永久の魔王
気が付けば、俺はステンドグラスから荘厳な光が射し込む部屋の中央にいた。
鼻を突くのは、古びた紙と焦げた魔力の匂い。
俺の足元には淡く発光する見慣れない魔法陣。そして周囲には、祈るように手を組み、期待に満ちた表情を浮かべる神官らしき人物が数十名。
(……なるほど、そういうことか)
ネット小説で手垢が付くほど見た展開。察した俺は、確認のため心の中で「ステータスオープン」と唱える。
網膜に浮かび上がった半透明のウィンドウには、案の定、頭を抱えたくなるような文字が並んでいた。
【称号】:異界の勇者
【スキル】:全属性魔法適性、全戦闘術、言語理解……
チートの詰め合わせセットだ。俺は重い溜め息を吐き出すと、歓喜に沸こうとする周囲の空気を切り裂くように口を開いた。
「おい、責任者は誰だ」
ざわめきがピシャリと止まる。
最前列にいた、一際豪華な法衣を纏った老人が、震える声で一歩前に出た。
「おぉ……勇者様! 我らの祈りに応え、この世界を救うために……」
「うるせぇな、黙れ。あんたが責任者か?」
俺は老人の言葉を遮り、冷めた視線を向ける。
召喚された側には拒否権がないのがこの手の定石だが、だからといって「はい、そうですか」と魔王討伐へ向かうほど、俺は聞き分けの良い人間じゃない。
「単刀直入に聞く。用事が済んだら、俺は元の世界に帰れるのか?」
老神官は一瞬、隣に立つ騎士と顔を見合わせた。そのわずかな「間」で答えは出た。
「……残念ながら、帰還の法は失われて久しく。ですが、この国が救われれば、勇者様には相応の地位と、望むままの贅を――」
「ざっけんな!!!」
俺の怒号が聖堂を震わせた。
地位? 贅沢? そんなもののために、俺のこれまでの人生を捨てろというのか。
腹の底からドロリとした熱い塊がせり上がってくる。俺は反射的に、脳内にインプットされた術式を編み上げた。
「―――ノワ・ユーフォリア!!」
俺が叫ぶと同時に、漆黒の魔法陣が床一面に展開された。血痕のような深紅のオーラが吹雪となって吹き荒れ、荘厳だったステンドグラスが、内側からの圧力に耐えかねて木っ端微塵に砕け散る。
「ひいっ!?」
「静まれ! 勇者様、お静まりください!」
悲鳴と怒号が飛び交う中、俺の魔力は暴走に近い勢いで膨れ上がっていく。
「死ぬ事も、生まれ変わる事も許さねぇ…、永遠にその身に絶望を刻み続けやがれ…!」
漆黒のドームが、神殿を飛び越え国を包んでいく。
その日、ひとつの国が機能を停止した。
「……まいったな。必死こいて金貯めて、あのブラック会社に辞表叩きつけて、さあこれからだって時に……。くそっ、本当に最悪だ!!!」
呪いによって静まり返った王城の玉座。石像のように固まった国王を蹴り飛ばし、そこに深く腰を下ろした。
周囲は時が止まったように静かだ。
『ノワ・ユーフォリア』
範囲内の生物の五感と魔力を封じ、永劫の微睡みを与える広域封印魔法。
復讐は果たした。だが、虚しさが募る。
「さて……これからどうするかな。こんなクソ見てぇな国にいても仕方ねぇか…」
召喚された青年――楠森永久は、今度は純白の魔法陣を展開させた。
彼の背中に凝縮されたオーラが集まり、夜の闇を裂くような白銀の翼が生まれる。
テラスに出て、移動しようと翼をはためかせようとしたその時――、
「この国を、こんな状態にしたのは、貴殿か?」
低く、心地よく響くバリトン。だが、そこには氷のような冷徹さが宿っていた。
振り返ると、そこには一人の男が立っていた。
豪奢な騎士服に身を包んでいるが、神殿にいた奴らとは明らかに纏う空気が違う。
流れるような銀髪に、吸い込まれそうなほど深い蒼の瞳。彫刻のように整った顔立ちをした、圧倒的な美貌の男。
「……誰だてめぇ、何故動ける」
