奴隷少女 二
二
「おはよう、昨日はちゃんと眠れた?」
お母さんの声がする。優しい光が差し込む。朝ごはんのいいにおいがする。
今日も、一日が始まる。なんてことはない、日常。泣き出しそうなほど幸せな、日常。
「おはよう! たくさん眠れたよ!」
私は、元気いっぱいにお母さんに挨拶する。
「ふふ、もう朝ごはんできてるわよ。胡桃パンと……」
「ベーコンだね? いいにおい!」
私は駆け出し、居間へと向かう。
「おや、おはようレリィ。朝から元気いっぱいだね」
そう言いながらお父さんが微笑みかける。
「うん! お父さんとお母さんがいれば私、いつだって元気だよ!」
「ははは、嬉しいことを言ってくれるね。レリィはいい子だよ」
お父さんが私の頭をなでる。自然と笑みがこぼれ、なんだか照れくさくて少し床に視線を落とす。
しかし床には、一面の血。一瞬世界が止まる。そして、私の頭を撫でていたものが不意に地面にどさりと落ちる。
「え……?」
切り捨てられた腕。その断面から勢いよく血しぶきが上がり、それが私の顔にかかる。服を汚す。
「きゃああ!」
悲鳴を上げ、室内を見渡す。先ほどとは違い、部屋の中はまるで嵐が通り過ぎたかのように荒れ果てている。椅子はなぎ倒され、テーブルはひっくり返っている。
「お父さん! お母さん! どこ!? どこにいるの!?」
涙声になって両親を探す。
不意に、玄関の戸が開け放たれる。
「! お父さん!?」
無我夢中で玄関に駆け寄るが、そこにいたのはぼろぼろの黒衣をまとう男たち。
「へへへ、まだ生き残りがいたぜ」
そう言うと男たちは一斉に私に群がり、掴みかかる。
「いやあああああ! おかあさん! おかあさああん!」
私の叫びは誰にも届かない。殺される。
「オイ、起きろクソガキ! 出番だって言ってるだろうが!」
私ははっとして目を覚ます。
いつもの牢屋のような部屋に、カビ臭い匂い。若干排泄物のようなにおいがするのは隣の部屋からだろうか。
「まったく、奴隷の分際で居眠りしやがるたあ、良い度胸じゃねえか。テメエが今日売れなかった覚悟しておけよ」
そう言って身なりの整った中年の男はにたりと下卑た笑みを浮かべる。同時に体の底から震えが走る。
ああ、もう……途中まで、幸せな夢だったのに……。
村を焼き尽くされ、家族とはぐれ、奴隷となり、すでに三か月。試用期間ということで、何人かの人に使われてきたが、私はまだあの時のことを夢に見ていた。
父さんがいて、母さんがいて、朝起きたら温かい朝食があって、笑顔にあふれていて。そんな夢を、また見てしまった。
今回は、最低な最後だったけど。でも、また父さんと母さんに会えた。頭を撫でてもらえた。それだけで、今日は少し頑張れそうだった。
私は鎖の先におもりのついた足枷と、両手首を固定している手枷をしたまま立ち上がる。
「ほら、行くぞ。客がお待ちかねだ」
そう言って男は私の首輪に着いた鎖を乱暴に引っ張る。私は足枷にくっついている鎖とおもりを引きずりながら男の後に従う。歩くたびに、足首に重さと痛みを感じる。
狭い通路を通り、即席で作ったようなステージの上に出る。目の前にはいつか見た大富豪のような人たちではなく、一般市民、主に男性がたくさんいた。
「さあさあ御立合い! 今日の目玉商品ですぜ! まだガキだが、器量は悪くない! 少し飯を食わせて養えば、きっといい女になるぜ! 子供だから飲み込みも早い! 仕事をさせるにはいいパートナーになるはずだ! 将来に期待大! さあ、まずは金貨100枚からだよ!」
なんだか適当な紹介だな、と思う。ほかの人を紹介する時はもっと時間がかかっていたのに……ああ、そうか。後でお仕置きするのが目的か。……やな奴。
