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蒼時雨

作者: 花水

プロローグ「灯」

 暗い道に放り出されたら、キミは何を願うだろう。

 安易に考えてはいけない。

 キミのその願い一つで、未来や過去が変わるのだから。

そして、おれは、一族の繁栄を願った。

 それは、このおれの長い旅路を終わらせるため。

 それ以外に望むことはない。

 この長い旅路が終わるなら、死んでも良いから。

 さあ、キミも願い、そして掴み取れ。

 

 輝かしい未来と、栄光を。




第1章「蒼い空から」

 ザッザッズッ……。

 不気味な音がして、目を覚ました。汚らしい布きれのような布団の中で、目をしばたく。

 窓の外は暗闇だ。どこまでも深い闇。まだ夜なのだろう。

 目を覚ますと、不気味な音がどんどん大きくなっている事に気付いた。何かが、近づいてくる。はっと、半身を起こした。

 隣に寝ている蘭を見る。こちらは「すうすう」と吐息を漏らしながら熟睡しているようだった。

 ズル、ペタ、ズル……。

 また、音が大きくなった。

 部屋の閉め切られた扉の向こうから、その音は洩れてくる。微かな殺気と共に。

 ギシイ……。

 畳が軋む音を立てて、不気味な足音は消えた。扉のすぐ外から感じる殺気に、息をのむ。

 不思議と怖くはなかった。

 「……誰だ。誰だか、いるんだろ。入れよ」

 「…………」

 応答はなかった。ただ、誰かが大きく息を吸う気配がした。

 「殺しに来るならもっと殺気を隠せよ。中途半端は良くない。隠れていても意味はないだろ。入ってこいよ」

 「……はい」

 すっと、澄み切った声がした。カチャ……とドアが少し開く。

 その隙間から細く長い、綺麗な指が覗いた。

 「…………! 御前……」

 黒光りする長い黒髪。あたかも襖を開けるかのようにすっと手を引いて正座をしている御前の姿が見えた。御前がためらうように顔を上げる。温かだった切れ長の目は、冷徹だった。

 そして、なにより鮮やかな着物が別人のように暗闇に映えていた。

 「なんで、こんな夜中に……久しぶりだな。ここ、三ヶ月ほど姿を見せなかっただろ。心配していたんだ。……その服装はどうした? その、……貧乏だったのに、いくらで買ったんだ? 働き始めたのか?」

 三ヶ月ぶりに現れた俺の愛人は静かに微笑んだ。

 「お久しぶりです、夕雨さん。元気にしていらっしゃいましたか?」

 「あ、ああ。……御前、そんなところにいないで、入ってこいよ」

 三ヶ月ぶりの再会だというのに、御前の目には何の感動も映っていなかった。

 様子がどこかおかしい。

 「その名前で呼ばないで下さい。私はもうあなたの知る私ではないのです。働き始めたのか? と聞きましたね。……そうです。この三ヶ月の間に働き始めました。……そして、知りました。あなたが何者であるかを」

 淡々とした口調で囁くように言う。頬を冷や汗が伝っていった。

 「御前……」

 「あなたは言うべき事があるのではないですか?」

 初めて御前が顔に表情を浮かべた。憂いの残る切なげな瞳。

 眉毛で切りそろえられた髪が戸惑うように揺れていた。

 「言うべき事……か。お前は、知ったのか。俺がどういう人なのか。……御前、お前は……骸団に入ったんだろ」

 おずおずと御前が頷いた。御前が丁寧な仕草で立ち上がる。

 ゆっくりとすり足で近寄ってきた。

 「何も言ってくれないのですか?」

 「……俺は人殺しだってわかったんだろ。それなら言うことはないさ」

 愛する御前がそっと懐に手を入れる。赤い着物から鋭く銀色に光る鋭利な刃物を取り出した。

 それを見ても、俺の心は静かなままだった。逃げようとも思わなかった。

 それで、俺は殺させるんだな――。

当然の報いであり、愛する人に殺されるのなら、幸せな最期だとすら思っていた。

 「……そうですか……夕雨さんらしいですね、泣きたくなるくらい変わっていませんね」

 御前はそっと俯いた。薄い唇を噛みしめて、目を伏せる。

 そして、俺の目の前まで来て膝をついた。

 「逃げないのですか?」

 「ああ。……!」

 息をのんだ。

 顔を上げた御前の瞳には溢れんばかりの涙が溜まっていたからだ。

 大きく刃物を振り上げる。

 円を描くように刃物が落ちてくる。

 その刹那、

 「ごめんなさい、……大好きでした」

 涙をこぼしながら御前は微笑み、俺は目を閉じて――

 

 ゴッ。


 変な鈍い音がして、俺は目を開けた。痛みはない。

 その代わり……目の前には御前が倒れていて、肩で息をする蘭が

 「夕雨……」

 泣きそうな顔で立ちつくしていた。


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 救世主よ。

 救世主よ。

 そなたに、指輪を授けよう。

 願うのだ。

 願わなければ、戦えない。

 辛くとも、立ち向かえ。

 そうしなければ、そなたはその息を止めることになるだろう。

 さあ、その魂を燃やすのだ。


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 長い夢を見ているようだった。否、その夢はまだ覚めていないのだろう。

 夢の中で、「これは夢だ」と感じる不思議な夢だった。

 もやもやとする真っ白い空間に少女は1人でたたずんでいた。妙な浮遊感が酔っているかのように気持ちいい。いわば、ジェットコースターに乗っているときのような足下の不確かなスピード感と、高鳴る心臓を感じるこの感覚。

 目を閉じたまま少女は迷い込むように、落ちていった――。


 落ちている、そうわかった。

 比喩ではない。

 本当に落ちているのだ。

 上の方に、真っ白な雲が見える。ってことはここは空かなあ、とぼんやり思った。

 「なんだ、まだ夢の中なのか……」

 小さく呟いた。きちんと声が出る、それは不思議な夢だと思った。

 蒼い空が静かに遠ざかる。肌で風を感じて、リアルに寒い。

 「夢……じゃ、ない……?」

 あれ? すごい寒いし、落ちていく感覚が気持ち悪い……?

 でも、なんでわたしはこんなところに……? 思考が追いつかない間にも、耳元で風が鳴っている。ひゅうひゅうと。

 しかも、着ている服は制服で、赤いスカートが風になびいて捲り上がっていた。

 「え? え、っと」

 ごうごうと落ちていく。

 まさかと思って顔を下に向けると、一面緑色、黄緑色。

 「草原っ?」

 どんどん地上が迫っていく。夢じゃないかも、夢じゃないならなんなんだ、自問自答を繰り返しながら迫り来る地上に目を閉じた。

 ドサ、ガサッ。

 間髪入れずに、背中に鋭い痛み。それと、爆音にも似た衝撃音。

 と、

 「うわあああ!」

 誰かの、悲鳴。

 痛みに顔をしかめながら目を開けると、眩しい光が瞳孔を貫いた。すっと目を反らすと濃厚な緑色と、青臭い匂い。

 顔の上に乗っているのは、葉っぱか?

 「痛っ、ちょ、いったぁ」

 体を起こす。宮原私立中央中学校の制服はびりびりに破けていた。

 「げっ、やば。怒られる!」

 ミシ……。

 「え?」

 嫌な予感、と思った瞬間わたしを支えていた枝が大きく、ポッキリと、折れた。

 休む間もなくまたまた衝撃音。遠のきそうな意識。

 「…………!」

 わたしの真横で人の気配がして、振り向いた。葉っぱがひらひらと、さっきまでわたしがつっかえていた木から舞い落ちてくる。

 そして、その向こうには、わたしを見て目を丸くしている少年が尻餅をついていた。地面は綺麗な芝生で整えられていて、草がチクチクとわたしの剥き出た太ももを刺す。

 「あ、……あなたは……?」

 震える声で問う。少年から返事はない。

 少年は瞬きを繰り返した後、冷静な顔つきになってなにやらわたしをジロジロ観察し始めた。

 藍色っぽい瞳に掛かるか掛からないか微妙な長さの髪の毛がゆらゆら揺れる。男の子らしいシャープな輪郭が美少年らしさを一層、際だたせていた。

 そして、そんな外国の王子様のような外見にそぐわないちぐはぐな服装がまた目立つ。すり切れ気味の動物の皮を使ったコートだろうか。年季が入っているように見えた。妙な服装だと思う。

 「こほん……それはこっちが聞きたいね。お前、誰? 俺の見間違いじゃあなければ、空から降ってきたと思うんだけど」

 「そうですよねー、不思議ですよね。それがわたしも何がなんだか……。あの高さから落ちたのに、怪我はないし、不思議ですよね。はは……」

 訳がわからなすぎて、涙が滲んできた。慌てて空元気を振りまくも、泣き虫病がじわじわと迫ってくる。

 少年は手に着いた土を払いながらため息をついた。反対側の手には何故かシャベルが握られている。

 「あの……ここはどこなんですか?」

 「はあ? そんなことも知らないのか。無知だな」

 「なっ」

 生意気にもあきれきった顔で、わたしの身なりを確かめるように見る。そして、汚れた手でわたしの制服を触った。

 「ふん……高級そうな手触りだな……金になりそうだ」

 「はっ?」

 少年はわたしの髪を結っていたシュシュにも手を伸ばして、するりと解いた。わたしの唯一の自慢である漆黒の髪が芝生に落ちる。

 次にはわたしのヘアピンまで取ると、太陽に透かすように眺めて一言、

 「売れるのか……?」

 と呟いた。

 「な、なにするのっ?」

 「何って、値踏み」

 言葉に詰まる。

 この少年はなんと言ったのだ。耳を疑ってしまった。

 「値……踏み?」

 「そうだ」

 悪びれもせずに頷く。わたしは軽い目眩を覚えながら、頭を抱えた。

 「これは、夢なの……? なんなの……?」

 「夢じゃない。なぜなら俺は現実だからだ」

 堂々と宣言をした少年は、手に持ったシュシュで弄んでいた。少年はシュシュを知らないようだった。

 「あなたの、名前は……?」

 「俺? 俺は、夕雨。名字はない」

 頑なに添えられた「名字はない」の言葉にわたしは口を閉ざす。

 どういうことだろう。

 好奇心に溢れた瞳で眺める夕雨と名乗った少年は、シュシュをひっぱたり叩いたりしながら首を傾げていた。その姿にさっきの言動とのギャップを重ねて思わず吹き出す。

 わたしより、年下……?

 思わず視線を落とすと、吸い付くように自分の人差し指に目がいった。

 「……あれ?」

 少年、いや、夕雨が興味を持って、同じところを見る。そして、欲にまみれた顔で声を漏らした。

 「おっ」

 光に翳すように手を上に上げる。人差し指にはまっていたのは、見覚えのない一つの指輪だった。全く見覚えはない。けれど、夕雨の瞳と同じような色をした石が埋め込まれて輝いていた。まるであるべき場所に収まっているように。

 夕雨がすかさず抜こうと手を伸ばす。それをたった数分で学んだわたしは手をすっとどけた。

 「あっ、何するんだよ」

 「何って、また取るんでしょ。これ、わたしのだから」

 咄嗟に嘘が口をついて出た。

 こんな指輪持っていなかった。絶対にわたしのではない。

 いや、それどころじゃないだろう。ここは本当にどこなんだろうか。

 ケチ、とごねる夕雨を尻目にわたしはゆっくりと記憶を辿った。

 そう、確かに朝、いつも通り起きて制服に着替えたのは覚えている。お母さんの「いってらっしゃい」の声だって、変わらず聞いた。

 遅刻しそう、とパンをくわえながら玄関を飛び出して……そうそこからが記憶がない。

 何か、聞いたような気がする。指輪が……どうとか。

 この見覚えのない指輪が、原因なのだろうか。

 「おい、聞いてんのか、ばか」

 ふっと、わたしを呼び戻す声がして、記憶を辿るのをやめた。

 「なに、今ばかって言ったでしょ!」

 「言ったよ、悪いか。ここがどこだかわかんない奴はばかだろ」

 のっそりと夕雨が立ち上がる。わたしも慌てて立ち上がった。

 「話しは家で聞いてやるから、ついてこい」

 立ち上がると、夕雨という少年の背丈はわたしの頭一つ分上にあった。思ったよりも大きい。少年ではないのかも知れなかった。

 もしかしたら、わたしより年上……。

 そして、何も状況が読み込めないわたしは為す術もなくついていくのだった。


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「ただいま」

 「……おかえり」

 わたしが落ちたところから少し歩いたところに、一軒、木造建築らしい家が建っていた。昔の日本家屋のようだ。その代わり大きくはないけれど。一面草原だったのでその家は目立つ。しかし、その割に今にも崩れ落ちそうな屋根が痛々しく目立っていた。

 そして、夕雨が背をかがめるようにしてくぐった玄関に入ると、中から落ち込んでいるような声がした。

 「もう1人、住んでいるの?」

 「ああ」

 短い返事をして、リビングに入っていく。いや、リビングというのは正しくないかも知れない。広間、というのだろうか。全く広くはないけれど。

 畳が敷かれたその部屋に1人、膝を抱えた少年が座っていた。夕雨と同じような服装を着て、こっちを振り返る。

 そしてぎょっとしたように声を上げた。

 「夕雨、その人誰?」

 泣きはらしたような目をしたその少年が夕雨に問いかける。

 その人って、わたしのことだろうか。こっちを見ているし、そうなのだろう。

 夕雨はどかっと一回りくらい小さい少年の隣に座ると、わたしに向かって

 「座れ」

 短く指示を出した。

 「……はい」

 お世辞にもあまり綺麗とは言えない畳に腰を下ろす。部屋の中は驚くほどに殺風景で、家具

などがなかった。

 「俺が今朝のアレを埋めてたらこいつがいきなり空から降ってきて、木に引っかかった。以上だ」

 淡々とした短い説明。

 そして、全く意味のない説明だった。

 しかし、添削をしろと言われるとぐうの音も出なくなる。なぜならわたしもそれくらいしかわかっていなかった。

 困った。非常に困っていた。

 どうしよう。お母さんはどこだろう。学校は?

 でも、こんなぼろぼろの制服じゃ、学校にも行けない。

 早く帰りたかった。

 また、泣きたくなってぐっとこらえ、目の前の少年を見た。夕雨とはまた少し違う。女の子のように長い髪の毛を無造作に後ろで束ねて、瞳を緑青色に輝かせている。そして、何より夕雨よりは優しそうな顔つきだったことに、ほっと胸をなで下ろした。

 「おい、お前名前は? まだ聞いてなかった」

 夕雨がそう言えばといったように顎でしゃくって見せた。

 わたしはたたずまいをキリリと直し、ちょっと迷ってから普通に名前を述べた、はずだった。

 「霧乃かぐらです!」

 名前を述べた途端にぽかんと2人の口が開く。

 わたしは苦笑をしながら目を反らした。矢継ぎ早に告げる。

 「げ、芸名じゃないからっ!」

 名前を名乗るたびに恨みがましく両親の顔がちらつくのは置いておいて、目の前の2人は尚も口をぽかんと開けたままだった。

 「げいめい? ってなに」

 「知らん。俺に聞くな」

 愕然とした。

 年上のような風貌なのに、知識が、ない……? 

 芸名を知らない? 待って、本当にここはどこなの? 

 不安は、大きくもない胸に募るばかりだ。

 「夕雨の隣の人は、誰?」

 「あ、オレですか。オレは蘭です。名字はありません」

 違和感を覚えて黙った。

 名字はありませんって、さっき夕雨も言ってなかった? ここは名字がない人たちが多いのだろうか。ますます、訳がわからない。

 それより、この2人の両親はどこにいるのだろう。

 部屋を見回しても、これ以上人がいそうな気配はないし、部屋も狭い。突然頭の中に「孤児」という言葉が浮かんだ。

 まさかね……。

 蘭は物珍しそうに、泣いた後のような目をわたしに向けて、説明を促す。

 「あの……本当にわからないんです。普通に登校しようとしたら意識がなくなっていて、ここにいたから……ここは、どこなんですか?」

 夕雨がいぶかしげに眉をひそめた。

 その代わりに蘭が優しく微笑む。

 「ここは、どこだろうね。オレもわかりません。なんせ、逃亡生活だから」

 「ばか、蘭。余計なことを言うな。骸団のスパイだったらどうする」

 「それはないと思うよ。だって、降ってきたんでしょ」

 逃亡生活? 骸団? スパイ?