男は一歩、また一歩と、俺が放った静止の呪いを踏み越えて近づいてくる。
「俺の問いに答えろ。この惨状……王を、民を、何故このような目に遭わせた」
トワはその男を一瞥すると、真っ暗になった空を見上げた。ひび割れた箇所から、青空が見える。
「―――理不尽には理不尽を返した。それだけだ」
「理不尽、か。……なるほど」
男は歩き出すとトワの目の前で足を止め、その鋭い双眸でトワの全身をなめるように見つめた。
「いい瞳をしてる。まぁ、まずは貴殿には感謝するよ。無駄な血が流れるのを防げた」
「あ?」
「私は魔族の王、リュシエンヌ。貴殿が呼ばれた理由と言っても間違いではない。私が憎いか?」
トワは鼻で笑うとリュシエンヌから目を逸らす。
「…魔王様には関係無ぇよ。悪いのは巻き込んだコイツらだ」
リュシエンヌは、トワの言葉に意外そうに片眉を上げた。
「ほう? 勇者として召喚されながら、魔王である私に刃を向けないとは。貴殿、名は?」
「……トワ。楠森永久だ」
「トワ、か。……素晴らしい響きだ。永遠を意味するその名は、今のこの国に相応しい」
リュシエンヌは、トワの頬にそっと手を伸ばした。トワは反射的にその手を振り払おうとしたが、男の指先から流れてきた甘く濃密な魔力に、一瞬だけ体が硬直する。
「貴殿の魔力はあまりに強大だが、その根源にあるのは深い孤独と『渇き』だ。この国を滅ぼしたところで、貴殿の心は満たされまい?」
「……うるせぇよ。分かったような口を利くな」
トワは吐き捨てるように言い、背中の翼を羽ばたかせようとした。だが、リュシエンヌの方が一瞬早かった。大きな手がトワの細い腰を引き寄せ、逃げ場を奪う。
「なっ……! 放せ!」
「行き場がないのなら、私の城へ来い。この世界のすべてに絶望したというのなら、私が新しい『意味』を与えてやろう」
至近距離で見つめ合う、燃えるような黒い瞳と、冷徹な蒼い瞳。
魔王の唇が、トワの耳元で熱く囁く。
「リュシエンヌ、だったか」
「そうだ」
「お前、ゲイって解るか?」
聞き慣れない単語に、リュシエンヌは少しだけ頭を傾げる。
「ゲイ……? 異界の言葉か。どういう意味だ」
「男が、男を恋愛対象にする奴のことだよ」
トワは翼を消すと、リュシエンヌの首に両腕を回し、唇を重ねた。
「……っ!?」
不意を突かれた魔王の喉が、微かに鳴った。
トワのキスは、情愛など微塵も感じられない、挑発的で攻撃的なものだった。唇を食み、舌を割り込ませ、相手の反応を試すような強引さ。
ようやく唇が離れたとき、リュシエンヌの蒼い瞳には、先ほどまでの冷徹さとは違う「熱」が灯っていた。
「……これが、貴殿の世界の挨拶か?」
「いいや。俺からの『契約書』だよ。俺を連れて行くなら、それ相応の覚悟をしろってことだ。俺は一度捕まえたら、二度と離さねぇぞ」
トワは不敵に笑う。ブラック企業で磨り減った心、そして突然すべてを奪われた怒り。今の彼は、自分をこの世界に繋ぎ止める「重石」を求めていた。それが目の前の美しい化け物であるなら、好都合だ。
「面白い……。貴殿のような人間は初めてだ、トワ」
リュシエンヌは、トワの腰を抱いたまま、空中に漆黒のゲートを開いた。
「いいだろう。その契約、魔王として受諾しよう。貴殿が私を絶望させるか、私が貴殿を飼い慣らすか……。永劫の時をかけて愉しもうではないか」
ゲートをくぐった先には、禍々しくも美しい、月光に照らされた魔王城がそびえ立っていた。
城のバルコニーに降り立った瞬間、リュシエンヌはトワを抱き上げたまま、寝室と思われる豪奢な部屋へと足を進める。
「おい、ちょっと待て。まずは城の案内とか……」
「不要だ。契約を交わしたのだろう? 貴殿が教えた『げい』という概念……詳しく検分させてもらう」
