受けちゃ駄目だよ。」と私に教えてくれる。
「……えっと、えっと?」
……まぁ、戸惑いを隠せる筈も無い。困惑していると「あーあ、教えちゃうの早いよスバル。俺これで半年は通そうと思ってたのにさ。」と、サジさんはそう一言。「コホン」と咳払いをして服装を正し、薄い笑顔を表情に浮かべて、「では、改めまして」と、サジさんは自己紹介に編集点を作った。
「どうも始めまして。『左寺右寺』です。左の寺に右の寺と書いて左寺右寺です。どうもよろしくお願いします」
「……それは本当のやつですか?」
……流石にそれには騙されない。
「あー、サジさん。名前は俺が教えておくから、先に中入ってますね。モモコさんにも何言われっか分かんないし。ヘリのお迎えありがとうございました。お子さんの話も今度聞かせてもらいますよ。」
「おぅ、気にすんな。『いつ何時でも、御用とあらば何処へでも』が俺のモットーだから。うちのガキの写真なら今度ケータイに送ってやるよ」
奥海くんはサジさんの冗談をあしらう様に、それでもちゃんと送ってくれた事への御礼は忘れずに、一度お辞儀をしてから私の手を引くと、足早に屋上から建物内へ入る扉へと向かった。
サジさんもそれに対して嬉しそうに応じる。
……っていうか、本当にお子さんいるんだ。見た目若そうなのに凄いなぁ……。
「あの、サジさん。私も、ありがとうございました」
奥海くんに手を引かれながら私も御礼を言うと、サジさんは手を振る事でそれに答えてくれた。
なにはともあれ、サジさん。多分良い人だ。
「ごめん。先言っとくけど、ここの人達あんな人ばっかりだから。どっかふざけた感じのお調子者っつーか。多分名前に関しては最初必ずと言って良い程はぐらかしてくるから、変な名前名乗られたらまずは疑った方が良い。鵜呑みにしちゃあ駄目だよ?」
屋上の自動ドアを抜けて建物の中に入り、階段を使って階下へと降りていく。屋上からじゃあこの建物の正確な階数が分からなかったけど、階段の踊り場に『9』のプレートが貼ってあったので、この建物は九階建て、屋上込みで十階建てだと分かった。
その過程で、奥海くんは私にそう言葉を掛けて来たのだ。
「……へぇー、それって何かしらの意味があるの……?」
「んー、何て言うか、こう、神経質って言うかね、一応うちの他にも対抗勢力みたいなのがあるから、初対面の人にはなるべく名前を名乗らない様にしてるとかがあるらしいんだよ。ここに初めて来た人には大体ふざけた感じの偽名使ってるみたいだからさ。因みに、俺はサジさんの事を二カ月くらい『カジキサジオ』だと思ってた。大体みんなそんなもんだよ。みんな最初はそうやって騙されんの」
神経質とか対抗勢力とか、こちらが不安になるような単語がいくつか飛び出すが、さし当たって、今私が一番聞かなければならない疑問は一つだけ。
「とりあえずなんだけど、サジさんのお名前って本当は何ていうのかな……?」
あぁ、そういやそうだったな。
言って、奥海くんは少し笑う。
「あの人は『佐治勝之』さん。すげぇ普通の名前だから。当ててある字はちょっと説明し辛いのがあるから省くわ。書くにしてもこんな状態だしね」
彼は両手に持つドーナツの袋を持ち上げて見せ、片眉を上げて鼻で笑った。
「……オウウミくんは、ちゃんと本名だよね?」
「俺? っはは、俺は流石に本名だよ。偽名で学校には通えないさね。『特境省』に申請とか出して、それが通れば別かも知んないけど。一応俺は本名で通してますよ」
……素直に『そうなんだー』と言えない。
申請して通れば名前を変えて生活出来るとか……、『トッキョウショウ』なる機関はどれだけ国に強い圧力を掛けられるのか……。
三日前まで十五歳だったのに……。
一昨日十六歳になったばかりなのに……。
昨日あんな奇天烈なものを見てしまったばっかりに……。
「さてさて、そんなこんなでご到着ですよ安西さん」