 聞き慣れない単語がポンポン出てきて頭が回る一方だ。

 しかも、わからないって。

 「ああ、ごめん。わからないよね。呼び方はかぐらでいいかな?」

 「あ、はい」

 「オレね、こう思うんだ。かぐらは……異世界から来たんじゃないかな」


 「え?」


 蘭の言葉が一瞬聞こえないような錯覚に陥った。

 咄嗟に聞き返すと夕雨が大きくため息をつく。

 「ああ、宛てにするな。蘭は妄想かぶれなんだよ」

 「ひどいな、夕雨。オレは空想の世界があったらいいなと唱えているだけだよ。でも、今回は夕雨にも否定できないんじゃない? なんせ、降ってきたんだし」

 「……降ってきたことにこだわるんですね……」

 わたしはコントのように軽い2人の会話をげんなりしながら聞いていた。

 もっと考えて欲しいものだ。何しろわたしにはまったくわからないのだから。

 けれど。

 畳の向きを指でなぞりながら考えた。

 蘭の言うことも間違っていると思えなかった。理由は、なんだろう。見知らぬ指輪がはまっていたからだろうか、空から降ってきたからだろうか。……どれも違う気がする。

 この2人に会ったから……というのが一番しっくり来た。何故かはわからないけれど、懐かしいような感じがするのだ。昔からの親友に再会したときのような妙な高揚感。それが、今のわたしの全てを司っていた。

 「あのっ、今はそれでいいです! なんだかしっくり来たので。でも、どうしたら帰れるんでしょう?」

 「知るか。自分で考えろ」

 夕雨がひたすらに身も蓋もないことを言い続ける。

 わたしの泣き虫病がわきあがってきたのを見て、蘭が慌てて付け足した。

 「あ、泣かないで。そのさ、オレたちも全然かぐらのことわかんないけどさ、一緒に帰る方法探してあげるから! そう、それまでは一緒にいて良いよ、ね? 夕雨」

 「ぁ? お前なに勝手に……ダメだ! 帰れ!」

 「ええっ?」

 蘭が目を丸くして夕雨をなだめる。が、夕雨は頑として受け入れる様子はなかった。

 2人が言い合いを始めるのを黙ってみていたら、無性に哀しくなって唇を噛んだ。

 「もう、いいです」

 一瞬、それが誰の声なのかわからないほど、キツイ声が出た。

 2人が驚いてわたしを見る。

 「1人でどうにかします。ありがとうございました」

 バッグを探して彷徨った手は宙を掴んだ。

 そうだ、今のわたしに持ち物なんてなかった。

 あっけにとられている蘭と夕雨におざなりに頭を下げて、急ぎ足で家を出た。行く当てなどなかったけれど、哀しさだけが胸にこだましていた。


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「ねえ、夕雨」

 「なんだ?」

 「さっきの子、出て行っちゃったね」

 「ああ」

 空から降ってきた不思議なやつが出て行ってからしばらくして、蘭が口を開いた。

 ぽつりぽつりと静かに語る。

 窓から覗く空には、あれからもうもうと黒い雲が立ちこめてきている。蘭もそれを見ていたのか、ふっと洩れるように言った。

 「雨、降るね」

 「ああ」

 重たい空気。その沈黙が何を意味するのか。痛いほどに伝わってきた。伊達に一緒に暮らしている訳じゃない。

 「御前さん、埋められた?」

 「……ああ」

 「夕雨、ごめん。あの時……」

 「いや、いいんだ。お前があの時ああしていなければ、俺は間違いなく死んでいたから」

 今朝の、まだ生温かさの残る愛人を思い出して身震いした。涙は出なかった。それは、俺がもう血も涙もない殺人者になってしまったからだろうか。

 殺人鬼、と言えないのは人間らしいところがあると信じたいからだ。

 「なあ、あいつ、この変な髪飾り、置いていったな」

 「それは、夕雨が取ったからじゃないの?」

 じめじめと、室内が湿気を含む暑さで充満してくる。

 蘭がごしごしと目を擦っていた。

 「あいつがしていた指輪さ……」

 「うん」

 「御前が持っていたものと同じだったな」

 「……そこまでは、わからなかった」

 「そっか」


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 勝手に飛び出してきたのだけれど、特に行く場所もなく、わたしが落ちた場所に戻った。

 草原の中で一本だけ、凛として立っている大きな木。わたしのせいで、枝や葉が散らばっているけれどそれでも、すかすかとなんかしないで葉が生い茂っていた。長年の貫禄のようなものを身に纏った木は静かにわたしを出迎えた。

 いやに、天気が悪くなってきた。肌にまとわりつくような暑さは、夏なのだろうか。

 大きな木の幹に寄りかかるようにして、座り込んだ。その途端に押さえきれなくなったように、ひっくと喉が鳴った。慌ててこらえても、鼻がつーんとして世界が滲む。


 ――異世界から来たんじゃないかな。


 蘭が言っていた、普通なら突拍子もない言葉。

 どうしてあんなにもすんなりと納得できてしまったのだろうか。首を捻る。

 夢物語のような、そんな台詞を信じるなんてばからしい。家に帰りたいし、なんだかお腹も空いてきた。今、何時なのだろう。

 不安を煽るようにごうごうと風が吹く。木が揺れる。

 「もうっ、ここはどこなのよっ! 訳わかんない!」

 寂しくて、怖くて、ぽろっと涙が零れた。その涙が滑り落ちて指輪に触れたその刹那。

 ブオオオオオ。

 耳を鋭い轟音が突き抜けて、目の前が真っ暗になる。

 耳鳴り? ……違う。もっと地鳴りのような。


 ――逃げてしまいたい?

 真っ暗になった視界の向こうで、良く通るような声がした。川のせせらぎのように透き通る声。

 「だ、だれ……誰なの?」

 ――あなたに似た人でございます。あなたに通じることが出来る、ただ1人の人。

 「わたし……に通じることができる、人?」

 ぽっと目の前が優しく光った。

 棺のようなものがわたしの足下に置いてある。

 これは、なに……?

 ほのかな光に照らされて優しく光る棺に不思議と気味悪さは感じなかった。黒光りする人生の最後に入る入れ物。

 ――それを、開けてご覧なさい。

 どうやら、透き通る声はこの中からするようだ。言われるがままに手を伸ばす。

 かちゃんと音を立てて蓋を取ると、息をのむほど美しい女性の遺体が出てきた。

 「…………! これは……?」

 怖いとか、気持ち悪いとは思わない。むしろ神聖さすら感じた。

 雪のように白い頬。閉じられた長い睫毛。色が変わりつつあるが、形の整った唇。

 そして、日本人形に着せるような着物を纏って黒い髪が綺麗に結われている。

 ――それが、私でございます。あなたに似ているでしょう。

 「わ、わたし、こんなに綺麗じゃありません!」

 慌てて否定すると、涼しげな笑い声が聞こえた。やっぱり、声はこの遺体の中からするようだ。

 溶けてしまいそうなほど白い肌に、思わず手を伸ばして触れる。

 冷たかった。

 そして、わたしは何故か涙を流した。自然と零れ落ちていく涙は、その女性の白い頬を濡らした。

 ――泣かないでください。あなたは、やるべき事がございます。

 「……わたしに……やるべきこと?」

 制服の袖でぐいぐいと涙を拭った。縋るように女性に問う。

 ――どうか、悲劇を終わらせてください。あなたに託すしかないのです。

 女性の声に悲哀が混じった。

 「悲劇って、なんですか?」

 ――それは、あなたが見つけなきゃならないのです。どうか、泣かずに頑張って。全ては私が悪いのです。死んでから気付いたって遅いのですが、だからこそ、あなたに頼みたい。私が生前に残した罪の発端をどうか……あなたが終わらせて。

 はっと息をのんだ。

 女性の遺体の目から一筋の涙が零れて消えた。

 ――あなたの指輪に頼りなさい。使って良いのは5回まででございます。忘れないで下さい。

 わたしの人差し指にはまっている指輪が頷くかのように軽く光った。

 視界が揺れる。

 待って、まだ聞きたいことがあるのに……!

 わたしの叫びは声にならずに、ゆっくりと暗闇はかき消えていった。


 はっと目を開けた。

 黒雲が立ちこめる空。不吉に揺れる木々。

 「今のは……なに?」

 我に返って指輪を見つめる。改めて眺めると、その指輪はずっしりとした質感で、深い蒼をした石には金箔のようなものが光っていた。

 このような石はどこかで見たことがある。いや、石だけじゃない、わたしはこの指輪を知っている。この指輪にはよく目をこらすとなにやら文字が書かれていた。

 その文字は、なんて書いてあるのか読めない、けれど……。

 「あっああっ!」

 ドカンと鋭い音がして遠くの空で稲妻が光った。それと同時にわたしは、目を疑う。

 この指輪。

 細かく言えば、指輪に書かれているこの文字。

どこかで見たような気がすると思ったら、教科書だ。

 寝ぼけまなこで聞いていた社会の時間。新しく配布された教科書のページに小さく写真付きで載っていた、ぐにゃぐにゃとした文字!

 確か、えっと……あれ? 江戸時代だっけ? 室町時代? ああ、しっかり授業を聞いておけば良かった! そう、確かそんな時代のものと思われる巻物が見つかって、そこに書かれていた文字がこの指輪に書かれているようなのだった!

 そして、確か大混乱を起こしたニュースだ。

 「思い出せ、思い出すのよ、わたし……」

 冴えない頭を叩きながら唸った。

 頭に甦るニュースの音声。

 

 午後7時のニュースです。

 「先日佐渡島で見つかった巻物ですが、ああ、この画像です。はい、すごいですねえ。この文字、でしょうか。今まで日本では見たことがない文字ですね」

 若い男性のキャスターが感嘆を押さえきれないように興奮気味に言った。

 片方の女性のキャスターが原稿を見ながら読み上げる。

 「はい、そうなんです。実はこれは、専門家によると室町時代から江戸時代の品だそうで、見たこともない解読不能な文字が書かれていたことから、佐渡島では独自の文化が発達していたのではないか、と言われております。そしてこの発見は今までの歴史を覆す出来事で、今まで教えられてきた歴史の真偽が今一度疑われているそうなんです」

 「えっ、それはまたすごい事態ですね。しかし、予測される時代が少し広すぎるような」

 「ええ、ですが前代未聞の出来事なので全く予測が覆されることもあるそうなんです。ですがそこまで独自の文化を持っていたのなら、何故今、その文化の欠片が残っていないのか。それについても審議が行われていますが全くわかっておりません。しかしこの巻物から本土とは全く別の、文化があったことは確かなようでその時代の名称を……」


 「(ファントム)時代(ピリオド)

 思い出した。口の中で何度も呟く。

 (ファントム)時代(ピリオド)

 わたしは今、その時代にいるのだ。関係ないし、と横目で見ていただけのニュースが言っていたその時代に。

 ほお、と息をついた。

 そんなことがわかったからといって疑問が消えるわけではない。

 何故わたしはそんな訳のわからない時代にいるんだ。

 「いつになったら帰れるの?」

 ぽつぽつ、雨が降ってきた。黒雲は渦を巻くように立ちこめ、やがてすぐにザーザー降りになってしまう。

 わたしは大きなこの木に身を寄せながら唇を噛んで俯いた。

 「灯……灯に会いたいよ……」

 雨が葉に当たってぽっぽっと音を立てる。

 わたしの、大切な人。もしも、帰れなかったら、戻れなかったら灯に会えない。

 そんなの、嫌だ。

 灯の顔を思い出したらまた、泣きたくなった。ああ、これだから泣き虫は嫌だ。自分が嫌になる。


 ――泣かないでください。あなたはやるべき事がございます。


 さっきの女性の声が頭の中でリフレインした。我に返って、顔を上げる。

 やるべき事……。わたしがこの時代に来たことは、それが関係しているのだろうか。もしも、その「やるべき事」を果たしたら帰れるのだろうか。

 それは、小さな希望。けれど、頼るにはそれだけで十分だった。

 「おい、かぐら」

 突然、木の後ろからぶっきらぼうな声が飛んできた。

 影から、ずぶ濡れになって顔から水を滴らせている夕雨が現れる。

 「あ、なんでここが……そんなずぶ濡れで」

 「迎えに来たんだよ。蘭がうるせえから、しばらくは家に置いてやる。それでいいだろ、まったく……」

 苦い顔をして、わたしの隣にどかっと腰を下ろした。

 相変わらず怖い顔をしてそっぽを向いているけれど、迎えに来てくれた。その事実が嬉しくてわたしは顔をほころばせた。

 「ありがとう。……傘、なかったの?」

 「傘? ……ああ、そんなもんあるわけねえだろ」

 ツンとすました顔で告げる。

 そんな夕雨にわたしは信じてもらえるかどうかわからないけれど、さっきまでのことを話した。不思議な女性の遺体の話や、ニュースの話。

 夕雨は静かな顔で聞いていた。

 「こんなこと、信じられないよね」

 「いや、信じるとか信じないの問題じゃないだろ。それが真実なんだし」

 雨脚が弱くなっていく。

 「でも、あの女性はなんだったんだろう」

 ずっとそっぽを向いていた夕雨の肩がびくんと跳ねた。

 「わたしがやらなきゃいけないことなんて、あるのかな」

 「…………」

 何も答えない。端正な横顔が愁いを帯びて、寂しそうだった。

 「あの女性は、」

 「やめろ」

 雨が上がっていく。

 わたしは今までに増して鋭い声に思わず聞き返した。

 「ちょっと、黙っていてくれ」

 「…………ごめん」

 静かに瞼が落ちていく夕雨をわたしは隣で黙って見守っていた。

 目の前の少年が、訳も知らない他人だと言うことを改めて認識させられながら。


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「ほら、やっぱりだよ、夕雨! パラレルワールドは存在したんだ!」

 「ああそうか良かったな」

 「っていうかパラレルワールドじゃないんだけどっ!」

 「ああ、同じようなものだよ。オレは正しかったんだ!」

 「なんでそうなるのっ?」

 「あわわっ!」

 がっしゃーん。蘭が湯飲みごとひっくり返して畳に染みが……。

 と、こうなったのはわたしがここに戻ってきてすぐのことである。


 夕雨の髪も乾いた頃、やっと戻ってきたわたしたちは早速蘭に話をした。夕雨に話したことと全く同じ内容だ。

 わたしがどうやら、未来から来てしまったこと。

 何かを成し遂げなければならないこと。

 するとどうやら空想の世界が好きらしい蘭が興奮しながら、手を振り回して……

 今に至る。

 

 「だからね、パラレルワールドじゃなくて、未来だって言ってるの。っていうか、なんでパラレルワールドがわかるのに芸名がわからないの」

 「言っても無駄だ。俺にはパラレルワールドが何なのかわからないし。蘭だけだよ。こいつは変な話に詳しい」

 蘭がズズ、とお茶を啜ってから声を張り上げた。

 「なんだよ、夕雨はひどいな! 本で得た知識だって! 夕雨はパラレルワールドを知らなかったのか! パラレルワールドというのは、ある世界から分岐して出来ている平行世界のことなんだ」

 「だから、パラレルワールドじゃないって」

 興奮して感情が高ぶっている蘭をなだめるように言った。

 すると、いつになく真剣な顔で蘭が呟く。

 「でもわからないじゃないか。かぐらの世界だって巻物が見つかったことしかわかっていないみたいだし。その推定されているなんとか時代なんていうのも全くの見当違いかも知れないじゃないか。それで、パラレルワールドに迷い込んでしまったとか」

 「いや、もう未来だろうがパラレルワールドだろうがどっちでもいい。とにかく大事なのはそこじゃないだろ」

 珍しく夕雨がまともなつっこみをして、わたしを見た。

 話を続けろ、ということらしい。

 「わたしがその女性に言われた、やるべき事を探さなきゃってことなんだよね」

 さっきまで饒舌にしゃべっていた蘭が黙り込む。そんな蘭を夕雨が肘で突いた。

 「…………?」

 首を傾げて蘭を見ると、蘭が作り笑いを浮かべて「なんでもないよ」と言った。

 「そのやるべき事をやらないとかぐらは帰れないんだよね?」

 「多分……そう」

 わたしも話すことをやめると一気に静かになった。

 家具がない部屋に夕雨が寝っ転がる。もう空になっていた湯飲みが倒れたのを直して、わたしも同じように寝っ転がった。

 「お前はさあ、その女性を知らないんだろ?」

 「うん。見たことない人だった……でも、凄く綺麗な人」

 「その女性のことを考えても仕方ないよ。オレが思うにかぐらのするべき事は、この世界にもう少し慣れてからじゃないと見つからない気がするんだ。もっと知るべきだと。……オレたちの元に、このタイミングで来たんだ……」

 最後の方の言葉は蘭自身に言い聞かせるようだった。

 夕雨もばつの悪そうな顔をして、顔を隠す。

 「あ、じゃあ、色々教えて欲しいなっ。この世界のこととか!」

 「いいよ。何から教えて欲しい? 美味しい食べ物とか……?」

 

 雨降って地固まる。

 そんな言葉が似合うような晴天が、一つ屋根の下にひろげられようとしていた。


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 この世界に来て、初めての夜を迎える。肌にまとわりつくようなねっとりとした暑さを凌ぐ冷房なんてものはなく、眠れない夜だった。

 この家には部屋が少なく、畳の間、トイレ、浴室、そして後は物置のような開かずの間だけで構成されている。……となれば否が応でも寝室がないので畳の間に敷き布団を敷いて三人で並んで寝ることになるのだ。

 蘭や夕雨は慣れているのだろうが、わたしは現代から来た中学生。この暑さで冷房がないなんていくら疲れていてもとても寝付けなかった。

 今は何時なのだろう。そういえば、ここは時計がない。窓の外は真っ暗なので夜中なのだろうがあとどれくらいで朝が来るのか、全く見当もつかなかった。

 すうすう、と耳元で吐息が聞こえる。右隣は蘭だ。

 静かな左隣は夕雨で、何故わたしが真ん中に寝ているんだ……って。

 「あれ? ……いない」

 左側に寝返りを打つと布団の中は誰もいなかった。そこに寝ているはずの夕雨が見えない。

 トイレかとも考えたけれど、灯りもついていないし……。

 隣で寝ている蘭を起こさないようにして、そっと半身を起こした。着るものの替えがなかったのでそのまま寝てしまった制服が汗で濡れている。せっかくお風呂に入っても意味なかったかな、と思いながら立ち上がると玄関を出た。

 不思議と、外にいるような気がした。

 涼しい風が吹いて、ふと笑みをこぼす。ちょっと先の突き出た岩に腰を掛けている人の影が見えた。

 やっぱりいた。

 姿を確かめたらまた中に戻ろうと思っていた。そもそも、夜中に話すような仲でもないし、ただいることがわかればいいと思っていたのに、ふと足が止まる。

 彼は、泣いていた。

 それも、わんわんと泣くのではなくひっそりと。あの、女性の遺体からこぼれ落ちた涙のように、静かに頬を伝って。

 気配を感じたのか夕雨が振り向いた。

 「盗み見とは良い趣味だな、かぐら」

 振り向いた顔に、もう涙はない。

 わたしは曖昧に笑って誤魔化した。

 「いきなり布団から消えていたから、気になって」

 夕雨が気の抜けたような笑みをこぼして、隣をぽんぽんと叩いた。

 来い、ということだろうか。

 近くまで歩いていく。

 「ちょっと座れよ」

 冷えた岩に腰を掛けると良い具合に体が冷えた。

 ひんやりしていてとても気持ちが良い。

 「お前も不思議に思っただろ。こんなちっさい家に男2人が住んでるんだから」

 「それは、確かに」

 昼間の表情とは別人のような優しい顔で語り始めた。

 少しだけ微笑みながら。

 「俺たちは、売られたんだよ」

 「えっ?」

 「奴隷船から逃げ出してきたんだ。蘭とは奴隷船で出会った。蘭はどうだか知らねえけど、俺はもともと東洋に住んでいたんだ。ははっ、俺らもここに来てからまだ間もないんだよな。目に焼き付いて離れねえよ。両親は……殺されたんだ」

 夕雨のその表情が愛情に満ちた顔なのだと初めて気付いた。

 たまに見せる愁いの満ちた寂しそうな横顔の意味も。

 「俺が両親のいた部屋にはいると、ワインが転がってた。真っ白なドレスを赤く染めた母さんが……あれ? ワインなんて、なんで知ってるんだっけ。ドレスなんか家にあるはずがないのに……。俺を売らなきゃならないほど貧乏だったはずじゃないか……? 両親が死んで、誰が俺を売ったんだ……? おかしいな」

