引っ越し 三
引っ越し 三
触れるはずのない少女に突進してから、しまった、と思い手を引っ込めようとする。しかし気付くのが遅かったせいか、勢いは止まらずに俺は彼女に体当たりをかます。
結果、俺は空を切って、盛大に一人ずっこけて隙だらけになる。
そのはずだった。
「あ、アレ?」
触れるはずのない少女に、俺は体当たりできたらしい。いや、してしまったと言うべきか。
彼女をテーブルの上に押し倒し、その上に覆いかぶさるような形になる。
同時に、あたりを漂っていた椅子が、操り人形の糸が切れたように床に落ちる。
幽霊って、触れるもんなのか?
そんな疑問を持って、俺は少女を見る。
その目には、涙。
震えている。
目をしっかりと瞑って。
身を縮こまらせて。
怖がっていた。
「えっと……ごめんな? 痛かったか?」
俺は彼女の上から退いて、少女に話しかける。
白いワンピースを着た、普通の少女だ。
肩を揺らしながらすすり泣くたびに、彼女の紫の髪が揺れる。
「うう、うえええええぇぇ」
「あ、ちょ……」
大声で泣き始める少女を前に、妙な罪悪感を感じる。
何せタックルして泣かしてしまったのだ。幽霊に触れないともっと早くに気付けば、いや、この場合は触れないと勘違いしていれば、か。
とにかくもっと早くに気が付いていれば、この少女を傷つけることはなかったのに。
「……ごめんな?」
「ううぅ……何なのよお前……見てんじゃないわよぉ!」
乱暴に振り回される拳。避けるのは簡単だったが、それはしちゃいけないような気がして避けなかった。
もろに顔面に入る。少女が放ったものとはいえ、さすがに顔面にもらうのは痛い。
「ごめんな……」
そう言って、少女が何か言ってくれるのを待つ。
正直、こういう時。
自分のせいで誰かを泣かせてしまった時、どう対応するのが正解なのかわからない。ただ、謝ることしかできない。つくづく、人間なれしてないというか、協調性がないというか、なんというか。
それからしばらく泣き喚き、泣きやんだ少女はむくりと起き上がり、俺の方を睨みつける。
「……お前、なんなのよ。幽霊を怖がらないどころか、飛び込んでくるなんて……」
「いや、その……まさか触れるなんて思ってなかったというか、体が勝手に動いたというか……ごめん」
「……幽霊、怖くないの?」
「怖くないわけじゃないけど、なんていうか……人間の方が怖い、かな? ハハハ、おかしいよな、ハハハハハ!」
「……」
「ははは、は……ごめん」
馬鹿にされるか、あわよくば笑ってくれるかと思ったけど、少女は目を伏せてしまった。
ちゃんと誠心誠意謝らなかった今の自分の態度は、おそらく向こうからすれば腹の立つものだろう。つくづく自分の愚かさに嫌気が差す。
しばらく押し黙っていたが、少女が突然口を開く。
「……お前は、良い人間? それとも、悪い人間?」
しばし、返答に悩む。どういう意図での質問なのかを考えかけたが、相手の裏を掻くような真似はするべきじゃないと思い、正直に答えることにした。
「悪い人間だ。……俺は、悪い人間だよ」
「……!」
一瞬、少女が身をこわばらせる。無理もない。悪人が自分の住処を襲撃してきたのだ。緊張しないほうがどうかしている。
緊張しながらも、少女はぽつりと俺に質問してくる。
「……なんで、悪いの?」
「嘘ついたこともあるし、他人を傷つけることもしょっちゅうだ。それに……たくさんの人を殺した。俺は……悪い人間だよ」
「……なんで殺したの?」
「……自分が生きるため。それから、必要に迫られて、かな。仕事だから、っていうのもある。とにかく、……たくさん殺した」
「……罪のない人たちを殺したの?」
「罪のない人間なんていない。当然、殺してもいい人間なんかいるわけがない。それでも俺は……それが分かっていながら俺は……殺した。たくさん」
「もしかして……思い出す度、後悔してる?」
「思い出さないよ。……忘れたことはない。一日だって、今まで手に掛けた人を忘れたことはない。後悔は……してる」
「……私の事も、殺す?」
「殺さない」
「……私がお前を殺すって言っても?」
「殺さない」
「私がお前の家族を殺すって言っても?」
「殺さない。俺が止める」
「……お前が一番殺したい人を、私が代わりに殺してあげるって言ったら?」
「君にそんなことはさせない」
「どうして?」
「人を殺すと……自分を傷つけることになるから」
「傷つくのは私でしょ?」
「それでも、君みたいな子があんな思いをするべきじゃない。して良いわけがない」
「……私幽霊よ? 死んだ人間なんかどうでもいいじゃない」
「君は今ここに居て、俺と話してる。どうでも良くなんかない」
「……何なの、お前?」
「ソル=ブライトだ」
「……変な奴」
少女は、ふふっと笑うと、テーブルから降りる。
「ソル、ね。変わったやつ。幽霊が怖くなくて、人間の方が怖いとか。……なんか嫌なことでもあったの?」
「……ちょっと、ね」
「……そう」
少女は小さな声でつぶやく。
「……ウル」
「え?」
「私の名前よ。『忌むべき魔女』、ウル」
「魔女? ちょっと待って、君は幽霊なんじゃ?」
少女は少し笑う。その目は泣き疲れて少し赤くなっている。
「いいえ。私は魔女……幽霊じゃないわ」