しかしそんな紹介でも私を買おうとする人はいるようだった。
「金貨110枚!」
「金貨112枚!」
「120!」
次々と私の値段が上がっていく。しかし、金貨150で私の金額は止まる。その金額を出したのはかなり大柄な、あけすけに言ってしまえばすごく太った、下品な笑顔を浮かべる金持ちそうな男。周囲からどよめきが上がり、さぞご満悦なのだろう。
「さあ、他にはいないかい!? いなければ150で決定しちまうぜ!?」
こんな身なりだけきれいな、まるで豚のように太った人が今日から私のご主人様か……。その男のねっとりとした視線が気持ち悪くって下を向く。腕には鳥肌が立ち、足は震えていた。視界が滲み、はじめて自分が泣きそうになっているのを自覚する。
抵抗してもどうせすぐに捕まって『お仕置き』される。私はあきらめていた。しかし、その時だった。
「……200」
誰かがぽつりと言ったその言葉に、さらに会場はどよめいた。
「おおーっと! 200枚! でました200枚! さあ、ほかには!?」
太った男は悔しそうに歯を食いしばると立ち上がって叫んだ。
「に、210!」
そして間髪入れずに、またさっきの低い声がとどめを刺す。
「金貨300枚」
どよめきは歓声のような声に変わる。男はさらに金額を出そうかどうか迷った挙句、結局そのまま席に座る。
「決まりです! 金貨300で落札だあ! さあ、見事競り勝ったそこの兄ちゃん! 前に出てきてくれ!」
その言葉で、前に出てきたのは、提示した金額の割にはあまりにも貧相な服を着た青年だった。
ボロの服とまではいかないが、とてもお金を持っているようには見えない。一般市民と大差ない。その上フードまでかぶっていた。怪しいその姿に、私の鎖を握る男も、観客一同も、さっきとは打って変わっていぶかしげな顔をする。
「……さて、兄ちゃん。提示した金額を先にいただきますぜ」
そう言って司会をした男は私と青年の間に割って入るように立ちふさがる。青年は何も言わずに金貨袋を差し出す。じゃらじゃら、と重々しい音を響かせて、それを司会の男に渡す。
「うお、重! ちょ、ちょっと待て! まず金額を確認してからだな……」
「さっさと終わらせろ」
青年は低い声でそう言うと、男から鎖をひったくる。
「鍵も渡してもらおうか」
「へ? あ、ああ。カギをご所望で。へ、へい。へへへ」
大量の金貨を数え始めていた男はおかしな笑いを浮かべながら奥の通路へと消えてしまう。
それにしてもこの青年、変わった人だ。普通、奴隷を拘束する首輪やら何やらのカギを求める人は少ない。メリットがないからだ。放っておいても、飯さえ与えれば生きている奴隷の拘束をわざわざ解く必要はない。むしろ、逃げられるデメリットくらいしかないはずなのに。
中には首輪などの拘束具がなくても、ペットのようにすっかり調教されてしまう人もいるらしい。だが、もしこの人がそういう人なら、これはチャンスだ。従順な振りをしていれば、逃げるチャンスが生まれるかもしれない。その時が来たら……。
ややしばらく経って、奴隷商の男が戻ってくる。
「確かに、金貨300枚いただきやした、えへ、へへへ」
男の笑顔を無視して、青年は再び手を差出す。
「鍵をもらいたい」
「へい、こちらに」
首、手、足のカギが青年の手に渡される。
「どうも。……いこう」
青年はカギをポケットにしまうと、私の足枷のおもりを片手に持ち、私の肩にもう片方の手を添えて歩き出す。ひんやりと冷たい感覚が、来ているぼろ布越しに伝わってくる。
「へへへ、またごひいきに!」
男の声に青年は反応せず、ただただまっすぐ歩き続ける。しばらく行くと、スラム街から少し離れた路地裏のようなところに出る。