 夕雨が突然首を捻って上半身を倒した。

 岩に添うように夜空を見上げる。

 「うわあ、すげえ綺麗」

 つられてわたしも見上げた。

 「天の川……」

 ぶわあああっと幾千にも幾万にも広がる星々。

 夕立の時の黒雲は嘘のように流れていってしまったようだった。

「そう言えば、今は夏だし、七夕も終わったばかりだよね」

 「なつ? たなばた? なんだ、それ」

 夕雨が顔だけこっちに向けて尋ねた。

 「季節って知らない?」

 「聞いたことはあるな。ずっと船の中にいたから無縁な話だが」

 真上の一際輝いている一等星を見つめながら、教えてあげる。

 「今はね、すごく暑いでしょ? こういう季節を夏って言うんだよ。夏にはスイカや海開きって楽しい行事がたくさんあるの。だからわたしは夏が好き」

 「たなばたは?」

 「七夕はその夏っていう季節のはじめの方にある行事でね、離ればなれになった恋人が一年に一度だけ会える日だと言われているの。織り姫と彦星と言って、ラブラブなカップルがいたんだけど仕事を怠けてしまったために神様に、引き離されてしまう。ちょうど、ほら」

 頭上に広がる天の川を指で指し示した。

 夕雨がぎこちなく指先を目で追う。

 「天の川によってね」

 「……それは神話か何かか? その後、どうなるんだ?」

 興味を持ってくれたことがなんだか、おかしくてふっと笑った。

 隣で夜空を眺める夕雨の瞳は星が煌めいているかのように、きらきらと輝いていた。

 「その代わりに一年に一度だけ会うことが許されるの。それが七夕の日。今でも織り姫と彦星は七夕に会えるのを楽しみにしている……ていう話。どう? ちなみに織り姫はベガという星で、彦星はアルタイルっていう星なの」

 「へえ、退屈な話だな」

 「なっ! 最後まで聞いておいて何それ!」

 怒るわたしを置いて立ち上がる。

 「いい暇つぶしにはなったよ。どうも」

 軽い口調で手を振って颯爽と家に戻っていく夕雨をぽかんとして見送りながら、涙の謎がなんだったのか、誤魔化されたことに気付いた。

 盗み見……確かにそうだけど。

 奴隷船の話は……信じて良いのだろうか。そういえば、逃亡生活がどうとかって言ってたな。関係があるのかないのか……いずれにしろ謎多き家だった。

 それでもここにしばらく置いてくれると言ってくれた彼らを、悪い人たちだとは思えなかったから、信じてついていこうと思う。

 この輝かしい夜空の星々が、現世と変わらず煌めいていてくれるのなら。




第2章「そうして俺たちは逃げてきた」

 あれから数日が過ぎた。

 あの日のような夕立もなく、ゆるやかに毎日が過ぎていく。それこそ、わたしが現世に戻る手がかりが何もつかめないくらいに。

 それは決して喜ばしいことではなかった。

 「ぶぅぅ、一体いつになったら帰れるの!」

 お昼のお茶を飲みながら、盛大に畳を叩いたわたしを蘭がなだめた。

 「まあまあ、一つずつわかっていけばいいよ。まだ時間はあるんだし」

 「何を根拠に! だって帰れるかどうかもわからないんだよ! って、そうだ。この指輪なんだよね、鍵は!」

 「ああ、5回だけ使えるっていう胡散臭いそれな」

 ごろごろと寝転がって茶菓子をつまんでいた夕雨が、口を挟む。

 いつも通り冷たい夕雨にわたしは口をふくらませて、もう一度畳を叩いた。

 「でも、これしか頼れるものがないし! 使い方もわからないけどさっ! どうすればいいんだろう。握って願えばいいのかな、やってみよー、」

 「待って!」

 人差し指を包み込むように握った手を蘭が解いた。

 「なに?」

 蘭がぐっと指輪を遠ざける。わたしの手ごと引っ張るので前につんのめって転んだ。

 「蘭、趣味が悪い。やめとけ」

 「「はっ?」」

 夕雨のつっこみに我に返った蘭が慌てて手を離す。わたしは反動で後ろにひっくり返った。

 「いたっ、趣味悪いって何よ!」

 「べつに深い意味はないから」

 夕雨が特別興味もなさそうに、背を向ける。蘭に向き直って、もう一つ茶菓子を口に放りながらもぐもぐと言った。

 「何で止めたんだ? 蘭。胡散臭い能力でも発動すればこのうるさいやつが帰ったかも知れないのに」

 「うるさいのはあんたでしょ!」

 負けじと噛みついたわたしを一瞥しただけで、もう片方の手に新しい茶菓子を確保しながら目を反らした。

 「それが……オレも何でかわかんないんだ。けど、なんだか今使わない方がいい気がして……なんでだろうね」

 「蘭がわからんことを俺が知るか。でもまあ、無駄に使う必要はないな」

 「そっかあ」

 人差し指に知らぬ顔ではまっている指輪。

 不敵に光るこれは何を知っているのだろうか。あの女性は?

 何一つ進んでいない、足踏み状態の今。募る気持ちは焦りばかりだった。早く帰りたいのに、帰る方法の見つけ方すらわからないなんて。 

 薄汚れた畳を撫でる。確かに、夕雨の言うことが理解できない訳じゃなかった。奴隷船から逃げてきてから2人はここに住んでいるのだろう。男2人で、たまに言い合いをしながら、けれど仲良く。

 そんななかいきなり降って湧いたわたし。2人の日常を壊したのもいいところだ。こうしてタダで住ませてもらって、食事をもらって、寝床まで提供してくれた。それがどれだけ厚かましいことかなんてわたしが一番わかってる。

 居場所がないというのは辛いことだ。雨の中、迎えに来てくれた夕雨にどれほど安心したかわからない。だからこそ、ここに住ませてくれた2人にはとても感謝している。きっと、2人もわたしが帰りたいのと同じように、わたしに帰って欲しいのだろう。それは、容易に想像が出来るものだった。

「でも、そっか。かぐらの時代ではオレたちの時代を(ファントム)時代(ピリオド)って言うんだったね。それほどにあやふやな時代として見られていたぐらいだから、何も知らないよねー。だからといってオレたちもここに詳しい訳じゃないし。なんて言ったって、東洋から来たし」

胸にちくりとした痛みを抱えたままわたしは笑った。

どうしてか、わたしが彼らの中に居場所があるように感じないと痛みを感じるのだ。

「そうだな。だから自力で探せ、死ぬきで探せ」

ごろごろと転がりながら夕雨が顔に茶菓子の欠片を付けたまま振り向いた。

その時、

ズコオォン。ズコオォン!

ごろごろとしていた夕雨がはっと飛び起きる。蘭も真剣な顔で立ち上がった。

ズコォオン!

わたしも2人の後について立ち上がるも訳がわからず、夕雨の顔を見た。

「来たか」

「みたいだな」

蘭と夕雨が顔を見合わせた。

わたしはやっとこの音が玄関の扉を蹴る音だと気付く。

誰かが蹴破ろうとしてる……?

「どうする、蘭」

「下手な戦闘は避けたいな」

蘭がいつものやわらかな口調とはうって変わって硬い口調で告げた。

「せ、戦闘?」

夕雨がはっとしたようにわたしを見る。

「そうだ、こいつもいたんだ……忘れてた」

真面目な顔でそう言われてわたしは泣きそうになった。どういうことだ。扱いがひどすぎる気がする。

すると、蘭が開かずの間であったはずの扉を開ける。

「え、そこって開くの?」

「開くに決まってんだろ。鍵掛けてるだけだばか」

やっぱり扱いがひどい……。

蘭が開けている間にも扉は蹴られ続けている。

「あった!」

その中はやはり物置のようで、中には色々な武器が入っていた。……武器?

「待って、それ何……?」

蘭が持ってきた、明らかに剣の形をしたものを問う。

「何って大剣。はい」

やっぱり剣なの!

差し出された、鞘には綺麗な施しがついて煌びやかに見える大剣を、慌てて受け取った。夕雨もなにやらごそごそと漁って、小型の拳銃とナイフを取り出す。蘭は片手に槍を持って、夕雨を後ろ側に促した。

小さく頷いて、夕雨がわたしの腕を持って引っ張る。

「ちょ、何しているの? この剣は、なに?」

「黙ってついてこい。逃げる。出来る限り俺が守るが、万が一の時のために剣は持ってろ」

後ろを振り返ると蘭が槍で扉の鍵を押さえながら、侵入を防いでいた。

「ごめん、夕雨! 限界だ、逃げる!」

蘭が槍を放すと、蹴り続けられていた扉の鍵が浮く。

夕雨が反対側の窓を開けたのと同時にその扉は蹴破られた。

「「「動くなっ!」」」

男女の鋭い声。

夕雨が慌てて窓の外にわたしを押し出す。

「行け!」

押し出されたものの、足がすくんで動けない。

それは侵入者の手にすっぽりと収まっていた拳銃が見えたからだった。

「待って!」

言いかけたわたしの目の前で窓が閉められる。ついでにカーテンも。開けようとするにも、鍵が掛けられてびくともしなかった。

「返してよ、姫を! この人殺し!」

女性の声が窓の中から引き裂くように聞こえてきた。

無理に蹴破ろうとしていた足の動きが止まる。

人、殺し……?

今にも崩れそうな家だからか、壁が薄いようで中の会話がやすやすと聞こえてきた。

「返してよっ、あたしらの姫を! 殺人犯がっ!」

鳥肌が立った。

聞きたくないのに、体が動かない。

「わかりますよねえ、姫のことを抜きにしてもあんたらは殺人犯に変わりはない。僕らにおとなしく捕まってください。そうすれば痛い思いをせず連行させてあげますから」

男性の声。へなへなと力が抜けてへたりこんだ。自分が外に裸足で出てきたことに初めて気付く。今までだったらあり得ない。足の裏が真っ黒だ。

手渡された剣。きっと、逃げてしまえばわたしはこれを使わなくて済む。

……けど。

2人はどうなる? 家の中から聞こえる不穏な声が、わたしを焦らせる。2人はわたしに隠していることがあるようだ。連行、とか。殺人犯、とか。

それでも、ここで逃げたらどうなる?

わたしはどこに身を寄せればいい?

2人が例えわたしの知らない2人だったとしても、わたしに居場所をくれたのはこの2人だ。居場所がない哀しさをわたしは知っている。

部屋の中から、2人の声はしない。

わたしは立ち上がって、剣を抜いた。予想よりも遙かに重たい。

やろう。大丈夫、やれる。

剣を振りかぶった。それだけでよろっと足がよろける。それでも。

「やあッッ!」

普通だったら壊れないだろう。満身の力を込めて振り下ろした刃が窓を斬り破った。

バッシャアアン。

物音を立てて破られたガラスを、踏むのも気にせず呆気にとられている夕雨たちがいる部屋に入り込む。

「かぐらっ?」

「……お前……本物のばかか」

ガラスの破片にまみれながら立っている2人に力強く微笑む。

「任せて」

「え? え? かぐら?」

「…………」

相手はたった2人だった。当たり前だけれど、見たこともない。

ポニーテールの少女と拳銃をたくましく構えた眼鏡の少年。

「その子は誰……?」

ポニーテールの少女が、目を丸くしながら呟いた。

「最近入ったばかりのばかだよ」

こんな時なのに夕雨は軽口を叩く。しかしその額には冷や汗が滲んでいた。

「そう、あたしはメイ」

「僕はアイです。まっ、今名乗ったところで記憶がぶっ飛ぶくらいオシオキをしますけどね。あなたも一緒に捕まってもらいましょう」

アイと名乗った眼鏡の少年が指を拳銃の引き金に持って行った。

指先が微かに震えていることから本当に引き金を引くのだと悟る。わたしも、迂闊に動けば躊躇なくひかれたその弾に体を貫かれるだろう。

「降参しなければ打ちます。以上です」

「…………チッ」

蘭が忌々しげに顔をしかめた。

「降参しよう」

「え?」

真後ろから凛とした声が聞こえた。

「ゆ、夕雨?」

蘭が焦って夕雨を見たとき、一瞬の隙が相手に生まれた。

それを、見逃さない。

「んなわけねえだろ、ばーか!」

状況を把握した蘭が一気に距離を詰める。アイの持っていた拳銃を槍で叩き斬った。

「…………!」

声のない悲鳴を上げてアイが素早く下がる。もともとアイのいた空間を槍が切り裂いた。

その間に夕雨も動く。迅速に、棒立ちになっているメイに差を詰めるとナイフを喉元に当てた。

「やった」

小さく口から喜びがもれる。

バラバラになって落ちた拳銃を見て安心したその瞬間、

パアン!

乾ききった音が空間を貫いた。

「ばーか、2人だけで乗り込むと思ってんのか、骸団がよォ」

わたしが先ほど割った窓から一つの影が伸びる。

目を見張るほど、綺麗な白髪をなびかせて1人の青年が入ってきた。

口元が弧を描いて狂気に満ちた笑いを残す。全身が、すくんだ。

「新人のお嬢さんよォ、あんた何も出来ないのか? あいつらは普段こんなに簡単に捕まる奴らじゃねえのに、逃げ出せてないって事はあんたが足手まといになってるんじゃねえの。なんてねェ」

手に握られていた拳銃を掲げる。

「蘭っ!」

夕雨の叫び声に振り返ると、足下が赤く染まっている蘭が顔を歪めながら立っていた。入ってきたときに、打たれたのか。

この男の登場で、立場が逆転したようだった。

「やっと捕まえられるなんてねェ。やや、嬉しや」

そして掲げた拳銃をわたしに向けた。

「ひっ」

「ばか、やめろ! かぐらは仲間じゃねえ! やるなら俺が先だ!」

後ろでわめく夕雨の言葉もこの不気味な男には聞こえていないようだった。メイやアイたちこそ動きを止めたままだったが、この男には勝てる気がしない。

男が一歩、一歩と近づいてきた。

「珍しいなあ。私たちのところにも新人が入ってきたばかりなんですよねェ。今日はつれてきてませんけどねェ」

そう言いながら銃口をわたしの額に当てる。足がガクガクと震えた。

「おい! ソラの野郎!」

「かぐらは違う! やめろっ」

男の眼光が鋭く光った。

ああ、これで死ぬのかな。戻れないで、死ぬのかな。灯に会いたかったな。

そう思った時。

――願って。指輪に、力を!

透き通る、女性の声が目を覚まさせるように脳を貫いた。

はっと目を開ける。

男が怯んだその隙に指輪のはまった手を掲げ、

「お願い、助けてっっっ!」

力一杯の声で叫んだ。

銀の指輪がまばゆい閃光を散らす。

すると、体がふわっと軽くなる。風のように動く。

「なにィッ!」

男が引き金を引いたけれど、それすらも遅い。止まって見えた。

さっきまで重くて持ち上げることすらままならなかった大剣がすんなりと上がる。

「……薙げ」

誰かが自分に乗り移ったかのようだった。口が、腕が、体が、すんなりと迷いなく動く。

大剣が叩きつけるように宙を掻き斬ると、空気が動きの通り爆音を立てて辺りを包み込んだ。竜巻が訪れたかのように家全体が崩れる。それは文字通りの崩壊。

「キャアアッ!」

メイが叫んで吹っ飛んだ。横殴りにアイも地面に叩きつけられる。

不敵に笑っていた男ですらも真横に吹き飛んだ。

もちろん、夕雨たちもだ。全部が大剣の動きに添って吹き飛んだ。

「塵のように、吹き飛べ」

自分の口からは誰の声だと疑ってしまうほど、力強く、そして清らかな声が出た。

――今、私とあなたは一つでございます。これこそが、力。

女性の声がする。

そうか、わたしはこの人だったんだ。

「ご、ぜん……?」

夕雨が呻き声混じりに呟いた。

大剣を振りかざす。風が音をたてて、襲いかかろうとした、時。

「やめろ、かぐらっ! もういいっ」

人の気配がして、振り向くと蘭が拳を突き出していた。

え、なんで……?

「ごめんね、かぐら。もういいよ、逃げよう」

息が詰まる。驚くほどあっさりと膝の力が抜けて……。


       ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


また、棺の前にいた。

五感が奪われたような感覚の中、わたしは立ちつくしている。

――         。

また、あの女性に何か言われたような気がした。けど、何も聞こえない。

わたしも、しゃべれない。

――   の、  間で   す。

何を言っているんだろう……?

