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違和感

第1話 


——また、今日もだ。


「音羽、まだ終わってないの?」


背後から飛んできた声に、思わず肩が揺れた。



振り返ると、ソファに寝転がったままスマートフォンをいじる妹——真凜が、こちらを一瞥もせずに言う。


「洗濯、もう乾いてるでしょ。早く畳んでよ」


「……うん、今やる」


そう返して、音羽は小さく息を吐いた。


指先はひび割れている。洗剤と水で荒れた手は、同年代の女の子のものとは思えないほど乾いていた。


けれど、それを気にする余裕なんてない。


洗濯物の山に手を伸ばしながら、ふと時計を見る。


もうすぐ、仕事の時間だ。


「ねえ、今日帰り遅い?」


今度は少しだけ機嫌の良さそうな声だった。


「たぶん、遅くなると思う」


「ふーん。じゃあ帰りにコンビニ寄ってきて。これ欲しいから」


そう言って、画面をこちらに向ける。


新作スイーツの画像だった。


一瞬、言葉に詰まる。


財布の中身を思い出したからだ。


「……今月、ちょっと厳しくて」


言い終わる前に、舌打ちが落ちた。


「は?使えな。あんたそれでも働いてんの?」


その言葉に、何も返せなかった。


返しても、意味がないと分かっているから。


「別にいいけど。じゃあお金置いていって」


「……え?」


「家に住んでるんだから、生活費くらい払うの当然でしょ?」


当然のように言われて、音羽は黙り込む。


働いて得たお金は、ほとんど家に入れている。


それでも、足りないと言われる。


理由は、分かっていた。


自分以外の三人が、自由に使うからだ。


「ほら、早くしてよ。あとでお母さんにも言うから」


その一言で、音羽はそれ以上何も言えなくなった。



——逆らえば、もっと面倒になる。


それを、何度も経験してきた。


「……分かった」


小さく頷いて、財布から数枚の紙幣を取り出す。


それをテーブルの上に置いた瞬間、真凜はようやく満足そうに笑った。


「最初からそうすればいいのに」


その笑顔は、誰かに向けるものとは思えないほど冷たかった。


 


ガチャ、と玄関の扉が開く音がした。


「ただいまー」


明るい声とともに入ってきたのは弟の星夜だった。


制服姿のまま、軽く髪をかき上げる仕草がやけに様になっている。


雑誌モデルをしているというのも、納得だった。


「おかえり」


反射的に声をかけると、星夜は一瞬だけこちらを見て

すぐに視線を逸らした。



「……まだいたんだ」



ぼそりと吐き捨てるような声。


胸の奥が、少しだけ痛む。


「ご飯、あとで用意するね」


そう言っても、返事はない。


まるで、最初からいなかったかのように無視される。


そのまま星夜はリビングを通り過ぎ、自分の部屋へと消えていった。


 


——当たり前の光景だ。


そう思い込もうとして、ふと手が止まる。


本当に?


これが、“当たり前”なのだろうか。


 


洗濯物を畳む手を止めたまま、音羽はぼんやりと自分の手を見つめた。


荒れた指先。


割れた爪。


そして、映り込む自分の顔。


食器棚のガラス越しに見えたその姿は、どこかぼやけている。


ダテメガネのせいで、輪郭すらはっきりしない。



「……なんで、かけてるんだっけ」



ぽつりと呟いた声は、誰にも届かない。


理由は、知っているはずなのに。


考えようとすると、なぜか思考が止まる。


 


「音羽ー?まだ?」


真凜の声で、現実に引き戻された。


「あ、ごめん。今行く」


慌てて洗濯物を抱え直す。


考えるのは、あとでいい。


どうせ——考えたところで、何も変わらない。


 


そう思い込んで、音羽はまた手を動かした。


 


——そのときは、まだ気づいていなかった。


この日常が、どれだけ歪んでいるのかを。


そして。


もうすぐ、自分の人生が大きく狂い始めることも。



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