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不器用でやさしい短編集

失恋した聖女は、片想いしていた神官を今日で諦めるはずでした

作者: 白千菓 たえ
掲載日:2026/10/03

 大聖堂の裏庭のベンチで、聖女アデルは震えた息を吐いた。

 途端にはちみつ色の瞳から、大きな雫がぼたぼたと落ちていく。

 

 あの人が、遂に婚約したらしい。


 他の聖女たちから教えてもらった噂を反芻しているうちに、気づけば午前中の仕事が終わっていた。

 

 

 ゴーン、と午後を知らせる時計塔の鐘の音が、遠くから聞こえてくる。

 

 告白する勇気も無く眺めるだけの自分にとって、当然の結果だった。

 長い恋と、お別れをする——筈なのに、くしゃりと笑う彼の笑顔が瞼の裏に浮かぶ。

 アデルは食事をする気にはなれず、涙で濡れていく弁当の包みを握った。

 

 

 だれかの足音が、辺りに響く。

 手元に落ちた影に気づいて頭を上げると、いつの間にか、背の高い神官に見下ろされていた。


「アデル。午後の祈祷のこと……です、が」

「ルシアンさま……」


 彼の灰色を帯びた茶髪が揺れ、藍色の目が丸くなった。

 アデルは、3年以上想い続けた本人を目の前にして、呆然とする。

 タイミングが、悪すぎる。


 

 ルシアンは慌てて涙を拭うアデルに、信徒へ向けるおだやかな笑顔を浮かべた。

 

「珍しい。他の聖女様に、意地悪でもされました?」

「そんなことされません……そろそろ、お祈りの時間ですよね」


 午後は、大聖堂で信徒のために祈祷をする当番だった。

 アデルが立ち上がりかけたところで、彼がしゃがんだ。

 

 

「その前に、泣いている理由を教えてください」


 聖女担当の神官である彼は、教団と聖女、そして信徒の間を取り持ち、彼女たちの業務管理や心のケアまで幅広く担っている。

 涙の訳を尋ねるのも、仕事の一環。

 アデルは指先をそっと握り込み、作り笑いをした。


 

「個人的なことです……仕事とは関係ありません」

「なるほど?言わないのであれば、大司教様には理由もなく泣いていたと報告しておきます」


「ま、待ってください!誤解を招いてしまいます……!」

「では、教えていただけますか?」


 

 熱心な信徒のお願いを断るときと同じで、物腰はやわらかいのに、譲る気はないらしい。

 こうなった彼に逆らっても無駄だと知っているアデルは、観念したように眉を下げた。

 

 

「…………失恋したんです」


 ルシアンは予想外の答えだったのか、「えっ」と深海色の瞳を大きく見開いた。

 同僚の恋愛話なんて、気まずいに違いない。

 適当にごまかせばよかったと、ブーツの先を擦り合わせながら後悔した。


 

 教団の象徴である白い花が、足元で風に遊ばれ揺らめいた。

 

 そっと視線を上げて彼を盗み見ると、真剣な表情で思案していた。

 伏せたまつ毛が光を受けて、珀色色に透ける。

 横顔さえも美しいなんて、こんな日に知りたくなかった。

 

 

「では、一緒に気晴らしでも行きますか」

「……え?お昼休み終わりそうですけど……?」

 

「ふたりで有給を使いましょう」

 

 おだやかな表情で告げた突拍子もない提案に、アデルははちみつ色の目を丸くした。

 

 

「い、いけません。今日の当番は私なので」

「その件ですが、アデルと当番の日を交換したい聖女様がいて、相談に来たんです」

「それは……構いませんが……」

 

「それにアデルは、半年ほど有給取っていませんでしたよね」

「そう、でしたっけ?」

 

 

 聖女たちの予定を管理している彼が言うのであれば、そうなのだろう。

 

 アデルは濡れた頬に手を当て、自分の顔を想像した。

 たしかに泣きはらした姿で祈祷すれば、信徒と教団のどちらにもあらぬ噂が立つに違いない。

 ……でも。


「気晴らしは、ひとりで行けます……ルシアン様は、お気になさらず」

 

 彼と出かけるなんて、昨日までの自分であれば浮かれていたに違いない。

 なんで、今日なの。

 

 しゃがんでいたルシアンは、俯いたアデルを下からのぞき込んだ。


 

「アデルは、俺と出かけるのが嫌?」

 

