レリィ・ウォーカー 七
レリィ・ウォーカー 七
ウルに、自分で調べてみたほうが良いよと言われ、私は部屋に閉じこもって辞書を見つめる。とは言ったものの、さっきから視界が滲み、先を読むことができない。
辞書の中には、実にあっさりと簡潔に、ガルドさんの言っていた言葉の意味が載っていた。しかしそっけないが故に、ひどく頭の中で鮮明に思い出される記憶。
娼館と、男娼館。意味は、ほぼ一緒。その記述だけで、私には十分だった。
私はひたすらに涙を流す。なんてひどいことをしてしまったんだろう。ソルさんも、私と同じだったのに。
男だからわかるはずがないと決めつけて、同じ痛みを知る人を、私はさらに傷つけた。知らなかったから、で済む話ではない。
唯一、彼だけは私の痛みを誰よりも理解してくれていたのに。誰よりも私を尊重してくれていたはずなのに。なのに私は、彼を拒絶した。勝手な思い込みと、自分しか理解できないという傲慢な態度で、彼を……。
後悔した。悔やんで悔やんで、死にたいほどに。
自分の恩人で。同じ傷を負っていて。誰よりも優しくて、誰よりも大切にしてくれた人に、自分はなんてことをしてしまったんだろう。
自分が逆の立場だったらどうだっただろうか。ソルさんみたいに優しく出来ただろうか。きっと、できない。ガルドさんに諭されるまで、自分の事しか考えていなかった私には、ソルさんのようには振るまえなかっただろう。
許してもらえるだろうか。いや、自分なら許さないかもしれない。
許されたい。でも。
なんて言えばいいんだろうか。
後悔と、申し訳なさと、自分への憤りとが、ぐちゃぐちゃに頭の中をかき回す。何も考えられない。ただただ、すすり泣いていることしかできない。
「もうやだよ……どうしてこんな……」
どうしてこんなに、自分は弱いのか。どうしてうまく伝えられないのか。どうして、どうして、どうして……。
「もうやだ……だれか助けて……わけわかんないよ……誰か……」
それはただの甘えだった。わかっていた。これは私の中の弱さの問題。他人に何とかしてもらおうなど、なんと愚かしいことだろう。
怠け者だ。卑怯者だ。ずるい、気持ち悪い、女々しい。弱い部分が浮き彫りになって、こんなの嫌だと駄々をこねるだけ。
わからない。どうしたらいいのか。どうしたいのか。
やみくもに放った救援信号は、誰の耳にも入らない。入っちゃいけない。こんなこと、誰かに聞かれちゃいけない。
「……レリィ」
呼ばれる声が聞こえて、私はばっと振り返る。
いつの間にか、ソルさんが部屋の中に入ってきていた。多分、私の声が聞こえたんだろう。そのことに少しだけ嬉しく思う反面、私は恐怖も一緒に抱く。
「……どうして、来たんですか」
咎めるような口調になってしまった。違う。そんな言い方、間違ってる。
「……心配で、見に来た」
「……放っておいてください」
私は、また彼を拒絶する。
違う。そんなの間違ってるのに。違う、そんなこと言いたいわけじゃないのに。でも、私の中で思考はまとまってくれない。
「……それは、できない」
「……もう、良いですから。私なんて、良いですから」
そこまで言って、私はガルドさんの言葉を思い出す。
謝れ、と。それができないなら、この家から出て行け、と。
そうだ、その手があった。
これ以上ここに居ても、迷惑をかけるだけなら、いっそ。
「もう分かってるでしょう、ソルさん? 私はこんなに、醜いんです。汚いんです。汚れてるんです。弱いんですよ。私みたいなのが、ソルさんの側に居れたことが、奇跡みたいなものなんです。私じゃ、……ソルさんの側にいる、し、資格なんて……」
途中で、涙がまたあふれる。嗚咽が止まらない。
何言ってるんだろう、私。出て行くあてなんてないのに。
でも、それでも自分がここに居ちゃいけないような気持ちになっていた。
許されないなら、いっそ。
何もかも捨てて、逃げ出したい、と。
「……弱い、か」
ソルさんは、小さな声でつぶやくと、ベッドに腰掛ける。ギイと軋む音が、部屋に響く。
「なあ、レリィ。レリィにとっての、強さってなんだ?」
「……私にとっての、強さ……?」
わからない。そんなこと。それどころじゃないの。頭がグルグルしてて、胸が苦しくて。今にも倒れたい。
「俺はさ、レリィ。前にも言ったけど、自分の事を良い人間だとは思っていないんだ。臆病者だし、卑怯者だし、肝心な時には手が震えるし、大切な人が泣いててもその涙を止めてやることもできない。その上、年下の男の子に説教されて、しょげ返っちゃうような、バカで、無能で、ろくでなしだ。」
そんなことない。でも、声を出そうと思っても、私の喉は引きつって声が出ない。もういいですから。私なんかに、構わなくていいですから。何の役にも立てない私なんかに、もう構わなくていいですから。この家から放り出してくれていいですから。
「でもさ、レリィに会って、少しだけ考えが変わったんだぜ、俺?」
「……」
「君に会うまでは、俺すっげえ卑屈だったし、嫌なことがあったらすぐに凹んで、ホントにダメダメだったんだ。それこそ、毎日セシールやジャンに慰めてもらって、励ましてもらって、ガルドに守ってもらって、やっとこさ奴隷解放なんて活動を続けていられたんだ。……ケルヴィンに昔裏切られた時なんか、ひと月くらいしょげ返ってたっけ」
