プロローグ 1
夕立。
……いや、それは豪雨と言った方が良いだろう。
夕立なら短時間で止む気配があるが、この雨は既に一時間以上も長く降り続いている。確かに時間帯的には夕刻だが、これを夕立と言うには少しの無理がある。
だから、これは豪雨。
肌に纏わりつく様な濃霧の如く、ほんの十数メートル先も見えないほど、激しく降り注ぐ雨。
その豪雨の中、少女は一人、傘も差さずに立ち尽くしていた。
少女と言っても、彼女はつい先日十六歳の誕生日を迎えたばかりなので、少女と表するには少しばかりの語弊があったかも知れない。
少女か、はたまた女性か、十六歳とはなんにしても表現するのが難しい。
しかし、あえて彼女を『少女』か『女性』かのどちらかでカテゴライズするならば、やはり彼女は『少女』になるだろう。
百五十センチあるかどうかという小柄な体系。手足は見るからに細く、髪は肩口までのボブヘアー。高校指定の制服、その袖口が若干余っているのを見ると、それは今後の成長を見越して少し大きめのサイズを購入したということだろう。
やはり、彼女は『少女』にカテゴライズされる。
頭からつま先まで、少しの濡れ残しも無く、全身びしょ濡れ。
翌日にその制服を着て登校出来るかが危ぶまれるくらい、全身くまなくびしょ濡れなのだ。
傘は、実は持っている。
現在彼女が手に持っている鞄の外ポケット部分には、折り畳み傘が入っている。それを彼女は取り出そうとしない。
いや、さっきまで彼女はその折り畳み傘を差していたのだ。確かにその折り畳み傘を差していた筈なのだが、このどうしようもない豪雨に、彼女は傘を差す事を放棄したのだ。
傘を差しても濡れる。
傘を差さなくても濡れる。
それならいっそ、傘を差さないで帰った方が楽だろう。
端的な物の考え。
傘を差しても差さなくても、どちらを選択したところで自宅に着いた時には結局びしょ濡れなのだとしたら、傘を差さないで帰宅するという選択肢が無いでもないだろう。
折り畳み傘を律儀に折りたたんで、鞄の外ポケットへと入れる。鞄だってもう既にずぶ濡れだ。そこについ今しがたまで差していた折り畳み傘を仕舞ったところで、きっと何の問題も無いだろう。
さて、豪雨の中傘を差すのを放棄した彼女。
普通なら家路を急ぐものだが、彼女はその豪雨の中を立ち尽くしている。
歩くでも、走るでも、何処か屋根があるところで雨宿りするでもなく、彼女はその豪雨の中で、立ち尽くしていた。
彼女に声を掛ける者はいない。
この豪雨だ。当然外に出ている者などいないだろう。
ではこの少女、この豪雨の中に立ち尽くして、一体何をしているのだろうか?
この、ほんの十数メートル先も見えないほどの激しく降り注ぐ豪雨の中で、彼女は一体何をしているのか……。
彼女は目を細める。
その視界の悪い豪雨の先を見る。
視力は悪くない。両目共に一・二以上はあるようだ。
しかし、この豪雨の中じゃあ視力の良し悪しはあまり関係が無い。
『見える』か、
『見えない』か、
そのどちらかだ。
そして、彼女にはそれが見えてしまう。
……いや、それは見えて『しまった』と言った方が正しい。
彼女には、見えてしまった。
目を細めずとも、目を凝らさずとも、彼女にはそれが見えてしまったのだ。
だから、視力とか、一・二とか、良し悪しとかは全くもって関係が無い。ただ単に、彼女にそれが見えてしまったのが問題なのだ。
本来なら見るべきではないもの。
本来なら見えるべきではないもの。
本来なら、見えてしまうべきではないもの……。
虚構ではない真実。
けれども、それは表側と言うでも裏側と言うでも、そのどちらでも無い。
鏡の向こう側ではなく、そもそもそれは始めからこちら側。
だから、見えてしまったのなら仕様の無い事。
それは運が悪かったと取るか、それとも運が良かったと取るか。
知る事が出来てラッキーか、知ってしまってアンラッキーか。
見える事が不幸なのか、見えない事が幸福なのか。
運が悪かった? それとも運が良かった?