言われて、私は階段踊り場の階数表示プレートを探す。
六階。
ここが、詰まるところの『トッキョウショウ』だろうか……。
「ここが『トッキョウショウ』ってところ?」
問うと、奥海くんはあからさまに『へっ?』みたいな顔をして、瞬時にそれを悟った様に「あぁ、」と納得する。私からしてみれば『へっ?』って顔をされた事自体が『へっ?』なのだが……。
「つまりあれだよ」奧海くんはそう前置きし、身振り手振りを加えながらに言いを続ける。「えっとさ、オフィスっていうの? そういうのじゃなくて、この建物自体が『特境省』ね。ピラミッド式の生存形態を想像してもらうとして、ここはそれの一番上の先っちょ部分だと認識してくれれば良いよ。多分それが一番分かりやすい。と思う。……多分」
何とも自信なさげにそう言うが、恐らく奥海くんも、本当に内部の詳しい事は知らされていないのだろう……。それか失念しているか、もしくは私にはまだその部分を言えないか、そのどれかだ。なんにしろ、ピラミッドの生存形態は例えとして非常に分かり難いけれど、言わんとした事はなんとなく理解出来たと思う。それに、一応聞いて確認した程度の事だけど、まぁまぁ想像はしていた事だ。この九階建ての建物、高さこそ周りのビルにいくらか劣っているものの、面積でみれば先程の病院と大差ない。というか、先程の病院より明らかに広いだろう。詳しくはどういう事を行なっているのか定かではないけど、それをするのにこの面積は必要なのだろうか……。
六階フロア。
階段を離れると地続きで廊下に出た。長さが十メートル程の幅広な廊下。真っ白な壁に目に優しそうな蛍光灯の光。床には毛足の長い真っ赤な絨毯が敷かれている。両脇にノブのついたドアが二つずつ。突き当たりには二枚開きの大きな扉。何を目的とした建物かがまだ不明だけど、ここもまた、先程の病院の様にホテルのような装丁だった。
廊下を少しだけ進み、右辺にある一番手前のドアの前で奥海くんは足を止め、そのドアを叩いた。
「モモコさーん、連れて来ましたよ」
「え? うそ! ちょっ、ちょっと待って! ちょっと待っててね!」
奥海くんが掛けた声に、内側から慌てた感じの答えがそう返って来た。
「あー、ごめんね安西さん。連絡してもしなくても、モモコさんの場合結局いつもここで五分くらい待つんだ」
「それは、うん。大丈夫」
そう言って、私は首を縦に振る。
正面のドアにはプレートが掲げてあった。
『桃子の部屋』
雑貨屋さんなどで売っているような大きなハート型のプレートにはそう表示されていた。……明らかに支給されたものではないと分かる。少しだけ周りを見回すと、表示されている文字は読み取れないが、突き当たりの大きな扉以外の他の三つのドアにも、ハート型ではないにしろ、一目で支給品ではないと分かるプレートが掲げられていた。
「緊張してる?」
問われたその言葉に、私は周囲をきょろきょろとしていた視線を奥海くんに向ける。
「……緊張してない筈、無いでしょう?」
「ははっ、そりゃあそうだ」そう言って奥海くんは笑い、「でもさ、肩の力抜いても大丈夫だよ」と、私に一層の笑顔を向けた。
「肩の力って言ってもねぇ……。簡単に抜けるならスカッと楽にしたいわよ」
「スカッと楽にすりゃあ良いのに。っつっても、やっぱり簡単には出来ないか」
「ふふふっ、そうね。初めて来る場所でリラックス出来るのってテーマパークくらいじゃないかしら? こんな豪勢な建物に初めて連れて来られて、緊張しない訳ないし、リラックス出来る訳も無いわ」
「ごもっともで」
そうやって奥海くんと二人で少しだけ笑い合っていると、正面のドアが外側に開いた。
『桃子の部屋』
「いやー、お待たせ。ごめんごめん、着替えるのに手間取っちゃってさ。ごめんねーホントに」
「着替えって、モモコさん寝てたんですか……?」
