奴隷少女 四
四
私は、三か月ぶりに湯船につかる。少し狭く、体の小さい私ですら足を延ばすことができないほどだ。しかし、そんな狭さも快適に感じるほど、今の私は自由だった。
「……信じても……いいのかな……?」
独りポツリとつぶやく。温かい湯につかり、少しまどろみながらも私は考えてみる。
奴隷を買うようなやつらは、ロクな奴らじゃない。それはこの業界では常識だ。たとえ表面上穏やかな顔をしていても、夜になればおぞましいケダモノのように豹変する人を見たこともある。そんな連中の集まりだ、奴隷売買に来る人なんて。
……でも。
(……頑張ったんだな)
そんな言葉をかけてもらったのは、いつ振りだろう。少なくとも、この奴隷生活で私がまっとうな扱いを受けたのはこれが初めてだ。それに、火傷を負わせた相手にあんなに優しくできるだろうか? あの人は……ソルさんは、良い人なのかもしれない、と。
三か月。たった三か月と言えども、私の心には恐怖が染みついている。奴隷の主人を信じるな。信じれば裏切られるぞ。心の奥底で傷つき果てた私の声が聞こえる。
その恐怖が、ほんのわずかであるが剥がれつつある。最初は彼の目的がわからないのが不気味だったけれど、でも、もしかしたら。本当に私を解放してくれるのかもしれない。
解放してもらえたら、どうしよう。まず何をしよう。
お父さんと、お母さんは無事だろうか。村の人は、誰か生き残っていないだろうか。探してみたい。いろんな人に聞いてみて、探し回ろう。私と同じように奴隷になっているのかもしれない。もしそうなら、私が買い戻して見せる。なんとしてでも。
なんとなく、昔のことを思い出す。
裕福とは言えないが、小さな家にお父さんとお母さん、そして私の三人。犬も飼っていた。クロアって名前の犬。私の大切な友達で、いつも一緒にお散歩しに行ったり、野原を走り回って……結局追いつけなかったっけ。クロアは、うまく逃げのびられたのかな。
寝る時には、お母さんが本を読んでくれた。囚われのお姫様を、王子様が助けてくれるような、そんなお話。子供ながらに、そんなことありえないよ、なんて言っていたのも懐かしい。今では何よりも、その救いの王子様が来るのを待っているのだから。
そんな思いがあるからこそ。
もしかしたら、と思えてしまう。
本当に、ソルさんは私を救ってくれて、一日一緒にいれば私を解放してくれるのでは。王子様じゃないけれど、そんな英雄なんじゃないだろうか、と。
父さんと母さんを見つけて、また昔のように、みんなで笑いあって……。
「……レリィ! おいレリィ! しっかりしろ!」
ハッとして目を開ける。と、私は脱衣所の床に横になっていた。体を起こそうとしても、頭がぼうっとしてうまく体を起こせない。頭痛に顔をしかめて、あたりを見回す。ソルさんが、必死な顔で私の頬に手を添えて何度も何度も私の名前を呼ぶ。
「あれ……ソルさん? 私……確かお風呂に……!」
そう、お風呂に入っていたのだ。私は自分の姿を確認すると案の定、体の上にタオルをかけてあるだけの状態で、ほぼ全裸だった。
「きゃっ!」
かすれた声で悲鳴を上げて、体を起こそうとするけど、うまく力が入らない。
「無理すんな、まだ横になってた方がいい。……多分のぼせたんだ。ほら、水を飲んで」
そう言って差し出されるカップには、水が入っていた。私はソルさんに体を起こすのを手伝ってもらい、差し出された水に素直に口をつける。
「体は大丈夫か? 自分の名前は言えるか? ここがどこだかわかるか? どこか痛いところは?」
「……いっぺんに質問されると、困ってしまいます……」
私はそう言ってカップを床に置く。まだふらふらするし、体は震えているけれど、水を飲んだおかげか、多少は楽になった。
「そ、そうだな。悪い」
「あ、いえ、そんな。看病していただいたのに……」
私はそこでようやく確信する。
この人はたぶん、大丈夫。
こんなに優しい目をした人が、悪い人なわけがない。この人は信用できる。
いや、信頼したい。そんなふうに思えた。こんなに自分を心配してくれる人は、今までいなかったのだから。
「ご主人様……その、申し訳ございません。私のことでお手を煩わせてしまって……」
その言葉を聞くとソルさんはまた少し悲しそうに目を伏せて、少し間を開けてこう言った。
「……言ったろ? 俺のことは、ソルって呼んでくれ。それに、悪いことをしたわけじゃないんだから謝らなくてもいい。……こういう時は、『ありがとう』って言うんだよ」
そう言うと、青年は笑みを浮かべる。
今気づいたけれど、彼は少しやせているようだ。不健康、というほどではないけれど、少し頬がこけている。……あまりいいものを食べていないのかもしれない。
