奴隷少女 三
三
アツアツのハーブティーをぶっかけられて、ひるんだすきに逃げられてしまった。
……まだ駄目だ。あんな錯乱している状態じゃ。今外に出てもロクな目に遭わない。
その時、なにやら外から声が聞こえる。
「……テメエ、旦那に何しやがった!?」
この声は……ガルドか? なんにせよ、少女を捕まえてくれたらしい。しかし、どうやら激怒しているらしく今にも手を上げそうな勢いだ。
なんとか目を開き、玄関の方を見る。やはり、今にもガルドが少女に殴り掛かりそうだった。
「テメエ、覚悟はできてんだろうなあ!?」
「やめろガルド!」
俺の声で、何とかガルドは拳を止める。しかし、納得のいかない表情で俺に抗議する。
「旦那に怪我させておいて、許すわけにはいきません!」
「こんなの怪我のうちに入らない。良いから、その子をこっちに連れてきてくれ」
「……わかりました」
渋々といった様子でガルドはカギをひったくった後、少女の胸ぐらをひっつかみ、家の中に乱暴に放り込む。
「いやあ、いやあ……いたくしないでえ……!」
涙声になりながら少女は懇願してくる。
「お願いします、何でもしますから、乱暴しないでぇ……!」
「暴力振るっておいて、乱暴するな、とはな。自分でもずいぶん都合のいいこと言ってるとか思わねえのか? え? クソガキ」
ガルドが背中を足で小突く。大した力ではないが、しかしやせ細った少女がそれに耐えられるはずもなく、あっけなく地面に転がされる。
「ひぎ、ごめんなさい! 何でもします! 見逃してください! お願いします! お願いします!」
ガルドはただひたすら少女を侮蔑の眼で見降ろし続ける。
さて、どうしたもんか……。
「……ガルド、風呂沸かしてきてくれ」
「……はい?」
突拍子もないことを言ったものだから、ガルドは素っ頓狂な声を出す。
「風呂に入りたいんだよ。ハーブの香りは好きだけど、衣服から発散させるのもなんだか嫌だろ? このままだとシミになるかもしれないしな」
「……まあ、それはいいですが……先にこのガキに然るべき罰を与えるべきでは……」
「ああ、まあ、……そうだな。痛いことをしたら、痛いことされるってことは覚えておくべきだよな」
そう言うと、少女はひっと小さな悲鳴を漏らす。
「おっし、歯を食いしばれ」
「やだあ! いたいのやだあ!」
気が引けるが、泣き喚いて暴れる少女に俺は拳骨を一つ、頭に小突くように放つ。
こつん、と小気味いい音が鳴り、少女が首をすくめる。
「はい、おしまい。これに懲りたら、人に暴力振るうなよ」
「……え?」
「さ、ガルド。風呂沸かしてきてくれ。服も洗いたいし」
何か言いたそうだったガルドだが、わかりましたと一言返事をして風呂場へ向かっていった。
「……悪いな、痛かったか?」
ガルドが去った後、俺がそう訊くと少女は涙を拭って謝罪してくる。
「す、すみませんでした。もう二度とこのようなことはしませんので、どうかお許しを……」
「ああ、それは気にするな。何も言わなかった俺にも落ち度がある。あと、そんなにかしこまらなくてもいいぞ。普通にしててくれ」
俺はそう言って少女に笑いかける。
「し、しかし……」
「じゃあ、『気にするな』。あと敬語も止めだ。これ、命令な」
俺は彼女に顔を近づけてそう言う。
「か、かしこまりました」
「いや、敬語治ってねえし……」
「あ、す、すいません……」
なんだかそのやり取りがアホらしくて、ついに笑いをこらえきれなくなった。思わず俺は笑ってしまう。
「ご、ご主人様?」
おろおろする少女を見て、俺はまた一層笑う。
「ははは、いや、なんかさ。漫才でも見てるみてえだな、って思って」
「……? まんざい、ですか?」
ああ、そうか。奴隷生活だったら、漫才なんか見ないよな。
「ああ、すっげえ面白いんだ。異国から伝わってきた、なんていうか……喜劇みたいなもんなんだけどな。ガルドの奴は気に入らないみたいだったけど、面白いぜ。今度見に行こうか」
おろおろとしている少女は何も言えないようで、微妙な表情をしている。
「……えーと、名前、なんていうんだ?」
とりあえず話題作りのために名前を聞いてみるか。
「……! な、名前はありません。ご主人様のお好きなようにおよびください」
「……」
何度も練習したセリフなのだろうと思い、俺は少し顔を俯かせる。
奴隷にとって、名前など必要ない。主人に好きなように呼ばれる。そういう風に躾けられてしまっているのだ。俺はため息をつき、少女にもう一度問いかける。
「……あんまり命令って好きじゃないんだけどな……『本当の名前を教えろ』……命令だ」
少女はさらに困惑していた。これにはどんな意図があるのかと探っているが、何も見えないことに不安を感じているようだった。
それもそうだ。何の意図もない。ただ、名前を知りたいだけなのだから。
「あ、そうそう。ちなみに、俺の名前はソル。ソル=ブライトだ。もう一度聞くぜ。なんて名前なんだ?」
「わ、私は……。私は……」
少女はためらう。何をためらっているのかわからない。自分の名前を名乗りたくないのか、ただ単に今の状況に戸惑っているのか。
「私は……レリィです。私の名前はレリィです」
少女はそうつぶやく。まるで自分に言い聞かせるかのように、しっかり、はっきりと名乗る。
「そっか。よろしくな、レリィ」
俺はなんとなく少女の頭をなでる。汚れてしまい、ごわごわとした長めの髪の毛をくしゃくしゃと撫でまわす。昔自分がそうしてもらった時のように。
「ぁ……うう……ぐすっ、……ひっ、ぐ……!」
……なんか泣いちゃったぞこの子。
「あ、え。 はあ? ちょっ、……えぇ?」
困惑する俺。なんでレリィは泣いちまったんだ? 俺、なんかやらかしたか?
