虚無の瞳
虚無の瞳
「『グロウス』!」
慣れない詠唱破棄に、私のマナは一気に吸い上げられる。ソルに対して身体強化の魔法を使ったのだ。だが。
ぐちゃ。
嫌な音と共に、吹き飛ぶソル。
オーガの投げた廃材をまともに喰らい、私たちの傍に吹き飛んでくると、そのまま地面にたたきつけられる。身体強化の魔法は間に合ったはずなのに、左腕はあらぬ方向へ曲がり、口から血を流し、白目を剥いていた。
「な、あ、……あ……」
アニスは呆けたように、青ざめた顔でソルを見下ろす。
こいつのせいで、オーガの注意をこちらに引き付けてしまった。
アニスはほんの一瞬。建物の陰から様子を見ただけだった。だが、どんなに上手く隠れているつもりでいても、見つかれば意味はない。
今すぐに駆け寄ってぶん殴りたい衝動を抑えて、私はレリィとアニスをかばうようにオーガの前に立ち塞がる。
「いやあああああ! ソルさん! ソルさああん!」
「レリィ! 泣き喚いてる暇があるならさっさと治癒魔法使いなさい! アニスはもっと下がって! 死にたいの!?」
怒りに身を任せて私は怒鳴り散らす。
くそ。くそ。くそ。
だからやめようと言ったのに。それなのにアニスがどうしても見に行きたいなんて言うから。
違う、そんなことを考えている場合じゃない。今できることは、ソルの代わりに私がオーガの注意を引いて、レリィにソルの治療をさせること。
魔物なんて相手にしたことはない。でも、関係ない。
こいつは。
このオーガは、私の居場所を奪おうとした。
だったら、消してやるだけだ。あの頃のように。
オーガがこちらに接近してくる中、沸騰しそうな思考を抑え、私は意識を集中させる。
自分の意識の底から、内に眠る力に呼びかけるように。掴むように。
瞬間、私の手に小さな杖が出現、それを強く握り、オーガに向ける。
「消えろ……!」
かつてのように、オーガの存在を消し去るべく、意識を集中させる。その瞬間。
「ッ痛!?」
痛みが脳を駆け抜ける。危うく杖を取りこぼしそうになるが、何とか意識をとどめ、しっかりと握りなおす。
「ウル!」
レリィの悲鳴にも似た叫び。とっさに私は杖を構えて再び詠唱を破棄する。
「『エルブラスト』!」
とっさに風の強化魔法で、オーガの攻撃を逸らす。突然の風撃に怯み、オーガはたたらを踏む。
今だ。
詠唱破棄で余分なマナを消費していた。疲労を感じてはいたが、やるなら今しかないと判断し、再びカルマを発動させるべく意識を集中させる。
だが。
「ッぎィ!?」
さっきと同じか、それよりも強い痛みを感じ、私はしゃがみこむ。
なんで、急に。
カルマが使えなくなった?
疑問が浮かぶが、今はそれどころじゃない。多少態勢を崩してはいるが、オーガはダメージを受けている様子はない。
理由はわからないが、カルマが使えないならほかの方法で対応するしかない。
「『地の精、水の精よ、我らに仇為す敵から、野蛮なる者から、この身を守りたまえ』……」
地属性と水属性のエレメント。自分のマナを触媒にそれらを操り、術式を構築する。魔法陣があれば完璧だったのだが、文句は言っていられない。正確性は落ちるが、時間稼ぎには十分だ。
「『エルウォール』!」
地と水の混成防御魔法を展開する。自分とオーガの間で地面が隆起し、大きな壁のような隔たりを作る。あの怪力ならこともなく破壊する恐れがあるが、それでも何もないよりはマシ。言うなれば、コレは使い捨ての盾のようなものだ。あいつの攻撃を、一手稼げる。
「レリィ! 下がって!」
「うう、ううぅ……」
レリィは泣きながらソルに治癒魔法を施している。しかしそれは練度も低く、集中しきれていないのか、彼女の手から放たれる光は途切れがちで、弱弱しい。今にも消えてしまいそうだ。
突如、轟音が響き、壁はクッキーみたいに簡単に崩壊する。
土煙の向こう、オーガが拳を突き出したままの姿勢で静止していた。
不意に、その顔が笑ったような気がした。
一気に寒気が走る。
こいつは。この魔物もどきは。
激情によって暴れているんじゃない。
『ただ破壊を愉しんでいる』
愉しんでいるのだ。
愉快そうに牙を剥きだしにして、口角を吊り上げている。
「狂ってるわよ……全く……」
私のつぶやきなどまったく意に介さぬようで、オーガはそのまま私たちに歩み寄る。
「抜剣術『一閃』!」
突如そんな声が響き、鬼の態勢が乱れる。
「抜剣術『追旋』!」
さらに衝撃が走り、よろめく鬼。背後からの奇襲によって、完全に不意を突かれた形だったため、オーガの体に傷がつく。
「まだだ!」
煙の中から目にもとまらぬ速度で剣が突き出される。しかし、オーガも黙っていなかった。
「ゴアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
咆哮を放ち、振り向きざまに拳を薙ぎ払う。その動作に、剣を突き出した影の主は慌ててしゃがみ、それをよける。
オーガの回転攻撃によって払われる土煙。その中から出てきたのは、軽鎧を身にまとった少年。
「ウィリアム!?」
「はや、ま、マジかこいつ!?」
オーガはウィリアムに意識を向けると、そのまま彼を叩き潰そうと拳を振り下ろす。
「『グラン』!」
とっさに地属性の魔法を唱え、ウィリアムを足場ごとその場から吹き飛ばす。
弾ける地面に押されて宙に飛ばされながら、ウィリアムは空中で態勢を立て直すと、転がりながら衝撃を殺して再び構える。
「……そこにいるのは、兄ちゃん、か?」
ウィリアムは愕然とした表情でソルを見つめる。
「……ウィル。今はあの化け物に集中して。じゃないとレリィやアニスを守れない」
「……」
「ぼうっとしてんじゃないわよ! 来るわ!」
新たな獲物が増えたことに歓喜するように破顔する鬼を見て、冷や汗を流す。
まともにやりあって勝てる相手じゃない。それでも、何とかして時間を稼いで……。
稼いで、どうする?
ソルが復活したら、また彼に戦わせるのか?
そもそも、なんで私達がこんなことをしなくてはいけないのか。
やめよう。逃げよう。
アニスの知り合いが生きているかもしれない?
知ったことじゃない。それで大切な人たちを失うくらいなら、そんなものどうだっていい。
ソルをここで失うわけにはいかない。私達には。そして、いずれすべての奴隷たちには、彼のような。太陽が必要なんだ。
ソルを馬車に避難させるよう、レリィに指示を出そうとして、私は振り返る。
「ソ、ソルさん……!?」
あり得なかった。あるはずない。あんなに大怪我してるんだから。
レリィもこの状況に混乱していた。明らかに異常な事態に。
「あの……ソルさん?」
もう一度レリィが呼びかける。しかし、それは何も反応を返さない。
「……ル…………」
譫言のように何かを呟き続ける。そして、不意に笑い出す。
何を捉えるでもない、何も感じていない、濁った瞳で。
ソル・ブライトは狂ったように、嗤い続けた。