ラッキー? それともアンラッキー?
不幸? 幸福?
そう問われた時、彼女は何と答えるだろう……。
豪雨が降り注ぐ十数メートル先の向こう側。
そこにあるのは、この時点ではまだ、彼女にとっては『大きな何か』でしかない。
そして、そこにいるのは、この時点ではまだ、彼女にとっては『誰かさん(恐らく男性)』でしかない。
彼女は、『大きな何か』と『目』が『合う』。
その『大きな何か』に目があるとするなら、きっとそれだろうと思われる物の正面に彼女の身体は向いており、その『大きな何か』にもしも口があるとするならば、きっとそれだろうと思われる物の両端が上方につり上がった。
少女は身体を震わせる。
六月の末。明日から七月という季節。気温による肌寒さでは無いし、豪雨であろうとも季節特有の気温が勝っている。
だから、少女を震わせたのは雨の冷たさではない。
きっと少女は本能的に分かったのだろう。
鼠に対しての猫。
蛙に対しての蛇。
蝶に対しての蜘蛛。
彼女はその『大きな何か』が猫であると悟った。
彼女はその『大きな何か』が蛇であると悟った。
彼女はその『大きな何か』が蜘蛛であると悟った。
そして、自分が鼠であり、蛙であり、蝶であると、悟った。
少女は身体を震わせた。
それは、『大きな何か』の持つ異様さ。
不明瞭さ。
恐怖。
それ等が分かると、彼女の身体から震えが止まった。
あれは捕食する側で、
私は捕食される側。
あの『大きな何か』が何を食し、何を取り入れ、何を排泄してどのように成長するかは分からないが、きっと私程度の物なら簡単に食して取り入れ排泄させるでしょう。それに、もし私があれの捕食対象じゃなかったとしても、きっと猫が鼠をいたぶる様に、蛇が蛙をその眼で射抜く様に、蜘蛛が蝶を緊縛する様に、きっと私もあれに同じ様な事をされるのだろう。身体の自由を奪われ、恐怖を与えられ、散々いたぶられた結果、私は十六歳で死ぬのだろう。
こんな事なら今朝我慢したお誕生日ケーキの残りを無理してでも食べておくんだった。
と、そんな事を考えられるくらい、頭は変な具合に冷静になっていた。
彼女はそれを自分で分かっていた。
あれは怖いもの。
それなのに身体の震えは止まった。
そして頭は変に冷静。
彼女は、自分が『覚悟』をしてしまったと思った。
十数メートルの前方から『大きな何か』は彼女に向けて腕を伸ばした。『大きな何か』に腕と言うものがあるとすれば、きっとそれだろうと思われる物を、彼女に向けて伸ばした。
十数メートル。
きっとその『大きな何か』の腕は十数メートルくらいはあるだろう。
彼女はその迫りくる腕を見ながら、自分が『覚悟』をしてしまった事を後悔した。
彼女は『覚悟』をしてしまったものの、死にたいと思った訳ではないからだ。
そして彼女は声を聞く。
「……何で」
? 何で?
「……何でお前がここにいるんだぁあっ!」
『誰かさん(恐らく男性)』はそう叫んだ。
そして、彼女はその『誰かさん(恐らく男性)』の声に聞き憶えがあった。
彼女はそれを、
見るべきだったのか、
知るべきだったのか。
それとも、
見るべきじゃなかったのか、
知るべきじゃなかったのか。
幸か、
不幸か。
何にせよ、だ……。
彼女は『それ』を『見て』、
その『声』を『聞いた』。




