奴隷少女 十四
十四
早朝、太陽は未だ登らない。
俺は今、薄暗い自室のテーブルにつき、ロウソクの明かりだけを頼りに本を読んでいた。と言っても、実際は本を開きながら考え事をしているだけで、何一つ文字など読んではいなかった。
あれから、お尋ね者だったケルヴィンを憲兵に突き出して賞金を受け取り、ガルドとレリィの傷の治療のため、二人を教会に預けた。
ガルドの怪我は相当ひどかったらしく、完治するまで数日かかるだろうと言われた。
レリィの方は、傷はそれほど深くなかったため、失明することはなく、問題なく治療が進むとのことだった。
ただし、傷痕は残る。神官にそう告げられた。
そして二日後の今日、レリィが治療を終えて戻ってくる。そういう話になっているのだが。
「……本当に戻ってくるのかな……。」
彼女は、俺が人殺しだと知っている。そして、彼女がそんな俺を恐れているということを、俺は知っている。最悪、彼女がこの家に戻ってこない可能性もある。というよりは、普通なら戻ってこないだろう。
正直、怖かった。
彼女が命の危機に瀕していたあの時は、彼女を助けることで頭がいっぱいで、どう見られているかとか、どれだけ恐れられているかとか。そんなことを考える余裕がなかったからまともでいられたけど。
もし、あの子に、『あの目』を向けられたら。
かつて俺を虐げていた、俺を畏怖していた、俺を蔑んでいた、俺を殺そうとしていた、あの時の市井の人間たちのような目を向けられたら。
俺は彼女を傷つけるかもしれない。
いや、それだけならまだしも。もしかしたら、最悪……。
よそう。こんなことを考えても仕方がない。
震える手で紅茶のカップを取ろうとして、うまく取っ手をつかめずに中身をこぼす。仕方なくカップを置き、震える右手を左手で掴んで、落ち着こうとするが、一向に震えは止まらない。
「……くそ、俺は……俺はあの時と何も変わってないじゃないか……!」
臆病で、小心者で、誰かに傷つけられても媚びるような笑顔を浮かべて。
傷つけられたくないから傷つけて、怖い思いをしたくないから閉じこもって。
他人が怖いから外にも出ないで、面倒事に巻き込まれないようになるべく人と関係を持たないで。
何も、変わっていなかった。
彼女を買った時、自分を変えていけるかもしれないと思っていた。いや、変わらなくてはいけないと思った。
この子に世間のことを教えながら、人並みに街に溶け込めるように努力してきたつもりだった。仕事仲間以外の人間と久しぶりにしゃべった。図書館でも平気だったし、雑貨屋でも普通にしゃべれた。でも。
それは、彼女が隣にいたからだ。
話しながらも、やはりどこかで恐怖していたんだ。
「根っこの部分は何一つ変わってないじゃないか……俺は……!」
同じだった。
何もかも。
かつて自分が奴隷から解放されたあの時から。
俺は何も変わっていなかった。
「……ソルさん?」
弾かれたようにその声の方を振り向く。玄関には、飾り気のない、しかし綺麗な黒い長髪の少女がいた。その右目に、痛々しい傷跡を残して。
「レリィ……。」
俺は茫然とつぶやく。
レリィが、戻ってきた。その事実に、一瞬だけ幸せな感情が胸の中に流れ込んでくるが、すぐにソレは不安に変わる。
彼女は、俺を恐れている。
彼女は、俺を嫌っている。
彼女は、きっと俺を傷つける。
その前に……追い出せ。
心の中から、ありもしない被害妄想が垂れ流されるが、そんなわけがないと頭の中で否定する。何度も何度も強く否定するたびに、でも、もしかしたら、と。自分の中の臆病な獣が彼女に牙を剥こうとする。
「ソルさん、ひどい顔色ですよ? いったい、どうしたんですか?」
レリィが俺に駆け寄ってくる。心配してくれているんだろう。彼女は優しい子だ。でも。
「近寄るな!」
俺の声に、一瞬レリィはビクリとする。
「……もう、無理だ。一緒にはいられない。」
俺は言葉を続ける。
そうだ、傷つく前に。傷つける前に。
さっさとお別れしてしまえばいい。
そうすれば、俺も彼女も嫌な思いをしないで済む。
「何を……?」
「言った通りだ。俺はもう、君と一緒にいるつもりはない。」
そうだ。そもそも一日だけそばに居ろという話だったんだ。これ以上彼女と一緒にいる理由はない。
「なんでですか?」
「なんでって……。」
「……なんで、そんなこと言うんですか? ……私、ソルさんに会えるのを……ソルさんとまたお話できるのを……楽しみにしてたのに……。」
「……冗談だろう。」
俺は殺人鬼だぞ。暗殺者だぞ。人殺しだ、ろくでなしだ、臆病者で、卑怯者だ。そんな俺と、話をするのが楽しみだって?