 真っすぐな目に射貫かれ、言葉を詰まらせた。

 人前ではいつも神官らしく丁寧に話すのに、身内にはたまに砕けた口調になる。

 眉尻を下げると、ルシアンが口角を上げた。

 

「……いやじゃ、ないです」

 彼の笑顔の前で、嘘をつく気になれなかった。


 

「では諸々準備してくるので、裏門で待ち合わせしましょう」


 ひとり取り残されたアデルは、彼の後ろ姿を見送った。

 濡れた頬は、いつの間にか乾いていた。

 

 


 

 最後の思い出を作るために、きっと神様がご慈悲をくれたんだ。

 裏門の塀の前で、アデルは胸元で両手を組み感謝の祈りを捧げた。


「お待たせ。行きましょうか」


 瞼を開けると、帽子をかぶった青年が目の前に立っていた。

 青いシャツは皺だらけで、袖をまくった位置が左右で違う。

 見覚えのない青年をぽかんと見つめ、先ほど聞こえた声にまさかと眉を寄せた。


「アデル?」

 

 帽子の下から、良く知る藍色の瞳が覗いた。

 いつもと雰囲気の違うルシアンに面食らいながら、彼の袖を指さした。

 

「袖の位置……ズレてますよ」

「ああ、こういうのはどうも苦手で」

 

 ルシアンは袖を一瞥し、すぐに興味を無くしたように頭を上げた。直すつもりはないらしい。

 普段着の彼を改めて見て、ぎこちなく目を逸らした。

 


「アデルは私服も白なんですね」

「……もともと、好きな色なんです」


 平然とした態度を装いながら、一番お気に入りの服を撫でた。

 

 


 街の中心部へ向かうと、人の声や馬車の通り過ぎる音が大きくなっていく。

 往来の多い道を歩くと、すれ違う人とぶつかりそうになり一歩後ろへ下がった。

 果物や焼き菓子が並ぶ店先には、教団の象徴である白い花が飾られている。


 街中を一緒に歩く彼を見上げて、すぐに視界から外した。



「とりあえず、腹に何か入れてもいいですか」

「はい、どうぞ」


 ルシアンは甘い匂いがする出店の前で足を止めて、店主に人差し指を立てた。

 

 紙袋に手を入れ、買ったばかりの揚げ菓子を次々と口へ放り込んでいく。

 彼の無造作な食べ方に、釘付けになった。


「アデルも食べますか?」


 紙袋を揺らして、目の前に差し出された。

 さっきまで食欲がなかった筈なのに、お腹が空いてくる。

 恐る恐る菓子をひとつ手にとって口にした途端、肩の力が抜けていく。


「ひとりじゃ食べられないので、どうぞ」

「……では、お言葉に甘えて」

 

 

 もうひとつ口にして、顔をほころばせた。甘いものは、いつか世界を救うかもしれない。

 ルシアンの笑う声につられて顔を上げると、目尻を下げていた。

 

「美味しいですね?」

「……はい」

 

 こんなの、デートみたいだった。


 アデルは頭を振って、思考を払う。

 傾けられた紙袋から揚げ菓子を取り出し、口に運ぼうとした。


 

「アデルが失恋した相手って、どんな奴ですか?」

 

 菓子を落としかけて、慌てて掴んだ。

「……どんな人って……」

 本人を見られず、摘まんだお菓子を凝視した。

 

「気になるじゃないですか。あのアデルが好きになる人ですよ?」

「どのアデルですか……?」


「超ド真面目で、大人しいアデル」

 ルシアンに躊躇いなく言われ、視線を泳がせた。心当たりはある。

 

 

「アデルは、恋愛するとどうなるの?」

 

 彼の藍色の目が、細められる。

 まるで全てを見透かしそうな視線から、アデルは顔を背けた。

 

「別に、普通です。それに、もう終わった恋ですから」

 

 口にして、胸が痛くなる。

 終わらせるなんて、本当にできるのか。うるさい鼓動の音に、知らんぷりをした。


 

「何故、そいつのことが好きだったんですか?」

「な、なぜ……?」


 たしかに、どうして彼を好きだったのか。

 アデルは思考を巡らせると、理由はいくつも思いついた。

 仕事中に真っすぐ見てもらえるたびに嬉しくなるし、たまにくだける口調も好き。

 

 そもそも、彼をつよく意識し始めたのは——。

 

 