「お、落ち着けよレリィ。まだ叩いたところ痛かったか? ごめんな?」
よくわからないが、原因が俺みたいだからとりあえず謝る。しかし、そもそもどうして泣き出してしまったのかわからないので、見当違いの謝り方をしている気がする。
「ちがうんですっ、……わたし、ひ、人にやさしくされること、あ、あんまりな、くて……ひっく、ぐすっ……」
ああ、そういうことか。
俺と一緒だ。自分に優しくしてくれる人が現れた時に得られる安心感。ほんの少しでも、奴隷として生きていく上で感じる唯一の希望。この人なら、大丈夫なんじゃないか。と。良い人なんじゃないかと。そういう安心感。
もっとも、俺の時はその希望が一瞬で絶望に変わったけれど。
この子には、あんな思いをさせる訳にはいかないし、させるつもりもない。
「……頑張ったな。もう大丈夫だ」
俺はそう言って、もう一度少女の頭をなでる。その時だった。
「旦那、風呂が沸きまし……何かあったんですかい? ……まさか無理やりスケベなことを?」
戻ってきたガルドが、いぶかしげな眼で俺を見る。その言葉に、一瞬少女が戸惑い、ちょっと俺と距離を置く。
「何もねえよ! 人を変態扱いするなよな!」
ていうか、レリィもちょっとひどいんじゃねえか? そんな、あからさまに俺を避けなくても……いや、まあ、別に良いけどさ……。
「それはそうと、風呂湧きましたぜ」
「そっか。うん。ありがとう」
礼を言って、俺はレリィの方に向き直る。
「じゃあ、レリィ。先に入っていいぜ」
「え?」
戸惑った表情、というより、恐怖が混じったような表情だった。無理もない。奴隷を風呂にわざわざ入れる奴なんていない。基本的には、奴隷を商品として扱ってるやつらは奴隷を『消耗品』としか見ていない。壊れたら、また買えばいい。その程度にしか、考えていない。つまり、普通なら風呂に入れるような輩はエロいことが目的だと言える。全部が全部そうではないだろうけれど。彼女はそれを察したのかもしれない。が、もちろんそんな気は俺には微塵もない。
もう一度風呂に入るよう促そうとして、大切なことを一つ思い出して、レリィに言う。
「そうだレリィ、一つ約束してくれないか?」
「約束……ですか?」
「そう、命令じゃなくて、約束」
大切なことは、ちゃんと言わないといけない。それはどんな時でもそうだ。かつてそれを伝えなかったために、悲しい思いをした。だから、言っとかないといけない。
「これから、レリィの首輪を外す。俺は、君のことを奴隷としては扱わない。けど、明日までは、どこにもいかないで俺のそばに居てほしい。……約束できるか?」
レリィは俺の言葉を聞くと、不安なのか、嬉しいのか、よくわからない複雑そうな顔で俺を見上げる。
「どういう、意味でしょうか?」
やはり困惑して、質問をしてくる。
「言葉通りだ。約束を守れるなら、君はもう奴隷じゃない。その代り、今日一日俺のそばに居てもらう。それだけでいい。……できるかい?」
少女の答えは。
「……約束、します。一日、あなたのそばに居ます」
「わかった。ありがとう」
そう言って俺は、彼女の首輪の鍵を開けた。