はじめての違和感の正体
第3話
外に出ると、朝の空気が少しだけ冷たかった。
深く息を吸い込む。
家の中にいるより、ずっと楽だった。
駅までの道を、足早に歩く。
いつも通りのはずなのに、なぜか胸の奥がざわついている。
——このままで、本当にいいのだろうか。
さっき浮かんだ疑問が、まだ消えていなかった。
「……考えても、仕方ないよね」
小さく呟いて、首を振る。
どうせ何も変わらない。
そう思っていた——はずなのに。
駅の改札を抜けようとした、そのときだった。
「すみません」
低い声が、すぐ近くで聞こえた。
次の瞬間、軽く肩がぶつかる。
「あ……ごめんなさい」
反射的に頭を下げる。
ぶつかったのは自分の方だと思い込んでいた。
けれど。
「……なんで謝ってるんですか」
静かな声が返ってきた。
顔を上げる。
そこにいたのは、一人の男性だった。
年は、自分より少し上だろうか。
整った顔立ちに、無駄のない立ち姿。
感情の読めない目が、まっすぐこちらを見ていた。
「え……?」
思わず、間の抜けた声が出る。
「ぶつかったのは、俺の方ですよ」
淡々とした口調だった。
責めているわけでも、慰めているわけでもない。
ただ、“事実”を言っているだけの声。
「でも……」
言葉が続かない。
「でも?」
促されて、視線を落とす。
「私が、ちゃんと見てなかったから……」
そう言った瞬間だった。
「それ、本気で言ってます?」
少しだけ、声の温度が下がった気がした。
思わず、息が詰まる。
「……え?」
「自分が悪いって、条件反射で言ってるだけですよね」
図星だった。
何も言い返せない。
「癖ですよ、それ」
静かに言われる。
「……癖?」
「誰にでも謝る癖」
そんなもの、あるのだろうか。
考えたこともなかった。
「……すみません」
気づけば、また口にしていた。
一瞬、間が空く。
そして。
「ほら、今も」
少しだけ呆れたように、彼は言った。
顔が熱くなる。
何がいけないのか、分からない。
でも。
“普通じゃない”と言われている気がした。
「……あの」
何か言わなければと思った。
けれど、言葉が出てこない。
「別に、責めてるわけじゃないです」
先に口を開いたのは、彼の方だった。
「ただ——」
一瞬だけ、言葉を切る。
その目が、少しだけ鋭くなる。
「自分を安く扱うの、やめた方がいいですよ」
その一言が、胸の奥に落ちた。
安く、扱う。
そんなつもりはなかった。
でも。
そう言われて、否定できない自分がいる。
「……意味、分からないです」
やっとの思いで出した言葉は、弱々しかった。
「分からないなら、それでいいです」
あっさりと返される。
「ただ、損しますよ」
それだけ言って、彼は視線を外した。
「じゃあ」
短く告げて、そのまま人混みの中へと消えていく。
残された音羽は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
——自分を、安く扱う。
頭の中で、その言葉が何度も繰り返される。
今まで、そんなこと考えたこともなかった。
でも。
どうしてか、その言葉だけは——
ずっと、離れなかった。