リュシエンヌの低い声がトワの鼓膜を震わせる。ベッドに押し倒されたトワは、背中に伝わるシーツの冷たさと、目の前の男から放たれる圧倒的な熱量のギャップに、無意識のうちに喉を鳴らした。
「……後悔すんなよ、魔王様」
トワは自らリュシエンヌの法衣の襟を掴み、引き寄せた。異世界に召喚された初夜。全てを失った勇者は、魔王の毒に自ら溺れることを選んだ。
「それで…私はどうしたら良いのだ?」
「……女を抱く様に抱けよ。……俺は受ける側だ」
その告白は、トワなりの自棄であり、同時にこの男を支配するための「毒」でもあった。元の世界ではあり得なかった展開。だが、全てを捨てた今、トワは自分を損なうことでしか、この世界の理不尽に抗う術を知らなかった。
リュシエンヌは、トワの言葉を反芻するように目を細めた。
「受ける側……。貴殿は、私に己を蹂躙しろと命じるのか」
「蹂躙じゃねぇ、『契約』だって言っただろ。俺を満足させてみろよ」
挑発的に笑うトワの首筋を、リュシエンヌの冷たい指先がなぞる。そのまま、シャツの隙間から露わになったトワの鎖骨を、鋭い牙が軽くかすめた。
「くっ……」
「恐怖か? 身体が震えているぞ、トワ」
「……武者震いだよ」
強がる唇を、再び魔王の熱が塞ぐ。先ほどのトワからの攻撃的なキスとは違い、今度は逃げ場をじわじわと奪うような、貪欲で深い口づけ。リュシエンヌの舌がトワの口腔を支配し、魔族特有の濃密な魔力が味覚を通じて脳を痺れさせていく。
「は、ぁっ……、ん……」
トワの指が、シーツを固く握りしめる。魔王の大きな手がトワの服を容赦なく割り、白い肌を露わにしていった。月光に照らされたトワの身体は、勇者としての加護を宿しているせいか、淡く発光しているようにさえ見える。
リュシエンヌはその光景を、極上の宝石を眺めるような陶酔した瞳で見つめた。
「美しい……。この肌も、この熱も、今日からは全て私のものだ。たとえ神であっても触れさせはしない」
「勝手に……決めんな……っ」
反論しようとしたトワの言葉は、敏感な場所を直接刺激された衝撃で、甘い悲鳴へと変わった。
魔王の指先が、トワの「準備」を始める。初めての感覚に、トワは頭が真っ白になるのを感じた。ブラック企業の激務で枯れ果てていたはずの身体が、魔王の魔力に当てられ、信じられないほど過敏に跳ねる。
「……あ、……ぁ、リュシ、エンヌ……!」
「そうだ、私の名を呼べ。絶望も快楽も、全て私が上書きしてやろう」
リュシエンヌは、苦痛に耐えるように顔を歪めるトワの目尻に溜まった涙を、愛おしそうに舌で掬った。そして、ゆっくりと、だが拒絶を許さない力強さで、二人の境界線を繋ぎ合わせていく。
「――っ!!」
身体を引き裂かれるような衝撃。トワはリュシエンヌの背中に爪を立て、必死に呼吸を繋いだ。
魔族の王が持つ圧倒的な質量が、トワの奥深くまでを侵食していく。それは痛みであると同時に、自分が確かに「今、ここに存在している」という強烈な実感でもあった。
「……トワ。お前の瞳に、私が映っている」
リュシエンヌはトワの腰を掴み、何度も、何度も、深くその身を刻みつけていく。
トワは意識が遠のく中で思った。元の世界にいた頃の自分は、誰にも必要とされず、ただ消費されるだけの歯車だった。だが、今、自分を狂おしいほどに求めている「魔王」という怪物がここにいる。
「……あぁ、……くそ、……最悪だ……」
呪詛を吐きながらも、トワは魔王の首に強く腕を回した。
この男となら、地獄の果てまで堕ちてもいい。いや、ここが地獄なら、二人で支配してやればいい。リュシエンヌの激しく打ち付ける腰に翻弄されながら、トワはリュシエンヌの首元に抱き着いた。
「リュシエンヌ…っ、リュシエンヌ…!」
「……どうした」