まあ、いいか。

遠くで棺の蓋が開く音がする。五感も少しずつ戻ってきたようだ。

匂いがする。懐かしい匂い。

ぐにゃりと歪む棺。

そこから覗く、白い指。

その指にはまっているのはわたしと同じ、指輪。

どうして……。


「かぐらっ。かぐら……!」

「おい、起きろばか。おい、かぐら!」

ゆさゆさと激しく揺らされている気がして、唸った。

「う……―ん、う」

「おいっ」

ぱちっと目を開くと、眼前に夕雨の顔が。

「……んーっ!」

「お、起きた」

慌てて横に転がる。

ぼっと火がついたように熱くなった顔を手で覆い隠した。

「……起きるのが遅い。ってどうした?」

「……顔が、近い……」

ぼそっと呟いたわたしの声は聞こえなかったらしく、夕雨が首を傾げる。

って、そういえばあの男――

我に返って起きあがると、頭の奥がぎゅっと傷んだ。

辺りは……暗い。あの男も、あいつら、握りしめていた大剣もなかった。いるのはただ、夕雨と蘭だけ。

「逃げ、たの?」

「そうだよ。かぐらのおかげでね。ああ、さっきはごめん。いきなり殴っちゃって。ちょっと自我を失ってるようだったからさ」

夕雨の奥で足首に包帯を巻きながら蘭が言った。

「あ、蘭っ! 足、大丈夫だったの? 撃たれて……!」

血の付いている破れ掛けたズボンを見て、痛々しさに目を背けた。

そうだ、あの男に……。

「大丈夫。かすっただけだから」

「……そう、なら良かった。ここは?」

あの家よりずっと綺麗な木の床を叩いた。

暗闇の中、目をこらすとここが家らしい家であることがわかる。

「あら、起きた? 大丈夫?」

優しそうな声と共に扉が開いて、明るくなった。

20代くらいの若い女性が、ランプを持って入ってきたのだ。

「この人に、拾ってもらったんだ」

夕雨が素っ気なく言うと、その女性は長い髪を揺らしながら柔らかく微笑んだ。

「あなたたちがぼろぼろで山を下りてきたからよ。そりゃ、拾うわ。聞いたら家がないっていうんだもの。あなたは気を失っておぶられていたし」

気丈に笑うとその女性は奈々と名乗った。

どうやら、この女性の家のようだ。ウッド調で作られた家のようで、ここには家具も一通り揃えられていた。

「ゆっくりしていっていいのよ」

「いえ、明日には出ます。そんなにお世話になっていられないので」

すかさず蘭が女性の前に出るとお辞儀をした。

「とても感謝しています。けれど、明日には出て行くので。ありがとう」

顔を上げると、女性の手を握ってそう言った。女性の顔がポッと赤くなる。

 「そ、そう。それなら今日はもう寝なさいな。明日は朝ご飯を作ってあげるから」

 女性は顔を赤くしたままぼそぼそとそう言うと部屋を出て行った。

 不思議そうにしている蘭を見て、夕雨がつっこむ。

 「つくづく罪作りなやつだな。お前は」

 「へ? オレなんかしたかな?」

 「そうだね、少なくともあの女性は……ね」

 真っ暗になった部屋で蘭がわからなそうに「うーん」と唸るのを見て、夕雨と顔を見合わせて笑った。

 その無防備な笑顔に思わずドキリとする。

 慌てて顔をそらして、咳払いをすると静かになった。

 わたしは、気になっていたことをおずおずと切り出した。

 「ねえ、あの人たちは誰なの? なんで、追われているの?」

 蘭の無造作に束ねられていた髪が動揺するように揺れた。

 空気が固まった。どれくらいそのままだっただろう。

 隣にいる夕雨がぼそっとどうでもよさそうな口調で、その空気を切り裂いた。

 「お前にも、聞こえただろ……俺は、罪人だ」

 あいつらの会話を聞いていて、そうだろうなと思っていたのでわたしは黙っていた。

膝を抱えて座る夕雨の背中がやけに小さく見えた。

 「前に言ったろ。俺たちは奴隷船から逃げ出したんだって。奴隷船の中というのは、意外と物騒でな。俺たちと同じように捕まった奴らが一つの部屋に押し込められる。多種多様な人間がたくさんいるんだ。平和なわけがない。しかも何年かかけて渡航するわけだから、中では色々あるわけだ。凶器を隠し持ってる奴とかな」

 吐き捨てるように夕雨が掠れた声で囁いた。

 蘭がひたすらに背を向けて震えている。

 「だいたいそん中でも仕切る奴っつうのがいて、まあ容易に想像できるだろ? 力でねじ伏せる奴らの様子が。拳銃とかナイフとか普通にみんな持ってた。けど、俺らは何も持っていなかったから、そいつらの言いなりだった。弱肉強食の世界がその中でも出来るんだよ。痛かったぜ。……まあ、それでやっと奴隷船がここにつくわけだ」

 蘭が耳を塞いだ。まるで、もう聞きたくないというように。思い出したくない、というように。

 「どたばたしてる隙に俺は、仕切ってる奴らに素手で殴りかかって凶器を盗んだ。それで、こいつ……蘭をつれて逃げ出したんだ。けど、現実は案外うまくいかなくてさ。すぐに大人に見つかった。あいつらは、俺らを人間と思ってない。……殺すことになんの躊躇いもないんだ。昔は、蘭はとろかったからな。すぐ捕まっちまって……俺はその時にそいつを一発、銃で撃ち抜いて殺したんだ。そうして逃げる最中にもう1人、ナイフで刺した。あいつは死ななかったかもな……生きてたらいいけど」

 張りつめていた空気が一瞬ゆらいだ。

 夕雨の声が少し小さくなった。

 「で、どうにか逃げたんだけど、サツに目を付けられたわけだ。指名手配ってとこかな。それで、俺らを捕まえようとしてる特別班の名前が骸団。今日襲ってきたあいつらだよ。リーダーは眼鏡の神経質そうなやつ、アイ。アイの家族のメイ。それとかぐらを殺そうとした男、ソラ。それと……御前」

 夕雨の背中が震えた。

 「御前は前、俺の恋人だった女だ。お前が振ってきた前日に、蘭が殺した。いや、俺の代わりに蘭が手を下してくれたんだ。御前は夜討ちをけしかけてきたんだよ。俺がやられそうになってるところを、蘭が殴ったんだ。御前は、骸団に入ったばかりだったらしい。そして、骸団で姫と呼ばれて親しまれていたらしい……かぐらが降ってきたとき、俺は御前を埋めているところだったんだ」

 それは許しを請えない夕雨の懺悔のようだと思った。夕雨はきっと、誰かからの許しが欲しいのだ。ただ、それをあげられるのはわたしではないのだと思う。わたしはただ、聞いてあげることしかできない。

 「ショックだった。愛する人が殺しに来るなんて……でも、同時に御前になら殺されても良いと思ったんだ。御前は俺を殺す瞬間に言ったよ」

 「……なんて?」

 蘭はすっかり静かになり、寝てしまったようだった。こてんと横になったまま動かない。

 「ごめんなさい……大好きでした、と」

 夕雨の背中が大きく震えた。孤独な姿に耐えきれなくなって、近寄る。

 そして夕雨の手を取って握った。

 夕雨が驚いて顔を上げる。その瞳には大粒の涙が零れないように溜まっていた。

 わたしはそっと微笑んだ。

 なんでこんなことをしてしまったのかはわからない。けど、わたしは伝えてあげたかった。

 「お前は……俺を怖がらないのか」

 「うん。夕雨も蘭も優しいからね。例えそんな過去があったとしても、わたしと出会ってからの夕雨たちは殺人犯じゃなく、居場所をくれた恩人だったから」

 夕雨が顔を伏せた。

 小さく体を丸めて、消え入りそうな声で言った。

 「……ありがと」

 そのぶっきらぼうな声が優しくわたしの胸に染みわたっていく。

 「でも、かぐら。もしかしたら、お前がここにいるのは俺たちのせいかもしれないんだ」

 「どういうこと?」

 夕雨がおずおずと顔を上げて、わたしを直視した。

 「お前の夢に出てくる女性……の遺体。俺は御前だと思うんだ」

 「えっ……なんで」

 「お前がその指輪を使ったとき……誰かが乗り移ったように見えたんだ。声や行動がかぐらじゃなかった。蘭も言ってただろう。自我がないみたいだって。その時の声が……御前のそれなんだ。しかも、着物だったんだろう? 死ぬ前に御前が着ていたのも着物だ。だとすれば……お前がここにいるのは御前に関係があるって事じゃないか? ……これを聞いてもまだ俺たちを許せるか?」

 ああ、なんだ。そんなことか、と素直に思えた。

 あんなにも戻りたかったはずなのに、もしそれが理由でここに来てしまったのだとしても、わたしは笑って許すだろう。

 「許せるよ。そりゃ、驚いてないって言ったら嘘になるけど、責める気にはならないし。そもそも御前さん……が絡んでるのかどうかわかんないし。いいの」

 くうくうと蘭の吐息が聞こえる。疲れているのかも知れない、爆睡だった。

 「俺たちのことは言ったから……」

 「え?」

 「だから、俺たちのことは言ったから! お前のことも教え……ろ」

 くすっと笑った。語尾の焦って付けたような命令口調がとても可愛い。

 「いいよ」

 夕雨が笑われたことに気付いてぷいっとそっぽを向いた。

 わたしの話。

 なんでも話せるような気がしたけれど、何から話せばいいのかわからない。

 「わたしね、現世に……大切な人がいるんだ。小さい頃から仲が良くて、夕雨みたいにわたしの事をずっと守ってくれた人」

 「そう、なんだ」

 ぎこちなく相槌をうつ夕雨は少し寂しそうだった。

 「灯って言うんだけど……ここに来て最初の頃は灯のことばっかり思い出してたな」

 「好きなのか?」

 「え?」

 顔をほんのりと桜色に染めた夕雨がわたしを見た。髪の毛で顔を隠すように撫でている。

 藍色の瞳が見え隠れしながら泳いでいた。

 口元がへの字に曲がって「べつに」と一言紡ぎ出す。

 「うーん、わかんない」

 「は?」

 「わかんないんだもん。確かに何度も会いたいと思ったけど、どうなんだろう」

 「ふっ、珍しい奴だな」

 部屋の外でしていた音もやんだ。奈々さんも寝たようだ。夜はまだまだ長い。

 不思議なものだ。大切な人ではあるけれど、好きかどうかを問われればわからなくなる。灯と夕雨は似ていて、違う。それが何を意味するのかわからないけれど、こうして並んで話すのも悪くなかった。

 「そっちの世界にはたくさん、かぐらのことを愛する人がいるんだろうな。俺には、蘭しかいない。二人っきりの世界なんだ。……いや、俺の人生なんて人を殺したあの時にもう終わっている――」

 「違うよ。それは違う。夕雨は生きてる! 1人の人間として生きてる! 二人っきりの世界なんかじゃないよ。わたしもいるから。帰るまでは、わたしも夕雨の世界にいるから。忘れないで」

 聡明な夕雨の目と真っ直ぐに向き合う。

 孤独なこの人に、温もりが届くように。

 「……俺……自由になりたい。違う世界から来たお前は輝いて見える……だから、俺も色んな世界に行きてえな」

 一瞬ぽかんとしたわたしに気付いて、夕雨が慌てて立ち上がった。

 「な、なに言ってんだ俺っ! もう寝るぞっ、明日は早いからな!」

 どすどすと大またで歩いて部屋を出て行く。どうやら外に行くようだった。

 わたしは寝ている蘭の隣に、横になる。

 「かぐらも相当罪作りだと思うけどなー」

 「う、うわあっ」

 寝ていたはずの蘭が突然くるりとこっちを向いて、にかっと笑った。

 「お、起きてたのっ?」

 蘭がするすると髪の毛を結っていたゴムを解く。長い髪の毛がばさりと顔に掛かった。それをどけるように手で払ってから、蘭がいたずらっぽく舌を出す。

 「そりゃ、当然」

 「なら、普通に起きててよ!」

 蘭が顔を近づける。何かの鑑定をするようにわたしの顔を見てから誰に聞かせるでもなく呟いた。

 「趣味が悪いとか言いながら、自分が落ちてるんじゃないか」

 首を傾げながら蘭が軽く目を閉じた。

起きてたなんて……そうだ、蘭があざといのはわかってた。とすると、全部今までの会話聞かれてたってこと?

 かあっと顔が赤くなるのがわかった。

 ずいぶん恥ずかしいことを言いまくってしまった気がする。

 「まあ、夕雨がオレのこと結構大切にしてくれてるんだなってわかったし、嬉しいな。嬉しくて眠れないよ」

 言いながらわたしを見てくすっと笑った。

 「やるね」

 「な、何がよ」

 「べつに。気付いてないならいいやー。おやすみー」

 好き勝手言うだけ言って本当に目を閉じてしまった。口元には柔らかく笑みを刻んだままで、純粋に寝た訳じゃないことが伺える。

 しかし見張っていても仕方ないので反対側に寝返りを打って寝ることにした。

 小さな窓から、ふと夕雨の姿が目に入る。

 空を眺めているようだった。あの時のように。

 今ならわかる。何を考えながら、誰を想いながらあの星を見ているのかが。御前さん。その人のために毎日夜空を拝みに行っていたのだと。

 御前さんが何者なのかわからない。夕雨の愛人であり、わたしと一つになった人。指輪のことを教えてくれた人。彼女にもう一度会いたい。彼女が、わたしがこの時代に来てしまった鍵なのなら、彼女の謎が解けるごとに帰還に繋がってくる。けれど、だからこそ彼女に会えなかった。指輪に願えなかった。

 まだ、ここにいたい――……?

 窓の外の夕雨の姿を穴が開くほど見つめながら、頭の中で灯と夕雨を天秤に掛けている自分が居ることに知らぬフリをしていた。


        ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「夕雨、だめだよ」

 「なにが」

 夕雨はわかってるくせにオレに探るような目を向けて、座った。

 オレと夕雨の真ん中でかぐらが寝ている。オレのように計算的な子じゃあないから本当に眠っているのだろう。

 「彼女を楽にしてあげないと。彼女は帰りたがってる。元の世界に」

 「……ああ、んなことは知ってる。なんで……そうか、お前のことだ、寝てなかったんだな。どうせ寝たふりで聞き耳を立ててたんだろ」

 「さすがだね、ご名答」

 ほんのりと頬を赤らめてそっぽを向いた。かぐらとの会話を思い出しているのだろう。

 良い気分のところ悪いけど……盗み聞きした成果を言わせてもらわないとね。

 夕雨の目を見て反応を確かめながら、口を開いた。

 「かぐらが何でここに来たのか、それを探す手伝いをするとオレたちは言った。だったら、ちゃんと手伝ってあげなきゃ。御前さんが関わっているのならオレたちにも責任があることなんだから」

 「何が言いたい」 

 「夕雨、彼女を本当に帰したいと思ってる?」

 「……もちろんだ。こんな訳のわからないやつ……早く帰って欲しいに決まってんだろ。なんだよ、べつに何とも思ってねえ」

 夕雨が一気に不機嫌そうな顔になって、目を伏せた。

 窓の外からは三日月が綺麗に覗いている。

 「素直じゃないね」

 「ほんとのことだよ。蘭に言われなくたって、手助けぐらいする」

 「じゃあさ、こうしても?」

 頑なに否定する夕雨に見せるべく、挑戦的に煽ってから、寝ているかぐらを起こさないように近づいた。解いた髪が顔に掛かるのを押さえて、かぐらの頬にそっと口づけをする。

 「なっ、なにしてんだ、てめえ!」

 「しっ、ほら彼女、起きちゃうじゃないか」

 実は口づけなんてしていない。ちょっと唇を近づけただけだ。

 この闇の中で夕雨の場所からなら十分口づけをしたように見えただろうけど。

 夕雨は真っ赤な顔で憤怒していた。

 「なんでそんなに怒るの? べつになんとも思ってないんじゃいいじゃん。オレが彼女に何をしようが関係ないでしょ」

 「関係なくない! 蘭、てめっ」

 拳を見せた夕雨に苦笑しながら、両手を挙げて戦意がないことを示した。

 ちょっと怒らせ過ぎちゃったかな。

 「ごめんごめん。悪ふざけが過ぎたよ。オレはもう寝るね。わかってるならいいんだ。応援するよ」

 にこっと笑って布団に入る。

 夕雨が悔しそうに目を反らしていたけど、そろそろ夜が更ける。オレももう眠いし、言い合いしている暇はなかった。

 寝る間際に見た、夕雨の顔を思い出しながら目を閉じる。

 好きなら好きと言えばいいのに。やっぱりそんなオレの考えは幼いのかな。

 夕雨の気持ちが御前さんから離れていってるのを実感しながら、明日に備えて夢の中に潜り込んだ。




第3章「どうして……」

 どたばたと騒がしい朝がやってきた。目を開けたとき、綺麗な布団や床を見て一瞬ここがどこだか疑ってしまう。

 そっか……奈々さんに拾ってもらったんだ……。

 横で寝ている2人はまだ起きないようだったので、先に部屋を出た。

 朝の冷気で少しだけ霞んで見える。長い廊下を渡って、リビングに入ると家庭的な空気が肌を包んだ。

 「あら、もう起きたの? あなた……かぐらさんだっけ?」

 食卓の準備をしている奈々さんが気付いて、温かく笑った。

 「あ、おはようございます。かぐらでいいです。あの、何か手伝います!」

 「いいのよ、ゆっくりして。もう終わったから、新聞でも読んでいて」

 可愛らしいエプロンを付けている奈々さんは、現代の人となんら変わりはなかった。女子大生ぐらいだろうか、例えれば。服装も軽い白のワンピースのようだし、と思いながら奈々さんの姿を眺めていると、奈々さんがわたしの手を取った。

 「あなたの服、面白いわね。けど、ずいぶん破れてるじゃない」

 制服のセーラーを触りながら奈々さんは興味深そうに見た。

 まだ、セーラー服なんて服はないのか。

 それにしてもずっと着替えていないから、汚いし、敗れているままだしで、ずいぶんと無様な格好である。

 「いいわ! わたしの服をあげる!」

 「え? そんな、悪いです! 大丈夫」

 「ううん、その代わりその変わった服をわたしにくれない?」

 ぽかんとしてしまった。耳を疑ったけれど、奈々さんは胸を張ってわたしの制服を指し示している。

「へ? いいですけど」

 「本当? やったあ!」

 奈々さんは手を叩いて喜ぶと、わたしの手を取って一つの部屋に入った。

 引きずられるままに、押し込まれる。こんな破れている制服無償であげたってなんら問題ないのに、奈々さんは新しい服をも恵んでくれるらしい。

 タンスの中には、たくさんの服が掛かっていた。意外と裕福なのかも知れない。

 「どれでも、好きなものを持っていっていいわ」

 「え? そんな」

 物怖じするわたしに、奈々さんが、自分が着ているのと同じ白色のワンピースを手に取った。

 しかし、奈々さんの着ているのと違う点はフリルがついていること。襟元、袖口、全てにひだひだがついていた。

 「い、いえ。それは……」

 「あら、いいじゃない! 女の子はそれくらいじゃなきゃ! そっちで着てみて」

 急かされるようにして入れられた個室で、軽くため息をついた。こんな可愛い服、向こうの世界でだって着たことがない。

 しかし、奈々さんの善意を拒むわけにもいかずわたしは破れていたセーラー制服を脱いだ。

 ワンピースに手を通して絶句する。

に、似合わない……。やっぱり奈々さんに言って違う服にしてもらおう。

そう思ったとき、個室が開いた。

「可愛い! すごく似合っているわ!」

「な、奈々さん……お世辞は止めて下さい!」

「お世辞じゃないわ。とっても可愛い。それにしましょ」

「えっ? は、はい……」

勢いに怖じ気づいて、わたしはこの服を着ることになってしまった。

もはや棒立ちするしかないわたしに、服をぐいぐいと押しつける。いや、きっと好意でしてくれているのだろうが、絶対に似合わない代物ばかりで目を白黒させていた。

「あと、これとこれも持っていって」

「ええっ。悪いです、そんな」

「いいのよ、その代わりその服ね」

「それはあげますけど……」

あと二枚ほどフリルがいっぱいの服を受け取り、ついでにもらった鞄に入れた。

そこまでこのセーラー制服が気に入ってしまったのだろうか。破れているのに……。なんだか申し訳ない。

「じゃあ、このセーラー制服……」

「せーらーせいふく、と言うの? ありがとうっ」

奈々さんにとってこの出会いは、大きく将来を左右するものだとは、このときのわたしは知らなかった。奈々さんはこれを機に、将来コーディネーターになる。

それを、まだわたしが知る術はない。

「喜んでもらえて光栄です。こちらこそ、ありがとうございました」

「そうよ、きっとカレも喜ぶわよ」

「へ? ……カレ?」

カレって誰ですか。覚えのないことにドキリとしながら聞いた。

「あら、昨日あなたをおぶっていたの彼氏じゃないの?」

「おぶっ……?」

「あなたが気を失っているときに、夕雨と呼ばれていたかっこいい子が背負っていたのよ。カレじゃなかったの?」

ぶほっ。慌てて、持っていた服を引きちぎりそうになりながら、顔を横に振った。

「ち、違いますよ!」

「そうにはみえなかったなあ。カレ、心配していたわよ」

「だから、カレじゃありません!」

奈々さんは気丈に笑うと、食卓の用意をしに戻っていってしまった。

でも、心配してくれていたんだ。

ほっこりと胸が温まる。

「あ、これ今日の新聞ね!」

個室のドアが開いて新聞が投げ込まれてきた。

「あ、ありがとうございますっ」

投げ込まれた新聞を手に取った。少しはこの世界のこともわかるだろうか。

さっそく読もうとして開く……と。

「…………? し、しまったあ!」

ぐにょりぐにょりと奇怪に曲がる文字。何一つとして読める文字がなかった。

見た目は現世の新聞と変わらないのに、文字だけがひどい。記号とも言えない。夕雨たちはいつもこんなものを読んでいるのだろうか。

「……読めないんだった」

「どうかした?」

わたしの叫びを聞いて戻ってきたらしい奈々さんが部屋を覗いた。

わたしは反射的に新聞を隠すと

「い、いえ、なにもっ」

と首を振る。

「そう? ならいいんだけど」

また出て行く。

危なかった。そうだ、あの2人以外にはばれないようにしなければ。今更新聞を返しに行くのも変だし……と手の中の不可解な文字を見つめる。

わかんないよお。

べそを掻きながらじいっと見つめること5分。

「む、むりっ!」

途方に暮れて、放り投げた。どさっと散らばる新聞。

目を反らすときらりと指輪が目に入った。ふと思い浮かんだ名案にぽんと手を打つ。

そ、そうだ。指輪に頼めば……。

けど、ちょっと迷う。こんなことに使ってしまっていいのか。5回しか使えないのに、こんなことに……ううん、「こんなこと」じゃない。新聞を読むのはこの時代を知るために重要なことだ。1人で勝手に納得すると、指輪と向き合った。

腹をくくって指輪を握る。

「文字が読めるようになれっ!」

耳元を轟音が突いた。

眩しい光に辺りが包まれると、今回は突風が起きずに収まった。

「お、終わった……?」

手の中からころんと指輪が転がる。試しに一枚散らばっていた新聞に手を伸ばした。

おおっ。

さっきまでぐにょぐにょだった文字が一変して、ひらがなや漢字に見える。

よ、読める!


