アゲハ蝶
息子がアゲハ蝶の幼虫を育てようとしている。
『育てようと』とは今からやろうとしているという意味ではなく、色々不足している部分を私がこっそり直してやっているのだ。
晩酌の前、妻に幼虫の状態を尋ねるのが日課になって二週間近い。黒と白の斑模様だった幼虫が、緑色に変わった時は我ながら子供のような無邪気な笑みを零したように思う。妻は可笑しげに笑いながら、いそいそとビールと晩御飯を出してくれた。
息子は幼虫が何を食べるのかからして知らなかった。アゲハ蝶の幼虫は蜜柑などの葉っぱを主食としているのだが、恥ずかしながら都会暮らしの息子には葉っぱは全部ただの葉っぱに過ぎないらしい。
……だからってアジサイの葉をあげるのはさすがにマズイんじゃないかな我が息子よ?
あれ毒あるからね?
人間でも下手すると死ぬくらい強烈な毒が。
そんな事を愚痴っていると妻が笑いながら言った。
「アジサイの花あの子好きでしょ?
だからアジサイの葉っぱを食べさせたら、アジサイみたいに綺麗なちょうちょになれるんじゃないか。て思って取ってきたらしいわ
全く、シャボン玉の時から変わらないわよね」
私はそれを聞いてポカンとした後、妻と一緒に爆笑してしまった。
少し前、息子が妻の育てていた花(私には名前が分からない。少なくともチューリップやアネモネではない)を枯らせてしまって、私がこっぴどく怒った事があった。事情を聞いてみると、息子は定期的に植木鉢へシャボン玉の原液をやっていたらしい。
私がつい理由も聞かずに怒ってしまい自己嫌悪に陥っていると、息子は泣きながらこう答えた。
「しゃぼん玉、きれいだから。だからお花にあげたら、もっときれいなお花が咲くと思ったの」
私は毒気を抜かれ大笑いした後、息子の頭を何度か撫でてやった。それ以来私がシャボン玉の原液を買ってやると、息子は原液がなくなった事を報告しに来るようになった。実に真面目な息子だ。
私はそんな事に思いを馳せながら、幼虫の頭を突っついた。途端、幼虫はその全身を弓なりに反らせる。黄色い触覚が私の指に触れた。しまった。
アゲハ蝶の幼虫は小さい時は白黒の体で鳥のフンに擬態し、外敵をやり過ごす。数週間で緑色になった後は葉っぱに擬態するのだが、それ以外に二つの武器を得る。一つは頭の部分にある巨大な目玉模様。これによって外敵を威嚇する。そしてもう一つが私が触れてしまった触覚である。
この触覚は視覚的な威嚇だけでなく、強烈な臭いを発する。……つまり今、私の人差し指は強烈に臭い。私は洗面所で指をすすいだ。
数日経って、幼虫が蛹になった。偶然普段より早く帰った私は、息子が嬉々として私にその事を報告くるので、呆れながらもよかったなと嘆息する。息子が命が育つ姿を喜ぶ事に、私は何か誇らしいものを感じていた。
ちなみに、蛹は餌にしていた蜜柑の枝にではなく、虫カゴのフタの裏に出来ていた。どういう訳か、彼らはよく虫カゴのフタの裏に蛹を作る。おそらく高い所を好むのだろう。しかも夜に作るから過程もよく分からない。
そしてどういう訳か蛹の羽化も夜起きやすく、私も子供の頃よく悔しがった。昼に見られるのは十数匹に一匹程度だったように思う。
けれど今回みたいな悲しい事態には、幸運にも私は遭った事がなかった。
「……あなた」
私は虫カゴの中から聞こえる独特な羽音と、妻の困惑した表情から事情を察した。
アゲハ蝶の幼虫には外的な外敵以外に、内的な内敵が存在する。寄生蜂と呼ばれるものである。
彼らはアゲハ蝶の幼虫の体内に卵を生みつける。そしてその卵は孵化すると徐々に体内を喰い進み、ついには蛹から寄生蜂が羽化するのだ。幼虫を喰い破って。
「あなた……蜂が……」
妻は事情が分からない当惑と息子に何と言えばいいのかという苦悩に圧され、額に手を当てる。
「大丈夫?」
私は妻をなだめながらも虫カゴをのぞいた。
……アゲハヒメバチ。アゲハ蝶の幼虫にだけ寄生する寄生蜂だ。
私は悔しくて妻を抱き締めた。妻は息子を思って泣いていた。しかし、私は優しくは在っても生易しくはない。
「あいつには、ありのままを見せよう」
「……そう、そう。あなたはそうだもの、ね」
妻もうろたえながら、同意してくれた。
息子は虫カゴを見つめていた。中ではアゲハヒメバチの成虫が、カゴから出せ出せとばかりに激しい羽音を響かせている。
「パパ、なんでちょうちょじゃないの?」
私はありのままを伝えた。妻はそわそわしながら、朝食の食パンの焼き加減を見ている。
「そっか」
息子は複雑な顔をした後、虫カゴをベランダに持って行った。私が後ろから見ていると、息子は小さくつぶやいた。
「バイバイ。また、お顔見せてね。ちょうちょさんの分も、生きてよ」
私は安堵した後、食パンにかじりついた。後から息子が続いた。妻はいつも通りの笑みを浮かべると、私と妻の分のコーヒーを入れてくれた。
「一口ちょうだい」
私はたまに挑戦し、舌を出してしかめ面をする息子を見ているから、苦笑しながらもマグカップを差し出した。
「うぐ、やっぱり苦いや」
「まだまだ子供だな」
「う……でももう、泣かないもん」
「そうか、だったらまだまだだな」
「なんで?」
「だってな」
私は妻を見て、時計を見て、ネクタイを整えながら答えた。
「大人は泣けないんだ」
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