「中に、中に、くれ…」
「――っ、く、……いいだろう。貴殿が望むままに、私の全てを刻み込んでやろう」
リュシエンヌの瞳が、獣のような金色の光を帯びる。
トワの願いに応じるように、魔王の強大な魔力が一点に凝縮され、熱い奔流となってトワの最奥へと注ぎ込まれた。
「あ、が……っ!? あああぁぁぁ!!」
脳を直接焼かれるような衝撃。トワは大きく背を反らし、視界が白銀の火花で埋め尽くされる。
勇者の身体が魔王の種を受け入れようと変質し、強制的に「魔」の理へと書き換えられていく。トワの白い腹の上が、内側から溢れた魔力で熱く脈打った。
力尽きたトワの身体が、シーツに沈み込む。
リュシエンヌは荒い息をつきながら、ぐったりとしたトワを抱き寄せ、その額に優しく口づけを落とした。
「…リュシー、もっと……、もっと欲しい……」
意識が混濁したトワの口から漏れたのは、強気な「勇者」の仮面を剥ぎ取られた、一人の男としての剥き出しの渇望だった。
その甘いねだりに、魔王の理性が音を立てて軋む。
「……身の程知らずな。私をここまで狂わせるとは」
リュシエンヌは、トワの腰を離さず、さらに深く、その熱の奥へと自身を沈めた。
魔族の王としての強大な魔力が、二人の結合部を通じてトワの全身へと循環していく。トワの血管を流れる血液が沸騰し、勇者の聖なる魔力と、魔王の禍々しい魔力がぶつかり合い、やがて一つに溶け合っていく。
「あああっ!リュシー!もっと、俺を、俺を壊して!!」
トワの叫びは、もはや悲鳴か歓喜かも判然としない。自身の内側で、聖なる魔力と魔族の王の魔力が激しく反発し、細胞一つ一つが組み変わっていくような破壊的な快楽。トワはその激痛すらも「生きている証明」として貪り、リュシエンヌの背を、剥き出しの牙で噛み締めた。
「……トワ、貴殿の望み通りにしてやろう」
リュシエンヌの蒼い瞳は、今や捕食者の黄金色へと完全に変色している。
彼はトワの細い手首を頭上で片手で押さえつけ、逃げ場を完全に塞ぐと、さらに激しく腰を叩きつけた。
「あ、ぁ、ぐっ、は……!」
トワの視界が明滅する。腹の底に注ぎ込まれる魔王の種は、トワの魔力回路を強引に拡張し、彼をただの人間から「魔王の番」へと変質させていく。
そのあまりの熱量に、トワの意識は白濁し、言葉にならない吐息だけが部屋に漏れた。
どれほどの時間が過ぎたのか。
窓の外には、魔界特有の紫がかった黎明の光が差し込み始めている。
リュシエンヌは、気を失いかけてぐったりとしたトワを、壊れ物を扱うような手つきで抱き上げた。トワの白い肌には、指の跡や、消えない魔紋が呪印のように赤く浮かび上がっている。
「……眠ったか、我が勇者よ」
リュシエンヌは、トワの汗ばんだ前髪を優しくかき上げる。
先ほどまでの獣のような激しさは影を潜め、その眼差しには、永劫の孤独を生きてきた王に相応しくない、甘く、それでいて狂気じみた執着が宿っていた。
「ん――、この世界で何かしたい事も無いし、目的も無いしなぁ…」
リュシエンヌに貰った煙管を吹かしながら、トワはリュシエンヌの腕の中で質問に答えた。
「リュシーがこの世界を征服したい、ってんなら付き合うけど、ぶっちゃけお前、そんなの興味なさそうだよな」
トワが横目で隣の魔王を見やる。
リュシエンヌは、トワの腰に腕を回したまま、その問いを吟味するように目を細めた。
「俺の勝手なイメージだけど、人間側が勝手に正義掲げて、魔王軍に攻め込んでるって感じだろ?」
「……概ねその通りだ。私はただ、この玉座で静寂を好んでいたに過ぎん。だが人間どもは、自国の腐敗や不満を逸らすため、共通の敵――すなわち『魔王』を必要とした」
リュシエンヌの声には、怒りすら超えた退屈が混じっている。
