花の乙女と猿の手と
それは放課後のこと。
「姫川さん、僕はついに手に入れてしまったんだ」
そう言って私の机の前に立った長谷川くん。
彼は純真で一途で無垢な美少年だけれど、妄信的なところが玉にキズね。
「長谷川くん、一体あなたが何を手に入れてしまったのか……私が聞いても良いことなのかしら?」
「やむを得ないよ……姫川さんだけさ。こんな事を打ち明けるのは」
「なぁに?」
「これだよ」
そう言って長谷川くんがお尻のポケットから取り出したのは、黒い、毛だらけの塊。
「あら、何?毛むくじゃらね」
「『猿の手』さ」
「お猿さんの手?……確かにそう言われると、そう見えるわね」
「ただの猿の手じゃないんだよ、姫川さん。これはね、願い事を叶えてくれる不思議な手なんだ」
「願い事を?」
「そうさ!」
長谷川くんは瞳を輝かせ、熱っぽい口調で語り始める。
「大昔から、この猿の手は色々な人たちの願いを叶えてきたんだよ。それは秦の始皇帝であったり、カルタゴの将軍であったり、コロンブスの卵であったりするかもしれない……」
「素敵……それが今、時を越えて長谷川くんのお尻のポケットに入っていたのね」
「なんとか極秘のルートから手に入れたんだ。こんな素晴らしいのはビル・ゲイツも持ってないよ、きっと」
「そうね。でも、ゲイツもそれを血眼になって探しているかもしれないわ。お金持ちの彼の事だから、マフィアや特殊部隊を使って探しているかも。だから、みだりに人前に見せない方がいいのではないかしら?」
「姫川さんだけさ。これを見せたのは」
長谷川くんは急に顔を赤くして、ちょっと俯く。
なんだか可愛らしいわね。
華奢で、睫毛も長くって、きっと髪を伸ばしたら道行く人は美少女と見間違うでしょう。
「あの、姫川さん……これ、姫川さんにあげるよ」
「え?」
唐突な申し出に、私は思わず聞き返してしまう。
「姫川さんにあげたいんだ。実を言うと、僕、これを手に入れた時、すぐに姫川さんの顔が浮かんだんだよ。きっと喜んでくれるぞって、そう思ったんだ」
「でも、そんな大事な物を私なんかに……」
「姫川さんに受け取ってほしいんだ」
「あら、そう?」
直情的な彼の事だから、断ったりしたら泣き出しかねないわね。
とても気は引けるけれど、ここは頂いておこうかしら。
「分かったわ、長谷川くん。ありがとう。大事にするわね」
「いいんだ。あ、でも気をつけて。願い事は一人につき一つだけだよ」
「ええ。では、じっくり願い事を考えさせていただくわ」
「いいよ」
私が微笑むと、長谷川くんも微笑んだ。
彼は小さなガッツポーズを作る。
「やったぞ、『猿の手』。僕の願いは叶うかもしれない」
「あら、どういうこと?」
「あ、う、い、いや、何でもない、何でもないっ……」
また顔を真っ赤にして、長谷川くんは慌てて教室を飛び出していってしまった。
いやだわ、彼ったら躁病の気でもあるのかしら?
私は手元に残った黒い毛むくじゃらの物体を見る。
確かに気味の悪い代物だけれど、眩暈や嘔吐感を催すほどグロテスクではないわね。
願い事が何でも叶う?
それはとても素敵ね。
駄目でもともと、試してみる価値は大いにあるのではなくて?
さて、何をお願いしようかしら。
ちょうど女子寮にあるお風呂の洗面器が古くなったので、それを新調しようかと思っていたのだけれど……
でも、駄目ね。
せっかく一度きりのチャンスを『お風呂の洗面器』なんかに使ったら長谷川くんに悪いわ。
そうだわ、思い切って世界征服にする?