そんなの、あるわけないじゃないか。
だって、そんなこと言ってくれた人は、今までいなかったんだ。
そんなウソをついて、俺をどうしようっていうんだ?
「ソルさん……私、ソルさんに謝らないといけないことがあるんです。」
彼女はそう言って、俺の側に近づいてくる。俺は席から立ち上がり、彼女が近づいた分だけ後ろに下がって距離を取ろうとする。
「私、ソルさんにひどいことをしました。命の恩人なのに、あなたが優しい人だって知ってたはずなのに……あなたを、怖いと思ってしまいました。」
ほら見ろ。
やっぱりそうじゃないか。
腐った心が俺に喚き散らす。
所詮、ヒトなんてそんなもんだろ、期待なんかしてんじゃねえ、と。
「私は、勝手にあなたのことを聖人か何かみたいに思ってて……それで、勝手に幻滅して……。」
「もういい、それ以上近づかないでくれ……。」
やめてくれ。
それ以上、聞きたくない。怖い。他人にどう思われてるのかが怖い。
レリィに嫌われるのが怖い。
「私はもっと、ソルさんのことを知ろうとするべきだったんです。」
彼女は、さらに俺に距離を詰める。俺はさらに距離を離すべく、背中にしている自室のドアを開け、後ずさる。
「あなたは聖人なんかじゃなくて、人間だって。ちゃんと知ろうとするべきだったんです。それなのに、自分の勝手なイメージを、私は押し付けて……それで……。」
だから、ごめんなさい。
彼女はそうつぶやく。
何を言ってるんだよ。
レリィは何にも悪くないじゃないか。
なんで、君が謝るんだよ。
俺は後退し続けるが、とうとう自室の端にまで追い詰められてしまった。
「……もう、良いだろう。出てってくれよ……。」
「でも、私は……!」
「いい加減にしてくれよ!」
俺は再び叫ぶ。大きな声で。しかし彼女は驚かない。
「怖いんだよ! 人の目が! レリィにどう思われてるのか! ホントは皆、怖がってるんじゃないかって! ホントはどっかで信用されてないんじゃないかって! 怖いんだよ! ……また傷つくのが、怖いんだよ……。」
そう言って、俺は自分の右手を目の前に掲げる。
「見ろよコレ。こんなに震えてんだ。誰かに傷つけられるんじゃないかって考えただけで、一人じゃ街も歩けない。誰かに見られてるだけで、手はこんなに震える。お前が幻滅するのも当たり前だよ。俺は、こんなに臆病者なんだ。だから、傷つく前に傷つける奴らを殺して、だから他人ともかかわらないようにして……怖えんだよ、レリィといるのが……。」
俺はそのまま、自分の両手を組んで部屋の壁を背にして蹲る。
情けないことを喚き散らして、がたがた震えて。
もう充分だろ。もうわかっただろ。
俺はこういう人間なんだ。
だからもう。
さっさと俺を置いて出てってくれ。
「……そういう、ことだったんですね。」
彼女はそう言った。
そして、俺の手を、彼女の両手が包む。
「やっぱり、ソルさんは優しい人ですね。」
「え……?」
俺は耳を疑った。
今の話のどこに、そんな要素があった。
「優しくなんか……」
「優しいです。優しくて優しくて、優しすぎるほど。」
彼女はそう言って、俺の両手を抱きしめる。
「あの時。どうしてソルさんが、私を宿屋に行かせたのか、ようやくわかりました。……怖かったんですね。」
彼女は、俺の手に力を込めて続ける。
「でも、自分勝手なただの殺人鬼なら、あなたはあの時私も殺せばよかったんです。……どうして、私を遠ざけたんですか?」