海を渡ってはるばるいらした王族がた。

逃亡者を捜すべく、海を渡って王様が訪れました。これは大変珍しいことで、逃亡者についても誰なのか、注目になっています。直々に捕らえたいほどの大物逃亡者について街の人たちは……

「大怪盗みたいなっ?」

「かっこいい男性だったらいいですよね」

「興味あります! 不謹慎だけどちょっと応援」

と、若い女性から意外な支持。想像では王子様のような人を描いているのでしょうか。興味があるところですが、現在は何もわかっていません。

王妃様については姿を現さず、反感を買っている様子。

一体どうなるのでしょうか。

 王族ぐるみで、地方警察に協力して探している模様です。


 …………。

 なんでこんなに記事が軽いのだろうかっ。

 地方の特色か、そうなのかっ?

 試しにとどれを選んでも、内容が軽い。読みやすいと言えば読みやすいけれど……。

 わたしは指輪の効力を無駄遣いしたような気がして、言葉に詰まった。

なんてことをしてくれたのだ。

しかし、不思議だ。

どんなにこの目で指輪の効力を確かめても、どうしても信じ切れていない自分がいる。

 この指輪はどんな力が、どういう仕組みで、込められているのだろうか。願えば叶う。それはどんなことであっても。

 そして、御前さんとおぼしき女性から言われた「やるべき事」さえ全うすれば返してくれるのだ。

 部屋の外からいい匂いが漂ってきた。朝ご飯が出来てきたようだ。

 わたしは立ち上がり、転がっていた指輪を拾った。


 御前から、あなたへ。


 文字を読めるようになったわたしの目に言葉が飛び込んできた。

 「え……」

 それは、指輪に書かれていた意味のわからない文字。

 御前から、あなたへ……? 御前さんの関わりを証明されたようで、目を見張った。

 御前から、あなたへ……。「あなた」というのは本当にわたしのことなのだろうか。

 部屋の外が騒がしくなってきた。

 夕雨たちが起きてきたようだ。

 「おい、かぐらー。あれ? どこいったんだ?」

 ドア一枚挟んだ向こうから、蘭の声が聞こえる。

 呼ばれているなら、行かないと。

 指輪を握りしめてドアを握った。

 「おはようっ! 蘭、夕雨」

 「あーっ、いた。ってええええええええ! なにその格好!」

 「遅い、ばかって……お、おい」

 元気よく飛び出していって撃沈したのは言うまでもないことだった。


         ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「では、お世話になりました。ありがとうございました」

 「助かった」

 ご飯を食べ終わってからすぐ、ここを出た。

 奈々さんは終始笑顔で見送ってくれたけれど、蘭を見るときだけ寂しそうだった。

 「ありがとね、奈々さん。お世話になりました」

 「あっ、奈々さん、服ありがとうございましたっ」

 もらった鞄を掲げる。フリルの衣装の他にお金ももらったのだ。

 「いいのよ、またおしゃべりしましょ。その……蘭さん、またいらっしゃって下さい」

 「近くを通りかかったらおじゃまするよ。じゃあね!」

 別れの挨拶もそこそこに踵を返した。

 後ろで奈々さんが手を振ってくれているのに、振り返して、前を向く。

 空は気持ちよい晴天のごとく晴れ渡る青空が覗いていた。さわさわと涼しい風が吹く。

 「かぐらのその服装可愛いね、似合って、」

 「似合ってないっ!」

 「す、すごい否定だね……でも可愛いよね、ね? 夕雨」

 蘭がいたずらっ子のようにはにかみながら、夕雨に話を振る。

 わたしは妙にどきどきしながら夕雨を見た。

 「はっ? ……いいんじゃねーの」

 「まっ、そうだね。オレらも新しい服をもらったしね」

 そうなのだ。奈々さんは、男物の服も用意してくれたのだ。

 「うん、謎の袴も似合ってると思うよ」

 「謎のってなんだよ、謎のって」

 山を下っていく。ついでのようにもらってしまった靴も、早くも足になじんで歩きやすかった。

 夕雨たちの下駄が小石に当たるたびにカツンカツンと音を立てる。小気味いい音に耳を澄ませていると街が見えてきた。

 「っていうか、もう少し奈々さんにお世話になっても良かったんじゃないの?」

 ふと漏らした疑問は夕雨に睨まれただけだった。

 蘭が苦笑しながら付け足す。

 「オレたちは追われている身だからね。長居をすることは奈々さんの身に危険が及ぶかもしれないんだ」

 「あ……そっかあ」

 蘭の細やかな気遣いには感心する。

 「あれ? そういえば今日は髪を束ねないんだね?」

 「ああ、ゴム、なくしちゃってさ。今日、買い出し行くときに買うよ」

 「買い出し?」

 先を歩いていた夕雨が振り返った。

 昨日の傷心はどこへ捨ててきてしまったのか、無愛想な顔で言う。

 「しばらく野宿だからな。食うもん揃えないとだろ。何のためにさっきの女にお金をもらったと思ってるんだよ」

 とげとげとした口調で言うだけ言うとまたそっぽを向いた。

 わたしは蘭の耳に顔を近づけてこっそり聞く。

 「今日の夕雨、機嫌悪い……?」

 「あー、そうそう。昨日の夜……いや、なんでもないよ」

 何か言いかけた蘭を夕雨がギロリと睨んで、遮った。

 昨日の夜……? 何かあったのか気になるけれど、掘り下げれば夕雨の機嫌はますます悪くなるだろうからやめた。

 わたしは手を開いて指輪を覗いた。

 「チェーン欲しいな……首に下げたい」

 「首にぶら下げたいのか?」

 「え? うん」

 「お、着いたぞ! 市場だ」

 夕雨が足を止めた。

 蘭が目を輝かせる。

 「わああ!」

 なだらかな坂道の途中から眺める街並みは、活気の溢れる人々の声がはじけ飛ぶような明るい市場だった。

 果物も並んで、色とりどりの夢の中にいるようだ。

 「行こう、早く行きたい!」

 蘭と夕雨の腕を掴んだ。

 慣れない下駄に戸惑う2人を押すようにして駆け出す。

 笑い声が空にこだますようだった。


 「ええっ、それも買うの?」

 「当然、俺の好物」

 夕雨が大きな両手に、たくさんの小さなスモモを抱えて現れたのを見て、しきりにため息をついた。

 大きな市場はさすがのにぎわい。わたしのフリルのワンピースだってちっとも目立たないほどに人々は煌びやかだった。

 けれど、裏にはまったく逆の黒い話も渦を巻いているんだと理解できる。裕福な人も多い一方で、我が子を奴隷として売りに出さなければやっていけない人もいるのだと。そして、売りに出された奴隷が逃げ出さなければ今頃どんな生活をしていたのか、なんて2人の前で考えたくもなかった。

 蘭もあきれ笑いをしながら、かごを差し出す。

 かごの中に可愛いピンク色をしたスモモがころころと転がった。

 「あと、あれも」

 「だめっ! こっちを買うの!」

 「水は必要だと思うなあ」

 市場の中で言い合いをしながら、ものを買っていく。たったそれだけのことがとても楽しくて、温かだった。

 「ちょっと俺、便所行ってくる」

 「はいはーい」

 想像以上にわたしはこっちの世界に慣れてきている。同じ日本と言えども、時代が違うだけでこれだけ生活も違う。それでも、この世界はわたしにとって優しいものだった。

 前ほどに、帰りたいと願わなくなったのもそれが原因かも知れない。

 肉売り場の方へ移動する。どうやら、安くなっているようで人だかりは果物売り場の三倍ほどにも上る。

 慣れないわたしは潜り込めずに立ちつくすばかりだ。

 「大丈夫? オレが取ってくるから、待ってて」

 蘭がたたっとすばしっこく人混みにもまれながら入っていく。あっという間にその姿は見えなくなった。

 そして、その数秒後事件は起きる。

 入れ替わるようにして人の山から出てきた青年……その1人にわたしの目は釘付けになった。目を見開いて息をのむ。

 どうして、あいつが……。

 「あ、灯……? なんで、いや」

 違う、そんなはずはない。

 見間違えだ。

 そう思いこむのも当然のことだった。

 ここは、現代じゃないんだよ……?

 手からするりと籠が落ちる。

 スモモをぶちまける直前ににょきっと手が出てきた。

 「危ないな、大丈夫か?」

 「あ、夕雨……」

 なんで、どうして。

 灯と思わしき人物は人混みの中に消えていった。

 見間違えじゃない。確かに、灯だ。

 会いたくて仕方がなかったはずの、灯だ。でも、なんで。

 足がすくんで動けなかった。

 「かぐら? おい、大丈夫か? 蘭はどこに行ったんだ、こんな時に。かぐら、おい、なにかあったのか?」

 どうして。なんで、ここに。茶色がかった短い髪に、切れ長の目。絶対に、灯だった。

 「幻想なんかじゃ、夢じゃないんだよね」

 「は? どうしたんだよ」

 「ごめーん、遅くなっちゃったよ。肉の争奪戦でさあ」

 何も知らない蘭が脳天気に帰ってきた。

 大丈夫か、と繰り返す夕雨を見て蘭が目を丸くする。

 「何かあったの、かぐら?」

 「わかんねえんだよ、答えなくて。意識が飛んでるみたいだ。一旦帰るぞ」

 足がその場に縫いつけられたように動かなくて、へたり込む。

 なんで、なんで……。

 もう現世にいるんじゃないかと、縋るように夕雨を見つめることしかできなかった。

 「どうして……」

 通路にへたり込んだわたしは、通行人に邪険にされる。

呆れて見ていた夕雨は諦めたようにわたしに近づくと、一言

 「悪い、運ぶ」

 腰をかがめて、わたしを抱きかかえた。

 籠の中のスモモの鮮やかな桃色が、目に眩しく突き刺さっていた。


          ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 そこは、先代皇帝が使用していた王宮の中。

 まばゆいシャンデリアに、真っ赤な絨毯。塵一つ落ちていないツルツルの床。

 全てが権力者の象徴であるこの場所に、まだ若い1人の男がふんぞり返るようにして腰を掛けていた。王冠こそ被ってはいないものの、口元に浮かんだ余裕の笑みが一層権力の大きさを表している。

 金縁で縁取られた扉が奇妙な音を立てて開き、スーツで固めた青年が入ってくる。

 「使われていなかった城だけあって、扉が歪んでいるようだ」

 青年が申し訳なさそうに頭を掻いた。

 「お直しいたしますか?」

 「いや、いい。それよりも、報告を」

 厳格そうな口元を緩めて、青年に話を促す。

 「はっ」と返事をして、胸ポケットから手帳を取りだした青年は一切の感情を漏らさない冷徹な顔で読み上げた。

 「ルイ様の、ご命令通り情報を張り巡らせた結果、麗様はこの近くに潜んでおられるようです。場所はまだ特定に時間が掛かるようですが直に捕らえられるでしょう。「彼ら」に接触をしてきましたから。「彼ら」は一も二もなく首を縦に振りましたよ。私どもの仕事については一切漏らしておりません。どちらにしろ、「彼ら」も手駒ですから、麗様を突き止め次第、「彼ら」を早急に始末しておいた方がよいかと。その方が確実です」

 「ふーん、つまらなくもないなあ。ここに来てから退屈なことばかりだったがいい報告となりそうだ。アル、ご苦労。下がって良い」

 アルと呼ばれた青年が緩やかな微笑みを浮かべて部屋を出て行く。

 「ルイ様」は手元にあったワイングラスに一口、口を付けてから、ほおとため息をついて付け足すようにこう言った。

 「ああ、そうだ。一つ訂正するべきだな。今は「麗様」ではなくただの少年、「夕雨」だと」

 

           ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 染まっていく。

 染まっていく。

 染まっていく。

 記憶の中が真っ赤に。なにで真っ赤に染まってるかって?

 そりゃ、「血」だよ。

 これは誰の記憶なのかって?

 もうキミにもわかっているんじゃない? この記憶が誰のものか。

 そして、この血は誰のものなのか。

 ごめんね、謎ばかり増やしてしまって。

 それもこれもキミがしっかりしないからだよ、という小言は胸に秘めておくよ。苦しませてしまってごめんね。

 でもキミは思い出さなければならない。

 記憶の共有者を。その世界を。無力さを。過ちを。

 それこそが、栄光を手にする鍵なんだから――


            ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「灯っ!」

 「お、起きたね」

 「だな」

 ひんやりとして冷たい空間に2人がいつも通り佇んで笑っていた。

 ……夢?

 手探りするように自分の体を抱きかかえる。触れた。

 良かった、夢じゃない。

 二つの時代の人物を見たせいで、どちかが夢なのではないかと頭を抱えそうになっていた。

 「ここは?」

 言葉を口にしてから前にもこのような会話をした気がしてふっと笑った。

 目覚めるたびに違う場所にいるとはどういう待遇なのだろう。と、冗談交じりに思ったことは、言わないでおく。

 「ここがオレたちの新しい場所。ごめんね、家が見つからなくて野宿だった、やっぱり。いい洞窟があったから、数日はここで過ごす予定なんだ」

 もらったばかりの袴がすでに汚れているのは場所が場所だから仕方ないか……と頭の片隅で思いながら、洞窟の岩に凭れて頭を抱えた。

 じっとりとした暑さが、岩場にこもって汗が伝う。

 ふと見るとわたしのワンピースも砂が付いて汚れていた。

 「さっきはどうしたんだ、かぐら」

 「……うん……」

 洞窟の奥の方に置かれた買い物袋に目を向けながら、その時のことを思い出して言った。

 

「灯が……いたの」

 

「はっ?」

 「ちょっと、夕雨、静かにしてよっ」

 蘭が夕雨の口を押さえつけて、にこっと笑った。

 「それは、確かに灯くんだったんだね?」

 確かめるように、小さな子に言い聞かすように蘭が聞く。

 夕雨は蘭に口を押さえられて話せないままだったけれど、何かを考えているようだった。

 「絶対見間違えじゃない。灯だったの、本当に」

 蘭が夕雨を押さえていた手を外した。                      

 ここぞとばかりに夕雨が口を開く。

 「その灯って野郎は何者なんだよ、一体! ……お前は、何者なんだ?」

 「ゆ、夕雨っ?」

 夕雨の一言に、ズキっと胸が痛んだ。

 真っ直ぐに向けられた夕雨の瞳にドキッとした。

 それと同時に、泣きそうになった。

 「そう、だよねっ。疑うよね、わたし、怪しいよねっ! ごめんなさいっ」

 痺れ掛けていた足を叩くようにして立ち上がった。

 止めようとした蘭の腕を振り切って、洞窟を抜け出した。

 「かぐらっ! 待って」

 「ごめんなさい!」

 制止を聞かずに、がむしゃらに走り抜けた。

 顔を見られたくなかった。泣きそうな顔をしているところなんて見せたくなかった。

 どうして泣いたのかなんて悟られたくなかった。

 洞窟を出ると、そこは夏の麗らかな夕日が木漏れ日として差し込む、森が立ちはだかっていた。大自然のパノラマの中に迷い込んだかのような、緑青。それに美しく解け合う夕日のオレンジ。

 方向もわからず、木や雑草をかき分けるようにして突き進む。

 荒い息が口をついて出るようになった頃、やっと足を止めた。もう、あの洞窟は見えない。きっと、追ってもこれないだろう。この森はどっちをいっても木ばかりで、方向がわからないから。樹海に行ったらこんな感じなのかな、とうっすら考えた。

 向こうに帰ったら真っ先に会いに行こうと思っていた灯。思いも寄らぬ形だったけれど、会えたことに変わりはなかった。そして、それは嬉しいことに変わりはないはずだったのに、どうしてか嬉しさを感じない。むしろ、どこか得体の知れない不安が立ちこめた。

 こっちに来てから、「大切な人」が移ろっていく……そんな気がした。

 どうして、灯が大切な人だったんだろう……定義を探るように思い出を振り返った。


 まだ幼かった、春のこと。

 花びらが舞い散る、夕暮れ。家の近くに、桜峠というのがあった。

淡い幼心を閉じこめたような桃色が、飽きることなく続いている峠。過ぎ去ろうとする春を惜しむように、わたしは小さな背中に有り余るほどの大きなリュックを背負って、桜峠に冒険に出た。