いいえ、それもあまり良くないわ。
スケールが大きすぎるし、色々と面倒なことも増えそう。
もっと庶民的な、それでいて、独力では達成困難な事柄が望ましいわね。
……ああ、そう考えるとなんだか難しいわ。
長谷川くんたら、こんな難題を私に押しつけていくなんて、罪な人ね。
他に友達はいなかったのかしら?
男子には仲間外れにされているみたいだけれど、女子の中には彼を気にしている子も少なくないのに。
「そうだわ。あんなに可愛いんだから、いっそのこと女の子になってしまえばいいのに……」
私がそれを口に出した途端。
「う、うわああああああああああああっ!!」
廊下で大きな悲鳴が上がった。
あの声は……長谷川くん?
私は立ち上がって、すぐに廊下に出てみる。
幸い、もうこの階には人影が全く無かったので、長谷川くんの悲鳴も大騒ぎを起こすには至らなかったみたい。
彼は夕日の朱一色に染まる階段の隅で、肩を抱くようにしてうずくまっていた。
「ちょっと、どうしたの?」
「う、う、ひ、姫川さん……ぼ、僕の身体、どうなって……」
「大変、具合が悪いの?どこか怪我を?」
「む、胸……」
「胸?胸がどうかして?」
「ち、ちがうんだ、胸が……」
ぽろぽろと大きな瞳から涙をこぼしながらこちらを見上げる長谷川くんの顔は、何だかさっきまでとは違って、とても色っぽく見える。
私ははたと思い当たって、長谷川くんの胸に触れてみた。
そこにはとても柔らかくって、豊かな感触が……
「あら……あるわね」
「ど、どうしよう、姫川さん……ぼ、僕、まさか、女の子になっちゃったの?」
「そうね……不思議ね……」
不思議は不思議だけれど、原因は分かっているわ。
そう、これはきっと、あの『猿の手』が私の何気ないつぶやきを願い事として叶えてしまった結果なのね。
お気の毒に、長谷川くんたら。
でも、ここはしらばっくれるしかないと思うの。それがお互いの為よ。
「本当にどうしてこんな事になってしまったのかしら……」
「わ、分からないよ……こんなこと……」
「でも、クマノミやダルマハゼだって性転換をするのだから、それが突然、長谷川くんの身に起こったとしても何ら不思議ではないわね」
「そ、そうなのかな……」
「きっとそうよ。長谷川くんは私達よりも一足先に進化した人類なのかもしれないわ」
「ぼ、僕が……進化した人類……?」
そう呟いて、こちらに何かを懇願するような視線を向ける長谷川くん。
熱っぽく潤んだ瞳はまるで子犬のようね。
ああ……いやだわ、何故だか背筋がぞくぞくしてしまう。
嗜虐心というものかしら?
「姫川さん、僕はこれからどうすれば……」
「大丈夫よ、落ち着いて。もう、そんな顔をしないの」
気がつけば私は長谷川くんの顎をクイと上に向けさせていて、そこで思わず衝動的に唇を重ねてしまったわ。
もちろん、私にとっても初めての接吻。
ファーストキスよ。
「んうっ……っ……」
「んふ……っ……」
ああ……
なんて柔らかい感触なのかしら……
それは、永久にそうしていたいと思うほど甘美で、濃密で、脳髄が痺れるような陶酔感。
長谷川くんも最初はキュッと身を固くしていたのが、すぐにその緊張が解けて、やがて完全に私の胸の中に身体をもたれさせてきた。
しばらくの間、そうして夢中で互いの唇を求めあってから、息をする為に身体を離す。
「はぁっ……はぁっ……」
お互いの顔に、すっかり荒く、熱くなった吐息をかけあいながら、私達はしばらく見つめ合って、そして、微笑む。
「……どう?落ち着いた?」
「う、うん……」
長谷川くんの顔はまた真っ赤になっていた。
そして、夢見心地で小さく呟く。
「す、すごい……本当に『猿の手』で僕の願いが叶っちゃったよ……」
まあ……どんな願い事をしていたのかしら?
長谷川くんたら、いけない子ね。