9 約束しましょう
王都の通りは、午前の光を受けて静かに息づいていた。
石畳の隙間に残る昨夜の霜が、歩くたびにきらりと光る。高い建物に囲まれた大通りから一本外れただけで、人の声や馬車の音はほどよく遠のき、代わりに焼き菓子の甘い香りと、香草の青い匂いが風に混じった。
「……賑やかですね」
セレフィーナは、周囲を見回しながらそう漏らした。 屋敷を出るときに纏った外套は、動きやすさを重視したものだ。色味も控えめで、王都の人波に溶け込む。 それでも、令嬢であることを完全に隠せるわけではない。歩き方や視線の置き方に、自然と育ちが滲む。
「王都の朝は、これくらいがちょうどいい」
ユーフェインは、歩調を合わせながら答えた。
「昼を過ぎると、こうはいかない」
「閣下は……いえ、ユーフェイン様は、よく王都へ?」
名を呼び直すと、彼はわずかに目を細めた。
「王子時代はよく城を抜け出して遊びに出ていた。兄上……陛下には何度も叱られたがな。今は公務でなければ、ほとんど来ない。だから今日は、少し珍しい日だな」
その言い方に、セレフィーナの胸がわずかに波打つ。
公爵としてではなく、個人として過ごす時間。 その中に、自分が含まれているという事実が、まだ少しだけ落ち着かない。
通りの角を曲がると、屋台が連なる一角に出た。湯気の立つ鍋、串に刺さった肉、焼き上がったばかりの薄焼きのパン。 立ち止まったセレフィーナの視線は、明らかにそこへ吸い寄せられていた。
「……気になりますか?」
ユーフェインが、からかうでもなく問いかける。
「い、いえ。ただ……」
言いかけて、正直に続けた。
「こういうお店は、あまり縁がなくて」
ノクスヴァル家の令嬢として育った彼女にとって、食事とは屋敷の中で整えられるものだった。外で、立ったまま何かを食べるという経験は、ほとんどない。
「では、今日は縁を作ればいい」
そう言って、ユーフェインは迷いなく屋台へ向かう。
「二つください」
焼き色のついた薄いパンを受け取り、一つをセレフィーナに差し出した。
「……よろしいのですか?」
「もちろん。嫌なら、無理にとは言わない」
一瞬の逡巡。 けれどセレフィーナは、小さく息を吸い、受け取った。
「……いただきます」
ひと口齧ると、香ばしさと塩気が広がる。 思わず目を見開いた。
「……美味しい!」
「そうだろう」
ユーフェインの声には、ほんのわずかな満足が混じっていた。
令嬢としての正しさから、少しだけ外れた行動。だが、不思議と後ろめたさはない。
並んで歩きながら、同じものを食べる。それだけのことが、どうしてこんなにも新鮮なのだろう。
セレフィーナは、石畳を踏みしめながら思った。
「いい食べっぷりだねぇ、お嬢ちゃん」
屋台の店主が美味しさを表情いっぱいに満たしているセレフィーナを見て言った。
「ちょっと王都まで遊びに来ていてね。案内中なんだよ。屋台は初めて見るそうだ」
「へぇ、そうかい! そんじゃあ、串焼きも食べていくといい。それだけうまそうに食ってくれると作りがいもあるってものよ!」
店主が串焼きを二本、ユーフェインに差し出した。
「店主、感謝する」
「ありがとうございます」
「へへっ、まいどぉー!」
二人は屋台の並びを抜けると、通りは少しだけ落ち着きを取り戻した。 石造りの建物の影が長く伸び、遠くから教会の鐘の音が微かに届く。
「この先に小高い丘があるんだ。王都を一望できる」
ユーフェインの案内で丘まであがってくると、王都の先の海まで見渡すことができた。
「ここは、それほど知られていなくてな。ヴァルカディアに帰るときは必ず一度、ここに来るようにしている。なんだかんだ、俺はこの景色を見ながら育ってきた。ヴァルカディアには湖はあっても海はない。どうにも懐かしくなるときがあるんだ」
ユーフェインは冷めるともったいないからと言いながら、先程の串焼きをセレフィーナに一つ渡した。
「……ユーフェイン様」
セレフィーナは、ふと口を開いた。
「ヴァルカディア領とは、どのような場所なのでしょうか」
問われて、ユーフェインは一瞬だけ考える素振りを見せた。