「わかりました、ソルさん。ありがとうございます、看病してくれて。……あの、それと、大変申し上げにくいのですが……」
「ん? どうした? なんでも言ってくれ」
私は言おうかどうか迷った挙句、彼にお願いをしてみることにした。
「あの、服を着たいので、その、一人にさせていただけないでしょうか……」
「あ……そうだったな。すまん」
そう言ってソルさんは顔を逸らし、脱衣所から出ていく。
「着替えはそこに置いてある。俺が昔着てたやつだからちょっと古いけど……さっきまで着てたボロよりはマシだろ? じゃあ、居間で待ってるぜ」
私は籠にたたまれて入っている着替えを確認する。厚手の布で作られた服で、膝と肘のあたりに皮があてられているところを見ると、何かの作業服だろう。男物だけど、サイズはたぶん問題ないだろう。まだ少しふらふらしながらも、体を拭いてすぐにそれに袖を通す。
しばらく休んで動けるようになってから脱衣所を出て、未だ若干のぼせた状態で居間に向かう。その途中で、ガルドさんとすれ違った。私はその威圧的な目に圧倒される。そして同時にさっきの恐怖がよみがえり、足を止める。ガルドさんは相変わらず、というか、当然ながら私を警戒するような、監視するような目で見ている。これは仕方ない。一度逃げ出そうとしたんだ。信用なんてあるはずがない。
「……」
彼は無言で私の横を通り過ぎ、脱衣所に入っていく。多分、なにかおかしなことをしていないかを確認しに行ったんだろう。
私が廊下でびくびく立ち尽くしていると、ソルさんの声が居間の方から聞こえてくる。
「……そうか、スラム街……わかった、気をつける。それと……」
何やら声を潜めているが、誰か来ているのだろうか。なんとなく気になって、私は居間の扉に耳をつけ、様子を窺う。
「……、次の仕事のことだけど、今度は少し多めに金が欲しい。三人くらいまとめて買えるくらいの額を……。わかってるさ、まともな仕事じゃないんだろ? でも、そうでもしないといつまでたっても……。大丈夫だ、心配ない。それは自己責任だからな。……じゃあ、頼んだぞ、……」
窓を閉めるような音がした後、ギシッと椅子に腰掛けるような音が鳴る。私は居間の戸をあける。いつの間にか黒を基調とした部屋着に着替えていたソルさんは、何事もなかったように椅子に座って紅茶を飲んでいた。でも、私の姿を確認するなり、笑顔で話しかけてくれる。
「お、服のサイズは大丈夫だったみたいだな。よかったよかった。……具合はどうだ?」
「大丈夫、です」
本当はまだ少しふらついていたけれど、とっさにそう答える。
「……別に、具合が悪かったら嘘つく必要はないんだぞ? まだ顔が真っ赤だし、汗もかいてる。もう少しゆっくりしてからの方がいい。冷たいものでも飲むか? 生憎水と酒しかないけどな」
そう言って、彼は調理用のスペースに置いてある水瓶へ向かい、ガラス製の瓶に水を汲み、私の元へと運んでくれる。
「ほら、飲んどけ。変なものは入ってないから安心しろ」
差し出された瓶を受け取り、お礼を言ってから口をつける。液体を口に注いだ時、さっきは感じなかったけれど、自分の喉が相当渇いていたことを自覚する。そのまま一気にビンの中身を飲み干す。
「……! ぷはあっ」
「はは、良い飲みっぷりだな! そうだ、ちょっと休んでる間におしゃべりでもしよう。何を話そうか?」
その後、1時間くらいだろうか。ソルさんといろんな話をした。と言っても、前半はソルさんの質問に私がただ答える、というだけのものだった。それでも、私にとっては久しぶりに楽しい時間だった。
いろんなことを話した。家族のこと、住んでいた村のこと、飼っていた犬のこと、友達のこと、好きな食べ物のこと、大事にしてた人形のこと。
どれも懐かしく、楽しい思い出。気づけば私は、質問をされなくても、自分から話したいことをしゃべっていた。ソルさんは、私の話をうんうんと頷きながら聞いてくれていた。
しばらく話し、すっかり話し込んでいたことに気づき、私は口をつぐむ。
「す、すみません。私、久しぶりにしゃべって、その……」
「ははは、気にするなよそんなこと。面白かったぜ。特に犬と友達が本気で喧嘩してる件とかな」
笑いながら、ソルさんは身に着けている銀色の腕時計を見る。
「だいぶ元気出たかな? それじゃ、ちょっと買い物に付き合ってもらうぜ、レリィ」
「え、外に出られるんですか、私?」
「おいおい、約束しただろ? 今日一日は付き合ってもらうって」
そう言って、ソルさんはフード付きの外套を身にまとう。
「まずは服屋。それから図書館だ」