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静かなる陥穽(かんせい)と、その幕開け

昼過ぎ

オフィスの空気は、確実におかしかった。


ふとした瞬間に視線が合えば逸らされ、盛り上がっていた会話が自分の姿を見た途端に途切れる。実体のない何かが先に広がっているような、肌を刺す違和感。


「……何」


小さく呟いたそのとき、背後から声をかけられた。


「音羽さん…ちょっといいですか」


振り返ると、同じ部署の女性が気まずそうに佇んでいた。

「さっき、外線で電話があって……」


その一言で、心臓を冷たい手が撫でたような嫌な予感が走る。


「……電話?」

「女性の方で、お名前は仰らなかったんですけど」

言いづらそうに、彼女は言葉を繋いだ。

「音羽さんのことで、男性関係のトラブルがあるんじゃないかって……その、事実確認をしたいって」


一瞬、思考が白く染まる。


「……は?」

理解が追いつかない。だが、直感は即座に一つの名前を弾き出した。


(真凜……)


それ以外、考えられない。


「すみません、変なこと聞いて」

慌てる相手を、音羽は短く遮った。


「大丈夫です。問題ありません」


それだけ告げて、逃げるようにその場を離れる。

直後、ポケットの中でスマホが震えた。画面に表示された名前を見て、わずかに息を呑む。


——神楽陸。


一瞬の逡巡のあと、通話ボタンを押した。


「……何」

『今どこだ』

低く、切迫した声が返ってくる。


「仕事中」

『少し外に出られるか。話がある』

「……今?」

『今じゃないとまずい』


その断定的な響きに、ただ事ではないと悟る。


「……五分だけ」

自分でも驚くほど、すぐに答えていた。


『下にいる』

短くそれだけ言って、通話は切れた。


数分後。ビルの外に出ると、すぐに見つけた。壁にもたれて立つ陸の顔を見た瞬間、音羽の中で違和感は確信に変わった。


「……何があったの」

近づきながら問う。陸は一瞬だけ視線を向けたあと、射抜くような強さで音羽を直視した。


「昨日、真凜と会った」

唐突な告白。だが、続きがあるのは明白だった。


「体調が悪いと呼び出されて、迎えに行った。そこまでは覚えている」

一歩、陸が距離を詰める。


「でも、そのあとの記憶が飛んでるんだ」


音羽の眉がわずかに動く。


「……飛んでる?」

「気づいたときには、ホテルにいた」


空気が一瞬で張り詰める。


「……は?」


「状況は、どう見ても“そういうことになってる”状態だった」

陸は視線を逸らさずに続けた。


「でも、俺は何もしてない。記憶がないのもおかしいし、経緯も全部不自然だ。……嵌められた可能性が高い」


その言葉が、静寂の中に重く落ちる。

音羽はすぐには言葉を返せなかった。

話の筋は通っている。だが、あまりにも衝撃的な内容に、すぐには信じきれない自分がいた。


「……なんで、それを私に言うの」

「さっき職場に電話が来ただろ」

陸の言葉に、音羽の目が見開かれる。


「お前の名前を出して、トラブルの確認。……そうだろ?」

「……やっぱり」

小さく、震える声が漏れた。


「もう、動いてる」

「外側から固めてきてるんだ」

陸が畳みかけるように言う。沈黙が数秒流れる間に、バラバラだった情報がパズルのように繋がっていった。


「……最悪。完全に仕組まれてる」

ようやく二人の認識が揃った。音羽は顔を上げ、覚悟を決めた目で問いかける。


「で、私はどうすればいいの」


その問いに、陸は迷わなかった。


「一人で抱えるな。これはもう、お前だけの問題じゃない」

さらに一歩近づき、彼ははっきりと言い切った。


「俺も当事者だ。……一緒に潰す」


音羽の呼吸が、わずかに乱れる。


「証拠も動きも、全部洗い出して、先に手を打つ」


「……簡単に言うね」


「簡単じゃない。でも、やるしかない。このままだと、お前だけが悪者にされる」


その一言が、音羽の胸を深く突いた。何も言えずに立ち尽くす彼女に、陸は追い打ちをかける。


「時間がない。さっきの電話が一回目なら、次はもっと大きく来るぞ」


逃げ場はない。それは、もう分かっている。


「……だから関わるなって、言ったでしょ」

絞り出すような声。だが、それは拒絶の響きを持っていなかった。


「もう巻き込まれてる。俺も、お前もな」

その言葉に嘘はない。数秒の沈黙。その間に、音羽は十分すぎるほど思考を巡らせた。


「……条件があるわ」

顔を上げた音羽の瞳には、鋭い光が戻っていた。


「私のやり方に口を出さないこと」

「内容による」

陸は即答した。


「危ない橋を渡るなら止める」

「……面倒な人」

「お互い様だろ」


そこで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んだ。


「……五分って言ったでしょ。もう時間よ」

時計を見つめるが、足は動かない。


「どうするの」

最後に問う。その意味は、はっきりしていた。

組むのか、組まないのか。


「決まってる。最初からな」

視線が真っ向からぶつかり合う。

「……ほんと、バカ」

小さく吐き捨てた。だが、その声はもはや拒絶ではなかった。


「戻るわ。……あとで連絡する」

背を向け、歩き出す直前に残したその一言。それが彼女の答えだった。


陸は何も言わずに、その背中を見送った。姿が見えなくなったあと、彼は重く、ゆっくりと息を吐く。


「……始まったな」

誰にも聞こえない声で呟く。その目は、もう迷っていなかった。


音羽に。そして、仕掛けてきた側に。

静かに、反撃の幕が上がろうとしていた。

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