「一言で言えば——厳しい土地だ」
「厳しい、ですか」
「雪が深く、山が近い。魔獣の発生も多い。だからこそ、国境の要衝として重要視されている」
淡々とした説明だった。 誇張もなければ、愚痴もない。ただ事実を並べる声。
「冬になれば、外界との行き来はほぼ途絶える。雪解けまでは、領内で完結して動かねばならない」
その言葉に、セレフィーナは足取りを緩めた。
「……それは」
「不安か?」
ユーフェインが、すぐに気づく。
「いえ……ただ」
セレフィーナは、言葉を選びながら続けた。
「それほどの土地を、一人で背負っておられるのだと」
彼女の視線は、前を歩く人々ではなく、ユーフェイン自身に向けられていた。
「ノクスヴァル領も、決して穏やかな地ではありませんでした。疫病が流行ったとき……」
一瞬、言葉が詰まる。
「父も母も、領を守るために多くを犠牲にしました。そして母は無理が祟って……」
ユーフェインは、セレフィーナの手が震えていることに気づいた。その手にそっと自分の手を添える。
「領主とは、そういうものだ」
彼は、静かに言った。
「守るために、前に立つ。でもそれは決して一人ではない。私には信頼する部下達がいるし、きっとそれはご両親もそうだったはずだ」
だが——
セレフィーナは、彼の言葉に安堵できなかった。
「……ユーフェイン様は、ご自身が傷つく可能性について、あまりにも自然にお話しになります」
その声音は、責めるものではない。 ただ、心配そのものだった。
「それは……」
「領主として正しい、ということは分かっています。でも」
セレフィーナは、ぎゅっと外套の端を握った。
「正しいことと、無事でいられることは、必ずしも同じではありません」
一瞬、ユーフェインは言葉を失った。
セレフィーナは、自分でも驚いていた。 なぜ、こんなにも胸がざわつくのか。 まだ婚約も定まっていない相手なのに。
「……私を、心配してくれているのか」
低く、確かめるような声。
「……はい。当然でしょう」
即答だった。
「領を守る方が倒れてしまえば、その土地も、人も、もっと苦しむことになります。努力の人、英雄……そんな言葉で飾っても、いなくなった悲しみはずっと——ずっと続いていくのです」
研究者としての視点。 そして、領主の娘として、家族として、母を失った経験。
そのすべてが、この一言に滲んでいた。
ユーフェインは、しばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……参ったな」
苦笑に近い微笑。
「ヴァルカディアでは、私が人を守る側だと思っていた。無意識に守らねば、と背負っていたように思う」
「……」
「だが、今はあなたに心配されている」
その言葉に、セレフィーナは少しだけ目を伏せた。
「出過ぎたことを申し上げましたでしょうか」
「いいや」
ユーフェインは、セレフィーナに重ねていた手をそっと包み込んだ。
「そう思ってくれる人がいる、というのは……思いの外嬉しい……力になるものだと知りました」
そして、ほんの少し声を落とした。
「だから、約束しましょう」
「約束、ですか」
「ヴァルカディアに戻ったら、毎日——とは言わないが」
彼は、横目でセレフィーナを見る。
「可能な限り手紙を書きましょう」
セレフィーナは、思わず顔を上げた。
「本当に、よろしいのですか」
「あなたが心配する顔を、これ以上見たくない。それ以上に冬の閉ざされた場所でもあなたを感じていられる。これ以上にない喜びです」
ユーフェインは曇りのない笑顔でそう答えた。
「……ありがとうございます」
その返事は、少しだけ震えていた。
彼が楽しそうに笑う、その横顔を見て。
セレフィーナは、胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
——この笑顔を、また見たい。
できることなら、これからも。
ふと、脳裏に『恋』という言葉がよぎった。
けれど彼女は、その続きを考える前に、そっと視線を逸らした。
まだ、その名を呼ぶには早い——そう思った。