「辛かったあのときの言葉……」


 まだ聖女になったばかりの頃、魔物の被害があった街へ応援要請に行ったとき、治療の遅いアデルは患者や先輩の聖女に怒鳴られた。

 不甲斐なさに落ち込んでいると、声をかけてくれたのがルシアンだった。

 

「何と言われたんですか?」


 アデルは懐かしい気持ちになりながら、ゆっくりと口を開けた。


 

「アデルさまー!」

 

 はた、と我に返り、言葉を飲み込む。

 あのときの言葉をそのまま口にしそうになり、血の気が引いた。言ってしまったら、バレてしまう。

 

 もう一度呼ばれて振り返ったアデルは、信徒である顔馴染みの子供を見つけて、頬をほころばせた。

 走り寄ってきた少年に、少し身をかがめた。

 

「こんにちは」

「ちわ!ねえ、次はいつ大聖堂で祈祷するの?」

 

「え?あ、次の当番は、えっと……」

「ちょうど来週ですよ」

 

 ルシアンも子供と目線を合わせて、おだやかな笑みを浮かべた。

 

「今日も他の聖女様が、祈祷してくれるよ」

「ううん。アデルさまのお祈りが一番元気になれるんだ!それにお話できるし、その日がいい!」


 無邪気な少年に笑顔を向けられ、はにかむ。

 少年は大きく手を振って、背を向けて走り去っていった。


 

「人気者ですね」

「あはは……最近は少しだけ聖女様らしくなれたような気がします」


「コツでもつかみましたか?」

「そうですね……」

 数年前に、信徒の前で狼狽える自分を思い出して、苦笑いをする。


「ルシアン様みたいに、丁寧に話を聞くようにしました」


 アデルは口下手なところは変わらないが、信徒たちの不安に寄り添うと落ち着いて言葉を選べるようになった。

 

 

「俺のこと、そう見えるんですか?」

「……はい?そうですが……?」

 

 信徒や聖女に対して丁寧な対応をするルシアンは、誰からも好かれ信頼を置かれていた。

 そんな彼に、憧れていた。

 

 

 ルシアンは俯いたあと、少年の走り去った方へ視線を向けた。


「あの子も随分元気になりましたね」

 少年は長く病に臥していたが、聖女の力のおかげですっかり元気になった。

 

「はい。よかったです……」

 

 重篤者のもとへ祈祷に赴いたとき、何度もあの子の家まで通ったことを思い出す。

 感謝を告げるために祈りを捧げると、神の力を授かる聖女の白髪の間を、風がすり抜けた。

 

 

 

 周辺の国々の中で最も人や物資であふれるこの街は、平日の昼でもにぎわっていた。

 遠くから見える大聖堂のステンドグラスも、時刻を知らせる鐘の音もいつもより綺麗だった。


「どこか行きたい場所はありますか?」

「いえ……」

 

「では、俺の好きな場所に行っていいですか?」


 にっと歯を見せた無邪気な彼に、アデルは一拍遅れて頷いた。


 

 ルシアンが向かった先は、大聖堂近くの施療院だった。

 傷病者や穢れを負った者を受け入れる教団の施設であり、アデルも訪れたことがあった。

 

 彼は施療院の正面の玄関へ行かずに、庭の方へ足を向けた。

 木々に覆われた細い道を奥へ進むと、花であふれた庭園が目の前に広がった。


「患者の方は、ここを散歩することが多いらしいですよ」


 アデルは返事ができずに身を屈め、鮮やかな花の匂いを嗅いだ。

 

 

「で、本命はこっちです」


 アデルは立ち上がり、既に先に行ってしまったルシアンの後ろを追った。

 色とりどりの花に囲まれた道を進み、巨大な温室の前で足を止めた。

 


「お先にどうぞ」

 ルシアンが扉を開けて脇に寄る。

 

 アデルは恐る恐る足を踏み入れると、そこは湿った空気と草花の匂いに満ちていた。

 やわらかい土が敷かれた道は中央へつづいており、薬草や白い花に囲まれていた。


「この薬草は、うちの教団でも使われます。ここの人たちは、薬草くさいってあまり近寄らないんですよ」

「ふふ」


 ガラス越しに午後の日差しが落ちて、草の上を流れる水がきらめいた。

 