 わざわざ夕暮れに、親に黙って飛び出したのは、前日の家族ぐるみの宴会で、ある会話を聞いたからだった。

 「いやはや、春ももうすぐ終わりますな」

 「なあに、私は昨日夜桜を見てきたんですわ。なにより桜は夜が似合う。綺麗で我を忘れてしもうたわい」

 「上手いことをおっしゃる。わしも一つ、見にいこうかの」

 親に片づけを手伝わされていたわたしは、お皿を運ぶ途中にそんな話を聞いた。

 幼くも、女の子だ。

 「綺麗で我を忘れるほどの桜」というのに、心惹かれていった。

 夜に出かけると言ったら、きっと怒られるだろうなあ。お母さんは、口癖のようにいつも言う。早く帰ってきなさい、夕飯までには帰ってきなさい、と。

 そしてわたしは決心したのだった。

 内緒で「夜桜」というものを見に行ってやろうと。

 リュックの中にはカメラと、お気に入りのぬいぐるみ、お菓子を詰めた。

 親の目を盗んで意気揚々と峠へ向かう。

 春の夕暮れは温かく、心地の良いものだった。

 とてとてと足を必死に動かして、峠へ着く頃にはすっかり日も暮れていた。

 「わあ……ぁ」

 街灯の明かりも届かない夜。生きているかのように風に枝を任せ、着物姿で舞を踊る花びらを見た。

 どこまでもどこまでも終わりがないように見える桜峠。宝石のように煌めく星を背景に、息をのむほど美しい妖艶な花々が散っていった。

 我を忘れるほど綺麗とはこういうことかと思った。

 綺麗すぎて直視することさえままならない。操られているかのように奥へ、奥へと進んだ。

 酔っているんじゃないかと思った。

 きっと、お父さんたちが飲むお酒というのはこんな味なんだわ。

 昼間の桜と夜の桜は違う。そんな一変した二つの世界をつなぎ合わせるように、桜は踊るのだ。

 どんどん、どんどん深みにはまっていくわたしは気付かなかった。

 夜桜は美しさ故に人を惑わす。

 散りゆく桜に目を奪われているうちに、峠を逸れて、谷間へと向かっていることに気付かなかったわたしは足を滑らせて、穴に落ちた。

 桜が遠ざかる。

 小さな体は、背中に背負っていたリュックによって守られたものの、1人であがれるほどの体力がない。その時になってわたしは初めて、危機感というものを覚えたのだった。

 辺りは暗いし、遠くで獣の鳴く声も聞こえる。

 怖い。

 もう一生ここから出られないんじゃないかって不安になった頃だった。

 ガサ……。

 人の足音が耳に入った。

 誰だかわからないけど、ここから出してくれるかも知れない。お母さんが探しに来てくれたのかも知れない。

 突如降って湧いた希望に胸をふくらませる。

 そして、誰かが穴を覗き込んだ。

 「あっ」

 「あっ」

 誰だか知らない男の子。

 それが、灯との出会いだった。

 「人がいる……」

 男の子は呟いた。短い髪の毛には、ひとひらの花びらがのっていた。

 「大丈夫?」

 ふるふると首を横に振った。

 「た、たすけて」

 「出られないの?」

 「うん」

 男の子は少し考えた後、にかっと笑った。

 「じゃあ、おれが出してあげる」

 手を差し伸べられて、少し戸惑う。男の子の手を握るのは初めてだった。

 小さな手をおずおずと差し出す。

 「んん……」

 後少しのところで届かない。

 男の子はまた少し考えてから、ポケットから紐を取りだした。

 「ちょっと、待って」

 なにやら穴から少し遠くに行ったようで足音が遠ざかる。

 おとなしく待っていると、腰に紐を巻いた男の子が戻ってきた。

 「これで、大丈夫」

 男の子がさっきよりも前へ出る。穴に落ちるか落ちないかのギリギリのところまでやってくると前のめりになって手を出した。

 落ちる。

 そう思って目を閉じたのに、男の子は落ちてこない。

 腰の紐が支えているようだった。

 手を差し出すと今度はしっかりとつかまる。

 「行くよ。せぇーの」

 ぐっと男の子の力こぶが盛り上がった。顔を精一杯しかめてわたしを持ち上げる。

 そうして、どうにか穴を出たとき、男の子は言った。

 「おれは灯っていうんだ。この峠の近くに住んでる。キミは?」

 「わたし、はかぐら……です。わたしも峠の近くに住んでる……その、ありがとう」

 男の子は木にくくりつけてあった紐を解きながら、笑った。

 紐をポケットにねじ込むと、もう一度手が差し出される。

 「また落ちたら元も子もないだろ? ほら、繋いでいけば安全だよ」

 恥ずかしくて躊躇いながら、ちょっとだけ手を動かした。すると、灯が手を強引に掴む。

 真っ赤になって俯いたわたしを見て、笑うように肩を揺らした。

 急な坂を引っ張られるようにして上っていく。

 ほっこりと胸が温まった。

 俯いててくてくと歩いていくうちに、桜峠に戻ってくる。もう、手を離してもいいのに、わたしは逆に強く握りしめていた。

 夜桜。

 わたしたちはふと立ち止まって、乱れ散る桜を見上げた。

 どちらともなく「ほお……」とため息をつく。

 酔うことはない。2人で眺めれば、夜桜の毒にもやられずに、我を忘れず眺めることが出来た。そっと、灯の顔を盗み見る。

 

花びらが眼前を桃色に染めこんだ。

 

 その後は、また会う約束をして家に帰った。もちろん、夕飯までには帰れといつも言っていたお母さんにこってりと怒られたけれど、泣かなかった。

 幻想の中のような出会いが、今まで知らなかった感情を教えてくれたから。

 「もうこんなことはしない」

 と約束した。なぜなら、守りたい人が出来たから。

 わたしを守ってくれたあの人に、ついていきたかったから。

 そうして、わたしと彼は、何年にもわたって温かな絆を紡ぐことになったのだった。


 辺りは、暗闇に満ちた。

 遠くで蝉の鳴く声がする。思い出していたら、ここらにある木が全て、桜に見えた。ここは桜峠で、わたしはあの時のままのような。

 そんな甘い幻想。

 木と木の隙間から零れるような星空が覗く。それはまるでわたしに語りかけるように、煌めいていた。

 もしも、ここがあの時の桜峠で、穴にはまって動けないのだとしたら。願うことはただ一つ。

 わたしは、夕雨に手を差し伸べてもらいたい。

 記憶の中の灯の顔に夕雨が重なった。

 

 ――お前は、何者なんだ?


 哀しかった。夕雨にとって、わたしはものすごくあやふやで不確かな存在なのだと思ってしまった。

 もしもわたしが、未来から来たんじゃなければ、夕雨はわたしを好きになってくれたのかな?

 ふと指に収まる指輪を見つめた。

 もしもわたしが、ここで指輪に御前さんになれと願ったら御前さんになれるのだろうか。

 御前さんになったわたしを、夕雨は好きになってくれるのだろうか。

 そんなことばかり考えた。

 そして、わかってしまえば、自分の気持ちに気付いてしまえば後は簡単に吐露出来た。

 遠くで草ががさがさ鳴りだした。

 「え……」

 怖い。熊とかが出てきたらどうしよう。

 そうだ、こんなに遠くまで来てしまって、どこだかもわからなくて。

 わたしは馬鹿だ。なんだか薄ら寒くもなってきた。いくら夏だって、こんなところでうずくまっていれば寒い。

 がさがさと音が近づいてくる。

 やだ、こんなところで死にたくない。

 まだ何にも解決してないのに。灯がなんでここにいたのかもわからないのに。

 ぎゅっと目を閉じて縮こまった。

 「おい、何度逃げれば気が済むんだ」

 え?

 強く頭の中で夕雨を描いていたせいか、聞こえた声が幻聴かと思った。

 「夕雨……!」

 袴を着崩れさせて、息をつく夕雨を穴が開くほど見つめた。

 「なんでいつも逃げるんだよ、ったく。べつに、お前が嫌がるような意味で何者だ? って聞いたわけじゃない。だから、……!」

 話の途中を遮るように夕雨に抱きついた。

 温かい。

 近くにいる。ここまで来てくれた。そのことが何よりも嬉しかった。

 だから、わたしはあの時と同じようにこういった。

 「もうこんなことはしないよ。絶対しない」

 夕雨の心臓の鼓動が大きく高鳴った。さわさわと葉が擦れる音がする。

 涙が滲むのを夕雨の袴で拭いた。小さく笑う。

 夕雨がわたしの髪に触れるのを感じた。

 「当たり前だろ。いちいち探していられるかよ。……俺が絶対行かせない」

 髪がふわっと軽くなって、顔を離した。

 「シュシュ……」

 「ずっと俺が持ったままだったな。返す」

 不器用そうに、けれど大事そうに髪を結ってくれるのを黙って待っていた。

 ぎゅっと顔をうずめる。

 「かぐら、こんなことしていいのか。灯ってやつはどうするんだよ」

 「……いいの。ここに、来てくれたのが嬉しい……」

 それは本心から出た言葉だった。わたしはわがままだ。こうして、捕まえに来て欲しかったなんて、言えない。

 いつだって、肌から伝わる体温は優しくて、泣いてしまいそうになってしまうのだ。

 「これ以上……お前といたら、離したくなくなっちまう……俺に、優しくしないでくれよ……」

 気付くと、夕雨も泣きそうになっていた。

 「お前は……ちゃんと帰れよ。元の世界に……」

 「…………うん……」

 向こうの世界では、みんなが待ってる。帰らなきゃ行けない。

 けれど、気持ちはどんどん傾くばかりだった。

 音もなく滑り落ちた涙が葉に当たって、蒼時雨を作った。ずっとこのままがいい。それを口に出せるほど、子供じゃないと思いたかった。


          ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「ただいま」

 草まみれのワンピース姿で夕雨とともに帰還すると、蘭がおだやかに笑って出迎えた。

 「おかえり」

 戻ってくることがわかっていたようだった。

 洞窟の中がほんのり温かい。

 「遅くなって、ごめんなさい」

 「夕飯らしい夕飯は用意できてないんだ。ごめんね、これを食べて」

 差し出されたパンを受け取る。

 ここに来る前のわたしだったら考えられなかった。夕食がパン一つなんて。文句を垂れて、親に逆らって喧嘩をして。

 一口囓る。

 「美味しい」

 毛布を持って夕雨が洞窟の奥から出てきた。そっと肩に掛けていってくれる。何も言わずにそのまま洞窟を出て行った夕雨を見て蘭が微笑んだ。

 「前の夕雨はああじゃなかったな」

 「え?」

 あぐらをかいて座り込んだ蘭は、くつろぐように髪を解いた。なんとなくわたしも髪を解かなきゃならない気がしてシュシュを外す。

 目は自然と夕雨を追って洞窟の外へと向けられた。

 どうしてこうも、満天の星空が見えるのだろう。それだけで、無性に切なく胸が締め付けられた。

 「奴隷船の中にいた頃の夕雨は、当たり前だけどすごく荒れていたんだ。いや、あの船にいた人は皆、荒れていた。環境に対応できなかった人は死んでしまう、そんな世界だった。生きることに必死だったんだ」

 わたしは外に向けていた目を蘭に移した。

 「だからかな、オレらは大切な人を作らないことに慣れていたんだ。自分の命を守ることに精一杯だったから他人のことまで見ていられない。大切な人を作れば、その人がいなくなったときに哀しいだろう? いつ死ぬかわからない世界だ。だから、自分を守るためには孤独を守るしかなかった」

 心なしか蘭の瞳が潤んでいるようにも見えた。

 「かぐらは聞いていないよね? 逃げ出すとき……御前さんもいたんだ。彼女もまた奴隷船で乗り合わせた仲間だったんだよ。ただ、夕雨とオレは御前さんと違うルートで逃げたんだ。いや、はぐれてしまったに近い。だから、……御前さんは、夕雨が人を殺してまで逃げたこと、知らなかったんだ。確かに御前さんと夕雨は恋人同士だったけれど、そこにある気持ちはもっと複雑なものだったんじゃないかな、って思ってるんだ。御前さんが夕雨の前に現れなくなっても、夕雨がなにも言わなかったのはそういう理由があったからだと思う」

 指輪に目を落とした。

 わたしは夢でしか、御前さんという人に会ったことがない。ほっそりとして、雪のような印象の彼女。透き通るような声は何度も聞いた。

 そんな彼女も、奴隷船にいて生き残り、そして最後まで果敢に生きたのだろう。

 夕雨は、ずっと後悔していた。人を殺してしまったことを。ずっとずっと、人殺しと呼ばれることを、孤独な背中で訴えていた。

 「でも、夕雨は変わった。それは、かぐらが来てくれたからだよ。氷のようだった夕雨の心を溶かしてくれてありがとう」

 「わたしが変えたんじゃないよ。夕雨自身が気付いたから」

 蘭はちょっと驚いた顔をして

 「そうだね」

 と言った。

 でも、本当にそう思う。

 夕雨の心は、この麗らかな夏の日差しが溶かしたのだろう。

 温かい蘭の笑顔を見て、わたしはほっとした。

 「蘭っていい人だね」

 「よく言われる」

 いたずらっぽく答えたあと、髪の毛で顔を隠した。きっと、蘭だから夕雨は心を許せたのだろう。蘭の真っ直ぐな瞳はとても綺麗だった。

 「外に、星を見に行かない? かぐら」

 すくっと立ち上がった蘭に腕を掴まれて、顔を上げた。

 「三人で星を眺めた事ってないでしょ?」

 「あ……確かに」

 引っ張られるように立ち上がって、洞窟を出ると寂しげな夕雨の背中が見えた。

 夜空を見上げる時の夕雨の背中はいつも寂しげだ。哀愁を背中で感じるような、そんな背中を変えてあげたいと思った。

 もう、ここは奴隷船じゃないんだよ。

 誰も死なない。

 1人じゃないんだよ。

 そう言ってあげたかった。伝えてあげたかった。

 「夕雨」

 蘭が、優しい声色で夕雨を呼ぶ。

 夕雨が振り返ると、手を振って答えた。

 「オレらも見て良いか?」

 無言でふっと笑った夕雨の隣にわたしを真ん中にして座る。体育座りをして、三人で眺める夜空はどんな言葉でだって伝えられない。

 夜桜に似ていた。

 1人で見れば、その美しさに息をのみ、直視できないほどに胸が締め付けられる。切なくて、ひとりでに零れ出す涙を止めることは出来ないのに、大切な人と眺めれば、一変してその姿を変えてしまう景色。

 温かに包む、優しい思い出となる。

 「やっぱり、いいなあ」

 蘭が同じ事を思ったように隣でぼやいた。

 「いつだって、そこにあるんだもんね」

 夕雨も小さな声で、告げる。

 「このまま、この景色のまま、時間が止まればいいっていつも思う」

 どれくらい眺めただろう。

 ふと夕雨がポケットから、光るものを取りだした。

 「かぐら、これ。さっき、蘭には髪のゴムあげたんだけど……お前、チェーン欲しいって言ってたろ」

 そういえば、蘭が髪を結んでいたのを思い出した。

 なくしたといっていたゴムと、欲しいと言っていたチェーン。

 押しつけられるように渡されたチェーンは夜空から取ったような、星をコンセプトにしたネックレスだった。

 もしかして、わたしと夕雨が初めて夜に星を見ながらした「織り姫」の話を覚えていてくれたのだろうか。

 蘭がぷっと吹き出す。

 「夕雨は本当に素直じゃないね」

 「うるさいな」

 嬉しくて、すぐに出てくる涙を止められずに零しながら笑った。

 「ありがとう」

 指輪を通して首に掛ける。

 確かな重みが首に掛かって、きゅっと握りしめた。

 本当に、このまま時が止まれば良かった。


          ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「今日は、雨だね」

 昨日の晴天が嘘のように、しとしとと雨が降っていた。

 これでは、洞窟の外に出られそうもない。

 気が滅入るような雨音が、夕雨たちのため息を誘っているようだった。

 「暇だな」

 言いながら、桃色に熟れたスモモを丸かじりしている。夕雨にスモモという似合わない組み合わせに小さく吹き出しながら、わたしも一つだけもらった。

 甘酸っぱい味が口中に広がる。手のひらに収まるスモモは、かわいらしさを凝縮したようなうっすらとした恋心を思い出させた。

 雨音が早くなっていく。洞窟の中も、ぴちょんぴちょんと雫が滴って、首元に垂れたときには飛び上がって驚いてしまった。

 そんなとき。

 「ここだ!」

 洞窟のすぐ外から、人の声がした。

 びくんと心臓が飛び跳ねる。その拍子にスモモが転がっていって、出口付近で誰かの足によって踏みつぶされた。

 びしゃっと音が鳴る。日常が壊れ、崩れ去る音。

 本能でわたしは後ずさった。

 夕雨が背中で庇う。

 「久しぶりーん、元気だったかしら?」

 パアンと一発大きな銃声が鳴ったのは、それからすぐのことだった。

 「骸か……蘭っ」

 夕雨が叫ぶと同時に、洞窟の入り口から骸団と呼ばれる三人が姿を現す。

 メイ、アイ、ソラ――。

 蘭が風のように動くと、荷物から槍と拳銃を持ち、拳銃を夕雨に放った。

 間髪入れずに夕雨が構える。

 「そこから、入るな」

 何も出来ないわたしを蘭が引っ張り込んで、奥へと押し込めた。

 「動かないでね、大丈夫」

 「や、やだ……」

 前に襲われてからだいぶ経つせいで、この恐怖を忘れていた。いつかはこうなるとわかっていたのに、知らないふりをした。

 ガクガクと震える膝を叩いて、わたしは首元の指輪を握りしめた。

 願えば、また……。

 「待った、待った。今日の私らは連れがいるんですよォ。かぐらと言ったかな? 指輪を握りしめているキミですよォ。キミにぜひ見てもらいたいなァ」

 あの日のように気味の悪い薄笑いを浮かべたソラという男が、わたしを見て言った。

 まさに願おうとしていた口が止まる。

 「ほら、おーいでっ」

 メイが可愛らしい声で洞窟の外に声を掛けると、風が動いた。

 タンっと乾いた音を立てて、1人舞い降りてくる。

 「…………!」

 声にならない悲鳴をあげたわたしはそのまま硬直した。手が、足が、目が、口が、魔法に掛かったように止まる。

 降り立った青年は、わたしがもっともよく知る不敵な笑みを浮かべた後、口を開いた。

 「久しぶり、かぐら。元気だった?」

 「あ、あ、……灯ッ?」

 夕雨が構えていた銃から目を離して振り返った。

 すべてがスローモーションに見える中、凍りつく。

 骸団の真ん中で立っている青年は、灯に他ならなかった。




第4章「夕雨のため」

 「てめえが灯か、そうか。どんなやつかと思えばひでえツラだな」

 夕雨が拳銃を下ろして、忌々しげに笑った。

 蘭は真っ先にわたしの元へ戻ってきて、隣で守るかのように膝を突く。槍を構えることも忘れていなかった。

 「かぐら、やめてくれないか?」

 あの時と変わらない口調で、目尻を下げて優しい顔をした。

 「かぐらが何もしなければ……全てが掛かっているんだ。おれとかぐらの、全てが。おとなしく、夕雨くんと蘭くんさえ捕まってくれれば、全部救われる」

 放心状態だったわたしの鼓動が早まった。

 「かぐらは、その2人に情を感じる必要なんてないんだよ。やめると言ってくれれば、おれは何もしない」

 な、なにを言ってるの……?