「奴らが勝手に召喚の儀式を行い、勝手に貴殿を『勇者』と呼び、私の首を獲れと命じようとした。滑稽以外の何物でもない」
「だよな。あいつら、俺に帰る方法も教えねぇで、使い捨ての道具にする気満々だったし」
トワは吐き出した煙を眺め、自嘲気味に笑った。
「だから、俺はあいつらを、あの国を『止めた』。他の国も同じだ。あんなクソみたいな世界、救う価値もない」
トワは吸い終わった煙管を置くと、リュシエンヌの胸板に体を預け、深呼吸をした。
「俺には今、何も無い。だから俺はお前の隣に居るよ。お前が迷惑じゃないならな」
「……迷惑、か。貴殿はまだ、自分がどれほどのものを私に刻んだのか理解していないようだな」
リュシエンヌはトワの腰を抱く腕に力を込め、その項に顔を埋めた。そこには、昨夜の情事の名残である鮮やかな赤い印が、トワの白い肌の上で誇らしげに脈打っている。魔王が自身の魔力を流し込み、所有権を主張した証――「魔王の番」の紋章だ。
「俺は、お前の所有物になったつもりはねぇよ。……あくまで対等な契約だ」
トワは気怠げに視線を逸らしながらも、リュシエンヌの体温から逃げようとはしなかった。
ブラック企業で心身を削り、ついには異世界にまで放り出された自分にとって、この魔王の執着は、これまでの人生で受けたどんな評価よりも「重く、確かな」ものに感じられていた。
「対等、か。ならばトワ、私にその『対等』な男の姿を見せろ。……城の奥に引き込んでいるだけでは、私の退屈は紛れん」
リュシエンヌはトワを抱き上げたまま立ち上がると、そのまま広大な魔王城のバルコニーへと歩を進めた。
目の前に広がるのは、人間界のそれとは全く異なる、紫の空と水晶の結晶が芽吹く大地。魔界の首都「ディアージュ」の全景だった。
「この地は力が全てだ。昨夜、貴殿が人間界で行った広域封印魔法……あれを、我が軍の将たちの前で見せてみろ。彼らは力なき『勇者』を認めぬが、圧倒的な『災厄』なら、神として崇めるだろう」
「……見世物になれってか? 悪趣味だな、リュシー」
トワは苦笑しながらも、リュシエンヌの肩に手をかけた。
「いいぜ。今の俺がどれだけイラついてるか、あいつらに教えてやるよ」
数刻後。
魔王城の演武場には、魔界の名だたる将軍たちが集結していた。巨大な角を持つオーガの長、冷徹な吸血鬼の貴族、そして影を纏った暗殺者。彼らの視線は、魔王の隣に立つ一人の人間に注がれている。
「陛下……。それが、人間どもが喚んだ勇者だというのですか?」
最前列にいた、黒鉄の鎧を纏った大男が地響きのような声で問う。
「そうだ。だが勇者ではない。彼は私の『伴侶』であり、この世に終焉をもたらす者だ」
リュシエンヌの宣言に、場が凍り付く。
反発よりも先に、あまりの荒唐無稽さに困惑が広がった。その空気を切り裂いたのは、トワの冷たい笑みだった。
「……随分な紹介だな。おい、デカい奴。お前ら、魔王が唯一の絶対者だと思ってるだろ?」
トワは一歩前に出ると、自身の心臓に手を当てた。
内側で渦巻くのは、聖なる加護を食らい尽くし、リュシエンヌの種によって「黒く」変質した膨大な魔力。
「悪いが、俺の退屈に付き合ってもらうぜ。――『グラビティ・ディストピア』」
トワが指先を地面に向けると、漆黒の衝撃波が円状に広がり、演武場全体の重力が数十倍へと跳ね上がった。
「ぐ、おっ……!?」
並み居る将軍たちが、膝を突き、床に叩きつけられる。物理的な重力だけではない。そこには、トワが抱く「この世界そのものへの嫌悪」が呪いとなって混じっていた。
「……あはは、いいザマだな。お前らも、あの傲慢な人間たちも、結局は地面を這いつくばるのがお似合いだ」
狂気を含んだトワの瞳が、リュシエンヌに向く。