「ほら、あそこ古いガラスがまだ残ってるんですよ」


 ルシアンは被っていた帽子を脱いで、天井の色つきガラスを指さした。

 アデルは、やけに嬉しそうに見上げる彼に気がついた。


「好きなんですか?」

「……そう、だね。ガラスって綺麗じゃないですか?ステンドグラスとか」


 頷いて、自分の手元を見た。

 彼の好きなものをひとつずつ知るほど、胸が痛くなる。



「アデルは可愛いですね」


 やさしい眼差しの彼と目が合う。

 一体何を言われたのか理解できず、瞬いた。


「適当にごまかせばいいことも、全部真剣に考えて超マジメ」

「……ほ、褒めてますか……?」


 ルシアンの口の端が上がった。

 

 

「祈りは、必ず届く」


 低い声が、静かに落ちた。

 それはアデルが泣いていたとき、ルシアンに言ってもらった言葉であり、彼を好きになるきっかけだったもの。

 

 

「失恋した相手って、俺?」


 アデルは、絶句した。

 そんなわけないと誤魔化そうとしたが、ルシアンに真っすぐ見つめられるとやっぱり嘘をつけなかった。


「……そうだと、したら?」

 

 神様の最後のご慈悲だと、観念して瞼を伏せた。


 

「嬉しいなって、考えてた」

 

 予想していなかった返事に、耳を疑った。

 アデルの反応を楽しむように、ルシアンは口角を上げる。

 

 

「ど……どういう意味ですか?」

「うん?俺も、前からアデルのことが好きだったってことですよ」


 

 いつもの調子でおだやかに言われ、頭が真っ白になった。

 彼の言葉を反芻して現実を疑ったあとに、大事なことを思い出す。

 

「で、でも婚約したと……」

「こんやくゥ?」


 眉を寄せたルシアンは足元へ視線を落としかけ、勢いよく顔を上げた。


「先週、断ったやつか。何がどうなってそんなことに……」

「縁談の相手と話しているところを見た、と聞いて」

 

「……あー。あちらがわざわざ大聖堂まで挨拶に来てたときか……」

 

 

 アデルは、瞬きを繰り返した。

 それじゃあ今日一日、なんだったのか。


 

「アデルは今日、失恋して泣いてたよね?」


 ぎくりと肩をこわばらせた。勘違いしていた上に、全てがバレている。

 彼の笑いを堪える声が、すぐそばで聞こえた。

 

 

「……泣くほど、俺のこと好きなんですね」


 トドメを刺され、口を引き結んだ。今更、誤魔化しても仕方ない。

 彼がやけに嬉しそうに見えて、アデルは胸の前で両手を組んだ。


 

「し、信じられません……こんなの、神様のおかげです」

「ぶはっ、そんなわけないですよ。神様は関係ない」


 祈ろうとした彼女の両手を、ルシアンがほどいた。

 冷たい大きな手に初めて触れ、心臓の音がうるさくなる。

 


「もう一度振り向かせるつもりでしたが、まだ好きでいてくれてよかったです」


 のぞき込まれたアデルは、彼の言葉を頭の中で繰り返す。

 その言い方は、まるで。


 

「私の気持ち、前から……」

「知っていましたよ」


 

 当然のように言い切ったルシアンを、見つめることしかできなかった。

 長い恋心を抱いた自分を振り返って、言葉を無くす。いったい、いつから。


 

「最初は、信じませんでした。君みたいな子に好かれると、夢にも思いませんでしたから」


 ルシアンの指が、アデルの指先をいじった。

 全く働かない頭で、彼の長い指をぼんやり眺めた。

 

 

「あのとき泣いていた子が、今では信徒から選ばれる聖女になっていると……感慨深くなりますね」


 灰色がかった茶色のまつ毛が伏せられ、瞬きするたびに揺れる。

 あの日、落ち込んだアデルに、『祈りは、必ず届く』と彼が言ってくれた魔法のことば。


「……私はあの言葉のおかげで、やっと聖女になれた気がします」

 

 彼の言葉を信じ、鍛錬を重ねた。

 今も変わらず時間はかかるが、深い傷まで祈りを届けることができるようになり、今では重篤者に祈祷することが増えた。

 

 

「アデルの努力のおかげですよ。俺は関係ない」

 彼の指が離れ、外気にさらされた手が急に冷たく感じた。

 

「自分で言うのもなんだけど、俺は相手の欲しい言葉がわかります」

 ルシアンは持っていた帽子のつばの先を、指の腹で撫でた。


 

「アデルに言ったことも、ありきたりで薄っぺらかった、と今でも思うよ」

 

