不敵な胎動
扉が閉まったあとも、しばらくの間、真凜は動かなかった。
さっきまで座っていた椅子に、力が抜けたまま深く沈み込んでいる。
何も聞こえない。周囲の困惑した声も、遠ざかる足音も、すべてが現実味を失って遠のいていく。頭の中では、先ほど突きつけられたあの音声だけが、呪いのように何度も繰り返されていた。
——『証拠、残しといた方がいいかなって思って』
自分の声だ。紛れもなく、はっきりとした、自分の声。
「……はは」
小さく、乾いた笑いが漏れた。
「なに、それ」
呟く。だが、否定はしない。できない。それが紛れもない事実だと、自分が一番よく知っているからだ。
ゆっくりと両手で顔を覆う。指先が、わずかに震えていた。
——終わった。
普通なら、誰もがそう確信する場面だった。でも。
「……まだ」
ぽつりと、湿り気を帯びた言葉が落ちる。
「まだ、終わってない」
ゆっくりと手を下ろす。その瞳は、さっきまでとは明らかに違っていた。
絶望に染まってなどいない。むしろ——冷徹に、凪いでいる。
(全部、ひっくり返せる)
思考が、静かに、そして高速に動き出す。
証拠? 信用? そんなもの、後からいくらでも書き換えられる。どうにでもなる。
(問題は、流れだ)
今は不利。それは理解している。だが、それはあくまで「今」この瞬間の話に過ぎない。終わりではない。
「……ふざけんな」
低く吐き捨てる。
「あんなので……」
脳裏に、音羽の凛とした顔が浮かぶ。
「勝った気でいんの?」
不敵に、唇が歪んだ。
「ありえない」
そのとき。
無意識に、手が自身の腹部に触れた。
ほんの一瞬。無意識の所作だった。だが——動きが止まる。
「……あ」
小さく息が漏れる。視線が、ゆっくりと自分の手元へと落ちた。
まだ何も変わっていないはずのそこを、穴が開くほどにじっと見つめる。
(そうだ)
思考が、火花を散らして繋がる。
点と点が、一気に鮮やかな線を描き出す。
(これがあるじゃん)
ゆっくりと、口元が吊り上がった。
「……そっか」
声が、弾んだように少しだけ軽くなる。
「まだ、使ってない」
誰にも言っていない。誰にも知られていない。
だからこそ——これには絶対的な価値がある。
「……あは」
笑いが漏れた。先ほどまでの自嘲気味な響きとは違う、明らかに温度の狂った笑いだ。
「じゃあ、いいよ」
立ち上がる。その足取りには、もう一筋の迷いもなかった。
「そっちがその気なら」
スマホを取り出し、画面を開く。
連絡先をスクロールする指が、ある一点で止まった。
「——ねえ」
小さく、独り言のように呟く。
「どこまで壊せば、終わりにしてくれるの?」
答えはない。だが、もうそんなものは関係なかった。
「全部、奪うから」
その声は静かで——そして、確実に壊れていた。
廊下を歩き出す。
そこには、さっきまでの“追い詰められた女”の影はどこにもない。
いるのは——まだ勝てると信じている、何よりも質が悪く、厄介な存在だった。