 少しずつ、頭が働き出す。ずっと意味深長な笑いを浮かべていたソラでさえも、灯のことを訳がわからない怪物を見るような目で見出していた。

 「灯くん……? あたしたちに言った話と少し違う……どういうこと?」

 メイがそっと灯の肩を叩いた。

 アイも小さく灯を制す。

 「僕たちがやるべきことは、あの電話通りだろ? 灯、早まるな」

 それでも灯は表情を崩さない。

 さらさらと軽快そうに額に髪を揺らしながら、近づいてきた。

 夕雨が背中を強ばらせて、拳銃を構える。

 「ほら、かぐら。そっちにいる必要はないんだ」

 やっと、わかった。

 灯がなぜここにいるのかはわからないけど……わたしの知る灯じゃあないってことを。

 わたしの知る灯の皮を張り付けた……もはや別人だ。灯はそんなこと言わない。わたしが大切にしている人を、裏切れなんて言わない。

 わたしは偽物の灯を睨みつけた。

 「近づかないでよ。灯の口調で話さないでっ! わたしたちの邪魔をしないでッ!」

 蘭がすくっと立ち上がった。

 「大丈夫、あの男にやられたりなんかしないから、オレらは」

 にいっとたくましい笑顔を見せると、槍を灯に向けた。

 「まあまあ、かぐら。聞いてよ、おれがここにいる意味を知りたいだろう?」

 睨みつけたまま返事をせずにいると、灯は「聞きたい」と解釈したようで得意げに口を開いた。

 「おれもかぐらと同じで未来から来たんだよ、かぐらに呼ばれるようにね。最初に言うよ、この世界はループしている」

 「る、ループ?」

 メイたちがこそこそと騒ぎ始めた。

 「灯くん、何を言っているの?」

 「ああ、ごめん。君たちには何も言っていなかったからね、聞いてもらおう。おれからしてみればこの世界はもう体験しているんだよ。率直に言う。かぐらがこの世界に来た理由は察しているとおり、御前さんという1人の女性が原因だ」

 「姫が?」

 アイがぽつりと呟いた。

 完全に灯の独壇場となった洞窟に、声が反響する。夕雨は手を緩めて、睨みながら静かに聞いていた。

 雨はやみそうもない。スモモは濡れて、流れていった。

 「彼女が、ここにいる夕雨くんたちに殺されたからかぐらがこの世界に飛んだんだ」

 「……なぜ?」

 灯がもったいぶって間をあける。静まりかえった洞窟には、雨音しかしなかった。

 「かぐらが、夕雨くんと御前さんという人の、子孫だからだ」

 「……え?」

 灯が何を言っているのか理解に苦しんだ。言葉がすかすかと脳内を通り抜けるばかりで、単語の一つも入ってこない。

 夕雨が顔をしかめた。

 「そんな戯言……俺が信じると思ってんのか。だとしたら、おおばかものだな」

 そんな罵倒する声も気にとめず、灯は眉一つ動かさないで、穏やかに笑っていた。

 「わたしが、夕雨と御前さんの……」

 「そう。そして、毎回予定外の出来事が起こる。それは蘭くんの手により御前さんが葬られてしまうこと。それでは、かぐらは現世から消えてしまう。それを阻止するのは無理だと言っていい」

 「それじゃ、わたしがここに来る意味がないじゃない!」

 蘭が今にも動きそうなほど、空気が張りつめていた。灯が不審な動きを見せれば、蘭の槍によって、その息を止められるだろう。

 「いいや、だから来るんだ。御前さんが殺されるのを止めることはできない。それでも、かぐらが生きるためには……かぐらが、御前さんとして生きなかればならない」

 理解をさせる暇など与えないかのように、灯はたたみかけた。

 「かぐらがこの世界に来て、夕雨くんと結婚して子孫を作っていけばいい。御前さんの代わりとして生きるべくここに飛んだんだ。そして、かぐらがそれを拒否すれば、もろともかぐらは消える」

 夕雨が鋭く息をのんだ。

 わたしが、消える……?

 信じられないような話だ。笑い飛ばしてしまいたいくらいに馬鹿げてる。けれど、灯の自信に満ちた淡々とした口調がそれを許させなかった。

 「そして、それに平行しておれは、ここにいるソラとメイの子孫だ。……もう、わかっただろう? そのまま放っておけば、かぐらたちと骸団は争いあったのち、全滅する。お互いの手によって。そして、全滅をすればおれも、かぐらも生きてはいられない、ということだ」

 怖い形相をしていたソラですら、ぽかんとして灯を見た。

 「え? あたしとアイの……子孫? 未来? え?」

 メイが助けを求めるように見回すが、誰1人として理解できていない中、手を差し伸べられる人はどこにもいなかった。

 「今までは、戦いの中でかぐらはソラに殺された。逆恨みした夕雨くんに、おれが殺され、夕雨くんも……いや、やめよう。両者が殺し合いさえ止めればいいのに。何度この世界を繰り返しても、骸団はやっぱり夕雨たちを殺してしまうんだ」

 そうだろう? と言うように灯はアイたちを見た。その時の表情が一瞬切なげに歪む。

 すると、メイがすくっと出てきて、大きな声で言った。

 「ごめんね、あたしには馬鹿だから今の話がわからない。灯くんがあたしたちの子孫だっていうのを信じたうえで言うわ。――あたしは、よくわからない子孫なんかよりも、姫の仇のほうを取る! それで誰が死のうと関係ないわ、あたしたちは骸団で、悪を取り締まることこそが正義なんだもの」

 灯は、諦めたような顔をしてわたしに向き直った。

 「骸団はいつも通りなんだな。おれとしては、メイたちに死なれると困るわけだから、ここで取るべき行動は一つしかない。おれが生きるために、メイとアイを守り抜く。……それは、かぐらの敵であるということだ!」

 バッ、っと灯がわたしと同じ指輪を取りだした。夕雨が一番にそれに気付いて、銃を打ち抜く……が遅い。

 辺りが閃光を散らして、洞窟が吹き飛んだ。ものすごい熱風と、蒸気で前が見えなくなり、尻餅をつく。

 屋根を失った洞窟は、雨が容赦なく降り注いだ。

 カキイイン。

 甲高い音が夏の曇り空にこだます。

 煙の向こうでは、間髪入れず戦闘が始まっているようだった。

 わたしは安全なことを確認し、頭の中を整理する。

 

 わたしが未来から来たのは、御前さんが殺されたからということ。夕雨と御前さんの子孫であるわたしは、消えてしまうのを防ぐためにここへ飛ばされた。

 灯は、メイとソラの子孫であること。

 骸団と夕雨たちという二つの派閥があったとする。因縁関係で結ばれている二つは、戦闘を余儀なくするだろう。灯側からすれば、生きるためにはメイとソラを守らなければならない。

 そして、わたしは夕雨を失えば死ぬのだ。

 それも、ここで生きることが前提として。御前さんの代わりというのが大前提の中で、闘うのだ。灯が負ければ、ループは繰り返されるのだろう。


 なら、そうか。

 簡単な事じゃないか。

 わたしが生きるために、夕雨と蘭は闘ってくれているのだ。逃げずに。

 骸団が逃がしてくれれば誰も死なずに済む……というようなことを灯は言っていた。けれど、それは違う。御前さんが死に、因縁関係で結ばれた時点でこの復讐劇は止まることはないのだ。ひたすらに加速するだけ。

 それなら、わたしがすべき事は簡単だ。

 夕雨たちを守ればいい。真っ向から対立するしか道がないのだ。

 夢の中で御前さんが言っていたことがやっとわかった。

 「――いいよ、御前さんの代わりになる」

 パアアン、パアアンと向こうで銃声が上がった。わたしも闘おう。

 「僕たちは、当初の目的通り、夕雨を捕らえるぞ! 殺すな、生かしてもってこいとの命令だーッ」

 アイの声が響いた。

 指輪に願おうとしていた口が止まる。

 生かして、捕らえる? 彼らは、復讐が目的だったはずじゃあないのか?

 灯の話はそれが大前提だったはずだ。

 まだ、何か言い忘れたことがあるんじゃないか。ふと、そう思った。

 必死に頭を絞って考える。

 命令だという声が聞こえた。

 誰の? というのは置いておこう。多分、考えてもわからない。

 どういう? ということだ。

 夕雨単独で捕らえよ、というのは不思議な話。奴隷船の頃からずっと蘭と一緒にいたと言っていたし、それ以降は行動を共にしてきたと聞いた。

 それなら。

 夕雨個人で何かがあるとすれば、奴隷船に乗る前と言うことになる。

 前に話したときに、なんて言っていたっけ……? 夕雨が前に住んでいたときの話。


 ――俺が両親のいた部屋にはいると、ワインが転がってた。真っ白なドレスを赤く染めた母さんが……あれ? ワインなんて、なんで知ってるんだっけ。ドレスなんか家にあるはずがないのに……。俺を売らなきゃならないほど貧乏だったはずじゃないか……? 両親が死んで、誰が俺を売ったんだ……? おかしいな。


 ショックによる記憶障害ではないかとあの時は気にもとめなかった。けれど、今思えば不審な点がいっぱいある。

 夕雨の言うとおり貧乏だったとすれば、ワインやドレスという単語が出てくるのは変だ。

 両親を殺されていることだけが確かだけれど、何故殺されたか、やどういう風に、とは言わなかった。夕雨は知らないんじゃないだろうか。

 夕雨を売らなければならないほど、困っているようには聞こえない。しかも、両親が死んでいるのに、誰が夕雨を売るというのだ。

 ハッとした。

 夕雨は、その犯人に売られたという事になる。

 その犯人は……骸団と直通している?

 頭が冴えてきたとき、煙の向こうから走り寄る影が見えてきた。どうやら、これ以上考えている時間はないようだ。

 指輪を掲げた。

 「力をッ、下さい! 御前さん――!」

 かああっと強風が吹き、ワンピースが舞い上がった。こんな時なのに、パンツが見えるのを木にして押さえてしまう。

 前よりも早く風が引くと、手にはあの時と同じ大剣が握られていた。しかし、それ以外になにも起こらない。

 効力が、弱まってきてる?

 煙を抜けて来たのはソラだった。

 「やァ、こうして戦えるなんてねェ。さっきの新人が茶番を入れやがったがどうでもいい話だ。私は人を斬るのが趣味なんだからよォ」

 狂気を孕んだ歪さを纏ったソラが剣を抜いた。

 「どうやら、前ほどに効力はねえみたいじゃねえかァ」

 大剣を振り上げた。

 「うるさい! わたしが、戦力にならないと思ってるなら今すぐ正してあげるんだから!」

 カキイン、と頭上で鼓膜が破れるような甲高い音が貫く。

 強がっては見たものの、訓練も何もしていなかったわたしの剣は押されるばかりだ。

 煙が風で吹き飛んできた。

 向こうが見えてくる。自分の体より大きな槍を振り回す蘭。すばしっこく飛び上がる灯に何発か撃ちながらナイフを振る夕雨。

 わたしは押されっぱなしで、無力なままだった。

 どうして……、どうして……。わたしは勝てないの? ……夕雨を護れないの?

 揺らぐ意識に入り込むように、涼しげな声が響いた。

 

 ――私の能力が弱まっているのでございますね。これで、最後となりそうです。5回分持たなくてすいません。でも、どうか……。


 声と共に、棺の蓋が開く音が脳髄に響いた。苦しげな御前さんの表情が、今くっきりと脳内に浮かび上がる。


 「――薙げ!」

 

 手元が狂ったんじゃないかと思うくらい、加速した。ソラのわずかに驚いた顔が瞼に焼き付く。

 夕雨を助けたい!

 その一心で振り回すと、手がひんやりと冷たくなって大剣が軽くなった。大岩のように重たかった大剣が、半分ほどの軽さにまで変わっていく。

 ああ、そっか。この手は、御前さんの手だ。

 私たちは一つって前に言ったね。そりゃ、そうだ。あなたの子孫だったのだから。

 御前さんと重なった瞳から一筋、雨に混じって涙が落ちた。凄まじい轟音がしたあと、とても静かになる。

 「かぐら」

 名前を呼ばれて振り向くと、ぼろぼろの袴を着た夕雨が立っていた。

 珍しく、微笑んでいる。

 「もう、終わりだ」

 隣で蘭も微笑んだ。夕雨からもらっていたゴムが切れたようで、髪の毛が下りている。

 灯は、転がっていた。みんな、ぼろぼろだった。

 メイが震えながら、立ち上がる。

 「どうして……あたしたちは闘うんだろうね」

 迷うような揺れる瞳を、わたしは見つめ返した。

 「あなたたちの、姫はこんなこと、望んでないよ」

 狂気を纏っていたソラは、恨みがましくこちらに目を向けているが何も言わない。

 「灯、闘うの嫌いだったよね?」

 わたしが転がっていた灯の元へ足を運ぶと、灯が間の抜けた顔でうなずいた。

 安心する。

 こっちの方が、灯らしい。

 「灯の知らない世界になったかな?」

 灯はまた頷く。

 しかし、夏空は暗いままでなおさら涙を流すように滝のような雨を降らせた。

 髪の毛がじっとりと肌に張り付く。

 遠くで、蹄の音がした。

 「…………!」

 灯が、目を見開いて動きを止める。

 「かぐら……夕雨を連れて、逃げろ」

 「え?」

 「早く!」

 蹄の音が近づいてきていた。黒雲は、雨脚を強めて、不吉な音を立てる。

 灯はその音におびえるようにわたしを押し出した。それを見てソラがしぶしぶと言ったように口を開いた。

 「早く逃げた方がいいよォ。夕雨と蘭を連れて行くんだァ、この音が近づく前にィ」

 「心外だけど、ソラがそう言うなら、僕たちが少しは食い止められる」

 よろよろと立ち上がったアイとメイが壊れた洞窟の向こうを顎で煽った。

 夕雨が横たわる灯の横にひざまずいて聞いた。

 「どういうことだ? まだ、何かあるんだな。どうして、いきなり戦意をなくした?」

 灯が血の混じったつばを吐いた。ケホケホとむせこむ灯の背中をそっとさする。灯を打ち付けるように降る雨から守るように。

 「蹄の音が聞こえた時点で、俺らは裏切られたんだよ。もう逆らえないさ。今までとは違う世界にはなったけど、俺の知らない悲劇が始まるんだ。だから、早い行け!」

 大勢の人々が来る気配がした。もうすぐそこまで迫っているようだ。ガヤガヤと雑音が森の奥から聞こえてきた。

 「かぐら、どうする?」

 蘭の切羽詰まったような声が背中に降りかかった。夕雨も立ち上がる。

 どうするも何も、わたしは灯に「逃げろ」と言われた時点で決まっていた。

 立ち去ろうとしていた夕雨たちの後ろ姿に叫ぶ。

 「行かない! わたしは、夕雨たちの味方だけれど、灯の味方でもあるの!」

 灯が息をのんだ。雨が顔に当たって弾ける。

 夕雨たちの袴は雨を拭くんで重そうだった。

 「ばか、かぐら、行けよ! どうせ、また繰り返すんだ。お前らの記憶にないだけで、全部おれは知ってるんだよ!」

 わたしは灯を起こした。諦めきった目に、雨だか涙だかわからない雫が溜まっていく。

 「それでも、わたしにとってはこの世界は一つなんだよ。もうこのわたしは二度といないんだよ! 次に会うわたしは違うのだから、わたしは今を大事にしたい!」

 夕雨が足を止めて振り返った。

 雨に濡れたその顔は、さも面白そうに笑っている。

 「のった、やろう。蘭、かぐらの言うとおりだ!」

 蘭が槍を空中で一回転させる。にやっと不敵に微笑むと、ソラに手を差し伸べた。

 「悪いな、今までのこと」

 ソラがふっと困ったように息を吐いて、蘭の手をしっかりと握った。

 「これでチャラにはできないよォ?」

 「わかってる」

 蹄の音からは逃げられそうもないほど近くなってきていた。雨もやみそうにない。バケツをひっくり返したような雨が全てを洗い流すように、降り注いだ。

 やがて、敵の全貌が見えてくる。

 そして、その全貌が見えきったとき、わたしたちは言葉を失った。

 「……なぜ、王族が……?」

 夕雨が零れる吐息と共に呟く。灯は全てわかっていたようだ。

 ちっと舌打ちすると剣を掲げた。

 雨が降る中、傘を差して悠々と馬にまたがる人物――


 ――逃亡者を捜すべく、海を渡って王様が訪れました。


 思い出した。

 奈々さんのところで見た新聞記事である。

 「はあ、彼ら――骸団も所詮は使えない犬共だったという訳か、この惨状は。まあ、良い。アル、ここにいるものは全て殺してしまって構わないよ。麗以外はね」

 一際高いところで、こんな時にもかかわらずワインを片手に持った、男がにやにやと笑いながら傍らの武装していて顔が見えない男性に言った。

 アル、というのが彼の名前なのだろう。

 いや、そこじゃない。問題はもっと違う。

 逃亡者を捜すべく――それは、今までの流れから察するに夕雨なのだ。

 奴隷船から、と考えるのが妥当だろう。海を渡って来たというのは、夕雨がもともといたところからということだろうか……けれど、そしたらつまり――

 「ああ、麗ではないんだった。今は、ただの少年、夕雨、だったかな」

 「だ、誰よっ! あんた誰! 何しに来たのっ!」

 焦燥感に駆られて叫んだ。雨水が額を伝って顎へと伝う。

 灯が代わりにぽつりと囁いた。

 「この前、骸に電話が来たんだ。夕雨くんを捕らえろ、そしたら褒美をやるって」

 「はっはっはっ! そんなことを素直に信じていたのか。お前らもろとも塵になってもらうよ。はっはっはっ」

 つまり、ここにいる全員は、この男の目的を知らないと言うことだ。

 西洋の格好をした騎士たちが、わたしの大剣よりも大きな剣と盾を持ちながら静かに息を潜めていた。

 誰かが歯ぎしりをする音が聞こえる。


 「私はルイと申す。この度は、そこにいる少年夕雨……いや、麗王子を捕らえるために参った!」


 なん、だって?

王様、であろう中心に座っていた男が、舌なめずりするようにワインを啜った。

「……は?」

夕雨があまりの話の飛びように、惚けた顔で立ちつくす。

いや、きっとこの場にいる誰もが同じような顔で立っていたことだろう。

夕雨が、王子?

