甘い香り
目を覚ました瞬間、頭の奥が鈍く痛んだ。重い。思考がうまく回らない。
天井を見上げたまま、しばらく動けなかった。
「……どこだよ」
かすれた声が出る。見慣れない天井。知らない部屋。数秒遅れて、昨日の記憶を辿ろうとする。断片的にしか思い出せない。真凜からの電話。体調が悪いという声。呼び出されて、迎えに行って——そこから先が、曖昧だ。
「……は?」
ゆっくりと体を起こす。服の乱れに気づく。嫌な予感が、背中を這う。
「……なんだよ、これ」
記憶がない。それなのに、状況だけが“そう見える”形で残っている。
「……ふざけんな」
低く吐き捨てる。頭痛よりも、苛立ちの方が強かった。ありえない。自分がこんなミスをするわけがない。そう思う一方で、完全に否定できない状況が揃っているのが気持ち悪い。
「……思い出せ」
目を閉じる。無理やり記憶を引きずり出す。自販機。飲み物。あのあと——。
(……待て)
違和感が引っかかる。
「俺、何も飲んでねぇ……」
自分の記憶を辿る。確かに飲み物は買った。だが、それを口にした記憶は一切ない。それなのに、あの急激な意識の脱落は何だ?
鼻の奥に残る、あの不快なほどに甘い残り香。そして——。
陸は自分の頬に触れた。そこには、乾いてパリパリとした、膜のような何かが付着した感覚があった。
「……これか」
真凜が顔を覗き込んできたとき、頬を撫でたあの掌。あのとき感じた異様な温度と粘り気。
さらに、彼女を支え続けていた間に吸い込み続けた、あの異常な香水の匂い。
「……そういうことかよ」
目を開ける。その瞳には、もう迷いはなかった。
「……やられた」
確信に変わる。吸入と接触。二段構えの細工。
怒りが、静かに湧き上がる。
「……クソが」
拳を強く握る。壁を殴りたい衝動を、ぎりぎりで抑える。ここで感情に任せるのは違う。
「……証拠」
低く呟く。
「残してるはずだろ」
あの性格なら、やってないはずがない。
スマホを手に取る。画面を開く。履歴を確認する。通話、時間、位置情報——全部を一つずつ追っていく。
「……やっぱりな」
昨日の動きが、不自然に繋がっている。
「……仕込まれてたな」
確定だった。問題は——ここからだ。
「……どう動く」
呟く。普通なら、関わらないのが正解だ。面倒ごとは避ける。それが一番楽だ。
でも——脳裏に浮かぶのは、一人の顔だった。
音羽。
あのときの、張り詰めた横顔。全部抱え込んで、それでも何も言わなかった姿。
「……はあ」
大きく息を吐く
「ほんと、面倒だな」
でも、もう答えは出ていた。
「……放っとけるかよ」
低く呟く。その声には、はっきりとした意思があった。
巻き込まれてるのは、自分だけじゃない。
むしろ——本命は、あっちだ。
「……先に動かれたら終わる」
時間がない。そう判断する。ベッドから立ち上がる。頭の重さはまだ残っている。でも、それどころじゃない。
「……確認する」
まずは、音羽に会う。それが最優先だった。
信じてほしい、なんて甘いことは思っていない。でも——誤解されたままは、もっと無理だった。
「……全部、潰す」
静かに言い切る。その目は、もう完全に覚めていた。
部屋を出る直前、足を止める。
「……真凜」
小さく名前を呟く。その声には、感情はほとんど乗っていなかった。ただ一つあるのは——明確な敵意。
「……やり方、間違えたな」
それだけ言って、扉を開ける。
廊下に出た瞬間、空気が変わる。ここから先は、もう引き返せない。
巻き込まれるんじゃない。自分から、踏み込む。
「……待ってろ」
誰に向けた言葉かは、自分でも分かっていた。
音羽に。——そして、仕掛けてきた側に。
静かに、戦いが始まろうとしていた。