「違うわよ。自室じゃ常にジャージとか下着とか動きやすい服装なのよ」
出てきたその女性は、空色のワンピース姿に白いカーディガンを羽織っていた。背が高く、薄く茶に染まった綺麗なロングヘアー。見ただけで姉御肌だと分かる。何処となく沙世ちゃんを思い出させる感じだ。
奥海くんが言葉を失っていると、女性は私に視線を向ける。
「あら、貴女が安西さんね」
「あの、はい。安西春真です」そう言って自己紹介をすると、彼女は私に右手を差し出して口を開いた。
「はじめまして、『藻子藻子桃子』です。モコモコの部分は『モ』が毬藻の『藻』で、『コ』は子供の『子』ね。モモコはドアに貼ってあるプレートの『桃子』。よろしく☆」
…………。
「……それは、嘘ですよね?」
私は右手でもって差し出されて手の平を握り返すと、彼女は「えぇー! すげぇー! この子凄いわねぇ、早速バレてしまったよ。」と笑って一言。
「モコモコの『モ』は、本当は模倣の『模』なのよ。いやー、流石に今のはバレるかぁ。まいったなぁ」
「……あー、安西さん。彼女は『殻梨桃子』さん。貝殻の『殻』に果物の『梨』で殻梨ね」
奥海くんが私にそう言ってくれると、桃子さんは大袈裟な感じに口角を上げて笑う。何処か憎めない風に笑うし、そもそも見ただけで姉御肌だと感じだけれど、笑い方は年下の幼い妹の様だった。なんというか、纏う空気が百面相というか……。
「あはははっ。あらあら、全くスバルくんは直ぐバラしちゃうんだから。ま、良いわ。殻梨桃子です。改めましてよろしくね」
握手している手を腕が抜けるかと思うくらい大きく上下に振られる。こういうところは小学生の男の子の様な印象だ。
「はい、よろしくお願いします」
「うん、良い返事です」
握手の形を解くと、桃子さんは開けられたドアを押さえたままで、「それじゃあ、とりあえず入って」と、私を室内へと招いた。
「……えっと」
流石に少し戸惑う。急に招かれても、そこに入って良いものかと困惑はせざるを得ない。無意識の内に奥海くんに目をやると、彼はそれに気付いて、私に薄い笑顔を向けてくれる。
「大丈夫だよ。モモコさん、予定としてはどんな感じですか?」
「ん? 質疑応答、講義、第一夏適正検査の三つで、約二時間ってところかな。三時半には終わると思うよ。安西さんも、話聞いてる内に気分が悪くなったり心的ストレスとか感じたらちゃんと中断するから。心配しないでね」
桃子さんはそう言って、私と奥海くんに一度ずつウインクを打った。
「スバルくんは指令室で待ってて頂戴。シヅルと、あとカズくんとコウくんも来てるから」
「へぇ、黒腕とニコがですか。珍しいですね。あいつ等何かミスったんですか?」
「なーんも。カズくんには昨日ヨコウチさんのお見舞いに行ってもらったから、その報告。コウくんはシヅルが昨日誘ったみたい。夏もそろそろ本番だからね。うちの人員出払っちゃってるし、私も安西さんの講習しなくちゃいけないから。っとぉ、安西さんはその事に関して気にしなくて良いのよ? 偶然にしろなんにしろ、関わっちゃった人のアフターをケアするのも、私達の仕事の内なんだから。まぁ、それなんで、コウくんは今日資料整理と情報処理のお手伝いってところかな。凄い忙しそうだったらスバルくんとカズくんも手伝ってあげてね」
「ん、分かりました。どうします? ドーナツ一箱置いて行きますか?」
「うれしー。けど、後で指令室で頂くわ。最初の説明が肝心だからね。私の気が抜けちゃったら駄目だから」
「そうですか。それじゃあ、俺は指令室で黒腕とニコとだらだらやってますよ。安西さんもまた後でね」
「うん……、また後で」
奥海くんとはそこで別れた。私が手を振るのに奧海くんも手を振る事で返してくれる。彼はもと来た道を戻り、階段で階下へと下りて行った。