いや、麗王子?

「わからんようだな、当たり前か。私が、麗の記憶をなくさせたのだからな」

 何を、言っているんだ?

 雨の音が遠ざかった。隣で灯がごくりとつばを飲み込む。

 この人が、夕雨の記憶をなくさせた?

 

 ――俺が両親のいた部屋にはいると、ワインが転がってた。真っ白なドレスを赤く染めた母さんが……あれ? ワインなんて、なんで知ってるんだっけ。ドレスなんか家にあるはずがないのに……。俺を売らなきゃならないほど貧乏だったはずじゃないか……? 両親が死んで、誰が俺を売ったんだ……? おかしいな。


 全てが、糸をほぐすようにするすると繋がった。

 わたしは一も二もなく大剣を掲げる。

 そして、わたしが叫ぶよりも先に夕雨が糾弾した。

 「お前が……俺の両親を殺したのかッッ!」

 誰も何も言わなかった。ただ静かに蘭が顔をしかめていた。ずっと夕雨の傍にいた蘭だからこそ、わかることがあったのかもしれない。

 自分が傷つけられたような顔で、俯いていた。

 「そうさ、私が殺したんだ。私の兄貴がお前の父だ。そして、私は自分の兄貴を殺したんだよ! この手で! ワインに毒を入れて、飲ませるだけで良かった。それで私は王になれるはずだった! なのに、それを知った王妃様も自ら毒を飲んで兄貴を追ったんだ! 私は王になったが、王妃が死んだことを隠さなければならなかった。しかし!」

 ワインを憎々しげに煽った王は、気持ちが高ぶっているようでひどく大きな声で、わたしたちを責めていった。

 「お前が、見ていたんだ! 影から、こっそりと! だから、記憶をなくさせる副作用のある薬を飲まして、奴隷として売り飛ばしたんだっ! それなのに、なんだって? 逃げ出して今は逃亡生活を送っている? それでは、私の立場が危ないんだ! うっかりでも記憶を戻してしまえば終わりだ! お前が逃げさえしなければ命だけは助けてやったものを……愚か者め! ここで、朽ちろ! 死ねぇっ!」

 体中が煮え立った。

 このときのわたしは、全てを理解しきれていなかったかもしれない。けれど、それはもはや反射的だった。

 隣で唇を噛みしめて立っている夕雨を見て、わたしは高みの見物とばかりにのけぞっている王の元へと掛けだした。

 「最っっ低ねッ!!! あんたが死ねばいいっ!」

 「……あ、ばかっ!」

 灯が止めようと手を出すが一歩遅いわたしは、王に向かってつっこんだ。

 周りの武装した家来たちが一斉に動き出す。

 「おい、かぐらっ!」

 夕雨の声がしても振り向かずに、大剣を振り回した。

 カキイインガキイイン! カアン、パアン! 空気を切り裂くような殺意を撒きながらこの剣を振るうのは初めてだった。

 ソラや、灯、夕雨たちも動き出す。

 うわああああ! と獣のように吠えた家来の兵士たちがつっこんでくるのを頑張って食い止める。それでも、数で負けているのに、絶望的だった。

 向こうからは木の陰や岩の後ろからぞくぞくと兵士たちが増えてくるのに対し、こちらは骸団の、ソラ、アイ、メイ、灯……夕雨に蘭、わたしのみだ。

 高みの見物でにやにやと笑う王には届かず、ぞろぞろと出てくる兵士によって押しやられる。

 四面楚歌という言葉を体感しているに足る戦だった。

 「かぐらっ! 指輪を使え!」

 灯の声が後ろの方から聞こえた。

 「おれのはもう5回使っちゃったんだ! かぐらしかいない!」

 首に下げていた指輪に思わず片手で触れると、バランスを崩し倒れ込む。

 「あっ!」

 押し寄せる兵士がすばやく斬りかかってくるのを避けきれずに、もうダメかと力を抜くと、横から2人の人物が飛び出してきた。

 「夕雨、蘭!」

 「ばか、早く立て! なんでもいい! 生き抜くぞ!」

 さっきの話がなかったかのように夕雨は剣を振るう。どうやら、倒した兵士から奪い取ったらしかった。

 「夕雨は、混乱してないのっ? 王子だったんでしょっ?」

 雨に濡れた顔で肩越しに少しだけ振り返った。その瞳には、迷いのない決意の色が滲んでいてわたしはハッと息をのむ。

 「あのなあ、俺がそんなもんで揺れるような奴だと思うなよっ! あいつさえ、あいつさえいなければ俺は人殺しにならずにすんだんだっ! それに俺は夕雨だ、麗なんて名前じゃねえんだよ!」

 さっと前を向くと振り返らずに進んでしまう。蘭は何も言わずに歯を食いしばっているのがわかる顔で突き進んでいった。

 わたしは指輪を握りしめたまま動けない。

 もう、無理なんだよ。

 灯、わたしもさっきので使い果たしてしまったんだよ。

 無駄な力を御前さんと振るってしまったんだよ。

 見えてきた未来が果てもなく暗いことに気付いてわたしは、自然に涙が零れてきた。

 想像していたよりもずっとずっと暗い。

 守りたい人が出来たのに。このままじゃ、誰も守れずに全滅してしまう。

 わたしたちのために今だけ仲間になってくれた骸団だって、もうぼろぼろなのに。

 灯は肩で息をして、それでも剣を振るっているのに。

 灯はここで死んだら、やり直すのだと言った。灯には記憶が受け継がれるらしいけれど、わたしにはそんな記憶なかった。

 わたしには、一度きりの人生なんだ。

 視界が涙で見えなくなる。

 1人、飛び込んできた兵士を剣でなぎ払って斬った。

 わたしだって、人を殺している。今だけで、もうずいぶん斬った。

 斬っても斬っても、兵士たちは向かってくる。わたしの腕ももう思うように上がってはくれない。それなのに、まだ敵は何百といるのだ。

 負け戦だ。

 「……これで、死ぬのかな」

 夕雨がくれたネックレスを握りしめて、嗚咽を漏らした。

 なんて残酷なんだろう。

 こんな世界にわたしを落としておいて。灯以外の人を好きにさせておいて。それで、やっぱりダメだったねごめん、で死なせるなんて。

 夕雨を失いたくないのに。

 「やああっ!」

 振るう。

 渾身の力を込めて、斬る。殺す。

 機械的に繰り返すだけで、もうわからなかった。

 一番苦しいのは、夕雨のはずなのに。どうして、こんなに涙が止まらないんだろう。

 ワンピースが雨を含んで、体に張り付いた。あからさまにそういうところに目を向ける兵士を斬り殺す。返り血でワンピースが真っ赤に染まった。

 頬に跳ねる。

 殺したくない。

 でも、もっと夕雨には死んで欲しくない。

 すっと視線を高みの見物中の王にそらした。笑っているかと思って見たので、その表情にぞっとする。

 彼は笑っても怒ってもいなかった。感情の抜け落ちた顔でだらしなく口角を上げていた。

 そして、その横に1人の兵士が弓矢を構えて立っている。

 誰を狙っているの?

 誰も、そのことに気付いていない。わたしはハッとして慌ててその矢の先に目を追った。

 「あ、あっ! 夕雨ッッッッ!!!」

 矢が構えられる。

 兵士たちが邪魔で動けない。声も届かない。

 兵士が弓を引く。

 わたしは重たかった大剣を捨てた。

 兵士たちが突く剣を避けながら駆け出す。

 「あァッ!」

 敵の1人が繰り出した切っ先が頬と横腹を浅く割いた。

 それでも足を止める時間がない。

 敵の剣を素手で掴んで避けながら、血まみれのまま飛び出した。

 「夕雨!」

 矢が、放たれる。

 スローモーションで迫る矢を目で追いながら、最後の力を振り絞って両手を広げた。

 「かぐらっ?」

 夕雨をはじき飛ばした、刹那左胸に鈍い衝動が走った。

 口から、大量の血が零れる。

 「か、かぐらっ!」

 夕雨の補佐をしていた灯と蘭が駆け寄ってきた。その間にも迫る兵士をメイとソラ、アイが迎え討つ。

 「おい、かぐらっ!」

 残念だけど、ここまでのようだった。

 もう、視界が霞んで見えなくなってきているのだ。雨で冷えた体から、鮮血が吹き出しているのを他人事のように感じる。

 「かぐらっ、ばか、何やって……かぐら!」

 夕雨に抱きかかえられているのを肌で感じて薄く微笑む。

 その聡明な両目からはぽたぽたと雨ではない滴がしたたっていた。不思議と、その滴は頬に当たっても冷たく感じない。むしろ、温かかった。温かくて優しい味がした。

 「ゆ…………う? よか……た、生き…………てる」

 霞む視界の中に間近で夕雨を感じて、言葉を必死で紡いだ。

 「生きてる、生きてるよ。かぐらのおかげで生きてる……! 死ぬな、死ぬな、死ぬなあああああ! かぐらに俺教えられたんだ! いつかこんな世界で自由に生きたいって! けど、その隣にはお前が必要なんだっ!」

 いつもどこか寂しそうで、落ち着いていた夕雨が珍しく取り乱しているのを見て、わたしは微笑んだ。いや、実際には口が動いたかどうかもわからない。

 「夕雨っ、どうしよう、かぐらの……血が止まらないっ!」

 蘭も泣きそうな声で叫ぶ。

 灯のすすり泣きが耳元で聞こえた気がして、言った。

 「あか、し……あの、時…………助けてくれ……て、あ、あり……がと」

 「かぐらっ、かぐらっ!」

 「ら…………ん、いば……しょ、を……与えて……くれ、……あり、が……」

 どんなに口を動かそうとしても、もう動かなかった。視界も真っ暗になって何も見えない。

 怖い、とは思わなかった。ただ、護れて良かった。

 

 ――ありがとうございました、かぐら、ありがとう。悲劇は、閉じられます。あなたの命を燃やしてまでの働き……今から私が、あなたの体を借りさせて頂きます。ほんの少々の間、目を閉じていて下さい。

 

 神の声かと思った。

 違う、御前さんだ。

 指輪がふわりと浮き上がった。

 目を閉じたまま、手が勝手に動いていく。

 「終焉の、舞」

 体が、ふわりと浮き上がって空に近くなった。

 夕雨の腕からすうっと消えるように離れていく。

 いつの間にか雨がやんでいた。

 兵士たちのどよめく声。争っていたメイたちも剣を止めて、空を見上げた。

 一際高いところにいた王の元へと体が動く。矢が刺さったままなのに、今だけは痛くなかった。

 「あ、アル……これは、何なのだっ?」

 王が慌てて立ち上がり、ワインがグラスごと落ちて割れた。

 カシャン、と壊れるグラスの音すらも心地よい風の音のようだった。

 王の喉元に切っ先を突きつける。

 「我は、かぐらなり。そなたは償わなければならぬ。……夕雨に謝り、今すぐに退散さえ」

 声はわたしではなかった。体を預けてしまっているようで、楽だった。かぐらという肉体のベッドにうずくまっているだけだ。御前さんと交代して、行っている。

 だから、痛くもなければ視界も霞んで何も見えないのだろう。

 「わ、わ、わ、私が帰れと言うのか! この無礼者を斬れ!」

 震えながらも抗う王にもう一歩詰め寄った。

 兵士は、狂おしくも美しいこの光景にみとれて誰1人として動かない。

 「そうか……それなら今、この場で死んでもらおう」

 透明で澄んだ声が、憎悪に満ちた。

 その時、真っ白いベッドにうずくまっていたわたしは我に返る。

 目を覚ました。

 ダメ、御前さん!

 胸に痛みが戻る。記憶が飛ぶような痛みにこらえて、体を奪還した。 

 「なんで……殺したの? ……殺してやる。……ダメ」

 言葉に二つの人格と声色が混じる。

 御前さんの殺気にやられそうになりながら、王の首を裂く寸前の刀を必死で食い止めた。

 

御前さん、お願い、留まって!

 

――生かしてはなりません……この、男は……夕雨を傷つけたのです……。

 

 そうだけど、復讐を望んでないはずなの! 夕雨は、人殺しになったことをずっと後悔していた!


 ――そんなはず……夕雨は、……。


 御前さんの意識が揺れて混濁した。

 わたしはやっと気付く。御前さんも、また夕雨を好きな人の1人なのだと。わたしと変わらない女の子であるのだと。

 「あなたを、殺しはしない。……ただ、詫びなさい。夕雨に、ここにいる全ての人に!」

 黙り込んだ御前さんを押し込めるようにわたしは精一杯言った。

 声が、戻ってくる。また、闇の中に沈むのかな……とぎれそうな意識の回線を必死に繋いで絞り出した。

 「わ、わ、わかった、わかった! 詫びるから、命だけ……!」

 王が膝をガクガクさせながら口を動かす。眉は垂れ下がり、無様な表情で土下座をした。

 「お、お詫び……申すすすっ!」

 「このまま、帰るか?」

 「かかか、帰りま、ますす、帰り、ます」

 王は本当に命が惜しいようで、頭を地面にこすりつけながら言った。

 あざ笑うように上げていた口角は、見る影もなく、鼻水やら涙やらを流して詫びていた。

 本心かどうかはわからない。

 けど、

 「いいよ、もう。かぐらっ、戻ってきてくれ……!」

 後ろで千切れんばかりに叫ぶ夕雨の姿が見えたとき、ふっと浮いていた体が傾いた。

 ひんやりとしていた腕に感覚がなくなる。視界がぶれる。痛みと重さがのしかかってきて、宙に浮いていた体は叩きつけられるように地面に落ちようとしていた。

 「かぐら!」

 叫んだのは、灯か夕雨のどちらだったのだろう。もう、よく聞こえなかった。

 そうしてわたしは、微笑みながら目を閉じた。


 


エピローグ「もう一度……」

 「かぐら、ありがとう」

 耳元で、声が聞こえた。目の前は、純白だった。何も見えない。

 ああ、死んだのかな……。痛みがなくなっていたので、そう察した。

 「御前さん、でしょ? わたし、死んだの?」

 いつも通り冷たい手で、頬を撫でられたようだ。表情を和らげる。

 「……はい。死んだ、状態に近いのでしょう。本来なら、ですけれど」

 頭上に降りかかる優しい声。

 「本来なら?」

 そっと、顎に手を添えられたようだった。御前さんの吐息が掛かる。

 「ええ。最後に、力を使ったでしょう? 私も申したとおり、一つ前の時の願いで指輪の効力はきれていたのです。私はかぐらに一つ、お詫びをしなければなりません」

 ぼんやりとしていた思考が、すっと霧が晴れるように自由になってきた。

 「私がかぐらの体を乗っ取ってしまったのです。実は、一度乗っ取ってしまった体からはもう出ることが出来ません。今も私が乗っ取ってしまっているのです。けれど、一つだけ、かぐらにこの体を返す方法があります」

 御前さんがすっと息をのむ音が聞こえた。

 「かぐらが、死ななければよいのです。かぐらが、生き返り指輪を返却すれば、指輪を使っていたときの前の状態の体に戻れます。すると、私も自分の体に戻り、あの棺が天界まで運んでくれるでしょう」

 どきん、と胸が高鳴った。

 御前さんの声に希望が混じる。

 「指輪を使っていたときは、私はかぐらに力を貸していました。ですから、かぐら自身というわけではありません。指輪さえ返却すれば、指輪を持つ前の体の状態に戻れる、ということです。……かぐらなら、これがどういう意味か、わかりますね?」

 笑いを含んだようだった。

 わたしも、思わず微笑む。

 「御前さん、いたずらが過ぎます。もちろんわからない訳がないでしょ」

 「良かった。最後に、かぐらが私の過ちを教えてくれた……そのお礼としておきましょう」

 心なしか、出会った頃よりもくだけた口調である気がして、嬉しくなった。

 御前さんがそっとわたしの頭を持ち上げる。

 そして、目を閉じたままのわたしに、そうっと口づけをした。

 さあああっとやわらかな風が吹いて、目を覚ました。

 「ごめんなさいね、王子様でなくて」

 いたずらっぽい笑みを浮かべた御前さんがにっこりと笑って手を差し伸べる。

 棺の中で眠っている御前さんしか見たことがなかっただけに、わたしは息をのんだ。

 「言ったでしょう? 私は、あなたにそっくりだって」

 おかしくて、ぷっと吹き出した。

 なかなかのユーモアに顔がほころぶ。

 「かぐら、どちらの世界に戻りたいですか?」

 御前さんが目尻を下げて優しく微笑んだ。真っ白い空間の中、時空を超えて出会ったわたしたちはきっと似ているのだ。本当に。

 だから、わたしの答えがわからないわけがない。

 わたしは首元から指輪を外しながら、宣言した。

 「夕雨の元で、夕雨の隣で笑っていられる世界で、生きたいです」

 胸が轟いた。

 伝えたい。早く、戻りたい。逢いたい。

 こんなにも多くの気持ちを抱えてここに来てしまったことを、初めて後悔した。

 けれど、それももうすぐ叶う。

 首元で輝くあの日の星屑はそのままに、指輪だけをそうっと御前さんの白い手のひらにのせた。

 「かぐらに出会えて、とても嬉しかった」

 「指輪の意味、ちゃんと受け取りました」

 御前から、あなたへ。

 届きました。

 そういう意味を込めて微笑むと、風に倒れるように御前さんの姿がかき消えていった。

 ああ、これで戻れる。

 逢えたら、真っ先に伝えなきゃ。

 わたしは両手を広げて、決意を胸に後ろに倒れた。

 白い霧を突き抜けて、風をはらんだワンピースがふわりと捲り上がる。

 それを押さえながら、地上の草原を眺めた。

 知ってる。

 この感覚。

 落ちていく、落ちていく。

 けど、もう怖くない。

 わたしは遠くなる真っ青な空と白い雲に踵を返して、一本の木を探した。

 凛として立っている木は、すぐに見つけられる。

 ああ、夏の蒼時雨が目に眩しく光っている。

なんて綺麗なんだろう。たくさん泣いたけど、その先に見えた光がこんなに美しいなんて。

 そして、その木の傍に両手を広げて立っている少年たち。

 メイが、アイが、ソラが、蘭が、――夕雨が。

 今度こそ、受け止めてよね。

 一気に加速する落下に目を閉じて、叫んだ。

 一番聞こえて欲しい人に、聞こえるように。

 今度こそ、もう一度……

 「夕雨、愛してる! どこまでも、一緒に行こう!」

 幸せそうに微笑む少年が、落ちていく少女を抱きとめるのは、それからすぐのことだった。


ここでは初投稿となります花水です。

ちなみに、全体では二作目です。

中学生という未熟者ではありますが、宜しくお願いします。

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