そんなことを少しだけ笑って話す彼。
「でも、君が言ってくれたんだ。自分の弱さを知っているから、誰かの立場に立って物事を見れる、って。そう言われたから、俺は変われたんだ。ううん、今も変わってる最中なんだ」
そうだったっけ。もう、思い出せないや。
「君がそばに居てくれたから、俺は弱さを、優しさに変えられるように頑張った。君の言う、素敵な人に、俺はなりたかったから」
だから、誰よりも優しくなって。誰よりもその人のことを考えられる。そういう人になろうと思ったんだ。そう言って、彼は少しだけ微笑む。
「俺にとっては、レリィは大切な人なんだ。大切で、誰よりも、何よりも失いたくない人なんだ。だから……」
私は、気が付くとソルさんの方に駆け出して、あろうことか彼の頬に平手打ちをしていた。
「……ッ」
「もういいじゃないですか! 私の事なんて放っておいてくださいよ! こんなふうに、ソルさんを傷つけるようなことしかしてない私の事なんて、嫌いになってくださいよ! もう耐えられないんです! もう、あなたに……迷惑をかけることが、耐えられないんですよ!」
言ってることも、やってることも、何もかもメチャクチャだ。自分でも、何がしたいのかわからない。まるで小さな子供の癇癪のように、泣き喚きながら殴りつける。最低だ。
でも、ソルさんはあろうことか。
「……ふふ、ははは」
「……え?」
「いや、そのさ。なんて言うか。やっと、レリィから俺に触れてくれたな、って」
頬を打たれたというのに、なんでこんなに嬉しそうにしているのだろう。わからない。ソルさんの気持ちがわからない。
「レリィ。一個勘違いしてるから、言っておくぞ」
ソルさんは立ち上がって、私の方ににじり寄る。私は、その分距離を離す。下がって下がって、壁際まで来る。
「俺はな。レリィに手を繋いでもらってると、すごく安心する。すごくうれしい。幸せな気持ちになる。お前がいないと、だめなんだ、俺。レリィが大切で、傷ついてほしくなくて……だからさ。……自分がもういらないとか、嫌いになってくれとか、側にいる資格がないとかさ。そんな悲しいこと、言わないでくれ」
優しい青の瞳に見つめられて。それでも、何かを言い返そうとして。
「でも、わた、私は……ソルさんのこ、こと……傷つけてばっかりで……も、申し訳なくて、でも、そばに居たくて、……でも、こ、怖くて……!」
メチャクチャに、今までため込んできたぐちゃぐちゃが、言葉になって放たれる。しかしそれはまとまった物なんかじゃなくて、支離滅裂で、何を言いたいのかが分からなくて。
「あなたが、好きで……だから、傷つけたくなくて、……そばに居たいのに怖くて、何を言いたいのかわかんなくて、嫌われちゃったんじゃないかと思って、私、もうわけわかんなくなって、どうしたらいいのかわからなくて、嫌で、つらくて、苦しくて……」
ソルさんは、私の言葉を聞いて。
すっと抱きしめてくれる。
壊れ物を扱うように、慎重に、大切に、包み込んだ。
「ぁ……」
「嫌だったらすぐに突き飛ばしてくれていい」
一瞬、突き飛ばそうとする手が、止まる。
なぜだろう、怖がっているはずなのに。
いや、今でも怖い。男の人に触られているというだけで、体が震えるくらいに。思わず突き飛ばしてしまいそうになるほどに。
でも、彼から伝わるぬくもりが、私にそれをさせなかった。
それはとても暖かで。
それはとても懐かしくて。
とても、優しい。
振りほどけば、すぐに離れられるくらいの優しい力加減で、私の事を抱きしめるその腕から、彼の気遣いや優しさが伝わってくる気がしたから。
それは、懐かしくて。
お父さんに、頭を撫でてもらったときみたいな。
お母さんに、寝る前に抱きしめてもらったときのような。
でも、決定的に違ったのは、その手の震え。
ソルさんも、何かを恐れてる。
何かを、怖がっている。それが、直接伝わってくる。
たぶん。
私に嫌われることを。拒絶されることを。怖がってる。
そんなことまで伝わってくるみたいで。
どれだけ私の事を大切にしているかが、伝わってくるみたいで。
どうして今まで気付けなかったんだろうか。こんなに、自分のことを労わってくれる人が、こんなに身近にいたことに。こんなに大切に想ってくれていることに。
「ソルさん、怖いです……。でも、好きです」
「……やっぱ、怖いよな。でも、ありがとう。俺も、レリィが大切だよ」
そう言って、ソルさんは私から離れようとする。
しかし、私はその手を掴む。
「ごめんなさい、まって、ください。もう少し、……このままで」
「え、でも、怖いんじゃ……」
「わけがわからないかもしれないですけど……怖いけど、安心するんです。お願いです……」
その言葉で、再び彼が抱きしめてくれる。
怖いけど。
でも、嬉しくて。
安心で。
ソルさんの言っていた通り、私の気持ちなんかよりも、もっと大きな愛情を感じた。
私は大声で泣きながら、謝りながら、ソルさんに抱き着く。
ごめんなさいと。
言えばソルさんが大丈夫、と。
何度も何度も、繰り返す同じやり取り。
きっと、ずっとこうしてもらいたかったんだと思う。
同じやり取りをして、少しずつ、私の意識はまどろんでいった。
大切に想う人の腕の中で。
大切だと思ってくれる人の腕の中で。
少しずつ。
少しずつ……。