 自嘲するように吐き捨てた彼は、表情を歪めた。初めて見る、顔。

 アデルは眉を寄せて、ルシアンに一歩近づいた。


 

「ありきたりでも、私の大切な言葉です。薄っぺらくなんか、ありません!」

 

 はっきりと言った彼女に、ルシアンは目を丸くした。

 アデルは離れた手にそっと触れ、彼をのぞき込む。


「ルシアン様は丁寧に話を聞くからこそ、相手の言いたいことがわかるんじゃないですか?」


 どんな人に対しても真摯に対応するいつもの彼を思い浮かべる。

 いつも、そんな風に思いながら仕事をしていたなんて、知らなかった。

 

 

「俺は……君が思っているようなすごい人間じゃないよ」


 夜の色をした瞳で、アデルを真っすぐ見た。

 


「健気なアデルを……泣かせたいとか、やわらかそうって考えている男だよ」

 

 触れた彼の指が、アデルの手の甲を撫でた。

 

 意味を理解して、心臓の音が速くなっていく。

 知らない彼の一面を見つけるたびに、目が離せない。


 

「……そんなあなたを、教えてくれますか?」

 

 そっと彼の手を包んだ。

 ルシアンは笑みを消し、手の角度を変えて華奢な指と絡め合った。

 

 見つめ合うふたりの足元で、帽子の落ちる軽い音が響く。

 

 

「……今すぐ?」

 

 長い指で顎を掬われ、至近距離で目が合う。

 

「少し、だけ」

 

 ちいさな声で答えると、藍色の目が細くなった。


 

 顎に添えた指先が輪郭をなぞった。

 

 大きな手で頬を包まれ、ゆっくり彼が近づいてくる。

 彼の吐息が肌に触れると、ルシアンがぴたりと止まった。


 

「……何度も告白しそうになったけど、俺は待ってたんです」

「待つ……?」


 伏せた灰色がかった茶色のまつ毛は長く、影ができていた。

 アデルが目を奪われているうちに、頬に触れていた彼の手が、彼女の後頭部にまわった。

 

 

「俺を求めるくらい、もっと好きになってくれたらいいな、って」


 やわらかい感触が、口の端を掠めた。

 わずかに離れたあと、後頭部を弱い力で引き寄せられ、目を閉じる。


 彼の唇に、吐息ごと塞がれた。


 つないだ彼の手の力が強くなり、アデルも応えるようにきつく握った。

 今度は、ルシアンの唇がすぐには離れず、アデルは堪えていた息をこぼした。

 頭の後ろを支えていた彼の指が、髪の間でわずかに曲がった。

 

 

 顔を離した彼に真っすぐ見つめられ、視線を落とした。

 彼の手が、いつのまにかあたたかい。

 

「……ルシアン様の、思い通りだったわけですね」


 互い違いの袖に触れて見上げると、彼の視線が唇へと移った。

 

 後頭部にまわった彼の手が、アデルの髪をすくように動く。

 ルシアンは顎の角度を変えて、少しずつ近づいてくる。

 

 鼻先が触れそうになり、アデルは彼の肩を控えめに押した。

 

 

「……少し、です」

「そうだった。じゃあ、また今度にしましょう」


 また、と言われて、言葉を失う。


 遅れて赤くなった彼女の頬に、ルシアンはキスを落として、悪戯に微笑む。

 慣れないむず痒さにアデルが眉を下げると、彼の笑みがさらに濃くなった。

 

 

「俺。アデルの困った顔が、すごく好きなんです」

 

「んな……っ」

 

 からかってくるいつもの彼を思い出して、更に頬が熱くなる。

 顔を手で隠すと、きつく抱きしめられた。

 あたたかい腕の中、嗅ぎなれた祭壇で焚かれるお香の匂いがした。

 

 

「アデル」

 

 ひどくやさしい、うれしそうな声。


 聞いたことのない声音に、ますます顔を上げられなくなる。

 頬にかかった髪をそっと耳にかけられ、もういちど呼ばれる。

 

 恥ずかしさを押し込めて、渋々と頭を上げた。

 

 くしゃりと笑った大好きな笑顔を前にして、つられて口元をほころばせた。

 


 

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


先日、異世界恋愛長編『境界線を越えたら、不器用な守護人にじわじわ溺愛されました』も完結しました。

じれじれと少しずつ距離が縮まる恋がお好きでしたら、こちらも楽しんでいただけたら嬉しいです。

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