だが、その重力圏の中で唯一、魔王だけは涼しげな顔で立っていた。それどころか、トワの破壊的な力を見て、歓喜に瞳を黄金色に染めている。
「素晴らしい、トワ。貴殿の絶望は、これほどまでに甘美な力に変わるのか」
リュシエンヌは跪く将軍たちを一瞥もせず、トワの背後からその身体を抱き締めた。
「貴殿こそ、私が待ち望んだ唯一の終焉だ。この世界を壊したいなら、好きなだけ壊すがいい。その全ての結末を、私が受け止めてやろう」
「壊したい?別にそんなの望んでねぇよ。リュシーの側にいて、リュシーに抱かれて、リュシーに種注がれるなら、今はそれでいい」
トワはリュシエンヌに抱き着いた。胸に顔を埋めると、演武場を支配していた凶悪な重力場が、嘘のように霧散した。
這いつくばっていた将軍たちは、呼吸を整えるのも忘れ、ただ呆然と「世界の破壊者」になり得た青年が、自分たちの王に甘える姿を見つめていた。
「……ふふ、欲しがりだな。先ほどまでの勇猛さはどこへ行った」
リュシエンヌは、周囲の視線を遮るようにトワを大きなマントで包み込むと、そのまま彼を横抱きにした。
「うるせぇ……。疲れんだよ、魔力使うのは。……部屋に戻せ」
トワはリュシエンヌの首筋に額を押し当て、微かな熱を求めた。
部屋に戻ると、リュシエンヌはトワを柔らかな寝椅子に下ろした。
窓の外には、トワが先ほど放った魔力の余波で、赤黒い雷鳴が時折走っている。
「トワ、貴殿が言った『種を注がれるならいい』という言葉……忘れるなよ」
リュシエンヌは、トワの膝の間に割り込むように跪き、彼の細い指先を一本ずつ食むように口づけた。
「忘れるかよ。……俺にはもう、それしか残ってねぇんだから」
トワは空いた方の手で、リュシエンヌの銀髪を乱暴掴む。
「残っていないのではない。私が全てを塗りつぶしたのだ。貴殿の絶望も、孤独も、元の世界への未練も……全て私の魔力で書き換えてやる」
リュシエンヌの蒼い瞳が、再び熱を帯びる。
彼はトワのシャツのボタンを一つずつ外していき、その胸元に刻まれた、昨日よりも色濃くなった「魔王の印」を指でなぞった。
「っ……あ、……また、それか……」
「紋章が疼くか? 貴殿が私の魔力を欲している証拠だ」
リュシエンヌの指が、トワの敏感な場所を掠める。トワは背中を弓なりに逸らし、シーツを掴んだ。
「……リュシー、お前、本当は……俺のこと、ただの便利な道具だと思ってんだろ?」
ふと、トワが弱音にも似た問いを漏らした。
ブラック企業で使い潰された記憶が、不意に首をもたげたのだ。愛されている実感はある。だが、その愛があまりに強大で一方的であるために、時折、自分が再び「消費」される対象になったのではないかと怖くなる。
リュシエンヌは動きを止め、トワの顔を両手で挟み込んだ。そして、逃げ場を塞ぐように至近距離で見つめ、これまでにないほど真摯な、そして独占欲に満ちた声で告げた。
「道具だと? 道具にこれほど狂わされる王がどこにいる。私は貴殿という劇薬に侵され、もはや貴殿なしでは玉座に座ることさえ退屈で耐えられんのだ。トワ……私を『支配』しているのは、貴殿の方だぞ」
その言葉は、トワの心の奥底に沈んでいた暗い澱を、一瞬で溶かしていった。
トワは、自分を縛るこの強引な男の愛が、何よりも欲しかったものだと確信する。
「……なら、証明しろよ。俺を、お前無しじゃ生きていけない体に……壊れるまで、刻み込んでみろ」
トワが自ら脚を開き、誘うように微笑む。魔王の理性が、プツリと音を立てて切れた。
「――悦んで。我が最愛の、毒よ」
再び始まった、狂おしいほどの情事。
トワの艷やかな叫びと、魔王の獣のような唸り声が、夜を徹して魔王城に響き渡る。
二人の魔力が混ざり合い、弾けるたびに、窓の外の空は不吉なほど美しく輝いていた。




