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仕組まれた罠

夜は、不自然なくらい静かだった。

嫌な予感というのは、こういうときほど当たるものだと、陸はどこかで分かっていた。


それでも足を止めなかったのは、電話越しに聞こえたあの声が、あまりにも弱々しかったからだ。

「……陸くん、ごめん、ちょっと無理かも」

かすれた声。演技だと疑うには、ほんの少しだけリアルすぎた。


「今どこ」

短く返すと、少しの間のあとに場所が告げられる。迷う時間はなかった。音羽のことが頭をよぎる。行くべきじゃない、関わるべきじゃない。そういう本能的な警鐘は確かに鳴っていた。それでも——見捨てるという選択肢は、陸の中にはなかった。


「……最悪だな」

小さく吐き捨てて、歩き出す。指定された場所に着いたとき、真凜は壁にもたれるように座り込んでいた。顔色は青白く、呼吸も浅い。


「大丈夫か」

声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「……来てくれたんだ」

潤んだ瞳が、助けを求めるように陸を捉える。


「とりあえず、立てるか」

差し出した手を、真凜は一瞬ためらうようにしてから、強く握り締めた。

「……ちょっと、ふらつくかも」

のしかかってくる体重は、予想よりも重い。


「……無理すんな」

自然と肩を貸し、密着する形になる。その瞬間、**真凜の首元から鼻を突くような、甘ったるい香気**が立ち上った。

「(……香水か? 気分悪いのに……)」

眉をひそめたが、今はそれどころではない。だが、一歩踏み出すごとにその香りは肺の深くまで侵食し、じわじわと頭の芯を痺れさせていく。


「少し休めるとこ行くぞ」

歩き出す陸に、真凜は何も言わず、ただ深く寄りかかってくる。


「……ごめんね」

掠れた声。だがその口元は、陸からは見えない角度でわずかに、歪な弧を描いていた。


しばらく歩いたあと、真凜がぽつりと呟いた。

「……ちょっとだけ、飲み物いい?」

近くの自販機で足を止める。

「待ってろ」

陸は彼女を壁に預け、適当なスポーツドリンクを買う。だが、缶を手に取ろうとしたとき、すでに平衡感覚が怪しくなっていた。視界の端がチカチカと明滅する。


「ほら……飲め」

「ありがとう」

真凜はゆっくりと受け取り、一口、二口と喉を鳴らす。


「……少し、楽になったかも」

「……そうか。よかったな」


それ以上深く考える余裕が、もう陸にはなかった。立っているのがやっとだ。


「顔、赤いよ?」

覗き込んできた真凜の手が、陸の頬に触れる。

その掌には、何か粘り気のある、ひんやりとした液体が塗られていた。

触れられた場所から熱が浸透し、一気に血の気が引いていく。


「……っ、お前……」

言葉がうまく出てこない。呂律が回らず、膝から崩れ落ちそうになるのを、逆に真凜が支えた。

「少し休んだ方がいいね」

その声は、さっきまでの弱々しさが嘘のように、低く、落ち着き払っていた。


「……ちょっとだけ、場所移動しよ?」

拒絶する暇もなく、腕を引かれる。驚くほど強い力だった。抗おうとしても、鉛のように重くなった体は言うことを聞かない。


(……やばい、これ……)

そう思ったときには、もう遅かった。


連れ込まれた部屋に入った瞬間、空気が変わる。閉じられた空間。逃げ場のない距離。


「……ここなら安心だよ」

扉が閉まる重い音が、意識の奥底で響いた。


「……何、を……」

やっとの思いで絞り出した問いに、真凜は首を傾げて笑う。


「何も? ただ、ちょっとだけ手伝ってもらっただけ」

一歩、また一歩と距離を詰め、彼女の唇が耳元で止まった。


「だってさ、普通に誘っても、あんたは落ちないでしょ?」

ぞくりと背筋が凍る。


「……ほんと、面倒くさい男」

ため息混じりに吐き捨て、彼女は陸の胸元に手をかけた。


「でも、これでいい。証拠は、こっちで作るから」

スマホのシャッター音が、静寂を切り裂くように何度も響く。


「やめろ……」

声は掠れ、意識は急速に闇へと沈んでいく。最後に視界に焼き付いたのは、すべてを手に入れたと確信して悦に浸る、真凜の狂おしい笑顔だった。


数時間後。

目を覚ましたとき、激しい頭痛とともに記憶の断片が蘇る。

乱れた服。見知らぬベッド。そして、体に染み付いたあの甘ったるい香水の匂い。


「……クソッ」

低く吐き捨てる。何があったかは理解したくない。だが、取り返しのつかない何かが起きたことだけは確実だった。


その頃、真凜は夜の街を歩きながら、スマホの画面をうっとりと見つめていた。


「さて」

画面には、言い逃れのできない“一夜”の証拠。


「どう崩れるかな、これを見たら」

「音羽」と、その名前を口に乗せる。

期待と、圧倒的な悪意。


「あんた、これ見てどんな顔するんだろ。……楽しみ」


くすりと漏れた笑い声が、冷たい夜の空気の中に消えていった。

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