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宣戦布告


同じ日の夕方。オフィスの空気は、さらに悪化していた。


朝に感じた違和感が「気のせい」で済む段階は、もうとうに過ぎている。視線は明確に避けられ、近くを通るたびに会話が露骨に途切れる。音羽が歩みを進めるごとに、周囲の空気がさざ波のように不自然に揺れた。


(……早い。思っていたよりも、ずっと)


「……やるじゃん」

小さく呟いた声音には、濃い皮肉が混じっていた。

直接的な攻撃はしてこない。けれど、外堀から着実に、精神を削り取っていく。いかにも、あの女らしいやり方だった。


そのとき、デスクの内線が静まり返ったフロアに響いた。

『小鳥遊さん、少しよろしいですか』


受話器の向こうから聞こえたのは、上司の硬い声だった。

『外部のコンプライアンス担当の方が来ています。確認したいことがあると』


「……コンプライアンス?」

一瞬だけ、思考が止まる。だが、すぐに最悪の形を理解した。

(そこまで、持ち込んだんだ)


「……今、行きます」

短く答えて受話器を置く。


会議室の扉を開けると、そこには厳しい表情の上司と、一人のスーツ姿の女性が座っていた。無駄のない所作、机の上に置かれた会社名の入った封筒と名刺。


「はじめまして」

女性が立ち上がる。

「当社と顧問契約を結んでいる、外部コンプライアンス調査を担当しております、橘と申します」


淡々とした名乗り。

「本日は、社内通報に関する事実確認で伺いました」


——完全に、「正式ルート」に乗せられた。


「……社内通報?」

音羽が鋭い視線を向けると、橘は表情を変えずに頷いた。


「はい。匿名での通報になりますが、特定の社員が私的な人間関係におけるトラブルを抱え、それを業務に影響させている可能性がある、という内容です」


逃げ場のない、事務的な言い回し。

「その中で」

橘が書類を一枚めくる。

「あなたのお名前が挙がっています」


会議室の空気が、静かに、そして重く張り詰めた。


「……具体的には」

音羽は感情を押し殺し、先を促す。


「ある男性との不適切な関係性、および、その男性を巡る第三者とのトラブル。さらに、その事実を認識しながら会社へ適切な報告を行っていない可能性——」


完璧に組み立てられた筋書きだった。


「……証拠は」

「提出されています」


橘の即答に、音羽は確信した。

(真凜……)

ここまで手際よく揃えてくるのは、あいつしかいない。


「もちろん、現時点で断定はいたしません。あくまで事実確認の段階です」

橘は冷静な口調を崩さない。


「ただし、内容が内容ですので、会社としては看過できません。いくつか質問させていただきます。まず、その男性との関係について——」


その後の問いは、すべてが緻密に計算されていた。

否定しても疑われ、曖昧にしても不利になる。どの答えを選んでも、ネガティブな要素として「記録」されていく。


「……以上です」

一通りのヒアリングを終え、橘はペンを置いた。

「本日の内容は記録として保管し、必要に応じて追加の調査を行います。結果によっては人事対応の可能性もございますので、その点はご理解ください」


軽い言葉ではなかった。


「ご協力ありがとうございました」

形式的に頭を下げるその動作一つまで、隙がない。

橘が部屋を出ていく。扉が閉まる音が、やけに重く、宣告のように響いた。


「……大丈夫か」

残された上司が低く声をかける。


「はい。問題ありません」

即答する。それ以上は言わない。言っても意味がない。


部屋を出て廊下を歩きながら、音羽は迷わずスマホを取り出した。

コール一回で、相手は出た。


「……来た。コンプラ経由。証拠も出してる」

『ああ。こっちも動いてる』


陸の低い声が返る。

『予定通りだ。全部、逆手に取る』


音羽は小さく息を吐いた。

「……間に合うの」

『間に合わせる』


迷いのないその声に、音羽は頷いた。

「……ならいい。私もやる」


その声は、もう揺れていなかった。

通話を切り、画面が暗くなる。

(やってやる)


ここからは防戦ではない。——反撃だ。


同じ頃。

真凜は静かなカフェのテラス席で、スマホを眺めていた。

画面に表示された「調査開始」の連絡に、口元が緩む。


「ちゃんと動くんだ。会社って便利」


小さく笑いながら、カップを傾ける。

「これで、逃げ場はないでしょ」


その瞳は、獲物を追い詰めた残酷な確信に満ちていた。

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