孤独の果て
翌日。空気は、もう隠そうともしていなかった。
視線は避けられる類のものではない。はっきりと、“値踏み”の色に変わっている。
ひそひそとした囁き声。止まらないスマホの通知音。音羽が席に座った瞬間、周囲の会話が一斉に切れた。
(……ここまでか)
心の中で、静かに呟く。予想はしていた。けれど——実際に全身に浴びるそれは、想像よりもずっと重く、冷たい。
「小鳥遊さん」
呼ばれて顔を上げると、上司が事務的な顔で立っていた。
「少し、いいか」
もう、断れる段階ではない。
「……はい」
短く答えて席を立つ。向かった先は会議室。昨日と同じ場所だ。
ただ、昨日とは明らかに空気の重さが違っていた。
「結論から言う」
上司が、感情を排した声で切り出した。
「しばらくの間、自宅待機に入ってもらう」
一瞬、周囲の音が消えたような錯覚に陥る。
「……理由は」
分かっている。それでも、言葉にして聞かずにはいられなかった。
「社内通報の内容と、提出された資料だ」
上司は淡々と続ける。
「現時点では事実確認中だが、業務への影響を考慮しての判断だ。……“処分”ではない。だが、調査が終わるまで、期間は未定だ」
追い打ちのような宣告。
「私物は後でまとめて送る」
つまり、今すぐこの場から去れ、ということだ。
「何か言いたいことはあるか」
形式的に問われ、音羽は即答した。
「ありません」
言ったところで、何も変わらない。その冷徹な現実だけがそこにあった。
「分かった」
それだけで終わる。あっけないほど、簡単に。
会議室を出る。フロアに戻ることは許されず、そのまま出口へ向かうよう促された。
途中、何人かとすれ違う。だが、誰一人として目を合わせようとする者はいなかった。
(……こうなるんだ)
頭では理解していたはずだ。でも、どこかで“まだ大丈夫”だと思っていた自分もいたのかもしれない。
自動ドアが開く。外の空気が、やけに冷たく感じられた。
立ち止まる。数秒。ただ、それだけの時間。
スマホが震えた。画面には『神楽 陸』の名前。
——出なかった。
今、その声を聞いたら、張り詰めた何かが崩れてしまいそうな気がしたから。
代わりに、別の通知が目に飛び込んでくる。SNSのタグ付き投稿。
『某企業の女性社員、略奪疑惑』
『被害女性が証拠提出済み』
震える指でスクロールする。そこには、ぼやけた写真が数枚。
ホテルの前。——あの日のものだ。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「仕事、早いじゃじゃん」
完全に、外にも漏れている。もう“会社の中だけ”の話ではない。
「……最悪」
呟く。でも、涙は出なかった。その代わりに、身体の奥底で何かが静かに、凍てついていく。
(……まだだ)
終わってない。終わらせない。
スマホを握り直し、今度は自分から発信した。
コール数回。すぐに繋がる。
「……出ると思った」
低い声が響く。
「自宅待機」
短く告げた。
「そっちは」
『想定内だ』
陸の返答に迷いはない。
「外にも出たでしょ」
『ああ。記事になる前段階だな』
電話越しに、微かな舌打ちが聞こえた気がした。
「……どこまで読めてるの」
『だいたいはな。証拠、あと一つで揃う』
「……遅い」
思わず本音が漏れる。
『分かってる。だから急いでる』
沈黙が数秒流れる。だが、それで十分だった。
「……ねえ」
音羽は静かに問いかけた。
「もし、間に合わなかったら?」
『そのときは』
陸が答える。
『別のやり方で潰す。迷いはない』
「……犯罪じゃないやつでお願い」
小さく言うと、陸は即座に返した。
『ギリギリな』
「はは……ほんとバカ」
少しだけ、笑みが零れた。その声は、さっきよりもほんの少しだけ軽くなっていた。
『……持つか』
陸が低く聞く。
「持たせる。ここで折れたら、全部終わりだから」
その言葉に、嘘はない。
『……ああ。すぐ動く』
通話が切れ、画面が暗くなる。
音羽はゆっくりと息を吐き出した。見上げる空は、やけに、突き抜けるように青かった。
(やってくれるじゃん、真凜)
心の中で呟く。だが、その顔に浮かんでいたのは悔しさだけではない。
「……絶対、返す」
その声は静かで、冷たくて。それでも確かに、反撃の炎が燃えていた。
同じ頃。
真凜は、自宅のソファに寝転びながらスマホを眺めていた。
タイムラインに流れてくる投稿。まとめサイト。拡散されていく噂。
「……落ちた」
満足そうに呟く。
「あっけな」
指で画面をなぞる。
「もう終わりでしょ、これ」
くすくすと笑い声を漏らす。
「音羽……どんな顔してるんだろ」
想像するだけで、楽しくて仕方がなかった。
「かわいそう」
口ではそう言いながら、その声に同情の色は微塵もない。
「でも——」
少しだけ目を細める。
「これで終わりじゃないよね?」
ぽつりと呟くその笑みは、どこか歪んでいた。
「だって、まだ足りない。……もっと、壊れてくれないと」
スマホの光が、真凜の目を妖しく照らす。
その奥にあるのは、底の見えない、どろりとした悪意だった。