ほどなくして、私たちは一件の民家にたどり着いた。青年の身なりと同じで、どこか古臭くはあるがオンボロではない。むしろ、少し味のある家かも知れない。
「ここが俺の家だ」
そう言って青年は家の鍵を開ける。ぎいっと戸が開き、中の様子が見て取れる。
所狭しとさまざまな本が散在していて、少し汚いと思ってしまう。
「まあ、とりあえずあがって。そこに座っててくれ」
そう言って、青年は私の鎖を離し、命令する。
「わかりました。ご主人様」
私はそう答えて椅子に座る。なんだか青年は複雑な表情をして、その場から離れる。
……今、もしかしたら逃げるチャンスかもしれない。そう考えると鼓動が早くなる。いや、ダメだ。落ち着け。今逃げても、あの鍵を手に入れないと……いや、手に入れるだけじゃだめだ。手枷のカギを開けないと、逃げたところですぐにまた見つかってしまう。足枷だってついてる。まずはこれを何とかしてからだ。そう。まだあせる時じゃない。
私は考えをあれこれとめぐらせたとき、ふいにいい匂いが鼻を通る。
「……? 良い匂い……」
「気に入ったか?」
そう言いながら、戻ってきた青年の手にはカップが二つ。黒いフード付きのコートは脱いでいて、目もくらむようなきれいな金髪が短く切りそろえられている。作業服にコットンのシャツという出で立ちで、私の横にあるテーブルにカップを置く。
「ハーブティーだ。俺は結構好きなんだよ。……ガルドの奴は苦手みたいだけどな」
笑いながらそう言ってカップを机の上に置く。それから先ほどのカギを取り出し、私の足元にしゃがみ込む。
私の下着でも見るつもりなのかと思ったけれど、どうもそうではない。私の足枷を何やらガチャガチャとやっている。と、思ったその時、カシャンという音がして私の両脚は突如自由になった。
「え?」
私は思わず、敬語を忘れて普通に話しかけてしまう。
「な、何してるの?」
「鍵外してるんだよ。ほら、手もだして」
そう言うと彼は、私の手枷を外しにかかる。
混乱する。何をたくらんでいる? 何が目的なの? 何をさせるつもりなの?
わからない中、私は一つの事実に気づく。
足枷はない。走って逃げれる。今手枷が外れたら……?
そう思ったとたん、私はこれはチャンスだと理解した。この後にこの人を何とかできれば、私は……
カシャン、と手枷も外れる。青年はさらに首輪のカギを持っている。この人を何とかすれば、私は……。
自由になれる。
思った時にはすでに行動していた。私はそばに置いてあった湯気の立ち上るカップの中身を思い切り青年の顔目掛けてぶちまける。
「あっちい!」
青年は悲鳴を上げる。今だ!
私は彼からカギをもぎ取ると、一目散に玄関の扉を目指して走る。
途中で床に置いてあった本の山に足を引っ掛けて転ぶ。しかし、すぐに起きる。玄関はすぐそこだ。
自由への扉はすぐそこだ!
私は勢いよく戸を開け放つ。そして路地を駆け出そうとしたとき、なにか大きなものにぶつかる。くそ、こんなところで躓いてる暇はないのに! 私はすぐ起き上がり、駆け出そうとした。
「待てクソガキ」
「離して!」
私は精一杯抵抗する。しかし、所詮は13歳の、痩せた子供の腕力。たかが知れているし、大男にかなうはずもない。……大男?
「そこの家から出てきたってことは……! テメエ、旦那に何しやがった!?」
大男は開け放たれた玄関から除く青年の姿に、怒りをあらわにする。
まさか、いや、そんな。
青年には仲間がいたのだ。その仲間に、捕まってしまった。
そしてこの大男は、仲間を傷つけられて怒っている。
この体格差。私は逃げれない。
「あ……ぁ……いやぁ……」
「テメエ、覚悟はできてんだろうなあ!?」
男の拳が私の顔めがけて飛んでくる。
私は目を瞑った。