「……怖かったからだ。」
「そこが、ソルさんの優しいところです。」
彼女は目を閉じながら、思い出すように言う。
「ホントはあの時、守ってくれたんじゃないですか? ソルさんが私を傷つけないように。自分自身が、私を傷つけないように。」
「そんなの、買いかぶりすぎだ……。」
「そんなことないです。」
レリィはきっぱりと、俺の言葉を否定する。
「ソルさん、あの時も、ケルヴィンさんを殺さないでくれました。それに、その後何度も何度も謝ってくれました。」
そんなはずねえだろ。俺は優しくなんかない。
心の中で、再び獣が喚き始める。
もうかまうな、一人にしてくれ。
「ガルドさんから、聞いたんです。ソルさんのこと。」
レリィは突然、そんなことを言い出した。
「あなたは、勇気ある人です。こんなに怖がりながら、こんなに震えながら、泣きながら、それでも弱い人の為に立ち上がって、ガルドさんや私を助けてくれました。」
彼女は目を開き、俺の目を見つめる。
「俺は弱い。卑怯者で臆病者で。誰かを平気で傷つける人間のクズだ。」
「ソルさんは強いです。自分の弱さを知っているから。誰かの立場に立って物事を見れる人だから。だからどんなに辛くても、怖くても。……大切なものの為に、自分の気持ちを犠牲にしてでも立ち向かっていける、素敵な人です。」
レリィは笑う。俺から目を逸らさない。
「私も、その大切なものの一つに入れてくれませんか?」
何言ってんだよ。
なんで、そんなにまっすぐ俺の方を見るんだよ。
なんで、そんなふうに笑えるんだよ。
なんで、こんなにあったかいんだよ。
「……なんでそんなに、俺に優しくするんだよ。」
俺がそう問いかけると、彼女は少しはにかむ。
「こんな私にも、優しくしてくれたからです。それに……。」
彼女は赤面して、そのまま顔を俯ける。そのまま何かをごにょごにょとつぶやくが、どうにも聞き取りづらい。
「? なんて言ったんだ?」
「な、なんでもありません。とにかく!」
少女は咳払いを一つして、声高に宣言する。
「私は、もっとあなたの側に居たいんです。もっともっと、あなたのことが知りたいんです。もっともっともっと私のことも知ってほしいし、もっともっともっともっと、これからずーと、あなたと一緒に居たいんです!」
少女は赤面しながらそんなことを言う。
心が、少し静まる。
じんわりと、温かいものがあふれてくる。
「俺なんかの側に居てどうすんだよ……?」
「ソルさんの側が良いんです。」
「俺を、一人にはさせてくれないのか?」
「……もう二度と、絶対にソルさんを一人にしません。どこに行くのも、私が一緒です。」
レリィはそう言うと俺に顔を近づけ、視界から消える。そして。
頬に、柔らかい感触が伝わる。
「……一緒に、いさせてください。」
「……、……!」
声が、出なかった。
ひどいことを言ってすまなかった。
こんな俺に、優しくしてくれてありがとう。
これからも、どうか一緒にいてくれ。
そんな風に思ったことを言おうとしても嗚咽が漏れるばかりで、何一つ言葉にならなかった。
返事の代わりに、俺は彼女を抱きしめる。
彼女も、それに応えるように抱き返してくれる。
温かい気持ちがあふれる。
ひたすら彼女の腕の中で、俺は涙を流す。彼女はそれを、何も言わずにただ抱き留めてくれる。
東の空が、赤く染まりだす。
太陽が、昇りはじめる。
心の中にずっと居座ってた黒い靄が、少しだけ晴れたように感じた。