「さて、私達も始めましょうかね。来る途中で多少の事はスバルくんから聞いたと思うけど、私とはもう少し詳しい話をしましょう。とりあえず、中にお入りなさい。紅茶でも飲みながらだらだらお話ししましょう」
奥海くんを見送り、姿が見えなくなったところで、桃子さんは再度私の方を向き、そう言って笑う。
しかし、それでも、だ……。
「……あの、カラナシさん」
「あぁ、モモコで良いわよ。ここではみんなそれで通してもらってるの」
「じゃあ、モモコさん」
「何かしらん?」
「お部屋に入る前に、一つだけ御質問良いですか?」
「ふふっ、どうぞ」
桃子さんは快く私の質問を受け入れてくれる。
昨日遭遇した事象と今日聞いた話。
その二つを合わせて、今私が持ち得ている情報。
奇怪な生き物の存在。
それを討伐する為にいる人々。
それ等をサポートする強大な力を持つ組織。
そして、既に日本は四季を失っているという受け入れ難い現実。
……たったのこれだけだ。
たったのこれだけなのに、私はこれまでの常識から足を踏み外し掛けている……。
もとい、もう踏み外してしまって、這い上がって行けないのかも知れない……。
だからこそ、この部屋に入る前の一つの問いだ。
「あの……。私はもう、……その、普通には戻れないんでしょうか……?」
……詰まる所、私は不安で仕様が無いのだ。
いくら奧海くんが軽快でも、いくら桃子さんが優しくても……。
こんな事、本当は聞くのは恥ずかしい。
だってそうだろう。奇異な物を昨日今日見て聞いたところで、それ等が今後の私の一生を左右するのかも知れないと、そう考える方がどうかしている。私は言わばUFOやUMAを見たのと同じ様な事かも知れないだけなのに、そんな心配を初対面の人に質問するなんてどうかしている。
顔が熱く火照っているので、きっと真っ赤に染まっている事だろう。
私は恥ずかしさのあまりに顔を俯けた。
漫画じゃああるまいし……。
何も知らない側の私がした質問とは言え、こんな事を聞くのが恥ずかしくない訳が無い……。
当然、私は桃子さんに盛大に笑われるもんだと思った。
口を吐いたその問いに、桃子さんは膝を叩いて大笑いするもんだと思った。
……しかし、桃子さんは笑わなかった。
少しだけ「うーん」と唸り、「とりあえず顔を上げて?」と、私に言う。それを聞き、言われた通りに顔を上げると、先程奥海くんと戯れていた時の表情とは打って変って、桃子さんはもの凄く真剣な眼差しで私に目を向けていた。
「戻れる人も戻れない人も、両方いるわね。戻っていった人を見た事あるし、戻れなかった人も見た事あるの。ここに居る人達はみんなそうよ。さっきのスバルくんも両方を見た事があるわ。仕事上、私達は限りなく普通に戻れる最低限のラインを死守しています。それでね、いざという時に安西さんが普通に戻れるように、今日貴女をここに招いて、ちゃんと私達の事や、昨日見たもの今日聞いた事について説明しなきゃならないの。だから、その質問に答えるならば、結論から言えば普通には戻れるわ。だけど、いざという時に普通に戻るには、正確な知識を身に付けておかなきゃならないのよ」
そこまで言うと、桃子さんは片手でドアを押さえて、私が室内へ入る為の道を作る。
私としては、桃子さんが盛大に笑ってくれた方が安心出来た。
こんなに真剣な口調と眼差しで前置きをされたら、それが真実だと受け入れなくちゃならなくなるじゃないか……。
だけど、昨日のあれを見てしまったら、奥海くんの話を聞いてしまったら、ここまで来てしまったら、桃子さんのその言いを聞いてしまったら……。それを受け入れない事には、この部屋に入らない事には、私は進退どちらも出来ない……。
「……それじゃあ、お邪魔します」
室内に一歩を踏み入れると、「いらっしゃいませー」とふざけた口調でそう言って、桃子さんは後ろ手にドアを閉めた。
私はきっと、今日この場で、色々な真実を受け入れなければならないと、そう感じる。




